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資料紹介37

完璧な書誌は可能か −ある回想−

黒古一夫

 思いがけず修士論文が単行本(『北村透谷論−天空への渇望』79年 冬樹社)になり,博士課程に進学して3年,2冊目の本(『小熊秀雄論−たたかう詩人』82年 土曜美術社)を出してすぐ,突然宮嶋資夫の著作集を出したいが編集責任者になってくれないか,という話が持ち込まれた.

 1916(大5)年1月,大杉栄と堺利彦の序文を付した『坑夫』で衝撃的に登場して以降,大正文壇の一画を占め,1939(昭5)年突然京都天竜寺の門をたたき僧侶になってしまった宮嶋については,大学院に入る前から関心を持っており,古書店や古書市で目に入った資料は出来るだけ集め,「宮嶋資夫ノート」として小さな雑誌(『大正期労働文学研究』,『信州白樺』等)に,それまで 200枚ほど断続的に書いてはいた.

 すでに先行する研究者として森山重雄(都立大教授),中山和子(明大教授),小田切秀雄(法大教授)等各氏がおり,私など若輩が編集責任者になるというのは,異例なことであった.―後で聞いてみると,私の論文を読んでいた遺族の意向で私が選任されたとのことであった.

 私は機会を得たことを喜びとし,早速大学院で指導を受けていた「労働文学」の研究者西田勝氏,小田切氏にも編集委員になっていただき,全7巻の『著作集』(83〜84年,慶友社)の収録作品の選定作業に入った.他に「解説」「月報」の執筆を決め,原稿を依頼するという仕事もあった.

 第2巻(短編集)の「解説」,全巻の「解題」,それと第7巻の巻末に付す「宮嶋資夫年譜」の作成も私の仕事であった.「解説」「解題」は,今までの蓄積もあって比較的楽であったが,やっかいだったのは,「履歴」「著書・全集収録」「著作目録」から成る「年譜」,いわゆる「書誌」の作成であった.

 まず最初に手がけたのは,先の森山氏が10数年前に不十分な資料を基に作成した「年譜」――間違いやデタラメが多かった――を素材に再調査することであった.小田切氏のはからいで日本近代文学館の書庫にもぐりこめたのはよかったのだが,それだけでは全く足らず,国立国会図書館,都立図書館,成田図書館,大原社会問題研究所等に通い,京都天竜寺で調べ,遺族や当時まだ存命していた友人から聞き取りをし,大正期文学の研究者に知恵を借りる,という研究者なら誰でも経験するようなことを約一年続けた.

 結果は,というと,残念ながら私の作成した「年譜」(書誌)も不完全なものであった.なぜ,不完全なものしかできなかったのか.一つは私の力不足で時間が足りなかったということがあった.しかし,不完全なものしかできなかった理由は,例えば『大法輪』(大法輪閣)や関西方面のメディアに発表したものが多く,『大法輪』の全巻揃いがどの図書館にもないということもあって,調査し切れなかったということがある.また宮嶋は出家するまでアナーキズム系の労働運動・思想運動に関係しており,それらの機関誌紙に発表した文章は,治安維持法下の弾圧ということを考慮してであろう「匿名」や「ペンネーム」のものがあり,初出不明のものが多いということもあった.それに各図書館のセクショナリズムや権威主義は,一介の大学院生には厚い壁であった.かくして,未だに「宮嶋資夫書誌」は不完全なままである.


本学助教授
The perfect bibliography is possible? -A memory of mine-, by Kazuo Kuroko