表紙へ   前の記事   次の記事

エッセイ

混ぜればゴミ 分ければ資料

後藤嘉宏

 つくば市は「混ぜればゴミ分ければ資源」というスローガンを掲げている.これをもじって「混ぜればゴミ分ければ資料」と言ってみたい.
 というのも資料の稀少性と資料の価値ということについての私見を少し述べたいからだ.概説的に言って経済学上の価値(交換価値)の説明は,ふた通りの方法でなされる.第一の説明は,価値はその財の作製に要した労働時間で測定されるという.第二の説明は,価値はその財の稀少性に比例するという.この二つの説明は表現方法は異なるが,実際は同一の事態を示している.というのは次のようになるからである.ダイヤモンドは原石も稀少であり,その研磨にも時間がかかる.したがって,原石の採掘およびその研磨に必要な時間的コストは多くなる.つまり稀少財であるダイヤモンドはその稀少性からもその時間的コストからも,その価値の大きさは説明される.他方水は,このようなダイヤモンドと全く逆の位置に置かれる,と.
 学術的価値の高い専門書には価値があり通俗的な雑誌には価値は少ないというのが,世間一般の通念だ.この通念はさほど誤っていない.専門書の方が時間がかけられており,しかも販売部数も少なく稀少なので,これらの経済上の価値は高くなる.この逆が通俗的な雑誌である.この通念は,流通・購入のレベルまでは妥当する.しかし一たび保存というレベルに視点を移動させると,この限りでない.貴重な書物と考えられた専門書は比較的多くのところで保存され,通俗雑誌などのように使い捨てられるべきものは滅多に保存されていず,稀少性をもつに至る.そこの逆説性に着目したのが宮武外骨であったように思われる.現代では新聞雑誌の資料的価値は誰も疑わない.しかし外骨の時代はそうではなかった.そのような大正末期から昭和にかけて彼は新聞や雑誌をせっせと集めた.
 いわば外骨の観点からすれば,新聞雑誌とは歴史学でいう一次資(史)料のようなもの,あるいは二次資料でも一次資料に近いものであったとも言えるであろう.歴史学でいう一次資料とは,印刷される前の生資料のことである.江戸東京博物館では開設準備期間中昭和期の日記や家計簿などをかなり収集していたが,これなどもそのような外骨的な観点からなる収集の例であろう.江戸博では学芸員たちが行く先々でゴミのようなものを集めて回っていると訝かしがられたり,感謝されたりしたという.現代では広告やビラ,サークル雑誌,生テープ,個人の撮ったビデオもそのようなものに含まれよう.
 しかしこのような観点からすると何が保存に値するかという議論が必要になるであろう.人をとりまく森羅万象が本来保存に値する.人間の行為というのはある程度後世というものを意識して行われてきたし,何か書き残そうというのもそのような動機なくしてはあり得ない.しかも電子化が進んでもすべて保存するという訳には行かない。そこに残されるものを巡る権力作用や闘争があるように思われる.また何を残すかを決めてもそれが体系的かつ明確に分類され,特定の分類項目においては網羅的に収集されない限り,資料ではなくゴミの山になってしまうことは必定だ.ただ,各地の図書室や資料館に気まぐれに散財する資料を体系化してつなぐものとして目録というものが今以上に意味を持つように思われる.したがって気まぐれな保存もある程度有益なのかも知れない.しかし何が目録化されるに値するかを決めるのもまた一つの権力作用であろうかと思われ,事は難しい.


本学・助手
Materials if organized, rubbish if not., by Yoshihiro Goto