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エストニア国立図書館

藤野幸雄

 今年夏のほぼ一ヶ月,パルト海の東南,サンクト・ペテルブルグに達するフィンランド湾の入口の国,エストニア共和国にいた.エストニアは今回が3度目であり,前2回はきわめて短期の滞在で,かつ良い思い出がなかった.今回の滞在では,エストニア語とエストニア文学をいささかでも知っておこうと考えていた.そのため,週末は国内を旅行してまわったが,週日はもっぱら図書館に通っていた.首都ターリンに大きな図書館は3ヵ所あるが夏場にもっとも開館時間が長いのがエストニア国立図書館であった.
 この図書館は新館が完成したのが2年前であり,ヨーロッパの国立図書館ではいちばん新しく,きれいな建物といえる.この建築は目を楽しませてくれるばかりでなく,国立図書館の機能面でも一見に値する.入口から奥へと大きく分けて3区画があり,まず公共スペース(書店,古書店,会議室,画廊,花屋,文房具屋,クローク,食堂,喫茶室),次いで閲覧スペース(3階から7階まで),その奥に書庫がある.玄関内側の公共スペースは,天井までの吹き抜けの城砦づくりで,壁面には旧エストニア貴族の旗20本近くが入館者を迎えてくれる.全体は灰色の石造りで,それは対面丘上の旧市街にあるトーンペア城と同じ種類の石であった.石造の建築はともすれば暗い感じがするものだが,それを救っているのが入口頭上の大ステンドグラスの窓と館内各所に配置された植物群であった.エストニア人の清潔好みと植物好きには驚かされるが,図書館内に花屋が店を構えているのはこの国くらいであろう.かつてソ連邦の一共和国であった時代には見られなかった光景である.館内の植物の手入れはたいへんであろうが,そのためには外気を充分に通さねばならないから,入口は吹き抜けになっており,閲覧スペースは窓が広く取られていて,書庫の部分と区別されているのであろう.
 各階の閲覧室は,参考室には中央にカード目録が配置されているが,その他では窓際に安楽椅子が配置され,楽な姿勢で本を読めるし,昼寝もできる.最上階には音楽資料閲覧室があるが,そこからの眺めは抜群で,ターリンの町並みの先にフィンランド湾が広がっており,晴れていればバルト海を航行するシリャ・ラインの白い船さえも望める.閲覧室と書庫を区分する場所には,専門の書誌係が個室を構えており,いたるところで職員が働いている感じが強調されるとともに,職員に話しかけ,質問する機会をいつでも捉えることができるといった構造である.しかし,難を言うなら,石造建築のせいか,ドアの立て付けが悪いためか,扉の開け閉めの音が閲覧室にまで響いてくる.
 書庫からの本の出し入れは,3階カウンターで行われるが,そこでは,請求した本をコンピュータで探って,書庫内のどこにあるかを確かめ,何分で窓口にでてくるかを教えてくれるので,待ち時間を有効に使うことができる.書庫内の機械化は,こうした窓口の操作が前提であるから,いずれは書庫でロボットが活躍することも想像できる.
 利用者用の目録はいまだカードが主であるが,それには2つの理由が考えられる.その第1は,かつての社会主義社会にあった蔵書構築と目録サービスの考えかたが残っているため,目録係が蔵書の各部門を把握し,コレクションとしての完成度を高めることを責務としているし,その仕事を誇りにしていることによる.理由の第2は,蔵書そのものの言語内容にあるだろう.蔵書全体が大きくエストニア語とロシア語に二分でき,ロシア語の割合は5割近くにおよぶからである.
 第2次世界大戦の末期,いわゆるモロトフ=リッペントロップの秘密協定により,バルト3国がソ連に併合されて以来,1992年の独立までの50年あまり,ロシア化の「負の遺産」が図書館の蔵書にも表れていた.この間,高等教育はほぼロシア語で行われ,国内では流入してきたロシア人のほうが幅をきかせ,もしソ連の体制がもう少し続いたならば,エストニア民族は,撲滅の憂き目にあっていたと言われている.ソヴエト時代のジョークにこういうのがあった.「世界一広い国はどこか知ってるかい.それはエストニアさ,国の西側はバルト海に接しているが,国民はシベリアにおり(スターリンによる大量強制移住政策を指す),政治の中心はモスクワにあるのだからね.」完全独立をとげた今日ですら,日本ばかりでなく,ヨーロッパの関心も今のところ薄く,独立後の国づくりを高見の見物といった恰好で眺めているだけである.国外に去ってゆくエストニア人はいまだに多く,流入し続けるロシア人,ウクライナ人はある数に達する.独立の事情もわが国ではあまり知られていない.ちょうど同じころ,日本人はサダム・フセインのイラク軍を攻撃するアメリカの近代兵器の威力を写すテレビ画面に釘付けになっていたからである.チェルノーブィリの原発の事故も,直撃したのはエストニアの森であった.
 ともかく,国立図書館の蔵書の大きな部分が自国語以外によって占められているのはいったいどういうことであろうか.そこには英語やドイツ語はわずかであり,隣国のラドウィア語の本もない.それらは国内で出版されなかったし,買い入れる資金に乏しく,また購入したとしても読み手がいないからである.同系の言語であるフィンランド語ならば読める者がいるが,フィンランド語の図書は,最近までは「ブルジョワ社会」の本であって書店にさえ並ばなかった.亡命した作家たちはフィンランドやスウェーデンで小説を書き,出版していたが,重要な文学遺産である作家(リスティキヴィ等)の作品を蔵書として完全に集めているところはない.これらの国の書籍は世界一くらいに高価であった.
 ターリンの人口の半数はロシア人であるから,図書館の利用者もそれに近い割合で多いし,ロシア語の蔵書を開架閲覧室から引っ込めるわけにはいかないし,独立国でありながら窓口の館員はロシア語をしゃべらざるをえない.いずれは状況も改善されてゆくであろう.それは,図書館の正面前の緑地に立つソ連時代の戦士の銅像が,献辞の言葉を剥がされ,今では黙祷しているというよりはうなだれているように見えることが象徴しているであろう.しかし,図書館蔵書のバランスを回復させるには30年がかかるように思える.
 エストニア共和国の人口は,全部で100万そこそこであって,このうちロシア人の占める割合は30%を超えている.こうした国にあっての出版産業は,読書熱心な市民が多いにせよ,他のヨーロッパ諸国の比ではない.児童書や小説の刊行だけは盛んなように見受けるが,一般の教養書や専門書の出版は困難である.さらに,独立後のエストニアでは,図書出版自体が外貨目当ての商売として,ロシアの書店に並ぶロシア語の本の生産地となっている状況もある.ここにも,いまだに引きずる「負の遺産」が表れているようだ.
 とはいえ,エストニア人は歴史を通して見るかぎり,その国民性は忍耐強く,教育にはきわめて熱心であって,教育にこそ民族の生き残りの途を見ている.それは作家タムサーレ,ヤーン・クロスの作品に表れている.独立してようやく,ソ連時代の生活を描いた作品も出るようになった.その時期の知識人は沈黙を余儀なくされていたものの,苦悩のなかで民族としての誇りを捨てることはなかった.クロスの作品『マルテンス教授の帰還』はこのあたりを描いており,ノーベル賞に価するほどの本格的な長編であった.
 ターリン滞在中は,結局,国立図書館でロシア語訳のエストニア小説などを読む羽目になり,エストニア語の勉強は進まなかったが,本を読みながらも,民族の知的遺産とは,国立図書館とは何なのだろうかといった問題を考えざるをえなかった.


附属図書館長
National Library of Estonia. by Yukio Fujino