[一   序文(一六九七・康煕三十六年)   一 二   仁宗より中山王尚巴志あて、成祖の薨去についての勅諭(一四二四・永楽二十二年)   二 三   仁宗即位の詔(一四二五・洪煕元年)   三 四   仁宗より故中山王思紹を諭祭する文(一四二五年)   四 五   仁宗より中山王世子尚巴志あて、中山王に封ずるの勅諭(一四二五年)   五 六   仁宗より中山王尚巴志および王妃あて頒賜物の目録(一四二五年)   六 七   中山王尚巴志より仁宗あて、登位を慶賀する表文(一四二五年)   七 八   中山王尚巴志より仁宗あて、宝鈔の詐取事件についての上奏文(一四二五年)   八 九   中山王尚巴志より仁宗の皇太子あて箋文(一四二五年)   一〇 一〇  中山王尚巴志より礼部あて、喪礼および謝恩についての咨文(一四二五年)   一一 一一  中山王尚巴志より礼部あて、皮弁冠服の下賜等についての咨文(一四二五年)   一三 一二  中山王尚巴志より礼部あて、慶賀使派遣等についての咨文(一四二五年)   一五 一三  中山王尚巴志より礼部あて、進貢等についての咨文(一四二五年)   一八 一四  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、磁器・蘇木等の自由な売買の許可についての咨文(一四二五年)   一九 一五  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、進貢品の収買についての咨文(一四二五年)   二一 一六  山南王他魯毎より礼部あて、朝賀・船隻修理・附搭貨物についての咨文(一四二五年)   二二 一七  山南王他魯毎より礼部あて、進香の使者派遣についての咨文(一四二五年)   二三 一八  中山王(尚巴志)より中国あて、進貢使節のすみやかな通行を乞うことについての符文(一四二六・宣徳元年)   二四 一九  中山王(尚巴志)より中国あて、進貢使節のすみやかな通行を乞う執照文(一四二六年)   二五 二〇  宣宗より中山王尚巴志あて、皮弁冠服の給賜および生漆、磨刀石の購入を依頼する勅諭(一四二六年)   二六 二一  中山王尚巴志より礼部あて、長至令節の慶賀使派遣等についての咨文(一四二六年)   二六 二二  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、返礼の使者派遣についての咨文(一四二六年)   二七 二三  中山王尚巴志への皮弁冠服の給賜について、礼部の主客清吏司の文書(一四二七・宣徳二年)   二八 二四  中山王(尚巴志)より礼部あて、船隻給賜に対する謝恩および附搭貨への銅銭支給を乞う咨文(一四二八・宣徳三年)   三〇 二五  中山王尚巴志より礼部あて、生漆および各色磨刀石の購入依頼に対する返答の咨文(一四二八年)   三一 二六  中山王尚巴志より礼部あて、皮弁冠服の頒賜に対する謝恩の咨文(一四二八年)   三二 二七  中山王尚巴志より礼部あて、万寿聖節の慶賀使派遣等についての咨文(一四二八年)   三四 二八  中山王尚巴志より宣宗あて、生漆等の収買についての上奏文(一四二八年)   三五 二九  宣宗より中山王尚巴志あて、頒賜についての勅諭(一四二八年)   三六 三〇  宣宗より王相懐機あて、頒賜品目録(一四二八年)   三八 三一  中山王(尚巴志)より旧港あて、明国への進貢品の購入についての咨文(一四二八年)   三九 三二  中山王(尚巴志)より旧港あて、使節のすみやかな通行を乞う執照文(一四二八年)   四〇 三三  王相懐機より旧港管事官あて、使節の派遣についての書簡(一四二八年)   四〇 三四  山南王他魯毎より礼部あて、進貢等についての咨文(一四二八年)   四二 三五  中山王尚巴志より礼部あて、海船の修理等についての咨文(一四二九・宣徳四年)   四二 三六  (礼部)より山南王他魯毎あて、大統暦の頒賜についての咨文(一四二九年)   四四 三七  (暹羅国王)より(琉球国王)あて、礼物の奉献についての咨文(一四三〇・宣徳五年)   四四 三八  中山王(尚巴志)より爪哇国あて、貿易等についての咨文(‐爪哇との通交の初め‐)(一四三〇年)   四五 三九  王相懐機より三仏斉国旧港の僧亜刺呉あて、礼物の奉献と使者の護送についての書簡(一四三〇年)   四六 四〇  王相懐機より三仏斉国の宝安邦本目娘あて、人船送回のお礼についての書簡(一四三〇年)   四七 四一  中山王(尚巴志)より宣宗あて、生漆・磨刀石の収買、船隻の遭難についての上奏文(一四三一・宣徳六年)   四八 四二  中山王尚巴志より宣宗あて、頒賜品に対するお礼の上奏文(一四三一年)   五〇 四三  中山王尚巴志より礼部あて、謝恩等についての咨文(一四三一年)   五一 四四  中山王尚巴志より礼部あて、生漆・屏風等収買船隻の遭難についての咨文(一四三一年)   五三 四五  中山王尚巴志より礼部あて、頒賜品への謝礼の咨文および謝恩品目録(一四三一年)   五五 四六  中山王(尚巴志)より礼部あて、琉球産磨刀石の献上についての咨文(一四三一年)   五八 四七  中山王(尚巴志)より礼部あて、慶賀・船隻修理等についての咨文(一四三一年)   五九 四八  中山王(尚巴志)より礼部あて、船隻修理および遭難船等についての咨文(一四三一年)   六〇 四九  中山王(尚巴志)より礼部あて、福建出身の進貢船水梢の帰国を願う咨文(一四三一年)   六二 五〇  三仏斉国宝林邦の本頭娘より王相懐機あて、礼物の奉献についての書簡(一四三一年)   六三 五一  三仏斉国宝林邦の愚婦俾那智施氏大娘仔より王相懐機あて、表敬および礼物の奉献についての書簡(一四三一年)   六四 五二  中山王尚巴志より朝鮮国王あて、貿易および献上物についての咨文(一四三一年)   六五 五三  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、自由な売買の許可を乞う咨文(一四三一年)   六五 五四  朝鮮国王より琉球国王尚巴志あて、表敬および進上物についての書簡(一四三一年)   六七 五五  宣宗より中山王尚巴志あて、勅諭および頒賜物目録(一四三二・宣徳七年)   六八 五六  宣宗より中山王尚巴志あて、日本との通交貿易再開の仲介依頼についての勅諭(一四三二年)   七〇 五七  宣宗より中山王尚巴志あて、綵幣の給賜および失去の銅銭等についての勅諭(一四三二年)   七〇 五八  宣宗より王相懐機あて、頒賜物目録(一四三二年)   七一 五九  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、貿易等についての咨文(一四三二年)   七一 六〇  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、貿易についての咨文(一四三二年)   七二 六一  中山王尚巴志より礼部あて、海船の賜与に対する謝恩等についての咨文(一四三四・宣徳九年)   七三 六二  中山王尚巴志より宣宗あて、日本との通交再開の仲介依頼についての奏文(一四三四年)   七五 六三  中山王(尚巴志)より礼部あて、謝恩および謝恩品(目録)についての咨文(一四三四年)   七六 六四  中山王尚巴志より礼部あて、依頼物品の購入明細および献上物についての咨文(一四三四年)   七九 六五  中山王尚巴志より礼部あて、八郎事件等についての咨文(一四三四年)   八一 六六  宣宗より中山王尚巴志あて、八郎事件についての勅諭(一四三五・宣徳十年)   八四 六七  中山王尚巴志より宣宗あて、八郎事件の処理についての謝恩の上表文(一四三五年)   八五 六八  中山王尚巴志より宣宗あて、謝恩(物品)の送付についての上奏文(一四三六・正統元年)   八六 六九  中山王(尚巴志)より礼部あて、琉球難民の送還等についての謝恩の咨文(一四三六年)   八七 七〇  中山王(尚巴志)より礼部あて、朝服の給賜を願うこと等についての咨文(一四三六年)   九〇 七一  王相懐機より天師大人あて、誥録の給賜についての願文(一四三六年)   九一 七二  王相懐機より天師府あて、国王および懐機の進献礼物の目録(一四三六年)   九二 七三  行在の礼部より中山王尚巴志あて、朝服および暦日の頒賜についての咨文(一四三七・正統二年)   九二 七四  礼部より中山王(尚巴志)あて、大統暦の給賜についての咨文(一四三七年)   九四 七五  中山王(尚巴志)より(暹羅国)あて、礼物の献上についての咨文(一四三七年)   九五 七六  中山王(尚巴志)より(礼部)あて、琉僧(報恩寺の天屋)への度牒を請う咨文(一四三八・正統三年)   九六 七七  琉球国王尚巴志より(爪哇カ)あて、礼物の奉献および貿易についての咨文(一四三八年)   九七 七八  王相懐機より旧港の管事官あて、礼物の献上および貿易についての書簡(一四三八年)   九八 七九  王相懐機より宝林邦の施氏大娘仔あて、貿易についての書簡(一四三八年)   九八 八〇  琉球国執礼等の事の官烏魯古結制より暹羅国の中人密讃あて、献上物の送付についての書簡(一四三八年)   九九 八一  王相懐機より天師府大人あて、科録の給賜を願う書簡(一四三八年)   一〇〇 八二  中山王尚巴志と王相懐機より天師府あて、進献礼物の目録(一四三八年)   一〇〇 八三  中山(王)より礼部あて、補貢および船隻の給賜を願う咨文(一四三九・正統四年)   一〇一 八四  中山王(尚巴志)より中国あて、補貢の使者に対して発給した符文(一四三九年)   一〇三 八五  中山王尚巴志より礼部あて、慶賀等についての咨文(一四三九年)   一〇四 八六  王相懐機より天師府大人あて、尚巴志の訃報と尚忠等への(科)禄の加授を請う書簡(一四三九年)   一〇五 八七  王相懐機より天師府あて、香花の奉献についての書簡(一四三九年)   一〇六 八八  琉球国王より爪哇国あて、礼物の奉献および貿易についての咨文(一四四〇・正統五年)   一〇七 八九  王相懐機より三仏斉宝林邦・本頭娘あて、貿易についての書簡(一四四〇年)   一〇八 九〇  王相懐機より旧港宝林邦の施氏大娘あて、貿易についての書簡(一四四〇年)   一〇八 九一  中山王世子尚忠より礼部あて、襲封を請うこと等についての咨文(一四四一・正統六年)   一〇九 九二  中山王世子尚忠より礼部あて、万寿聖節の慶賀についての咨文(一四四一年)   一一〇 九三  中山王(尚忠)より爪哇国あて、貿易についての咨文(一四四一年)   一一一 九四  中山王(尚忠)より爪哇国あて、礼物の奉献および貿易についての咨文(一四四一年)   一一二 九五  中山王世子尚忠より礼部あて、飄流船隻等のことについての咨文(一四四二・正統七年)   一一四 九六  琉球国王府より暹羅国あて、礼物の奉献および貿易についての咨文(一四四二年)   一一六 九七  琉球国王より爪哇国あて、礼物の奉献等についての咨文(一四四二年)   一一七 九八  代宗より中山王世子尚泰久あて、冊封の詔(一四五五・景泰六年)   一一八 九九  朝鮮国王より琉球国王(尚徳)あて、礼物の献上等についての書簡(一四六一・天順五年)   一一九 一〇〇 中山王尚徳より英宗あて、冊封の謝恩等についての奏文(一四六三・天順七年)   一二〇 一〇一 琉球国王より満刺加国王あて、礼物の献上および貿易についての咨文(一四六三年)   一二一 一〇二 琉球国王より蘇門答刺国王あて、礼物の献上および貿易についての咨文(一四六三年)   一二二 一〇三 中山王尚徳より礼部あて、長史蔡*の父の祭祀等についての咨文(一四六四・天順八年)   一二三 一〇四 琉球国王より暹羅国王あて、貿易等についての咨文(一四六四年)   一二六 一〇五 琉球国王より満刺加国王あて、貿易等についての咨文(一四六四年)   一二七 一〇六 中山王尚徳より礼部あて、附搭貨物の代価として銅銭の支給を願うこと等についての咨文(一四六五・成化元年)   一二八 一〇七 中山王尚徳より暹羅国王あて、貿易についての咨文(一四六五年)   一三〇 一〇八 中山王尚徳より満刺加国王あて、貿易等についての咨文(一四六五年)   一三一 一〇九 琉球国王より満刺加国王あて、貿易等についての咨文(一四六六・成化二年)   一三二 一一〇 中山王尚徳より謝恩船に発給された執照文(一四六七・成化三年)   一三三 一一一 満刺加国王より琉球国王あて、使臣の礼物献上についての書簡(一四六七年)   一三四 一一二 博多州の道安より琉球国王府あて、朝鮮国からの献上物についての私信(一四六七年)   一三五 一一三 朝鮮国王李*より琉球国王あて、礼物献上等についての書簡(一四六七年)   一三六 一一四 琉球国王より蘇門答刺国王あて、貿易等についての咨文(一四六七年)   一三八 一一五 琉球国王より満刺加国王あて、貿易等についての咨文(一四六七年)   一三九 一一六 琉球国王より蘇門答刺国王あて、貿易等についての咨文(一四六八・成化四年)   一四〇 一一七 満刺加国王より琉球国王あて、礼物献上についての咨文(一四六九・成化五年)   一四一 一一八 琉球国王より暹羅国王あて、貿易等についての咨文(一四六九年)   一四二 一一九 満刺加国王より琉球国王あて、礼物献上および使節の人選方についての咨文(一四七〇・成化六年)   一四三 一二〇 琉球国王より満刺加国王あて、貿易等についての咨文(一四七〇年)   一四四 一二一 中山王尚徳より朝鮮国王殿下あて、礼物の贈答についての咨文(一四七〇年)   一四五 一二二 中山王世子尚円より中国あて、謝恩使派遣についての符文(一四七〇年)   一四七 一二三 憲宗より中山王世子尚円あて、蟒竜羅段の没収についての勅(一四七一・成化七年)   一四八 一二四 憲宗より中山王世子尚円あて、冊封の詔(一四七一年)   一四九 一二五 憲宗より中山王世子尚円あて、冊封の勅諭(一四七一年)   一五〇 一二六 憲宗より中山王尚円および妃への冊封の頒賜物(一四七一年)   一五〇 一二七 中山王尚円より礼部あて、冊封の謝恩についての咨文(一四七二・成化八年)   一五二 一二八 琉球国王より満刺加国王あて、旧年の遣使の消息問い合せについての咨文(一四七二年)   一五四 一二九 憲宗より中山王尚円あて、福州における琉使の強盗殺人事件についての勅諭(一四七五・成化十一年)   一五五 一三〇 中山王尚円より憲宗あて、強盗殺人事件への釈明および旧制通り一年一貢を願うことについての奏文(一四七六・成化十二年)     一五六 一三一 中山王尚円より憲宗あて、漂流民救助に対する謝恩についての奏文(一四七九・成化十五年)   一五八 一三二 中山王尚真より礼部あて、冊封の謝恩および礼物献上についての咨文(一四七九年)   一六〇 一三三 中山王尚真より中国あて、進貢使節のすみやかな通交を乞う執照文(一四七九年)   一六二 一三四 中山王尚真より礼部あて、皇太子への冊封の謝恩ならびに礼物献上についての咨文(一四七九年)   一六三 一三五 孤子(尚真)より冊封使(董旻、張祥)あて、謝礼についての書簡(一四七九年)   一六四 一三六 冊封副使張祥より中山王尚真あて、礼金を辞すについての書簡(一四七九年)   一六五 一三七 憲宗より中山王尚真あて、二年一貢を定めた勅諭(一四八〇・成化十六年)   一六七 一三八 満刺加国王より琉球国王(尚真)あて、貿易および礼物贈答についての咨文(一四八〇年)   一六八 一三九 満刺加の楽系麻拏より琉球国王(尚真)あて、難船琉人の救助につき褒賞を願う書簡(一四八〇年)   一六九 一四〇 暹羅国王より琉球国王(尚真)あて、難船人の送還についての咨文(一四八〇年?)   一七〇 一四一 暹羅国礼部尚書の屋把*摩訶薩陀烈より琉球国王あて、遭難琉使の護送および礼物についての書簡(一四八〇年)   一七二 一四二 暹羅国の長者名下の奈羅思利より琉球あて、謝恩についての書簡(一四八〇年)   一七三 一四三 暹羅国の長史の蕭奈悦本より琉球あて、礼物贈与についての書簡(一四八〇〜八一年)   一七四 一四四 満刺加国の楽索摩拏より琉球国王あて、返礼物の献上についての書簡(一四八一・成化十七年)   一七五 一四五 暹羅国王より琉球国王あて、琉球使節の遭難および返礼物献上についての咨文(一四八一年)   一七六 一四六 暹羅国王より琉球国王あて、礼物献上についての咨文(一四八一年)   一七七 一四七 中山王尚真より礼部あて、官生の派遣についての咨文(一四八一年)   一七八 一四八 憲宗より中山王尚真あて、遣使の人選についての勅諭(一四八二・成化十八年)   一七九 一四九 中山王尚真より礼部あて、慶賀使派遣についての符文(一四八九・弘治二年)   一八〇 一五〇 中山王尚真より暹羅国あて、貿易についての執照文(一五〇九・正徳四年)   一八二 一五一 中山王尚真より満刺加国あて、進貢品購入使節の派遣についての執照文(一五〇九年)   一八三 一五二 中山王(尚真)より安南国あて、奉謝礼物の贈答使節派遣についての執照文(一五〇九年)   一八四 一五三 中山王(尚真)より巡達等の国あて、進貢品購入使節の派遣についての執照文(一五一三・正徳八年)   一八五 一五四 中山王(尚真)より仏大泥国あて、進貢品購入使節の派遣についての執照文(一五一五・正徳十年)   一八六 一五五 中山王尚真より中国あて、官生派遣についての執照文(一五二三・嘉靖二年)   一八七 一五六 世宗より中山王世子尚清あて、冊封の詔(一五三二・嘉靖十一年)   一八九 一五七 世宗より故王尚真への諭祭文(一五三二年?)   一九〇 一五八 世宗より中山王世子尚元あて、倭寇捕殺、中国人被虜の救助についての勅諭(一五五八・嘉靖三十七年)   一九一 一五九 中山王世子尚元より中国あて、冊封使迎接のための使者派遣についての執照文(一五六〇・嘉靖三十九年)   一九二 一六〇 中山王尚元より中国あて、冊封使の帰国を探問するための使者派遣についての執照文(一五六二・嘉靖四十一年)   一九四 一六一 中山王尚元より中国あて、官生の派遣についての執照文(一五六五・嘉靖四十四年)   一九五 一六二 中山王尚元より中国あて、官生の帰国についての執照文(一五七二・隆慶六年)   一九七 一六三 中山王世子尚永より中国あて、進貢硫黄の補貢についての執照文(一五七五・万暦三年)   一九八 一六四 中山王尚永より中国あて、官生の派遣についての執照文(一五七九・万暦七年)   一九九 一六五 中山王尚永より中国あて、朝京官人および官生の消息を探索する使者派遣についての執照文(一五八八・万暦十六年)   二〇〇 一六六 中山王世子尚寧より中国あて、関白(豊臣秀吉)の大明・朝鮮侵犯情報を伝達する使者派遣の執照文(一五九二・万暦二十年)     二〇二 一六七 中山王世子尚寧より中国あて、中国官員を護送する使者派遣についての執照文(一五九四・万暦二十二年)   二〇四 一六八 福建布政使司より琉球国あて、遭難した中国官員転送の琉球官員への船隻支給・回国についての咨文(一五九五・万暦二十三年)      二〇五 一六九 福建布政使司より琉球国あて、進貢についての咨文(一五九五年)   二〇七 一七〇 福建布政使司より琉球国あて、領封の是非を議定することについての咨文(一五九六・万暦二十四年)   二〇七 一七一 中山王世子尚寧より中国あて、遭難琉球人護送の中国官員の回送についての執照文(一五九六年)   二一七 一七二 朝鮮国王より琉球国あて、礼物贈与についてのお礼の咨文(一五九七・万暦二十五年)   二一八 一七三 中山王世子尚寧より中国あて、関白の動向報告の使者派遣についての執照文(一五九八・万暦二十六年)   二二一 一七四 中山王世子尚寧より中国あて、関白の死を飛報する使者派遣についての執照文(一五九八年)   二二三 一七五 福建布政使司より琉球国あて、琉球貢使の遭害事件に係る中国官兵の処分についての咨文(一五九九・万暦二十七年)   二二四 一七六 福建布政使司より琉球国あて、関白の死を報じた琉球使臣の帰国についての咨文(一五九九年)   二二五 一七七 福建布政使司より琉球国あて、進貢謝恩等の琉球使臣についての咨文(一六〇〇・万暦二十八年)   二二五 一七八 朝鮮国王より琉球国あて、度々の厚恩に対するお礼についての咨文(一六〇一・万暦二十九年)   二二六 一七九 礼部より琉球国あて、冊封使の選任問題(武官か文官か)と捕捉せる琉球船の乗員の処置についての咨文(一六〇一年)   二二九 一八〇 福建布政使司より琉球国あて、進貢使臣等に対する給賞についての咨文(一六〇二・万暦三十年)   二三八 一八一 神宗より中山王世子尚寧あて、冊封の詔(一六〇三・万暦三十一年)   二四一 一八二 浙江の提刑按察司より琉球国あて、探貢琉球人の不法行為取調についての咨文(一六〇三〜〇四年)   二四二 一八三 福建布政使司より琉球国あて、遭難進貢船の乗員の救助および帰国方についての咨文(一六〇四・万暦三十二年)   二五三 一八四 浙江等処の提刑按察司より琉球国あて、不法行為の嫌疑を受けた林元の処治についての咨文(一六〇四年)   二五五 一八五 福建布政使司より琉球国あて、冊封使迎接使者の帰国事情についての咨文(一六〇五・万暦三十三年)   二五五 一八六 朝鮮国王より琉球国あて、朝貢国間の友好関係を厚くすることについての咨文(一六〇六・万暦三十四年)   二五七 一八七 中山王尚寧より礼部あて、冊封使に謝礼金を送ることについての咨文(一六〇六年)   二五九 一八八 礼部より中山王尚寧あて、福建人阮国、毛国鼎の琉球への入籍を承認することについての咨文(一六〇七・万暦三十五年)   二六     一 一八九 大常寺少卿夏・光禄寺寺丞王より中山王尚寧あて、琉球の通商について諌言した咨文(一六〇七年)   二六五 一九〇 中山王尚寧より中国あて、島津侵入と貢期が緩れることにつき使者派遣についての符文(一六〇九・万暦三十七年)   二六七 一九一 福建布政使司より琉球国あて、補貢の受納と進貢使節への給賞についての咨文(一六〇九年)   二六八 一九二 琉球国の国事を看るの法司馬良弼より礼部あて、島津侵入の経緯を報ずる咨文(一六一〇・万暦三十八年)   二六九 一九三 法司馬良弼より福建布政使司あて、薩摩侵入の経過と進貢の継続を願う咨文(一六一〇年)   二七一 一九四 中山王尚寧より中国あて、島津侵入前後の事情を報ずる使者派遣についての執照文(一六一〇年)   二七七 一九五 神宗より中山王尚寧あて、島津侵入に対する憮恤と前後の事情を問う勅諭(一六一〇年)   二七八 一九六 中山王尚寧より朝鮮国あて、修好および返礼についての咨文(一六一〇〜一二年)   二七八 一九七 中山王尚寧より福建布政使司あて、勅諭によりて倭乱平定し薩摩より帰国したことの謝恩と進貢についての咨文(一六一二・万暦四十     年)   二八〇 一九八 中山王尚寧より福建布政使司あて、王府銀料詐取横領事件に関し真犯人の探索依頼についての咨文(一六一三・万暦四十一年)     二八三 一九九 福建布政使司より琉球国あて、島津侵入の痛手に稽み十年後に進貢すべき旨の咨文(一六一三年)   二八四 二〇〇 福建総鎮府より法司馬良弼あて、三年二貢の定例への回復を上奏した旨についての咨文(一六一三年)   二八六 二〇一 中山王尚寧より礼部あて、十年一貢をやめ旧例(二年一貢)を覆するを乞うことについての咨文(一六一四・万暦四十二年)   二     八七 二〇二 中山王尚寧より中国あて、十年一貢をやめ旧例に覆するを乞う使者派遣についての符文(一六一四年)   二九一 二〇三 福建布政使司より中山王尚寧あて、倭情を報じた琉使への給賞についての咨文(一六一六・万暦四十四年)   二九二 二〇四 福建布政使司より琉球国あて、国力疲弊により、十年一貢を守るべしとの咨文(一六一九・万暦四十七年)   二九四 二〇五 中山王世子尚豊より朝鮮国あて、尚寧の死を報じ、末長き交隣を願うことについての咨文(一六二一・天啓元年?)   