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エツセイ

ものを観る

小高和己

 夏の祭りだ、昔から続いている、小さな地域の小さな祭りだ。子どもたちは、昔に比べれぱ、今風のはっぴを着て、神輿をかついでいる。かつぐというよりは、ただ持っているというほうが似合う。しかし、よく観ると、一生懸命かついでいる子がいる。かついでいる神輿は一見して昔の神輿そのものとわかる。しかし、これもよく観れぱ、一部は新しくなっている。だいぶ昔になるが、私も、確かに、あれを、かついだのだ。
 本気で、夢中で、まじめに、力を込めて、かついだのだ。今の仕事は、というよりは私の興味は、文字に関係する。本、街の看板、いたるところに文字がある。人は複雑な背景中に文字があっても、それが文字だとすぐにわかる。さらに、その文字部分だけを注視することができる。そして、文字を認識し、その文字が何を伝えたいのかを理解することもできる。これを、機械で実現しようと取り組んで、まだまだ、実現には程遠い。仕事は簡単には進まない。いろいろな対象が混ざったシーンの中から、特定の対象だけを分離抽出する能力は、「地」から「図」を抽出する脳の重要な機能の一つである。その解明は脳研究上の重要な課題でもある。図を抽出する際には、脳は、見るという動作以上に、観るあるいは注視するといったより深い一運の動作を瞬時に行っているのであろう。
 さて、文字という図をほかの対象に変えてみよう。例えぱ、人の心にたとえてみる。教育という職場では、個々の学生が持っている図をその地の中から正確に見出すことは、学生にとっても、教師にとっても、重要である。様々な事件が起こるたびに、この種の議論が社会間題として取り上げられてもいる。社会の動きは確かにジェット機並の速さである。急ぐ理由も必要性もまた明確である。例えぱ企業という一つのジェット機を観てみよう。その中では、貴重な事柄を数多く学ぶことができる。優先順位をつけて一定時問内に問題を解決する。「図は分かる。しかし、見送ろう。」「今は、図までは注視せずにおこう。」あえて、そうすることは多い。図も地も把握しきった上で、図の処理を意識的に個別に扱うのである。このジェット機のパイロットや乗組員の大部分は、おそらく、そのような判断であろう。それはそれでいい。必要なのである。図については後でゆっくりと処理すればよい。しかし、あまりにも速いと、図も地も見えはするが、図を注視するまでに至らないことも多い。ことによったら、図と地を見誤ることだってある。このときに問題となる。少なくとも、不器用な私には、この傾向が強いことを、かなりの確信を持って言える。
 夏の小さなお祭りはのどかである。神輿を持っているように見えた子ども達は、今度は本気で担いでいる。そういえば、一生懸命かついだといったが、疲れると、神輿から離れて、よく歩いていた自分のことも思い出す。この小さなお祭りをよく観れぱ、子どもの頃の自分が確かにみえる。あの頃の、想いが、私の「図」なのだろうか。長い間、ジェット機の中で、置き去りにしていた私の「図」を、今、初めて観る。そして、注視する。夏祭りのゆとりもジェット機の速さもどちらも大切だが、見ることと観ることのバランスを、この夏祭りは教えてくれた。


本学・教授
Seeing and Looking, by Kazumi Odaka