筑波大学附属図書館展示Blog  2013年11月
筑波大学附属図書館で開催している特別展・企画展のスタッフブログを復元したものです。
※展示当時の情報を尊重し、参照リンク先URLやコメント等は基本的に当時のまま掲載しております。

11月22日(金)の午後5時をもって、本年度の特別展「知の開拓者(パイオニア)たち」の会期を終了させていただきました。
 筑波大学開学40+101周年記念もかねての展示となり、学内のみならず遠方からいらした方にも大勢ご来場いただきまして誠にありがとうございました。
 昨日25日(月)は会場となった貴重書展示室の片づけに入り、展示していた貴重書やパネルなどを取り外しました。
 29日(金)まで同室は閉室となり、12月2日(月)以降に常設展示を皆様にご覧いただけるよう整えてまいりますので、今しばらくお待ちください。
 また、会期中に開催されたギャラリートークや講演会を動画で撮影しており、こちらは今後WEB上にアップする予定です。ぜひご注目ください。

山澤先生から「開拓者よもやま話」の第10講をいただきました。図録の第1講から書き継いでいただいた「開拓者よもやま話」もこれにて最終となります。
※第6講までの内容は、本展の図録でお読みいただけます。
※第7講「『桐の葉』いろいろ」はこちらをご覧ください。
※第8講「『教育に関する勅語』のゆくえ」はこちらをご覧ください
※第9講「校友の愛唱歌」はこちらをご覧ください

開拓者よもやま話 第10講 「知の開拓者」の顕彰 
 本特別展では、図書資料を通じ、昭和24(1949)年以前に前身校で活躍した「知の開拓者」による学問のあり方を検証しながら、現代の私たちの学問・科学のあり方を見つめ直してきました。展示および図録では、多くの参考資料も図版によって紹介しましたが、前身校の卒業生に好評を博し、また在校生の関心を引いた資料に、銅像や石碑がありました。今回は、いわば「知の開拓者」を顕彰するために建てられた銅像や構内の石碑について、図録・展示では未紹介のものも含めて紹介することにします。<> 筑波キャンパスの少なからぬ銅像のうち、「知の開拓者たち」を象ったものとして、大学会館前の「嘉納治五郎先生之像」と体育センター前の「坪井玄道先生之像」の2つをあげなければなりません。

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 「嘉納治五郎先生之像」(写真左)は、高等師範学校・東京高等師範学校の校長であった嘉納治五郎の生誕150年を記念し、平成22(2010)年12月10日に除幕されました。
 「坪井玄道先生之像」(写真右)は、東京師範学校・体操伝習所教諭、高等師範学校教授を歴任した坪井玄道を顕彰し、昭和52(1977)年に除幕された像です。坪井玄道については、像の前に平成18(2006)年に萩原武久体育センター長によって解説が付されており、また、筆者も『つくばスチューデンツ』601号(2008年)p.10で紹介したことがあります。その生誕地である千葉県市川市の市立市川歴史博物館では、常設展で取り上げられています。

 これらの像の原型は、かつて本学東京キャンパス(東京都文京区大塚3丁目)の地に建てられていたものです。
 坪井玄道の像は、大正11(1922)年に建設を計画され、昭和8(1933)年4月22日に東京文理科大学玄関正面で除幕されました。畑正吉が製作したものです。その除幕式にさいし文部大臣鳩山一郎から寄せられた祝辞では、彼を「本邦体育の権威者、学校体育の創始者」と顕彰しています(『教育』604号、1933年、p.1)。
 翌9年11月11日には、その脇に三宅米吉の銅像も建てられました。三宅は、当特別展で紹介しましたように、前身校における図書館長の先駆けで、かつ東京文理科大学初代学長でした。同大学が昭和4(1929)年に発足して間もなく急逝した三宅を悼む人々は、同8年5月に東京高等師範学校教授峯岸米造を委員長とする故三宅米吉博士記念銅像建設委員会を発足させ、北村西望の制作、比田井天来の書による像を建立させたのです(『史潮』8号、1933年、p.215。同11号、1934年、p.162)。三宅の像は、昭和13(1938)年の東京文理科大学卒業アルバムである『卒業記念』では、次にあげる東洋史学教室の記念写真に見ることができます。この写真には、前方1列目左から酒井忠夫(東京高等師範学校嘱託。本学名誉教授)、有高巌(教授)、中山久四郎(教授)、山崎宏(東京高等師範学校講師)、左上枠内に小島(濱)渡(助手)が並んでいます。なお、中山久四郎は、本学附属図書館の中山文庫の旧所蔵者です。

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 そして、昭和10(1935)年7月ごろには、翌年に喜寿を迎える嘉納治五郎を記念する寿像(生存中の肖像)を坪井玄道の像の前方に建立することが計画され、嘉納治五郎先生教育功労記念会が発足しました。朝倉文夫製作の像が鋳造され、昭和11(1936)年11月28日に除幕されました(嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』、講道館、1964年)。
 しかし、これらの銅像3体はアジア・太平洋戦争中に供出の憂き目に遭い、御影石の台座は土中に埋められてしまいました。坪井玄道の像については、供出前に石膏型がとられて保存されたと言い、これが東京教育大学体育学部の体育教官室を経て本学体育センターに継承されました。本学開学後にこの型を用いて再建された像が前述の「坪井玄道先生之像」です(浅田隆夫「坪井玄道―日本体育の礎石築く―の銅像再建について」『筑波大学新聞』17号、1977年、p.2)。

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 嘉納治五郎の像については、没後20年目の昭和33(1958)年11月14日に、大塚のキャンパス内にある庭園占春園内に、写真のように再建、除幕されました。朝倉文夫が製作した銅像の原型が残されており、それを用いての再建でした。翌々35年10月29日には、生誕100年を記念し、同じ原型を用いた像が嘉納ゆかりの講道館本館前にも建設、除幕されました(前掲『嘉納治五郎』)。本学大学会館前の像も、東京都台東区立朝倉彫塑館の監修のもと、岡宮慶昇氏により、これらと同じ原型を使用し、鋳造された像です。嘉納を敬愛した幸田文は、この像の周囲に小鳥が集まることを願い、実のなる木を植樹したそうです。

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 三宅米吉の像も、没後30年を記念し、三宅米吉先生追憶の会によって昭和34(1959)年11月15日、占春園に隣接する東京教育大学附属小学校(現 筑波大学附属小学校)内に再建されました(写真左、木代修一氏収集日本文化史関連資料)。その台座には「三宅米吉先生」と刻まれ、裏側には銘板(写真右)が設けられていますが、これらは東京文理科大学附属図書館2代館長であった同大学名誉教授諸橋轍次の書です。この銅像は、東京教育大学教育学部芸術学科の教授木村珪二が製作し、最初の像よりも若い容姿となりました。
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 なお、木村珪二はこのほか、東京教育大学本館跡に建つ文京校舎前の「若竹」の像(昭和38(196)年6月設置、写真左)、東京教育大学学長室から筑波大学附属小学校校長室に移管された「朝永振一郎先生」胸像(写真右)を製作しています。後者は、昭和41(1966)年1月29日に東京教育大学から朝永自身へ贈られた像と伝えられています。
 これらの「知の開拓者」顕彰の歴史もまた、興味深いものです。

