日向国主伊東義祐の娘と伊東祐青との間に生まれる。1578(天正5)年、
島津氏が日向に侵攻し、伊東一族が豊後に亡命した時に両親と別れ、孤児
同様の身となったところをイエズス会司祭に引き取られ受洗、ついで
有馬セミナリヨに入学した。伊東家と大友宗鱗は縁続きであったため、
遣欧使節の企画に際し、宗鱗の名代とされた。遣欧使節にあっては、終始
首席として振舞い、スペイン国王フェリーペ2世、教皇グレゴリウス13世ら
キリスト教世界の最高位の人々から絶大な歓迎を受け、名誉を授けられた。
帰国後、聚楽第において豊臣秀吉に謁し、1601(慶長6)年にはマカオに
おもむいて、同地で3年近く修道士として研鑚をつんだ。04年夏、長崎に
戻り九州各地で布教に従事し、長崎のイエズス会学院で病死した。