江戸時代には、三国志を語る講釈師や水滸伝を演じる劇団が中国から日本に来たわけではなかった。本だけが日本に来た。限られた語学力や中国情報では書かれていることがすべて読めたわけではなく邦訳には誤訳も多かった。そうした訳本が明治、大正、昭和前期まで読み継がれ、日本での中国像の形成に大きな影響を与えた。
日本における『水滸伝』の受容史を跡づけた高島俊男『水滸伝と日本人』(大修館書店、1991)には、中国の小説が原書、和刻、翻訳、翻案という四つの段階を通って日本で受容されたことを論じている。以下『三国志』『西遊記』も含め、その受容史を概観する。
1 原書の到来と和刻本の出版
三大奇書がいつごろ日本に入ったのか、大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』(関西大学東西学術研究所、1967)が各地に点在する資料を駆使し渡来本を整理するが、早期の資料は乏しく正確なことは不詳である。高価で部数も少ないため、複本が作成され日本人が中国語を読むための「返り点」「送りがな」が付けられた。日本で刻された中国の書物を「和刻本」という。
2 翻訳本の出版と辞書の隆盛
漢字だけで書かれたものを仮名を用いて、書き下し文で翻訳する。当時は「翻訳」とは言わず「通俗」と言った。「通俗する」という動詞である。現代語の「邦訳」にあたる。最も早い通俗本は元禄年間に刊行された『通俗三国志』で、50年以上遅れて『通俗忠義水滸伝』『通俗西遊記』がほぼ同時期に出た。また作品中の主要語句や難解語句を解釈した辞書も作られ、陶山南涛が編訳した『忠義水滸伝解』が有名である。現在は『唐話辞書類集』(汲古書院)に影印され、江戸時代の唐話学の隆盛を伝える。