二九五 二〇六 熹宗天啓帝の大婚の詔書(一六二一年)   二九七 二〇七 礼部より中山王世子尚豊あて、請封の手続不備なるについての咨文(一六二三・天啓三年)   二九八 二〇八 福建布政使司より琉球国あて、進貢方物の収領についての咨文(一六二三年)   三〇〇 二〇九 福建布政使司より琉球国あて、熹宗天啓帝の登極と大婚の詔書を送るについての咨文(一六二三年)   三〇一 二一〇 中山王世子尚豊より朝鮮国あて、交隣を篤くするために礼物を送ることについての咨文(一六二三年)   三〇二 二一一 中山王世子尚豊より朝鮮国あて、交隣を篤くするために礼物を送ることについての咨文(一六二三年)   三〇三 二一二 中山王世子尚豊より礼部あて、印結および表を具えて冊封を乞うことについての咨文(一六二五・天啓五年)   三〇四 二一三 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、登極・大婚の詔書を拝開し、齎捧せる使者蕭崇基を護送するについての咨文(一六二五年)       三〇六 二一四 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、漂流民の救助に対する謝恩の咨文(一六二五年)   三〇七 二一五 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、五年一貢に従うも、二年一貢に復さんことを乞うことについての咨文(一六二五年)   三     〇九 二一六 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、蕭崇基の渡来の際に、貢船の難破について知らせた咨文(一六二五年)   三一一 二一七 中山王(世子)尚豊より欽差巡視あて、進貢船隻の消息安否を問う咨文(一六二五年)   三一三 二一八 福建布政使司より琉球国あて、慶賀進香使節への欽賞および附搭貨物への給賞についての咨文(一六二五年)   三一五 二一九 中山王世子尚豊より礼部および福建布政使司あて、再び冊封を請うことについての咨文(一六二六・天啓六年)   三一七 二二〇 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、五年一次の貢期に循って進貢することについての咨文(一六二六年)   三一八 二二一 朝鮮国の吏曹判書金から正議大夫蔡延あて、咨文および礼物受領についての書簡(一六二六年)   三二〇 二二二 三司官呉鶴齢等より福建布政使司あて、請封の甘結提出についての咨文(一六二七・天啓七年)   三二一 二二三 中山王世子尚豊より礼部あて、甘結を備えて三たび冊封を請うの咨文(一六二七年)   三二二 二二四 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、甘結を備えて三たび冊封を請う咨文(一六二七年)   三二五 二二五 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、未帰還進貢船の探報および使者迎接のための咨文(一六二七年)   三二七 二二六 福建布政使司より琉球国あて、毅宗登極の詔書等を齎すため左衛指揮閔邦基を遣わすについての咨文(一六二八・崇禎元年)   三     二八 二二七 朝鮮国王より琉球国あて、琉球国王の即位にあたりますます交隣を篤くしたい旨の咨文(一六二八年)   三二九 二二八 中山王世子尚豊より礼部あて、五年一貢に従って進貢するについての咨文(一六三〇・崇禎三年)   三三一 二二九 中山王府長史司より閔指揮使あて、琉球にて逃亡した中国使節の一員(方茂)の送還につき情状酌量せられたき旨の書簡(一六三〇年     )   三三四 二三〇 中山王府長史司より進貢正議大夫鄭俊あて、方茂の送還方についての訓令(一六三〇年)   三三五 二三一 福建布政使司より琉球国あて、皇子誕生他一通の詔書の頒賜についての咨文(一六三〇年)   三三六 二三二 福建布政使司より琉球国あて、請封を許可する旨の咨文(一六三〇年)   三三七 二三三 中山王世子尚豊より冊封正使杜三策あて、迎接使派遣についての咨文(一六三〇年)   三四二 二三四 中山王府長史司より海防館呉あて、接封船乗組員の携帯螺殻の取り扱い規定についての故牒(一六三〇年)   三四五 二三五 中山王世子尚豊より朝鮮国王あて、進物の謝礼および長き友好を願うことについての咨文(一六三一・崇禎四年)   三四七 二三六 中山王世子尚豊より毅宗あて、皇太子の冊立を慶賀することについての表文(一六三一年)   三四九 二三七 中山王世子尚豊より礼部あて、皇太子の冊立慶賀についての咨文(一六三一年)   三五一 二三八 福建布政使司より琉球国あて、迎接使の一部の帰国に際し咨文を給することについての咨文(一六三一年)   三五二 二三九 福建布政使司より琉球国あて、慶賀進香使節への欽賞物品の賜給についての咨文(一六三一年)   三五三 二四〇 冊封正使杜三策より中山王世子尚豊あて、迎接使の派遣を受くるも渡琉が遅れる旨の咨文(一六三一年)   三五四 二四一 冊封副使楊倫より中山王世子尚豊あて、迎接使の派遣を受くるも渡琉が遅れる旨の咨文(一六三一年)   三五五 二四二 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、迎接使節の回国の時期についての咨文(一六三一年)   三五六 二四三 中山王世子尚豊より冊封正使杜三策あて、四度目の迎接使派遣についての咨文(一六三二・崇禎五年)   三五八 二四四 中山王世子尚豊より欽差副使楊倫あて、四度目の迎接使派遣についての咨文(一六三二年)   三五九 二四五 冊封正使杜三策より中山王世子尚豊あて、渡琉が来夏にのびる旨を伝えた咨文(一六三二年)   三六一 二四六 福建布政使司より琉球国あて、迎接使節の帰国につき回文を賜与する旨の咨文(一六三二年)   三六二 二四七 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、迎接使再遣についての咨文(一六三二年)   三六三 二四八 中山王世子尚豊より欽差副使楊*あて、迎接使の派遣についての咨文(一六三二年)   三六四 二四九 福建布政使司より琉球国あて、迎接使の帰国に際し回文を賜与する旨の咨文(一六三三・崇禎六年)   三六六 二五〇 福建布政使司より琉球国あて、東宮の慶賀使への賞賜および帰国についての咨文(一六三三年)   三六六 二五一 冊封正使杜三策より中山王世子尚豊あて、封船出発についての咨文(一六三三年)   三六八 二五二 中山王尚豊より毅宗あて、冊封使に宴金の収受を命ずる旨、願った上奏文(一六三三年)   三六九 二五三 中山王尚豊より福建布政使司あて、冊封の謝恩についての咨文(一六三三年)   三七一 二五四 中山王尚豊より福建布政使司あて、「空白紙文」を携帯せしむる旨の執照文(一六三三年)   三七三 二五五 福建布政使司より琉球国あて、謝恩使の上京等についての咨文(一六三四・崇禎七年)   三七四 二五六 福建布政使司より琉球国あて、冊封使帰着の通知および琉使の帰国についての咨文(一六三四年)   三七四 二五七 礼部より琉球国王あて、貢期を三年両貢に復し、方物を加進し船一隻を増すことを准す旨の咨文(一六三四年)   三七五 二五八 朝鮮国王より琉球国あて、進物への謝礼と長き友好を願うことについての咨文(一六三四年)   三七八 二五九 礼部より琉球国王あて、冊封使への餽金を齎回せしめる件についての咨文(一六三五・崇禎八年)   三八〇 二六〇 中山王尚豊より福建布政使司あて、遭難の宮古人への救恤に対する謝恩についての咨文(一六三五年)   三八二 二六一 礼部より琉球国王あて、箋文の体式(書式)に従うべしとの咨文(一六三六・崇禎九年)   三八五 二六二 福建布政使司より琉球国あて、不時の進貢をやめて会典の規定に遵うべき旨の咨文(一六三六年)   三八六 二六三 福建布政使司より琉球国王あて、進貢の規定を遵守すべしとの咨文(一六三六年)   三九四 二六四 福建布政使司より琉球国あて、謝恩の使節に対する賞賜についての咨文(一六三六年)   三九七 二六五 中山王尚豊より礼部あて、貢期の回復と貢物の増加を准さることへの謝礼の咨文(一六三六年)   四〇〇 二六六 琉球国三法司より福州府青天爺爺あて、王銀詐取の真犯人を逮捕し、現銀の返還を要めることについての申文(一六三六年)   四     〇四 二六七 琉球国長史司より福州府海防館あて、王銀詐取の真犯人を逮捕し現銀あるいは湖糸にて弁済されたき旨の牒文(一六三六年)   四     〇六 二六八 琉球国王(尚豊)より朝鮮国あて、交隣を篤くするために礼物を送る旨の咨文(一六三六年)   四〇八 二六九 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢員役の安否を訪ねるための使者派遣についての咨文(一六三八・崇禎十一年)   四一〇 二七〇 福建布政使司より琉球国あて、白糸貿易は今回についてのみ准すも以後禁ずる旨等の咨文(一六三八年)   四一三 二七一 福建布政使司より琉球国あて、今回に限り白糸の市買を寛免するも以後は法により禁ずる旨の咨文(一六三八年)   四一六 二七二 中山王尚豊より毅宗あて、進貢に際し白糸購入の許可を願った奏文(一六三八年)   四二一 二七三 中山王尚豊より礼部および福建布政使司あて、進貢硫黄の煎煉および補貢についての咨文(一六三八年)   四二三 二七四 中山王尚豊より福建都指揮使司あて、進貢硫黄の煎煉および補貢についての咨文(一六三八年)   四二五 二七五 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢使が商人に騙取された銀両の追給返還を懇請した咨文(一六三八年)   四二六 二七六 三司官の馬勝連等より福州府の青天爺あて、崇禎七年進貢の際の詐取事件について再度の欠銀回収要請の書簡(一六三八年)   四     三一 二七七 中山王長史司より福州府海防館あて、進貢品の生硫黄の補貢の件について、照会の牒文(一六三八年)   四三四 二七八 中山王尚豊より銀銭騙取人あて、説諭(一六三八年)   四三五 二七九 中山王尚豊より朝鮮国王あて、交隣を求めるための返答の咨文(一六三八年)   四三六 二八〇 福建布政使司より琉球国王あて、進貢の際の白糸購入を許可しないことについての咨文(一六三九・崇禎十二年)   四三七 二八一 礼部より琉球国王あて、進貢の際の貿易制限規定遵守について要請した咨文(一六四〇・崇禎十三年)   四三九 二八二 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢物の件について照会の咨文(一六四〇年)   四四〇 二八三 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢の際の白糸買入れについて、題請を依頼する咨文(一六四一〜四二・崇禎十四〜十五年)      四四二 二八四 中山王尚豊より礼部あて、進貢の際の白糸買入れについて、題請を要請する咨文(一六四一〜四二年)   四四三 二八五 中山王世子尚賢より礼部あて、襲封を請う咨文(一六四二年)   四四五 二八六 中山王世子尚賢より福建布政使司あて、未だ帰国しない使者の安否を訪ねる旨の咨文(一六四三・崇禎十六年)   四四六 二八七 中山王世子尚賢より福建布政使司あて、糸*について毎両三分の輸税で互市を許されんことを請う咨文(一六四四・崇禎十七年)      四四八 二八八 福建布政使司より(中山王世子尚賢)あて、使者花*を遣わして謚詔三道を伝達する旨の咨文(一六四五・弘光元年?)   四四九 二八九 南京礼部より都御史張あて、琉球の要請した納税しての白糸貿易を許す旨の咨文(一六四五年)   四五一 二九〇 南京礼部より福建布政使司あて、白糸貿易につき牙行の任命および取締りに関する照会(一六四五年)   四五三 二九一 中山王世子尚賢より中国あて、先帝毅宗への進香使の派遣についての符文(一六四五年)   四五四 二九二 中山王世子尚賢より福建布政使司あて、護送使者鄭子廉等の通行を阻害しないでほしい旨の執照文(一六四五年)   四五五 二九三 行在の礼部より琉球国あて、詔書齎捧の閔邦基を福州に滞在中の鄭子廉に護送せしめる旨の咨文(一六四五・隆武元年)   四五六 二九四 行在の通政使司より中山王世子尚賢あて、白糸の互市納税を許可する旨、通知した咨文(一六四五年)   四五九 二九五 福京の礼部より琉球国長史司あて、毛大用等の進むる所の竜香を察収した旨通知する照会の咨文(一六四六・隆武二年)   四六二 二九六 行在の礼部より中山王世子尚賢あて、硫黄等の補貢を許し、貢使を回国せしめる旨の咨文(一六四九・監国魯四年)   四六三 二九七 中山王世子尚賢より隆武帝あて、登極を賀し、朝延の恩を謝す奏文(一六四六年)   四六五 二九八 中山王世子尚賢より礼部あて、使者閔邦基が頒賜の詔書を王城に於いて開読しおわりたるにつき、都通事鄭子廉をして護送せしむ旨の     咨文(一六四六年)   四六六 二九九 中山王世子尚賢より礼部あて、隆武帝の登極を慶賀するため、使節を派遣する旨の咨文(一六四六年)   四六八 三〇〇 中山王世子尚賢より行在の礼部あて、先の白糸貿易の許可にもとづき規定通り貿易する旨の咨文(一六四六年)   四六九 三〇一 中山王世子尚質より中国あて、隆武帝登極の慶賀使節派遣についての符文(一六四六年)   四七二 三〇二 中山王世子尚質より福建布政使司あて、未だ帰国しない進香および慶賀使節の安否を問う咨文(一六四九・隆武五年)   四七四 三〇三 福建布政使司より琉球国あて、招撫使謝必振とともに隆武帝即位の慶賀使金思徳等を帰国せしめる旨の咨文(一六四九・順治六年)       四七六 三〇四 中山王世子尚質より巡撫福建都察院*あて、金思徳らの送還の際の尽力に感謝する咨文(一六四九年)   四七九 三〇五 中山王世子尚質より正白旗平国公府あて、遭難琉球国使節を救済帰国せしめたことに対する謝恩の咨文(一六四九年)   四八〇 三〇六 福建布政使司より琉球国あて、明の詔勅印を返還する使者を帰国せしめることについての咨文(一六五〇・順治七年)   四八一 三〇七 世祖(順治帝)より琉球国王あて、故明の勅印の返還を促す勅諭(一六五一・順治八年)   四八三 三〇八 福建布政使司より琉球国あて、招撫使謝必振とともに琉球使節を回国せしむる旨の咨文(一六五二・順治九年)   四八三 三〇九 欽差齎勅の招撫使謝必振より長史司あて、登極慶賀の派遣と明印の返還を催促する咨文(一六五二年)   四八五 三一〇 中山王世子尚質より世祖あて、勅印の給賜と白糸貿易における牙行の積弊を除くことを乞う上奏文(一六五三・順治十年)   四八     七 三一一 福建布政使司より琉球国あて、明印を受納し、齎捧の使者を帰国せしむる旨の咨文(一六五三年)   四八九 三一二 礼部より中山王世子尚質あて、襲王の詔・勅の頒給および自由貿易を恩免する旨の咨文(一六五四・順治十一年)   四九二 三一三 礼部より中山王世子尚質あて、違禁の物を除き、会同館において両平交易を許すこと等についての咨文(一六五四年)   四九四 三一四 礼部より中山王世子尚質あて、進貢方物の数目および二年一貢は明制に遵いて定例とする旨の咨文(一六五四年)   四九八 三一五 中山王世子尚質より福建布政使司あて、慶賀のために派遣せる馬宗毅等を接回することについての咨文(一六五六・順治十三年)      四九九 三一六 聖祖より中山王世子尚質あて、冊封正副使の渡琉延期等を貢め、琉球使臣を速やかに帰国せしむ旨の勅諭(一六六二・康煕元年)      五〇一 三一七 福建布政使司より中山王世子尚質あて、明朝の勅印を*納して、清朝の勅印を受けるについての咨文(一六六三・康煕二年)   五     〇二 三一八 中山王尚質より聖祖あて、正副使等の過失を宥免し、勅書、勅諭を懇留することについての上奏文(一六六三年)   五〇五 三一九 中山王尚質より聖祖あて、冊封正副使に謝礼金の収受を願う上奏文(一六六三年)   五〇七 三二〇 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、冊封に対する謝恩として法司王舅呉国用等を派遣することについての咨文(一六六三年     )   五〇八 三二一 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、聖祖登極の慶賀使派遣等についての咨文(一六六四・康煕三年)   五一一 三二二 福建布政使司より中山王尚質あて、尚質冊封への謝恩使派遣についての咨文(一六六四年)   五一二 三二三 礼部より中山王尚質あて、謝恩の礼物を領収した旨の咨文(一六六四年)   五一五 三二四 礼部より中山王尚質あて、冊封正副使ら関係者の処分を優叙し、勅書懇留についての上奏を許すことについての咨文(一六六四年)       五一六 三二五 礼部より中山王尚質あて、琉球にて冊封使が固辞した宴金につき勅許もて収受せしめたき旨の咨文(一六六四年)   五一八 三二六 福建布政使司より中山王尚質あて、聖祖登極の慶賀船難破して貢物を欠くも補備を免じて慶賀するを准した旨の咨文(一六六五・康煕     四年)   五一九 三二七 礼部より中山王尚質あて、先の決定に従って英常春等に慶賀せしめ終えた旨の咨文(一六六五年)   五二二 三二八 中山王尚質より聖祖あて、琉球館地籍内での琉人・清兵の雑居をやめ、また館の修築についての上奏文(一六六六・康煕五年)     五二三 三二九 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、南方貿易の困難につき、進貢の方物を万暦以後の旧案に準じたき旨の咨文(一六六六年     )   五二五 三三〇 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、常貢の外に紅銅等を加進することについての咨文(一六六六年)   五二八 三三一 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、先に免ぜられたる慶賀品等を補貢することについての咨文(一六六六年)   五二九 三三二 中山王尚質より総督部院の李あて、帰国した呉国用らの借船の弁償方についての咨文(一六六六年)   五三三 三三三 礼部より中山王尚質あて、慶賀使節への頒賞についての咨文(一六六六年)   五三四 三三四 礼部より中山王尚質あて、先の請願(三二九項)の如く、常貢の方物より瑪瑙等十件を免除する旨の咨文(一六六六年)   五三六 三三五 礼部より中山王尚質あて、恭順を嘉尚して補進の方物を発回せしむことについての咨文(一六六六年)   五三九 三三六 中山王尚質より福建布政使司あて、天朝の冗費を省くため、進貢員役の一部を接回したい旨の咨文(一六六七・康煕六年)   五四     一 三三七 福建布政使司より中山王尚質あて、進貢品の変更、常貢物の加進、進貢員役の接回等を准す旨の咨文(一六六七年)   五四二 三三八 福建布政使司より中山王尚質あて、先に免除せる補貢の品を持ち回らしむ旨の咨文(一六六七年)   五五〇 三三九 中山王尚質より聖祖あて、糸類貿易の条項規定の周知徹底と進貢・接貢船の即日入港の許可を願う奏文(一六六八・康煕七年)     五五四 三四〇 中山王尚質より福建布政使司および礼部あて、進貢使節への賞賜についての謝礼の咨文(一六六八年)   五五六 三四一 礼部より中山王尚質あて、進貢の際の頒賞には謝恩の必要なく、謝恩の際には表文・礼物を要すとの咨文(一六六九・康煕八年)      五五九 三四二 礼部より中山王尚質あて、進貢船附搭土夏布の自由貿易を許可することについての咨文(一六六九年)   五六〇 三四三 礼部より中山王尚質あて、湖糸収買の許可および進貢・接貢船の湾泊の件についての咨文(一六六九年)   五六二 三四四 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢および襲封の件についての咨文(一六六九年)   五六四 三四五 中山王世子尚貞より聖祖あて、福州琉球館における貿易の許可を懇願した奏文(一六七〇・康煕九年)   五六六 三四六 中山王世子尚貞より聖祖あて、進貢船を下賜されたき旨の奏文(一六七〇年)   五六八 三四七 中山王世子尚貞より礼部等あて、詔勅・緞疋等を頒賜せられたる件について、謝恩の咨文(一六七〇年)   五六九 三四八 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢使派遣、進貢物献上について、照会の咨文(一六七〇年)   五七〇 三四九 福建布政使司より琉球国あて、進貢・請封・貿易等の件についての咨文(一六七〇年?)   