筑波大学附属図書館報「つくばね
ある教育事典編集者のこと
山内 芳文
  本学の附属図書館に所蔵されている西洋,ことにドイツの教育関係の文献は,その量や質の豊かさにおいて世界に誇るべきものであることについて,そして体系的に収集されてきた教育学・教育思想史上の古典オリジナルはもちろん,それらに関わる第二次文献,さらに各種の学校報告や法令などのコレクションの内容については,これまでおりにふれて本誌などで紹介してきた。今回は,そのような豊かな文献に関する情報を集約するものとしての意義をもつドイツの教育事典類について,ある編集者のプロフィールを中心に取り上げることとしたい。ドイツにおける事典の刊行は,グリムのドイツ語事典をめぐる旧東西ドイツ間の協力のエピソードを引き合いに出すまでもなく,かねてより出版界の重点事業とされてきている。教育学関連の事典でも,ドイツは豊かな歴史と伝統を持っている。この文章を書いているときにも,最新刊の『教育学の歴史事典』(D. Benner & J. Oelkers (Hrsg.), Historisches Wörterbuch der Pädagogik. 2004)が手許に届いた。

  ところで,そのようなドイツの教育事典づくりの豊かな伝統はいつごろにまで遡るのだろうか。中央図書館一階に所蔵されている19世紀の教育事典の古びた皮の装丁にかろうじて読める金文字は先人たちの活用の度合いを示すものだろうが,そのなかでも比較的初期の部類に属するシュミット(K.A.Schmid)『教育制度事典』(Encyklopädie des gesammten Erziehungs- und Unterrichtswesens)が,このほどあらためて目にとまった。大学院生のころからいくどとなく利用し,最近でも学会報告のためにヘルマン・ヘッセの『車輪の下』のモデルの神学校の成立史を調べるさいにも重要な参考資料を提供してもらった。今回あらためて目にとまったというのは,これまで本学の教育学関連の古典資料の収書に協力してもらい,またこの事典のCD-ROM化を企画している書肆からの情報で編集者シュミットの生涯について大まかなことが分かったからである。『一般ドイツ教師新聞』(Allgemeine Lehrerzeitung)というドイツ教員会議の機関誌の1904年8月28日(日)発行の紙面冒頭に掲載されたシュミットの生誕100年を記念する記事がそれで,ブラウンシュヴァイクの視学官オッパーマンが『教育制度事典』全11巻の編集者,それに晩年多くの協力者を得て完成された『教育史』(Geschichte der Erziehung. 1884-)全4巻7分冊の著者としてのシュミットについて大まかな紹介をしてくれている。

  それによると,シュミットはそのオッパーマンの記事から100年前,つまりいまからちょうど200年前の1804年1月19日,ヴュルテンベルク王国最東端の都市ウルムの南西にある小さな町エビンゲンに当地の説教師でありラテン語学校の教頭でもある父の子として生まれた。身体が弱かったこともあり,13歳までは両親の許で父の職場である教会やその周辺の野外での教育をうけ,その後はじめてウルムの西にあるブラウボイレンの福音派神学校(evangelisch-theologisches Seminar)で4年間,さらにヴュルテンベルク王国域内唯一の大学があったテュービンゲンのシュティフト(evangelisches Stift)に入寮する。このシュティフトは,給費生として主として当地の大学の神学部に通うエリート学生の寮で,領邦教会の牧師という将来の精神的指導者のための勉学支援施設であった。かつて,ヘーゲルやシェリング,そしてヘルダーリンなどが在籍していたことはよく知られている。このシュティフトで彼が勤しんだのは,もちろん学科の勉強であったが,とくに力を注いだのは,神学生のイメージからはほど遠い身体の鍛錬と唱歌の練習であった。しかしながら,このような寮生の日常は当時においても格別特異なものではなく,かつてここに学んだ多くの人々の思い出も「健全な身体における健全な精神」(mens sana in corpore sano)がここでのモットーであったことを一様に記している。私が1989年から90年のドイツ激動の時期にテュービンゲンに滞在していたときのシュティフトでは,寮生が夕方上半身裸でバレーボールに熱中する姿や,夕闇が迫るなか食堂のあたりから聞こえてくる清らかで力強い若者のテノールが印象に残っている。21歳でシュミットはベーフィスハイムに説教師として赴任する。父親と同じ道に進んだことになる。その勤務は週40時間とかなり厳しいものであったが,この時期に生涯の伴侶を得,彼らはやがて12人もの子どもに恵まれることになる。1829年に,シュミットは,いまではかつての王都シュトゥットガルトの郊外となっているゲッピンゲンの説教師兼副牧師長に任じられた。やがてそこを拠点として多忙な勤務の合間をぬって,ラインラント,ハノーファー,ザクセン,さらにはバイエルンへと出かけ,主としてギムナジウムの教育実際について調べて歩いた。ゲッピンゲンの学校は,1838年にバイエルンの有名な教育家ティールシュの『現今公教育の状況』できわめて卓越したものと評価されているが,シュミットはその年にこれもシュトゥットガルト近郊の町エスリンゲンのペダゴギウムの校長となり,下級,つまり基礎課程だけだった学校に古典語のコースを設け,その教授法,ことにギリシア語教授法の改善についていくつかの論文を著している。1852年からはウルムのギムナジウムの校長となるが,ここではヴュルテンベルク王国政府の意向をうけて,ことに体育の授業に力を入れたことが知られている。

