Readingバトン(関根久雄 人文社会系教授)

2015年6月18日
Readingバトン -教員から筑波大生へのmessage-
梅村先生に続く第19走者として、関根久雄 人文社会系教授から寄稿いただきました。

 

 

Pick Up
『文化としての涙 : 感情経験の社会学的探究』北澤毅編. 勁草書房, 2012.12【分類361.4-Ki75】

Book Review
 年齢を重ねるにつれ、自分の涙もろさに気づかされることがある。若い頃に涙を流した記憶はない。悲しくても辛くても嬉しくても、たとえ心の中で泣いていたとしても、そのような感情が「涙を流す」行為にまで結び付くことは、まずなかった。しかし最近では、ドラマやドキュメンタリー番組を見ていて、特に親子の絆をテーマにした内容に接すると、感動し、もらい泣きをしてしまう。そのような時、私は、一緒にテレビを見ている家族に悟られぬよう、何とかその涙を誤魔化そうと苦心する。その「努力」は無意識のうちに行為化されたものであるが、「男は泣くもんじゃない」「泣くのは女々しい姿でみっともない」という、涙との距離の取り方に関する暗黙の行動規範(「昭和的な」規範?)が私の中にあることを示しているのかもしれない。
 本書は、「涙を流す」という感情経験のもつ社会性・文化性を様々な事例を通じて明らかにすることを目的とした、感情社会学の比較的平易な研究書である。元々社会学では、デュルケームとモースが感情の明示しづらい性質からそれが分析対象になり得ないと警告したように、またウェーバーが行為論において感情を非合理的と位置づけ、合理的選択を攪乱する要素として捉えたように、感情をその研究対象から遠ざける傾向にあった。その流れに沿えば、当然涙は生理的現象や個人の内面に生起した非合理的な感情の発露とみなされる。しかし、1970年代になると、感情経験は社会的なものであるというテーゼのもとで感情とその社会的・文化的要素を考察の対象とするようになっていった。本書でも繰り返し参照されている1980年代以降の感情社会学の中核を担ったホックシールドは、感情経験において人々はその社会あるいは場に存在する(はずの)感情表出に関わる一定のルール(感情規則、あるいは価値判断の枠組み)と自らの感情とを照らし合わせてから社会に適合するかたちに整形すると述べている。人が何かを感じている状態は、その人が何らかの方法でその思いを表出しない限り社会的には存在していないのと同じである。感情とは人が感じたことだけでなく、その言語的・身体的表明でもあり、常に他者の前に示されるものである。
 どのように社会の中に示されるかはその社会や集団にある一定の感情規則という価値判断の枠組みの内側で行おうとするのが一般的である。例えば、本書の第8章ではドラマの3年B組金八先生に出てくる卒業式での涙(生徒も先生もみんな一様に泣く場面)を題材にして、感情の枠組みについて述べている。卒業式でみんなが泣くのは、単に個々人の別れの悲しさの発露するタイミングが偶然一致したからではなく、「卒業式ではみんなが泣くもの」という感情規則を暗黙のうちに皆が内面化しているからであると説く。みんなで泣くことによって、学園生活の最後に気持ちが一つになった(なっている)ことを確認して感動的に終えることができる。つまり、その時彼らは特定の規範によって成立する一種の「感情共同体」の中にある、ということである。
 人間集団(社会)に内在される感情規則の存在とそれへの参照の結果としての行為という連続性のもとで感情を捉える試みは、捉えどころがない生理的反応とされてきた感情を文化的合理性のもとに位置づけ、理解可能なものに仕立て上げてきたと言える。
 このような自分や周囲の人が抱く様々な感情とそれに基づく行為を社会文化的視点から眺めてみると、人間の新しい側面が見えてくる。とりわけ涙は、歌詞や歴史的逸話、伝説、教訓などにも頻繁に現れる対象であり、それだけに人々の内面に訴えかける強い「力」を備えてきたとも言える。感情の発露としての涙。社会や文化の中に置かれることによってはじめて、その意味は理解可能なものとなるのである。
 ただし、「女の涙」だけはいつになっても理解できそうにない。これだけは私にとって唯一の例外であり、永遠の課題である。

■次は、稲葉信子先生(芸術系教授)です。