翻訳とは異文化理解であり、時として誤訳や創作が見られる。『西遊記』から「ブタ」と「カッパ」を例に、『三国志』と『水滸伝』からは「青龍刀」を例に、誤訳が思わぬ創作を生み出すこと、誤訳が広く認められてしまうことを見てみたい。
三大奇書の受容の歴史に見られた誤訳や創作を述べる。
翻訳とは異文化理解であり、時として誤訳や創作が見られる。『西遊記』から「ブタ」と「カッパ」を例に、『三国志』と『水滸伝』からは「青龍刀」を例に、誤訳が思わぬ創作を生み出すこと、誤訳が広く認められてしまうことを見てみたい。
三大奇書の受容の歴史に見られた誤訳や創作を述べる。
其往昔(そのむかし)は天上(てんじょう)に在(あ)りて、天蓬元帥(てんぽうげんすゐ)の職(しょく)を任にんぜられしが、王母(わうぼ)瑶池(えうち)の会(くわい)の時(とき)、我(われ)酔(えひ)にまかせて嫦娥(じやうが)をとらへ戯(たわぶれ)し科(とが)により、下界(げかい)へ逐下(おひくだ)され、錯(あやまつ)て猪(ゐのしし)の腹(はら)に入り、遂(つひ)に此山に止(とどま)り、名(な)を猪剛鬣(ちょがうれふ)といふものなり。
その後に50年ほど後に出された『絵本通俗西遊記』には挿絵があり、牙をもつ猪八戒が描かれている。『絵本西遊全伝』は明治16(1883)年の出版であるが、流沙河で沙悟浄と闘う猪八戒が描かれ、やはりイノシシである。そもそもブタとイノシシの先祖は同じで、野生のイノシシを家畜化したのがブタである。どちらでもよさそうだがイメージが違う。イノシシは猪突猛進のことばの通り、獰猛で力強い。『絵本西遊全伝』の挿絵では妖怪の沙悟浄に負けず恐ろしい。『絵本西遊記』は大正年間、有朋堂文庫として江戸の『絵本通俗西遊記』を翻字したものだが、依然としてイノシシである。
この誤訳は、同じ字を用いても日本と中国では漢字が表す意味が異なることに由来する。すでに江戸時代の西川如見『町人嚢』巻三には次のように述べている。
豬 ぶたのことなり。日本にてはゐのししといへり。誤なるべし。ゐのししは山豬(さんちよ)といふもの也。十二支の亥(ゐ)もぶたの事也。猪の字も誤なるべし。
こうした記述の存在は、日本では早くから「猪」をイノシシの意で使っていた証拠になろう。
日本語のブタとイノシシには共通するものがない。一方中国語は、現代語であるが、ブタは"猪"で"家猪"ともいい、イノシシは"野猪"という。前者は「家の猪」であり、後者は「野の猪」であり、両者の関係は明瞭である。
猪八戒を「ブタの猪八戒」と正しく訳したのは、昭和6(1931)年改造社刊行の弓館小鰐訳『西遊記』である。
牛久沼の湖畔に住居を構え、若いころから好んでカッパの絵を描いた小川芋銭が用いた漢字表記を見ると、明治末には「河伯」とあり、大正期には「水虎」を使い、「かはく」「すいこ」と読まれた可能性は残しつつも、「河童」という漢字で書かれたのは最晩年の昭和12(1937)年の作に見られるに過ぎない。仮名書きも古いことではない。
芥川龍之介の遺作となった『河童』は内容が高く評価されただけでなく「河童」という表記の定着に大きく与ったことが考えられる。こうした社会から『西遊記』に「河童」が登場した。
沙悟浄は、日本では「カッパの沙悟浄」となっている。しかし『西遊記』の故郷中国にはカッパはいない。沙悟浄のすむ「流沙河」は、原文では「砂が流れる河」を意味したが「さんずい」の影響からか、後世「砂」から「水」に変わった。砂の河に住む妖怪は、日本では連想できないが、水の河に住む妖怪なら日本にいる。カッパである。
文献では、昭和7(1932)年3月大日本雄弁会講談社刊行の『孫悟空』に、孫悟空と沙悟浄の次のようなやりとりがある。
怪「ああ暫(しばらく)お待ち下さいまし、決(けつ)して私(わたし)は怪(あや)しい者ではございません。」
悟「 怪しい者でないといつて、貴(きさま)様のやうな風(ふう)をして、怪しくないことがあるものか、一体たい貴様は何ものだ……。」
怪「ヘエ、私わたしは河童(かっぱ)でございます。」
悟「何(なん)だ、河童だ。河童なら水の中で胡瓜(きうり)でも食くってゐればいいのに、何しに出て来た。」
怪「ヘエ、私は沙悟浄(さごじゃう)と申す者(以下略)」
付された挿絵も明らかにカッパである。
同年10月富士屋書店から刊行された『西遊記孫悟空』(平林黒猿)にも、沙悟浄は河童として登場する。しかし「カッパの沙悟浄」がただちに定着したわけではなかった。定着に大きな役割を果たしたのが、映画『エノケンの孫悟空』ではなかろうか。山本嘉次郎が脚本と監督を担当し、昭和15(1940)年に封切られた。助監督に黒澤明、特撮に円谷英二を配し、高峰秀子、服部富子、李香蘭など豪華な出演者で大ヒット作となった。
|
『水滸伝』第89回には関羽の子孫として大刀関勝が登場する。「大刀」とは関羽伝来の青龍偃月刀の俗称である。礫の名人・没羽箭張清と弓の名人・小李広花栄とともに青龍刀を手にする関勝が描かれている。
ではなぜ「青龍」という名があるのか。刀の形状に依るといわれるが、青龍刀の図像には、口を開けている龍が描かれているものが多く、色についても「青」という字を意識したためか、彩色が施されている図像では刀身が青く塗られているものが見られる。
歌舞伎十八番のひとつ「関羽」を描いた豊国作『関羽の道行』は、押されている印から嘉永5(1852)年のものと知れるが、青い青龍刀を担ぎ、左手で美髯をしごいている関羽が力強い。しかし中国語の「青」は日本語の黒色に近く、青空の色ではない。関羽が跨がるのは赤兎馬であろうか。赤茶色の悍馬が心なしか赤みが強い。
日本語で「青龍刀」というと、関羽の持つような柄の長い薙刀型だけでなく、刀身が反りかえり、刃先が広く、柄頭には環がある刀をさす。細身で鋭利な日本刀に比べ、幅が広く重さで叩き切る感の強い中国の刀の総称である。中国語では"刀"と言えば、日本語でいう「青龍刀」を指し、この日本語特有の用法は「青龍刀」という称の転用である。こうした用法の始まりは江戸末期から明治初期にかけてのころと言われるが、用例が少ない。
以下は昭和15(1940)年に夭逝した小熊秀雄の未発表作品の用例である。
国への土産には何が良いかいろいろと智慧をしぼった、そして結局支那兵の青龍刀をもってかへることにした(小熊秀雄「二人の従軍記者」)
この青龍刀は軍刀であることがわかる。「関羽の青龍刀」という原義とともに、日本人特有の呼称が『三国志』『水滸伝』から生まれた転用の例である。