Readingバトン(和田洋 生命環境系教授)

2015年11月11日
Readingバトン -教員から筑波大生へのmessage-
寺門先生に続く第23走者として、和田洋 生命環境系教授から寄稿いただきました。

 

 

Pick Up
『マインド・タイム : 脳と意識の時間』ベンジャミン・リベット 著 下條信輔 訳. 岩波書店, 2005.7【491.371-L61】

Book Review
 シュレーディンガーの最後の砦への挑戦

自分が「生きている」ということを実感していない人は少ないだろう。毎朝起きるたびに、「今日も生きている」と喜べることは(年齢のせいか)減ってきているにせよ、「生きていること」の裏返しとしての「死への恐怖」というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるのではないか。
 評者は生物学類で進化生物学を教えている。生物学は、文字通り生物を研究する学問である。にもかかわらず、生物学者は、未だに「生物とは何か」という、シュレーディンガーの掲げた問題に明確な答えを出すことができていない。我々の感覚の中に深く根ざしている「生きている」という実感を、未だに言葉に写し取ることができていない。シュレーディンガーの「生命とは何か(岩波新書)」以来、さまざまな定義が試みられてきたが(モノー「偶然と必然」みすず書房、福岡伸一「生物と非生物のあいだ」講談社現代新書など参照)、分子生物学の進展により、生命と非生命の境界は、どんどん薄れていっているように思われる。我々が生物学として教えている内容は、生命現象も、分子と分子の相互作用できちんと説明できる、つまり化学的、物理学的現象の延長として理解できるのですよ、ということばかりだ。生物学は、むしろ「生きている」ということと生きていないことに本質的な違いはないと説くかのようだ。
 しつこいようだが、私には「1個体」として、生を全うしているという実感がある。しかし、物理学的、化学的には、この「1個体」という単位すらあやしくなる。我々の体を構成する細胞の多くは日々置き換わっている。臓器によって置き換わるタイムスパンは異なり、例えば脳の神経細胞などはほとんど置き換わらない。しかし、神経細胞を構成しているタンパク質などは常に置き換わっている。生物の「1個体」としての連続性は、物理学的、化学的にはどう担保されているのだろう。おそらく、ハードではなくソフトなのでしょう。そう、「1個体」としての生の連続性は、我々の意識にしかないのかもしれない。
 物理学的、化学的には説明できていない生命現象として、最後の砦の一つは、この意識だ(評者は進化の歴史の創造性ももう一つの砦だと思っている)。しかし、もちろん意識もアンタッチャブルではない。リベットによる「マインド・タイム」は、この砦も崩されつつあることをひしひしと感じさせてくれる。無意識に始まる脳の活動が、意識に捕らえられ「気づき」に至るまでには時間の遅れがあることが綿密な実験によって示される。この遅れに潜む脳の活動こそが意識の物理学的、化学的な基盤になるのか。「意識はいつ生まれるのか」亜紀書房などの類書とともに読み進めると、「生きている」ことの最後の砦の一つにも小さな穴が開きつつあることに気づくだろう。意識が解体されたとき、我々はどのような生命観をもつのだろう。

■次は、徳永幸彦先生(生命環境系准教授)です。