>2014-11-25(18:01:42)
グーテンベルク聖書について すでに好評のうちに会期を終えてしまいましたが、展示番号4番のグーテンベルグ聖書について少し触れたいと思います。 |
2014-11-21(10:27:33)
特別講演会の動画を公開しました! 11月9日(日)に行われた、人文社会系教授 谷口孝介先生による特別講演会「図書館を飛び出した書物たち~複製本の用い方~」の動画をYoutubeのサイトにアップしました。以下のリンクからご覧ください。 |
2014-11-21(09:00:00)
『絵本拾遺信長記』と絵草紙取締 展示番号10番の『絵本拾遺信長記』(えほんしゅういしんちょうき)は、前編13編・後編10編あわせて23冊から成る大部の書物ですが、後編巻之10(最終巻)の奥付には「文化元年甲子四月 浪華書林 譽田屋伊右衛門 播磨屋五兵衛 和泉屋源七」と記されており、文化元(1804)年4月に浪華(大坂)の版元によって出版が完了したことがわかります。しかし、図録には、文化元年の絵草紙取締によって版木および版本が没収される処分を受けた、と解説されていますので、出版されたまさにその年に処分を受けたことになり、その経緯などに興味を引かれます。 外骨はこれに続いて『大阪書籍商旧記類纂』から「本屋行事より奉行所に出せし上書」を引用していますが、その内容は大略以下のとおりです。 ・絵本拾遺信長記は、寛政12(1800)年に出版願いをし、同13年に聞き届けられた ・そこで順次摺立て売買もしていたが、このたび江戸表において、この本の売捌きが差留められ本もお取上(没収)になった ・この本の「元板」も絶版を仰せ付けられたので、印刷済みの本79冊と版木150枚をお取上げとし、今後この本は出版してはいけないし、これまでに売った本も販売先がわかれば回収して差し出すように、との仰せ渡しを確かに承った この処分について外骨は「一旦許可せしものを、其出版後に至りて直ちに絶版を命じるとは、御無理不尤の至極にして書肆の損害も亦少からざりしなるべし」と怒っています。 なお、ここで「元板」と言っているのは、『絵本拾遺信長記』が大坂の版元から出版されたので版木が大坂にあったためであり、「元板」=版木を大坂の奉行所に提出するよう命じているものです。 ではこの状況を、版元(本屋)側の記録によってもう少し見ていきましょう。具体的には『出勤帳』(『大坂本屋仲間記録』第二巻所収、大阪府立中之島図書館、1976年)から、『絵本拾遺信長記』について書かれた部分を適宜抜き出し、簡単にその内容をまとめて時系列順に並べてみます。 <文化元年> これによると、『絵本拾遺信長記』は文化元年4月16日に販売許可がおりましたが、5月17日に出された絵草紙取締の触を受け、大坂では9月15日に版木・本ともに差し出すよう命じられています。これはすなわち絶版・回収処分ということですが、これに引き続き、信長軍記の類書の調査や、15冊で許可がおりていたものを勝手に23冊にかえて売りひろめていることへの厳重注意がありました。 ここで冊数の変更の問題が取り上げられていますが、『開板御願書扣』(『大坂本屋仲間記録』第十七巻所収、大阪府立中之島図書館、1992年)によれば、寛政12(1800)年9月に「作者秋里仁左衛門 開板人譽田屋伊右衛門」による『絵本拾遺信長記』全部15冊の開板願が出され、享和元(1801)年3月14日付けでこの願いどおりの形で東町奉行所の許可がおりていますので、23冊本が流通しているのは不届きである、ということになります(なお、付言すれば、作者も出願時の秋里仁左衛門=秋里籬島ではありません)。 また、文化5年に至って、北海異談の絶版問題から再び『絵本拾遺信長記』の回収が行われています。このとき、『絵本太閤記』もあわせて回収されていますが、『絵本太閤記』も『絵本拾遺信長記』同様、文化元年の絵草紙取締によって絶版になったものです。しかし、この時点で再びこれらの回収が命ぜられているのは、これらが引き続き流通していたことの表れとも考えられます。