筑波大学附属図書館報「つくばね」
私の一冊    齊藤 泰嘉
東京府美術館史の研究
(筑波大学芸術学系齊藤泰嘉研究室) 〔体芸 706.9-Sa25 〕
表紙写真  子供の頃,9月になると父に連れられ「上野の美術館」に出かけた。昭和30年代のことである。日本画家である父が出品している院展(日本美術院の新作発表展)を見にゆくためである。会場で「マエダ・セイソン先生だよ」と父が教えてくれた白髪の画家の吊りズボン姿を今でも思い出す。大学で美学美術史を学んだ私は,卒業後,札幌にある北海道立近代美術館に学芸員として勤務するようになった。美術館専門職のイロハをわれわれ新米学芸員に指導した倉田公裕館長は,博物館学の立場から見て「上野の美術館」は美術館(ミュージアム)ではなく,美術展覧会場(ギャラリー)でしかないという持論を新聞等で展開されていた。子供の頃から「上野の美術館」こそ美術館だと思ってきた私は驚くとともに,ミュージアムとギャラリーの違いというものを学んだ。
 その後,「上野の美術館」へと移った私は,この美術館が,九州若松で「石炭の神様」と呼ばれた佐藤慶太郎(火野葦平の小説『花と龍』に実名で登場する石炭商)による東京府への100万円(現在の約30億円)寄付によって建設され,1926・大正15年,東京府美術館の名で上野公園に開館したことを知った。美術館と石炭という意外な取り合わせの理由を探るべく,調査を始めた。若松や筑豊へも足を伸ばした。東京府美術館と佐藤慶太郎像その後,東京都現代美術館(江東区木場公園)の建設準備に携わった後,筑波大学芸術学系へと転職した私は,筑波大学附属図書館の財産である旧東京教育大学時代蔵書やレファレンスカウンターサービスのおかげで,「上野の美術館」の歴史に関する研究を博士論文(2003・平成15年)にまとめることができた。
 昭和戦前期の20年間だけを見ても700本を超える展覧会が「上野の美術館」で開催され,1,200万人以上の来館者が美術鑑賞の時間を過ごしている。どうしたらこの美術館の存在意義を明らかにしうるのか。そこで思い浮かんだのが「芸術活動支援(アートサポート)」という概念である。ギャラリーとしての「上野の美術館」は、画家たちの新作発表支援者であり,作品の流通支援者であり、来館者への鑑賞支援者であった。芸術支援学の視点から新しい「上野の美術館」像の提示と再評価を試みたのが本書である。
東京府美術館は、太平洋戦争中に東京都美術館と名を変え、1975・昭和50年に立て替えられた。2006・平成18年には開館80周年を迎える。座右の銘「公私一如」を実践した芸術活動支援の人佐藤慶太郎。この九州男児と「上野の美術館」について関心を持たれた方のために「東京府美術館史の研究」は,筑波大学附属図書館書架に置かれている。


(さいとう・やすよし 人間総合科学研究科教授)
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