林泰輔と日本漢学(抜粋)

   町田 三郎

 林泰輔は蔵書家であった。明治三十六年、かれは郷土の青年たちの向上を願っ
て常磐村の自邸内に杜城図書館と名づけた私立図書館を創立し公開した。和漢
書10,230冊、洋書 350冊、その他16,000余冊で郡内図書館の嚆矢であり、設備
も整っていた。(1)大正 十一年の逝去後、杜城図書館は解散となり、その蔵書
のうちの 5,000冊が大正十四年に千葉県立図書館に寄贈され、「林泰輔記念文
庫」として保存された。これより早く没後まもなくの大正十一年十二月かれの
蔵書のうち主として日本漢学に関する 691部が嗣子林直敬によって東京高等師
範附属図書館(現筑波大学附属図書館)に寄贈され、林文庫として収蔵された。

 現在千葉県立図書館所蔵の書籍は、その『漢籍目録』によると、ひとまとま
りの記念文庫は解体され、「杜城」のラベルで他の書籍の中に分散配架されて
いる。書籍の内容は、たとえば山崎嘉『文会筆録』二十巻、中村之欽『近思録
示蒙句解』十四巻、並木正韶『宋学源流質疑』一冊、『李退渓先生西銘考証講
義』一巻といったもので比較的一般的なものが多い。

 これに対して筑波大学附属図書館の書籍は、受贈冊数 651部 1,903冊は四書
を主とした漢籍類で、原典は殆んどなく多くわが国で書写刊行されたものであ
る。大学・中庸関係書が 110部、孝経が70部、論語が80部、四書が22部、その
他易経から諸子に至る刊本、写本類で、中には謄写版による亀井昭陽『荘子瑣
説』も含まれている。日本漢学の宝庫といってよい。

  とりわけ論語関係書の蒐集にきわだって力を注いだもので、ここに貴重な書
籍が多い。第一に挙ぐべきものは、元亀写本『論語集註』である。この書は学
而・為政の二篇のみの「巻一、丁数二七」であるが、巻末に「于時元亀四年癸
酉三月十三日書之春永筆 新註論語全部一筆」とあり、そこに付箋があって林
泰輔本人の筆がきで次のように記されている。

 此書は伊地知季安の漢学紀源巻二に、余従兄本田親標嘗得論語集注一本則巻
之三而尾記「元亀四年四月春永書新註論語全部一筆」とあると同種にて即ちそ
の第一巻なり。

 徳川時代以前に於ける論語の古鈔本の存するものは皆何晏集解本のみに限ら
れて朱子集註本は殆んど之なしと言ふて可なり。さればこの書は希覯の珍本た
ることは勿論なれども又四書訓点上の問題を研究するにも極めて必要なるもの
といふべし。
  大正九年四月三十日識  進斎

 この元亀四(1573)年本の集註については、やがて「斯文」第三編第一号に
「元亀鈔本論語集註に就て」を発表して、右の付箋の説を補いかつ展開して、
筆者の春永や訓点上の問題に説き及んでいる。

 はじめに『漢学紀源』の書き入れの末尾「新註論語全部一筆」のあとになお
「既有和点、且採曹端詳説、間注傍注」とあることを補っていう。筆者の春永
は如何なる人か不明。ある人は春永は近江の人源永春の誤写ではないかという
が、年代が元亀の時代とは余りにも違い過ぎて永春説は採れない。

 書き入れの「詳説」というのは明の曹端の『四書詳説』のことで、桂庵が明
に学んでいた折り書き入れたものであろう。とすれば、この書は桂庵が岐陽和
尚の和点を修正し且つ書き入れした本を写したものと思われる。しかし桂庵の
没したのは永正五年で元亀四年より66年以前のことなので、筆者の春永は桂庵
門下というよりはその再伝の弟子というべきであろう。

 元亀四年のさい、文之は十九、如竹は四歳である。いわばこの書は桂庵の伝
えた唯一の訓点本で文之点論語の藍本だと思われる。そして内容を検すると、
学而篇の「賢賢易色」に訓点して「賢賢 易 色(賢ヲ賢トシテ色ヲ易カエヨ)」
と「賢賢」は朱註に従って読み、旧点の「カシコキヨリカシコカラントナラバ」
を改めるが、「易色」の二字は「色ヲ易エヨ」と旧点に従っている。こうした
点から朱子学がまだ十分に行きわたらない時代の状況がここからも窺えるわけ
である。

