第3部 神武天皇即位紀元の周辺

28. 古事記 巻中

太安万呂[撰]
京都 :風月宗智 寛永21(1644)年刊 3巻3冊 【所蔵情報】
古事記

神武天皇即位を記す現存最古の史書は、和銅5(712)年撰の『古事記』と養老4(720)年撰の『日本書紀』である。本資料の旧蔵者である東京高等師範学校教授那珂通世は、近代歴史学において最も早く神武紀元の問題を扱った。明治11(1878)年「上古年代考」(『洋々社談』38号)では、神武紀元を「史家ノ妄撰」と処断し、『易緯』『詩緯』などに説かれる辛酉革命説に基づき、百済僧観勒が来日して奉じた暦・天文などの書を書生に学ばせた推古朝の時代から逆算して定められた暦法であると主張した。その論証には、韓史(朝鮮史)や西洋史の暦法・紀年とも比較する巨視的な関心が見受けられる。那珂はその後も、明治21年に「日本上古年代考」(『文』1巻8・9号)、同30年に「上世年紀考」(『史学雑誌』8編8~10・12号)を公表している。 (ヨ240-149 / 那珂文庫)


29. 神武巻二葉草

三浦正子著 天明2(1782)年序 1巻1冊 【所蔵情報】
神武巻

旗本(後に京都西町奉行)三浦正子が江戸中期に著した『日本書紀』巻第3(神武天皇紀)の注釈書。「神武天皇三種ノ御徳ヲ以テ宇宙ヲ統御シ給ヒ王道ヲ示シ給フ」と神武天皇の功績を賞讃し、即位前の天皇が日向(宮崎県)から大和(奈良県)へ向かう東征のさいに、その弓に金色の霊鵄(金鵄)が止まり、長髄彦との戦いに勝利したという神話も詳解される。金鵄は近代以降、同様に神武天皇を導いた八咫烏とともに、神武天皇神話の象徴として民間へ広く普及した。 (ヨ240-76)


30. 延喜式 巻第二十一

藤原忠平[ほか]撰 京都:出雲寺 享保8(1723)年刊 50巻50冊 【所蔵情報(電子資料あり)】
延喜式21

律・令・格の施行細則を集成した古代法典。そのうち朝廷が管理すべき山陵諸墓を書き上げる「諸陵寮式」には、神武天皇陵として『日本書紀』にも載る畝傍山東北陵が見え、その兆域(墓域)は東西一町・南北二町と記される。江戸期の国学者・考証学者は、その所在地をめぐり、さまざまな学説を立てることになった。本資料は版本であるが、狩谷望之(棭斎)によって文政12(1829)年に塙保己一京都所得本・出雲松江新刻本・淀城主蔵本、また、同じく岡正武によって天保12(1841)年に狩谷望之所蔵本と校合が加えられている。 (ム212-6)


31. 大日本史論賛 巻之一

安積澹泊[著] 明治2(1869)年刊 8巻8冊 【所蔵情報】
本史論賛

『大日本史』は、水戸徳川家が、2代藩主徳川光圀以来、明治期まで編纂を継続して完成させた漢文・紀伝体の歴史書。『大日本史論賛』は、光圀没後の正徳6(1716)年より安積澹泊(覚)が儒学の立場で執筆した人物評論である。神武天皇は、「奉安三器、以開万世之基、盛徳大業至矣哉」と賛嘆される。享保5(1720)年の幕府への『大日本史』献上本にも加えられたが、記された評価には異論も出され、藤田幽谷が彰考館を主導するようになった文化6(1809)年に本編から削除された。本資料は、那珂通世の旧蔵で、東京文理科大学初代学長三宅米吉に譲渡されたものである。 (ヨ230-116 / 三宅文庫)


32. 増註 前王廟陵記 巻之上

松下見林[撰];速水常成[補]
江戸:須原屋茂兵衛ほか 安永7(1778)年刊 2巻2冊 【所蔵情報】
前王廟陵

元禄11(1698)年初刊。国学者・儒学者・医者であった松下見林が著した天皇陵墓の研究書で、神武天皇陵は、大和国高市郡山本村(奈良県橿原市)の塚である神武田に比定される。本資料には「三宅」と記す札(写真右)が挟まれており、後に東京文理科大学初代学長となる三宅米吉が研究資料としたことがわかる。三宅は自ら主宰した『文』の誌上で、自らも首肯する那珂通世の神武紀元論を取り上げ、読者に議論を呼びかけた。その際に紀年の「正確ナランコト」が史家の研究上大切であると訴えつつ、かかる議論は「歴史攷究上ノ為ノミ」であり、「今日平常用フル所ノ紀元・年号ニハ毫モ関係」なく、「縦ヒ其ノ年数ニ誤算アリトモ、只年号トシテ用フル上ニハ差支ハナカルベシ」とした。三宅は神武紀元の問題を、あくまでも国家思想上の問題と分け、政治問題化させずに、純粋に学問として議論しようとしたのである。 (ネ306-52)