 次に、本学東京キャンパスに残る江戸時代の石碑について紹介します。ここは、湯島の地(現 国立大学法人東京医科歯科大学)から明治36(1903)年に東京高等師範学校が移転して以来の校地です。湯島の地で明治20(1887)年3月に完成した煉瓦造りの校舎の写真(同23年(1890)に、建設中のニコライ堂の足場から撮影されたと言われる。高等師範学校は写真中央)や、大塚最初の校舎を描く鳥瞰図“Bird's Eye View of the Tokio Higher Normal School.(『東京高等師範学校一覧』自明治36年4月至明治37年3月、1903年)”を示しましょう。
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 この校地は、万治2年(1659)に水戸藩主徳川家の分家である松平頼元(徳川光圀の弟)に与えられた上屋敷(通称は吹上邸)の跡地でした。頼元の子頼貞は、陸奥国田村郡守山(現 福島県郡山市)に2万石の領知を与えられました(守山藩)。屋敷の位置は、嘉永7(1854)年の尾張屋版江戸切絵図の1舗である「東都小石川絵図」にも、八角形の三つ葉葵紋を添えて示されています。その上屋敷内に建立された「旧守山藩邸碑文」の写真を図録・展示で取り上げました。

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 守山藩上屋敷内の庭園は、現在も東京キャンパス内に残されており、占春園と呼ばれています(写真左)。既述した嘉納治五郎像が建つ占春園です。占春園は、青山の池田邸、溜池の黒田邸とともに江戸の三名園に数えられたといいます。園内にある「占春園碑」(写真右)は、延享3年(1746)3月に建てられたものです。その碑文は、3代藩主松平頼寛に命じられた藩士岡田宜汎が撰び、宇留野震が揮毫しました。恭公(頼元)から頼貞(荘公)、そして頼寛(我公)に至る松平家3代が愛でた占春園を賞讃するもので、桜をはじめとして四季の美をそなえ、野鳥が集まるようすが詠み込まれています。
 その扁額には、「占春園碑」とあったと見られます。本文は、碑自体に破損があり、また摩滅も甚だしいのですが、東京教育大学名誉教授鎌田正が『東京市史稿』遊園篇第1(東京市役所、1929年)pp.363-365を基にし、次のように紹介しています(「占春園の碑」、『桐葉』61号、1977年、p.2)。

(原文)
 我公之園、名占春。其中所観、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景、莫不有焉。而名以占春者何也。園旧有古桜樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之寿。我公称觴、顧命臣宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。子為余書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜。
時延享丙寅春三月               岡田宜汎捧撰
                       宇留野震謹書
(訓読文)
我が公の園は、占春と名づく。其の中、観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景、有らざるは莫し。而して名づくるに占春を以てする者は何ぞや。園は旧古桜樹有り、蔽芾たる数丈。春花愛す可く、夏蔭憩ふ可し。先君恭公の少壮なりしとき、馬を馳せ剣を試み、毎に靶を此の樹に繋ぎて憩へり。因りて名づけて駒繋といへり。荘公の幼なるに至るまで、猶ほ之を視るに及ぶ。是に於て暮年まで、花下に宴を開き、子弟を会する毎に、必ず樹を指して称慕せりといふ。
 我が公追慕眷恋いし、心を留むる所に専らにし、遂に此の樹を繞り、桜数百株を増植し、花時に賓友を会し、瑟を鼓し笙を吹き、式て燕し以て敖び、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維れ旅ね、羽觴算無し。豈に啻だに四美具はるのみならんや。物其れ多く、維れ其れ嘉なり。偕に既酔の章を謡ひ、且つ南山の寿を献ず。
 我が公觴を称げ、顧みて臣宜汎に命じて曰く、是の瞻匪も亦為す所。後世子孫、徒らに游楽の場と為すを是れ懼る。子、余が為に石に書せと。宜汎捧じて稽首して曰く、桑梓敬する有り、燕胥して危きを思ふ。美を誦して辞有り、信を陳べて愧づる無し。謹みて斯の石に寿ぐ。万有千載、本支百世、永く景福の賜を承けんことをと。

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 もう一つの碑は、東京キャンパス文京校舎の前に立つ石碑で、一名に「木斛の碑」と呼ばれるといいます。これは、水戸藩主徳川斉修(号は天然子)の撰んだ文を記しています。
 斉修は、文政10(1827)年の冬に礫川邸(礫川=小石川の水戸藩上屋敷)で火災に遭いました。幕府の命によって、夫人峰姫(11代将軍徳川家斉の娘)とともに守山藩主松平頼慎の吹上邸(上屋敷)に身を寄せました。屋敷内には山水の勝景が多く、庭園の東には梅林がありました。翌11年春に、その梅林へ行って梅花を賞でると、前年の憂鬱を忘れられたとのこと。それで七言律詩を詠んだといいます。したがって、この碑は文政11年に建てられたものと推定されています。
 この碑文も摩滅が甚だしいため、本学名誉教授中村俊也の解説「旧守山藩邸内碑文」(『桐葉』60号、pp.2-4、1976年)から、その原文および訓読文を引用したいと思います。

(原文)
丁亥之冬、礫川邸罹災。以幕府之命、与夫人峰姫遷居於守山侯吹上邸。々中多山水之勝。園之東有梅林。明年、春、遊于林中賞花、頗忘旧歳之憂。因賦一律、以攄幽懐云。
  吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空
  落英渓畔千林雪 斜月楼頭一笛風
  疎影婆娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
  人間何処無春色 春色須従此地融
                     天然子
(訓読文)
丁亥の冬、礫川邸災に罹る。幕府の命を以て、夫人峰姫と居を守山侯の吹上邸に遷す。々(=邸)中山水の勝多し。園の東に梅林有り。明年、春、林中に遊びて、花を賞で、頗ぶる旧歳の憂ひを忘る。因って一律を賦し、以て幽懐を攄ぶと云ふ。
  吹上邸中山苑の東
  幾株の梅樹遠く空に連なる
  落英渓畔千林の雪
  斜月楼頭一笛の風
  疎影婆娑として舞鶴を留め
  清香馥郁として詩翁を伴なふ
  人間何れの処にか春色無からん
  春色は須らく此の地従り融らぐべし

 なお、七言律詩中の「落英」は占春園中の池(落英池)、「舞鶴」は落英池の中の島にあった建物(舞鶴亭)です。
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 占春園の入口には、第8講で触れた昭和6(1931)年の昭和天皇行幸の記念碑があります。全文を以下に紹介します。

(扁額)
行幸記念碑
(本文)
昭和六年十月三十日、東京高等師範学校創立六十年記念式ヲ挙グルニ当リ、畏クモ天皇陛下ニハ記念式式場並ニ東京文理科大学及東京高等師範学校ニ行幸アラセラレ、特ニ文部大臣ヲ御前ニ召シ、教育ノ任ニアルモノニ対シテ優渥ナル勅語ヲ下シ給フ
  健全ナル国民ノ養成ハ一ニ師表タルモノノ特化ニ竢ツ、
  事ニ教育ニ従フモノ其レ奮励努力セヨ
聖慮深遠、真ニ恐懼感激ニ堪ヘズ、曩ニ明治天皇再度行幸アラセラレ、次テ大正天皇東宮ニ在シシ時、御名代トシテ行啓アリ、今又此ノ光栄ニ浴ス、吾等謹ミテ聖旨ヲ体シ、夙夜ニ淬礪シテ学ニ勉メ、徳ヲ磨キ、各其ノ本分ヲ完ウシ、以テ皇恩ノ万一ニ酬イ奉ラムコトヲ期ス、茲ニ東京文理科大学及東京高等師範学校教職員・卒業者・学生・生徒・児童等相謀リ、之ヲ碑石ニ勒シテ、永ク後世ニ伝フ
昭和七年十月三十日
(裏面)
  宮内大臣一木喜徳郎 題字
  東京文理科大学長
  東京高等師範学校長 大瀬甚太郎撰文
    東京高等師範学校講師田代其次書

