筑波大学附属図書館報「つくばね」
知識のみなもと
大嶋建一
私は第二次世界大戦直後の1946年に上州赤城山南麓の人口一万人程度の農村で誕生しました。国は敗れても周囲には豊かな里山と清い川があり,遊びには事欠きませんでした。しかし,村には図書館はなく本に触れる機会はほとんどありませんでした。小学校入学前後には家計に少しゆとりが出てきたと思われ,両親が前橋市の書店で購入した「キューリー夫人」,「野口英世」,「日本歴史物語」のような単行本,シリーズものがあり,弟達とまわし読みしていました。当時の小・中学校の図書室はあまり立派ではありませんでしたが,歴史や文学のシリーズものがありました。当時,私は国際情勢がリアルに伝わってくる新聞記事とラジオのニュースに興味を持ちました。コンゴ動乱では紛争の調停役を務めている外交官という職業に憧れたり,科学技術の専門家となり石油開発にかかわりたいと思ったり,子供心に一度は外国に行きたいとの願望はこの頃からありました。

 本格的に図書に触れたのは高校の図書館でした。高校にはいろいろなタイプの先生がおりました。旧制中学からの先生,新制大学を出ても希望とする職業に就けず不本意にも高校に就職した先生,プロの音楽家をあきらめた先生,オリンピック候補選手だった体育の先生と多彩で,ほとんどの先生にはニックネームがつけられていました。人生経験豊かな先生方の特徴のある授業に加えて文学,哲学,人生に関する余談は非常に興味深く,関連の本を探しに図書館に出向きました。私は図書館から借りた本,小遣いで購入した夏目漱石,森鴎外,さらには萩原朔太郎の作品の入った文庫本を通学中の電車の中で読んでいました。

 18歳の春に故郷を飛び出して,仙台での大学生活が始まりました。全国から集まった同級生との方言丸出しの歓談は楽しく,時には何人かで読書会を開いたりしました。また,大学近くの古本屋へ出掛け,「夜と霧」,「クララシューマン」,「チボー家の人々」,「カラマゾフの兄弟」等を購入し,涙を流したり,感激したりして夜の時間を費やしました。学部4年生からは論文を探すために戦災で焼け残った図書館をよく利用していましたが,古作りで薄暗く,しかも冬でも暖房がなく,震えながら学術誌のページをめくっていました。しかし,当時の日本では不可能な実験結果がアメリカ,ヨーロッパから報告され,うらやましい限りでした。さらに,外国での研究生活を経験した先生方の自慢話を聞いていますと,一日も早く学位を取得し,外国での研究生活をと強く感じました。
 1981年5月から翌年の10月までの1年半,子供の頃から夢に見た外国生活が米国のヒューストンで実現出来ました。大学の図書館は週末でも夜遅くまで開館していて大変便利でした。一方,長男が毎週土曜日に郊外の日本語補習学校に通っていました。その待ち時間には近くの日本語雑誌のある図書館をよく利用し,さらには1週間遅れの新聞もよく読みました。名古屋に戻った後は大学の図書館の不便さがいっそう気になってしまいました。

 現在の地つくばにたどり着いたのは1986年4月でした。1982年12月からKEK(高エネルギー加速器研究機構)の放射光実験施設を共同利用するために,しばしばつくばに来ていましたので,あまり違和感はありませんでした。前年の科学万博開催で,陸の孤島から脱却し都会化していましたので,生活はほとんど不自由しませんでした。当時は現在に比べれば時間にゆとりがありましたので,しばしば図書館に出向きました。中でも本館一階には私の専門分野で有名な学術誌「Physical Review」が創刊号から保存されているのには感激しました。また,目的とする論文を探すために出掛けたのですが,同じ号に発表されている他の論文の内容が面白く,時間を忘れてしまう事もしばしばでした。時が経つにつれて,図書館の開館時間が延長されると共に,土・日曜日にも利用可能となり,さらには新館の完成になり急速に利便性が高まりました。一方,最近では急速に発達した雑誌の電子化で,図書館に行く機会がめっきり減ってしまいました。私が利用しています学術誌の多くは研究室のパソコンからの覗くことが出来,必要とあればすぐに印刷可能となったからです。そのために,新号を手にとるときの興奮がなくなり,寂しさも感じます。一方,毎年新館の一階で開催される特別展には必ず見学に出掛け,筑波大学の前身校の貴重な収集品に触れ,しばしの心の安らぎとしています。

