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ホームページと王義之

村 越 貴代美


 最近,ホームページを開設した.「だから見てください」という「手紙」を友人たちに配ったところ,さっそく数人から返事や祝電(!?)が届いた.「すごーい!」と,先ずは驚きの声である.続いて 「私もやってみる!!」と,決意表明である.私の専門が中国の文学と図書で,コンピュータと最も遠いところにいる,と思われるからであろう.励まされた友人がたくさんいたようだ.
 ともかくホームベージという形式に慣れようと思って,以前ワープロで作った文章を,いくつかアレンジして載せてみた.使い回しがきくのは,電子媒体の利点である.
 その中に,講義ノートがある.私は授業中,よく黒板に書く字を間違えたり忘れたりするので,40字×30行×2頁=原稿用紙6枚分にまとめた講義用のメモを,B4版1枚のプリントにして学生に配布することにしている.これをホームページに載せた時,少し「重い」感じがした.案の定,友人の一人は,「全部印刷してファイルした」という.
 鳴呼,言ってくれればプリントを郵送してあげたのに…….私としては,友人が自分のパソコンにダウンロードし,情報を加えたり削ったり,友人の講義計画にあわせて加工・再利用する,ことを期待していた.しかし,もとがワープロで作成した,つまりは印刷を前提とする文章だからであろうか,これでは単にインターネットを介した通信ではないか.
 想像は,六朝時代に飛ぶ.
 書道家として名高い王義之が,会稽(今の浙江省紹興県西)の蘭亭で名士を集めて宴会を開き,曲水に觴を流して禊ぎをし,皆で詩を作った(353年).
詩は後に『蘭亭集』としてまとめられ,集に付された王義之の序は,絶世の佳品として愛された.唐の太宗が酷愛のあまり昭陵に殉葬させ,私たちが現在見られるのは棺に収められる前に作られた複製だそうで,「蘭亭集序」の原本は,28行324字,「蚕繭紙に鼠髭筆で」書かれていたという.
 中国で紙が発明されたのは後漢の時代,武器を製造する宮廷工場の工場長だった蔡倫が,木の皮や布くずから紙を作ることに成功し,時の皇帝に献上した(105年).それ以前は紙といえば,「糸」の字が入っていることからも推測できるように,絹の布(帛書)を指していた.
 蔡倫が開発した紙は「蔡侯紙」と呼ばれ,廃材を利用したわりに,なめらかで書写に耐えた.だが,「蔡侯紙」の出現後も,公文書には依然として簡策が併用され,東晋末に桓玄が命令して(404年),ようやく公文書にも専ら紙が使用されることになった.この間,3百年を要している.
 王義之が宴集を主催する50年ほど前,左思が「三都賦」で「洛陽の紙価を高からしめ」た.公文書に簡策が併用されていた時代であるが,個人の書き物には紙を用いるのが一般的だったことを,左思の故事は示している.
 「蘭亭の遊」に参集した名士たちも,おそらく紙に詩を書いた.しかし王談之は「蚕繭紙」,つまり一時代前の「紙」である「絹布」に序を書いた.それは当時の貴族たちにとっても,賛沢で風流な所為だったのだと思、う.
 ホーム「ページ」という名前からして,紙媒体の名残りをひきずっている電子媒体であるが,いずれは「紙に文宇を記す」ことが貴重とされる時代がくるのであろうか.書誌学を研究する者としては,面白い時代にめぐりあわせたものである.


Homepage and Wang Xizhi ,by Kiyomi MURAKOSHI
本学助手