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資料紹介

資料はなにを愛するか

吉野 修

 ある作品を研究するためには,その作品と作者に関する資料をできる限り集め,あらゆる観点から分析し,読解しなければならない.資料は作品の成立過程を明らかにし,最終的にはその生みの親である作家の全体像に迫る事ができる.こう考えることによって,実証主義的=Positivementに,つまり確実に,真実に近づくことができるというわけである.ここでは,表現されたもの(作品)と表現するもの(作者)との意味論的な階層構造が前提されている.作品は資料とともに作者に帰属する思考やイメージなどの単なる媒介物に引き下げられ,上位のオリジナルはあくまで作者であるとされるのである.
 しかし,一方に「作品とは必ずしも表現ではない」と考えるベケットのような作家や芸術家達がいる.作者はすでに人格を伴った一個の主体でも,作品を支配する全知全能の創作者でもなく,アノニムな何者かとされるのである.話を文学に限って言えば,このように捉えられた作品は一種の超越的文学空間の存在を想定させるものである.実際,社会学者Pierre Bourdieuは,『文学の規則』において,この超越的文学空間は,いわゆる文学的な「曰く言いがたいもの」を保存し,それとの関係を己と保とうとするナルシス的特権意識にすぎないとして断罪している.しかし,表現一般形式において,表現者とみなされる主体の定位が,とりわけ言語学的・哲学的領域において問題視されていることを無視するわけには行かない.Ferdinant de Saussureによる,言語には恣意的な差異の体系しか存在しないという意見が,語る主体の安泰をいかに脅かすにいたるかは,丸山圭三郎の一連の著作によって明らかにされている.また,例えば現象学における超越論的主観が,それ自体がすでに差延の効果である「声」と共犯関係を結んでおり,無垢なる現在においてではなく差延の効果によって成立するものであることを,Jacque Derridaは『声と現象』の中で明らかにしている.文学のみならず言語一般による表現可能な領域は,表現するものの非存在の可能性を要求しているのである.この次元で,作家や作品についての資料はどのような意味を持つのだろうか.
 ベケットに関する最近の資料について見てみよう.Gilles DeleuzeのL'Equiseで論じられているのは,もはや主体の消去などではなく,イメージや空間のポテンシャルが消滅しようとして行く瞬間の強度とでも言うべきものである.
 このようなテクスト論的分析の成果のほかに,ベケットの個人的な側面に焦点を当てた伝記的資料が多いのはなぜだろうか.Eolin Obrienのthe Beckett Countryは,カフカの「城」のような不可知論的な館であるKnot邸が,実はベケット自身の生家をモデルにしていることを突き止めている.また,Andre BernoldのL'amitie de Beckettは,晩年のベケットの姿を伝えるとても美しい書物である.そこには一人の作家がいかに自分の作品と分かちがたく結ばれ,かつ分断されているかが見て取れる.これら資料とも呼ばれるものが作品や作者と関わるあり方は,今まで述べてきたような理論的関係よりも,一種の愛情関係についてわれわれに考えさせるのである.
 つい最近,Deleuzeが亡くなった.現代の最も偉大な哲学者の自殺である.哲学と文学との出会いについて,彼は確かこう語っていた.
 「私が気を付けているのは,作家が草葉の陰で泣くような事をいっさい書かないということです.」


本学・講師
What does the Corpus Love?, by Osamu Yoshino