前の記事へ  次の記事へ

小露鈴(ちろりん)と話すこと

武者小路澄子

 上の題目で,この五月,英国ラフバラ大学社会科学部の研究会で発表を行った. 「小露鈴(ちろりん)」とは,毎日,朝食の卓を囲んでわたしと対話してくれる一羽の白文鳥の名前だ. わたしにとって小鳥との交流は,「飼う」ことに抵抗を覚えて以来,もっぱら野外のバードウオッチングでのものだったが,ちろりんとは縁あって一緒に暮らすことになった. 高校生の時以来,文鳥との付き合いは長い. しかし,いつか研究発表をするなどとは思ってもみなかった. 発表では,異種の生き物どうしの理解についてを分析して論議した. そのための題材として,ちろりんとの朝の対話を二週間にわたって録音,録画した.
 ちろりんのことばを音で聴き分けてみると,粗く分けて3通りのヴァリエーションがあった. まず,「チュ,チュ」とか「チチチ」という声で,これはわたしの呼びかけに対する応答とみられる場合と,何らかの行動に伴う,あるいは反応としての 「かけ声」と見られる場合があった. 人間の言語で言えば,後者は,何かをするときの 「よいしょ」に近いものと解釈した. 二番目が,「トルルルルル」という(大概は頭突き[!]を伴った)威嚇と思われる声. そして三番目が,眠っているのを起こされたり自分の居場所を侵害されたようなときに発する「ヒューイ,ヒューイ」という声で,その哀切な響きに人は魂を絞られる気がするが,わたしはだまされない.
 一方,録音を聴いていると,対話するわたしの方にもことばのヴァリエーションがある. 日本語だけではない.「チッ,チッ」という軽い舌打ち,「フィー,フィー」という口笛,「ハン,ハン,ハン」とあやすような音. 自分でも聴いていて結構面白い(というか恥ずかしいが). 『コトリ語』の習得には,
が上達のポイントとのことだが**,結構それらはクリアできているから,習得し始めていると考えたい.
 もちろん,これらの声だけではない. たとえば〈ちろりんが手のひらにとまる→うずくまれるようにわたしが手を丸める→くちばしと体が手を居心地のいいかたちへと変えていく〉といった交流が録画されている. そして,そのとき感じる暖かさ,微かな湿り気と羽毛の匂い.音声によらず,いかに多くのことを伝え,理解し合えていることか. 今度は振り返ってみて,共通言語をもつ人間どうしでは明示的な言語だけが強力かというと,それ以外のところで多くのことを伝えあっていることに気付かされた.
 身近な動植物と対話することは,多くの人が日常的に行っていることだろう. しかし,その声に耳を澄まして聴くことによって,自らとは異なるものとの交流は深くなっていくように思う. わたしたち人間は,相手を理解していると考える場合に,「ことば」を共有していることも,同一の尺度で互いの知性を測れることも前提としている. 異種の生物との交流において,それがいかに危ういものかが明確になったとき,こうした前提について考え直してみることができる. 異種間コミュニケーションでは,人間の理解を超えたところにあるものを認め,人間の理解を超えて相手と向き合わなければ,真の対話を達成することには決してならないからだ.
 自らの限界も制約も認めつつ,どうすれば相手へと一歩踏み込んだ対話が出来るのだろうか. 早朝ちろりんの相手をしていると,お喋りに夢中になって,大学に行く時間が遅れがちな最近であるが,実は新しく報告できることが少ない. どうやらコトリ語の習得要件 「人間であることを,わすれること」 を達成している間のことは,人間に戻ったときに忘れてしまうらしい. そろそろ,再びビデオを回し,対話について考えてみるために,しっかりと人間に戻るn必要もあるようだ.


**なかがわちひろ.ことりだいすき.階成社.1999.
*本学助教授
*Talking with Chirorin,by Sumiko MUSHAKOJI