特に『絵本太閤記』については、「普く海内に流布」(『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」より)していたといわれることや、『○○太閤記』といった書名の本がたくさん出版されていたこともあり、根強い人気があったものと思われます。 なお、『筆禍史』には、天保8(1837)年に出版された『御代の若餅』と題する一枚絵は、家康を風刺した図柄であったのでたちまち絶版になったばかりか、文化元年の禁令をも犯したとして、これを描いた絵師歌川芳虎と版元は手鎖五十日の刑に処せられ、版木も焼き捨てられたと記されており、文化元年の絵草紙取締がその後も適用されたことを示しています。 以上のように、『絵本拾遺信長記』は出版後わずか5ヶ月ほどで版木・印刷本ともに没収になりました。このような事情から、前後編23冊本完揃いの残存数は多くないものと思われますが、その中にあって今回展示されているような非常に状態のいいものはさらに少なく、その意味でも本書は大変貴重なものといえるでしょう。(篠塚 富士男) |
comments[2014-11-21/篠塚富士男]
この記事を書いた篠塚です。 |
2014-11-20(15:24:51)
ギャラリートーク動画 その2 11月2日に行われた山澤学先生によるギャラリートークの後半の動画をアップしました。 そして、この動画を見て現物が見たくなった方は後1日しかありません!ぜひ中央図書館へ足を運んで本物をご覧ください。写真とは質感が違いますよ。 ※ちなみに前半の動画はこちら。 「図書館を飛び出した書物たち」ギャラリートーク1 http://youtu.be/Y4RPQ6R5yOg |
2014-11-18(16:52:33)
『神皇正統記』起稿の地に行ってみた 展示番号3番『神皇正統記』は、14世紀(約670年前)に筑波山の麓であるつくば市小田で起筆されました。南北朝時代の頃といえば、歴史好きの方には足利尊氏や楠正成、お髭の後醍醐天皇の肖像が思い浮かばれるでしょうか。 「小田城跡」看板の右側に見えるのは、筑波山です。城跡全体はあまり大きく感じられず、お堀もそんなに深くないように見えます。周辺は田んぼに囲まれ、バッタやトンボがたくさんいて、とてものどかな雰囲気でした。この静かな地で、都人だった親房はどんな想いで過ごしたのでしょうか。 私たちの一番のお目当てだった「神皇正統記起稿之地」と書かれた石碑は、遺跡整備工事のために移動されていて見当たりませんでしたが、小高い丘のようになっている本丸跡には2メートル超えの大きな石碑が堂々と建っていました。 ちなみに、本丸跡のすぐそばにサイクリング道路「つくばりんりんロード」が通っていて、かっこいい自転車に乗っている人たちをたくさん見ました。周辺は民家が多く、自動車だとナビシステムがあってもちょっと迷うかもしれないので、興味&体力のある方は自転車で訪れるのもおススメです。 企画展で『神皇正統記』をじっくり見た後に、その起稿の地を訪れて歴史のロマンに思いをはせるのもいいかもしれませんね。 |
2014-11-17(11:57:30)
『女歌仙新抄』、忘れられていた稀本 展示番号24番の『女歌仙新抄』(おんなかせんしんしょう)は、浮世絵の祖ともいわれる菱川師宣の画がふんだんに楽しめる本です。女流歌人の歌仙絵とともに、注釈と歌の意味を表した絵を付しているところが、鎌倉時代からの伝統を踏まえながらも、江戸時代の雰囲気が感じられるところです。 当館本は刊記(今の本でいう奥付)がないため、OPAC(蔵書目録)で「出版年不明」とされていたのですが、天理本の刊記から天和2 (1682)年と推定することができました。 ところで、この本は東京教育大学時代まで使っていた旧分類(ル218-17)の本ですが、昭和9(1934)年発行の前身校目録『東京文理科大学附属図書館和漢書分類目録』にはありませんので、それ以降に蔵書になったものです。 「図書原簿」という事務用の図書管理簿が残っているはずですので、倉庫に行って探してみたところありました! 下から4行目です(「208164」という前身校の登録番号が本自体に記入してあり、この番号で探せます)。 ここには、「天和二年 江戸板」とも書かれています。購入先の古書店からの情報でしょうか? 江戸版とすれば、天理本の刊記に「山形屋」とともにある山形の商標の一部が、江戸通油町にあった山形屋市郎右衛門のものと似ている感じです。今回は確証がないため出版地の推定を見送りましたが、専門の方にご判断いただきたいところです。(oz) |