 このほか図録・展示で紹介できなかった、前身校にかかわる2つの石碑を最後に取り上げたいと思います。
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 東京都目黒区駒場2丁目の目黒区立駒場野公園(昭和61(1986)年開園)は、東京教育大学農学部の跡地です。京王井の頭線の線路側から入園すると、左手にケルネル田圃と呼ばれる谷津田があります(写真左)。これは明治初年の駒場農学校の実験用の農場跡で、日本近代農学発祥の地です。この田圃は東京帝国大学農科大学(後に農学部)に引き継がれ、昭和12(1937)年にその附属農業教員養成所が東京教育大学農学部の前身である東京農業教育専門学校に改組され、開校すると、その構内となりました。田圃の傍らに建つ「水田の碑」(写真右)は、これらの経緯を記念し、駒場野公園開園から間もない昭和62(1987)年10月に、本学附属駒場中・高等学校によって建てられました。ケルネル田圃は、今も同校の教育に活用される現役の耕地です。

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 また、筑波キャンパス春日地区には、平成16(2004)年3月に閉学した図書館情報大学を記念する「図書館情報大学記念碑」があります。図録p.11で紹介した校章も見えます。図書館職員の養成、図書館情報学の発展に寄与した図書館情報大学の名前を永遠に語り継ぐ碑です。

 本講では、「知の開拓者たち」を顕彰する銅像および人知れず建つ石碑を紹介しました。学問をするさいには内省することが不可欠です。これらを、単なる顕彰の次元に留めず、自らの内省の場としていくことは、未来を構想し、学問・科学を前進させていくうえで重要なことであると思います。
(山澤 学)

今回の特別展の人気の展示資料の一つに『解体新書』があります。ここに示した扉絵部分が展示されていますが、教科書でもおなじみの絵とあって、多くの方が足をとめてご覧になっています。

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『解体新書』といえば、杉田玄白、前野良沢の名前が思い浮かびますが、「解体新書には、前野良沢の名前は出てこないのではないか」というご質問がありました。
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 確かに安永3(1774)年に刊行された解体新書の「巻之一」には「若狭 杉田玄白翼 訳」をはじめ、中川淳庵(校)、石川玄常(参)、桂川甫周(閲)の名は見えますが、前野良沢の名は出てきません(画像は「国立国会図書館デジタル化資料」から名前が記載されている部分を引用しました)。しかし、吉雄永章が書いた序には、本書完成の立役者として、「前君良沢」と「杉君玄白」、すなわち前野良沢と杉田玄白の名前があげられており、この二人の功績が顕彰されています。序でこの二人だけが取り上げられているのに、前野良沢の名前が本文に出てこないのは不思議ですが、小川鼎三は、1)翻訳が不備であっても一日も早く出版したいと考えていた玄白に対し、学究肌の良沢は正確な訳文とすることを念願し翻訳が不十分なままで出版することには賛成できなかったこと、2)洋書を勝手に翻訳して出版することが幕府の忌諱に触れるかもしれないという心配から、玄白が先輩の良沢にむりに名前を出すことを頼まなかったとも考えられること、3)良沢は太宰府天満宮に参拝して勉学の成就を祈り、それは自分の名前を挙げる了見ではないと神に約束したこと、がその理由ではないかと推測しています(『日本思想大系65 洋学 下』岩波書店、1972、および酒井シヅ訳『新装版解体新書』講談社学術文庫、1998のそれぞれの解説部分参照)。
 実際の翻訳にあたっては、玄白ではなく良沢が中心となっていたことは、文化12(1815)年に玄白が著した回想録である『蘭学事始』に、良沢を「盟主と定め」と記述していることからもうかがえますが、良沢の事績はこの『蘭学事始』によってはじめて世に知られるようになり、正当に評価されるようになったといえるでしょう。
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 このように『蘭学事始』は、解体新書の成立や当時の蘭学者の様子を知るうえできわめて重要な資料で、いまでは広くその名が知られていますが、意外にも江戸時代にはついに出版されず、明治2(1869)年にいたって天真楼蔵版(天真楼は玄白の私塾)、すなわち杉田家の私家版として初めて出版されました。そして、本書は明治23(1890)年に再版されますが、この再版本に福沢諭吉が序をよせて、本書(明治2年初版本)の出版について大略次のように述べています。
(1)蘭学事始の原稿は杉田家にあり一本を秘蔵していたが、安政2(1855)年の江戸大地震の火災で焼失した。門下生等の中でもその写し(写本)を持っていた者はなく、(この貴重な資料が完全に失われてしまったとして)ただその不幸を嘆くばかりだった。
(2)しかし、幕末に神田孝平が本郷通りを散歩していたときに、たまたま湯島聖堂裏の露店で古びた写本を発見し、手に取ってみたところ紛れもなく蘭学事始の写本で、しかもそれは玄白の自筆本で門人の大槻玄沢に贈ったものであった。神田はただちにこの次第を学友や同志に知らせ、みな先を争ってこれを写したので、にわかに数本の蘭学事始の写本が生まれた。
(3)その後、世は王政維新の変乱となったが、(福沢は)世の有様をみて我が国の文運の命脈が甚だ覚束ないと思い、明治元年に杉田廉卿(玄白の子孫)に会って、保存のためにも本書を出版する方がよい、そのためにお金(数円)も用意した、と告げたところ、廉卿も喜び、桜の板に彫って蘭学事始上下二巻として明治2年正月に出版した。
(4)その後廉卿は亡くなり(明治2年の)版本も世間には多くはない。ところが、今回は全国医学会でその再版を企画されたので、私の喜びはたとえるものがないほどだ。数千部の再版書を天下の有志の人々に送ることができるのはまことに喜ばしい。

 この再版の序は「明治二十三年四月一日後学福沢諭吉謹誌」と結ばれていますが、原稿はもとより写本もすべて失われていた蘭学事始が幕末に偶然発見され、それを福沢が資金を出して明治2年に和装・木版刷で出版した、と出版の経緯が詳細に記されている注目すべき資料であるといえます。なかでも、神田孝平が露店で偶然蘭学事始の写本を発見したが、それが玄白の自筆本で門人の大槻玄沢に贈ったものであった、というくだりなどは、非常にドラマチックなエピソードといえそうですが、実はこれは事実ではなかったと考えられています。杉本つとむは、江戸時代にも複数の写本があったことや、それらの写本には『蘭学事始』という書名をもつものは一冊も存在しないこと(『蘭東事始』または『和蘭事始』の書名で伝えられています)を明らかにし、明治2年の初版本も杉田家所蔵の写本が底本となっていると考えられる、と述べています(杉本つとむ『知の冒険者たち―『蘭学事始』を読む』、八坂書房、1994年)。

 このように謎の多い『蘭学事始』ですが、前述のように『解体新書』の成立、とりわけ前野良沢の事績を知るうえでは不可欠の資料であると同時に、読み物としても非常に面白いものです。当館では、東京師範学校の蔵書印が押された明治2年初版本を所蔵していますが、岩波文庫や講談社学術文庫にもおさめられていますので、どうぞご覧ください。
(篠塚 富士男)

ついに来場者が1000人を突破しました!

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 お昼時間にひっそりと突破していました。特別展は今週の金曜日(22日)までです。残りわずかな期間ですがご来場をお待ちしております。

comments[2013-11-19/yf]

お昼休みに古典の事務室に用があり帰りがけに展示をみようと立ち寄ったところ、カウンターの数字が999でした。
押してくす玉が割れたりがまジャンパーが出てきてはとつい押さずに拝見しました。
1000人突破おめでとうございます!

