表紙へ     次の記事

仰げばなつかし

赤星隆子

 今年も、卒業の季節となった。人前でしゃべるのが苦手で、好きなだけ本が読めると誤解して図書館員になった者がいつのまにか教師として馬齢を重ねている。学生、なかでも図書館の現場に出る人々に対して、どのような講義をし、どういうかたちで授業をすすめればいいのか、伍泥たる思いで考えてしまうのがこの時季である。

 それにつけても自分自身はどのような図書館員の養成教育を受けて来たかと、振り返るとき、いつも思い出すのは、フランスの国立図書館学校の「書誌」のL先生である。この授業は今で言うレファレンスにあたるものだが、事実を探すのではなく、特定の文献がどういう書誌や目録をたどれば見つけられるか、文献探索を徹底して教えるのだ。先生はフランスの書誌学の第一人者マルクレスの一の弟子で、当時国立図書館の書誌課長だったと思う。週一回、国立図書館から道を隔てて向かい側にあった図書館学校へ沢山の資料を抱えて先生が出講されると教室の40人ほどの学生がシーンとする。まずマルクレスの書いた教科書を使って主要な書目やそこから派生する特殊書目について詳しい講義があり、後半では先週出た宿題の答えを学生にあてて言わせられる。その宿題がただごとではなく難しい上、どうやってその書目にたどりついたか最短距離を理路整然と言わねばならない。すこしでも寄り道をしているとつぎの人が指され、正解がでるまで前の人は立ったままでいなくてはならない。本稿を書くにあたって、この例題を探したがどうしてもみつからないのだが、私の記憶では一つは「毛沢東のある特定の詩の仏訳の初出」というのがあったと思う。先生の宿題のために、学生は木戸御免の国立図書館の書誌目録室に入り浸り、お互いに手分けして、立たされずに済むよう頑張ったのだが、成功率は低かった。先生は、手当たり次第に書目を探したあげく資料をみつけるのなら素人でもできるが、プロの司書は何をまずどう使うか、次は何、と段取りをつけるかを前もって論理的に知っていなくてはならない、といつも言われた、国立図書館の書誌目録室のカウンターに先生が出られることもあったが、いつ見ても立ったまま、資料は何一つ手元に置かず世界各国から集まる研究者の相談に答えておられた。試験は論文形式だったが、ここでもただ知っていることを羅列するのではなく、論理的な構成をするようやかましく言われた。

 学生は皆大学を出ている上、フランス人は不平をはっきり言うので、あまりの厳しさに「小学生じゃあるまいし」などと騒ぎだすこともあった。しかし先生がすこしもあわてず、にっこりとして「いい子にしてね。おしゃべりはやめて静かに」といってウインクなさると学生はがくっ、ふにゃっとするのであった。というのも当時、先生はもう若いとはいえない年配で、服装も地味ではあったが、その秋霜烈日の授業ぶりとはうらはらに、実に魅カ的な女性だったからである。フランスの19世紀の小説などに若い青年が中年のマダムに夢中になる話が多いのはこういう方がいるからだ、と当時の極東の田舎から出てきた私は納得したものだった。事実、教室でも先生が入って来られると最前列に陣取った男子学生数人が先を争って、コートを脱がせ、革手袋を受け取ってしわをていねいに延ばし、授業が終わると、立たされ、しぽられたことは忘れたかのように、コートをお着せして、カバンをもってお送りするのだった。こうして、専門書誌は充実していても全国書誌や総合目録は不十分だった当時のフランスの資料探索法をいやというほど詰め込まれた。

 先年、当時の同級生で今は各地の図書館の管理職になっている何人かと再会したおり、L先生の授業の話が出た。「あの恐怖の宿題がなかったらとてもあれだけのことは勉強できなかった」「図書館の原点をたたき込まれた」などと口々に言ったが、あの授業は現場でも応用がきき役に立った、という点でも一致した。私は卒業試験が終わり、帰国すれぱ日本にはそうした書目はほとんどなく、使う必要もなく、ならったことは全て返上してしまったが、とことん資料を探求する原則と根気はその後も役に立った。