 最近図書館の新しい利用法に気付きました。それは本館一階に保管されている新聞の活用です。近年,全国的に理工系大学生に対して「技術者倫理」を教えることが必要となりました。技術者は環境や安全に配慮した製品開発に取り組むと共に,急激な国際化に伴う宗教をも含めた諸問題の配慮が必要で,基本的には「人間性」の重要性を認識することなのでしょう。担当者に選ばれたものの,私自身あまり倫理観を持っていませんでしたので,1泊2日の講習会や学会主催のセミナーに参加して教授法を学びました。勿論,テキストに基づいて授業を進めていますが,次々に発生するホットな事件,例えば論文捏造事件,京都での塾教師の生徒殺人,住宅耐震基準の不遵守,の新聞記事を紹介しています。記事は新聞社によってニュアンスが異なりますので,私の主観でその中から適当と思われる記事を採用しています。その感想文を書かせますと,50人の受講者の場合,50の異なる意見が出てきまして,興味深く読んでいます。同様に,新聞の科学欄は若者に科学の楽しさを伝える出前講義の際の重要な題材となりますので,地域に即した話題,例えば原子力発電所,液化天然ガス基地,製鉄所,を扱った記事を探すことも楽しみです。

 最後になりますが,2006年は筑波大学にとって記念すべき年であることを紹介します。湯川秀樹先生に続いて,1965年に“量子電磁力学の発展の貢献”で日本人二番目のノーベル賞受賞者となりました朝永振一郎先生(筑波大学の前身、東京教育大学の元学長)ご生誕100年にあたります。受賞の年に大学に入学し,物理学を専攻しました私は先生の代表的な教科書「量子力学I&II」を買い込み,古典力学では説明できないエネルギーの離散性,粒子の波動性の説明に始まり,量子力学の真髄を丁寧に記述している内容を理解しようと何度となく読み返しました。その理由はこの本の中に本当の物理学の姿が潜んでいると感じたからです。さらに,落語とヒノキの風呂での入浴を好んだ先生が書かれた「物理学とは何だろうか 上,下」(大仏次郎賞受賞作),「鏡の中の世界」等の科学啓蒙書は非常に面白く,感激しながら読みました。これらすべての書籍は大学会館朝永記念室には展示されていますが,日常的には接する事は出来ません。ここで提案ですが、図書館に「朝永コ−ナ−」を設置して,多くの学生が先生の作品を直接目に触れられる機会を作ったらいかがでしょう。講義の合間に「朝永先生を知っている人は?」と尋ねてもほとんど反応がなく,がっかりしていますが,今後改善されることを期待します。

 立派な科学哲学・倫理を有する先生が核戦争防止を目的とした世界科学者会議でも活躍されたことは科学者の鏡であると思っています。私は体験入学のために大学を訪れた高校生達を可能な限り大学会館内の朝永記念室に案内し,先生の偉大なる業績を紹介すると共に,学ぶことの大切さを伝えています。第二次世界大戦後の日本の奇跡的な発展の心の支えとなった朝永振一郎,湯川秀樹両先生の人柄と偉大な業績と足跡をたどる特別展示「素粒子の世界を拓く−朝永振一郎・湯川秀樹生誕100年−」は本年3月26日から国立科学博物館(上野)を出発として,つくばエキスポセンターを経て,7月には筑波大学総合交流会館の最初のイベントとして開催されます。詳細は記念行事紹介のホームページhttp://tomonaga.tsukuba.ac.jp/に掲載されていますので参考にしてください。朝永先生は未来を担う若者に次のようなお言葉を残しました。「不思議だと思うこと これが科学の芽です。よく考えること これが科学の茎です。そしてなぞが解けること これが科学の花です。」まさにこのお言葉は教育の原点です。

 白さが目立ち髪の毛が薄くなりだしますと,昔の記憶が鮮明によみがえるときがあり,年を感じる今日この頃です。しかし,“知識のみなもと”の図書館は私にとって未だ知らぬものに触れられる最初の場所ですので,今でも入り口に立ちますと心が高鳴ります。
(おおしま・けんいち 数理物質科学研究科教授)
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