五七一 三五〇 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢物の受領、礼物・勅諭の頒賜についての咨文(一六七一・康煕十年)   五七五 三五一 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢船遭難事件の取扱いについての咨文(一六七一年)   五七五 三五二 礼部より中山王世子尚貞あて、福州琉球館における貿易許可の件についての咨文(一六七一年)   五七七 三五三 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢船の二隻は貢使の京より帰るを待って帰国させる旨の咨文(一六七一年)   五七九 三五四 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、遭難進貢船の進貢物の取扱いについての咨文(一六七二・康煕十一年)   五八一 三五五 中山王世子尚貞より聖祖あて、やむをえざる事情につき、従前通り進貢船のみ先に帰国するを許可されたき旨の上奏文(一六七二年)        五八四 三五六 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢船のみ先に帰国するを許さざる旨の咨文(一六七四・康煕十三年)   五八六 三五七 大僕寺卿管福建布政使司より中山王世子尚貞あて、糸絹布帛の市買を許可し、進貢使を送り返す旨の咨文(一六七四年)   五八七 三五八 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、三藩の乱平定の状況探訪のための使者派遣についての咨文(一六七七・康煕十六年)   五     八九 三五九 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、進貢使船の遭難状況および進貢使・漂流民の送還等についての咨文(一六七七年)   五九     〇 三六〇 中山王世子尚貞より礼部あて、福省の擾乱により欠貢した貢物を補貢したき旨の咨文(一六七八・康煕十七年)   五九八 三六一 中山王世子尚貞より礼部あて、進貢使の派遣・進貢物の献上についての咨文(一六七八年)   五九九 三六二 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、漂流民の救助についての感謝の咨文(一六七八年)   六〇一 三六三 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢物の受領・礼物および勅諭の頒賜についての咨文(一六八〇・康煕十九年)   六〇一 三六四 福建布政使司署司事按察使司より琉球国あて、進貢・補貢および遭難者の送還等の件についての咨文(一六八〇年)   六〇二 三六五 中山王世子尚貞より礼部あて、襲封を願う咨文(一六八〇年)   六〇九 三六六 中山王府三法司の毛泰永らより清朝あて、中山王世子尚貞の請封について提出した結状(保証書)(一六八〇年)   六一〇 三六七 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢使を派遣するにつき、進貢船隻を先回させて欲しい旨の咨文(一六八〇年)   六一一 三六八 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、宮古の漂流人が救助されて無事帰国できたことについて謝礼の咨文(一六八〇年)   六一     三 三六九 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢方物を収受し、忠誠を嘉する旨の咨文(一六八一・康煕二十年)   六一四 三七〇 礼部より中山王世子尚貞あて、今後、琉球の進貢方物は、硫黄・海螺殻・紅銅に止め、馬匹・糸煙はその必要がないことを通達した咨     文(一六八一年)   六一五 三七一 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢の恭順を嘉し、文綺等のものを特に下賜する旨の咨文(一六八二・康煕二十一年)   六一六 三七二 礼部より中山王世子尚貞あて、襲封の際には琉球の要請通り冊封使を派遣する旨についての咨文(一六八二年)   六一七 三七三 福建布政使司署司事按察使司より中山王世子尚貞あて、進貢使節中、先回すべき人員は順風なきため、京より回る人員と一同に帰国さ     せる旨の咨文(一六八二年)   六二二 三七四 冊封正使汪楫より中山王世子尚貞あて、渡来に先だち*にありて送付したあいさつの啓文(一六八二年?)   六二五 三七五 冊封副使林麟*より中山王世子尚貞あて、渡来に先だち*にありて送付したあいさつの啓文(一六八二年?)   六二七 三七六 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢方物は前に減免された馬匹等に替えて囲屏紙等を新たに加える旨の咨文(一六八二年)       六二八 三七七 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、冊封使節を迎える使者派遣についての咨文(一六八二年)   六二九 三七八 中山王世子尚貞より冊封正使汪楫あて、迎接使を派遣する旨の咨文(一六八二年)   六三〇 三七九 冊封副使林麟*より中山王世子尚貞あて、正使汪楫の*に到るを待って早やかに出発する旨の咨文(一六八三・康煕二十二年)     六三一 三八〇 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、冊封船の渡琉に先だち、報告のため進貢使節の小船の帰国を准す旨等の咨文(一六八三年)       六三一 三八一 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、接封使を冊封使とともに派遣する旨の咨文(一六八三年)   六三五 三八二 中山王尚貞より聖祖あて、襲封を謝し、封使の勤労を彰らかにする旨の奏文(一六八三年)   六三七 三八三 中山王尚貞より聖祖あて、冊封正副使に謝礼として金を贈ることの許可を願う旨の奏文(一六八三年)   六四〇 三八四 中山王尚貞より礼部あて、冊封の謝恩のために使節を派遣し品物を送る旨の咨文(一六八三年)   六四一 三八五 礼部より中山王尚貞あて、進貢物を査収し欽賞物を頒賜する旨の咨文(一六八三年)   六四三 三八六 福建布政使司より中山王尚貞あて、謝恩使の入京を許可する旨の咨文(一六八四・康煕二十三年)   六四四 三八七 礼部より中山王尚貞あて、謝恩の礼物の受領と欽賜の礼物を頒賜する旨の咨文(一六八四年)   六四七 三八八 礼部より中山王尚貞あて、頒賞の緞疋を加賜することについての咨文(一六八四年)   六四七 三八九 礼部より中山王尚貞あて、冊封正副使臣に宴金の受領を許可した旨の咨文(一六八四年)   六四八 三九〇 礼部より中山王尚貞あて、官生派遣について許可する旨の咨文(一六八四年)   六五〇 三九一 礼部より中山王尚貞あて、尚貞の申請通り冊封正副使の労をねぎらって優に従いて議叙した旨の咨文(一六八四年)   六五二 三九二 礼部より中山王尚貞あて、中国漂流民の収養・送還に関する朝鮮国への賞賜の事例もて、琉球等へも適用する旨の咨文(一六八四年)        六五四 三九三 中山王尚貞より礼部あて、加進方物を免除せらるるにつき、規定通り進貢することについての咨文(一六八四年)   六五六 三九四 福建布政使司より中山王尚貞あて、進貢物の受領と要請通り使者を帰国せしむる旨の咨文(一六八五・康煕二十四年)   六五七 三九五 中山王尚貞より福建布政使司あて、進貢使節を接回するための使船派遣についての咨文(一六八五年)   六六〇 三九六 礼部より中山王尚貞あて、海外政策に関する諸規定の通達についての咨文(一六八五年)   六六一 三九七 福建布政使司より中山王尚貞あて、接回の使節とともに前の進貢使節を帰国せしむる旨の咨文(一六八六・康煕二十五年)   六六     五 三九八 福建布政使司より中山王尚貞あて、遭難せる琉人林春等を進貢使とともに帰国させる旨の咨文(一六八六年)   六六八 三九九 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官魏応伯等の入京と官生梁成楫等の入監読書するを許す旨の咨文(一六八八・康煕二十七年)        六七〇 四〇〇 中山王尚貞より聖祖あて、外国進貢船三隻の税銀を恩免するの例に照らして、今後接貢船の附搭貨物への課税を止め、また進貢両船の     員役は二百人以内とせられたき旨の上奏文(一六八八年)   六七四 四〇一 中山王尚貞より福建布政使司あて、耳目官毛起竜等を遣わし進貢せしめることおよび飄風の難民林春等の送還に感謝する旨の咨文(一     六八八年)   六七七 四〇二 礼部より中山王尚貞あて、官生梁成楫等の入監読書するを許可する旨の咨文(一六八八年)   六七八 四〇三 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官毛起竜等の入京進貢の許可および飄風難民新垣等三名の福州での逃亡事件の顛末を報告する     旨の咨文(一六八九・康煕二十八年)   六八〇 四〇四 礼部より中山王尚貞あて、琉球進貢両船の乗員は定例の百五十人に加増して二百人を越えざることとし、接貢船の貨物に対する収税を     も免除する旨の咨文(一六八九年)   六八五 四〇五 福建布政使司より中山王尚貞あて、進貢二隻・接貢一隻の税銀は外国進貢の例に照らして免除することおよび再び新垣等の逃亡事件の     顛末について報告する旨の咨文(一六九〇・康煕二十九年)   六八八 四〇六 中山王尚貞より聖祖あて、官生梁成楫等三名は父母老年につき帰国奉養せしめたき旨の上奏文(一六九〇年)   六九七 四〇七 福建布政使司より中山王尚貞あて、進貢使温允傑等の赴京進貢するを許し、飄風の難民嘉賓等二十一人を送還する旨の咨文(一六九一     ・康煕三十年)   六九九 四〇八 礼部より中山王尚貞あて、進貢方物のうち海螺殻については以後進むるを免除する旨の咨文(一六九一年)   七〇三 四〇九 中山王尚貞より福建布政使司あて、接貢船を派遣し京より回る進貢使を福建にて迎接したき旨の咨文(一六九一年)   七〇四 四一〇 福建布政使司より中山王尚貞あて、接貢船一隻を遣わし、進貢の官員を接回せしめ、また官生梁成楫等三人を帰国せしむるを許可する     旨の咨文(一六九二・康煕三十一年)   七〇五 四一一 中山王尚貞より聖祖あて、進貢方物中の海螺殻・紅銅を恩免せられたるにつき、代わりに煉熟白剛錫を進貢したき旨の上奏文(一六九     二年)   七〇八 四一二 中山王尚貞より聖祖あて、官生梁成楫等の帰国を恩許せられたるにつき、常貢の外に方物を加添し貢使馬廷器に付して恩を謝す旨の上     奏文(一六九二年)   七一〇 四一三 中山王尚貞より礼部あて、進貢方物中の海螺殻・紅銅を恩免せられたるにつき、代わりに煉熟白剛錫を進貢したき旨の咨文(一六九二     年)   七一二 四一四 中山王尚貞より礼部あて、官生梁成楫等三人の帰国を恩許せられたるにつき、常貢の外に方物を加添し貢使馬廷器に付して恩を謝す旨     の咨文(一六九二年)   七一四 四一五 福建布政使司より中山王尚貞あて、貢使馬廷器の赴京入貢を許し、進貢方物のうち新たに加えた錫および謝恩の礼物については再議を     まつべき旨の咨文(一六九三・康煕三十二年)   七一六 四一六 礼部より中山王尚貞あて、馬廷器等の入貢せる方物を査収し、欽賞の礼物並びに勅諭一道を頒賜する旨の咨文(一六九三年)   七     一九 四一七 福建布政使司より中山王尚貞あて、接貢都通事毛文善をして貢使馬廷器等を接回せしむるを許す旨の咨文(一六九四・康煕三十三年)        七二〇 四一八 中山王尚貞より福建布政使司あて、貢期に当たり耳目官翁敬徳等を遣わし入貢せしむるにつき、よろしく取り計らわれたき旨の咨文(     一六九四年)   七二三 四一九 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官翁敬徳等の赴京入貢するを許し、また飄風の難彝西表等四十一名を貢船に附搭せしめて帰国     させる旨の咨文(一六九五・康煕三十四年)   七二四 四二〇 礼部より中山王尚貞あて、耳目官翁敬徳等の入貢せる方物を査収し、欽賞の礼物並びに勅諭一道を頒賜する旨の咨文(一六九五年)       七二八 四二一 福建布政使司より中山王尚貞あて、貢使翁敬徳等の帰国につき、都通事蔡灼等をして接回せしむるを許可する旨の咨文(一六九六・康     煕三十五年)   七二八 四二二 中山王尚貞より福建布政使司あて、貢期に当たり耳目官毛天相等を遣わし進貢せしむるにつき、よろしく取り計らわれたき旨の咨文(     一六九六年)   七三一 四二三 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官毛天相等の赴京入貢を許可する旨の咨文(一六九七・康煕三十六年)   七三二] [歴代宝案第一集抄] [一   序文(一六九七・康煕三十六年)]  歴代宝案は天妃宮に蔵しその来るや久し。然れども世を歴ること已に 久しく廃夷の患なき能わず。いま国相尚弘才、法司向世俊、毛克盛、毛 見竜、心に甚だこれを憂い、随いて紫金大夫蔡鐸、長史蔡応祥、鄭士綸 をして、旧案を重修せしむ。二部を抄成す。一部四十九本なり。一部は 王城に上り、一部は天妃宮に蔵す。康煕三十六年丁丑四月四日より起こ し十一月三十日に至りて告竣す。  督抄官、   正議大夫鄭宗徳、 宮城親雲上、   中議大夫鄭明良、 湊川親雲上、    梁邦基、 内間親雲上、    蔡肇功、 古謝親雲上、  考訂官、   都通事、 蔡灼、 喜友名通事親雲上、   通事、 毛文哲、 奥間通事親雲上、    阮維徳、 天久通事親雲上、    金溥、 手登根親雲上、    程順性、 古波蔵通事親雲上、  筆帖式、   通事、 蔡淵、 志多伯里之子、 鄭士経、 宮城通事、    毛士豊、 伊地通事、 鄭士絢、 宮城通事、    陳其湘、 幸喜通事、 蔡文漢、 高良通事、    梁烱、 国吉通事、 毛士弘、 伊地通事、  秀才、 楊宗詩、 山口秀才、 毛日新、 奥間秀才、   金簡 多嘉良秀才 鄭士綬 宮城秀才   林天材 金城秀才 阮* 真玉橋秀才   蔡績 大田秀才 梁得宗 外間秀才   蔡* 喜友名秀才 程摶九 古波蔵秀才   鄭国棟 港川秀才 蔡温 志多伯秀才 [注1督抄官 『歴代宝案』編纂の監督官の意。  2考訂官 考訂の係官。  3筆帖式 書記。実際に書写する役。] [二   仁宗より中山王尚巴志あて、成祖の薨去についての勅諭(一四二四・永楽二十二年)]  皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。我が皇考大行皇帝、天下の生霊 のために胡寇を討ち平らげ、旅を振し師を班す。不幸にして則ち七月十 八日賓天す。遺命もて中外の臣民の、喪服礼儀は、一に太祖高皇帝の遺 制に遵う。特に王振りこれを知らしめよ。故に諭す。  宝 永楽二十二年八月十六日 [注1琉球国中山(王) 三山鼎立時、沖縄本島の中部一帯を支配した  勢力のこと。尚巴志が一四一六年に山北、一四二九年に山南の二勢  力を倒して統一政権を樹立したという。がその後も十九世紀の琉球  処分期に至るまで対中国では「琉球国中山王」を称している。2尚  巴志 第一尚氏王統二代の王、三山統一を達成。在位一四二二〜三  九年。姓として尚を用いるのは巴志より始まる。3皇考大行皇帝  崩じて年浅くいまだ諡号のない皇帝、ここでは成祖永楽帝のこと。  4旅を……班す 旅も師も軍隊の意。振し班すは帰還の意で、つま  りは凱旋のこと。5太祖高皇帝 明朝の開祖朱元璋の諡号。6宝  天子の印刻の一つ。「広運之宝」と用いる例が多い。] [三   仁宗即位の詔(一四二五・洪煕元年)]   皇帝登位の詔  天を奉け運を承くるの皇帝、詔して曰く、朕惟うに上天、民を生じ、 ここに君主を立てて兆庶を仁育し、みな泰和に*る。華夷を統御し、と もに煕*に躋す。我が先皇帝、天を奉け運を撫し、治化は百王より高 し。文徳、武功、声教は四比を被う。辺警*きに縁り、竜御以て親ら征 し、凱旋に逮及ぶ。竟に鼎湖して之に升逝す。遺命あり。神器は*躬に 付与すと。顧みてこれを哀疚むこと方に深く、豈これを遵承するこ と遽に忍びんや。宗親、公、侯、*馬、伯、文武臣僚、軍民耆老および 四夷朝貢の使、闕下に俯伏して表を奉りて勧進す。以為に天位は以て 久しく虚しくすべからず。生民は以て主なかるべからずと。良に嫡とし て統を承くるは国家の常の経なり。詞を陳べること再三にして瀝懇勤切 なり。ここをもって遺命に仰遵い、輿情に俯徇い、已に去年八月十五日 において祗しみて、天地、宗廟、社稷に告げて皇帝の位に即く。祖考 の洪祐を奉け、聖神の永図を仰ぎ、ここに*に*むの初に属り、 維新の命を宣布し、天下に大赦す。今年を紀して洪煕元年となす。  於戯君臣一体に人を愛しむに必ず寛弘に務め、賞罰するに経あり。 国を為むるに必ず明信を彰らかにす。尚文武の賢弼、中外の良臣に頼り、 乃の忠貞を*べて、逮ばざるを匡輔せよ。もって鴻業を承け、国家永遠 の基を隆んにし、群黎を嘉恵み、海宇治平の福を広めん。天下に敷告し て、咸く聞知せしむ。  洪煕元年二月初一日 [注1天を……承くるの皇帝(奉天承運皇帝) 天命にしたがい前王の  業をうけついだ皇帝。2華夷 中華と夷狄、転じて中国と外国のこ  と。3先皇帝 ここでは成祖永楽帝のこと。4声教 名声と教化。  天子の徳化のこと。5竜御 天子の乗り物。6鼎湖 天子の死をい  う。7祖考 祖先。] [※本項は、前年発布の皇帝登位の詔で、琉球向に抄録してある。] [四   仁宗より故中山王思紹を諭祭する文(一四二五年)   四]   祭文  維、洪煕元年歳次乙巳二月辛丑朔、皇帝、行人周彝を遣わし、琉球国 中山王思紹を諭祭して日く、惟うに王は聡明、賢達にして海邦を作鎮 む。祗しみて我が皇考太宗文皇帝に事え、克く忠順を秉り、朝廷を欽戴 す。恪しみて職貢を勤めて終始渝らず。上は以て天道を敬し、下は以て 国人を康んず。寔に永く藩屏を崇び、以て栄禄を享くるを望む。而るに 使者の来りて遽に以て哀告す。遠臣を撫念い、良に感悼を深くす。ここ に特に使を遣わして諭祭す。王霊昧からざれば予が至意を鑑みよ。 [注1祭文 ここでは死者をとむらう文。2歳次 歳星(木星)が天の  ある場所に次ること、つまり「歳次乙巳…」とあれば、歳星が天の  乙巳の場所に位置する年の意。3行人 礼部の所属の役所、行人司  の官職名。周辺諸国への使節等に任じた。4思紹 第一尚氏初代の  王。在位一四〇六〜二一年。5諭祭 天子が使を遣わして先王を祭  ること。6皇考太宗文皇帝 皇考は父の敬称、成祖永楽帝のこと。  7藩屏 中国を守るかきね。諸侯のこと。ここでは琉球を指す。] [五   仁宗より中山王世子尚巴志あて、中山王に封ずるの勅諭(一四二五年)   五]  皇帝、琉球国中山王世子尚巴志に勅諭す。昔我が皇考太宗文皇帝、恭 しく天命を膺け、万方を統御む。恩を施すこと一視にして遠きも迩きも 仁に帰す。尓が父琉球(国)中山王思紹、聡明賢達にして忠誠を茂篤く し、天を敬し、上に事えること益々久しくして懈らず。朝貢は常ありて 職を愆うことなし。我が皇考、乃が勤款を嘉し、良に用って褒錫す。肆 に朕、大統を纉承ぎ、弘く治化を敷く。尤も継承を重んず。念うに尓が 父終を告げてよりすでに再歳を逾ゆ。嗣嫡の賢あるにあらざれば、曷ん ぞ伝襲の重きを膺けんや。ここに特に内官柴山を遣わし、勅命を齎し、 尓世子尚巴志を琉球国中山王となし、以てその世を継がしむ。於戯、尚 わくば忠を立て孝を立て、藩服を恪しみ守り、徳を修め善を務め、以て 一国の人を福せば、則ち爵禄の栄、究り無きに延ばん。尚わくばそれ祗 しみて朕が命を承け、怠るなかれ、忽にするなかれ。故にここに勅諭す。 宜しく至懐を体すべし。  洪煕元年二月初一日 [注1内官 明代の役所で十二監の一つである内官監の職名。宮中の侍  衛官、また宦官の異称。2柴山 尚巴志への冊封使。一四二五年に  初渡来し、三三年までに計四度来琉。