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第1部 日本の元号と暦

2. 日本書紀通証 巻30

谷川士清撰述
京都:風月荘左衛門ほか(五条天神宮蔵版) 宝暦12(1762)年刊 35巻23冊 【所蔵情報(電子資料あり)】
日本書紀通証 巻30

近世中期の国学者谷川士清が著した『日本書紀』の注釈書。本資料は東京高等師範学校教授であった漢学者那珂通世の旧蔵書。日本で最初に年号が定められた「大化元年と為す」の注釈では、諸書を引用しつつ、大化・白雉・朱鳥は「一時の瑞」を記念したもので、北畠親房『神皇正統記』が記すように大宝こそが最初の年号であると記している。 (ヨ240-43/那珂文庫)


3. 日本三代実録 巻31

藤原時平[ほか]撰;松下見林[跋]
大坂 : 秋田屋太右衛門ほか(蓬蒿舎蔵版)  寛文13 (1673)年刊 50巻20冊 【所蔵情報】
日本三代実録 巻31

『日本文徳天皇実録』を次いで、延喜元(901)年に宇多天皇の勅を承け、左大臣藤原時平らによって撰進された六国史の掉尾。古代の歴史学である紀伝道がもっとも成熟した時期の歴史書で、菅原道真も編纂の中軸となっていた。清和、陽成、光孝三代の30年間をほぼ編年体で記述する。この間、貞観(859年)、元慶(877年)、仁和(885年)の三度の改元のおりの詔が記載されている。元慶度改元の詔は都良香の手になるもので、代替わりであるとともに「白雉」「木連理」の祥瑞出現を改元の理由としている。 (ヨ250-23)


4. 菅家文草 巻4

福春洞[跋]
寛文7(1667)年刊 12巻3冊 【所蔵情報】
菅家文草 巻4

菅原道真が自らの作品を編集した別集(個人全集)。巻6までは詩、巻7から巻12までは散文を収める。改元に関わって作られた詩作が、巻2と巻4とに見える。ことに巻4では当時讃岐守として外任に就いた道真が、889年の仁和から寛平への改元の詔書を読んで、土地の「樵夫・漁父」に向かって「寛平」(天子の仁徳がひろくゆきわたる)の世の中になることを祈っており、この年号に託した行政官としての道真の思いを読みとることができる。本書は寛文版本に元禄8(1695)年に校合が加えられたもので、元禄版本の祖となる貴重な資料である。寛政の三博士のひとり柴野栗山の旧蔵である。 (ル295-1)


5. 群書類従 巻第461

塙保己一集 江戸後期刊 530巻目録1巻 【所蔵情報(電子資料あり)】
群書類従 巻第461

『群書類従』は、近世後期に盲目の国学者塙保己一が編纂した国書の一大史料集(版本)。巻第461には、延喜改元の端緒となった昌泰4(901)年2月22日の文章博士三善清行「革命勘文」が収められる。延喜改元は、中国から伝わった讖緯説たる辛酉革命説に基づく初めての改元である。清行は、改元によって天道に応じ得る証拠4か条を列挙し、改元の必要性を醍醐天皇に建議した。文中には、『詩緯』から「戊午革運、辛酉革命、甲子革政」の語が引用される。 (イ300-24)


6. 後京極摂政記

九条良経[著] 1冊 【所蔵情報】
後京極摂政記

左大臣九条良経の日記から建仁改元に関する記事(正治2〈1200〉年12月12日~建仁元〈1201〉年4月8日)を抜き出した別記(写本)。正治3年の干支が辛酉であったことから、朝廷では辛酉革命説を根拠に改元すべきか、紀伝道・明法道・算道・陰陽道・暦道の各博士および式部大輔に意見を求め、審議の結果、正治は建仁に改元されることになった。なお、次の元久改元は「甲子革令」を根拠になされている。 (ヨ216-43)


7. 兼綱公記

広橋兼綱[著] 1冊 【所蔵情報】
書名

内題は「瑞雲院贈左府兼綱公記」で、蔵人頭広橋(勘解由小路)兼綱の日記から北朝における延文改元の記事(文和5〈1356〉年2月25日~3月28日)を抜き出した別記で、「延文改元定記」とも呼ばれる(写本)。南北朝時代には南・北両朝で別個に年号が定められ、二つの年号が併用された。記事中には兼綱自身が進上した年号勘文も記されるが、提案した「貞徳」「文安」は不採用となった。 (ヨ216-66)


