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第3部 子どもから大人まで

20世紀の初め、アメリカではライト兄弟が人類初の飛行に成功し、前世紀末に誕生した映画が飛躍的な発展をとげたころ、中国では辛亥革命が起こり清朝が倒れ中華民国が成立した。日本は明治から大正への移行期にあたり、江戸時代とは異なる日中の文化交流が見られた。中国では新しい出版形態である連環画が三大奇書を題材に誕生し、その後アニメが作られ、近年は長編テレビドラマが制作されている。日本では野村胡堂が『水滸伝』の人物をモデルに銭形平次を作り、吉川英治が『三国志』に独自の世界を創出し、エノケンこと榎本健一が「エノケンの孫悟空」で『西遊記』解釈に新たな境地を切り開いた。今日の映画、テレビ、マンガ、ゲームなど様々なメディアに見られる受容につながっている。

1 中国「連環画」の誕生

これまで小説の挿絵は登場人物や名場面のいくつかが巻頭や各回の初めに描かれるに過ぎなかった。文があり、絵は添え物であった。これに対して、物語の展開を文章ではなく多くの絵で表そうとした絵本が民国期に現れた。しかもその題材には、広く大衆に親しまれていた『三国志』『水滸伝』『西遊記』など5作品が選ばれ、1枚にひとつの絵が描かれ、それらの絵が互いにつながっているという意味で「連環図画」と名が付けられた。

上海世界書局から1927年に出版された『連環図画三国志』が最初の出版とされている。元代の作といわれる『全相平話三国志』は「上絵下文」であったが、民国期の連環図画は上下を逆にした「上文下絵」形式をとっている。文と絵が占める割合からも下に位置するほうに重きが置かれていることがわかる。この画期的な絵本の出版は、識字教育が遅れ識字率も低かった当時の中国では、まさに子どもから大人まで多くの人に読まれた。

共和国になると「連環図画」から「連環画」が一般的な呼称となり、装丁も糸綴じから洋装に変わり、文と絵の関係も上下から枠の内外へと(しかも文は縦書きから横書きに)変化した。3作品は装いを新たに『三国志』は『三国演義』という名で上海人民美術出版社から全60冊、『水滸伝』は朝花美術出版社から全26冊、『西遊記』も河北人民美術出版社から全26冊という揃いものが50年代に出版された。現代を題材とする作品の出版が大勢であった当時でも、これらの3作は根強い人気を持っていた。中央公論社から3作の邦訳『画本』が刊行されたが、その原本には上記の『三国演義』と『水滸伝』が用いられている。『西遊記』は本学図書館蔵本(香港美麗美術出版社)と同じ版が原本になっている。文章は簡潔で、絵は細部にまで精緻に描かれている。

こうした伝統のなか新しい映画の技法を活かしたアニメーションが登場する。1941年『西遊記』の「鉄扇公主」の物語が萬監督によりアニメとなり、翌年日本で『西遊記』の題で上映され、当時14歳であった手塚治虫はインスピレーションを受けたと回想している。アトムを初めとする手塚アニメのルーツには、ディズニーだけでなく、中国アニメの影響もあったことが近年注目を集めている。

連環画やアニメだけでなく、1958年と出版は遅れるが、張光宇作の『西遊漫記』という60枚の彩色連環画(自序では「連続漫画」とある)がある。西遊記のスタイルをとるが、当時の国民党政府を風刺する。子どもから大人まで幅広く読まれる作品であるからこそ、中国ではその折々の政治に三大奇書が現れることが多い。

3-1

連環図画西遊記

金少梅、章興瑞

上海世界書局

民国18(1929)年

3-2

新版水滸伝連環図 景陽岡打虎

潘飛鷹

香港美麗美術出版社

1964 年

3-3

西遊漫記

張光宇

人民美術出版社

1958 年

2 『三国志』―吉川英治による再構成

日本では昭和の初め「大衆文学」「大衆文芸」ということばが生まれた。前者の体現者が吉川英治であり、後者はエノケンといえるであろう。青梅市にある吉川英治記念館にはぼろぼろになった帝国文庫版の『通俗三国志』が保存されている。幼いころから読み親しんだ三国志を現代によみがえらせ、従軍記者として中国での体験をうちに込め、1939年に『三国志』の連載が始まった。当時は朝日新聞に『宮本武蔵』を、読売新聞に『新書太閤記』を連載していた時期で、全盛期といわれている。江戸から読みつがれた『三国志』を現代日本人に納得のゆく物語に再構成したところに、大衆文学作家として吉川英治の真骨頂がうかがえる。読物としてだけでなく吉川『三国志』は現在では横山光輝が描くマンガ『三国志』の原作にもなっている。1972年に始まった横山光輝の連載は15年続き、全60冊の偉業を誇っている。アニメ化もなされ、マンガもアニメも中国語版があり、原作とは趣を異とする吉川英治の世界と連環画とはタッチの異なる横山光輝の図像が中国語圏で受け入れられる主たる要因であろう。

吉川『三国志』が刊行された1946年以降、50年代には『三国志』の忠実で実直な全訳が小川環樹や立間祥介訳として刊行され、学問的価値は大いに顕彰されるものではあるが、面白さからいえば吉川『三国志』といわれている。80年代には人形劇やゲームに、90年代にはスーパー歌舞伎に『三国志』が登場する。これらの作品が忠実な翻訳は参照するにしても、吉川『三国志』に依拠する理由も理解できよう。

