筑波大学附属図書館報「つくばね」
特別展「江戸前期の湯島聖堂」を振り返って
守屋 正彦
 それは現在上野公園の西郷隆盛の銅像があるあたりから奥に入った林家の一私塾からはじまった。(図1)幕府の儒官となった林羅山(1583〜1657)の忍岡の自邸に聖堂が建てられ,それが幕府の儒教採用によって,江戸の重要な思想へと開花したのは湯島に移転後のことであり,同地より孔子像を移し,1691(元禄4)年に現在の地,御茶ノ水駅の,神田川を挟む北側に創建された。したがって湯島聖堂と羅山とは時を一つとして語ることはできないが,什宝を移し,私邸の管理を改め,幕府による新聖堂建立となった。その礼拝空間は基本的には忍岡時代の礼拝像を受け継ぎ,改めて整備しなおしたものであった。
 草創期の湯島聖堂は一体どのような礼拝空間,諸像が配祀されていたのであろうか。『昌平志』の聖廟図(図1)では,祭壇上には孔子像と四配の彫刻。背後の壁面に「歴聖大儒像」(図2)が左右それぞれに三幅,計六幅が掛けられている。(図2)またこの図には記されていないが正面壁を除いて入り口に到る左右両壁には「賢儒図像」の扁額16面が掛けられていた。それらは完全なかたちで揃って伝来しておらず,「歴聖大儒像」だけが当時のままを今に伝えている。
 この研究に至った経緯はそもそも2000年に筑波大学からその当時のものと思われる狩野探幽筆「野外奏楽・猿曳図」屏風,狩野尚信筆「渓訪戴・李白観瀑図」屏風が発見され,その披露目となった附属図書館における同年5月に開催した特別展「日本美術の名品」のおりに,図書館所蔵の「歴聖大儒像」6幅,「賢儒図像」14面(2面欠失)の後世の写しをあわせ展示したことにはじまる。そのことが江戸前期に創建された湯島聖堂の初期における礼拝空間を想定する端緒となったのである。
 湯島聖堂にかかわる学術資料はこのような美術資料ばかりでなく,歴史資料では昌平坂学問所日記,同文書などが筑波大学附属図書館に伝来している。その歴史的な背景は筑波大学の前身校が最初に誕生したのが現在の湯島聖堂のある御茶ノ水駅の神田川対岸の地で,並びの東京医科歯科大学にまたがって立地した明治5年設立の師範学校であったことに由来している。湯島聖堂と学問所の遺構は明治2年に「大学」(現東京大学),3年には文部省,4年に博覧会事務局と管理が変わり,そのあとを師範学校が受け継いだのであった。内陣を飾った孔子像をはじめとする諸像,絵画類は明治7年に設立した浅草文庫(現在は国会図書館,東京国立博物館に分蔵)に移管するまで師範学校の管理下に置かれていたようである。しかしながら,そのまま本学の図書館に移されたわけではないことは「歴聖大儒像」の背面に「浅草文庫」印が捺されていることから明らかで,それがあらためて前身校の旧蔵品となったようである。
 この資料の移動については記録がなく明らかでないが,江戸時代以来久しく行われていなかった孔子祭典の行事を,当時高等師範学校長であった嘉納治五郎を筆頭に前身校の教員によって復活したことにはじまるようである。じつは湯島聖堂に伝わる「歴聖大儒像」は揃いで21幅であるが,そのうちの6幅が筑波大学,15幅が東京国立博物館に現存する。その分蔵の意味はきわめて明快で,孔子祭典行事で使用した朱子像をはじめとする宋儒6名の肖像を筑波大学が所有しており,これら6幅が江戸時代を通じてきわめて重要な祭典に用いた画像であった。
 そのため,筑波大学資料は江戸前期の湯島聖堂の礼拝空間を解釈する上ではきわめて重要な現存資料と解釈でき,これを仮説として研究はリサーチアシスタント経費,さらに三菱財団の研究助成によって次第にかたちを整えていくこととなった。それに従い複数の教員・大学院生によって礼拝空間を考察するため,美術理論(守屋)と「賢儒図像」復元を担当した藤田志朗教授(日本画),孔子像をはじめとする肖像の復元を担当した柴田良貴教授(彫塑),CG制作による礼拝空間を復元した木村浩助教授(情報デザイン)ならびにそれぞれの研究室の大学院生による研究組織が構成された。その手始めとして失われた礼拝の諸像のうち,筑波大学所蔵の「賢儒図像」模写本14面を補う2面の復元(図3)が試みられた。湯島聖堂開廟当初に狩野益信が描いた扁額が1703(元禄16)年11月の大地震で焼失。