8. 常陸編年 巻第4

中山信名[編];宮本茶村[写] 7巻7冊 【所蔵情報(電子資料あり)】
書名

江戸時代後期の国学者中山信名が著した常陸国(茨城県)の歴史年表。本資料は潮来の国学者宮本茶村による写本。年号には、公的な年号ではない、私年号、異年号、偽年号、僭年号などと呼ばれるものも存在した。本資料には、享徳4(1455)年7月25日に康正と改元されたが、室町幕府と対抗する古河公方足利成氏はこれを認めず、文明3(1471)年まで(実際は同10〈1478〉年まで)享徳年号を使用していたことが記される。 (ヨ330-2)


9. 改元物語

林恕[著];篠崎東海[跋] 元文元(1736)年写 1巻1冊【所蔵情報】
書名

徳川将軍に仕えた林羅山を祖とする林家2代目の恕(鵞峰)が延宝元(1673)年に、公家・朝廷による改元に武家が関わるようになった江戸前期の改元の事情について、子孫に示すために著した記録。恕自身は万治・寛文・延宝の改元に直接関与した。本資料は、林家3代鳳岡や荻生徂徠・伊藤東涯に学び、日本古典にも精通していた儒学者篠崎東海による写本。印記によれば、国学を大成した本居宣長の門人である堤朝風の旧蔵書。 (ム215-238)


10. 改元部類記 巻5

[江戸前期写] 存14巻 【所蔵情報】
書名

摂関期の三条院(三条天皇)から江戸期の後西院(後西天皇)に至る改元に関する古記録を集成したものであるが、惜しいことに計7巻を大正13(1924)年に焼失している。崇徳院(崇徳天皇)の天治改元から後陽成天皇の慶長改元にかかる現存の14巻には、新元号の候補の難点を提示する難陳の記録も含まれる。院政期、二条天皇の平治改元については、公家中山忠親の日記である『山槐記』が引用され、新元号の候補であった淳仁が、難陳によって醍醐天皇の諱と重複することを指摘され、落選となった経緯が述べられる。 (ム215-236)


11. 日本三代実録 巻5

藤原時平[ほか]撰;松下見林[跋]
大坂 : 秋田屋太右衛門ほか(蓬蒿舎蔵版) 寛文13 (1673)年刊 50巻20冊 【所蔵情報】
書名

貞観3(861)年に陰陽頭兼暦博士の大春日真野麻呂によって、それまで使用されていた開元大衍暦、宝応五紀暦に代えて、誤差の少ない最新版の暦法、長慶宣明暦を使用するべきとの献策があり、それが認められ翌4年より新暦が使用された。その後日本ではこの宣明暦が貞享元(1684)年まで823年間の長期にわたって使用されてゆくこととなる。ここで言う「暦」とは暦法を言い、いわゆる毎年の暦(カレンダー)を作るための基本常数など計算式を記したものである。『三代実録』には3年6月16日付の太政官符が記載されており、これにより日本古代の暦使用の概略を知ることができる。 (ヨ250-23)


12. 宣明暦 巻1

寛永21(1644)年刊 7巻7冊 【所蔵情報(電子資料あり)】
書名

元来『宣明暦』とは中国唐代長慶2(822)年から71年間使用された暦法の書で、日本には貞観元(859)年、渤海使によって伝えられ、同4年より823年の長きにわたって使用された。本来の『宣明暦経』は残らないが、本書は江戸時代に日本で出版された、原文を簡略化し、実際の造暦のための定数などを逐一挿入して実用に資したもの。毎年の造暦法を記した「宣明暦」、日月蝕の推算法を記した「宣明暦交蝕私記」、天文定数等の数表を記した「宣明暦立成」からなる。中国ではその後もたびたび改暦が行われたが、日本では800年以上も改暦が行われなかったのは、中日の支配者の暦法意識の差によるものと考えられる。 (テ120-41/三宅文庫)


