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書物の寿命

竹宮 隆

 昭和20年代の後半は戦後の日本社会が復興の軌道にのり始めたころであり,物資の流通も多少良くなりつつあった。この頃,ゲイロード・ハウザーの「若く見え 長生きするには」(Look younger, Live longer)と言う書物があらわれベストセラーになった。G.ハウザーは栄養学の専門家として映画の都ハリウッドでも健康と美容のための栄養指導をしていたので,世界中からはあこがれの先生であった。お陰でこの時期に長寿という言葉が鮮明に刷り込まれてしまい,同時に,人間の健康や美は科学的に調べられるがつくるのはご自分ですよということも教わった。現在,からだの健康と運動の関わりを専門とする立場から長寿の条件をあれこれ考えているが,書物との出会いやその寿命についてもたいへん関心がある。名著の長生きについてはいろいろな理由があげられようが,現代においても求められる内容の存在はその一つだと思う。学生時代に恩師杉靖三郎教授はその名講義のなかで忘れられない一冊の書物を挙げた。
 アレキシス・カレル著 「人間 この未知なるもの」(Alexis Carrel: Man, the Unkown, )は1935年(昭和10年)に出版され,当時から名著であると言われてきた。日本では昭和13年の桜澤如一氏及び昭和55年の渡部昇一氏のお二人の翻訳者によって紹介がなされている。A.カレルは1873年にフランスで生まれた。リヨン大学では1889年に文学士,1890年に理学士,そして1900年に医学の学位を得た。専門の外科領域では実験研究を通じ血管縫合に関する技術を完成させ,その後はアメリカのシカゴ大生理を経てロックフェーラー医学研究所で組織培養の研究に従事した。1912年,ノーベル賞はこの二つの業績である血管縫合と臓器移植の研究に与えられた。
 このような業績のことや幼少で父親を亡くし母親がよい教育者であったこと,多感な青年前期に豊かな大学教育を体験していることなどは,現在たいへん興味のあるところである。しかしながら,この書物のどの内容が眠れないほどの刺激となったかは当時を振り返って思い出すままに二三列挙したい。
 運動・スポーツ・健康などの研究領域では人体を非侵襲的な実験である程度まで深く分析できるし成果の応用も可能であるが,いざ本番となると人体はいつのまにか人間に変ってしまい期待の成果が得られない。当時,科学研究らしきものは何の役にも立たないと言われたし,現在のレベルにおいても満足なデータが得られなくていらいらすることがある。A.カレルは人間とは何かを問い,今後はまるごと人間の科学が必要であること,分析から総合への新しい方法論が確立されねばならないこと,人間の科学には精神の研究を導入する必要があること,視野の狭い専門家は危険であることなどを整然と主張した。これは実に魅力的であった。この内容や課題はいずれも現代に生き続けている。
 解剖学から生理学に至る知識を基礎的なレベルで整理しておくことは昔も今も変りはない。ただ,生体の知識は生きものらしく機能的な状態で理解することが望ましい。カレルは,部分を分析した結果はいつも全体との関係で認識し知の構造化に持って行くよう主張している。いっぽう,個体の全体機能やパフォーマンスは観察等で熟知し,その上で部分の存在とその役割が適確に評価されることも勧めている。具体的には器官・細胞組織の資質と鍛練の可能なこと,男女の性の特色とその教育的な意義の重要なこと,各種の刺激に対する生体の適応現象の成立のことなどである。行動する身体と機能という観点は精神の関与を認めるものであり,これらはまた新鮮な刺激となったのである。
 医学・生理学の自然科学者であるA.カレルがどうしてこれほどまでに精神のことに多くのページを割くのであろうか。当時はこんなことがまた関心事となった。細胞の研究とこころの研究は研究方法の発想を変えて徹底的に分析することとか,総合化では心身をセットにしてその現象を先ず観察することなどには大変興味があった。これらは,東洋の躾や修行の過程における心身一如と比較して納得したものである。現実には,長いリハーサルのすえに役者が役になりきることに成功したり、運動プログラム(知的プロセス)の苦しい修練のあとに技術が自然に決まるなどがあったり,いずれも現代に生き続けている。
 A.カレルの著書は、精神活動と身体機能の関係に止まらず,美的活動から宗教活動まで多方面に及んでいる。とくに,道徳に関する見出しは驚くべきことであった。倫理や道徳は人として守るべき道のことであり個人の行動に関する規範とされているが,カレルは精神医学や生理学の分析的な研究を通じこの成果を健常な人間の生活行動の基礎にできるという発想を持っていた。その後,フランスの精神生理学者P.ショシャールの「道徳の生理」が生まれたり,R.ギルマンらの視床下部の機能に関する研究が進むことで心身相関の科学的な背景が見え始めてきた。特に,精神(知)の動きと快・不快の情緒中枢や性中枢の活動が日常の生活行動になんらかの結果をつくるとなると,主張が生きてくることになる。
 この書物は,生命のこと,健康のこと,身体と精神のこと,環境のこと,適応のことなど豊富な内容を持っており,時代の変化に応じて益々価値が大きくなってきたように思う。時代が求める内容こそは長寿の要素である。もう一つはこの内容に情熱的に呼応された二人の翻訳者の要素も極めて大きいと考える。本書の長寿は翻訳者の歳月を越えた絶妙のリレーの賜と言える。桜澤如一氏は思想家として東洋医学や東洋文化の西洋との交流に携わるなかで本書に接し,化学反応のように翻訳に駆り立てられてしまったお一人である。渡部昇一氏は英語言語学者として医学の内容が一般の読者にさらにわかり易くなるよう表現や見出しに創意と工夫を凝らしており,また再度の翻訳という行為もカレルの真の教養に深い理解と共鳴があってのことであり,本書の普及に全く労を惜しんでいない。その姿勢は実に爽快である。名著の寿命は突出した名人の協力でさらに続くようである 。

(たけみや・たかし 体育・芸術図書館委員会委員長,体育科学系教授)


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Last updated: 1998/04/08