展示資料45・46(展示室の中央展示ケース、または図録p31の開拓者よもやま話第6講)では、前身校での被災図書を紹介しておりますが、先日たまたま利用者から問い合わせのあった本に、「消失図書」のマークがありました。
 事務用の図書原簿に「消失」とあるけれど現物が存在する例は、実はよくあることなのですが、本自体に「消失図書」とある例には、初めて遭遇しました。

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 「大正十三年十月三日決定 消失図書」とありますから、よもやま話第6講にもある、大正12(1923)年11月16日の化学実験室からの失火による火災に遭い、消失図書とされたと推測します。
 表紙を開くと、焼け焦げの後があり、表紙に貼っていたはずの高等師範学校の登録票が、付箋のように貼ってありました。
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 表紙は被災後に新しく付け替えられたもので、元の表紙は残っておりません。画像で見ても、左側の用紙に比べて右側の表紙裏は白っぽく新しいのがわかると思います。現在は、補修を行っても元の表紙を取ってしまうことはありませんが、かなり酷い状態だったのでしょう。
 中を開くと、さらに驚きの状態です。
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 焼損箇所が文字にあまりかかっていないのが不幸中の幸いでした。この資料は江戸末期の写本で1点ものですので、なくなってしまえば替わりはありません。
 開拓者よもやま話第6講には、火災の際に「猛火から蔵書を守るために、図書館職員や学生寮寄宿生らが尽力したと伝えられている。燃えさかる館内に上衣を濡らして飛び込み、窓から運動場の水たまりに蔵書を投げ込んだらしい。」とあります。
 こうして前身校の方々が身を挺して蔵書を救ってくれたおかげで、貴重書が現代まで保存され、今現在も利用することができます。今回の展示では、前身校の知の開拓者(パイオニア)に敬意を表するとともに、開拓者たちを支えた職員・学生の皆さまにも感謝したいと思います。(OZ)

特別展もいよいよ終盤、今週金曜日(22日)までです。一度来場くださった方も、もう一度じっくりとご覧になられてはいかがでしょうか?
 これまでにいただいたアンケートをいくつかご紹介します。
○本学の歴史がとても良く理解できました。今後も、展示企画を開催してください。
○筑波大学の歴史を図書館の史料から見ることができて、とても面白かったです。
○『解体新書』『蒙古襲来絵巻』『大鏡』などなど、高校までに学んだ史料を閲覧でき、とても面白かったです。場所が変わったらもっと人来そうですね。
○展示されている本がどのようないわれのあるものか(学内の人が書いたのか、学内の人が保存していたのか)が分かりづらかった。
○大変素晴らしい展示でした。
○丁寧な説明で良かったと思います。

 ご意見・ご感想をお寄せいただき、ありがとうございました。<><>0<>0

「開拓者よもやま話」の続編、第9講をご執筆いただきましたのでさっそくご紹介いたします。
※第6講までの内容は、本展の図録でお読みいただけます。
※第7講「『桐の葉』いろいろ」はこちらをご覧ください。
※第8講「『教育に関する勅語』のゆくえ」はこちらをご覧ください

開拓者よもやま話 第9講 校友の愛唱歌
 私事になるので恐縮ですが、去る11月3日(日)のホームカミングデーに御招待いただき、久しぶりに同窓生と旧交を温めてまいりました。会場は中央体育館でした。これは、東日本大震災で使用不能になって取り壊された総合体育館に代わり、新規に竣工したばかりの体育館です。筑波大学斬桐舞のユニバーサル・ソーラン、筑波大学応援部WINSの校歌・寮歌など、在学生による見事な演舞余興もありました。
 筑波大学応援部WINSの演舞では、第3講で取り上げた宣揚歌(桐の葉)を皮切りに、「桐花寮の歌」、「IMAGINE THE FUTURE~未来を想え」(応援団としては初披露とのこと)が続きました。宣揚歌については一緒に歌うなど、みな懐かしんでいましたが、残りの2曲については今回集った同窓生には馴染みがない曲でした。入学式・卒業式で聞いた「「常陸野の」をもう一度聞きたい」、「今も校歌はないの?」という声も聞かれました。そこで、第9講は、本学および前身校の「校友」の愛唱歌を取り上げることにしました。
 第4講で触れた、「常陸野の」をはじめとする筑波大学の学生歌・応援歌・イメージソング等は、本学の公式webサイトや筑波大学応援部WINSのwebサイトでも紹介されています。以下にあげてみます。
◆ 筑波大学学生歌「常陸野の」
昭和51(1976)年9月筑波大学学生部制定。作詞 青木克彦(比較文化学類2年次)。作曲 飯島睦子(人間学類2年次)。補作・編曲 鈴木良朝。
◆ 筑波大学学生歌「筑波のガマ」
昭和51(1976)年9月筑波大学学生部制定。作詞 小田淳一(人間学類3年次)。作曲 牧和実(生物科学系)。補作・編曲 鈴木良朝。
◆ 筑波大学応援歌
昭和51(1976)年9月筑波大学学生部制定。作詞 根本基由記(財団職員)。作曲 星川啓慈(比較文化学類2年次)。補作・編曲 鈴木良朝。
◆ やどかり音頭
昭和54(1979)年以前、筑波大学宿舎祭実行委員会制定。作詞・作曲 中西昌武(人間学類4年)。
(『茗溪』994号、1980年、p.15)
◆ 筑波大学応援歌「霊峰仰ぐ」
平成12(2000)年筑波大学応援団桐葉制定。作詞・作曲 筑波大学応援団桐葉。
◆ 筑波大学イメージソング「IMAGINE THE FUTURE~未来を想え」
平成21(2009)年4月制定。作詞 一倉宏(人文学類OB)。作曲 吉川洋一郎(自然学類OB)。
 このほか、筑波大学芸術系サークル連合会の「大切な歌」(平成7(1995)年筑波大学芸術系サークル連合会創設20周年記念事業により同会制定。作詞 荒井拓。作曲 渡辺晃)や部歌などもあげるべきでしょうか。

 これに対し、宣揚歌は、本学としては非公式の歌とされますが、体育会の応援やコンパの締めでしばしば歌われ、また、同窓会の一般社団法人茗溪会、既述した筑波大学応援部WINSのwebサイトなど、いろいろなところで歌詞を見ることができます。
 筆者が学生のころには、「桐の葉」といえば、1番・2番しか歌われていませんでした。入学時のオリエンテーション合宿中に上級生から教わりましたが、それを聞いていた東京教育大学文学部出身のクラス担任(故人)が「正調と違う。音痴だな。」と苦笑されていたことが思い出されます。
 実は筆者の在学中に筑波大学応援団(昭和63(1988)年発足)の副団長から依頼され、本学関係資料室で開架されている資料から宣揚歌の歌詞を調べたことがありました。課外活動団体のリーダー研修会での懇親会の席上で、とある芸術系サークルの学生が「幻の3番」なるものを披露したとのこと。それで、応援団としても3番を歌いたいので、その歌詞や由来を調べてほしい、とのことでした。以来、「正調」の宣揚歌に関心を持ち続け、本学の教員になってからも、第3講の基になった原稿を『つくばスチューデンツ』564号(2005年)に寄稿しています。(PDFファイルのp.8参照)
 ちなみに現在、3番として本学学生が歌う歌詞は次の歌詞です。作詞者は、東京教育大学最後の学長大山信郎氏です。紫峰会・筑波大学学生有志編『紫峰の霞 茗溪の水』CDライナーノート(1999年)から引用してみましょう。
  年を経て   百年過ぎぬ
  今ここに   水は涸るとも
  新泉は    筑波の麓に
  いざ立たん  若人われら
 しかし、3番の歌詞がはじめて公表された東京教育大学学生部発行の『桐葉』55号(1976年)p.1の大山氏自身の「年頭所感」には、次の歌詞が記されています。
  年を経て   百年過ぎぬ
  今ここに   水は枯るとも
  新泉は    筑波の麓に
  醒めて立て  若人われら
 この歌詞は、筑波大学の開学後、東京教育大学の閉学直前という時期に、移転をめぐる混乱の収拾を志向した大山学長の所信表明ともいえるものでした。現在通行する歌詞との間で、「枯」と「涸」、「醒めて立て」と「いざ立たん」の2か所に異同があります。なぜこのような異同が生じたのかは不明です。当特別展の準備中に気づいたことですが、『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集(1978年)p.64では当然、『桐葉』の歌詞が採用されるものの、「枯」は「涸」に変更されています。「茗溪の水」が涸れる、の意と採るならば、「涸」のはずです。
 しかし、この3番を調べ直すなかで気づいたことがもう一つあります。2番の歌詞に「よし涸れよ」の歌詞がありますが、これも「よし枯れよ」とするテキストがあるのです。第3講での歌詞は、東京文理科大学・東京高等師範学校編『創立六十年』(東京文理科大学、1931年)p.424から採用しましたが、これも「枯」の表記を採用しています。「枯」れるならば、桐の葉が枯れるという意になりますが、「茗溪の水」が「涸」れる、という方が歌詞としては自然に思われます。