 もう一人の恩師はアメリカの図書館学校のM先生である。「児童資料論」のクラスを担当されたが、絶対休講はせず、やむをえないときは講義が録音してあるテープが先生の代理をつとめ、それについて学生同士の討論を録音し提出した。3ヵ月の問に一人50冊の児童文学作品(絵本ではない)を読んでそれぞれに書評を書くいわゆるタームペーパーのほかに、レボート、討論はほぽ毎週という、学生、とくに私のような外国人にはつらい授業であった。

 先生は提出物全部に毎回すぐに目を通し、討論での発言をも記憶して、一人一人を研究室に呼び、こまごまと不十分な点を指摘し、よくできた部分をあげて励まし、文法の誤りまで直し、なぜこの評価をつけたか説明してくださった。私は先生をきびしい方と思ったが、学生のよい点は認めてくださる態度がよくわかり、そのために山のような課題もなんとか切り抜けることができたのではないかと思っている。

 だれかが200パウンドはある、と言っていた超ふくよかな体躯の持ち主で、いつもダイエットコーラを片手に授業をしておられた。私のいた年を最後に先生は他学に招かれ移られたが、最終回の授業は先生のすてきなご自宅にクラス全員を招んでくださった。あかあかと薪が燃える暖炉を前に学生それぞれがブックトークをしたが、ここでも詳しいチェックがはいり、点がつけられ、折角出してくださったお手料理もありがたみが半減した。

 今考えると、たとえ大学院の12,3人の学生とはいえ、ほかの授業ももち、ALAの児童図書館協会でも精力的に仕事をしておられたうえで、ひとりひとりにここまで懇切に対応することはどんなにか大変だったろうと思う。

 誤解のないように言っておくが、約30年前の米仏の図書館学校の授業は全部がこうしたやりかたではなく、むろん、講義形成が多かったし普通の演習もあった。しかし、その後の自分の体験から考えると、図書館で働くうえには、苦労して獲得した具体的な知識や考え方が単にその分野だけでなく、仕事全体の基礎として有効な面も多い。子どもの本とはいえ短期間に5,60冊もまとめて読んで書評を書き、それについて詳しい指導をうけれぱ、もうこわいものはないような気にさえなってくる。今後一生使うこともない書目でも、徹底的に使い方を知れぱ、少なくとも文献探索の面白さ、厳しさがわかり、おっくうではなくなってくるものだ。

 M先生、L先生は大西洋をへだててはいても共に現場の経験があり、仕事をよく知っておられ、こうした授業をあえてなさったのだと思う。私のような怠け者はこの機会がなければ何も身につかずに終わったと思うと、大変なエネルギーをそそいで指導してくださった先生方に改めて感謝している。

 アメリカでは現在も「児童資料論」では何十冊も読ませることが珍しくはないようで、各大学の担当教師に何冊読ませるかアンケートをとった資料もあるが、これによれぱ平均60冊で、80冊、100冊というのもあった。私も一度くらいは、一人50冊とまではいかなくとも、せめて20冊くらいの子どもの本を読む課題をだしてみたいと思うものの、80人の提出物をどうやって限られた時問内で処理できるかを考えると実行できずにいる。

 学生の討論を取り入れようとしても、こちらの仕向け方が下手なせいか、議論にならずに意見発表に終始し、人数の関係で全員参加討論には程遠いこともある。それにつけても自分の能力不足とエネルギーのなさに恥じ入るばかりである。

 大学なのだから、普遍的な基礎を伝えればいいのだ、という言い訳けをしながら、この季節になると我が旧師のありがたさ、偉さをあらためて思い出すのである。


本学教授
Once upon a time... by Takako AKAHOSHI