  このウルムの時代に,たぶんゴータの出版社ベッサー(Rudolf Besser)からシュトゥットガルトの支店を通して,アルファベット順に項目を立てた『教育制度事典』の編集の依頼が直接シュミットのもとに舞い込んだものと思われる。シュミットはこの計画を引き受け,編集協力者や執筆者を得るために精力的に南ドイツ,中央ドイツ,さらには北ドイツの町々を訪れた。このとき出会った人々は,確定した事典の執筆者一覧から推測するかぎり,大学の教師だけではなく,ギムナジウムの校長や教師,そして教育行政官など,きわめて多様なメンバーだった。編集の主たる協力者にはテュービンゲンのパルマー,ビルダームートの両教授が依頼され,彼らは同時にいくつかの項目の担当もしている。そのほかには,ライプチッヒの教授G.バウル,コブレンツの視学官W.バウル,ブロンベルク(ポーゼン)のギムナジウム校長ラインハルト,ヴィースバーデンの視学官フィルンハーバー,マールブルクの教授ランゲ,ベルリンの教授フラスハール,さらにハレの大学監督官シュラーダー,ベルリンの枢密顧問官シュナイダー,ポツダムのヴィーゼなどが協力者兼執筆者に名を連ねていた。このなかでは,定版の『ハレ大学史』で有名なシュラーダー,プロイセンの中・高等教育資料集の編纂で有名なヴィーゼの両博士の協力が注目される。『教育史』によってドイツでは先駆的な教育史家となったシュミット自身も「フリードリヒ大王」,「ギムナジウム教師」,「作文」,「就学強制」,「予備学校」などの項目を担当し,その含蓄を披露している。

  『教育制度事典』第1巻は1859年に刊行され,最終の11巻が刊行されたのは1878年のことであるから,完結には実に20年近くの歳月を費やしたことになる。シュミットはこのときにはすでにシュトゥットガルトのギムナジウムの校長に転じていた。この前後,つまり1871年から77年にかけて民衆学校の目的や運営についてまとめた2巻のハンドブック(Pädagogisches Handbuch für Schule und Haus)の編集にも携わっていた。これは1883年から1885年にかけてライプチヒのフース書店から刊行される。また,やがてゴータのベッサー書店からあらためて『教育制度事典』の第二版が刊行され始めるのは,初版が完結する以前の1876年のことだが,その第二版の刊行が完結した1887年の5月23日に,シュミットは84歳で世を去っている。
  シュミットの事典の最大の特色は,一項目がときにはちょっとした書物一冊分となるほどの分量を占めているということである。さらに,その内容はたとえば「民衆学校」を事例にとると,いくつかの領邦(州),場合によっては郡・県レベルまでと,その叙述を詳細にしている。私自身も大学院生だったころ,18世紀の半ばに東部のカトリック地域を新たに領有したプロイセンの教育政策の実際を,この事典の「民衆学校」の項目の県レベルの記述を頼りに調べた経験をもっている。いずれにしても,『教育制度事典』は,のちにこれも一つの画期的な出版となるW.ラインの『教育百科事典』(Encyklopädisches Handbuch der Pädagogik. 1895)全7巻の出現までは,ドイツにおけるほとんど唯一の教育関係事典なのであった。


教育制度事典
シュミット『教育制度事典』第2版(1876-)  

(やまうち・よしふみ  人間総合科学研究科教授)
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