13. 延喜式 巻16

藤原忠平[ほか]撰
京都:出雲寺 享保8(1723)年刊 50巻20冊 【所蔵情報(電子資料あり)】
書名

律令格に対する施行細則を集大成した古代法典の一つ。藤原時平、忠平兄弟らによって延長5(927)年に完成。巻16は中務省管下陰陽寮に関する諸規定が記される。毎年11月1日に天皇と諸司とに翌年の具注暦を進献する御暦奏の式次第が記されており、具注暦作成に必要な用具の物量を逐一記してある。具注暦とは律令時代に作成された季節や日の吉凶などの注を具備した暦で、今日天皇に奏上された御暦は残らないが、諸司への頒暦の断簡は奈良時代のものが残る。長徳4(998)年に始まる藤原道長の『御堂関白記』は具注暦の余白に日記が書き込まれたもので首尾完結した14巻が残る。ただしこれは御暦に擬して自家用に陰陽家に作成させたもの。 (ム212-6)


14. 政事要略 巻25

惟宗允亮[撰] 元文4(1739)年校了 存17巻 【所蔵情報】
書名

平安中期の法制書。もと130巻。うち25巻分のみが伝存する。長保4(1002)年頃成立。平安時代の政務関係の諸制度を体系的に整理したもの。本書は写本のみが伝わり、版行されなかった。巻25・年中行事・11月1日に朔旦冬至に関する記事を集成する。太陰太陽暦ではほぼ19年に一度、11月1日と冬至とが重なることがあり、それを吉祥として祝った。ただ時に1日ずれたりすることがあり、そのおりには暦の朔を前後に移動する作為を行い朔旦冬至を祝った。19年一章であるはずの貞観2(860)年に冬至が11月2日に当ってしまい、文章博士菅原是善らは朔を移動することで、朔旦冬至とする建議を行い、そのように暦が変更されることとなった。 (ム212-38)


15. 三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集 巻5

安部晴明撰
京都:前川茂右衛門 慶安3(1650)年刊 5巻2冊 【所蔵情報】
書名

日時・方角の吉凶などを集大成した雑書の一つ。単に『簠簋内伝』『金烏玉兎集』などともいう。三国は印度・中国・日本、簠簋は祭器の名で簠は円器、簋は方器、金烏は日、玉兎は月の異名。天円地方・陰陽を象る。天地の内に秘かに伝えられた暦書の意かという。安倍晴明作と仮託されるが、鎌倉時代末以降の成立か。古代の陰陽道に他のさまざまな禁忌説が習合し、それを仏説それも牛頭天王信仰に基づいて統一的に説明しようとする特徴が見える。暦の占術的要素を肥大化したもので、今日にも連なる縁起担ぎの淵源ともなっている。 (ロ895-73)


16. 土御門泰重書状

書名

年紀未詳の土御門泰重の北畠某宛の書状。内容は江戸時代の堂上貴族の日常的な一こまである。泰重(1586-1661)は江戸時代初期の陰陽家。安倍晴明19代の裔久脩の子。中務大丞、以後中務少輔、左衛門佐、左兵衛督、天文博士を歴任した。陰陽道の再興に尽力した。梅小路村(京都市下京区梅小路西中町)に住し、現在邸宅跡付近に建つ梅林寺、円光寺には渾天儀など天文観測器の台石が残る。孫の泰福は、勅許を得て諸国の陰陽家を支配した。幕府天文方渋川春海とともに貞享暦を作成した。 (雑文書/貴重書)


17. 貞享暦 巻3

渋川春海[編];土御門泰福[校正] 7巻(5巻欠) 【所蔵情報(電子資料あり)】
書名

幕臣渋川春海が日本で初めて作成した日本独自の暦法書。貞享2(1685)年から70年間にわたってこの暦法により暦(カレンダー)が作られた。それまで日本では中国唐代の『宣明暦』が平安時代から約800年間使用されていた。そのため17世紀日本では実際の日月の運行と暦との間に2日間のずれが生じていた。そこで春海は当時最高峰の暦法と考えられた中国元の「授時暦」に基づき、江戸・京都での観測データを盛り込んで、日本の経度に適合させて作成したのがこの『貞享暦』である。暦法書は秘書であったので出版はされず、写本でのみ伝わっている。 (テ120-12)