吉川『三国志』の連載が始まったころ少年少女向けの読物として、野村愛生の『三国志物語』が出版され、戦後も世界名作物語や世界名作全集のひとつとして読み継がれ、名著の誉れも高い。また昨今は下火になったが、ビジネスマンにもてはやされた三国志ブームもあった。権謀術数や人心収攬のすべを三国志から読み取ろうという風潮であった。ここでも『三国志』が子どもから大人まで読まれたことが見て取れよう。

3  『水滸伝』―銭形平次のルーツ

日本の大衆文学の一ジャンルである「捕物帳」は1917年岡本綺堂の『半七捕物帳』に始まり、28年佐々木味津三の『右門捕物帖』を経て、31年野村胡堂の『銭形平次捕物控』で確立された。31年文芸春秋社から創刊された『オ-ル読物』に連載を始め、映画やテレビや舞台の原作となった銭形平次作品は、擱筆まで長短計三百編を越えた。
野村胡堂は1957年に「筆を折るの弁」と副題をつけた「平次と生きた二十七年」を発表し平次のモデルが『水滸伝』にあったことを次のように述べている。

銭形が銭を投(ほう)るということは水滸伝から暗示を受けた。水滸伝の没羽箭(つうせん)張清(ちょうせい)が錦の袋から礫つぶてを出して投るということから銭形平次の投銭を考え出した。

「没羽箭」とは羽のない矢の意味で「小石」である。人を殺傷する刀や弓などの武具と異なり、当たったからといって命を落とすことはない。しかし事件のクライマックスではなくてはならない飛び道具なのである。銭形平次では小石を銭に変えたが、不殺生主義の平次にはうってつけの武器であったのであろう。「銭が飛ばないと面白くない」というお叱りを胡堂は楽しげに紹介している。

投銭には決まったスタイルはなく、張清を描いた中国の人物絵の多くは右手を挙げて投げおえた姿をとるが、北斎の張清像は、従来批判の多い過度のデフォルメを抑えつつ、躍動感があり、彩色も施された名品と言えよう。

『水滸伝』というと全体がアウトローのイメージが強く、確かにそれを意図した物語や人物画が多いが、個々の人物からは全体とは違う要素も読み取れる。平次の前には馬琴が創り出した八丁礫の喜平次(椿説弓張月)がいたことも思い起こされる。

連載開始から8年、書下ろし九篇を加え百話とし『銭形平次捕物百話』全9巻が中央公論社から刊行された。戦後は1958年には決定版『銭形平次捕物全集』全26冊が河出書房新社から刊行された。

なお『水滸伝』も、時代は下るが1960年代に吉川英治が『新・水滸伝』の執筆に取り組んだ。『三国志』と同じく、忠実で実直な全訳『水滸伝』も戦後直後から50年代にかけ、吉川幸次郎、駒田信二、村上知行訳が出て、吉川『水滸伝』に先立ったが、読みやすさと面白さでは吉川ファンが多い。作品は未完の遺作となったが分量もあり、横山光輝は吉川本をもとにマンガ『水滸伝』を描き好評を博した。この自信が大作『三国志』を生んだといわれている。

3-4

銭形平次捕物百話

野村胡堂

中央公論社

昭和13(1938)年

4 『西遊記』―エノケンの舞台と映画

上記2作と違い『西遊記』は早くから子ども向けや大衆向けに改編された。20世紀初め「童話」ということばが生まれると大正15(1926)年には『支那童話児童西遊記』が出版され、昭和の初め、広義の「大衆文学」という概念が現れると『世界大衆文学全集』の1冊として、昭和6(1931)年弓館小鰐訳『西遊記』が出版された。

また明治から関西を中心に広く読まれた立川文庫では『孫悟空』と『三蔵法師』が2分冊として収められ、猿飛佐助について次のような言及がある。

猿飛佐助と孫悟空との関係はだれでも思いつくが、文庫と『西遊記』とを仔細に読みくらべれば、その関係はいよいよ濃厚となる。極論すれば、『西遊記』がなければ猿飛佐助は生まれなかったかもしれない。
(足立巻一「立川文庫誕生の背景」1974 年、講談社『解説立川文庫』)

日本古来の忍術に中国伝来の孫悟空が加わり誕生したのが猿飛佐助という興味深い論である。この猿飛佐助と孫悟空を両者を演じた役者がいる。エノケンである。『エノケンの猿飛佐助』2巻が1937年と翌年に岡田敬が監督し、『エノケンの孫悟空』が40年に山本嘉次郎が監督脚本を担当して制作された。カッパが登場する日本式『西遊記』作品である。映画の技術を存分に活用し、エノケン演じる孫悟空は空を飛び、変身し姿をくらます。円谷英二が特撮を担当している。原作の枠を打ち破った作品である。

エノケン映画は、67年の手塚アニメ『悟空の大冒険』、77年の人形劇『飛べ!孫悟空』さらには88年のマンガ『ドラゴンボール』の嚆失とも考えられる。エノケン映画に比肩する作品は、三蔵法師に夏目雅子を起用した日本テレビのドラマであろう。

太田辰夫・鳥居久靖が共訳した忠実で厳密な全訳が刊行されたのは、前2作同様50年代であった。近年は、より原本に近い版本による翻訳が小野忍訳を引継ぎ、中野美代子が翻訳を完成している。学問的な研究も大きく進展し、子どもから大人まで、コミックからアカデミックまで親しまれている。

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