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教育学の古典のいのち
−特別展「近代教育学の源流〜コメニウスからフレーベルまで〜」−

山内 規嗣

 教育学系・附属図書館共催特別展『近代教育学の源流〜コメニウスからフレーベルまで』が、筑波大学開学25周年記念委員会の後援により、9月7日から10月16日まで、中央図書館貴重書展示室にて開催されている。展示には、広島大学のご厚意で出展されるフレーベル(F.Frobel, 1762-1852)の『人間の教育』初版(1826)のほか、附属図書館貴重書庫に所蔵されている教育学の多くの貴重な古典とともに、写真・図版のパネルが多数用意されており、17世紀から19世紀までのヨーロッパの教育の歩みが、主要な教育思想家を手掛かりに、順を追って説明されている。また、9月11日には、午後4時より、中央図書館集会室において、小笠原道雄教授(広島大学副学長)による記念講演「初版本の魅力」が開催され、学内・学外から多数の聴講者が集まった。
 この特別展に出展されている多くの貴重書のオリジナル、とくに初版本のそれは、教育史の研究にたずさわっている私のような者にとって、限りない価値をもっている。本の内容はもちろんのこと、すでにその装丁からして、古びて角のとれた表紙、裏の文字が透け出ている薄茶色の頁、その脆く壊れそうな紙の手触り、こういったものに、どうしても非常な魅力を感じてしまう。しかし、それはたんなる古書趣味というものではなく、むしろ、オリジナルということ、初版本ということ自体がもつ固有の価値がなせるわざに思えてならない。言うまでもないことだが、思想家が本を著すということは、自らの思想を自らの言葉で世に問うということにほかならず、著者がとらえたある思想的課題に向き合う姿勢そのものである。その態度表明、対決の最初の宣言が初版本であり、それはその後の様々な出来事の記憶を纏わせて、いま私たちの目の前に置かれている。
特別展ポスター  特別展の美麗なポスターには、その中ほどに一冊の開かれた書物が示されている。これが、あのルソー(J.-J.Rousseau, 1712-78)の『エミール』の初版本(1762)である。『エミール』の初版本には、パリ版とオランダ版があるが、今回展示される本学図書館所蔵のものはそのうちのオランダ版である。1760年にリュクサンブール元帥のモンモランシー邸で完成された『エミール』の原稿は、すぐさま国内で刊行されはしなかった。18世紀中葉当時のアンシャンレジューム期のフランスでは、書物の検閲が行われており、『百科全書』(1751-80)を編集したディドロ(D.Diderot, 1713-84)やダランベール(d'Alembert, 1717-83)ら百科全書派に代表される啓蒙主義者たちの言論は大きく制限されていた。彼らに理解のある司法官マルゼルブが検閲を監督しており、『エミール』の出版に好意的な反応を示していたとはいえ、出版に危惧を抱いたルソーは、フランス国外での出版を当初主張していた。その後の紆余曲折の結果、『エミール』はパリとオランダで同じ1762年に出版されることとなったが、ルソーの不安は残念ながら的中した。出版後、パリの高等法院は、反宗教・反王権の罪により、『エミール』の焚書と著者ルソーの逮捕を命じた。やむなくルソーは、以後10年近くにおよぶ放浪生活を余儀なくされたのである。パリ版がこのような運命をたどる一方で、オランダ版は、ここでも出版禁止となる前に、各地に広がっていった。しかし、出版された1762年のうちにも、すでに多くの偽版が出現しており、現在ではもはや本物の初版かどうかは慎重な確認作業が必要となっている。今回展示されるオランダ版の『エミール』は、このような苦難の歴史をまさしく生き残ってきたオリジナルなのである。その内容については、電子図書館のページで鮮明な画像を見ることができる。
 こうして一度世に示された書物はそのままにとどまることなく、著者の手を離れてもなお、翻訳や翻案といったかたちで別のいのちを吹き込まれる。現ロシア領カリーニングラードとなっているかつてのケーニヒスベルクにいた哲学者カントが、『エミール』を読んでいて、日課の散歩に間に合わなかったというエピソードはあまりにも有名だが、『エミール』出版後、その流布とともに、イギリスやドイツではただちに翻訳が現れた。そのさい、『エミール』出版から30年近く降るものの、ドイツ汎愛派のカンペ(J.H.Campe, 1746-1818)が編集した『教育総点検』(1785-92)全16巻に収められたルソーの『エミール』(第12-14巻)の全訳を忘れるわけにはいかない。