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幻想図書館の虚実

金子務

 夏休みの一日、アメリカのCNNニュースを見ていたら、ヴァーチャル・メディア評論家という若い雑誌編集者が出てきて、「間違いなく数年以内に電子本時代になります」と託宣していた。顔をしかめながら言うものだから、てっきりそれに反対なのかと思ったら、単なる癖であった。いまの本屋の店頭に行って「××本を下さい」というと、その場でインターネットで電子コピーして、元のと同じ形の製本までして渡してくれる、とこのしかめ氏は言うのである。もう一人の女性の評論家も司会者に「でも著作権などは守られますか?」との質間に、「ベルヌ条約はインターネットにも有効ですから」と楽観していた。私はこれを見て、「あー、これは技術屋の発想だな」と呟いてしまった。と同時に新着雑誌をばらして読み取らせ、要らない広告欄などを消去して、デジタル・ニュースとして試験的に学内に提供していた、奈良の先端科学技術を誇る大学図書室での作業風景を思い出した。
 雑誌にしても本にしても、文字や図・写真を配列した情報媒体物にすぎないとする立場にあれば、こういう解体や変容も甘受しなければならないだろう。しかし出版物が装丁され紙とインクを吟味した文化の結晶だとする立場の人間からすると、なんともうすら寒い功利主義と実用主義の手本を、そこに見てしまうのである。安部公房の若い時代の短編に「壁」というのがあって、使い捨てにされる名刺たちがついに反乱するという設定であったが、本や雑誌の出版物が本気で反乱するとしたら、出版人たちはどっちにつくのかな、などと思わず真夏の夜の夢を見てしまった。
 私は昭和30年代の初めに新聞社に入ったが、放送といったらラジオの全盛期で、日本映画も世界的に健闘していた。テレビはまだ街頭紙芝居の試験の域を出ず、マスコミの王者は新聞、という世評も揺るがなかった。しかし数年も待たずにテレビ時代に突入すると、悲観論者がばっこした。「新聞はテレビにやられてしまう」「ラジオや映画もおしまいだ」etc。結果は見ての通り、それぞれ特色を活かして共存していることはいうまでもない。テレビの登場で提供される情報は一段と豊かになったが、他を併呑するはずもなかった。この時代の体験がネット利用の電子本にも当てはまる、と私は思っている。電子本には私自身も大いに関心があるが、さればといって、1450年のグーテンベルクの印刷革命以来、営々と築き上げてきた書籍文化が、一掃されてしまうなどということは蕃族のせりふさ、とうそぶきたいのである。
 ただし電子図書館の問題となると話は別である。ややこしい著作権や版権などの問題をクリヤーせねばならないが、この未来はとてつもないSFをはらんでいるからである。真夏の夜の夢を見たついでに、ボルヘスの夢といってもよいかも知れない幻想図書館の夢を見るのも悪くあるまい。ボルヘスはもう10年以上前に死んだアルゼンチンの、ノーベル賞受賞作家である。彼の幻想にもなかったことだが、世界的にネット化される未来の電子図書館網は、その遠近法の消失点にボルヘスの幻想をもつのではあるまいか、そこに幻想図書館もヴァーチャル・リアリティが与えられるのではあるまいか、と私は夢想するのである。
 ボルヘスの幻想短編集『伝奇集』にある「バベルの図書館」を読むと、図書館について奇妙なイメージを提出していることがわかる。出だしからして妙なのだ。「その宇宙(他の人々はそれを図書館と呼ぶ)は、中央に巨大な換気孔がつき、非常に低い手摺をめぐらした不定数の、おそらく無数の六角形の回廊から成っている。どの六角形からも、果てしなく上下の階がみえる。」(篠田一士訳)いわば蜂の巣のまん中がすっぽり六角形に抜け、しかもその蜂の巣構造が上下と四方に無限につながって空間を充墳している、そんな幻想の図書館なのである。出入口の一辺以外の五辺には書棚が並ぶ。つまり情報を入れるべき所蔵空間が無限にあるのである。
 実はウンベルト・エーコ原作の映画「薔薇の名前」の事件現場・修道院図書館が、そういう構造に描かれていたことを思い出す人も多いだろう。私は、数年前の夏、ガウディのサグラダ・ファミリアを訪れ、その塔にある中空の狭い螺旋階段を一人でどこまでも上っていったとき、後ろを振り返って足下を見た瞬問、深く渦巻く黒い孔に吸い込まれそうになって立ちすくんでしまったことがある。無限の六角形の孔と無限の鏡像の続く空間の異様さは、この戦懐すべき体験を超えて、なお想像に余りある。だから「バベル」のライブラリーなのであろう。
 ボルヘスはさらに「バベルの図書館」の公理を与える。
  公理1 それは永遠を超えて存在する。
  公理2 正字の数は25である。
  公理3 同じ本は二冊とない。
 公理1は説明不要であろう。なにしろもともと無限の時空構造体なのだから。正字は基本になる字母、アルファベットのことだが、ボルヘスは22字とし、さらにピリオド、コンマ、スペース(字間の区切り)の3字が加わる。アルファベットは自然の象形文字であって、ラテン語字母やハングル字母の23字よりもどういうわけか1字少ない。それらのあらゆる可能性の組み合わせを所有しているというのである。正字からすべての言語に翻訳され、書きかえられる。しかもまたその1冊を除くすべての所蔵本の完全な概要である本も、どこかの棚にあるはずと見なされ、多くのものがそれを入手しようと巡礼しているが、まだ見つかっていない。
 こういう幻想図書の宇宙世界では、私たちがこれから書こうとしているものも含めて、すべてのテキストが意識されない引用であり、明確な世界認識を伴う場合には盗用であることになる。したがって著作権なども成立せず、すべての新発見は発掘にすぎなくなるだろう。まことに過激な幻想である。
 電子図書館の個々のレベルでの構築がいかになされるかの段階を超えて、インターネットの網が世界的につながって、しかも生き物のようにそれが肥大化していくさまは想像できる。このネットがいわばボルヘスの相接する六角形の壁であり、それぞれの細胞の単位が図書館あるいはそのまた各分野の図書室であると考えれば、そのような図書館や図書室が数限りなく増えていくとき、ボルヘスの幻想図書館へとなにほどか接近するとみてもよいのではあるまいか。
 無限にも、数え切れないほど大きいという意味での事実上の無限と集合論でいう論理的無限があり、数学上の無限には1,2,3,4 …などという自然数の無限(これをアレフ0の無限という)は、有理数と無理数(平方根、円周率πなど)を含む実数の無限(アレフ1)よりも小さいことが証明されている。事実上の無限に拡るネットワークと、同じく無限の活字情報が同じく無限の組み合わせを待つ世界が、その先にはある。かつてある数学者が、サルがでたらめにタイプライターを叩いて『ハムレット』を打ち出す確率は10の46万乗 (10460000) 秒に1回で、限りなく確率は0であるとした。宇宙誕生以来の150億年といっても、秒に直すと4.7×1017秒にすぎないのである。
 SF作家で情報学者のルディ・ラッカーは、情報が複雑なあまり理解不能になるのは人間の脳のスイッチ数30億という数に関係していて、10の10億乗(101000000000これを1ギガプレックスと呼ぶ)ビット列が人間の理解可能の限界だとしている。とすれぼ、消失点のボルヘス的世界までに行くには、電子図書館網と書籍の種類の複雑度は事実上無限の多様性を持つことが保証される。
 あゝ、がんばらなくちゃー、と思ったら私の夢が覚めたのである。


本学・教授
Visionary library as it is true or not. by Tutomu Kaneko