2014-11-14(11:40:30)
iPadで図録を見てみました 企画展の図録は展示会場で無料配布していますが、電子展示のページからもWeb版(pdf)を公開しています。 iBookで開いた図録はこんな感じ。 紙の図録に比べて画面サイズが小さいので、ちょっと読みづらいかもしれません。 だがしかし、ピンチインで画像を拡大すると、写真の文字まではっきり読めるんです。動作も軽いですから自由自在にページを移動できます。タブレットならではの使いかたですね。 ちなみに、図録掲載写真は高精細画像を除いて、職員が撮影・加工しています。それなりに見やすい画像になっていると自負していますが、拡大してあらが見えてもご容赦ください。 また、地図などの大判資料は拡大しても細かい字までは読めないかもしれません。電子展示のページから所蔵を検索して高精細画像でご覧ください。 今回一番大きな地図の高精細画像はこちら「弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之圖」。 とはいえ写真は写真。加工も専門家がやっているわけではなく、図録できれいに見えることを優先したので、紙の黄ばみ具合や墨の色合い、よごれ等は正確に再現されていませんし、紙の質感や筆遣いなど実物の迫力は別物です。是非、会場でご覧ください。 やっぱり紙の図録じゃなきゃという方もどうぞお越しください。図録は無料配布です。 |
2014-11-12(10:40:47)
ギャラリートーク動画 その1 お待たせしました! |
2014-11-10(16:14:04)
『清少納言』と『土左日記』 今回の展示の「第1部 いつかどこかで見た書物」は、教科書にもとりあげられているよく知られた書物を中心に展示していますので、ご観覧の皆さんも文字通り「いつかどこかで」見たことのあるものが多いことと思います。 「清少納言って、枕草子の作者だったはずだけど、なぜこれが書名になってるの?」と疑問に思われた方はいませんか? 展示されている本の冒頭には、何も書名らしいものは見当たらず、いきなり本文が始まっていますが、図録に掲載されている表紙の写真を見ると、「清少納言 一」と書かれた紙(題簽・だいせん)が貼られていることがわかります。この題簽は「書き題簽」、すなわち筆で書かれたものなのですが、この本は当館では貴重書に指定されているので、OPACで検索すると電子化画像があることを示すアイコンがあり、そこからカラーのデジタル画像を見ることができます。この画像によって各冊の巻末を見ると、たとえば「清少納言 一」の巻末には「清少納言巻一終」と刷られており、『清少納言』が書名として扱われていることがわかります。 『源氏物語』をはじめ、日本の古典には、もともとどういう書名だったのか明らかではないものがたくさんありますが、『枕草子』についても書名の表記が異なるものがあります。田中重太郎は『枕冊子』(日本古典全書、朝日新聞社、第24刷1973年)の「解説」で、「清少納言枕冊子は古来つぎのやうに呼ばれてゐる」として、「清少納言枕草子」「清少納言草子」「清少納言記」など9種類の呼称をあげていますが、この中に「清少納言」と「枕草子」もあがっています。そして田中自身は「原義に即してもつとも正しいと考へられる」『枕冊子』を書名として採用しています。 また『枕草子 紫式部日記』(日本古典文学大系、岩波書店、1958年)の解説でも書名の問題に触れられていますが、「古写本についてみると、その外題においても、内題においても、雅嘉のいうが如く「清少納言」と称した称呼をもつものは、ほとんどない。江戸時代も中期に下った、所謂慶安版本に「清少納言」とあるのみである」と書かれています。