井上幸信
「研究と図書館資料の使い方」ということで原稿を依頼された。私の研究は生体に含まれる有機化合物に関連した分野で,日常的には,化学の研究者の誰もが世話になる Chemical Abstracts,Beilstein,及び学術雑誌の論文を専ら利用している。いわゆる”掘り出し物”に出会う機会はほとんどないので,ここでは授業の教材を作成する過程で出会った図書館資料について二,三ふれてみたい。
有機化合物が三次元的な形をしていることは,化学の専門家でなくとも周知の事実である。
また,分子には人の右手と左手の関係に似た対掌体と呼ばれる一対の化合物(それ自身は対称面を持たないが実像と虚像の関係にあるもの)が存在していることもよく知られている。
化学では,三次元の分子を二次元の紙に記録する時にいろんな工夫がされているが,その一つが Fischer 投影式である。
しかし,ここに到達するまでには先人の長い努力の道のりがあった。
このような有機化合物の立体化学の発展を授業の教材に取り入れたことがあった。
当時は難しい現象であったものも現代的な視点から見ると理解しやすいと考え,またどのようにして現象の発見や概念が確立してきたかを知ることは研究の進め方にも示唆を与えると考えたからである。
このための基礎資料として化学の発展を年表にすることから始めた。
その時に活用したのが,Aaron J. Ihdeの"Development of Modern Chemistry"(Harper &
amp; Row, New York, 1964)である。
日本語訳が「現代化学史」(三分冊,鎌谷ら共訳,みすず書房 [中央, 医学 430.2-I25] ,1972,73,77)として出版されている。
化学史のまとまった本は意外に少ないが,この本は化学のみならず関連した分野の進展も取り入れながら,人類が化学物質とかかわりあいを持った時代から現代までを,化学の各分野にわたって記述した大変よくまとまっている本である。
原典や伝記などについての豊富な文献が記載されているのも有り難い。
それぞれの原典にあたる時には日本化学会編の「化学の原典」シリーズ(東京大学出版会)も活用した。
分子の三次元的な形に関連した研究で有名なのは Louis Pasteur のそれであるが,それ以前に乳酸に関する先駆的な研究があった。
当時,物理学の分野で旋光能という現象が明らかにされた。
一平面で振動している光を水晶のような物質に通すとその振動平面が回転するという現象である。
筋肉組織から得られた乳酸は旋光能を示したのに対し,発酵した牛乳から得られた発酵乳酸(化学的には乳酸と全く同じもの)は旋光能を示さなかった。
当時はまだ炭素の四面体構造は確立していなかったが,Johannes Wislicenus は”この差異は,分子の異なった空間的配置にだけ原因があるという仮説以外は考えられない”と述べている。
Pasteur は医学者として著名であるが,化学の分野でも重要な貢献をしている。
彼は旋光能を化学に応用するという観点から,ブドウ酒の酒石の成分である酒石酸(acide tartarique)とブドウ酸(acide racemique)から作った各種の塩の結晶と旋光能との関係を研究し,有名な分晶の現象を見いだした。
酒石酸の各種の塩はいずれも非対称な形をした結晶として析出し,それらの結晶は水溶液にしても旋光能を示した。
一方,ブドウ酸の塩のほとんどは対称性の結晶として析出し,旋光能を示さなかった。
しかし,ブドウ酸のナトリウム・アンモニウム塩の結晶化を試みている時に,二種類の鏡像関係にある非対称な形をした結晶が混在して析出する現象に遭遇した。
Pasteur は二種類の結晶を顕微鏡下で選り分けて測定し,それぞれが旋光能を示したばかりか,回転方向が逆であることに気がついた。”結晶の外形の非対称性と分子の非対称性とは密接な関係がある”というPasteur の指摘は,20 年後の J. A. LeBelの「分子中の炭素原子は四面体構造をしている」という提唱(1874)に結びついている。
Pasteurの関心は医学に移ったため,この研究を続けることはなかったが,もし続けていれば四面体構造に行き着くのは時間の問題ではなかったかと思う。
現在,対掌体が半分ずつ混ざっているものをラセミ混合物と呼んでいるが,その語源はブドウ酸の名前に由来している。
三次元的な形の分子を紙面に表すための先駆的な仕事をしたのが Emil Fischer である。
Fischer はグルコースの立体化学について研究し、先に述べた対称面を持たない分子は旋光能を示すということを最大限に利用してグルコースの四つの不斉炭素の立体配置を決定した。最初は不斉炭素のところの立体配置を van't Hoff の表現法に従って+と−の記号で表していたが,この方法では複雑な分子の場合には混乱を生ずるとして,現在 Fischer 投影式と呼ばれる表現法に到達した。
原論文は別図のようにドイツの化学会誌(Berichte der Deutschen Chemischen Gesellschaft, 1891) に発表されている。
これを見ると,当時はゴムの模型を使っていたことが伺えるが,模型を組んで炭素についている H と OH が紙面の上に向くように分子を置くことが示されている。
なお,グルコースを酸化して得られるグルコ糖酸はIかII(対掌体)で表されることになったが,当時はこれらを区別する方法が無かったため, Fischerは便宜的にIと定めた。
この選択は,60 年後になって J. M. Bijvoet(1951)によって偶然にも正しかったことが証明された。
もう一冊授業の教材に使ったものに,R. M. Roberts 著, 安藤喬志訳「セレンディピティー;思いがけない発見発明のドラマ」[中央 402-R52] がある。
どのような偶然性が化学の発展に寄与したかについて代表的な逸話を集めたもので,研究
者にとっても示唆に富む点が多い。
先に述べたPasteur の酒石酸塩の研究に際しても,ブドウ酸塩のうちナトリウム・アンモニウム塩のみが分晶の現象を示したことや結晶化の温度(27 度以下でないと分晶しない)が重要であったことが紹介されている。
「観察の場では,幸運は待ち構える心にだけ味方するものである。」(Pasteur の言葉)
「セレンディピティー」で思いだすのは, 筑波大学に赴任した当初,アミノ酸の合成試薬としてある化合物を開発した時のことである。
この物質は結晶状態では一つの形に固定しているのに対し,溶液にすると二つの形をした平衡混合物へ速やかに移行する性質を持っていることが明らかになった。
このきっかけになったのが,学生が試料を時間を置いて二度測定したことであった。
これによって混合物の割合が変化することに気が付いたのである。
本学の図書館には化学関係の主要な学術雑誌はほぼ揃っているので,古い学術論文の内容を直接その場で目にすることができる。 欠号などでない時には,研究学園都市に位置している利点を生かして物質工学工業技術研究所や蚕糸・昆虫農業技術研究所の図書室を利用している。 雑誌の配架で問題なのは三ケ所に分かれていることで,利用者の便宜を考えると一ケ所にまとめてある方が有り難い。 単行本類はあまり利用しないが,配架されているものに系統性が必ずしもないことが気にかかる。 可能であれば,一度専門家(教官)の手を煩わして,教科書やデータブック類は最新のものに,また歴史的に由緒ある本などを精査して揃えられればもっと使いやすいものになるのではないかと常々感じている。
(いのうえ・よしのぶ 化学系助教授)