 2番の歌詞には、実はもう1ヶ所、異同があります。通行では「教えの庭に」と歌う箇所が、『東京文理科大学閉学記念誌』(東京文理科大学、1955年)p.54では「教えの道に」と記されているのです。『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集をはじめ、『創立六十年』など前身校の出版物の多くが「庭」としていることから、単純に誤植と考えていました。
 しかし、改めて調べてみると、古いテキストはいずれも「道」となっています。
 まず、大学昇格運動の最中に講堂で貼り出された歌詞がもっとも信頼できるテキストということになります。東京高等師範学校校友会の『交友会誌』66号(宣揚号、1920年)には、大正8(1919)年12月15日の「第五回学生大会」を撮影した写真が載っており、張り出されていた歌詞は次のように読み取れます。
       宣揚歌
  一、桐の葉は木に朽ちんより  秋来なば魁け散らん
    名のみなる廃墟を捨てゝ  醒めて立つ男子ぞ吾等
  二、日の本の教の道に     いと高き学舎ありと
    人も知る茗溪の水     よし涸れよ濁さんよりは
 同誌の扉の裏には、「宣揚歌」の楽譜があり、そこには次のように記されています。
  一、桐の葉は木に朽ちんより  秋来なばさきがけ散らん
    名のみなる廃墟を捨てゝ  醒めて起つ男の子ぞ我等
  二、日の本の教の道に     いと高き学び舎ありと
    人も知る茗溪の水     よし枯れよ濁さんよりは
 次に、茗溪会の会誌『教育』443号(1920年)所収の市村清次郎「陞格運動経過の報告」p.37に載るテキストです。これは、既述した『東京文理科大学閉学記念誌』に引用される歌詞の典拠でもあります。
  一、桐の葉は樹に朽ちんより  秋来なば魁け散らん
    名のみなる廃墟を捨てゝ  醒めて起つ男子ぞ我等
  二、日の本の教の道に     いと高き学び舎ありと
    人も知る茗溪の水     よし涸れよ濁さんよりは
 こうして見てみると、「道」と「庭」の異同については、少なくとも正調の宣揚歌では「道」という歌詞であったと言うしかありません。
 ちなみに、1番の「醒めて起つ」(「覚めて立つ」とも)は、東京教育大学時代から「醒めて立て」と命令形で歌われています。曲自体も、楽譜では最初の3音はト音(F)、4音目が高いハ音(C)となっていますが、口伝では1音のみがト音、2~4音目がハ音です(小林繁「宣揚歌について」『茗溪』931号、p.21、1976年)。茗溪会出版部編『茗溪歌集』の写と見られる楽譜には、「「さめてたつ」の部分は、今日では「さめてたて」と歌われるように変化しています。また、冒頭の「きりのは」の部分の旋律にも変化がみられます。歌い継がれるうちに、次第に変化したものと思われます」と注記されています。
宣揚歌「桐の葉」は、歌われるなかで、いくたびも正調から変化を遂げてきたようです。
 宣揚歌には、特別な思いを持たれるOBが多数いらっしゃることでしょう。そのため、平成になって以降にも、新たな歌詞が作られました。先述の大山氏が東京教育大学OB玉虫会の寄贈歌として、次の歌詞(4~6番)を作詞したことが、平成3(1991)年1月に刊行された『茗溪』988号p.9に記されています。
  四、日の本の 筑波の麓に   いと高き 学び舎ありと
    人も知る 文化の若木   よし育て いゝよゝ茂れ
  五、桐の葉は 新緑に萌えて  夏来なば 輝きまさん
    誉れ高き 学び舎を守り  醒めて立て 若人われら
  六、日の本の 筑波の麓に   いと高き 学府のありと
    人も知る 学芸のかなめ  よし来れ あまねく広く
 また、本学元学長の北原保雄氏が平成15(2003)年1月31日に開催された茗溪・筑波グランドフェスティバルの席上で、非公式なものとしつつも、創立30周年・創基131周年を記念して作詞した4番を公表しています(『筑波大学新聞』227号、p.11、2003年)。
  四、桐の葉は 筑波の庭に   いや繁り 三十年過ぎぬ
    新しき 世紀を拓き    いざ行かん こぞりて吾等
 本学開学後の宣揚歌のあり方については、複雑な思いをもたれている前身校の卒業生もいらっしゃることと思います。ここでは、事実を記録することに意味があると考え、あえて取り上げました。

 筆者が学生のころ、前身校の歌で応援曲に使われていたのは宣揚歌だけでした。筑波大学の応援歌・学生歌も平成2,3年ごろに応援用のアレンジがなされるまでは、応援曲として歌われることは少なかったようです。「桐花寮の歌」など前身校の寮歌が応援曲として使われはじめたのは、筆者の卒業後のことのようです。日本寮歌祭への出演などを通じ、前身校卒業生の薫陶を受けたこともあって、筑波大学の学生たちの一部が歌うようになったのでしょう。
 小稿では当初、宣揚歌をはじめ、本学および前身校の愛唱歌の歌詞全文を集成して紹介しようと思っていましたが、調べてみると30曲を超え、膨大な量であることから、断念しました。前身校の愛唱歌については、その曲名・歌い出し・制定年代・作詞者・作曲者・出典(代表的な掲載資料)などを以下に記すことで御容赦ください。
 これら西洋音楽の影響を受けた校歌等が盛んに作られ、歌われたはじまりは、嘉納治五郎校長のとき、大塚窪町移転直前の時代でした。このことは、当該期の校友会の動向と合わせて注目すべき事実と思われます。また、「知の開拓者」の一人として当特別展で紹介した言語学の神保格教授(図録p.18 資料25)が、嘉納治五郎の肝煎りで作られた東京高等師範学校の「校歌」や、所属した部歌である「水泳部の歌」の作曲を在校中に担当しており、その多才な活動を知ることができます。愛唱歌に見る「+101年」は、日本近代の歩みそのものであることも改めて感じます。

