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第1章 狩野山雪「歴聖大儒像」

1. 歴聖大儒像(孔子像)

狩野山雪「歴聖大儒像」のうち孔子像 (東京国立博物館所蔵)
ColBase (https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/H-1342-11)

歴聖大儒像(孔子像)

孔子(BC551-479)。姓は孔、名は丘、字は仲尼。魯(山東省)の生まれ。儒教の祖。約3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。晩年には魯で教育と著述に専念し、『詩経』『礼経』『楽経』『春秋』などを編集したとされる。孔子自身は著作を残していないが、孔子の言行は弟子たちによって『論語』としてまとめられ、「仁」 「孝」「礼」を中心とした倫理思想は、中国ひいては東アジアの文化に多大な影響を及ぼし続けている。前漢(BC206-AD8)に儒教が国家の正統教学となってからは歴代王朝で重んじられ、近代に至るまで2000年あまり畏敬の念を集めた。また、故郷の山東省曲阜にある孔子廟をはじめとして中国各地、韓国、ベトナム、台湾、日本でも孔子廟が建立され、まつられている。


2. 歴聖大儒像(顔子像)

狩野山雪「歴聖大儒像」のうち顔子像
東京国立博物館所蔵 Image: TNM Image Archives

歴聖大儒像(顔子像)

顔子(BC6世紀前半-BC481〈483とも〉)。姓は顔、名は回、字は子淵、顔淵とも。魯(山東省)の生まれ。『論語』には24回登場し、後世の儒教では四聖の一人「復聖」として崇敬される。孔門十哲の筆頭にあげられ、孔子の弟子の中で最も優秀であったとされる。孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って32歳で早逝した。顔子は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。


3. 歴聖大儒像(曽子像)

狩野山雪「歴聖大儒像」のうち曽子像
東京国立博物館所蔵 Image: TNM Image Archives

歴聖大儒像(曽子像)

曽子(BC505-BC436)。姓は曽、名は参、字は子輿。魯(山東省)の生まれ。孔子の門人で、孔門十哲の一人。後世の儒教では四聖の一人「宗聖」として尊称される。孔門後継のうち、礼を重んずる子夏などの客観派に対し、仁・心の内省に重点を置く主観派といわれる。孝の道に優れていることから親孝行の人として知られ、そのことを孔子に見込まれて『孝経』を著したとされる。朱子は四書の一つ『大学』をその著とした。また、曽子の言行を伝えるものとして『大戴礼』に載せる「曽子」十編がある。


4. 歴聖大儒像(子思像)

狩野山雪「歴聖大儒像」のうち子思像
東京国立博物館所蔵 Image: TNM Image Archives

歴聖大儒像(子思像)

子思(BC492-BC431)。姓は孔、名は伋、字は子思。魯(山東省)の生まれ。孔子の孫で曽子に学んだ。天地の理法を説いて、倫理の基準を示した。後世の儒教では道統の継承者であり、四聖の一人「述聖」として尊称される。また、孟子に学問を伝えたとされ、宋代以降は、孔子―曽子―子思―孟子という道統をたて、賢人として尊ばれた。著述の『子思子』はもと23編とされているが、現在では『礼記』の「中庸」、「表記」、「坊記」、「緇衣」の4編がその残簡とされている。中でも『中庸』は宋代に朱熹によって尊ばれ、四書の一つとして位置づけられた。


5. 歴聖大儒像(孟子像)

狩野山雪「歴聖大儒像」のうち孟子像
東京国立博物館所蔵 Image: TNM Image Archives

歴聖大儒像(孟子像)

孟子(BC372-BC289)。姓は孟、名は軻、字は子輿。子車、子居とも言う。孔子の生国に近い魯の鄒(山東省済寧市)の生まれ。子思の門人に学業を受けたとされ、儒教では孔子に次いで重要な人物とされる。また、顔子とともに「亜聖」と仰がれる。人間の本性は生まれながらにして善であるという性善説、社会の成り立つ根本は人民にあるという民本思想を主張し、仁義による王道政治を目指した。また、その言説や主張は『孟子』にまとめられた。宋代以降には経書に数えられ、四書の一つとして重んじられている。


6. 歴聖大儒像(周子像)

狩野山雪画 寛永9(1632)年 【所蔵情報(電子資料あり)】

歴聖大儒像(周子像)