大成殿,学舎が罹災し,翌年に諸堂を再建し,扁額も狩野常信が制作したとの記録がある。このため賢儒の肖像に関する文献及び絵画資料を調査し,その結果,東京国立博物館所蔵の常信筆「賢哲図像」2巻が「賢儒図像」と酷似した肖像であることが明らかとなった。さらに巻末に「浅草文庫」印を確認し,博物館所蔵の巻物が湯島聖堂のおそらく旧蔵資料であることが判明。筑波大学の後世の写しが木枠と思われる縁取りの中に肖像を描いていることから聖堂内陣の扁額を記録したものとし,巻物はその複本として作成されたものと推測され,壁面を完成できる資料を得たのである。(図3)
 さらに孔子及び四配の彫像はそれまでの記録から1923(大正12)年の関東大震災で全焼するまで存続したことがあきらかとなり,伝来の写真資料から,(図4)尾張徳川家の聖廟安置の孔子像が湯島聖堂と同一の作者であることが記録より明らかとなった。本展ではその調査結果を得て孔子像をはじめ5体の聖殿安置の彫刻像(図4)を制作したのであった。
 このことをさらに進め,江戸前期狩野派と将軍家,ならびに林羅山との関係について資料の収集,江戸前期の儒教絵画における狩野派の制作手法について考察を進め,幕藩体制下におけるヒエラルキー生成過程を将軍家,思想家,絵師がどのよう関係したかを推論し,当時の聖堂諸像の復元,さらにはCGによる礼拝空間の復元(図5)を試みるまでに至ったのである。三菱財団の助成による研究蓄積と礼拝空間の仮説は美術史的な研究と復元研究の二つの基盤研究費によってさらなる研究段階に進み,研究途次での成果を公開して学際的なレビューを得る,大学ならではの学術資料による研究のあり方を展覧会としたのであった。展示内容は学問上でオーソライズされる以前の未成熟な状態といっても過言ではないが,研究の過程は三菱財団の報告書ならびに本展のカタログでご覧をいただき,その要点だけを展示用の解説にとどめたのである。(図5)
 会期中にはさまざまな研究交流があり,研究公開の新たなあり方が学外のかたにご理解いただき,また研究企画を提案できたことは大きな成果であった。学術資料を活用した芸術研究組織による研究公開はいよいよ学外でその成果を発揮することとなるが,そのときにはあらためてご案内したいと思う。  さて,展覧会は盛況のうちに閉幕し,公開が21日,入場者は1780人,図書館との共催で,大変有意義な共同企画となったこと,芸術30周年記念事業であったこと,さらに三菱財団,湯島聖堂斯文会の後援もいただいたこともあり,メディアにも大きな反響となり,取上げていただいた。このような研究公開のあり方が,珍しい展覧会,大学が発信する展覧会として興味を持っていただいたのではないかと素直にうれしく感じている。カタログでは研究チームばかりでなく,図書館での学術資料,とくに高精細画像によるビジュアル資料の公開に関して館員の篠塚富士男氏(情報管理課課長補佐)が大学の発信するアーカイブスに言及している。また2000年度の狩野探幽,尚信筆の新出屏風絵が初公開された折にその評価と学問的な意味をご指摘いただいた今井雅晴教授(日本語・日本文化学類長)に芸術研究組織の取り組みと,本研究の意義について,また昌平坂学問所資料の研究を行っている山澤学講師(人文社会科学研究科歴史人類学専攻)に附属図書館に伝来している日記,文書についてご寄稿をいただいた。本展覧会の研究チームを代表してお礼申し上げ,あわせて趣旨をご理解いただき,本展を支えてくれた大学関係者,芸術30周年記念実行委員会,図書館職員,同ボランティア,学生諸君に深甚の謝意を申し上げる次第である。
(もりや・まさひこ 人間総合科学研究科教授)
特別展の様子
記念講演会の様子1
復元制作の様子
 彫塑担当 柴田良貴教授
記念講演会の様子2
会期中に行われた筆者による記念講演会の様子
記念講演会の様子3
ギャラリートークの様子
 CG担当 木村浩助教授
 (写真左から2人目)
記念講演会の様子4
ギャラリートークの様子
 日本画担当 藤田志朗教授(写真中央)
記念講演会の様子5
筆者の説明により復元作品を鑑賞する岩崎学長
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