生漆などの買いつけや大安禅  寺の創建などが知られる。] [六   仁宗より中山王尚巴志および王妃あて頒賜物の目録(一四二五年)]  皇帝は   琉球国中山王尚巴志に    紗帽一頂    金相犀帯一条    紅羅衣服一副    紵糸四匹    羅四匹    *糸布一十疋   王妃に    紵糸四匹    羅四匹    *糸布一十匹を頒賜す。 洪煕元年二月初一日 [七   中山王尚巴志より仁宗あて、登位を慶賀する表文(一四二五年)]  琉球国中山王臣尚巴志、誠懽誠*、稽首頓首して上言すらく、伏して 以うに、天、下民を佑け、四時序ありて風雨時あり。五穀熟して民人育 つ。恭しく惟うに皇帝陛下、天を承け命を受け、宇内に君師し、相に以 てこれを奠め、和して以てこれを安んず。ここを以て克く天心を享け、 永く宝暦を膺け、大いに文明の治を一統し、万世太平の基を開く。臣尚 巴志、恭しく聖君の天位に嗣登するに遇い、遠く蕃維に処るも、心は馳 せて遥かに紫宸を賀仰し、三祝いて聖寿の以て天と斉しきを祈る。天を 瞻、聖を仰ぎ激切屏営の至りに任うるなし。謹みて表を奉りて賀を称 し、以て聞す。  洪煕元年閏七月十七日 琉球国中山王臣尚巴志、謹みて上表す [注1誠懽……頓首 表・奏文、箋文などの冒頭に常套的に用いられる  最も重い尊敬の文句。真心からよろこんで地にひれふすの意。2宝  暦 天子の位。3紫宸 紫宸殿、天子の居所。4激切……任うるな  し 表・奏文等の末尾の常套句。言論が直に過ぎて、不安に思うこ  と、つまり(臣下の分際で皇帝に対し)さしでがましいことを申し  上げまして、誠に畏れ多いことですの意。] [八   中山王尚巴志より仁宗あて、宝鈔の詐取事件についての上奏文(一四二五年)]  琉球国中山王臣尚巴志、謹みて奏し、朝貢の事のためにす。近ごろ使 者阿不察都度等の告によるに称すらく、永楽二十一年の間、差を蒙け、 海*に駕使て、方物を装載して、京に赴き進貢す。福建福州府*県高恵 里に到りて住泊す。方物を交進するを除くの外、所有欽依せる賞賜の宝 鈔は本里の住人陳銘、黄思、六使、同じく福清県方民里の民人周文質に 穿套諷賺せらる。替買回貨すること二次、計るに騙去る宝鈔は四千五百 貫なり。洪煕元年三月内、船隻回還逼まり、問取討返せんとするに、陳 銘等三名、罵りて「*這番子にして多くこれ叛囚悪類なり。*の夷王は 禽獣の行いあり。陽に進貢をなし、陰に劫掠をなす。朝廷聞せずして* 這賊蛮とここに往来す。われ一日、機会を俟ちて京に到り、奏して、* らの毀蹤滅跡を知教せん」と称するを被る。阿不察度等罵られるも、 船行急迫するによるがために気を忍びて回来して告知す。これにより、 後*の使者阿勃馬結制等を審覆するに前詞にあい同じ。臣尚巴志痛念う に、卑国、父祖の太祖高皇帝の正朔を欽承けてより以来、今に至るまで 五十余年、寵恩隆厚にして、朝貢は時を以てす。いま、民人鈔貫を負欠 し誣枉毀辱を被る。惟に聖朝の撫字の心を思わざるのみならず、抑且、 祖訓の柔遠の意に違うあり。もし、具奏せざれば誠に離間して朝貢に便 ならざるを恐る。これがため礼部に咨して知会せしむるを除くの外、謹 みて具して奏聞す。  為の字より起こして外の字に至りて止む、計字三百十一字なり   右 謹みて奏聞す  洪煕元年閏七月十七日 琉球国中山王臣尚巴志、謹みて上奏す [注1使者 古琉球期、海外派遣の使節団中の職名。正使または副使  格。首里、那覇人をもって任じた。2方物 貢物。原則としてその  地方の土産、産物が充てられた。3〜するを除くの外 〜するのは  もち論。4欽依(せる賞賜) 天子から与えられたものという意。  5宝鈔 鈔は紙幣。ここでは洪武八年(一三七五)に発行された紙  幣の「大明通行宝鈔」のこと。6穿套諷賺 わなにはめられるとの  意。7替買回貨 注文の品と異なるとして返品したところ品物をも  ってこないとの意か。8問取討返 問いただして(品物を)取り返  すの意か。9番子 えびすの子弟、外国人。10毀蹤滅跡 悪行を働  いてあとかたをのこさないこと。11結制 東恩納寛惇によれば「ウ  ッチ」と読み、後代「掟」と宛てる古代の官職名とする。12審覆  くりかえしてくわしく調べる。13正朔を欽承 ここでは明朝の暦  (大統暦)を頂戴すること。つまり明朝(中国)に服属することの  象徴。14誣枉毀辱 だまされそしられる。15礼部 役所の名、六部  の一つ。礼儀、祭祀、官吏の試験などをつかさどる。福建布政使司  とともに琉球との文書の収発に当たっている。16知会 通知照会す   る。17為の字より……三百十一字なり 表・奏文など皇帝に奉る文   書に記されるもので、冒頭の為の字から末尾の外までの本文の字数   を注記。削除や竄入を未然に防ぐための配慮。] [九  中山王尚巴志より仁宗の皇太子あて箋文(一四二五年)]  琉球国中山王臣尚巴志、誠懽誠*、稽首頓首して上言すらく、伏して 以うに、皇天の眷佑もて景いなる運を弘く開き、大本益々隆にして臣民 忻戴す。敬んで惟うに、皇太子殿下は寛仁、育徳、敬謹、心に存し、 万世の基を嗣承す。寅みて重煕かしき運を奉け、ここを以て貞符協応 し、万邦、永く寧ず。臣尚巴志遠く蕃維に処るも、心馳せて遥かに賀 す。前星を仰望して叡算を千秋に祝す。瞻仰て激切屏営の至に任うるな し。謹みて箋を奉じて賀を称し、以て聞す。  洪煕元年閏七月十七日 琉球国中山王臣尚巴志、謹みて上箋す [注1皇太子 ここでは仁宗の長子の瞻基、後の宣宗宣徳帝のこと。  2貞符協応 天地が調和する、吉兆が現実となるの意。3前星  皇太子の異称。4叡算……祝す 皇太子の寿命の千年の長きを祝  う。] [一〇  中山王尚巴志より礼部あて、喪礼および謝恩についての咨文(一四二五年)]  琉球国中山王(尚巴志)謝恩等の事のためにす。いま、各件の合に行 うべきの事理をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至る べき者なり。  計(二件)  一件喪礼の事。洪煕元年六月十七日、欽差の行人司行人陳資茂勅諭 を齎捧して国に到る。開読するに、大行皇帝賓天せらる。これを欽め よやとあり。欽遵して山南王処に転行して一体に開読せしむるを除くの 外、いま長史鄭義才等を遣わし、香五十斤を齎捧して来船に就附して、 京に赴き進香す。咨もて施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者 なり。  一件謝恩の事。洪煕元年六月二十七日、欽差の内官柴山、行人司行人 周彝勅諭を齎捧して王爵を襲封し、紗帽、束帯、衣服、礼物を頒賜す。 并せて先父王思紹を諭祭す。これを欽めよやとあり。欽遵して受領す るを除くの外、理として合に通行すべし。いま、使者実達魯等を遣わ し、表箋文各一通を齎捧し、金結束等の様‐長短斉しからざる‐の刀、 各色の紙扇、屏風、硫黄、螺殻を官送し、就に京に赴き謝恩す。咨もて 施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。   今、開す。  金包鞘刀二把    一把帯鞘長二尺一寸五分 一把帯鞘長二尺刀*露木一寸  金結束鞘刀二把    一把帯鞘長一尺九寸五分 一把帯鞘長一尺七寸五分  金結束長刀二把    一把帯鞘長四尺七寸五分 一把黒漆鞘連長三尺七寸五分  金帯銅結束鞘刀二把    一把帯鞘長三尺一寸 一把帯鞘長二尺九寸五分  漆鞘袞刀四把内長短斉しからず  長刀三把内長短斉しからず  黒漆鞘腰刀六十把各長短等しからず  通計金結束等様長短等しからず  五等各色摺紙扇四百把  屏風二対内  金箔紙屏風一対  銀箔紙屏風一対  硫黄四万斤少、今報ず二万斤正  螺殻八千五百三十三个、今報ず八千箇  右 礼部に咨す 洪煕元年閏七月十七日  謝恩等の事   咨す [注1開坐 書き連ねる。列挙する。2移咨施行 同等官庁間でやりと  りされる文書である咨文を送って関係各役所へ通知して処理させる  の意。3須く…者なり 咨文をもって通知申しあげるの意。4欽  差 皇帝の使者、勅使。5賓天 皇帝の崩御をいう。6山南 三山  鼎立時の山南(南山)のこと。一四世紀中頃から一四二九年の間、  沖縄本島の南部一帯を支配下においた勢力。7転行 取り次いで申  し送る。8鄭義才 久米村鄭氏の始祖。三十六姓の一つ。永楽〜  宣徳の間、通事・長史としてたびたび渡唐。9進香 香を進める。  皇帝の崩御に際し香品を供えること。10理として…通行すべし  まさにその通りに執り行いますの意。11今報ず…斤(箇) 献上物  品の数量・斤量の注記か。進貢や謝恩の際の献上品は咨文等に数量  を記すが、実際に献上した数量は航海や運搬途中での欠損で記載量  より減ずることもあるために注記したのであろう。なお硫黄は煎練  すると元量の約半分となる。] [一一  中山王尚巴志より礼部あて、皮弁冠服の下賜等についての咨文(一四二五年)]  琉球国中山王尚巴志、襲爵等の事のためにす。いま、各件の合に行う べきの事理をもって開坐す。移咨して知会すれば施行せられよ。須く咨 に至るべき者なり。   計(三件)  一件襲爵の事。洪煕元年六月二十七日、欽差内官柴山、勅諭を齎捧 す。「王爵を襲封し、紗帽、束帯、衣服、礼物を頒賜す。此を欽めよや」 とあり。欽遵りて領受するを除くの外、切に照らすに、洪武より永楽に 至るの年間以来、聖朝、祖父の王爵を襲封するにともに皮弁冠、朝服等 の件あり。いま、襲封を蒙るも未だ頒賜を奉らず。もし、奏するを准す を蒙らば、乞うらくは前例に照みて頒降せらるれば便益なり。これがた め、使者実達魯等をして本を齎し奏啓せしむるを除くの外、合に咨もて 知会せしむれば施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  一件朝貢の事。近ごろ使者阿不察度等の告によるに称すらく、永楽 二十一年の間、差を蒙け海*に駕使て、方物を装載し、京に赴き進貢 す。福建福州府*県高恵里に到りて住泊す。方物を交進するを除くの 外、所有の欽依せる賞賜の宝鈔は本里住人陳銘、黄思、六使、同福清県 方民里民人周文質に穿套諷賺せらる。賛買回貨すること二次、計るに騙 去せらる宝鈔は四千五百貫なり。洪煕元年三月内、船隻回還逼まり、問 取討返せんとするに、陳銘等三名、罵りて、「*這番子にして多くはこれ 叛囚悪類なり。*の夷王は禽獣の行いあり。陽に進貢をなし、陰に劫掠 をなす。朝廷聞せずして、*這賊蛮とここに往来す。我、一日機会を俟 ちて京に到り、奏して*らの毀蹤滅跡を知教せん」と称するを被る。阿 不察度罵られるも、船行急迫するによるがために気を忍びて回来して告 知す。これにより、後船の使者阿勃馬結制等を審覆するに前詞に相同 じ。卑爵痛念すらくは、卑国、父祖の太祖高皇帝の正朔を欽承してより 以来、今に至るまで五十余年、寵恩隆厚にして、朝貢は時を以てす。 今、民人鈔貫を負欠し誣枉毀辱を被る。ただ聖朝の撫字の心を思わざる のみならず、抑且、祖訓の柔遠の意に違うあり。もし、具奏せざれば、 誠に離間して朝貢に便ならざるを恐る。これがため、長史鄭義才をして 本を齎して奏啓せしむるを除くの外、合に咨して知会すれば施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。  一件冠帯の事。いま照すに本国は通事を欠少す。選び得たるに本国 人范徳、語言を諳暁し、通事の職事を授充するも、未だ敢えて冠帯を擅 便せず。合に咨請を行うべし。冠帯を給賜して回国せしめば、逓年の往 来進貢に便益なり。咨もて施行せられんことを請う。須く咨に至るべき 者なり。  右、礼部に咨す 洪煕元年閏七月十七日  咨す [注1襲爵 爵位を襲う。先王の跡をついで王位に即くこと。2皮弁  冠・朝服 鹿皮で作った冠と朝廷に出仕する時の常服。冊封の際に  慣例として王に給された。3冠帯 冠と帯。冠帯をつける身分の人  の意。ここでは通事職に抜擢された琉球人范徳に通事職としての装  束を許されたい、という意。] [一二  中山王尚巴志より礼部あて、慶賀使派遣等についての咨文(一四二五年)]  琉球国中山王尚巴志、朝賀等の事のためにす。いま各件の事理を将て 合に開坐を行うべし。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき者な り。   計(四件)  一件朝賀の事。洪煕元年六月十八日、欽差の礼部郎中*雲、通政使 司参議游学、詔書を齎捧して国に到る。開読するに、「皇上、宝位に嗣 登す。此を欽めよや」とあり。欽遵して本国、山南王処に転行して一体 に開読するを除くの外、いま王舅模都古等を遣わし、表箋文各一通を齎 捧して、共に某字等号海船三隻に坐し、及び馬四十五疋、硫黄二万斤を 管送して、京に赴き朝賀す。咨もて施行せられんことを請う。  一件船隻の事。近ごろ使者歩馬結制等の告に拠るに称すらく、いま 駕去せる永字等号海船二隻は連年方物を装載し、海洋を経渉して往来朝 貢す。各船身及び槓棋ともに各損壊するに緑り、過海するに驚険なり。 後の回国便ならざるを恐る。告に拠りて切に卑国、物料艱難にして未 だ修弁すること能わざるにより、合に咨して洪武永楽年間の事例に照さ んことを乞う。煩為わくは、奏聞して官もて修理をなし、各船を堅固な らしめ、槓棋斉備して回国せしむれば、往来朝貢の用を得しむるに庶か らん。咨もて施行せられんことを請う。  一件番貨の事。いま各船に附搭せる蘇木等の物あり。煩為い乞うら くは、抽分を優免し、価鈔を給与して俵還するを賜えば、各人便を得 ん。遠人をして利便ならしめよ。咨もて施行せられんことを請う。  一件暦日の事。近ごろ礼部の咨を准けたるに、欽賜の洪煕元年大統 暦日一百本‐内に黄綾面一本‐は差来の使者安丹尼結制等に就付して収 領して回国せしむれば、移咨して知会せしむとあり。此を准け欽遵領 受するを除くの外、合に回咨を行りて知会せしむれば施行せられよ。須 く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 洪煕元年閏七月十七日  咨す [注1礼部郎中 中国の官名。礼部の四司の長。四司は儀制・主客・司  祭・精膳の各清吏司のこと。2通政使司参議 中国の官名。内外諸  官の上奏を取り次ぎ、またチェックする通政使の属官。3王舅 琉  球の官職名。古琉球期以来、皇帝登極の慶賀や冊封謝恩などの際に  派遣された重職。特に謝恩の際には三司官クラスが任じられた。4  某字等号海船 永・盤・地などの字号をもった官船のこと。各字号  は中国皇帝から給されたもので、各船を識別するものという。詳し  くは安里延の「字号船について」(『沖縄海洋発展史』所収)を参  照。5馬・硫黄 琉球土産の進貢物。馬は一六八〇年の免除まで、  硫黄はその後も、貢物として中国に送られた。6番貨 中国以外の  国の産物。ここでは琉球が中国に持ちわたる胡椒・蘇木等の貿易品  のこと。7蘇木 染料・薬用の低木。南方諸国に産し、一四〜一六世  紀、胡椒とともに琉球が中国に持ちこんだ貿易品の主流であった。  8抽分(免抽)貿易などの際の関税のこと。「五分抽分」とあれ  ば関税率五割の意で、「免抽」とあれば免税のこと。9大統暦日  明代の欽定(国定)の暦のこと。暦元は洪武十七年。琉球は明清代  その冊封体制下にあったことから、服属の象徴として毎年暦を領賜  された。ちなみに清代の暦は時憲暦(書)である。] [一三  中山王尚巴志より礼部あて、進貢等についての咨文(一四二五年)]  琉球国中山王尚巴志、進貢等の事のためにす。いま、各件の事理を将 て合に開坐を行うべし。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき者 なり。   計(三件)  一件進貢の事。いま、使者浮那姑是等を遣わし、使者阿蒲察度都等 とともに表箋文各一通を齎し、及び仁・盤字号海*二隻に坐駕し、馬四 十疋、硫黄一万五千斤を装載して京に赴き進貢す。咨もて施行せられん ことを請う。須く咨に至るべき者なり。  一件番貨の事。所有各船附搭の蘇木等の物は煩為い乞うらくは、免 抽を賜い、価鈔を給与すれば、遠人をして利便を得しむるに庶からん。 咨もて施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  一件暦日の事。礼部咨すらく、欽賜の洪煕元年の大統暦日一百本‐ 内黄綾面一本‐は差来の使者安丹尼結制等に就付して収領して回国せし むれば移咨して知会せしむとあり。此を准け欽遵領受するを除くの外、 合に回咨を行りて知会せしむれば施行せられよ。須く咨に至るべき者な り。  右、礼部に咨す 洪煕元年十二月十七日  仁字号船 馬二十疋、硫黄一万斤小‐今報じたるは五千斤大正‐を  進貢す。使者浮那姑是なり。盤字号船 馬二十疋、硫黄一万斤正  大、原二万斤小を進む。使者阿蒲察度なり。   咨す [※本項で「今遣使者浮那姑是等同使者阿蒲察度都等共…坐駕仁盤字号  海*弐隻…」とある。これは同一使節団であるが、浮那姑是等が仁  字号船、阿蒲察度等が盤字号船に乗船して、の意である。同様の事  例で「…遣使者…等与同使者…等共…」など文字の異同もあるが、  「使者…等を遣わし、使者…等とともに…」と統一的に読み下し  た。] [一四  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、磁器・蘇木等の自由な売買の許可についての咨文(一四二五年)]  琉球国中山王、朝貢の事のためにす。近ごろ使者佳期巴那と通事梁復の 告称に拠るに、永楽十七年の間、差を蒙るの使者阿乃佳等海船三隻に坐 駕し、礼物を齎捧して前みて暹羅国に到る。奉献の事畢り回国して告称 するに、所在の官司の言を蒙るに称すらく、礼物短少なれば以て磁器を 官買するを致す。又禁約ありて本処にて蘇木を私売するを許さずと。倶 に官売を蒙れば、その船銭を補わんことを要むとあり。切に照みるに 事は艱緊にあり。深くこれ損あり。往来するの人員をして告げて施行を 乞わしむ。当に王の令旨を敬奉するを蒙るに、何すれぞ早く説わざらん や、惶恐これ甚しきなり。今より後、去く船は礼物を加感して奉献し、 以て遠意を表すべしと。此を敬み外除に永楽十八年より今に至るまで、 礼物を加感し、佳期巴那、通事梁復等を遣使し、船隻に坐駕して、海洋 を経渉せしむ。ややもすれば数万余里、風波を歴渉して十分艱険なり。 及彼に至到して、礼物をもって交進するを除くの外、所在の官司、仍磁 器を官買するを行うを蒙ること更に甚し。因りて盤纒欠乏するを致し、 深く靠損をなす。以て命を奉じて往復しがたし。告げて施行せられんこ とを乞うとあり。告に拠ること再三なり。此により永楽二十二年船□を 停止したる除外、参照したるに、洪武より永楽年来に至るまで、曾祖及 び祖王、先父王より今に至るまで、逓年累ねて使者を遣わし、菲儀を齎 捧して、前みて貴国に詣りて奉献すること、蓋いまに多年なり。貴国親 愛にして四海を懐念し以て一家となすを荷蒙し、累ねて珍*を回恵 し、及遠人を寵愛せらるるを蒙る。常に復た貿易を従容して、並えて官 買の事無し。切に思うに感戴これ甚しと。いま、事理を告げて合に貴国 に咨すべし。煩為わくは、前に照らして遠人航海の労を矜憐し、磁器を 官買するを免行し、蘇木・胡椒等の貨を収号して回国するを容されんこ とを。永く往来を通じ、遠人悦服し、異域懐柔せしむるに庶からん。い ま、奉献の礼物数目をもって後に開坐す。須く咨に至るべき者なり。  いま、開す   織金段五匹 素段二十匹   硫黄三千斤小 報じたるは二千五百斤正   腰刀五柄 摺紙扇三十柄 大青盤二十箇 小青盤四百箇   小青碗二千箇  右、暹羅国に咨す 洪煕元年 月 日  咨す [注1暹羅国 シンラ国。シャム国のこと。現在のタイ国にほぼ相当す  る地域にあった王国。この時期はアユタヤ王朝。2所在の官司 現  地の役所、ここではシャム国の貿易を管掌する役所を指すものであ  ろう。3私売・官売・官買 私的な貿易と公的な貿易。この時期、  琉球はシャムで自由な貿易が許されず、国家管理の貿易となってい  た。4盤纒 旅費、資金のこと。5四海……一家 天下を自分の家  となすの意。6免行 禁ずることの意。ここでは磁器の官買を止め  て、自由な売買を要望したもの。] [一五  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、進貢品の収買についての咨文(一四二五年)]  琉球国中山王、進貢の事のためにす。切に照らすに、本国は貢物稀少 なり。これがため、いま正使浮那姑是等を遣わし、仁字号海船に坐駕し て、磁器を装載して、前みて貴国の出産地面に往き、胡椒・蘇木等の貨 を収買して回国し、以て大明御前への進貢に備えんとす。なお、礼物を 備えて詣り前みて奉献し、少しく遠意を伸ぶ。幸希わくは収納せられ よ。なお、煩わくば、いま差去わす人員は早きに及びて打発し、風迅に *趁して回国するを聴さば、四海一家永く盟好を通ぜしむるに庶から ん。いま、奉献の礼物数目を将て後に開坐す。須く咨に至るべき者な り。  今、開す   織金段五匹 素段二十匹 腰刀五柄 摺紙扇三十柄   硫黄五千斤 今報じたるは二千五百斤正   大青盤二十箇 小青盤四百箇 小青碗二千箇  右、暹羅国に咨す 洪煕元年 月 日  咨す [注1大明御前 明朝廷のこと。2風迅(*) 季節風のこと。] [一六  山南王他魯毎より礼部あて、朝賀・船隻修理・附搭貨物についての咨文(一四二五年)]  琉球国山南王他魯毎、朝賀等の事のためにす。いま、各件の事理をも って合行に開坐して移咨すべし。須く咨に至るべき者なり。   計三件  一件朝賀の事。洪煕元年七月初六日、中山王の咨を准けたるに、 「該に洪煕元年六月十八日、欽差礼部郎中*雲、通政使司参議の游学、 詔書を齎捧して国に到る。開読するに、『皇上宝位に嗣登す、此を欽め よや』とあり。欽遵するを除くの外、合行に咨もて山南王処に報じて、 一体に開読施行すべし」とあり。