33. 諸陵周垣成就記

伴信友[跋] 天保12(1841)年写 3巻3冊 【所蔵情報】
諸陵周垣

国学者伴信友が集成した陵墓の記録。京都上賀茂社神職・国学者の賀茂季鷹が所蔵した元禄修陵の記録である細井知慎(広沢)の元禄12(1699)年「元禄十一戊寅歳諸陵周垣成就記」の加除修正本を文化10(1813)年に写し、さらに天保3(1832)年に神陵図、同12年に河内国陵墓之図などを補っている。元禄修陵は幕府によって行われた天皇陵墓の修復事業で、所在が不分明であった神武天皇陵を大和国高市郡四条村(奈良県橿原市)の塚山に比定した。本資料は、幕末に活躍した旗本川路聖謨の旧蔵で、川路自身も嘉永2(1849)年に『神武御陵考』を著し、本居宣長が慈明寺村(同市)のスイセン塚(スイセイ塚。元禄修陵では綏靖天皇陵)に比定したことを批判し、神武田説を推した。 (ヨ220-32)


34. 聖蹟図誌 巻之上

津久井清影識;松田緑山縮圖彫銅
京都:村上平楽寺 嘉永7(1854)年刊 2巻2帖 【所蔵情報(電子資料あり)】
聖蹟圖志

津久井清影(平塚瓢斎)がその著書『陵墓一隅抄』の付図として、天皇陵墓の位置・形状を示した見取図である。本書ははじめ一冊本であったが、のち薩摩(鹿児島県)の田原篤実による神代三陵図とその考説など十数葉の図を増補し、「神代并諸国部」「京郊并山城部」の上下2帖に編成された。神武天皇陵については、寛政年間(1789-1801)に竹口英斎が提唱した山本村(奈良県橿原市)の丸山とする説が採られ、「一説」として塚山、神武田、本居宣長説としてスイセイ塚も示される。本書刊行後間もなく、幕府は文久2(1862)年に下野宇都宮藩へ修陵を命ずるが、その結果、神武天皇陵は神武田、綏靖天皇陵は塚山と決定されることになった。 (ネ308-14)


35. 新撰年表

清宮秀堅著;箕作逢谷閲
佐倉:順天堂 安政2(1855)序 1冊 【所蔵情報】
新撰年表

下総佐原出身の国学者清宮秀堅が編んだ歴史年表。高等師範学校教授箕作元八の祖父逢谷(阮甫)が校閲し、水戸藩の藤田彪(東湖)が序、幕府儒者塩谷世弘(宕陰)が跋を寄せる。現在の茨城県・千葉県北東部を中心とする常陸・下総両国一帯では、水戸学や平田国学の影響を受けた清宮をはじめとする民間知識人を多数輩出した。清宮は本書の序文で「皇国ノ紀年」、すなわち神武紀元について、推古天皇12(604)年以後に歳月を「漢暦」で記したこと、それ以前の紀年は「逆推」して定められたことを論じており、その学的水準の高さを知ることができる。本資料は三宅米吉旧蔵。 (ヨ120-110 / 三宅文庫)


36. 明治七年甲戌太陽略歴

大阪:頒暦商社中弘暦者ほか 明治6(1873)年刊 1冊 【所蔵情報】
太陽暦

太陽暦採用2年目である明治7年の暦。表紙裏には、「神武天皇即位紀元二千五百三十四年明治七年甲戌太陽暦」とあり、神武紀元を併記する。政府が国家祝祭日とした、神武天皇の即位した日に相当する2月11日の紀元節、崩御日に相当する4月3日の神武天皇祭も明記される。この両日はアジア・太平洋戦争後に廃止されたものの、紀元節は復活をたびたび提起され、数々の議論を呼んだ。そのさいには、戦前に記紀の叙述を神話ととらえて史実としては否定した津田左右吉が、国家として建国記念日をもつ意義を積極的に主張した。最終的に2月11日は、昭和41(1966)年に建国記念の日とされるに至った。 (449.81-Ta25-1874)


