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筑波大学の漢籍をめぐる二、三のこと

堀池 信夫

 今回,『つくばね』に,町田三郎九州大学教 授の論文「林泰輔と日本漢学」から,本学所蔵の 漢籍を集中的に利用して立論されている部分を掲 載させていただくことになった。町田教授は,中国 漢代思想の研究において隠れもない秦斗である が,最近は日本漢学についての研究論文を次々に 発表され,今まで重要であると認識されつつも, 踏み込まれることの少なかったこの分野に,先駆 的・開拓者的な業績をあげられている。この論文 は,本学に所蔵する漢籍を縦横に活用している点 において,本学の漢籍の学術的価値をあらためて 確認させてくれるものである。
 さて,本学附属図書館には100,000冊弱の古典 資料が収蔵されている。そのうちでも漢籍は重要 な構成部分である。また和本であっても,漢籍に 準ずる抄物・国訳類等を含めると,古典資料中で 漢籍にかかわるものは,相当の分量を占めてい る。これは全国の大学図書館の中でも屈指の蔵書 である。
 漢籍の蔵書には,図書館ごとにそれぞれ特有の 傾向,ないし特色があり,個別の書物にもまたさ まざまな学術的価価がともなっている。本学の蔵 書もまたそれなりの特色がある。しかし,この小 文で本学の漢籍すべてについて語るのはとうてい 無理である。ここでは町田教授の驥尾に付して, 本学所蔵書の二,三について,その学術的価値を めぐるエピソードを記しておきたいと思う。
 今日,『老子』の思想を研究する際,もっとも 良好で信頼されているテキストは,荻生徂徠学派 の学者である宇佐見恵が交訂した『老子』王弼注 である。この『老子』王弼注は江戸明和年間 (1764〜1771)に刊行されたため「明和本」と呼 ばれている。ところで,本学には享保年間(1716 〜1736)刊行の岡田阜谷校訂による『老子』王弼 注が所蔵されている。これは明和本刊行以前には 標準的テキストとして利用されていたもので, 「岡田本」と呼ばれている。荻生徂徠の高弟服部 南郭は,『老子』を講義する際には岡田本を用い ていた。そして本学の岡田本は,彼の出子筋の手 によって,その南郭の学説が書き込まれているも のである。その書き込みをよく調べると,かなり の部分が明和本と一致していることが分かった。 つまり,明和本は宇佐見恵がまったくの独創で著 作したものではなく,南郭の学説を相当取り入れ ていることが分かったのである。そのことが意味 するのは,明和本には徂徠学派の老子学の伝統が 色濃く伝わっていたということである。すなわち 本学の岡田本は,徂徠学はの老子学の一面を照射 する役割をになうものであったのである。このこ とを明らかにしたのは,波多野太郎横浜市大教 授である(『老子道徳経研究』図書刊行会)。
 『老子』についてもう一つ。『老子』の注釈書 で,王弼注と双壁とされている河上公注の,天文 21年(1552)の写本が本学には蔵されている。こ の写本は『老子』旧抄本と呼ばれ,中国に伝わっ ていた宋本系統のものとは全く異なり,唐代のテ キストが抄写されて日本にのみ伝わっていたもの である。今日,日本国内で数種類が確認されてい るが,そのうちの一つが本学のものである。 注が『老子』を哲学的に解釈したものとすると, 河上公注は主に治身治国の道を説くものとしての 『老子』解釈である。こうした旧抄本の存在は, 室町時代以前の日本の知識人が,『老子』をどの ような姿勢で読んでいたかを示すものである。本 学の蔵書もそのいったんを伝えるものであったといえ る。本学の『老子』旧抄本とこの問題のかかわり については,増尾伸一郎『万葉歌人と中国思想』 (吉川弘文館)に論じられている。
 本学には『明心宝鑑』という「善書」の朝鮮版 が所蔵されている。「善書」とは日常生活上の道徳 倫理を分かりやすく記した教養書で,明の時代に 非常に流行し,その流行は朝鮮半島から日本にま で及んだ。ただ従来は,『明心宝鑑』がいつごろ 著作されたものかわからず,また現存する書物も 1592年の写本が最古のものと思われていた。とこ ろが,本学の『明心宝鑑』は,朝鮮李朝端宗24 (1454)の刊行であった。つまり現存最古の『明 心宝鑑』であることが分かったのである。またそ の序文には明の洪武26年(1393)の日付があり, 『明心宝鑑』の著作時期が明代初期にあることも 確実となった。さらに調べを進めてゆくと,『明 心宝鑑』は16世紀末,西欧語に翻訳された初めて の漢籍であることが分かった。また17世紀末に は,ドメニコ会宣教師ドミンゴ・ナバレッテに よって第二次翻訳がなされたが,それが当時の ヨーロッパ思想界に大きな影響を与えたことも分 かってきた。というのは,キリスト教の神のもと においてのみ,よき倫理道徳は存在しうるという 当時のヨーロッパの常識を,この翻訳が打ち破 ることになったからである。つまり,神はいなく ともよき倫理道徳は存在しうる,中国こそその実 例である,と。この衝撃は,フランスの啓蒙思想 に波及し,理神論・無神論の発展をうながし,結 局,ヨーロッパ近代成立の一つの思想的底流を形 作ることになるのである。詳しくは『筑波中国文 化論叢』第16号所載の拙稿を参照されたい。
 さて,最後に本学の漢籍を全体的に見渡したと き,江戸の儒者たちにかかわる蔵書の充実を一つ の特色としてあげることができる。版本・写本と もによく収集されている。なかには他では見られ ぬ貴重な資料も少なくない。近世思想研究の,未 踏の峰々のいくつかが,まだここには眠ってい る。町田教授の論文も,本学蔵書のこの面の特色 を利用したものである。
 明治前期以前の日本文化研究において,漢文資 料は決定的に重要である。歴史学,文学,国語 学,書誌・文献学はもとより,中国関係の諸学, また近代以前の挑戦半島文化の研究にもかかわっ てくる。そして,本学の漢籍は,研究が進められ れば進められるほど,もっともっと新しい知見を 与えてくれる可能性のあるすぐれたコレクション である。このような学問的財宝が,学生諸君のす ぐ手にとることのできる場所に,学生諸君を待っ ているのである。これを利用しない手はないだろ う。ぜひ多くの学生諸君がこれを活用し,新鮮で すぐれた研究成果をあげられるよう,心から希望 している。

(ほりいけ・のぶお 哲学・思想学系助教授)


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Last updated: 1998/02/24