此を准け、遵依するを除くの外、い ま、使者謂慈*也等を遣わし、表・箋文各一通を齎捧し、及び恭字号海 船一隻に坐駕し、馬一十五疋、硫黄五千斤を管送して京に赴き朝賀す。 咨もて施行せられんことを請う。  一件船隻の事。所拠の使者謂慈*也等、告称すらく、いま駕去せる 恭字号海船一隻は連年方物を装載して、海洋を経渉し、往来朝賀せり。 すでにいま、年久しきに係るにより船身多く損壊あり、及び槓具も堪え ざるありと。卑国物料艱難にして末だ修弁すること能わざるによって、 合に移咨を行い、乞うらくは官もて修理して堅完ならしめ回国せしむる を賜わらば、往来朝貢するに便益ならん。  一件番貨の事。所有いま附搭せる蘇木は煩為乞わくば、免抽して鈔 貫を給価するを賜わらば、遠人をして利便を得しむるに庶からん。咨も て施行せられんことを請う。   右、礼部に咨す  洪煕元年十二月十七日   咨す [注1他魯毎 山南王統三代で最後の王、在位一三〇〇〜一四二四年。  2謂慈*也 謂慈はエージ(八重瀬)、*也はプヤ・ウフヤ(大屋・  大親)で、八重瀬大親の意か。] [一七  山南王他魯毎より礼部あて、進香の使者派遣についての咨文(一四二五年)]  琉球国山南王他魯毎、喪礼の事のためにす。洪煕元年七月初六日、中山 王の咨を准けたるに、「該に洪煕元年六月十七日、欽差行人司行人陳資 茂勅諭を齎捧して国に到る。開読するに、『大行(皇)帝賓天せらる、此 を欽めよや』とあり。欽遵するを除くの外、合行に咨もて山南王処に報 じて、一体に開読施行すべし」とあり。これを准け遵依するを除くの 外、いま使者安丹結制等を遣わし香五十斤を齎捧して、就にいま差去わ す使者謂慈渤也等朝賀の*隻に坐し、京に赴きて進香す。咨もて施行せ られんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 洪煕元年十二月十七日  咨す 差わす通事梁報   香八十七斤半小官に報じたるは五十斤 [一八  中山王(尚巴志)より中国あて、進貢使節のすみやかな通行を乞うことについての符文(一四二六・宣徳元年)]  琉球国中山王、進貢の事のためにす。いま、使者阿蒲察都等を遣わ し、使者浮那姑是等与同共に、表箋文各一通を齎し、および馬二十疋、 硫黄一万斤を管送して、京に赴き進貢す。なお、礼部に赴き進んで収め られんことを告稟す。除外に、所拠の本使の船隻は、先に本国を開洋す るも風に遭いて漂回し、また船上の槓*を修弁するを行うによって逗* いまに延ぶ。符文は洪煕元年十二月内において発遣するを見るがため に、いま、照らすに年久しければ誠に経過の去処および所在の官司の、 よりて盤問留難して不便なるを恐る。これがためにいま符文を給して、 また発遣を行う。これを承け諭遣す。途に在りて遅滞して不便なる(を 得ることなからしめよ。)  宣徳元年三月十一日 [一九  中山王(尚巴志)より中国あて、進貢使節のすみやかな通行を乞う執照文(一四二六年)]  琉球国中山王、進貢の事のためにす。いま、使者阿蒲察都等を遣わ し、使者浮那姑是等と共に、表箋文を齎し、および盤字号海船一隻に坐 駕して、馬疋・方物を装載し、京に赴き進貢す。所拠のいま、差去く本 使船隻は、先に本国開洋するも風に遭いて漂回し、また船上の槓*の修 弁を行うにより、逗留いまに延ぶ。執照は洪煕元年十二月内において発 遣するを見るがために、いま、照らすに年久しければ、誠に所在の官司、 よりて盤阻して不便なるを恐る。これがために、王府除外に、いま義 字……号の半印勘合執照を給し、前により火長等に給付して収め執らし めて前み去かしむ。もし経過の関津、去く処を把隘ぎ、および沿海の巡 禦官等の験実に遇わば、即便に放行かしめて、留難して遅*し、不便 なるを得ることなからしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者な り。  宣徳元年三月十一日 [注1半印勘合執照 半印勘合を押した執照。半印勘合は中国から給さ  れた勘合印の半分で、もう一方の半印を中国側がもっており、沖縄  からの使節が正式な使節かどうか、半印で照合した。割符などと同  様のもの。2関津 税関のこと。通過船隻の検問などを行った。] [二〇  宣宗より中山王尚巴志あて、皮弁冠服の給賜および生漆、磨刀石の購入を依頼する勅諭(一四二六年)]  皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。いま、内官柴山を遣わし、前み 来らしめて、爾に皮弁冠服を賜い、并せて銅銭を齎して、生漆および 各色の磨刀石を収買せしむ。勅至らば爾、即に価を頒ちて収買し、内官 柴山に交付して進み来らしめよ。故に諭す。  宣徳元年六月初一日 [注1生漆 この時期(尚巴志代)、中国から何度か生漆の買い付けに  来ている(二五、二八項他)。このことから、生漆が琉球で産出し  たとする見解もあるが、二八項では「本国の産する所に係らず」と  あって、産出しないと記している。2磨刀石 砥石のこと。一〜六  様などのランク付は目の粗密によると推測される。沖縄ではそのう  ち一〜二種(一と六様)を産した(二五、四五項)。] [二一  中山王尚巴志より礼部あて、長至令節の慶賀使派遣等についての咨文(一四二六年)]  琉球国中山王尚巴志、慶賀等の事のためにす。いま、各件の合に行う べきの事理をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべ き者なり。   計(三件)  一件慶賀の事。使者佳期巴那等を遣わして、表文一通を齎捧し、京 に赴きて長至令節を慶賀す。および荒字号海船一隻に坐駕して馬二十 疋・硫黄五千斤を管送して、京に赴き進収す。咨もて施行せられんこと を請う。  一件番貨の事。所有附搭せる蘇木は煩為乞わくは、免抽を賜いて宝 鈔を給価せらるれば、遠人をして利便ならしむるに庶からん。  一件暦日の事。前後に礼部の咨文二道を准けたるに、内に開すら く、欽賜の宣徳元年の大統暦日一百本‐内黄綾面一本‐はすなわち本国 の使者宗比結制に付して収領して国に回らしむるの外、またついで、使 者佳期巴那に付して領し到らしむと。宣徳元年の大統暦日一百本‐内黄 綾面一本‐は、欽み遵いて収め受けるを除くの外、理として合に通行す べし。咨もて知会せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  宣徳元年   咨す [注1長至令節 夏至のこと。その節季の祝い。] [二二  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、返礼の使者派遣についての咨文(一四二六年)]  琉球国中山王(尚巴志)、酬謝の事のためにす。近ごろ、暹羅国の咨文 二道を准け各開するに、本国咨もて差わす正使阿勃馬結制并びに浮那姑 是等、海船二隻に坐駕して、礼物を齎し送りて国に到る。及び番貨を収 買して回国し用に備えんとすとあり。施行するを除くの外、就ち回奉の 礼物を順帯して、移咨して本国内に到るを蒙る。これ上年に参迦して今 に至るまで珍*を回恵せられ、已に数に明照して収め訖るを除くの外、 今思うに、前後の恩、未だ伸謝に由なし。深く慚愧を負う。いま、特に 正使南者結制等を遣わし、義字号海船一隻に坐駕して、前みて貴国に詣 り、奉献して少しく酬謝の誠を伸ぶ。煩わくは、四海一家を以て念とな し、容納せらるれば万幸なり。更に煩わくば、いま去く人員は胡椒・蘇 木等の貨を収買して回国し、以て中国への進貢に備えんとす。 早に打 発をなし落葉の風迅に趁りて回還せしめば便益なり。いま、酬謝の礼物 数目を明らかにして開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべ き者なり。  今、開す   織金段五匹 素段二十匹   硫黄三千斤 今報じたるは二千五百斤正   腰刀五柄 摺紙扇三十柄   大青盤二十箇 小青盤四百箇 小青碗二千箇  右、暹羅国に咨す 洪煕二年九月初十日 [注1参迦 めぐりあう。友好関係を取り結ぶの意か。] [※本文の記年の洪煕二年という年号はないが、暹羅宛のためか。] [二三  中山王尚巴志への皮弁冠服の給賜について、礼部の主客清吏司の文書(一四二七・宣徳二年)]  礼部主客清吏司、襲爵の事のためにす。近ごろ儀制清吏司の付を准け たるに、該に本部の准けたる行在の礼部の咨に照らして、礼科に行じて 抄出せしむ。琉球国中山王尚巴志、欽差内官柴山の勅書を齎捧して、王 爵を襲封し、紗帽・束帯・衣服・礼物を頒賜せらる。欽遵して領受する を除くの外、切に照らすに、洪武より永楽に至る年間以来、聖朝は祖父 の王爵を襲封するに、ともに皮弁冠服等の件あり。いま、襲封を蒙るも 未だ頒賜を奉ぜず。乞うらくは、前例に照みて頒降すれば便益なり、と。 宣徳元年三月十九日早、少保兼太子少傅戸部尚書夏原吉、聖旨を伝奉し たるに、「礼部に着して、旧例に時として他に与うこと有りやを査せし めよ。これを欽めよや」とあり。抄出して部に到る。欽遵して査し得た るに、永楽五年九月内、本国中山王世子思紹の王爵を襲封するを欽准し て、皮弁冠・朝服等の件を給せしことあり。今次合に前例に照依して、 行在の工部に行移し、随駕巾帽等の局に転行して、成造完るの日、差来 の使者実達魯等に関付して領去給賜せしむべきやいなや、未だ敢えて擅 便せず。本月二十一日早、本部官、右順門において題奏し、聖旨を奉じ たるに、「是なり、他に与えよ。これを欽めよや」とあり。欽遵するを 除くの外、行して行在の工部の咨を准けたるに、査し得ために、先に礼 部の咨を准けたるに開すらく、中山王世子尚巴志襲爵す。冠服は、永楽 二十二年二月内、已経に工部に移咨して料造せしめ去後れり。完備を 行催して、給用を聴候するを除くの外、移咨して部に到るとあり。参照 せられよ。  宣徳二年五月二十四日 [注1主客清吏司 明清代の礼部におかれた四清吏司の一つ。外国との  交際を司った。2儀制清吏司 礼部の四清吏司の一つ。礼楽・儀式・  教育などを司った。3行在の礼部 天子の行幸先におかれた礼部。  天子が行幸する際には六部の機能も行幸先に移動した。4礼科 明  清代におかれた六科の一つ。典礼の事務等の監察に当った。5抄出  書き写して記録すること。6少保兼太子少傅戸部尚書 官職名。少  保と太子少傅さらに戸部尚書の各官を兼任している官職の意。少保  は天子を補佐する役の一つ。太子少傅は皇太子を訓導輔翼する役の  一つ。戸部尚書は土地・戸口等を掌る戸部の長官。7随駕巾帽等の  局 天子の行幸に随っている工部の一部所で、巾帽等の製作を掌っ  た。8右順門 北京の紫禁城の南正門である午門の右の脇門。 ※この文書は、尚巴志への皮弁冠服給賜に関する中国内部の文書で、  礼部の主客清吏司から礼部に宛てられたものと推測される。いきさ  つの説明のために琉球側に送られたものであろう。] [二四  中山王(尚巴志)より礼部あて、船隻給賜に対する謝恩および附搭貨への銅銭支給を乞う咨文(一四二八・宣徳三年)]  琉球国中山王、謝恩等の事のためにす。今、各件の合に行うべきの事 理をもって開坐す。施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  計(二件)   一件謝恩の事。近ごろ長史鄭義才・使者実達魯等の呈によるに、洪 煕年間において本国の差令を蒙り、欽差内官柴山の公幹の来船に附搭 し、表箋文を齎捧し、及び方物を管送して、京に赴き謝恩す。縁みに鄭 義才等呈を備えて礼部に赴きて、具に奏請せられんことを告ぐ。別に船 隻を撥して往来朝貢せしめ、海船一隻を欽賜して回国せしめられよとあ り。告げて施行せられんことを乞う。これを得て、前事を参照して理と して合に、いま、長史鄭義才等を遣わし、ともに洪字等号の海船三隻に 坐駕し、使者南者結制等とともに表文一通を齎捧し、及び馬四十五疋、 硫黄八千斤を管送して、京に赴き謝恩す。咨もて施行せられんことを請 う。   一件番貨の事。所拠の附搭せる蘇木等の貨は、遠来の物に係りて本 国の所産に係らず。もし価を給するを蒙らば、煩為わくは具奏せられて 永楽年間の事例に照みて、就ち京庫において永楽通宝銅銭を支給して回 国せしめられんことを乞う。琉使以て聖朝の恩恵、外邦に施及するを見 ん。咨もて施行せられんことを請う。  右、礼部に咨す 宣徳三年正月十四日  謝恩等の事   咨す [注1公幹 公務、または公務を帯びた人。2永楽通宝 明の永楽年間  (一四〇三‐一四二四)に鋳造された銅銭。永楽銭のこと(一時期  琉球に支給されたが、後、禁止された)。日本でも広く流通した。] [二五  中山王尚巴志より礼部あて、生漆および各色磨刀石の購入依頼に対する返答の咨文(一四二八年)]  琉球国中山王尚巴志、開読の事のためにす。宣徳二年六月初六日、欽 差の内官柴山勅諭を齎捧して国に到るを蒙る。開読すらく、「皮弁冠服 を頒賜し、并びに銅銭二百万文を齎し、生漆および各色磨刀石を収買せ しむ。これを欽めよや」とあり。欽遵して、切に坐買せる第六様磨刀 石は本国の採弁するに縁りて自ら進むるを除くの外、その余の所産も曷 ぞあえて違うあらんや。随即に合に的当の頭目を差わし、人船を管領し て銅銭を装載し、隣国の産有地方に前み去きて収買せんとするも彼国の 争戦に遇い、客路通ぜず。もし完日を候たば、誠に用に応ずるに*りあ るを恐る。いま、時価によりて生漆二百七十斤‐銭二十二万九千貫四百 文に該る‐、第五様磨刀石計三千八百五十五斤‐銭五万三千三百文に該 る‐を買到して、先に欽差内官柴山の来船に付し、装載して、京に赴き 進収せしむ。その余の銅銭一百七十一万七千三百文は、続いで後に再買 して至るの日、別に進用を行う。咨もて施行せられんことを請う。須く 咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 宣徳三年二月十一日  咨す [注1隣国 日本のこと。2争戦 具体的にはどこのどの合戦なのか  不明。あるいは琉球側の口実かとも推測される。] [二六  中山王尚巴志より礼部あて、皮弁冠服の頒賜に対する謝恩の咨文(一四二八年)]  琉球国中山王尚巴志、謝恩等の事のためにす。今、各件の合に行うべ きの事理をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。   計  一件謝恩の事。宣徳二年六月初六日、欽差内官柴山、勅諭を齎捧し て国に到るを蒙る。開読するに、「皮弁冠服を領賜す。これを欽めよ や」とあり。欽遵して領受するを除くの外、今、長史梁回、使者達他尼 等を遣わし、表文一通を齎捧し、及び金結束等様刀・屏風・摺紙扇・磨 刀石等の物を管送し、来船に就附して、京に赴き謝恩す。咨もて施行せ られんことを請う。  今、開す   金結束刀*黒漆鞘纒金竜腰刀二把、各長さ二尺九寸   銅結束黒漆鞘腰刀一百把、各長短等しからず   紅漆鞘黒漆*袞刀一百把、各長短等しからず    計各様刀二百二把   金箔等画紙屏風三対 泥金等画摺紙扇一千把 白紙一万張   第六様磨刀石一万一千斤正 螺殻三千箇  右、礼部に咨す 宣徳三年二月十一日  咨す [二七  中山王尚巴志より礼部あて、万寿聖節の慶賀使派遣等についての咨文(一四二八年)]  琉球国中山王尚巴志、慶賀等の事のためにす。いま、各件の事理をも って合に開坐を行うべし。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るベき 者なり。  計(三件)  一件慶賀の事。いま、使者漫泰来結制等を遣わし、使者謂慈*也等 とともに、表文一通を齎捧して、京に赴き、宣徳四年の万寿聖節を慶賀 す。および天字等号の海船二隻に坐駕りて、馬四十疋、硫黄七千五百斤 を装載して、京に赴き進収す。咨もて施行せられんことを請う。  一件番貨の事。所有の各船に附搭せる蘇木は、煩為乞わくば免抽を 賜い、価鈔を給還えば、遠人をして利便を得せしむるに庶からん。咨も て施行せられんことを請う。  一件暦日の事。近ごろ礼部の咨を准けたるに、欽賜の宣徳三年大統 暦日一百本‐内黄綾面一本‐は差来の使者阿蒲察度等に就付して収領し て回国せしむ。移咨知会せしむとあり。これを准け、欽遵して領受する を除くの外、合に回咨を行りて知会せしむ。咨もて施行せられんことを 請う。  右、礼部に咨す 宣徳三年九月初二日   恭字(号)船 使者謂慈勃也、馬二十五疋、硫黄五千斤   天字号船 使(者)漫泰来結制、馬十五疋、硫黄二千五百斤大  咨す [注1万寿聖節 天子の誕生日。2価鈔 ここでは蘇木の代金として  の宝鈔のこと。] [二八  中山王尚巴志より宣宗あて、生漆等の収買についての上奏文(一四二八年)]  琉球国中山王臣尚巴志、謹奏して開読の事のためにす。宣徳二年六月 初六日、欽差の内官柴山、勅諭を齎捧するを蒙る。皮弁冠服を頒賜し、 并びに銅銭を齎し、生漆および各色磨刀石を収買せしむ。これを欽み、 欽遵して領受するを除くの外、前項の生漆・各色磨刀石は本国の所産に 係らざるに縁るも、曷ぞあえて違うあらん。随で、的当の頭目を差わ し、人船を管領して、銅銭を装載し、隣国の産有地方に前み去きて収買 せんとするも、彼国の争戦に遇い、客路通ぜず。いま、時価によりて生 漆を買到するも、もし完日を候たば誠に用に応ずるに*あるを恐る。磨 刀石の第五様は、‐内(第六様)磨刀石は本国採弁して自進するを除く の外‐先に欽差の内官柴山の来船に付して、装載して京に赴き進収せし む。続いで後に再買して至るの日に、別に進用を行う。および細を備え て礼部に移咨するの外、謹みて具して奏聞す。   右、謹んで奏聞す  宣徳三年十月 日 琉球国中山王臣尚巴志謹みて上奏す [二九  宣宗より中山王尚巴志あて、頒賜についての勅諭(一四二八年)]  皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。王、能く天道に敬順し、朝廷に 遵事し、職貢の礼いよいよ久しく、いよいよ篤し。ここに忠勤を眷み、 良にもって嘉悦す。いま、特に内官柴山、内使阮漸を遣わし、勅を齎 し、往きて朕が意を諭せしむ。并びに王および王妃に錦段・紵糸・紗・ 羅を賜う。王、それ朕が至懐を体せよ。故に諭す。  頒賜す   国王に    錦     毬紋宝相花紅二匹 毬紋宝相花緑二匹    紵糸     織金胸背麒麟紅一匹 織金胸背白沢緑一匹    紗     骨朶雲紅一匹 骨朶雲緑一匹     素青一匹 素藍一匹    紗     織金胸背麒麟紅一匹 織金胸背虎豹青一匹     骨朶雲紅一匹 骨朶雲緑一匹 暗花紅一匹     素青一匹 素緑一匹 素藍一匹    羅     織金胸背麒麟紅一匹 織金胸背海馬青一匹     素紅一匹 素青一匹 素緑一匹 素藍一匹   王妃に    錦     毬紋宝相花紅一匹 毬紋宝相花緑一匹    紵糸     織金胸背練雀青一匹 暗細花緑一匹 素紅一匹     素青一匹    紗     織金胸背練雀青一匹 暗花紅一匹 素青一匹     素緑一匹    羅     織金胸背白*紅一匹 素柳青一匹 素緑一匹     素藍一匹  宝 宣徳三年十月十三日 [三〇  宣宗より王相懐機あて、頒賜品目録(一四二八年)]  皇帝、琉球国王相懐機に頒賜す。   錦    毬紋宝相花紅一匹   紵糸    織金胸背獅子紅一匹 暗細花緑一匹 素青一匹    素緑一匹 素藍一匹 宣徳三年十月十三日 [注1王相 琉球国王を補佐する官職。古琉球期では中国からの帰化人  等が多く任じられている。常設の職ではない。近世期では摂政に相  当する職で、常設の職となり、按司クラスが任じられた。もともと  は中国の官職の一つで、王のもとの行政機関である王相府の長官を  指した。その制度を琉球が導入したのだとの説もある。2懐機 尚  巴志から尚金福王代の王相。王相の肩書きで中国や南方諸国へ書を  送っているが、このことは島津侵入時の特例を除くと王以外では唯  一の例である。国内的にも安国山の造営、長虹堤の築造など数々の  業績が知られる。ただその経歴等はほとんど不明で、琉球人なの  か、中国からの帰化人なのかについても議論がある。] [三一  中山王(尚巴志)より旧港あて、明国への進貢品の購入についての咨文(一四二八年)]  琉球国中山王、進貢の事のためにす。照得したるに、本国は貢物稀少 なり。これがためいま、正使実達魯等を遣わし、天字号海船一隻に坐駕 して、磁器等の物を装載し、前みて貴国の出産地面に往き、胡椒等の物 を収買して回国し、謹んで中国への進貢に備えんとす。なお礼物を備え て詣り前みて奉献し、少しく遠意を伸ぶ。幸希わくば収納せられよ。煩 わくば、差わす人船は買売を容令し、早きに及びて打発し、風迅に乗趁 て回国せしめば便益なり。永く往来を通じ以て四海一家となさん。い ま、奉献の礼物数目をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨 に至るべき者なり。  いま、開す   素段二十匹 大青盤二十箇   小青盤四百个 小青碗二千个 宣徳三年九月二十四日 旧港に往く  咨す [注1旧港 パレンバンのこと。四〇項の宝安(林)邦の注参照。] [三二  中山王(尚巴志)より旧港あて、使節のすみやかな通行を乞う執照文(一四二八年)]  琉球国中山王、船隻の事のためにす。宣徳三年九月内、王相(懐)機の 呈に拠るに称すらく、本国頭目実達魯等ありて告称すらく、便ち海船一 隻に駕使して、磁器等の貨を装載して、前みて旧港に往きて買売せんと 欲するも、未だあえて擅便せず。文憑なきにより、誠に所在の官司の盤 阻して不便なるを恐る。告げて施行せられんことを乞う、とあり。これ を准け、王府除外に、いま、義字七十□号半印勘合執照を給し、本人等 に給付して収執して前み去かしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、お よび沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行して、留難して不便を 得るなからしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。  