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夢って何ですか

平久江祐司

 先達て,つくばから東京へ向かう高速バスの中でS教授と同席し,よもやま話をしていると,話題はいつしか学生の卒業論文の指導へと移っていった.そうした会話の中で,とりわけ心を惹きつけたのが,「大切なのは夢を持たせることだよ」というS教授の言葉であった.他人の肉声を通して聞く “夢”という言葉が,新鮮な響きをもって耳を打った.その後も,バスに揺られながら “夢っていったい何だろう”という漠然とした思いが頭の隅に残ることになった.考えてみると,素直に夢を語らなくなってどれくらいの年月が経つのだろう.少年時代の奔放な好奇心に満ちた夢,青年時代の情念や功名心に満ちた夢,大人になっての現実から逃避したいというささやかな夢.歳とともに夢は変質し,現実の諸相を帯び,少しずつ語るべき言葉を失ってきたような気がする.知らず知らずのうちに夢と欲望を混同し,手近な欲望の実現を夢の実現と錯覚してきたこと,たぶん,この錯覚に気がついたことが“新鮮な響き”の理由にあるのだろう.
 ところで,“夢”という字を「大言海」で引くとその語源は,寝た目で見るという「寝目(いめ)」あるいは寝て見る「寝見(いみ)」のなまったものではないかと書かれている.これは,「広辞苑」にある睡眠中に見る幻覚という意味の本来の語源である.他にも空想的願望,心の迷い,将来実現したい願い,理想などとある,ここで話題にしている夢の意味に最も近いのは “理想”だろう.しかし,教育と理想,これでは少々大げさで堅苦しい.むしろ,夢は仕事や遊びと結びつけ語られることが多いようだ.脚本家の山田太一は,「遊びと夢の峠で」というエッセイの中で夢と遊びに共通する属性を「日常を断ち切り再生させてくれるものへの欲求」 と書いている.再生とは,ある種の創造である.つまり,夢は創造の源泉である.また,それは,再生である限り,既成の枠を飛び越えるパワーがなくてはならない.また,真剣さのない遊びもつまらない.夢とか遊びとは切実さを伴うものでもある.メディアを通じて,いわゆる団塊の世代には,“夢がない,遊びがない”との指摘をよく耳にする.これは,現在の子どもたちが置かれた状況でもあるだろう.逃げ場のない絶望的な状況.深いニヒリズム.
 では,学生に夢を持たせるとは.狂言師野村万之丞は,「狂言の夢と遊び」の中で“芸に遊ぶ”ことの大切さを書いている.ここでいう芸とは 「知」あるいは「学問」 である.勉強と遊びという二元論からの脱却,「芸」の両義性などの指摘ははなはだ面白い.確かにある種の夢は“あそび”であるといえよう.また,教育の育,つまり育つことの本質には “まなぶ心”がある.そこには理想や願望が必要である.そこで,”夢”を “まなぷ心”と“あそび心”を結ぶ媒介と捉えたい.つまり”夢”を持たせることは,“まなぶ心”と“あそび心”を結びつける行為であると言えないだろうか.“まなぶ心” と “あそび心が ”夢”によって編まれ一つのビジョンとして結実する.すると,そもそも“夢”のきっかけを提供する教師そのものが,たくさんの “夢”を持っていなければならないようだ.これは大変なことだ.しかし,”夢”について考える場や方法を提供することはできるかもしれない.こうした捉え方は,無論,S教授の考えとは異なるかもしれないが,S教授の話を聞くと何かできそうな気がしてくる.いやまて.ここであまり安易なことを言うと,あとで取り返しのつかないことになりそうである.
 旧暦では,三月弥生の月は “夢見月”とも言われている.少し肩の力を抜いて,暖かな日差しの中で大いに読書をし,かつ ”寝見”したいものである.
参照:河合隼雄,山田大一編『夢と遊び』岩波書店,1997,244p.[302.1:Ka‐93:10]


本学・講師
What's your dream? by Yuji HIRAKUE