【東京高等師範学校・東京文理科大学】
◆ 東京高等師範学校 校歌 「吹く風薫る茗溪の」
明治35(1902)年、大塚音楽会制定。作詞 福沢悦三郎。作曲 神保格。
(『校友会誌』4号、1904年。大浦猛『東京教育大学教育学部教育学科』、学芸図書、2001年、pp.208-209)
◆ 水泳部の歌 「磯狎松の隙もれて」
明治38(1905)年8月 東京高等師範学校水泳部制定。作詞 佐藤冨三郎。作曲 神保格。
(東京文理科大学・東京高等師範学校編『創立六十年』、東京文理科大学、1931年、p.414。『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集、1978年、p.65。茗水会百年史編纂委員会編『茗水百年史』、茗水会、2002年)
◆ 庭球部歌 「高く低く右に左」
明治39(1906)年3月以前制定。作詞 浮田辰平。作曲 新島百介。
(茗溪軟庭百周年記念事業実行委員会編『茗溪軟式庭球百年史』、茗溪軟庭百周年記念事業実行委員会、1988年)
◆ 寮歌 「匂もふかきむらさきの」
明治44(1911)年制定。作詞 和歌山春吉。
(茗溪会編『創立七十年記念誌』、茗溪会、1954年、p.50)
◆ 創立四十年記念寮歌 「栄あるかなや日の本の」
明治44(1911)年制定。作詞 垂野光久・藤田豪之助。曲は「勇敢なる水兵」より。
(茗溪会編『創立七十年記念誌』、茗溪会、1954年、p.50)
◆ 寮歌 「帝都の北の小石川」
明治44(1911)~大正4(1915)年ごろ。作詞 真田範衛。作曲 田村虎蔵。
(『校友会誌』50号、1915年、p.194)
◆ 応援歌 「四十餘年の光栄の」
明治45年5月制定。作詞者・作曲者未詳。
(東京文理科大学・東京高等師範学校編『創立六十年』、東京文理科大学、1931年、pp.411-412)
◆ 宣揚歌(桐の葉) 「桐の葉は木に朽ちんより」
大正8(1919)年12月制定。作詞 城生(大和)資雄。曲は慶應義塾応援歌より。
(『校友会誌』66号、1920年ほか、上記参照)
◆ ラグビー部部歌 「正義の血潮に燃え立つ吾等」
大正15(1926)~昭和2(1927)年ころ制定。作詞 工藤一三。作曲者未詳。
(茗溪ラグビー七十周年誌編集委員会編『茗溪ラグビー七十年誌』、筑波大学ラグビー部OB会、1996年、p.288)
◆ 桐寮の歌 「流れも清き茗溪の」
昭和2(1927)年以前制定。作詞 清水精一。作曲 宮原禎次。
(神賀交文編『全国大学・高等学校・専門学校校歌集』、郁文堂書店、1927年、pp.295-296。木村善保「見つけた東京高師「寮歌」2曲」『茗溪』1006号、pp.14-15、1995年)
◆ 桐寮四季 「あゝ永劫の時の舞」
昭和2(1927)年以前制定。作詞 斎藤(熊沢)龍。作曲 宮原禎次。
(神賀交文編『全国大学・高等学校・専門学校校歌集』、郁文堂書店、1927年、p.297-298。木村善保「見つけた東京高師「寮歌」2曲」『茗溪』1006号、pp.14-15、1995年。橘田広国「寮歌「桐寮四季」の作詞者」『茗溪』1011号、p.10、1996年)
◆ 東京文理科大学・東京高等師範学校 校歌 「青雲の空に高く」
昭和6(1931)年1月 大塚学友会制定。作詞 北原白秋。作曲 山田耕筰。
(東京文理科大学・東京高等師範学校大塚学友会編『校歌』、1931年。『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集、1978年、p.64。坂上澄夫「校歌」『茗溪』898号、p.3、1969年。岸井守一「自治よ自由」『茗溪』899号、p.3、1969年。同「「自治よ自由」」『茗溪』924号、pp.5-6、1975年。開拓者よもやま話第4講参照。なお、『校歌』には、斉唱曲・四部合唱曲および「東京文理科大学・東京高等師範学校 行進曲」のスコアが掲載される)
◆ 桐花寮の歌 「野山の霞後にして」
昭和6(1931)年制定。作詞 葛原𦱳(しげる)。作曲 堀内敬三。
(東京文理科大学・東京高等師範学校編『創立六十年』、東京文理科大学、1931年、pp.385-386。『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集、1978年、p.65。東京高等師範学校体育科創設八十年記念行事準備委員会編『茗溪体育八十年―東京高等師範学校体育科創設八十年記念誌―』、菜摘舎、1995年、pp.404-405)
◆ 寮歌 「見よや占春落花の雪に」(3番歌い出し。1・2番未詳)
昭和7(1932)年制定。作詞 糸岡正一。作曲 大塚音楽会。
(茗溪会編『創立七十年記念誌』、茗溪会、1954年、p.50)。
◆ 寮歌 「占春園の朝ぼらけ」
昭和7(1932)年制定。作詞・作曲 井上武士。
(鈴木博雄『東京教育大学百年史』、日本図書文化協会、1978年、pp.278-279)
◆ 桐の華(桐の花・第七寮の歌・七寮節) 「月の七日はお薬師詣り」
年代未詳。作詞者未詳。作曲 大塚音楽会。
(『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集、1978年、p.66。東京高等師範学校体育科創設八十年記念行事準備委員会編『茗溪体育八十年―東京高等師範学校体育科創設八十年記念誌―』、菜摘舎、1995年、pp.410-411)
◆ 応援歌(立ちて勇姿を) 「立て立て立て健男児」
年代未詳。伊勢田春市採詞。大塚音楽会採曲。
(『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集、1978年、p.66)
◆ 寮歌 「雲東の天を染め」
昭和16(1941)年制定。作詞 今井宇三郎。作曲 藤井 清。
(茗溪会編『創立七十年記念誌』、茗溪会、1954年、p.50。東京高等師範学校体育科創設八十年記念行事準備委員会編『茗溪体育八十年―東京高等師範学校体育科創設八十年記念誌―』、菜摘舎、1995年、pp.406-407)
◆ 寮歌 「占春園に春たけて」
年代未詳。作詞 駒柵実作。
(鈴木博雄『東京教育大学百年史』、日本図書文化協会、1978年、pp.280-281)

【東京帝国大学農学部附属農業教員養成所・東京農業教育専門学校】
◆ 校歌 「緑萌え立つ丘陵の」
昭和3(1928)年12月制定。作詞 川路柳虹。作曲 中山晋平。
(東京教育大学農学部編『駒場八十年の歩み』、東京教育大学農学部閉学行事協賛会、1978年、p.19)
◆ 東京農業教育専門学校 駒場の歌 「武蔵野の辺り駒場の森かげ」
年代未詳。作詞者・作曲者未詳。
(東京教育大学農学部編『駒場八十年の歩み』、東京教育大学農学部閉学行事協賛会、1978年、p.61)
◆ 東京農業教育専門学校 応援歌 「紫紺の翼夢醒めて」
年代未詳。作詞者・作曲者未詳。
(東京教育大学農学部編『駒場八十年の歩み』、東京教育大学農学部閉学行事協賛会、1978年、p.100)
◆ 東京農業教育専門学校 応援歌 「正気堂々空掩い」
年代未詳。作詞者・作曲者未詳。
(東京教育大学農学部編『駒場八十年の歩み』、東京教育大学農学部閉学行事協賛会、1978年、p.100)

【東京体育専門学校】
◆ 東京体育専門学校 報国団歌 「代々木の森の緑濃く」
年代未詳。作詞 佐藤よしを。作曲 諸井三郎。
(『写真集東京教育大学百年』、財界評論新社・教育調査会、1980年、p.215)

【東京教育大学】
◆ 学生歌Ⅰ(我ら教育大) 「明けゆく空から」
昭和30(1955)年4月5日学生歌作成委員会制定。作詞 松渕景一。作曲 伊藤朗。編曲 原昭宏。
(『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集、1978年、p.67)
◆ 学生歌Ⅱ(我ら歌わん) 「我ら歌わん明日を信じて」
昭和30(1955)年4月5日学生歌作成委員会制定。作詞 木下義啓。作曲 原昭宏。
(『東京教育大学概要』昭和52年度閉学記念特集、1978年、p.67)