いま、開す 宣徳三年九月二十四日  執照 [三三  王相懐機より旧港管事官あて、使節の派遣についての書簡(一四二八年)]  琉球国王相懐機、端粛して旧港管事官閣下に書を奉る。永楽十九年の 間より、日本国九州官の源道鎮、旧港の施主烈智孫の差わし来たる那弗 答、*子昌等二十余名を送到して国に到るを准けたるに、告げて逓送し て回国せしめんことを乞う。これを准くるも、よく諳ずるの火長なきに よって、遠人もって久しく留め難きに係るを思うも、未だ故に擅便せ ず。国王に啓して敬しく、即便に正使闍那結制等を差令して、海*一隻 に駕使して、已に暹羅国に到るを蒙り、なお行して転送をなさんこと を乞うを除くの外、未だ到るや否やを知らず。いま、本国頭目実達魯等 ありて、小船一隻に駕使して、磁器等の貨を装載して貴国に到りて買売 す。なお尺楮をして実達魯等に付して前みて旧港管事官の前に到りて告 稟回報せしむ。いま、礼物を備えて馳せ送りて少しく遠意を伸ぶ。万望 すらくは笑留せられよ。所有のいま去く人船は煩為わくば、買売を寛容 し、風迅に*趁して回国せしめば、四海一家となし、永く往来を通じて 便益なるに庶からん。いま、礼物をもって后に開坐す。草字不宣  今、開す   素段五匹 鎖子甲二領 *刀二柄 腰刀二柄   摺扇十把 宣徳三年十月初五日 奉書す [注1旧港管事官閣下 旧港の行政長官といったところか。2源道鎮  九州探題の渋川道鎮のこと。3施主烈智孫 小葉田淳著『中世南島  通交貿易史の研究』によると、旧港の宣撫使であった施進卿の子の  施済孫のことで、主烈は称号で梵語のsriであろうと記している。  4尺楮 手紙のこと。5草字不宣 書簡の末尾に記す常套句の一  つ。十分意を尽くせませんでしたが、お汲みとり下さい、ほどの意  味。国王の発する公文書に一切見られないこのような句が用いられ  ているのは、懐機の私信的なものだからであろう。] [三四  山南王他魯毎より礼部あて、進貢等についての咨文(一四二八年)]  琉球国山南王他魯毎、進貢等の事のためにす。いま、各件の事理をも って合に開坐を行うべし。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。  計(二件)   一件進貢の事。いま、使者歩馬結制等を遣わし、表文一通を齎捧 し、および永字号海船一隻に駕し、馬二十疋、硫黄三千斤を装載して、 京に赴き進貢す。咨もて施行せられんことを請う。  一件番貨の事。所有の附搭せる蘇木は、煩為乞わくば免抽を賜い、 価鈔を給還せば、遠人をして利便を得しむるに庶からん。咨もて施行せ られんことを請う。  右、礼部に咨す 宣徳三年十二月十三日  咨す [三五  中山王尚巴志より礼部あて、海船の修理等についての咨文(一四二九・宣徳四年)]  琉球国中山王尚巴志、慶賀等の事のためにす。いま、各件の事理をも って合に開坐を行うべし。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。  計(二件)   一件慶賀の事。いま、使者佳期巴那等を遣わし、使者郭伯茲毎等と ともに、表文一通を齎捧し、京に赴き宣徳五年の万寿聖節を慶賀せんと す。および仁字(等)号の海船二隻に坐駕し、馬四十疋・硫黄八十筋を 装載して京に赴き進め収めしむ。合に知会すべし。所拠の使者佳期巴那 求告して称すらく、いま去く仁字号海船一隻は永楽十五年の間に、欽依 もて浙江において撥到せる瑞安千戸所の海船一隻なり。駕使逓年にして 往来朝貢す。すでにいま年久しくして、*底は損折し、頭尾は低垂し、 槓*は過海の驚険にたえず、卑国は物料艱難にして修理することあたわ ざるにより、合に咨もて乞うらくは、官にて修理堅固ならしめ、回国し て以て下年の輸貢に備うるを賜わらば便益なり。咨もて施行せられんこ とを請う。  一件暦日の事。近ごろ礼部の咨を准けたるに、欽依もて頒賜せる宣 徳四年の大統暦日一百本‐内黄綾面一本‐は遣来の使者南者結制等に就 付して収領して回国せしむ。移咨して知会せしむ、とあり。これを准 け、欽遵して欽受するを除くの外、合行回咨して知会すべし。咨もて施 行せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 宣徳四年十月初十日  咨す [注1瑞安千戸所 千戸所は千人の兵を掌る千戸のいる所。駐屯地。浙  江省の瑞安県に置かれていた兵の駐屯地の名であろう。] [三六  (礼部)より山南王他魯毎あて、大統暦の頒賜についての咨文(一四二九年)]  琉球国山南王他魯毎、進貢の事のためにす。宣徳五年六月二十七日、 行在の礼部の咨を准けたり。  暦日の事のためにす。欽依もて頒賜せる宣徳五年の大統暦一百本は琉 球国山南王に与えよとあり。欽遵して本国遣来の使者歩馬結制等に給付 して収領して回還せしむるの外、理として合に移咨して知会せしむ。欽 遵して領受して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  計、琉球国山南王に給賜せる大統暦一百本、黄綾面一本  右、琉球国山南王に咨す 宣徳四年十一月十一日 [※本文は山南王から山南王あてとなっているが、文意からして礼部か  ら山南王あてと推測される。冒頭の二行は収納の際のメモであろう。] [三七  (暹羅国王)より(琉球国王)あて、礼物の奉献についての咨文(一四三〇・宣徳五年)]  琉球国中山王、宣徳五年六月内、暹羅国の咨を准けたり。  見に大明への朝貢等の事のためにす。中るにたうるの貨物を欠少す。 深く未だ便ならず。特に使臣南者結制等を遣わし、海船一隻に坐駕し て、磁器・方物を装載し、前みて本国に到り、胡椒・蘇木等の貨を収買 して回国すれば、応に用うべし、なお礼物を備えて奉献せんとすとあ り。これを准け来便に聴従して貨物を収買せしめ□備せしむるの外、い ま風信・時月、順便なるに照み、打発起程せしむ。就ち、回奉の礼物を もって開坐し、移咨して知会せしむ。須く咨に至るべき者なり。  いま、礼物をもって開坐す   蘇木三千筋 祐紅布二十匹   剪絨花氈二領 西洋糸第耳布一条  右、琉球国中山王に咨す 宣徳五年三月二十一日 [※原文の形式は琉球から暹羅あてであるが、他国からの来文を収めた  巻三九にあることおよび文意からして暹羅国より琉球国あてのもの  と解すべきで、冒頭の一行は文書収納の際のメモであろう。] [三八  中山王(尚巴志)より爪哇国あて、貿易等についての咨文(一四三〇年)]   琉球国中山王、礼儀の事のためにす。遠くより聞くならく、華臣の忠 にして、寛仁、大度もて国民を撫し、安泰にして楽業せしめ、四海を懐 柔して諸国来帰す、と。乃ちこれ大徳なり。久しく使を遣わして来賀せ んと欲するも、奈んせん微国は諸海道の師を欠き、以てかくの如く大 義を失うを致す。いま、すこぶる水道に暁るきの人あり。聊か菲儀を備 え、特に正使南者結制等を遣わし、船に駕して礼物を齎送し、前みて貴 国に詣りて奉献し、少しく芹忱の意を伸べんとす。幸希わくば収納せら れよ。いま遣わす人船は、買売を容令し、早きに及びて打発し、風迅に *趁して回国せしめば便益なり。永く往来を通じ、以て四海一家となさ ん。いま奉献の礼物数目をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須 く咨に至るべき者なり。  いま、開す   金段二匹 金紗三匹 素段二十匹 腰刀五把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 小青碗二千箇  右、爪哇国に咨す 宣徳五年十月十八日  咨す [注1諸海道の師を欠き… 海外諸国に遣船するための航海の師(この  時期、火長=船長を指す)がいない、の意。2芹忱の意 誠意の一  端、寸志、へりくだったことば。3爪哇 ジャワ。現在のインドネ  シアのジャカルタあたりにあった小国。] [三九  王相懐機より三仏斉国旧港の僧亜刺呉あて、礼物の奉献と使者の護送についての書簡(一四三〇年)]  琉球国王相懐機、端粛して書を三仏斉国旧港僧亜剌呉 閣下に奉る。 宣徳四年六月内より、貴国の遣わし来たる財賦察陽等本国船隻に附搭し て、箋文、礼物を齎捧して彼に到るを蒙る。これを蒙けたり。本国の人 船多く管待を蒙り、買売を寛容され、貴国の奇異の罕物を承恵け、并び に卑爵に奇物を賜いたれば、速やかに類進を行うべし。ここに来使啓見 するに及び、王の令旨を敬奉したるに、多く厚意を感ず。看得したるに人 船また礼物を送りきたれば、便ち来使に衣服を賞し、好着して管待し、 就に礼物を備えて、速やかに回謝を行い、遣使して船に駕して護送して 回国せしめよ、とあり。これを敬み敬遵するを除くの外、本より随即に遣 船せんと欲するも、奈んせん船隻を欠き、以て延に至る。いま特に正 使歩馬結制等を遣わし、礼物を管送し、人船に領駕して、来使の蔡陽泰 を護送して回国す。就ち尺楮を備えて前み詣りて拝謝し、少しく遠意を 伸ぶ。万望わくば収納せられよ。煩わくば四海一家を念ぜられよ。いま 去く人、時として磁器等の物を装載すれば、煩為わくば買売を寛容せら れ、風信に*趁して回国せしめられよ。いま礼物をもって后に開坐す。 草字不宣。伏して照鑑を乞う。  いま、開す   馬二疋 閃色段十匹 段五疋 羅三匹 宣徳五年十月十八日 王相懐機 [注1三仏斉国 スマトラ島の東部、パレンバンを中心に七〜十一世紀  に栄えたシュリー・ヴィジャヤ王国のこと。中国では唐代に室利仏  逝、宋代に三仏斉と記した。琉球との往来は『歴代宝案』に宣徳〜  正統年間(一四二八〜四九)の十通(本項の他、三一、三三、四〇、  五〇、五一、七八、七九、八九、九〇項)が収められている。2僧  亜剌呉 人名。五〇項参照。3察陽・蔡陽泰 同一人物か。] [四〇  王相懐機より三仏斉国の宝安邦本目娘あて、人船送回のお礼についての書簡(一四三〇年)]  琉球国王相懐機、端粛して書を三仏斉国宝安邦本目娘の粧前に奉る。 宣徳四年六月内より、封書を承得したるに、奇物を送到して、本国船隻 に就付して前来せしむ、とあり。卑爵、啓進して王の令旨を敬奉したる に、遠信を感得し、備に書中を知れば、合に人船を遣わし、特に去きて 回謝せよ、とあり。これを敬み敬遵するの外、翰墨内の一節を覩るをえ たり。前年の間、貴処の人船、彼に到るを参見せり。本より使を差して 直送せんと欲するも、欠きて火長なく、暹羅国に致送せしむ。はなはだ これ愧あり。差するところの船隻は会問の間、多く管待を蒙り、并びに 奇物を送らる。厚意を感謝し、いま特に正使達旦尼等を遣わし、人船を 領駕し、礼物を齎送して、前み詣りて回謝せんとす。幸希わくば収納せ られよ。いま去く人船は専ら顧眄に托す。煩為わくは買売を寛容するを 作成しめ、完るの日、風迅に発趁して回国せしめば、永く四海一家を結 びて幸いとなさん。草字不宣。伏して照鑑を希う。  閃色段三匹 青段二匹 腰刀二把  宣徳五年十月十八日 王相懐機奉書す [注1宝安邦 宝林邦とも記す。パレンバンのこと。シュリー・ヴィジ  ャヤの中心地で、古くから栄えた貿易港。明代中国では旧港と記し  た(五〇・五一項参照)。2本目娘 人名。五一項の愚婦俾那智施  氏大娘仔の項参照。3火長 航海を掌る職。後には総管の異称で、  天妃を船内で祀り、航海の安全を祈る役。4顧眄に托す 気にかけ  る。おまかせするの意。] [四一  中山王(尚巴志)より宣宗あて、生漆・磨刀石の収買、船隻の遭難についての上奏文(一四三一・宣徳六年)]  琉球国中山王臣尚(巴志)、謹みて奏し、開読の事のためにす。先ご ろ、宣徳二年六月初二日、欽差内官柴山、勅諭を齎捧するを蒙るに、皮 弁冠服を頒賜し、并びに銅銭二百万文を齎して生漆および各色磨刀石を 収買せよ。これを欽めよや、とあり。欽遵するを除き、内に銅銭二十八 万二千七百文をもって、生漆および各色磨刀石を買得し、すでに宣徳三 年二月内において、まず欽差内官柴山の来船に附して、装載して京に赴 き進収せり。その余の銅銭は続いで後に再買至るの日、別に進用を行わ んとす。已経に由を備えて具本もて奏聞し、および礼部に移咨するの外、 切に見るに本国別に産する所なし。ついで的当の頭目を差わし、人船を 管領して、尽く前項のその余の銅銭をもって装載し、隣国の産有地方に 到り、倶に已に生漆および各色磨刀石を買得し、完備して海船に装載し て回還す。本国海上小山の地、由魯奴と名づくるの地方に至り、宣徳五 年十二月二十二日、船隻風に遭いて打破し、および差去せる頭目人等七 十余名*死す。その余の数人は水に浮かびて登岸す。并びに前項遺下の 銅銭一百七十一万七千三百文は尽く生漆および各色磨刀石を買うも、倶 に各々漂散沈没して存するなし。この一節は朝廷の官物に係り、未だ奏 聞を経ざるがため、続いで宣徳五年八月初七日、欽差内官柴山、内使阮 漸、勅諭を齎捧して開読するを蒙るに、「前項の遺下せる銅銭一百七十 一万七千三百文もて屏風・生漆・各様磨刀石等の件を収買せよ。これを 欽めよや」とあり。欽遵して縁りて本国採弁せる土産の各様磨刀石并び に自備の屏風等の物は、欽差内官柴山、内使阮漸等の来船三隻に附搭し て、装載して京に赴き進貢し、及び礼部に移咨して知会せしむるを除く の外、謹みて具して奏聞す。  宣徳六年 [注1由魯奴 ゆろぬ(ん)で与論(島)のことか。] [四二  中山王尚巴志より宣宗あて、頒賜品に対するお礼の上奏文(一四三一年)]  琉球国中山王臣尚巴志、謹みて奏し、謝恩の事のためにす。宣徳五年 八月初七日、欽差内官柴山、内使阮漸、勅諭を齎捧し、并びに錦段・紵 糸・紗・羅を頒賜せらるるを蒙る。これを欽み欽遵して領受するを除く の外、いま(郭祖毎)等を遣わし、表文一通を齎捧しおよび金酒海・金 壷瓶・金香炉・金香盒・屏風・腰刀・馬疋・硫黄・各様磨刀石等の物を管 送して、欽差内官柴山、内使阮漸等の公幹の来船に附搭し、装載して京 に赴き、進貢謝恩す。ついで王相懐機の告に拠るに称すらく、宣徳五年 八月十七日、欽差内官柴山、内使阮漸、頒賜の錦・紵糸を齎捧するを蒙 る。これを欽み、欽遵して領受するを除くの外、いま思うに深く朝廷の 厚恩を荷くすれば、謹みて屏風・馬疋を備え、願いて進貢謝恩せんと欲 す。告げて施行せられんことを乞う、とあり。これを准け、就に(郭祖 毎)等を差わし管送して京に赴き、進貢謝恩す。および細を備えて礼部 に移咨するの外、謹みて具奏す。  為の字より起こし外の字に至りて止む、計字二百字 紙一張 宣徳六年四月初六日 琉球国中山王臣尚巴志 [四三  中山王尚巴志より礼部あて、謝恩等についての咨文(一四三一年)]  琉球国中山王尚巴志、謝恩等の事のためにす。いま各件の合に行うべ きの事理をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。   計三件  一件謝恩の事。長史梁回、使者達旦尼等の告に随拠るに称すらく、 宣徳三年、本国の差を蒙り、表文・方物を齎捧して、欽差内官柴山の来 船に附搭し、装載して京に赴き謝恩して事完れり。縁みに梁回等呈を備 えて、前みて礼部に赴き、告げて、船隻を賜いて回国し、往来朝貢せし むるを奏せられんことを乞う。欽賜の海船一隻もて国に到り、并びに衣 服を齎す等の件は、呈して施行せられんことを乞う。随で長史鄭義才・ 使者南者結制等に拠るに、表文・方物を齎捧して、各々船隻に駕し、装 載して京に赴き謝恩す。所有附搭せる蘇木等の物は、給価の銅銭を欽賜 せられて国に到る。これをえて前事を参照して、理として合に通行すべ し。いま遣わせる使者由南結制、使者謂慈勃也等ともに、表文一通を 齎捧して、および洪恭等字号海船三隻に坐駕し、馬六十五疋・硫黄二万 斤を装載して、京に赴き謝恩す。咨もて施行せられんことを請う。  一件番貨の事。いま使者由南結制等、洪字号海船一隻に坐駕するあ り。附搭せる蘇木・胡椒は、如し給価を蒙るに、乞うらくは上年の事例 に照らして、永楽通宝銭を支給して回国し、流通伝用せしめられんこと を。その余の船隻の附搭せる数は、乞うらくは常例により絹匹等の物を 給価せらるれば、誠に便益たり。咨もて施行せられんことを請う。  一件船隻の事。使者由南結制等の告に拠るに称すらく、永楽十六年 の間、欽依もて福建において□□に撥与せる洪字号海船一隻は国に到 り、逓年住来朝貢するも、経にいま年久しければ船身并びに槓*ともに おのおの損壊す。告げて施行せられんことを乞う、とあり。これをえて 参照したるに、原王相懐(機)等の領駕来船するに係るの外、本国、本 □を産せざるを見るに縁り、式に依り修理堅固ならしむること能わず。 乞うらくは具奏もて施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 宣徳六年三月十九日  謝恩等の事、咨す   これ一起 洪字船は馬二十五疋を貢す。恭字船は馬二十疋、硫黄    二万斤小‐いま一万斤正を報ず‐を貢す。盤字船は馬二十疋、    硫黄二万斤小‐いま一万斤正を報ず‐を貢す。   咨す [注1一起 一組、一船団の意。] [四四  中山王尚巴志より礼部あて、生漆・屏風等収買船隻の遭難についての咨文(一四三一年)]  琉球国中山王尚巴志、開読の事のためにす。先ごろ宣徳二年六月初二 日、欽差内官柴山、勅諭を齎捧するを蒙るに、皮弁冠服を頒賜し、并び に銅銭二百万文を齎して、生漆および各色磨刀石を収買せよ。これを欽 めよや、とあり。欽遵するを除き、内に銅銭二十八万二千七百文をもっ て、生漆および各色磨刀石を買得し、已に宣徳三年二月内において、先 に欽差内官柴山の来船に附して、装載して京に赴き進収せり。その余の 銅銭はついで後に再買至るの日、別に進用を行う。已経に由を備えて具 本もて奏聞せり。および礼部に移咨するの外、ついで宣徳五年八月初七 日、欽差内官柴山、内使阮漸、勅諭を齎捧して開読するを蒙るに、前項 遺下の銅銭一百七十一万七千三百文もて屏風・生漆・各様磨刀石等の件 を収買せよ。これを欽めよや、とあり。欽遵するを除き、切に見るに本国 は別に産する所なきも、曷ぞあえて違うあらん。ついで的当の頭目阿普 察都を差わし、人船を管領して、尽く前項遺下の銅銭をもって、装載し て隣国の産有地方に到り、ともにすでに屏風・生漆、および各様磨刀石 等の件を買得して完るの日、海船に装載して回還せんとするも、本国海 上小山の地、由魯奴と名づくるの地方に至りて、宣徳五年十二月二十二 日、船隻風に遭いて打破し、および的当の頭目人等七十余名は*死す。 その余の人数三十余名は水に浮かびて登岸す。并びに前項遺下の銅銭一 百七十一万七千三百文は尽く屏風・生漆および各様磨刀石等の件を買う も、ともに各々漂散沈没して存するなし。この一節は朝廷の官物に係る がために具奏するを除くの外、咨もて施行せられんことを請う。須く咨 に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  宣徳六年四月初十日   咨す [四五  中山王尚巴志より礼部あて、頒賜品への謝礼の咨文および謝恩品目録(一四三一年)]  琉球国中山王尚巴志、謝恩の事のためにす。宣徳五年八月初七日、欽 差内官柴山、内使阮漸、勅諭を齎捧し、并びに錦段、紵糸、紗、羅を頒 賜せらるるを蒙る。これを欽み、欽遵して領受するを除くの外、いま長 史郭祖毎、使者益沙毎等を遣わし、表文一通を齎捧し、および金酒海・ 金壷瓶・金香炉・金香盒・屏風・腰刀・硫黄・馬疋・各様磨刀石等の物 を管送して、欽差内官柴山、内使阮漸等の公幹の来船三隻に附搭して、 装載して京に赴き進貢謝恩せんとす。ついで王相懐機の告に拠るに称す らく、宣徳五年八月十七日、欽差内官柴山、内使阮漸、(勅諭を)齎捧し、 錦・紵糸を頒賜せらるるを蒙る。これを欽み、欽遵して領受するを除く の外、いま思うに深く聖朝の厚恩を荷くし、謹みて屏風・馬疋を備え て、進貢謝恩を願わんと欲す。告げて施行せられんことを乞う、とあ り。これを准け、就に長史郭祖毎等を差わし、管送して京に赴き謝恩 す。具奏するを除くの外、咨もて施行せられんことを請う。須く咨に至 るべき者なり。いま開す。  国王進む   金酒海一対 金酒瓶一対 金香炉一箇 金香盒一箇    通共二百五十両重‐余り四両三銭七分   屏風二対    金箔彩色画紙屏風一対 彩色画紙屏風一対   腰刀二十五把‐各長短等しからず   紅漆鞘刀一十五把   螺鈿鞘刀一十把   黒漆鞘腰刀二十二把  本国土産第一様黄磨刀石六千小 今報ず五千斤大正   第二様磨刀石五十斤小 今報ず三十斤正  本国土産第六様磨刀石‐一万六千五百斤小‐一万一千斤正   螺殻一万一千五百箇正‐後添七百六十箇‐報七百个正    通共一万三千二百个正   硫黄三万四千斤小 今報ず二万斤正   馬一十四疋  王相進む   屏風四対‐大小等しからず    金箔彩色画紙屏風一対    水墨画紙屏風一対    馬九疋  右、礼部に咨す 宣徳六年四月初十日  謝恩の事  咨す  原金二百五十五両五分   酒海二箇共一百六十六両重    一箇八十三両重    一箇八十三両重   酒瓶二箇共五十二両七銭重    一箇二十六両二銭    一箇二十六両五銭   香炉一箇両十九両四銭七分   香盒一箇十六両二銭    通二百五十四両三銭七分‐折耗六銭七分    正実報二百五十両重 [四六  中山王(尚巴志)より礼部あて、琉球産磨刀石の献上についての咨文(一四三一年)]  琉球国中山王尚(巴志)、開読の事のためにす。先ごろ欽差内官柴山 勅諭并びに銅銭を齎捧し、海*一隻に坐駕し、国に到るを蒙る。開読す るに、生漆および各色磨刀石を収買せよ。これを欽めよや、とあり。欽 遵するを除くの外、見に本国地方、浅窄なるも採弁して土産の各様磨刀 石を得るに縁って、今次の欽差内官柴山、内使阮漸等の公幹の来*三隻 に附搭し、装載して京に赴き、進用せんとす。