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図書館の時代

藤野幸雄

 いずれの社会現象でもそうであろうが,特徴的な時代というものを持っているらしい.文化の現象にもそれがあり,発展と停滞の時代を繰り返すように思える.どこかの国で始まった現象が,時をおかずに別の国でも実施される.とくに19世紀以降にはその傾向が顕著であった.すなわち,19世紀はナポレオン戦争により始まり,20世紀は世界第一次大戦で始まっていたが,二つの戦争はそれぞれ,ヨーロッパ,世界という枠組みで情報の伝達を国際間に広げたのであろう.

 19世紀には,各国において民族主義の機運が高まり,それぞれの国民が自国の文化に改めて目を向けだした.こうしたなかで言語採集の動きが起こり,優れた言語学者がほぼ時を同じくして輩出していた.英語のマレー,フランス語のリトレ,ロシア語のウシャコフには,先達グリム兄弟の刺激がなかったとは言えない.わが国で現代的な本格的辞典が編纂され始めたのも明治後期,1890年代ころからであった.

 図書館にも時代による波があったように思える.ヨーロッパでは19世紀の後半がその一つであって,各国には期せずして同じような動きが起こった.イギリスおよびアメリカで,図書館法が成立し,各国に市民のための読書施設が提供されることになる.しかし,そこでは,法的基礎が整っただけで,ただちに図書館の数が増えたわけではなかった.

 図書館法の成立には,その裏に読書施設を求める市民の声があったのであり,これに政治家が応えた結果だと言える.この声は,市民社会が変わりゆく19世紀半ばには当然出てくる声であった.産業革命が進行し,知識と技術を身につけることが求められ,それはフランス革命で旧時代が滅びたところから始まっていた.変化の時代には知識こそが市民の拠りどころとなりえたのである.

 この法的基礎の上で,図書館の数が増えたのには,これを社会的な運動とするための要素がなければならなかった.すなわち,図書館の活動を具体的に示す実例であり,これを作っていた人間と,これを支えた資金であった.

 市民の図書館を最初に作って見せた人々は,現在とは異なる苦労を持っていた.「話は結構だが,先立つものがなければ」という答えが返ってきたのは,現代の話ばかりではなかった.地区の自治体では,文化より重要な地域の基盤整備があり,予算の割当てを渋っていた.現代とは違い,市民が自由に利用できる図書館とはどんなものなのか,そのイメージすらなかったのである.

 こうして,初期の公共図書館職員は,自治体の無理解のもと,試行錯誤でやってゆくしかなかった.今では考えられないようなことがいくつも起こっていた.例えば,「市民は信用ならない.棚の本を自由に手を取らせるとは何事か」とか,「女子職員に高い書架の本を梯子を掛けて取らせ,男が下から眺めているとは言語道断」といった類であった.

 法により義務設置が定められていても,自治体が金を出してくれなければ公共施設は始まらない.この点でも,イギリスおよびアメリカで推進力になったのは,カーネギー財団による資金援助であった.図書館を設けたいが資金不足という市や町に,当面の建設資金と活動資金を提供したのである.そこには約束事項があった.「離陸」するまでの援助はするが,後は自分たちだけでやってゆくのである.こうして「弾み」がついたことは,図書館の数を増やす上で重要であった.

 アメリカとイギリスの動きは,19世紀後半から20世紀前半にかけて,ヨーロッパ各国に広がっていった.

 ヨーロッパほどの規模ではなかったが,わが国で図書館が発達したのは,明治後期から大正にかけてであった.これも,いわば変動期であり,欧米の知識・技術の摂取が広い層にまで広がっていた.ここで初期の図書館の職員は,現在から見ても驚くほど意欲的に外国の経験を取り入れていた.実験的な試みは現在のわれわれが取り組んでいるテーマの多くであったとも言える.この時代でも,東京市内の図書館数館の間では「連合貸出」が行われ,各館の間には本を運ぶための自転車が走っていた.この時期に活躍した図書館の指導者たちは意欲的であった.

 20世紀に入って「図書館の時代」が再来したのは1960年代であった.図書館がそれまで活動を止めていたわけではない.しかし,この時期に,国内全体の図書館システムをどう構築するか,根本的な問題をつきつけられ,考え直しが始まったのを受けて,議論も勢いを得ていた.国立図書館の機能を見つめる動きが起こり,地域の中小規模の図書館を基礎とする,新たな改革が始まっていた.これを受けて,新時代に即応できる学問も要求されるようになっていた.

 現在は,新たな意味で図書館を考えなおそうとの動きが見られるようである.技術革新の速度はきわめて早い.それにより,通信技術は根本的に変わろうとしている.政治の変化は文化の基盤をも動かそうとしている.これまで一つの型を示していた社会主義の文化ならびに図書館は滅びつつある.

 地方財政はどの国でも難しい局面に立たされているので,図書館の先進国と言われたアメリカやイギリスでは図書館が淘汰されつつあるようだ.少なくともその数は減少している.国立図書館であるブリティシュ・ライブラリーも建物の実現の代わりに,今後収入を上げることを約束させられている.

 こうした時代にあって,わが国にはいささか違った現象があるように見える.図書館の数は毎年 100館くらいずつ増加している.生涯教育をどう図書館が引きうけるか,これから議論が始まろうとしている.

 ある意味では,わが国に新たな「図書館の時代」を先導する責任があるのかも知れない.しかし,そのためには理論的な基礎が重要であろうし,新技術を積極的に取り入れてゆく必要がある.ロス・アンゼルスではロボットが寿司を握っているというのに,図書館の本は人間でなければ処理できないとばかりも言っていられなくなっている.

 「図書館の時代」を切り開いてきたのは,時代の要求を肌で感じていた人たちであった.われわれが抱えている問題は,本質的には何時の時代にもあった.そこで苦しんだ人たちのことも見つめなおしてみる必要があるだろう.


本学附属図書館長
Libraries Coming of Age, by Yukio Hujino