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書名と中身

小野寺和夫

 そろそろ「21世紀」という言葉が聞かれるころとなったが、かつては20世紀というのが,なにかしら新鮮さを感じさせたようである.二十世紀梨というのもあるし,私の書棚にも藤井信吉編「二十世紀独和辞書」なるものが載っている.1907年初版であるが,手元のは1911年の訂正増補34版で,当時はたいへん売れたものらしく,今でも古書店でいろいろな版が見受けられる.ところで序文によると,本書ハ「ウェーニヒ」氏独乙語原書及ビ「カッセル」氏独英辞書ヲ根拠トシ,カタハラ「ザンデルス」「フリューゲル」・・・「ヒース」等諸家ノ著書ヲ参酌編纂セルモノナリ,と書いてある.ここでウェーニヒ氏とあるのは"Wenigs Handwoerterbuch der deutschen Sprache"に違いない.これは1921年Chr.Wenig氏が編集し,同氏の没後もいろいろな人が改訂増補を続けて,当時の最新版は1896年の8版である.我が国にも盛んに輸入された中型で手頃な独々辞典と言える.
 ザンデルスのほうは,D.Sanders氏の大独々辞典(59-65)かもしれないが,これは学問的にはともかく,大判の3巻もので,独特の配列法もあって使いにくい.むしろLangenscheidt社の依頼を受けた同氏が,E.Muretと共編した独英・英独で,ふつうMuret-Sandersと呼ばれるものであろう.これは編集に約30年をかけて,1900年に独英・英独それぞれ1巻ずつのが,1901年に2巻ずつのが出版された.大いに愛用された本で,特に1巻ずつの小Muret-Sandersは1944年に19版,戦後も最新版が独英1982年,英独1985年に出ている.
 フリューゲルはF.Fluegel氏のことらしく,彼は1891年"Allgemeines E-D und D-E Woerterbuch"を,のちI.Schmidt,G.Tangerと共に1895年にFluegel-Schmidt-Tangerと略称される独英・英独の分厚い2巻本を刊行した.もっとも,これは印刷技術面のこともあって,Muret-Sandersには競り負けたようである.
 さてカッセルとヒースが問題であるが,前者は,ロンドンのCassell & Companyが1880年から出した独英・英独だろう.編者はE.Wair女史,1906年にK.Breul氏の改訂版もあるが,こちらを利用するには時間的に無理があろう.ともかくその後も改訂増補を続けた名著で,最新版は今でも洋書店の書棚に見られる.
 ところでヒースについては,それらしい手がかりは見つからずにいた.ただ何年か前に神田の古書店で"Heath's German Dictionary"なる本が目についた.版元はHeath & Co.とある.どうやらこれが藤井氏のいうヒースの辞書らしいと,いちおう手に入れたものの,そのまま本棚のすみに押し込んで,ろくに中身を見ることもなかった.しばらくして,私の奇妙な関心を知った本学の元副学長の木澤誠先生が,背表紙に"Cassell's New German-English, English-German Dictionary"とあるものを下さった.だいぶ使いこまれたらしく,表紙なども剥がれかかっているが,恐る恐るタイトルページをみると"A New German and English Dictionary"とあって,背表紙とは少し違う.下のほうにはMCMIXつまり1909という年号が書いてある.
 われながら変なことを覚えていたものだが,1909というのは,かのHeath社版の序文に添えられていたのと同じである.そこでこれを引っ張り出してみると,こちらはタイトルページも背表紙と同じだが,改訂者がCassell社のと同じK.Breul氏で,序文も一字一句同じである.ただ末尾がCassell社のはCambridgeにてK.B.なのに対してHeath社のほうはCambridge,10,Cranmer Roadにて1906年8月,K.B.で一旦区切ってから「さらに若干の訂正を行った」として数名の協力者の名を挙げ,またCambridge 10,Cranmer Roadにて1909年復活祭,K.B.と付け加えている.この辺は少し違うが,あとは凡例から本文まで,両者は各ページの割り付けも含めて全く差異がない.そしてHeath社のタイトル裏にはCopyright,1906,by William T.BeldingとあってCassell社からの版権取得を窺わせるが,同じものを別々の出版社が,別々の表題で出していたとなると,古書店から買い求めた上に木澤先生から頂いた私は,果報者というべきか間抜けというべきか.