もし用に堪うるを蒙らば、 乞うらくは、内に前咨に照依して、内官一員柴山の坐駕せる海*一隻を 差わし、国に到るの日、随即に採弁・装載して進用すれば、遅*致さざ るに庶幾からん。これがため、合に移咨を行うべし。いま長史程安を遣 わして齎捧するの外、咨もて施行せられんことを請う。須く咨に至るべ き者なり。  右、礼部に咨す 宣徳六年四月初十日  咨す [注1浅窄 少ない、わずか、粗末の意か。] [四七  中山王(尚巴志)より礼部あて、慶賀・船隻修理等についての咨文(一四三一年)]  琉球国中山王、慶賀等の事のためにす。いま合に行うべきの事件をも って開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   計四件  一件慶賀の事。いま使者漫泰来結制等を遣わし、使者南者結制等と 共に、表文一通を齎捧して京に赴き、宣徳七年の正旦令節を慶賀す。お よび荒字等号の海船三隻に坐駕して、ともに馬五十五疋・硫黄一万斤を 装載す。咨もて進収せられんことを請う。  一件船隻(の事)。使者漫泰来結制等の告に所拠るに称すらく、い ま駕り去く荒字号海船一隻は、永楽年間より貢物を装載して、海道を歴 渉し、いま年を経ること久し。船身ならびに槓具ともに各々旧損せり、 とあり。切に卑国物料艱難にして修理すること能わざるにより、合に咨 もて乞うらくは、官もて修理堅固にして回国せしめ、もって下年余の輸 貢に備えしむを賜わらば便益なり。  一件番貨の事。いま去く各船の卑爵の附搭せる蘇木は、煩為わくば 具奏もて免抽し、絹匹を給価せられんことを。咨もて施行せられんこと を請う。  一件暦日の事。近ごろ礼部の咨を准けたるに、欽依もて頒賜せらる 宣徳六年の大統暦日一百本‐内黄綾面一本‐は差来の使者魏古渥制等に 給付して、収領して回国せしむ、とあり。欽遵領受して施行するの外、 理として合に咨もて知会せられんことを請う。須く咨に至るべき者な り。  一起三隻 通事林喜表を齎す   荒字号船 硫黄一万斤・馬五疋   永字号船 馬二十五疋   義字号船 馬二十五疋  右、礼部に咨す 宣徳六年九月初六日  咨す [注1正旦令節 正月元旦の祝い。] [四八  中山王(尚巴志)より礼部あて、船隻修理および遭難船等についての咨文(一四三一年)]  琉球国中山王尚(巴志)、進貢等の事のためにす。いま各件の合に行 うべきの事理をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至る べき者なり。   計六件、三件は前にあり。  一起三隻船   天字号船 硫黄五千斤・馬一十五疋、通事李同保   安字号船 馬二十五疋、通事馬俊   地字号船 硫黄一万斤・馬一十五疋、通事陳康  一件進貢の事。いま使者阿蒲察都等を遣わし、使者阿普尼是等と共 に表文一通を齎捧して、および天字等号の海*三隻に坐駕し、馬五十五 疋・硫黄一万五千斤を装載して、京に赴き進貢す。咨もて施行せられん ことを請う。  一件船隻の事。近ごろ使者阿普尼是□等の告に拠るに称すらく、い ま駕り去く安字号海船一隻は、宣徳五年の間、欽依もて原福建鎮東衛に て撥与せる船隻に係り、往来進貢するを蒙る。切に見るに、本船海道を 経渉し、多く海虫蛙損を被る。船身は漏水し、ならびに槓具はともに各 々損壊せり。告げて施行せられんことを乞う、とあり。これを得て参照 したるに、小邦にして料力贍ず。合に咨もて乞うらくは、題奏をなし、 官もて修理堅固にして回国せしめ、もって下年の往来輸貢に応ぜしむれ ば便益なり。  一件遭風船隻の事。使者阿蒲察都等の告に拠るに称すらく、宣徳六 年三月十九日、本国の差わす使者由南結制等とともに、一起として各々 洪・恭・盤字号海船三隻に駕り、各々貢物を載せて、共に表文一通を齎 捧し、京に赴き謝恩す。所有の洪・恭字号海船二隻は、すでに先行して 開洋するを除くの外、切に盤字号海船一隻を領駕し、馬二十疋・硫 黄一万斤を装載するも、本船、本国港□辺に駕至して悪風に遭うにより、 船隻整理せんとするも、船上の槓*は□破して沈没し………貢物は損壊 して存するなし。……原差の同通事梁蜜祖身故す。告げて施行せられん ことを乞う、とあり、これを得て参照したるに、これ実なるを審覆する を除くの外、理として合に咨もて知会施行せられんことを請う。  右、礼部に咨す 宣徳六年九月初六日  咨す [四九  中山王(尚巴志)より礼部あて、福建出身の進貢船水梢の帰国を願う咨文(一四三一年)]  琉球国中山王尚、還郷の事のためにす。近ごろ火長潘仲孫の告に拠る に称すらく、年八十一歳なり、もと福建福州府長楽県十八都民に係り、 洪武二十三年において梢水に欽報せられ、逓年駕船往来して進貢す。永 楽三年に至りて火長を受くるを蒙る。身役して今に径りて年老い船隻に 駕使するに力なし。原籍に回りて住坐せんと欲す。告げて施行せられん ことを乞う、とあり。これを得て参照したるに、本人はこれ欽報の人数 に係る。まさに船に附して前去せしむべし。理としてまさに移咨すべ し。煩わくばすみやかに属に行けて回郷住坐せしむれば便益なり。咨 もて施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 宣徳六年九月初六日  咨す [注1潘仲孫 洪武二十三年(一三九〇)、中国より琉球へ、梢水とし  て欽報され、永楽三年(一四〇五)に火長となった、とある。『中  山世譜』の*人三十六姓の渡来(一三九二)以前のことである。  2欽報の人数 皇帝の命を受けて(許可を得て)遣わされた人々の  意か。『中山世譜』等の*人三十六姓の渡来、賜与との関係で今後吟  味を要する事例である。] [五〇  三仏斉国宝林邦の本頭娘より王相懐機あて、礼物の奉献についての書簡(一四三一年)]  三仏斉国宝林邦粧次 本頭娘、稽首再拝す。即ち日は、孟春なれば時 を謹まれよ。伏して惟うに、琉球国の公卿王相の台座、譴責して謙仁貶 物を謂わず。答教せらる厚意を佩服す。退揆欠然たり。宣徳五年十二月 十一日より受到せる寄来の批信は、大胆に収受して斉全に感謝し、鈞み て興居の多福を候う。大夏**の庇に仰依し、尚、釣庭を瞻仰せんと稽 え、ここに藻翰の誨諄を承け、少礼を復して治報を鶴俟す。いまに*り て慊然たり。昨ごろ教帖を承け、諒に恕を蒙る。照に、いま特に貴国の 本船回還せんとすれば、礼物を齎寄して、前み詣りて回謝せしむ。幸希 わくば収納せられよ。いま来たる人船、買売完備すれば、風*に*趁し て前みて処所に往かしむ。草字不専。伏して頓に納めんことを乞う。  *布二匹 長文節智一塊 頂□一匹 沈香一十斤 宣徳六年二月初三日 本頭娘、再拝して書を奉る [注1謙仁貶物 仁謙(少なく)して物貶(とぼ)し。(三仏斉の)贈  物を仁に適わぬ粗末なものといわずに、心よく受けとった。2退揆  欠然 退き揆るに然を欠く。まことにお恥かしい次第であるの意  か。3興居の多福を候う 御健康、御幸福を祈るの意。4大夏**  の庇 大明の庇護。5釣庭 明の朝廷。6藻翰の誨諄(懐機から  の)教え諭すお手紙。7治報を鶴俟す お返事をお待ちするの意。] [五一  三仏斉国宝林邦の愚婦俾那智施氏大娘仔より王相懐機あて、表敬および礼物の奉献についての書簡(一四三一年)]  三仏斉国宝林邦の愚婦俾那智施氏大娘仔、百拝して書を琉球国王相尊 侯の台前に上る。台誨に拝達して、たちまち歳華を易え、権りに当朝の 大事を掌る。即ち日は、仲春なれば時を謹まれよ。敬しく惟うに、公庭 は清逸にして、鈞みて納福無量を候う。宣徳五年より、船隻前み来たり て邦に到る。明らかに貴国の王庭、仁義礼祝に称う。未だ均*に参拝し て少意奉読するに由なし。草邦賎国は、貴物希少なり。いま便船の国に 回るを見て、薄礼もて貢奉せんとす。鵝毛の意を表するを准されよ。草 字不専。伏して乞うらくは笑納せられよ。  いま、奉来の薄礼を開す   紅花布被面一合 紅花布頂子一合 青花文佃布二合   象牙二条 淡*仙酒四* 宣徳六年二月初三日 愚婦俾那智施氏大娘仔、百拝して書を奉る [注1愚婦俾那智施氏大娘仔 愚婦は謙譲語で、わたくしの意。小葉田淳  『中世南島通交貿易史の研究』によれば、俾那智は身分的称号で、印  度諸島での頭目の称であろうという。施氏大娘仔は施氏(一四〇七  年に旧港の宣撫使となった広東人施進卿)の第二女で当時旧港を治  めていた人物という。つまり、私、俾那智の施氏大娘仔は云々とな  る。なお、四〇項の本目娘、七九・九〇項の施氏大娘は同一人とす  る。2納福無量 楽居量るなし。書翰用語で、御健康、御幸福を祈  るの意。3均*(鈞*カ)宮殿等の庭、ここでは懐機の居宅の意か。  4草邦賎国 まずしい国。ここでは自国の謙譲語で、我が国の意。] [五二  中山王尚巴志より朝鮮国王あて、貿易および献上物についての咨文(一四三一年)]  琉球国中山王尚巴志、礼義の事のためにす。切に思うに、本邦は洪武 より永楽に至るの年間において、祖王より先父王に及ぶまで、遣使して 礼を捧じて馳献し、また、貴国累ねて使を遣わして国に到り、および珍 *を恵まるるを承く。その後、よく海道を諳んずるの人なきがため、も って疎曠するを致すこと多年なり。切に念うに隣国の交通は、また往来 の義を尚び、人を行りて伝命して、もって和好の盟を堅くせん。いま正 使夏礼久等を遣わし、日本国対馬州の客商の来船一隻に順搭便道して、 菲儀を齎捧し、国王殿下に前み詣りて奉献し、少しく微誠を伸べんと す。幸希わくば叱納せられよ。所有のいま差し去かしむ人員は、物貨を 附搭す。なお乞うらくは貿易を寛容せられ、早に打発して回国せしめば 便益なり。いま奉献の礼物数目をもって後に開坐す。合に咨して知会す べし。須く咨に至るべき者なり。  今、開す   蘇木二千斤 礬一百斤   正使夏礼久 副使宜普結制  右、朝鮮国に咨す 宣徳六年六月十九日  咨す [五三  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、自由な売買の許可を乞う咨文(一四三一年)]  琉球国中山王、謝貢の事のためにす。いま照るに、宣徳五年、正使南 者結制等の告に拠るに称すらく、差を蒙るの□各船の使臣等、暹羅国に 到り、礼物を奉献するの外、各船の装載せる磁器等の物は、所在の管事 の頭目、多く官買するに拘るを蒙るにより、磁器をもって逐一搬選して 抽取し、遷延して日久しきを致すにおよぶ。また貨物に価銭を給する も、また虧剋を加う。切に思うに海道は*遠数万余里にして、風波の十 分艱険なるを経歴し、方めて彼に到るを得る。もし前の如く寛柔にして 撫恤するにあらざれば、甚だ虧剋して不便なるに至る。再三告辞するも 肯ぜず。奉使の前来はこれがため停止するの外、近ごろ三仏斉国旧港に 公幹に差往して回来せる正使歩馬結制等の告に拠るに称すらく、旧港に ありてたまたま暹羅国の船隻の来るあり。人言説すらく、前年の間、管 事の頭目は国王の之を責るを蒙り、(新たに)管事を立つること已に訖 れり、と。告により切に念うに、貴国の交通はまた往来の義を尚べば、 人を行りて命を伝えてもって和好の望を堅くせん。合行にいま、正使郭 伯茲毎等を遣わし、礼物を齎捧して船隻に坐駕し、前み詣りて奉献し、 少しく芹忱の意を伸ぶべし。幸希わくば海納せられよ。さらに煩わく は、いま去く人船は四海一家を念となし、官買を寛免せられ、自ら両平 に蘇木等の貨を収買するを行いて回国せしめられよ。応に大明御前への 進貢に備うべし。及早かに打発し、風迅に*趁して回国せしめば便益な らん。いま奉献の礼物をもって後に開坐す。咨もて施行せられんことを 請う。須く咨に至るべき者なり。  今、開す   官段五匹 色段二十匹 腰刀五把 摺紙扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 小青碗二千箇   硫黄三千斤‐報ず二千五百斤正  右、暹羅国に咨す 宣徳六年九月初三日 [注1虧剋 かける、けずること。つまり欠損のこと。2両平…収買  (貿易) 公平に、互いに利益となるように収買(貿易)すること。] [五四  朝鮮国王より琉球国王尚巴志あて、表敬および進上物についての書簡(一四三一年)]  朝鮮国王李*、琉球国王殿下に奉復す。我が国は貴邦と世々信睦を敦 くするも、海道遼夐なるにより、もって多年疎曠を致す。いま王、先君 の好を維がんことを思い、専使もて来聘し、なお礼*を恵み、さらに示 すに交通往来の義をもってす。寡人深くもって喜び謝す。庶わくばこの 心を堅くし、もって永く終誉せん。豈美ならざらんや。不腆の土宜もて 聊か微誠を表す。切希わくば領納せられよ。冬寒不順、まさに保重すべ し。不宣。  宣徳六年十二月 日  朝鮮国王李*   別幅    黒細麻布一十五匹 白細苧布一十五匹 満花席一十五張    虎皮五領 人参一百斤 松子二百斤 [注1李* 李氏朝鮮四代の王、世宗。在位一四一八〜五〇年。内政・  外交ともに多くの業績を挙げ、また諺文を作るなど歴代王中、最も  傑出した王と称されている。2不腆の土宜 粗末な土産のこと。] [五五  宣宗より中山王尚巴志あて、勅諭および頒賜物目録(一四三二・宣徳七年)]  王府、宣徳八年六月二十二日、開読して頒賜するを奉ず。  皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。王、よく天を敬み、上に事え、 恪しんで職貢を修め、王の忠勤なるを備悉せり、いままた内官柴山等、 勅を齎し、意を諭す。ならびに王および王妃に綵幣を賜う。王、宜しく 朕が至懐を体すべし。故に諭す。   頒賜  国王   粧花絨錦    □番蓮藍一匹 連勝宝相花紅一匹 細花黄一匹    細花緑一匹   紵糸    織金胸背麒麟紅一匹 織金胸背白沢青一匹    素青一匹 素紅一匹 素緑二匹   紗    織金胸背麒麟紅一匹 織金胸背*豸青一匹    暗花骨朶雲青一匹 暗細花紅一匹 素青一匹    素緑二匹 素白一匹   羅    織金胸背麒麟紅一匹 織金胸背白*紅一匹    素緑一匹 素藍一匹 素紅一匹 素白一匹  王妃   粧花絨錦    細花紅一匹 □花紅一匹   紵糸    織金胸背白沢紅一匹 素紅一匹 素青一匹    素緑一匹   紗    織金胸背獅子紅一匹 暗花骨朶雲青一匹    暗細花紅一匹 素緑紗一匹   羅    織金胸背獅子紅一匹 素紅一匹 素緑一匹    素藍一匹  宝 宣徳七年正月二十六日 [※本項の一行目は本勅諭を収納した際のメモであろう。] [五六  宣宗より中山王尚巴志あて、日本との通交貿易再開の仲介依頼についての勅諭(一四三二年)]  皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。朕聞く、王が国は日本国と境を 接し、商賈往来し、道路阻むなし。ここに内官柴山等を遣わして王が国 に来たらしめ、公幹に中つ。ならびに勅諭一道を遣る。王、宜しく人を 遣わして齎し去かしめ、日本国王に与えよ。それをして遣使して往来和 好せしめ、および売買生理せば、ともに太平の福を享けん。もし日本国 王、使臣来朝せしむるあれば、就に内官柴山等の船に附搭して同来せ しめよ。王、それ至懐を体せよ。故に諭す。  宣徳七年正月二十六日 [五七  宣宗より中山王尚巴志あて、綵幣の給賜および失去の銅銭等についての勅諭(一四三二年)]  皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。比ごろ、内官柴山等回□して言 えらく、王よく天道を敬順し、恭しく朝廷に事う。具に王の誠意を見 る、と。良にもって嘉悦すべし。いままた内官柴山、内使阮漸を遣わ し、王と王妃に綵幣を給賜せしむ。ならびに帯運せる銅銭二千貫をもっ て前み来たりて、洒金果合彩色屏風・彩色扇・五様磨刀石・腰刀・袞 刀・硫黄・生漆・細沙魚皮を収買せしむ。王よ、用心して収弁齎備し、 内官柴山等に交付して齎来せしむれば、尤も王の勤誠を見るべし。それ 先次海洋にて遭風失去せる銅銭一千七百余貫は、いま皆問わず。特に諭 す。王これを知れ。故に諭す。   宣徳七年正月二十六日 [五八  宣宗より王相懐機あて、頒賜物目録(一四三二年)]  皇帝、琉球国王相懐機に頒賜す。   粧花絨錦連勝宝相花紅一匹   紵糸    織金胸背獅子紅一匹 素紅一匹 素緑一匹 素青一匹  宣徳七年正月二十六日 [五九  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、貿易等についての咨文(一四三二年)]  琉球国中山王、酬謝の事のためにす。近ごろ貴国の咨文を准けたるに 内に開すらく、備に本国咨文の事理を准け、官買を行うを免じ、自ら両 平貿易を行うを寛容し、および珍*を回恵し来使に順付して国に到らし む、とあり。領受するを除くの外、前事を参(照)して理としてまさに通行 すべし。いま正使由南結制等を遣わし、礼物を齎送して、恭字号海船一 隻に坐駕して、前みて貴国に詣り、奉献して少しく酬謝の誠を伸ぶ。容 納せらるれば万幸なり。いま差去せる人船は磁器等の物を装載すれば、 煩為わくば四海一家を念となし、去年の事例に照依して、官買を行うを 免じ、自ら胡椒、蘇木等の貨を収買するを行うを容令し、早に回国せし め、応に大明御前への進貢に備えしむれば、誠に便益なり。いま酬謝の 礼物をもって開具す。咨もて施行せられんことを請う。  いま開す   官段五匹 青素段二十匹 摺紙扇三十把 腰刀五把   青盤二十箇 小青盤四百箇 小青碗二千箇   硫黄三千斤‐官報二千五百斤小  右、暹羅国に咨す 宣徳七年九月初九日  酬謝等の事 差せる通事鄭智   咨す [六〇  中山王(尚巴志)より暹羅国あて、貿易についての咨文(一四三二年)]  琉球国中山王、礼儀の事のためにす。切に照らすに、本国は洪武・永楽 年より以来、遣使して馳せて土宜を献ず。それ歳ごとに二、三舟を航海 せしむ。いま見に疎曠すること数年なり。理として宜しく再遣すべし。 正使歩馬結制等、礼物を齎送して前みて貴国に詣り、奉献して少しく芹 忱の意を伸ぶ。幸希わくば海納せられよ。いま去く人船は磁器等の物を 装載す。煩為わくば遠人を懐柔し、例によりて官買を行うを住め、自ら 両平に胡椒・蘇木等の貨を収買するを行いて回国するを容令し、応に大 明御前への進貢に備えしむれば、四海一家となし、永く往来を通じて便 益なるに庶からん。いま奉献の礼物をもって開具す。咨もて施行せられ んことを請う。  いま開す   官段五匹 素段二十匹 摺紙扇三十把 腰刀五把   青盤二十箇 小青盤四百箇 小青碗二千箇   硫黄二千五百斤‐官報三千斤小  右、暹羅国に咨す 宣徳七年九月三十日  礼儀の事 差せる通事梁徳伸  咨す [六一  中山王尚巴志より礼部あて、海船の賜与に対する謝恩等についての咨文(一四三四・宣徳九年)]  琉球国中山王尚巴志、見に謝恩等の事のためにす。いま各件の事理を もって合に開坐を行うべし。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべ き者なり。   計二件  一件謝恩の事。近ごろ使者漫泰来結制・通事林恵等の告に拠るに称す らく、遣を蒙り表文・方物を齎捧して、京に赴き宣徳七年の正旦令節を 慶賀す。本船損壊して駕使に堪えざるに縁り、欽みて福建において海 船一隻を撥与せらるるを蒙りて国に到る。また長史郭祖毎・程安等の告 に拠るに称すらく、宣徳六年遣を蒙り表文・方物を齎捧して、欽差内官 柴山等の船に附搭し、京に赴き謝恩す。衣服等の件を欽賞せられ、并び に海船一隻を賜い、福建において撥与せられ領駕して国に到る。ついで 使者阿蒲察都、通事李同保等の告に拠るに称すらく、宣徳七年遣を蒙り 表文・方物を齎捧して京に赴き進貢す。原駕の本船損壊して修理に堪え ざるに縁り、欽みて浙江都司金郷衛において海船一隻を撥与せらるるを 蒙り、領駕して国に到る。ついでここに前事を参照し、理として合に通 行すべし。いま使者楊布勃也等を遣わし、使者魏古渥制等とともに、 表・箋文各一通を齎捧し、および義字等号の海船二隻に坐駕して、馬三 十疋・硫黄一万五千筋を装載して、京に赴き謝恩・進貢せしむ。咨もて 施行せられんことを請う。  一件番貨の事。所有の附搭せる蘇木は、煩為わくば事例に照依して奏 して便益を賜わらんことを。咨もて施行せられんことを請う。  右、礼部に咨す 宣徳九年三月 日  咨す    使者楊布勃也 通事蔡譲に係る。   一隻巴年之船    馬二十疋・硫黄五千筋  一起二隻    使者魏古結制 通事陳康に係る。   一隻小梯那之麻魯    馬十五疋・硫黄一万斤 [注1巴年之船・小梯那之麻魯 船名。この期の進貢船等は中国から給  されたもので、恭字号などの字号船であるが、各船とも琉球側で命  名した船名を持っていた。ここでの巴年之船などがそれである。同  様の船名は、本冊の一〇〇〜一三〇項に散見するが、他に『おもろ  さうし』や同時代の「辞令書」にも見えている。2蔡譲 久米村蔡  氏の二世。一三九九〜一四六三年。一四三四〜五二年間に『歴代宝  案』や『明実録』に六度の渡唐が記録される。「蔡氏家譜」以外の  記録で蔡氏として登場する最初の人物である。] [六二  中山王尚巴志より宣宗あて、日本との通交再開の仲介依頼についての奏文(一四三四年)]  琉球国中山王臣尚巴志、謹みて奏し、啓きて開読の事のためにす。  宣徳八年六月二十二日、欽差内官柴山等、勅諭を齎捧して国に到るを 蒙る。開読するに、王宜しく人を遣わして齎し去きて日本国王に与え よ。遣使して往来和好し、買売生理せば、同に太平の福を享けん。これ を欽めよや、とあり。欽遵するを除くの外、日本にての公幹の事完るに 縁り、いま(南米結制)等を遣わし、勅諭一道を齎捧して、欽差内官柴 山等の来船三隻に随同就附して、宣徳九年五月二十日において本国にあ りて開洋し、前みて日本国王処に往きて開読せしめんとす。および礼部 に咨するの外、謹みて具して奏聞す。   為の字より起こし外の字に至りて止む。計百二十三。紙一張。  