先般東京でゲルマニストの国際学会が催されたときに,ディーター・ドルン演出のゲーテ「ファウスト」が日生劇場で上演された.これは「第一部」だけで延々と五時間を要し,間狂言の部分なども含めてかなり忠実にテキストを追った演出であったが,退屈させるどころか,興味深々時の経つのも忘れさせるものがあった.ところがその後,飲み仲間との会合などで話題になったときに,これが大分人を憤激させる演出であったらしいことに気づかされ,無批判の観劇を反省させられた.確かに天上の「主」が現れる崇高な場面などもいやに即物的で滑稽味さえ帯びるのはやや挑発的で,イメージ破壊的演出であったかもしれない.特にワルプルギスの夜の魔女達がリアリスティックに描かれると,その量感はグレートヘンの可憐な形姿を押しつぶしてしまうに十分である.全体が悪の祭典で終わってしまったという感も否めない.
しかしわれわれがゲーテの「ファウスト」に期待するイメージとは一体何であったのだろうか.それは純粋無垢の少女グレートヘンの可憐さであり,それが身を滅ぼす哀れさであり,そして最後には毅然として処刑台に向かう少女の自己克服とそこに注がれる天上の「主」の慈愛の眼差しである.そこには純粋な愛と道徳的な気高さすらある.ドイツ人が抱いてきたそのような「ファウスト」のイメージがキリスト教的観念と結びついていることは言うまでもない.一方キリスト教的観念と無縁のわれわれがこれを日本的メロドラマとして誤解したとしても不思議はない.このような神話は,ゲーテ自身が自伝の中で,かつて自分が見捨てた少女フリーデリケに対する罪の意識を,グレートヘンの形姿と関連させたことによっても増幅せられたのである.
ところが文献学者ボイトラーがゲーテ家の古文書の中から若き日の青年弁護士ゲーテが携わった「嬰児殺しの女」の事件に関する記録を発掘し,それがグレートヘン悲劇の題材であり,創作の直接の動機であることを裏付けて以来,グレートヘンのみならず,「ファウスト」という作品のイメージが大いに変貌したのである.グレートヘン悲劇とは,ファウスト伝説のあるモチーフをゲーテが罪の意識といった個人的感情で膨らませたというようなものではなく,当時なお魔女裁判の因習を残していたドイツの現実であり,生々しい事件そのものであったのだ.最近ゲッティンゲン大学の教授シェーネは,「ファウスト」の初期の構想を明らかにし,ワルプルギスの夜の場面が当初ブロッケン山頂の「悪魔のミサ」で終わるはずであったのに,それが読者の良風美俗を刺激しすぎることを懸念し,大幅に修正した事情を明らかにしている.さらに教授はグレートヘンのことをはっきり魔女と呼んでいる.
このような背景を理解すれば,「ファウスト」はとうていメロドラマ風に追体験できるものではなくなってしまう.そこには若きゲーテのキリスト教会に対する異端者的立場が隠微に織り込まれている.遊蕩児のファウストがグレートヘンのためにわざわざ悪魔に命じて調達させた宝石箱がまんまと坊主にせしめられるくだりほどに教会に対する鋭い諷刺はないだろう.つまりグレートヘンが魔女となって身を滅ぼす過程は,人間に宿る自然的本性の礼讃であり,その意味では本来挑発的であったのだ.