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体操伝習所旧蔵書が語るもの

特別展「身体と遊戯へのまなざし−日本近代体育黎明期の体操伝習所(明治11年〜19年)−」

大熊廣明

 体育科学系と附属図書館の共催による特別展「身体と遊戯へのまなざし−日本近代体育黎明期の体操伝習所(明治11年〜19年)−」が、12月6日から17日まで中央図書館貴重書展示室で開催された。体操伝習所はわが国の学校体育の選定と学校体育教員養成のために、文部省が明治11年に設立した機関である。その後、明治18年に東京師範学校の附属となり、翌19年、東京師範学校に体操専修科が設置されると同時に廃止された。
 体操伝習所は明治18年度の時点で、和書4,945冊、洋書582冊を所蔵していたことが、大場一義・元本学教授の研究で明らかにされている。これらの図書は体操伝習所の廃止に伴って東京師範学校の所蔵となり、その後、高等師範学校、東京高等師範学校、東京文理科大学、東京教育大学を経て現在筑波大学の所蔵となっている。この間、行方不明となった図書も少なくないが、これらの蔵書は概ね体操、生理学、解剖学、衛生学、操練、遊戯、武術、その他に分類することができる。この傾向は体操伝習所の教育の内容がどのようなものであったかを物語っているが、特別展はこれら体操伝習所旧蔵書を中心に、学外からお借りした資料を加え、体操伝習所の開設に至る経緯、教育内容、施設、卒業生の進路と活躍などを説明する構成になっていた。

 ところで、体操伝習所の開設に重要な役割を果たした人物として、田中不二麿と伊沢修二を挙げることができる。田中は文部大輔として体操伝習所の設立を計画し、アメリカのアマースト大学に教師の派遣方を依頼した人物であり、伊沢は体操伝習所の初代主幹としてより具体的な構想を描き、それを軌道に乗せた人物である。伊沢は体操伝習所に関して、極めて重要な二つの文書を残している。一つは明治11年に書かれた「新体操実施の方法」あるいは「新設体操着手方案」と呼ばれているもの(実際は無題)。他の一つは翌12年に書かれた「新設体操ノ成績報告」である。前者は体操伝習所の具体的な構想であり、生徒選定の方法、従学の方法、体操場建設の目的、着手の順序などが記されている。また後者は、約一年後における新しい体操の効果の報告であり、活力検査によってその効果を実証しようとしたものである。すなわち伊沢は、食事の量、肺活量、胸囲、握力、力量(懸垂)、身長、指極(注)および体重の増減、ならびに体操と疾病との関係を統計表に表わし、体操の適否を検証しようとしたのであった。人体を測定して数値に表わす方法は、わが国ではここで初めて行われたとされており、体操伝習所における活力統計は、日本人の身体を学術的に測定し、考察した最初のものと考えられている。いずれも罫紙に書かれたもので、長野県の上伊那郷土館が所蔵している。今回は残念ながらオリジナルを展示することはできなかったが、カラーコピーによって伊沢が推敲した朱色の筆跡が再現され、後に音楽教育や吃音矯正の分野でも高い評価を得ることになる伊沢が、若き日に体育に取り組んだ様子を偲ぶものとなった。。
 次に、体操伝習所の教育に関して重要な人物を挙げるとすれば、リーランド(G.A.Leland)と坪井玄道ということになろう。リーランドはボストンのアマースト大学卒業後、ハーバード大学で医学を学んだ人で、後年アメリカ喉頭学会の会長を務めた。彼が来日することになった経緯については省略するが、アマースト大学在学中はヒッチコックに体育の指導を受け、体操の成績も優秀であったといわれている。体操伝習所における彼の講義は『李蘭土氏講義體育論』にまとめられており、図書館に所蔵されている。内容は、緒言、遺伝の事、風土の関係を論ず、風習の事、体操の身体各部に生ずる効果(筋関係、血液循環系統、呼吸器、栄養器、皮膚、神経系統)、体操の分量、および体操歴史から構成され、罫紙に手書きされた90丁の書籍である。おそらく明治13年4月から14年6月末までの間に成ったもので、筆者は坪井玄道だろうと推察されている。展示された本書は、わが国初の体育論の講義内容を記している点と、この一冊以外には存在しないという点で、わが国における体育関係書中、最も貴重なものの一つになっている。
 また、明治15年に体操伝習所から『新撰體操書』と『新制體操法』という2冊の体操書が刊行された。前者はリーランドが実地に教授した内容と所説を訳述したものであり、後者は体操伝習所の第一回卒業生がリーランドの教授内容を基に、わが国により適した体操法として編纂したものである。両書とも歓迎され、これらを参考に各地で多くの体操書が刊行された。この2冊の本がわが国の学校体育に与えた影響は大きい。
 一方、坪井は生涯に25冊の編・著・訳書を残した。体操伝習所時代には田中盛業(体操伝習所第一回卒業生、同教官)との共著で、『小学普通体操法』(明治17年)と『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(明治18年)の2冊を著わしている。前者は小学校体操指導書として初めて刊行されたものであり、上・下2巻からなる。また後者は、二人三脚競走、綱引、フートボール、ローンテニス、ベースボール、操櫓術など、馴染みのあるものも含め21種目を解説した遊戯書である。遊戯書としては、これが出版される2年前に東大予備門の英語教師ストレンジ(F. W. Strange)によって"Outdoor Games"が刊行されているが、日本人によって書かれたものとしては本書が最初である。上の2著からわかるように、坪井は体操の研究と教育をするかたわら、早くから戸外遊戯の体育的価値を認識し、体操と併用すべきことを唱えていた。このような考え方には現代の体育に通ずるものがあり、その先見性は高く評価すべきだろう。
 ところで、本学のサッカー部は長い歴史を有するが、明治36年に『アッソシエーションフットボール』を、また同41年に『フットボール』を出版している。これには当時部長を務めていた坪井の影響があったものと推察される。またテニス部は、明治31年以来一橋大学との定期戦を開催しており、大学テニス界における対校戦として最も古い歴史を誇っているが、テニス部の初代部長でもあった坪井の影響がこれにも少なからずあったものと考えられる。さらに、各地の学校運動会を考えると、坪井・田中の遊戯書が及ぼした影響には計り知れないものがある。今後体操伝習所を見るときには、同所が体操ばかりではなく遊戯にも関心を示していたことに、もっと光を当てるべきだという思いを強くした。

 体操伝習所は明治14年7月に最初の卒業生を出してから明治19年6月までに257人の卒業生を世に送り出している。同所が廃止され、東京師範学校になってから卒業した体操修業員や同校の体操専修科生を含めると、さらに48名が加わる。これまでの調査で、これらの卒業生による体育関係の編著書は、体育論、体操、遊戯、教練などの分野にわたって約100冊あることが明らかになっている。今回、国立国会図書館や国立教育研究所の協力も得て、これらのうちから11冊ほどを展示することができた。これらの書物からも、わが国の近代学校体育の形成に果たした体操伝習所の役割とその後の影響の大きさが推察される。

(注)指極:直立位で左右両手を水平位に真直ぐに伸張した際の両中指指頭先端間の距離をいう。

(おおくま・ひろあき 体育科学系助教授)


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