 なお、これら前身校の愛唱歌については、以下の歌集があるそうです。
◇ 大塚音楽会編『東京文理科大学・高等師範学校歌集』(大道書院、1932年)。
◇ 東京高等師範学校寄宿舎文化部編『茗溪歌集』(1944年)。
◇ 茗溪会出版部編『茗溪歌集』(不昧堂書店、1957年)。
 いずれも筑波大学附属図書館には所蔵されておらず、国立国会図書館・国立情報学研究所など各種の図書検索でも現れない稀書です。筆者も実物を見たことがありません。これらの中には、南摩綱紀(明治29(1896)年作)「勧学歌」、諸橋轍次(昭和16(1941)年作)「茗黌七十年歌」(木村善保「懐古:日本寮歌祭と東京高師(補遺)」『茗溪』1033号、p.25、2002年。漢学の里・諸橋轍次記念館編(鎌田正監修)『諸橋轍次博士の生涯』、新潟県南蒲原郡下田村役場、1992年、pp.85-90)などの漢詩も収められているようです。また、前身校の管弦楽団・合唱団の演奏を記録する音源があったとも聞いております。これらの歌集や楽譜、録音などをお持ちの方がいらっしゃったら、御教示いただきたく思います。
(山澤 学)

comments[2013-11-14/fs]

よもやま話シリーズは、どれも資料として非常に価値の高いものですが、今回の愛唱歌もさまざまな資料を博捜された労作です。今後の前身校の愛唱歌の研究には、間違いなく本稿が基礎データとして活用されるものと思います。図録でとりあげられなかった話題をブログで補足する試みは素晴らしい成果をあげています。大成功ですね。

前回記事でもお伝えしました通り、11月11日(月)17:30よりFM84.2「ラヂオつくば」の「つくば You’ve got 84.2(発信chu)!」番組内で特別展のご紹介をさせていただきました!山澤先生にご出演いただいての放送だったのですが、皆様、ご視聴いただけましたでしょうか。

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つくばセンタービルサテライトスタジオからお送りしました。

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スタンバイ中の山澤先生をワンショット。

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展示の意義や資料について話される山澤先生。スタジオは和やかな雰囲気です。お隣にかけていらっしゃる女性パーソナリティは、山下扶美さんです。

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 今回の展示では『蒙古襲来絵巻』『解体新書』やアインシュタインのエッセイなど、いわゆる歴史の教科書でおなじみの貴重書が人気を博していることが話題に上りました。(どちらも電子展示でご覧いただけますよ!)
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 17:30から15分間、尺いっぱいでお話しいただきました。山澤先生、本当にお疲れさまでした。「ラヂオつくば」の皆さん、ありがとうございました!

comments[2013-11-14/fs]

山澤先生のトーク、盛り込まれている情報量がとても多いにもかかわらず、歯切れがよく軽快で、聞いている方にも本特別展への理解を深めてもらえたことと思います。「この放送を聞いて来ました」という方が来館されることを確信しています。ありがとうございました。

本日、永田学長と6名の副学長に、ご観覧いただきました。
山澤先生の説明に耳を傾けられ、興味深くご覧になられました。

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<ご観覧の様子>

山澤先生ご説明ありがとうございました。

 それから、特別展WGからお知らせがあります。
本日17:30より「ラヂオつくば」にて特別展のご紹介をさせていただくことになりました。山澤先生にご出演いただく予定です。視聴可能な地域にお住まいの方、FM84.2です。
http://radio-tsukuba.net/modules/tinyd2/
ぜひ、ご視聴ください!!

comments[2013-11-14/fs]

学長ご一行は、予想以上に大人数でご来館いただきましたので、驚くともに非常にありがたくお迎えしました。
先生方のご専門は様々ですが、今回は特定の分野の資料を展示するものではなく、文理科大の図書分類に沿った展示構成になっていますので、先生方が関心をもつ資料がそれぞれ異なっていることが、先生方の反応からわかりました。学長は大漢和の戦前の版(第1巻)を興味深そうにご覧になるなど、多方面への関心を示しておられましたが、皆さん満足されたご様子でお褒めの言葉をいただきました。
山澤先生、短い時間の中での的確なご説明、本当にありがとうございました。

お待たせしました! 山澤先生が「開拓者よもやま話」の続編、第8講をご用意くださったのでご紹介いたします。
※第6講までの内容は、本展の図録でお読みいただけます。
※第7講「『桐の葉』いろいろ」はこちらをご覧ください。

開拓者よもやま話 第8講 「教育に関する勅語」のゆくえ
 たいへんありがたいことに、当特別展に関心をいただき、質問・感想を数多くお寄せいただいております。そのなかに、東京文理科大学・東京高等師範学校に所蔵されていた「教育に関する勅語」(以下、教育勅語と略記する)の所在についての御質問が複数ありました。今回は、その教育勅語について、前身校との関係を紹介しつつ、また、そのゆくえについての御質問にお答えいたします。
 教育勅語は、明治23(1890)年10月30日に明治天皇の御名御璽(天皇の署名と「天皇御璽」の朱印)をすえて渙発されたもので、昭和23(1948)年に失効するまで、国民道徳の根本規範に位置づけられていました。その間には、四大節、すなわち1月1日の四方節、2月11日の紀元節、天皇誕生日である天長節、明治天皇の誕生日である11月3日の明治節という4つの祝祭日に、校長が生徒に読み聴かせました。
 東京文理科大学・東京高等師範学校が昭和16(1941)年に出版した『創立七十年』によれば、当初、渙発のさいに、明治天皇が高等師範学校に行幸して勅語を下賜することになっていました。しかし、宮中の都合によって行幸が中止され、内閣総理大臣山県有朋・文部大臣芳川顕正を宮中に召して下賜することになりました。
 『東京茗溪会雑誌』95号(1890年)によれば、高等師範学校では、11月16日に勅語捧読式を挙行し、その後に中村正直が忠孝、南摩綱紀が孝行、伊澤修二が聖旨貫徹の方法について講演しました。さらに伊澤から茗溪会に教育勅語の写670枚余が寄附され、会誌『東京茗溪会雑誌』95号に折り込まれて茗溪会員に配付されました。次の写真がそれです。

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 同年12月25日には、高等師範学校に「御親署」の教育勅語が下賜され、続けて翌24年2月18日に教育勅語の謄本が文部省から交付されました。
 「御親署」の教育勅語とは、謄本・写のように「御名御璽」と墨書されるのではなく、「睦仁」(明治天皇)の直筆署名があり、「天皇御璽」の朱印が押された勅語で、かかる下賜は稀なることでした。以後、卒業式の当日に、卒業生は校長による捧読を聴いた後に、校長室に奉安された「御親署」の教育勅語を拝することが例となったといいます。また、高等師範学校・東京文理科大学の創立記念日は教育勅語が渙発された10月30日とされました。茗溪会は、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館にある明治天皇を顕彰する壁画のうち「教育勅語下賜」の図を昭和2(1927)年5月に寄贈しています(『創立六十年』、『創立七十年』)。
 「御親署」の教育勅語は、昭和3(1928)年1月に茗溪会から御真影奉安庫が占春園に寄贈、新設されると、天皇・皇后の肖像写真である御真影とともに、その庫内で保管されました。奉安庫は奉安所、奉安殿とも称され、次に掲げる「東京文理科大学略図」(『東京文理科大学・東京高等師範学校一覧』昭和11年度)にも見えます。
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(占春園付近の抄出)

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(御真影奉安所付近を拡大。昭和6年の「行幸記念碑」も見える。)


 その外観は、東京文理科大学の昭和13(1938)年度卒業アルバム『卒業記念』のうち、地理学科の記念写真に見えます。
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(右手奥が御真影奉安庫。前列左より順に桝田一二助手、吉村信吉講師、内田寛一助教授、田中啓爾教授、今村學郎助教授、福井英一郎助手、後列左より順に靑野壽郎助手、三野(石川)與吉副手)