 ここまでは書名が違って中身が同じという例だが,逆に名前が同じで中身が違うのは,けっこうありそうだ.何々学概説とか何々事典とかは,いろいろな人が作っているわけである.
 ドイツ語の世界では,正書法つまり文字つづりの規範たるDuden正書法辞典は,Konrad Duden氏の手になる1880年の初版から,すでに百年以上にわたるロングセラーである.最新版は1992年の20版であるが,東西ドイツの分裂時代には,14版から18版まで東西別々に出ていたので,確認されていない第2版を除いても,24種類の版が数えられる.要するに数年ごとに全面的に組み換えてきたわけで,それぞれの語彙の出し入れのほか,記述方式の変更も見られる.
 これに携わる編集陣はすこぶる勤勉かつ有能で,1935年には文体辞典・図解辞典・文典を加えた4巻のDudenシリーズを揃え,さらに戦後の1970年までに,外来語辞典・発音辞典・類語辞典・語源辞典・疑問解決辞典・語義辞典の計10巻シリーズとなった.これで終わりと思いきや,最近は慣用句辞典・引用句辞典も加わり,今や12巻物である.しかも次々と改訂新版を出すしまつで,買うほうは息切れしかねない.
 その中でも類語辞典の場合,1964年の初版では類語間の微妙な意味や位相の異同を,実際の引用文を添えて解説したものだった.1972年の第2版は,かのRogetのThesaurusをAbc順にしたような形になっている.語彙数は格段に増加したものの,個々の語の説明はほとんどないので,私などには容易に使いこなせない憾みがある.初版の解説も捨てがたいが,類語のニュアンスの把握には個人差があり,ある編集部員からの私信によると,記事に対する数々の異論も,この変身に踏み切る契機だったという.
 一見あまり変わらないように見える文体辞典(Stilwoerterbuch,より正確には用例辞典ないし活用辞典)も1934年の初版から1990年の7版までをたどると,途中で大きな変革が見られる.すなわち1963年の5版までは,一般的な用例のほかに,世の文筆家の句例・文例を掲げているが,1971年の6版では,この種の用例をすべて削除した.代わって熟語的な用法を太字で提示することにした.ちなみに東独で1966年に出た"Stilwoerterbuch"は,全く別の構想で作られたもので,むしろ"Woerter und Wendungen"と名乗ったものがこれに近い.
 Duden編集部の狙いが,典型的な現代ドイツ語のための指針を提供することにあったとすれば,先人の用例は,それがゲーテやシラーのような優れた文才の所産であろうとも,今日の使用者にとっては,今や必ずしも模範とは限らないはずで,こちらは後発の引用句辞典で生き返ることとなる.ただ初版の年号を考えると,ヒトラーなどナチの連中の語録も少数ながら組み込んだのは,辞書作りの現場を知る者から見ると,神業的な芸当と言うほかはない.
 さて熟語の一括提示のほうは,英語の世界では早くからあるのに,ドイツ語界では新機軸とされた.ただ先駆者の悲しさで,選別基準の不明確さと,同一熟語の重出が目立つが,これは7版で大いに整理された.それにしても独和辞典でしばしば見られる,同じ用例の掲出個所による訳語の揺れは,さすがネイティヴ・スピーカーの作だけに,ほとんど起こっていない.
 最近のある独和辞典の書評で,今どき20年も前に出たStildudenの引き写し云々という言葉があったが,評者は1988年の7版をご存知ないのかもしれない.新版を一々追いかけるのは骨だが,やはりDudenシリーズの場合は,こちらもせっせと買い足してゆくほかあるまい.


本学・学長
Title and contents, by Kazuo Onodera