18世紀のドイツ啓蒙期は、「教育の世紀」とも呼ばれるほどの活発な教育的活動が展開されたが、その中心の一つがバゼドウ(J.B.Basedow, 1724-90)を領袖とする汎愛派であり、『教育総点検』は彼らの教育理論を基礎づける一大計画であった。全訳に付された詳細な注解は、英仏の教育思想、とくに『エミール』のドイツへの受容のあり方をみるうえできわめて重要な史料である。そして、それとともに、フランス革命前に出版され焚書とされた『エミール』の全訳を、彼らがまさにフランス革命の最中(1789-90)にドイツで出版したということの意味を、問うてみる必要があるだろう。なお、この『教育総点検』第15巻には、ロック(J.Locke, 1632-1704)の『教育論(1693)』の全訳も収められているが、この特別展では、『教育論』の初版と第3版も並置して展示されている。第3版では、宗教教育や徳育に関する叙述が初版よりもいっそう詳細に書き加えられている。ここで私たちは、ロック自身の問題意識の変化を看取するとともに、初版本のみでは分からない書物の可塑的な生命力を感じとることができる。
 これらの古典のもつ意味は、しかし、普遍性を求める教育の知の広がり、その思想の歴史の中であらためて問い直される。その広がりは、何よりも、この特別展の出発点にあげられたボヘミアの教授学者コメニウス(J.A.Comenius, 1592-1670)にこそ、具身されている。30年戦争の惨禍にあって神の試練と人間の使命を見いだしたコメニウスは、教育に現生と来生の期待を込める一方で、ヨーロッパ各地を転々とした。異国で没した彼の『世界図絵』(1658)は各国語に翻訳され、また『大教授学』(1657)は、ヒューマニズムの世界観と人間論に基づく体系的教授方法と学校のシステムを先駆的に論じたものとして、近代教育学の成立にとって重要な始源的位置を占めている。
 この「学」(知の体系)としての近代教育学の成立は、はるか後代の19世紀初頭、ヘルバルト(J.F.Herbart, 1776-1841)の『一般教育学』(1806)を待たねばならないが、その直前である18世紀末のスイスで教育活動に専心したペスタロッチー(J.H.Pestalozzi, 1746-1827)にとっては、教育の対象は、もはや『エミール』に示された金持ちの孤児ではない。社会問題に対して鋭い批判精神を向けた彼は、貧しい孤児を、社会変化の大きなうねりのただなかにある民衆を見据え、その教育実践に裏付けられた思索を『ゲルトルート教授法』(1801)に託した。彼の思想を受け継いだフレーベルは、幼稚園(キンダーガーテン)を設立し、独自の人間論に基づいて『人間の教育』を公刊した。彼らの思想は、身分や階級を越えた「子ども」そのものを探究する一方で、フィヒテ(J.G.Fichte, 1762-1814)が『ドイツ国民に告ぐ』(1808)の中でペスタロッチー主義を称揚したように、当時のいまだ統合されざるドイツの国民教育のうえにも位置づけられていった。コメニウスを出発点とする教育への探究は、こうして「学」としての近代教育学と、国民教育論というかたちで終着点を見いだすこととなった。
 これらの教育思想家たちの理論や実践は、確かに、キリスト教をはじめとする特殊ヨーロッパ的背景を有してはいる。しかし、その影響は、遠く離れたわが国にも明治期よりたえず及んでいる。本学の源流である師範学校の開学(1872(明治5)年)以来、日本の教育学、教師教育や学校制度は、他の諸学と同様、ヨーロッパのそれを基礎にして始められた。事物教授を旨とするペスタロッチー主義の導入、それに間をおかず続いたヘルバルト主義の(授業のシステム化とも言うべき)五段階教授法の流行、そして学制による国民教育制度の確立。これらは、その根を近代教育学にもちながら、わが国の教育に強い影響を与えた。それはまた、「和魂洋才」という言葉に示されるように、わが国の伝統的思想のうえに欧米の教育制度や教育方法を結びつけようとする試みでもあった。しかし、その試みが実を結ぶためには、近代教育学を支える思想そのものとの緊張ある対決が必要であったはずであり、また今日その必要性が自戒の念とともにいまいっそう強く感じられてならない。教育学の古典へ新たないのちを吹き込むこと、このことを、今日の教育を考えるにさいしても、決して忘れてはならないだろうし、河の行く先を見定めるには、源流の高みから見渡すことも、ときには必要かもしれない。現在の教育に関心をお持ちの方々にも、この特別展に、ぜひ一度足をお運びいただき、教育学の源流である古典のいのちを、感じ取っていただきたいと心より思う。

(やまうち・のりつぐ  教育学系助手)
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