天正少年使節

 イエズス会の巡察師ヴァリニャーノの発案で、九州のキリシタン大名、大友、有馬、大村の三侯が、ローマ教皇に遣わした日本人使節。正使が 伊東マンショ千々石ミゲル 、副使が 原マルチノ中浦ジュリアン である。いずれも当時13、4歳の少年であり、イエズス会の学校、 有馬セミナリオ の学生から選ばれた。

 本能寺の変で織田信長が暗殺される数カ月前、1582年(天正10)2月20日に長崎の港を出航した一行は、マカオ、ゴアを経て、喜望峰を廻り、2年半後にヨーロッパに上陸。1585年3月にローマに入り、同月23日、ヴァティカンにてローマ教皇グレゴリオ13世の謁見を賜った。

 「地の果てからの使者」は、当時のヨーロッパでたいへんな評判となり、使節は行く先々で歓待された。使節に関する同時代の史料も数多く残されており、謁見があった85年だけでも49点、16世紀中には78点に及ぶ出版物が刊行された。ベッソン・コレクションでは、最も浩澣な同時代の史料とされるグァルティエリの著作など、使節に関する19点の文献を所蔵している。

■ 天正少年使節肖像

 ローマ教皇の謁見があった翌年1586年にドイツのアウグスブルクで出版された使節の肖像版画。右上で王冠を手にしているのが、正使(主席)伊東マンショ、左上で手袋を手にするのが同じく正使千々石ミゲル、右下が副使の中浦ジュリアン、左下が原マルチノ、中央上方が使節に同行したメスキータ神父である。

 昭和5年に浜田耕作がオランダから購入し、 現在は京都大学附属図書館が所蔵している。

■ 16世紀のゴア

 インド西岸の都市。天正少年使節はヨーロッパからの帰路、この地で『原マルチノの演説』を印刷した。かつては「黄金のゴア」と謳われ、16世紀には東アジアにおけるポルトガルの拠点として栄えたが、17世紀に入ると伝染病が蔓延し、急速に衰退した。

■ グレゴリオ13世の謁見

ローマ教皇 グレゴリオ13世 の謁見は、ヴァティカン宮の「帝王の間」で行われた。

使節等は慣例に従い、華々しく迎えられ、その座に着きたり、群衆はこれを観て、目と心とを奪われ、いずれも胸中に異常なる感動の湧くを覚えたり、蓋し、そはかかる珍しきことを見る驚嘆と、また神の名、ローマ教皇への帰服が、かくも遠隔なる地方にまで広まりたるを知る喜びとの混じりたるものなりき。
 グァルティエリ『日本遣欧使節記』(1586)より

■ 天正少年使節渡欧年譜

1582. 2.20  少年使節、巡察師ヴァリニャーノに伴われ、長崎を出帆。

      3. 9  マカオ到着。年末まで同地逗留。
 
1583.11.10  ゴア(インド)到着。ヴァリニャーノと別れ、12.20同地出帆。

1584. 8.11  喜望峰をまわり、大西洋を北上し、リスボンに上陸。

     11.14  マドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁す。

1585. 3.23  ローマのヴァティカン宮でグレコリオ13世の謁見を賜る。

    6-8.    ヴェネツィア、マントヴァ、ミラノ等、北イタリアを巡る。

1586. 4.12  リスボン出帆。

1590.[7.21] ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。

■ 有馬晴信書簡(複製)

一五九一年(天正十九年)八日二十日付、キリシタン大名プロタジオ有馬晴信から、ローマの枢機卿カラハに宛てた書簡。使節の一員で有馬氏の一族、千々石ミゲルに対するローマでの厚遇を感謝した礼状。