肥前国中浦に生まれる。父は庄屋であったらしい。有馬セミナリヨに学び
遣欧使節の副使に選ばれる。85年3月23日の教皇グレゴリウス13世との謁見の
当日、病気であったため医師から外出を厳禁されていたが、某貴人の計らいで
教皇との単独謁見を果たした。帰国後、1601年には伊東マンショとともに
マカオに派遣され、3年ほど神学などを学んだ。08年には長崎で司祭に叙階。
14年の大追放に際しては、国内に残留し、九州各地で迫害下の決死的布教を
続行した。しかし32年末、北九州小倉において捕えられ、翌年10月18日逆吊し
の刑に処せられ3日後に絶命した。