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ドイツ,時刻表,データベース

小野寺 夏 生

 30年近く勤めた職場を変わったことを機に,これまで家族のことなどほとんど構ってこなかった罪滅ぼしの意味もあって,今年の夏1週間ほどの休暇を頂いて初めて家族で海外旅行をした.行先はドイツで,ここを選んだのは家族の希望もあったが,私のこれまでの乏しい海外出張経験(僅か3回,それもすべて10日前後の短期出張)がいずれもドイツ絡みで,この国ならばお仕着せのパック旅行でなくても何とか歩ける自信があったからである.ライン河,マインツ,ヴュルツブルク,アウグスブルク,ミュンヘンなどそれぞれ印象深いものがあったが,ここでお話したいのは旅のことではなく,それを滞りなく進めるのに大いに役立ったドイツ国有鉄道(Deut‐sche Bahn)のサービスについてである.
 ドイツは鉄道の国と言われる.Deutsche Bahn(DBと略される)の幹線支線が全土に四通八達し,その上をICEと呼ばれる超特急(日本の新幹線と違って一般の列車と同じレールを走る)をはじめいろいろなランクの列車が頻繁に行き交い,乗換の便も非常によい.駅の時刻表示は極めて親切で解り易く,車内に入ると各シートにその列車の停車駅,着発時刻,各駅での乗継列車の情報が仔細に記されたり一フレットが置かれている.この6月に偶々ICEの大事故が起こったのは記憶に新しいが,一般的に言えば,正確・安全・快適のどの面からも一流である.外国観光客用のパスを事前に購入すれば窓口で切符を買ったりする必要は一切なく,期間内で乗り放題である(DB以外にいろいろな都市のS-bahnやライン河の遊覧船にも通用する).
 これくらいまでなら観光案内書にも書いてあることだが,私が真に驚嘆したのはインターネットでのDBの情報サービスである.DBのホームページ(httP://www.bahn.de/home e/f-engl.htm)からはいるいるな情報が得られるが,極め付きはTime‐tableの検索能力である.我が国のJRやソフトウエア会社のインターネットサイトにも類似の機能はあるが,とてもそんなものではない.旅行日,発駅と着駅を入力すると(それ以外に希望の時間や経由地も指定できる),該当の列車とその出発時刻,到着時刻がたちどころに表示される.臨時列車や特定曜日運行列車もちゃんと考慮されている.詳細情報ボタンをクリックすると,途中停車駅と停車時刻,停車プラットホーム番号等が出てくる.検索される列車は発駅と着駅を直接結ぶものだけでなく,乗換を要するものも含まれる.従ってどんなローカルな駅間を組み合わせても構わない.私がマインツからライン河上流にあるボパードという街に行こうと思って検索したところ,直接行く普通列車の他に,ボパードの更に上流にあるコブレンツまで特急で行ってボパードに戻るという答えまで出てきた(その方が速く着く)のには感心した.まだまだあるのだが紙面に限りがあるので,興味のある方はお試し頂きたい.
 尤も,地理に不案内な者には問題もない訳ではない.ロマンチック街道沿いにある有名な「中世の街」ローテンブルクに行く列車を調べようと思って”Rothenburでと入力したところ,マインツから5時間以上もかかるという答である.ここはバスで行くべきところで列車では非常に不便なのかなと思ったが,よく調べてみると,このRothenburgとは旧東独地域にある別の駅で,目指すローテンブルクはRothenburgob der Tauberと入力しなければならないことが判った.しかしながら,このDBのインターネットサイトのお陰で,旅行日程を事前にほぼ完全に確定できたのは有り難いことであった.
 さて,時刻表のように複雑で変更の多いデータの集まりを対象にしてこんなことを可能にするには, 高度なデータベース構造を持っていなければなるまい.DBはDeutsche BahnではなくてDatabaseの略ではないかと私は感じたほどである.私もデータベースをやってきた者として,その作りがどうなっているのか大いに興味がある.しかし私はデータベースに入れる中身(コンテンツ)を扱う側にいてデータベースシステムの方には余り詳しくないので,これはよく解らない.専門の先生に教えて頂きたいと思っている.
 もちろんDBに限らず,日本のJR各社もこのようなシステムを持っており,みどりの窓口をはじめ多くの業務に活用されているであろう.しかし私が今回感銘を受けたのは,みどりの窓口がお客の注文に基づいてJRなり旅行会社なりのスタッフが操作するのに対し,DBのサービスがインターネット上で誰にも無料で公開されていることである.しかも,そのサーチ機能は,上述したようにみどりの窓口より遥かに多面的で柔軟である.今回私は利用しなかったが,インターネットで予約することもできるようである.DBが国有でドイツ唯一の全国鉄道であることがこのようなサービスを可能にしている一要素ではあろうが,それだけでは説明できない気がする.私はここにいかにもドイツらしいデータの整理・組織化へのこだわりを感ぜずにはいられなかった.
 そんな感じを持ったのは,私が専攻分野とする化学物質のデータベースにおけるドイツの貢献を連想したからである.化学という学問は,厖大な化学物質の多面的な現象・性質を扱うので,過去の成果を整理・蓄積・提供する情報サービス活動が昔から活溌であったが,そのような几帳面さを要する活動はドイツの得意とするところであった.最古の文献抄録誌として1830年に創刊されたChemisches Zentral‐blattは米国のChemicalAbstractsにその地位を奪われ1969年に廃刊となったが,データ集,ハンドブックの編纂においては,ドイツは今日でもその伝統を守っている.物理・化学データのLandort-Bornstein,無機化合物のGmelin,有機化合物のBeilsteinは,いずれも世界第一の総合的ハンドブックとして,百年近く,あるいは以上にわたり連綿と編集・出版を続けている.Landort-Bornsteinは今日でも印刷物として出版されているが,他の2つは電子媒体に主力を移している.これらほど大規模ではないが,他にも熱物性データのDETHERM,スペクトルデータのSpeclnfo,無機結晶構造データのICSD,化学反 応データのChemlnformなど特色あるデータベースがある.
 このようなハンドブックやデータベースを維持するにはいくつかの要件がある:@データの選定,分析,評価をきちんとやれる専従の専門家の存在,A専門能力と実務能力を持つ指導者の存在,B継続的な活動資金.上記のドイツのデータベース作成機関では,データ作成に携わっているのはいずれも博士級の専門家であり,ディレクターやマネージャーの多くもそうである.彼らは10年,20年の長期にわたってその仕事に携わって飽くことがない.専門家の数は,大きなデータベースでも20人程度あればよいので,その資金はそれほど巨額ではないのだが,長期にわたる維持はなかなか難しい.というのもデータベースは投資の効果がなかなか見えないからである.
上記の3つの要件を充たして,評価されるデータベースになるまでに10年,年間出資に見合う収入を得るまで20年はかかる(そうなれば恵まれた方である).
 ドイツではその国民性か,諾々の困難に打ち克って立派なデータベースができているが,今後の見通しは必ずしも楽観できるものではない.しかし,これに携わってきた科学者の強い熱意を見ると,これからもいろいろの障壁を乗り越えることができるだろうと思うし,又,乗り越えることを期待したい.
 日本ではこのようなデータベースが育つことが難しいと言われる.その理由として,政府がすぐ成果の見えるものにしか予算を付けない,データ蓄積が研究のように評価されない,などが挙げられる.これはその通りであるが,評価されないと言っている研究者自身にも問題があるような気がする.ドイツの著名なデータベースもそれが評価を得るまでには数十年にわたる関係者の苦闘があったのである.


Germany, timetable and databases, by Natsuo ONODERA

本学教授