 この希覯の珍籍たる元亀鈔本論語集註第一巻をおおよそこのように紹介して、
筆者の春永を桂庵再伝の弟子にしてしかも桂庵の伝えた唯一の訓点本がこれだ
と捉え、またこの書の訓点の仕方から朱子学が十分に行きわたらない時代の状
況を反映していると論じ、最後に『漢学紀源』の著者も実見することのなかっ
た第一巻の鈔本を偶然にも入手しえた喜びを「真に大幸といふべし」と結んで
いる。

 なお今日春永の同じ識語をもつ巻二と巻十が「青淵論語文庫」に存し、その
巻十の巻尾には「元亀四年十月二十六日全冊書写」と記されている。つまり全
冊が元亀四年三月から十月にかけて筆写されたわけである。

 林文庫の尤物として第二に指を屈すべきは、多数の鈔ものの存在である。鎌
倉から室町、江戸の初期にかけて鈔(抄)もの、いわゆる当時の口語訳が多く
伝えられるが、林文庫に所蔵する「論語抄」の主なものは次の如くである。

『論語抄』
�〔室町末期近世初期〕写 存巻七―一〇、二冊
  経文には訓点を付す。巻末識語の末尾「文明
  七乙未仲冬上浣題」とあり、改行して「可耻
  々々、没蹤跡処」とある。この八文字は他の
  文明本にはない。

『論語抄』
�〔室町末期〕写 存巻七・八 一冊 題簽「論
  語抄」朱点朱引を施す。

『論語抄』
�〔室町末期〕写 存巻一〇 一冊 現在の表紙
  は後につけたもので中央に「論語抄」とある
  。原表紙となる初葉には論語「自十九 廿終
  」と墨書、朱点朱引を付す。文明七年の識語
  なし、虫喰いのあと多し。

『論語集解』
�〔室町中期〕写 一〇巻五冊 集解本 巻末に
  「堺浦道祐居士重新命工鏤梓 正平甲辰五月
  吉日謹誌」の識語。いわゆる正平版論語単跋
  本の写本である。題簽「魯論」巻一―三は訓
  点のみ。巻四から訓点朱点朱引を施す。蔵書
  印記に「円融蔵」「盛胤之印」とある。すな
  わち天台宗円融院の梶井宮盛胤法親王(1651
  〜1680)の所蔵本ということである。(2)

『論語抄』
�〔元和中〕刊 古活字版 集解本二〇巻九冊(
  第一〇冊欠) 経注文に訓点、全巻に朱点朱
  引がある。第一冊に「船橋蔵書」の印記があ
  る。「船橋」とあるのは清原秀賢のとき船橋
  氏を称した。船橋家も代々儒道を家業とし、
  明経博士として歴代天皇の侍読をつとめる家
  柄であった。(3)
  この「論語抄」に関して林泰輔は、『論語年
  譜』寛永元年の条の伝述の部に、
    清原家論語抄二十巻を撰し活字を以て刊行
    す。
    此の書は本文と集解とを載せ、次に解釈を
    録せしものなり。その清家より出でたるこ
    とは明かなれども、何人の手に成りしか詳
    ならず。されども論語抄の中に於て最も完
    備せしものの如くなれば、清家中にありて
    も特に学識ありしものの作なるべし。宣賢
    は嚮に他人の講義を聴書して論語聴塵の作
    ありしが、或は又自ら己れの説を記してこ
    の抄を撰せしには非ざるかとも思はるるな
    り。(4)

 この元和古活字本の集解は保存もよくきわめて読み易い。「論語抄の中に於
て最も完備」したとされる同書の冒頭の部分を次に掲げておこう。
 
 論語学而第一   凡十六章
             何晏集解
 学而第一論語ト何晏 -----トノ四字ヲハ読マイ
 ソ本注ノ唐本ニハ学而第一ト計リ有テ論語ノ字
 ヲノセス其ヨリ口ニ論語巻之一ト有ソ何晏 ---
 ノ四字ハ無ソ新注ノ唐本ニハ論語巻之一ト在テ
 其次ノクタリニ学而第一ト在リ故ニ不読 皇侃
 ノ疏ニモ論語ノ二字ハ無ソ学而一番ニ置事降聖
 以下皆須学成故ニ学記云玉不琢不成器人不学不
 知道是明人必須学乃成此書既遍該衆典以教一切
 故以学而為先也天自降聖人学文ヲ本ニサスルソ
 諸事学ヨリ成ル者ソ 第ハ審諦也一ハ数之始也
 既諦定篇次以学而居首故也又第ハ次第也斉論ニ
 ハ時習ト置ソ