 この奉安庫には、そのほかに高等師範学校・東京文理科大学に下賜された天皇の勅語(沙汰書)も収められていたといいます。
 第1講でも述べましたように、天皇は行幸のさいに勅語を下しました。明治19(1886)年5月18日のさいの明治天皇の勅語は、「本日親シク此校ニ臨ミ、教務改良・諸事整理ノ緒ニ就クヲ見ルハ、朕カ甚タ嘉ミスル所ナリ、教官等ノ勉励ニ因リ、将来益進歩スル所アランコトヲ望ム」というもので、『創立七十年』の巻頭グラビアに写真掲載されています。
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 明治44(1911)年10月30日の皇太子嘉仁親王を名代とする行幸では、明治天皇から「御沙汰」と題された「健全ナル国民ノ養成ハ普通教育ノ振興ニ俟ツ、其ノ局ニ当ル者益々励精セヨ」との勅語が出されました。
 さらに昭和6(1931)年10月30日の昭和天皇の行幸では、「健全ナル国民ノ養成ハ一ニ師表タルモノノ徳化ニ竢ツ、事ニ教育ニ従フモノ、其レ奮励努力セヨ」との「勅語」を賜りました。これは、行幸の翌年10月30日に除幕された「行幸記念碑」(図録p.9 参考資料3)に刻まれています。なお、この碑の裏面には、題字が宮内大臣一木喜徳郎、撰文が東京文理科大学長・東京高等師範学校長大瀬甚太郎、書が東京高等師範学校講師田代其次とあります。また、東京文理科大学内に設立された道徳教育協会の会誌『道徳教育』創刊号(1932年)では、その巻頭グラビアに、同会会長であった元校長嘉納治五郎によるこの勅語の写が下記の写真のように載せられました。これは嘉納治五郎71歳の書です。
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 このように、「御親署」の教育勅語やこれらの勅語は、御真影奉安庫に収められていました。ところが、これらは、昭和20(1945)年8月15日に終戦を迎えると、行方不明になりました。何者かが同日深夜に持ち出したようで、翌朝の庫内はもぬけの殻でした。そして、間もなく奉安庫も解体され、姿を消しました。
 御真影や勅語は、重大事に持ち出す係があらかじめ決められていたと言い、昭和20年5月25日の空襲時に実行されたそうです(松本利一郎「桐花寮の最後を見とどけた者として」『茗溪』926号、pp.5-6、1975年)。戦勝国が御真影や勅語をどのように扱うのか、不安を抱え、避難させた者がいたのでしょう。他所での事例のように、その後に処分されてしまったのか、あるいは現在もどこかに秘匿されているのか、そのゆくえは68年の時を経ても詳らかでないようです。したがって、本学には伝えられておりません。

 なお、小稿執筆にさいし、本学附属図書館元館長の山内芳文名誉教授から貴重な御教示をいただきました。記してお礼申し上げます。
(山澤 学)

 本日は、本展示の目玉企画である特別講演会「知の開拓者たち」が開催されました。
 雙峰祭二日目の昼下がり、館外は大いに盛り上がっていましたが、聴講者の皆様にはその中でもひときわ静穏さを保つ中央図書館に足を伸ばしていただくことになりました。
 先日のギャラリートークに引き続き、講師には山澤先生をお招きいたしました。展示内容を振り返りつつ、「40+101」の「101」年分、つまり筑波大学の前身校に在籍された先生方の研究とその業績、またそれを常に補佐した「開かれた図書館」たる附属図書館の歴史についてお話しくださいました。

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 現在は一つの資料を複数の教室が予算を出し合って買う、ということはほとんどありえないことなのですが、前身校ではそういったことが行われていたという話をうかがいました。当時は現在より遥かに教室同士の敷居が低く、また一人の研究者が単一の研究分野のみならず複数の学問領域について理解を持っていたということのようですが、現代人としてもぜひ見習いたい姿勢ですね。
 講演時間は1時間強と限られていましたが、筑波大学の141年に思いを馳せる素晴らしい機会になりました!
 講演終了後は、『蒙古襲来絵巻』の限定公開およびギャラリートークが行われました。こちらには講演会に参加していなかった来場者の方にも多く耳を傾けていただき、1日のギャラリートークに劣らぬ活気に溢れていました。
 山澤先生、いずれの催しでもお話いただきありがとうございました!
 なお、本日の講演会とギャラリートークについては、動画撮影をいたしました。後日WEB上にアップし、より多くの皆様にご覧いただけるようにいたしますので、どうぞご期待くださいませ。
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※追記(16:20)
計数機を確認したところ、来場者が700人を突破していました!ご来場くださった皆様、誠にありがとうございました。

comments[2013-11-05/fs]

山澤先生、講演ならびにギャラリートーク、どうもありがとうございました。今年も遠方からもいろいろな方が来られ、たいへんありがたいことですが、これも講演会の持つ力だと思います。
特別公開の蒙古襲来絵巻も、じっくりと見てみると、いろいろな発見があり、本当に奥が深いものだと思いました。調べてみたいことは、たくさん出てくるものですね。

 学園祭1日目。午後になって、外の喧騒を避けた方々が大勢特別展にご来場くださっております。来場者数は、お昼頃に500人を達成しました。

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 本日は、中央図書館ラーニングアドバイザーによる学園祭企画「本の樹海」で、チェックポイントを探しに来る方もちらほら見受けられます。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.222465007929112.1073741833.155650587943888&
 いよいよ明日は、特別講演会と『蒙古襲来絵巻』特別公開です。
山澤学先生による特別講演会は、午後1時半より中央図書館2階集会室にて、『蒙古襲来絵巻』特別公開は、午後2時半より中央図書館1階和装本閲覧室(特別展会場奥)にて予定しております。
どうぞお楽しみに!

今回の附属図書館特別展は筑波大学開学40+101周年記念特別展として開催しています。開学30周年記念特別展のときと同様に、共催組織を持たず、研究開発室の「附属図書館における貴重資料の保存と公開」プロジェクトとして、研究開発室員の先生のご指導の下、附属図書館職員が手作りで準備を進めました。
 ほぼ全てが手作りのこの特別展では、図録の写真も先生の指示の下、みんなで協力して撮影しています。

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 9月の作業でしたので、みんなまだ半袖です。
 本格的な撮影設備はありませんので、工夫をしながらの撮影です。
 今回は、額装された大きな資料もあり、背景に布を敷いたり、即席のレフ板(実は過去の展示会で使ったパネル!)を使って蛍光灯の光を反射させたりと、おおがかりな撮影となりました。
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 小型の資料は、先生がお持ちの撮影台を使って撮影しました。肖像写真の撮影では、光の反射でテカリが出てしまい、あとからスキャナーを使って取り込んだものもあります。
 撮影した画像は先生が図録原稿と一緒に加工して元データとし、職員が紙面を編集して印刷原稿を作成しています(編集の様子は10/2のブログでご紹介したとおりです)。
 こうしてできた図録は展示会場にて無料で配布しています。特別展のWebページからもpdfで公開し、電子展示でも一部をご覧いただくことができます。
 図録は見て楽しく資料としても読みごたえのあるものになったと自負していますので、ぜひ、会場にいらしゃって、展示資料と併せてご覧いただけたらと思います。(JY)

今日は、附属図書館ボランティアのみなさんと職員を対象に、山澤先生によるギャラリートークが開催されました。ボランティアさん6名と職員、合わせて25名の参加がありました。予定をオーバーして詳しく、そして時折笑いの出る和やかな雰囲気の中で 説明していただきました。山澤先生、ありがとうございました!

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展示室が人でいっぱいに。

なお、このギャラリートークはビデオで撮影しました。皆様にご覧いただけるのはまだ先になると思いますが、どうぞご期待ください。
また、今回の山澤先生によるお話は学園祭期間中の講演会でも聴くことができます。

講 演 会  「知の開拓者たち」
講  師   山澤学(筑波大学人文社会系准教授)
日時・場所  11月4日(月・祝) 13:30-15:30
      中央図書館2階 集会室

是非、学園祭にお越しの際は中央図書館まで足をお運びください。とても興味深いお話が聴けておすすめです!