しかし、今回参考展示した古活字本『清少納言』は、寛永年間(1624-44)の出版と推定されており、慶安年間(1648-52)よりも前の時代のものですが、先に述べたように巻末に「清少納言巻○終」の記述があるのは興味深いところです。 この問題はかなり専門的な話となりますので、ここではこれ以上は立ち入りませんが、『枕草子』には『清少納言』という書名で出版されたものもある、ということを確認しておきたいと思います。 二つ目は展示番号7番の『土左日記』です。 これも『土左じゃなくて土佐じゃないの?』と疑問に思われた方もいるかもしれませんね。これに付随して「参考」としてあがっている万治刊本は『土佐日記』という書名になっているので、余計に不思議(不審?)に思われた方もいるでしょう。 これについて鈴木知太郎は、『土左日記』(岩波文庫、岩波書店、1979年)の「解説」で書名について以下のように記述していますので、少し長くなりますが引用してみましょう。 「今日一般には「土佐日記」と書かれるが、前田家蔵本(藤原定家自筆本)・青谿書屋旧 蔵本・(略)・三条西家旧蔵本等、信ずべき古写本の外題や奥書には、いずれも「土左日記」とあるので、古くは「土左」の文字があてられていたものと思われる。この書名は作者たる紀貫之がみずから名づけたものか否かは明らかではないが、前田家蔵本に付せられた定家自筆の奥書に「紀氏自筆本」の体裁を記した部分があり、そのなかに、「有外題 土左日記 貫之筆」とあるのを信ずれば、「土左日記」という書名は貫之自身の名づけるところで、しかも「紀氏自筆本」には、自筆で、「土左日記」と外題が記されていたということになろう。」 岩波文庫が書名として「土左」を採用したのは、このような理由があったからですが、展示番号7番の『土左日記』は、まさにこの解説に出てくる前田家蔵本(藤原定家自筆本)の複製本ですので、我々の展示でも「土左」を採用しています。 日本の古典籍の書名の確定は、それ自体が研究の対象になるような重要な問題ですが、今回の展示のような、原本あるいは原本そのままに複製された複製本を見ることができる機会があれば、一見単純に見える書名にもいろいろな話題があることを思い起こしていただければ幸いです。 (篠塚 富士男) |
2014-11-09(16:00:00)
特別講演会「図書館を飛び出した書物たち~複製本の用い方~」 本日は企画展の目玉企画のひとつ、特別講演会が開催されました。 『御堂関白記』に用いられた暦の話や道長の書き込みのこと、『管家伝』の複製本を刊行した尊経閣叢刊の話、『土左日記』に見る藤原定家の筆遣いや紀貫之自筆本の臨模の話など、次々に読み解かれていくお話に来場した皆さんの知的好奇心が大いに刺激されたのではないかと思います。 講演の後は展示室に移動してのギャラリートーク、ここでも展示資料を見ながら皆さん熱心にお話を聴いており、終了後もいろいろと質問が続きました。 講演会の様子は後日YouTubeでご覧いただける予定です。 |
2014-11-05(16:39:34)
学長&副学長来訪 本日、永田学長と5名の副学長に企画展をご観覧いただきました。 今回展示している『土左日記』は、あの有名な冒頭「をとこもすなる日記といふものを・・・」とは異なり、「をとこもすといふ日記というものを・・・」で始まるのですが、永田学長はその違いにすぐお気づきになっていました。さすがです・・・! 谷口先生、ご説明ありがとうございました。 「ずっとここに居たい」と学長がおっしゃるほど心地の良い空間の企画展は、11/21(金)まで開催しております。 また、11/9(日)13:30から中央図書館集会室にて谷口先生の講演会も予定しております。 一度企画展に来られた方も、まだの方も、ぜひ足を運んでみてください! |
2014-11-04(14:56:12)
ご来場者アンケートから 企画展もいよいよ中盤、折り返し地点にやってきました。ご来場者の皆さまからいただいたアンケートをいくつかご紹介します。 |
2014-11-02(15:55:32)
ギャラリートーク開催 本日は、人文社会系准教授の山澤学先生によりギャラリートークでした。 なお、このギャラリートークの様子は、後日公開する予定です。お楽しみに! |