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エッセイ

筑波山中で犬にからまれた話

石井啓豊
 筑波山は,山登りの対象としてはあまり魅力がないように思える.頂上にはケー ブルカーやロープウェイで登ってくる観光客も多いので山登り気分がでないし,平野 に突き立っているので深い沢もなく単調に登るだけである.それでも,頂上から北斜 面や西斜面に向かうと落ちついた静かな山になる.北斜面は静かな雑木林で,春先や 初冬には暖かい日差しが入ってまことに気持がよい.この斜面はさらに北に,小さな こぶのような連なりを経て加波山にまでつながっている.ある日,好天につられて加 波山に向かうことにした.

 里山ではよくあることだが,筑波山の頂上から2時間程も歩いたあたりから道は舗 装道路となった.市図かな小さな沢伝いに,あるいは尾根伝いに歩む.日曜日なので, ドライブに訪れたのであろう乗用車が時折追い抜いていった.ゆるゆるとした登り道 が右に大きくカーブを描いているところで,振り落としで幕を開いたかのように,道 の真ん中に犬が現われた.

 私は犬が嫌いである.正確にいうと,むしろ犬が怖い.まだ小さいときに近所の飼 い犬にパンをやっていて手をかまれた記憶がある.母に聞くと3才になるかならない かの頃のことだそうで,その恐怖が心に染み着いているのであろう.そいつは,中型 でまだら模様で,尻尾を激しく振りながら駆け寄り,なれなれしくも私にじゃれつい てきた.周囲を激しく動き回り,何度も胸に飛びついてくる.はて,かわいいもの よ!こんちくしょう!見ると首輪をしているので,やがて買い主が現われあわてて制 止してくれようと思いのほか,誰も来ない.

 ふつう,連れて歩いている他には,山の中で犬に出会うことはない.野犬も向こう でこちらを避けているのであろう.気配を感じることが希にあっても姿は見せない. この犬は何であろう.やがて,そいつはウーッと唸り始めた.唸りながらも,周りを うろうろして離れない.はて困った.無視してどんどん進みたいのだが,何か食べ物 でも与えればよいのであろうか.

 折りよく,そこへ乗用車が登ってきた.急いで道の真ん中に出て,その車を止め, 事情を話してしばらく同乗させてもらうことにした.そいつは,気の毒ながらとり残 されることになった.親切な夫婦と孫娘の一行は,その先のハングライダーの飛び出 しを見物に行くところであった.初老の夫婦の話で,犬はシベリアンハスキー種で人 にやや慣れにくい種類であること,おそらくは,買い主が大きくなった犬の処置に 困って捨てたのであろうことがわかった.彼は食べ物を求めていたのだ.

 筑波山のケーブル駅近くには売店が集まっている.そこにも野良犬が何匹かいるが, これはおとなしい.ただ近寄ってきて物乞いをするだけである.お客を脅かしては生 きていけないことを学習したのであろうか,彼が捨てられたあの山の中では,このよ うな野良犬として生きて行くことはできないであろう.山を下って野良犬になるか, 自然の中で自分の力で食料を確保して生きていくか,おそらくは捨てられた直後であ ろう彼には難しい選択が待っている.

 ちょっとした頂きの近くに,ハングライダーを持った人たちが集まっていた.しば らくして,真剣な顔をした若い男性が,自分を励ますように,行きます!と大声で叫 んで,急斜面を下に向かって駆け出した.すぐに,体が浮き上がりハングライダーは 虚空に向かって飛び出した.


本学・助教授
A dog fawing on me in Mt. Tsukuba, by Hirotoyo Ishii