筑波大学附属図書館報「つくばね」
私の一冊    中野 泰
近代日本の青年宿 : 年齢と競争原理の民俗
(吉川弘文館)〔中央 384.1-N39〕

フィールドからの贈り物
表紙写真  今春,久し振りに本書のフィールドである漁村を訪ね,懐かしい顔ぶれと再会した。耳の遠くなったおじさん,漁船衝突事故で足を引きずるおじさん,隠居商売をやめて小舟をつぶしたおじさん。随分と変わってしまった風貌に眩暈を感じるも,酒を酌み交わしてみれば,東シナ海で活躍した血気盛んな漁師の面影が,今も確かめられる。
 私は,本書で,彼ら遠洋漁業へ従事する漁師を育てた漁村組織,「青年宿(せいねんやど)」(山口県萩市玉江浦)について民俗学的に明らかにした。青年宿とは,青年期の若者が寝泊まりする宿泊施設で,若者はそこで漁業の技術や知識を身につけていた。この遠方でのフィールド・ワークを身銭を切ってでも達成するよう勧められたのは,当時の指導教官,「若者組」の研究でも知られる福田アジオ先生であった。
 本書の特徴は大きく2点ある。1つは歴史学的なもので2つの面に分けられる。一方は,この宿と近代漁業史との関係を,明治期の遠洋漁業奨励政策に焦点をあてて説いた点,他方は,この宿と田中義一や官製青年団運動の指導者との関わりを,軍事(青年訓練所)や教育政策との関係から捉えた点である。2つ目の特徴は社会学的分析である。青年宿の年齢階梯的原理が,村落・漁業組織と連関して機能するものであることを,カンダラという特別賞与と, 競争やホマレ(誉れ)という意識(民俗語彙)に焦点を当てて明らかにした。端的に言えば,漁村社会の近代的変貌を国家政策をも視野に入れ,民俗学的に説いた書と言える。
 漁師達は,昔日の自分たちを「防長の青年」だったと言う。「防長の青年」とは,郷土の未来を担う模範的な若者を意味する。この表現が古くは山県有朋の発したものであること,しかもそれが同郷の吉田松陰を意識してなされたものであることに気づいたのは萩市の市立図書館であった。修士課程時代の恩師,文化人類学者の阿部年晴先生もこの問題の重要性を指摘して下さった。図書館へ通い詰め,明治期からの新聞に連日目を通していたことも,今となっては懐かしい。この度は,吉田松陰までを扱うには及ばなかったが,この作業は,聞き書きという民俗学の方法を補完することに繋がり,若者宿から青年宿への変化を歴史的に明らかにすることができた。
 本書の記述は日本の特定の村落に限定した地味なものに落ち着いた。だが,その結論は,広く議論された,社会に埋め込まれた経済(Polanyi,K)を,あるいは,村落における名誉と恥のダイナミクス(Peristiany,I.G)を,またあるいは,シャリヴァリに示される象徴の歴史社会学的意味(Thompson,E.P)などとも繋がる問題であると密かに感じている。
 玉江浦の歴史では,これまでに3人の「出世がしら」がいるそうである。本書の原論文により博士学位を得た私に,老漁師達は「わが玉江浦の誉れ」だと祝福し,それにつぐ快挙だと持ち上げてくれた。フィールドという民俗社会に,このように包み込まれるのも悪い気はしない。帰り際,おばさんがいつものワカメのお結びを持たせてくれる。この味わいと心地良さにいつまでも浸っていたいと感じた帰路であった。

(なかの・やすし 人文社会科学研究科講師)
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