37. 紀元二千六百年記念日本万国博覧会

日本万国博覧会協会刊 1枚  【所蔵情報】
ポスター

昭和15(1940)年は神武紀元2600年に当たる。国家を挙げて計画されたその七大記念事業の一つが日本万国博覧会である。東京・横浜で3月15日から8月31日に開催することが計画され、昭和9(1934)年には日本万国博覧会協会が設立された。本資料は開催を予告するポスターで、富士山と、神武天皇神話の象徴である金鵄とがデザインされている。万国博覧会は、世界各国を招請し、前売り券を発売するなど、開催に向けて準備が進められたが、「時局ノ進展」、すなわち「支那事変(日中戦争)ニ伴フ最近ノ情勢」を考慮し、昭和13年7月15日の閣議により無期限延期となった。 (727.6-Ki16)


38. 皇紀二千六百年奉祝美術展覧会絵画選集図録

東京:日伊協会 昭和16(1941)年刊 1冊 【所蔵情報】
展覧図録

紀元2600年に際しては、日本文化を紹介する奉祝行事が数多く開催された。絵画も公募され、秋に二千六百年奉祝美術展覧会が開催された。本資料は、日伊協会がその日本画・洋画から100点を選び、イタリアの識者に贈るために編纂した図録。イタリア語を併記し、CATALOGO DELL' ESPOSIZIONE DI BELLE ARTI の書名も付されている。掲載図版を見る限り、集められた作品は、川合玉堂の日本画「彩雨」、藤田嗣治の洋画「犬」など、直接に神武天皇を礼讃しない作品も少なくなく、これらの芸術家たちが直ちに戦争へと扇動するナショナリズムの高揚を目的としたとは考えにくい。 (720.8-Ko43)


39. 教育勅語渙発五十周年記念・紀元二千六百年奉祝展覧会目録

東京 : 東京文理科大学 昭和15(1940)年刊 1冊 【所蔵情報】
展覧目録

昭和15年は教育勅語渙発50年の節目でもあり、東京文理科大学では、2600年奉祝を兼ねた展覧会を開催した。本書はその展示資料目録。展覧会では、教育勅語の原本や教科書、参考書、研究書、維新功労者の書などが展示されたが、資料の半数以上は満洲国・中華民国資料である。3年前に日中戦争が始まり、大陸への侵略が進められるなか、本学前身校の研究、教育、教員養成もまた、政治との距離感を失っていった。東京高等師範学校で三宅米吉の教えを受けた東京文理科大学教授肥後和男は、天皇・皇室を尊崇する一方、神武天皇が崇神天皇の理想的投影で、歴史的実在の初代天皇としては観念的な存在であったとする歴史心理を考証したことで知られる。しかし、国家思想の是認と疑われる著書を公刊し、昭和16(1941) 年に文部省の臨時国史概説編纂部編纂嘱託、18(1943)年に古典編修部調査嘱託を委嘱されるなどして、昭和21(1946)年に公職追放、免官された(同27年公職適格判定)。 (372.1-Te37)


40. 私たちの日本史

東京文理科大学歴史研究会著
東京 : 愛育社 昭和27(1952)年刊 2巻2冊 【所蔵情報】
教科書上 教科書下

東京文理科大学の教官が、結果としてアジア・太平洋戦争へ直接・間接に導いてしまった戦前の研究、教育、教員養成を反省し、「科学的歴史」の立場から編纂した中学校社会科準教科書。執筆者には小葉田淳(委員長)、和歌森太郎、芳賀幸四郎、桜井徳太郎、大山日出夫、甲元武士、長野正、竹田旦、福地重孝が名を連ねる。戦前の国史教科書にあった神武天皇神話は、史実としては抹殺されたが、例えば神功皇后の三韓征伐神話を「一人の英雄的女性の事業にまとめられて人々の間に語りつたえられたもの」と注記するなど、神話の歴史的意味にも言及している。年代表記についても、アジア・太平洋戦争終戦まで国史教科書に用いられてきた神武紀元は姿を消し、「大宝元年(七〇一年)」のように、元号・西暦による表記が採用されている。 (375.932-To46-3-53-1,2 / 東京教育大学教育課程文庫)

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