周敦頤(1017-1073)。字は茂叔。号は濂渓。営道 (湖南省)の生まれ。 朱子学の宇宙論の基礎となる人性説を唱えた。生前は評価されなかったが、朱熹によって孔子、孟子に続く儒者として高く評価された。朱熹によって、孟子以後に途絶えた道統 (上古の聖賢の道) を継ぐ者であり、宋学 (宋代の儒学) の祖と評価され、宋儒に影響を与えた。 また、日本においては「四愛図」の一つである「周茂叔愛蓮図」の画題としても親しまれる。 著作に『太極図説 』『通書』 など。 (721.4-Ka58/貴)


7. 歴聖大儒像(程伯子像)

狩野山雪画 寛永9(1632)年 【所蔵情報(電子資料あり)】

歴聖大儒像(程伯子像)

程顥(1032-1085)。字は伯淳。号は明道。 洛陽 (河南省) の生まれ。 弟の程頤とともに、二程子と呼ばれ、周敦頤に師事した。 儒学のみならず老荘思想や仏教も学び、宇宙の本体を乾元の気とし、理を基礎とする道徳説を唱えた。程顥は15歳ごろ弟とともに周敦頤に従学し、26歳で科挙に合格した。当初は王安石の配下にあったが、新法に反対したため後に対立する。そのため、主として地方官を歴任したが人望が厚く治績をあげたとされる。著作に「定性書」「識仁篇」 など。 (721.4-Ka58/貴)


8. 歴聖大儒像(程叔子像)

狩野山雪画 寛永9(1632)年 【所蔵情報(電子資料あり)】

歴聖大儒像(程叔子像)

程頤(1033-1107)。字は正叔。号は伊川。洛陽(河南省)の生まれ。程顥の弟。性理の学を大成し、理気の説を唱えた。程頤を詠んだ詩文や絵画は、兄の程顥より多く、広く受容されていたと見られる。厳格な人柄で、官吏としては政敵を作って成功しなかった。学問・修養の具体的方法を説いた程頤の学説は、南宋の朱熹によって朱子学として大成された。このとき、朱熹がもっとも多く取り入れたのが程頤の学説であったため、朱子学は程朱学とも呼ばれている。著作に『周易程氏伝』『経説』など。 (721.4-Ka58/貴)


9. 歴聖大儒像(張子像)

狩野山雪画 寛永9(1632)年 【所蔵情報(電子資料あり)】

歴聖大儒像(張子像)

張載(1020-1077)。字は子厚。号は横渠。郿県 (陝西省) の生まれ。はじめ仏教や老荘思想に傾倒していたものの、 後に儒学の独立性を主張するようになり、 気の哲学を提唱した。『易』、『中庸』に依拠し、万物の生成を陰陽二気の集散によって説明し、その気の本源的なあり方として「太虚」を説いた。 二程子とも交流した。若い頃は兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが、范仲淹に諭され、『中庸』を授けられたのを契機として、儒者に転じた。その後、二程子との交流の中で儒者としての自信を確立したとされる。 著作に『正蒙』 『易説』など。  (721.4-Ka58/貴)


10. 歴聖大儒像(邵子像)

狩野山雪画 寛永9(1632)年 【所蔵情報(電子資料あり)】

歴聖大儒像(邵子像)

邵雍(1011-1077)。字は尭夫。出自は笵陽(河北省)。百源先生・安楽先生と称された。幼少から才名が高く、共城近郊の蘇門山百源に庵を立てて学問に励んだ。李之才からは河図・洛書、天文、易数を学び、政界の重鎮や二程子らの学者とも交流したが、官には属さず、一生在野の儒家として活動した。 「加一倍の法」と 呼ばれる数理計算によって、万物の生成や宇宙の変遷を説いた。 この試みは、その後朱熹などの儒家に影響を与えたと言われている。著作に『皇極経世書』『伊川撃壌集』など。  (721.4-Ka58/貴)


11. 歴聖大儒像(朱子像)

狩野山雪画 寛永9(1632)年 【所蔵情報(電子資料あり)】

歴聖大儒像(朱子像)

朱熹(1130-1200)。字は元晦。出自は安徽省で、 南剣(福建省)の生まれ。 周敦頤・張載・二程子らの理気世界観に影響を受け、儒教の新体系である朱子学 (宋学) を大成した。 また、 五経のうち、『礼記』 から取り出した 『大学』 『中庸』 に 『論語』 と『孟子』をあわせて四書とし、注釈書である 『四書集注』 を著した。 その後四書は科挙の科目に採用され、重要視された。日本にも影響を与え、朱子学は身分制度に重きを置いたために徳川幕府の目指したヒエラルキーと相まって、尊重された。  (721.4-Ka58/貴)

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