 また学而篇第二章「孝弟者其為仁之本与」は次の如く抄出する。
 
 結前ヲノ語也所詮君子ハ孝弟ヲ本ニスヘキコト
 ソ孝弟ヲ行ヘハ其マヽニ仁道ソ孝弟ハ我一家ノ
 中ニテ行フソ其心ヲ押広メテ天下ノ民ヲ恵ンテ
 仁道ヲ施スソ仁ハ五常ノ始也故ニ仁ヲ一ツ云ヘ
 ハ四徳ハコモルソ推愛及物曰仁注ニ大成トハ孝
 弟カ人ノ根本也根本タニモ立テハ枝葉ハ自成物
 也如其仁義孝弟タニ立テ行ケハ衆藝カ大成リ行
 物也論語一部ノ中皆仁ヲ説ソ顔回カ克己復礼為
 仁ト云モ曾子カ一貫ノ忠恕モ皆仁ノ道ソ南軒張
 氏ハ論語ノ中ノ仁ヲ説ク処ヲ類聚シテ一編トナ
 シ洙泗言仁録ト号スルソ仁ヲ干要トスル故也

 朱子の新註本のわが国への伝来は、鎌倉時代に入宋游元の学問僧や貿易に従
事するものによって持ち来らされた。十四―五世紀になると天皇を中心とした
宮廷貴族や京都五山の僧侶等の間で、新知識としての新註による解釈や論議が
活発になっていった。たとえば天台僧の独清軒玄恵などは当代新註学の権威で
後醍醐天皇の侍読もつとめ、貴族や僧侶の間で強い影響力を誇っていた。

 かくして堂上権貴の人々や学僧らに受容された新註は、ここに至って俄然一
般人士にも受け容れられ公然と研究されるようになった。元来清原・大江など
の明経家は「五経」にのみ家点があってそれが秘伝とされていた。しかし四書
に関しては家点も口伝もなかった。新註『論語』の研究は、この面で明経家か
ら制約をうけることはなかった。一般人が自由に討論し研究しうる分野であっ
た。そこでむしろこうした状況に一驚したのは明経家であった。かくしてかれ
らは「新註」併取、また四書に家点をつけこれを秘伝化することに懸命であっ
た。

 船橋家の『論語抄』も清原家系統の抄ものであったが、ここではこの書を秘
伝とはいわない。ところが林文庫の� 432に「論語集解講義」なる書があり、
開巻冒頭に「寛保元辛酉年八月二日開口」とあって清原家の講義書である。そ
して第一巻の見返りに「誓約」が記されている。このことはつとに林泰輔も注
目して「論語に就いて」の論考の中でおおよそ次のように論じている。
 この誓約は、藤原実連という人が清原親賢に入門しその際「誓約」として提
出したものである。内容は、此の度入門して論語の講義を伺う以上は決して師
匠の説には背かぬ。師匠の恩は永久に忘れぬ。論語を解釈するのに他人の説や
新註新説を雑えない。許可なくして論語を他人に伝えぬ、ということが書いて
ある。非常に厳格なものである。そして最後に右の通り師門の掟には従い、も
し異心違背の場合には「永可蒙天罸者也」と結んでいる。

 師弟の絆の固いのは結構であるが、この書の日付、寛保辛酉の年といえば
1741年、すでに荻生徂徠没して十数年、吉宗の最晩年のことである。学問が事
実上世間一般に解放されて最も自由に論議しうる時代に、博士家は依然として
旧態そのままの固陋さを曵きずっていたわけである。



註
(1)『千葉県図書館史』(中央図書館発行)杜城
 図書館の項
(2) この項高木三男「林文庫」(「つくばね」
 1982、8-2 )のご教示による。
(3) 同上
(4)『論語年譜』 480頁
�
 (まちだ・さぶろう 純真女子短期大学教授)


  ※  本稿は、「林泰輔と日本漢学」(『東洋の
  思想と宗教』第14号  1997.3) の  第三章を
  著者のご好意により転載させていただいたも
  のである。転載にあたり、常用漢字等の文字
  変更、縦書きから横書きへの変更、それに伴
  う若干のレイアウト変更、アラビア数字への
  変更、注釈番号の変更等を行った。併せて、
  参照のために文中の該当する部分に本学資料
  の写真を挿入した。

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Last updated: 2012/03/16