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長谷川等伯
[読み] はせがわ・とうはく
[始年] 1539-
[終年] 1610年
[Y1] 1571年、父長谷川宗清、母妙相没す(本法寺法華本尊像銘)。この頃上洛か。
[Y2] 1572年、等伯34才。同年の日尭上人像落款「父道浄六十五才長谷川帯刀信春三十四才筆」によって、等伯・信春同人説が有力となる。春日信春と等伯は本朝画史では別項目としている。本朝画史は他の画伝書と異なり春日絵所信春と長谷川久蔵を別人とするが、画印に伝長谷川信春の名和長年像印を載せる。
[Y3] 1573年以前に「武田信玄像」を描く。
[Y4] 1579年頃、信春から等伯と改号か。
[Y5] 1583年、大徳寺総見院に障壁画を描くか(宝山誌鈔)。「利休居士像」を描く。
[Y6] 1590年、御所対の屋の制作を狩野永徳に阻まれる(晴豊記)。
[Y7] 1591年、祥雲寺障壁画(現、智積院蔵)を描く。
[Y8] 1592年頃、「等伯画説」を日通上人筆記する。
[Y9] 1593年、長男久蔵没す。
[Y10] 1599年、本法寺再興に尽力する。
[Y11] 1604年、法橋となる(御湯殿上日記)。
[Y12] 1605年、法眼となるか(長谷川家系譜)。
[Y13] 1610年、徳川家康の招請で江戸へ赴き到着後没す
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