右、謹みて奏す 宣徳九年五月初一日 琉球国中山臣尚巴志謹みて上奏す [六三  中山王(尚巴志)より礼部あて、謝恩および謝恩品(目録)についての咨文(一四三四年)]  琉球国中山王、謝恩等の事のためにす。いま各件の事理をもって合に 開坐を行うべし。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   計一件  一件謝恩の事。宣徳八年六月内、欽差内官柴山、内使阮漸勅諭を齎捧 して国に到り、綵幣を頒賜し、および王相懐機に絨錦紵糸を賜うを蒙 る。これを欽み欽遵して、各領受するを除くの外、いま使者南米結制等 を遣わし、表文一通を齎捧して、京に赴き謝恩せしむ。謹みて謝して備 うるの貢物は、金箔彩色屏風四扇・洒金竜鳳并花紋紅漆果合八箇・泥金 彩色扇五百把・金*結束金銀竜長刀二把・金結束并螺鈿腰刀四把・金貼 銅結束并螺鈿紅漆腰刀七十四把・金鍍銀并金貼銅結束螺鈿等様袞刀三十 把・硫黄四万斤・各様磨刀石六千三百三十斤・魚皮四千張・螺殻八千五 百箇・海巴五百五十万箇なり。ついで王相懐機に拠りて謹みて備うる貢 物は、金箔綵色屏風二扇・金包*結束虎豹皮銀竹長刀二把・金鍍銀結束 銀腰刀二把・海*皮一百張なり。…二項の貢物はなお使者南米結制等を 遣わし管送して、ともに欽差内官柴山、内使阮漸の公幹の来船三隻に附 搭を行い、装載して京に赴き進貢謝恩せしむ。具奏して啓するを除くの 外、いま貢物をもって備に開す。咨もて施行せられんことを請う。  いま開す 宣徳九年  国王貢物   金箔彩色屏風四扇   洒金双竜花紋紅漆果合二箇   洒金鸞鳳花紋紅漆果合四箇   洒金花紋紅漆果合二箇   泥金彩色扇五百把   金包*竜結束黒漆鞘嵌金銀竜長刀二把‐各帯する鞘は長さ七尺    一寸八分   金結束螺鈿*鞘腰刀二把‐各帯する鞘は長さ三尺一寸   銀結束螺鈿*鞘腰刀四把‐各帯する鞘は長さ三尺一寸八分   金貼銅結束螺鈿*鞘腰刀五十四把‐長短等しからず、内二十把    中等   金貼銅結束紅漆*鞘腰刀二十把‐長短等しからず   金鍍銀并銅結束螺鈿*鞘袞刀六十把‐長短等しからず   金貼銅結束螺鈿*鞘袞刀四把‐長短等しからず   金貼銅結束紅漆*鞘袞刀一十八把‐長短等しからず   金貼銅結束紅漆*螺鈿鞘袞刀二把‐長短等しからず   硫黄二万斤‐彼秤にて三万四千斤小 後添三万四千斤小 通計    官報四万斤正   魚皮四千張 二百張‐彼数四千二百張、内破損一百二十五少二十    七   螺殻八千五百箇‐彼数八千六百五十箇小   海巴五百五十万箇正‐官報附余三十八万八千四百六十五箇    計貫通五千八百八十八貫・(四百)六十五箇    計貫官報五千五百貫、計算余三百八十八貫・四百六十五箇  王相懐機貢物   金箔彩色屏風二扇   金包*結束虎豹黒漆鞘嵌銀竹長刀二把‐各長さ五尺三寸七分連    鞘   金鍍銀結束*黒漆鞘嵌銀竹腰刀二把‐各帯する鞘は長さ三尺三    寸七分   海獺皮一百張  咨す [六四  中山王尚巴志より礼部あて、依頼物品の購入明細および献上物についての咨文(一四三四年)]  琉球国中山王臣尚巴志、開読の事のためにす。宣徳八年六月二十二日 欽差内官柴山、内使阮漸勅諭を齎捧して国に到るを蒙る。開読するに、 綵幣を給賜し、ならびに帯する銅銭二千貫をもって、洒金果合・彩色屏 風・彩色扇・五様磨刀石・腰刀・袞刀・硫黄・生漆・細沙魚皮を収買せ よ、これを欽めよや、とあり。欽遵するを除くの外、本国は硫黄を出産 す。その余の物件は別に産する所なきによるも、曷んぞ敢えて違うあら ん。即に頭目を差わし、人船を管領して銅銭を装載し、前みて隣国に至 り、洒金竜鳳ならびに素紅漆合一十箇・金箔彩色屏風四扇・金竜鳳なら びに銀銅結束等様腰刀六把・金箔銅結束ならびに螺鈿紅漆腰刀四十把・ 金包銅結束ならびに螺鈿袞刀六把を買到せしむ。いま時価によりすでに 前項の銅銭二千貫を行う。さらに原より坐買せる彩色扇・各様磨刀石・ 硫黄・魚皮等の件あり。謹みて自進に備えるの外、ともに欽差内官柴 山、内使阮漸の来船に交して、装載して京に赴き進用せしむ。奏啓する を除くの外、いま収買の物件をもって備に開す。移咨すれば施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。  いま開す   洒金双竜紅漆合二箇‐銅銭二百二十貫を用う   洒金鸞鳳紅漆合二箇‐銅銭一百八十貫を用う   素紅漆合六箇‐銅銭六十貫を用う   金箔彩色屏風四‐銅銭三百貫を用う   金竜ならびに銀銅結束*黒漆鞘嵌金竜腰刀二把‐各帯する鞘は    長さ三尺一寸八分‐銅銭三百一十四貫九百文を用う   金ならびに銀銅結束*黒漆鞘嵌金鳳腰刀二把‐各帯する鞘は長    さ三尺一寸四分‐銅銭三百四十七貫六百文を用う   金竜ならびに銀銅結束*洒金鞘腰刀二把‐各帯する鞘は長さ三    尺八分‐銅銭二百五十五貫九百四十文を用う   金貼銅結束紅漆*鞘腰刀二十把‐長短等しからず‐銅銭八十二    貫を用う   金貼銅結束螺鈿*鞘腰刀二十把‐長短等しからず‐銅銭七十貫    を用う   金包銅結束螺鈿*鞘袞刀六把‐長短等しからず‐銅銭一百六十    九貫五百六十文を用う  右、礼部に咨す 宣徳九年五月 日  咨す [六五  中山王尚巴志より礼部あて、八郎事件等についての咨文(一四三四年)]  琉球国中山王尚巴志、謝恩等の事のためにす。いま各件のまさに各 行うべきの事理をもって開坐す。移咨すれば施行せられよ。須く咨に至 るべき者なり。   計三件  一件謝恩の事。切に照らすに、前欽差者南米結制等、外国に存在する を除くの外、いま長史梁求保、使者領沙毎等を遣わし、前項の表箋文各 一通を齎捧し、ならびに各件の奏啓の本を齎し、および勇字等号の海船 二隻に坐駕して、ともに馬三十疋・硫黄三万斤を装載して管送して京に 赴き謝恩せしむ。咨もて施行せられんことを請う。  一件開読の事。宣徳八年六月二十二日、欽差内官柴山等勅諭を齎捧し て国に到るを蒙る。開読するに、ならびに勅諭一通を遣わせば、王宜し く人を遣わして齎し去き、日本国王に与えよ。それ遣使もて往来和好し および売買生理せば、ともに太平の福を享けん、これを欽めよや、と あり。欽遵す。即日また欽差内官柴山等の説を承准たるに、すなわち駕 来の船三隻は買弁完るの日、ともに日本国に去きて開読するを要す、と あり。除外に官銭を欽承するによりて買弁せる屏風等の件、ならびに自 進の方物は、欽差内官柴山、内使阮漸等の船三隻に装載せしむ。事完り て宣徳九年五月初一日において、即ちに使者南米結制等を差わし、通事 李敬および撰撥せる火長、ならびに精装の人等七十名、および米糧等の 物とともに、各船に分装し、勅諭一通を齎捧し、欽差内官柴山等を護送 せる船三隻に随同附搭して、前みて日本国王処に往きて開読せんとす。 行せんとするの間、欽差内官柴山等勅諭を取請して、すなわち留めて自 ら収めて船に在らしむるを蒙るの外、后に変詞言説するを蒙るに、日本 国に去きて開読せず。我れ回還するを要むと。然れどもここに、いま見 に南風は是ならず。回還は時月もって行くべし。使を累ねて再三告留す るの外、然る后、卑爵山北に出往して海神処を賽祭るの間、通事鄭長等 の前来して告報するに拠るに、本国用うる所のそれ僧一名受林、奴婢八 志羅あり。その妻を縦容して本僧と通姦せしめ、却ってすなわち殺さん と謀る。本主身死して罪を負い、欽差内官柴山等の駅内に奔投す。船内 に収留して匿帯せらるるを蒙る。すでに宣徳本(九)年六月二十四日に おいて開洋し去訖れり。縁りて卑爵切に思うに、本邦は洪武・永楽年来 より今に至るまで、忠もて聖朝に事え、朝貢は時をもってし、撫字聴令 して、敢えて上は聖恩を忘れず。切に見るに、欽差内官柴山等、まさに 先に説えらく、買弁完るの日、ともに日本国に去きて開読するを要む、 と。本国すでに差使を定めて勅諭を齎捧し、随同して前往するに至るに および、却って留阻を行う。また説称すらく、今五月、我が本命を犯す 等の詞あり。去きて開読せず。および罪人を拐帯して径ちに回還するを 行い、却ってもって前例を棄*す。本国来使もて護送し、ならびに回文 を齎して、表箋を進御す。卑爵敬事礼待するにより、却ってこの回生事 多*なるを蒙るも、敢えて尽訴せず。および罪人はこれ本僧の奴に係 る。故に本主を殺死せんことを謀るの罪犯は誅に当る。なお乞うらくは 本犯を発して来使に与えて領回せしむるの外、前事をもって、いま長史 梁求保および使者、通事人等を遣わし、本を齎捧して奏啓せしむるの 外、まさに咨もて知会し、咨もて施行せられんことを請う。  一件番貨の事。卑爵所有の各船の附搭せる蘇木は、煩為わくば……便 益ならしめよ。咨もて施行せられんことを請う。  右、礼部に咨す 宣徳九年八月十五日  咨す   勇字一隻 通事は李敬等、馬十疋 硫黄唐秤二万斤を装す   安字一隻 通事は梁振等、馬二十疋 硫黄唐秤一万斤を装す [注1山北に出往して海神処を賽祭る 尚巴志が山北に出かけて海神処  を祀る、海神祭を行ったの意か。 ※本項の八郎事件については六六、六七項を併せて参照照されたい。な  お六六項等では本項での受林、八志羅がそれぞれ正*、八郎となっ  ている。] [六六  宣宗より中山王尚巴志あて、八郎事件についての勅諭(一四三五・宣徳十年)]  皇帝、琉球国中山王尚巴志に勅諭す。王の奏に、内官柴山今次事を生 じ、および私かに罪人を帯して回還す等の因あり。また王国に先にあり たる倭人八郎来りて告ぐ、日本国僧正*と同に琉球船に搭じて前来して 買売す。就ち日本国書を帯して内官柴山に与う。王知りて怒り僧正*を して殺死せしむ。八郎驚懼して柴山の処に脱走し救を求む。柴山すなわ ち帯引して来京せりと。朕以うに王は恭しく朝廷に事え、恪んで職貢を 修め未だ嘗つて闕あらざれば、八郎の言う所はけだし未だ信ずべから ず。遂に内外大臣に勅して之を審せしむ。また王の差来せる通事李敬を 召して、詢問するに、李敬備に言えらく、八郎は凶暴にして理なしと。 王の奏する所と相合す。朕、深くこれを怒り、すでに法司をして柴山の 罪を治せしむ。なお八郎をもって錦衣衛に執付して監問処決せしむ。こ こに人回国するにより、王に勅してこれを知らしむ。故に諭す。  宝  宣徳十年三月十五日 [注1八郎 六五項では八志羅とある。日本人。日本国僧の正*の奴  婢。正*を殺害したとして中国で処刑された。2正* 六五項では  受林とある。日本国の僧で、滞琉中に殺された。3錦衣衛 中国明  代の近衛軍。天子の直属で警察的機能をもった。 ※八郎事件 本項(六六)および六五、六七項参照。琉球で起きた日  本僧殺害事件。宣徳九年(一四三四)、滞琉中の日本僧正*が殺害  された。琉球側は、正*の奴婢の八郎が謀殺したとして捕えんとし  たが、八郎は折から滞在中の柴山に匿まわれて中国に逃亡した。中  国で八郎は、正*は日本国書を柴山に与えたために琉球側に殺され  た、と主張。しかし中国は琉球側の要求を認めて八郎を刑に処し  た。これが事件の大略である。琉球側、八郎側の主張は対立してお  り、いずれが正しいのか即断はできないが、日本国書云々の話など  からすると、真相は当時の琉・中・日間の政治・貿易等がからんだ  ものか、とも推測される。なお、この事件では柴山も犯人八郎の逃  亡を助けたとして処罰され、以後琉球への渡来はない。] [六七  中山王尚巴志より宣宗あて、八郎事件の処理についての謝恩の上表文(一四三五年)]  琉球国中山王臣尚巴志、宣徳十年八月十二日欽みて勅諭一道を受け、 内に開読するに、内官柴山および罪人八郎等の事あり。勅知を欽奉し、 表を謹奉して謝を称する者なり。臣尚巴志、誠懼誠*稽(首)頓首して 上言すらく、伏して以うに、聖恩は敷布して広大なること天の如し、凡 そ臣民に在りては均しく雨露に霑う。恭しく惟うに、皇帝陛下は聖人に して、文武の治は百王に同じ、春育すること海*にして、兆民忻戴す。 ここをもって天心永く眷みて、洪業いよいよ昌なり。臣尚巴志、深く恩 寵を蒙れば、補報これ図らんとす。ただ葵*の誠を堅くするのみ。上は 万年の寿を祝り、天を瞻ぎ、聖を仰ぎ、激切屏営の至にたうるなし。謹 みて表を奉りて謝を称え、もって聞す。  宣徳十年 月 日 琉球国中山王臣尚巴志、謹みて表を上る [注1春育……海* 春が万物を生育する恩沢が海のように広いこと。  天子の恩沢が深くて広いことのたとえ。2葵* 君主の徳を慕う臣  下のたとえ。] [六八  中山王尚巴志より宣宗あて、謝恩(物品)の送付についての上奏文(一四三六・正統元年)]  琉球国中山王臣尚巴志、謹みて奏して謝恩の事のためにす。正統元年 閏六月十一日、欽みて勅諭を受けたるに、臣尚巴志等に綵幣を頒賜し、 および王相懐機に綵幣を賜え。これを欽めよやとあり。欽遵して各奉 じて領受するを除くの外、いま使者阿普尼是等を遣わし、表文一通を齎 捧し、および香一千斤・沙魚皮二千張・馬六十疋・硫黄三万斤を管送せ しむ。随拠せて、王相懐機の自ら備えるところの香五百斤・沙魚皮一千 張は共同に、安字等号の海船三隻に装載して通行し、京に赴き進貢謝恩 せんとす。および備細に礼部に移咨するの外、謹みて具して奏聞す。  已上、為の字より起こして外の字に至る止で、計るに字は一百二十八  箇、紙一張   右、謹みて奏聞す  正統元年九月二十四日 琉球国中山王臣尚巴志 [六九  中山王(尚巴志)より礼部あて、琉球難民の送還等についての謝恩の咨文(一四三六年)]  琉球国中山王、謝恩等の事のためにす。いま各件の事理を開す。移咨 して施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。   計三件  一件謝恩の事。正統元年二月内、欽みて進貢し回還せる使者伍是堅 等をして勅諭二道ならびに頒賜の物件を齎捧して、福建に回到して来船 を修理せしむ。これがために誠に遅延するを恐る。先に回る船隻の使者 漫泰来結制等に転交して、齎捧して国に到らしむ。本年閏六月十一日に おいて欽みて勅諭を受けたるに、綵幣を頒賜しおよび王相懐機に綵幣を 賜え。これを欽めよやとあり。欽遵して奉じて領受するを除くの外、い ま使者阿普尼是を遣わし、使者(楊)布勃也、義魯結制等とともに、表 文一通を齎捧し、および香一千斤・沙魚皮二千張・馬六十疋・硫黄三万 斤を管送せしむ。随拠せて王相懐機の自ら備えたる香五百斤・沙魚皮一 千張は共同に安字等号の海船三隻に装載して通行して、京に赴き進貢謝 恩せんとす。咨もて施行せられんことを請う。  一件番人を放回するの事。近ごろ通事蔡譲等の告によるに称すらく、 所有の本国の差去せる使者阿不察都等の坐駕せる進貢船隻は、浙江昌国 衛面の孤山にありて風に遭いて打砕す。番梢母魯勃是等四名水に浮かび て岸に登るあり。所在の官司の投送して京に赴かしむるを蒙る。欽みて 恩恤を蒙り、謹みて礼部の就やかに識認して回さしむるを蒙る。宣徳十 年四月内において国に到りて、具に告ぐれば施行せられよ。これにより て参照したるに、同に差したる人数は未だ下落を知らず。除外に理とし てまさに通行謝恩すべし。咨もて施行せられんことを請う。  一件暦日の事。近ごろ、欽依もて正統元年の大統暦一百本‐内に黄綾 面一本‐を頒賜せらるるを准さる。欽遵せり。本国の差来せる使者伍是 堅に給付して収領せしめ、福建に回到して来船を修理せしむ。これがた めに、誠に遅*するを恐る。先に回るの船隻の使者義魯結制等に転交し て本国に齎到せしむ。来咨を准け欽遵して領受し施行するを除くの外、 まさに回咨を行いて知会すれば施行せられよ。  正統元年九月二十四日   安字号船 通事は鄭長 硫黄一万斤大 馬二十疋    香一千斤 沙魚皮二千張  これ一起船三隻 義字号船 通事は梁振また王相懐(機)進む    香五百斤 沙魚皮一千張    硫黄一万斤 馬二十疋   恭字号船 通事は范徳 硫黄一万斤 馬二十疋  咨す [七〇  中山王(尚巴志)より礼部あて、朝服の給賜を願うこと等についての咨文(一四三六年)]  琉球国中山王、朝服等の事のためにす。いま各件のまさに行うべきの 事理をもって開坐す。移咨して施行せられんことを請う。須く咨に至る べき者なり。   計三件  一件朝服の事。洪武年間、欽みて太祖高皇帝、本国の各官に冠笏・公 服等の件を給賜するを蒙る。欽遵して奉受するの外、いま照らすに、本 国各官の朝服は已経に多年、ともに朽壊して存するなく、および裁製す ることあたわざるを以て、およそ聖節・正旦等の事に遇えば行礼いまだ 便ならず。まさに咨して乞うらくは、具奏して給賜せらるれば便益な り。咨もて施行せられんことを請う。  一件暦日の事。照し得たるに、本邦は洪武年来より今に至るまで正朔 を遵奉し、逓年遣使して、海船に坐駕し、方物を装載して進貢す。多く 海道を経渉して風に遭い、船隻の槓具はもって損壊を致すに因って、遅 延して京に赴く。暦日を領奉して回還するにより、なお泊船処所に齎到 を行い、料を計りて来船を修理す。槓*堅きを得て、方めて国に到るを 得たり。切に照らすに、まさに半年また次年に及びて方めて回る者こ れあり。これがため、未だ便ならず。理としてまさに咨すべし。乞うら くは具奏して定奪せられんことを。行して就近の泊船処所の福建に下し て暦日を給付せられよ。なお乞うらくは、小料船隻を撥賜して、前来の 国人に交付して領駕し、逓年別に往来を行い専ら暦日を領し、回国を行 わしめば、誠に便益なり。咨もて施行せられんことを請う。  一件番貨の事。所有のいま差わす使者阿普尼是等の各船の附搭せる蘇 木は、煩為わくば照して奏して施行を賜わらんことを。   右、礼部に咨す  正統元年九月二十四日   咨す この起、使者阿普礼是、通事鄭長に付す [七一  王相懐機より天師大人あて、誥録の給賜についての願文(一四三六年)]  琉球国王相懐機、端拝して大明天師大人の尊前に書を奉る。機、上蒼 の庇佑を奉承して国土清平なり。聞知したるに、天師大人府は、中華の 広信を、竜虎山に居む。切に思うに国王尚巴志、機と同に区々にして遠 く山海に阻まれ尊顔を拝見することあたわず。深く胸懐に愧ず。謹んで ここに同に誠心を発し、*かに馳せて瞻仰し、謹みて香礼を奉じて拝投 す。乞うらくは、誥録を賜いて回国せしむれば、国王ならびに機、未だ 受けざるも、もって天恩を享くるに庶幾からん。特に仁慈を賜らんこと を。尚容尚容。伏して照鑑を乞う。  正統元年 月 日 王相懐機端拝して書を奉る [注1天師大人 道教の天師道の創始者張道陵の子孫、張天師のこと。  2竜虎山 江西省広信府貴溪県の山。道教発生の聖地。3誥録 護  符、お守礼の類。] [七二  王相懐機より天師府あて、国王および懐機の進献礼物の目録(一四三六年)] 琉球国王相懐機 いま開す 国王奉献の香礼   沙金二十包 計八十両重  王相懐機奉献の香礼   沙金一十包 計四十両重   泥金彩色扇五把 金面彩色扇一十把   銀面彩色扇一十把 彩画扇五十把  右、謹みて専献す。天師府、少しく香信の儀に充てられんことを計  る。伏して惟うに、尊慈もて特に容納を賜えと。謹みて状す。 正統元年 月 日 一起人を差わし齎し往く 程文達   梁字  交送官は通事鄭長等、竜聖山に□す [七三  行在の礼部より中山王尚巴志あて、朝服および暦日の頒賜についての咨文(一四三七・正統二年)]  大明行在の礼部、朝服等の事のためにす。琉球国中山王尚巴志(の咨) を准けたるに、各々本国のまさに行うべきの事理をもって開坐す。咨も て施行せられんことを請うとあり。移咨して部に到る。議して前件を開 立せんことを擬するに、正統二年六月初五日早、本部尚書胡*等奉天門 において題奏し、聖旨を奉じたるに、是なり、これを欽めよや、とあ り。欽遵するを除くの外、擬してまさに通行すべし。除外にいま本国の 原より行うべきの事件をもって開坐す。移咨すれば施行を欽遵せられ よ。須く咨に至るべき者なり。計開す。  一件朝服の事。洪武年間、太祖高皇帝、欽んで本国各官に冠笏・公服 等の件を給賜するを蒙る。欽遵して奉受するの外、いま照らすに、本国 各官の朝服は已経に多年にして、なお壊して存するなし。および裁製す ることあたわず。凡そ聖節・正旦等の事に遇えば、行礼未だ便ならず、 咨して乞うらくは給賜すれば便益ならんとあり。  前件もて照し得たるに、本国の冠笏・公服等の件は、洪武年間すでに すでに頒給して服用せしむ。いま朽壊を称すれば合無本国に令して原降 制度に照依し、自ら成造して応用を行わしむ。  一件暦日の事。照し得たるに、本邦は洪武年来より今に至るまで、正 朔を遵奉し、逓年遣使して、海船に坐駕し、方物を装載して進貢す。多 く海道を経渉して、風に遭うにより、船隻損壊して遅延して京に赴き、 暦日を領受して回還す。なお泊船処所に到りて料を計りて修理して方め て国に到るを得べし。まさに半年また次年におよびて方めて回する者こ れあり。これがため、未だ便ならず。乞うらくは泊船処所の福建につき て暦日を給付し、なお乞うらくは小料船隻を撥して本国に交付し、領駕 往来して暦日を専領し、早に行して国に到れば便益ならんとあり。  前件もて査し得たるに、毎年本国に給賜せる大統暦は、ともに差来の 使臣に順付して領回して検看せしむ。いま称すらく、海道遭風し、延び て半年また次年に至りて方めて到る者あり。福建につきて暦日を給付 し、小料船隻を撥賜して、暦日を専領せんと欲するも、小料船隻は海道 の風波もて駕使に堪えざるにより、撥与を准し難し。所拠の暦日は合無 福建布政司に行移して、年ごとに刊印暦日内において、例に照らして一 百本を装*し本国差来の使臣に給付して領回して検用せしむ。  一に原来者阿普礼是に順付して齎捧せしむ。   右、琉球国中山王に咨す  正統二年六月初六日 対同都吏曹志先 [注1合無 よろしくの意。合に〜すべきやいなやで、まさに何々して   よろしいかの意もあるが、ここでは前者の意であろウ。  ※本項中の琉球側の咨請の一つは、洪武年間に各官に賜給された冠   笏・公服が朽壊したとして新たな賜給を乞うたものである。このこ   とから朝服等の賜給・着用が国王だけでなく、各官(範囲は不明)   に対してもなされていたことが確認される。しかし咨請に対する礼   部の回答は「自ら成造して応用…」とあって、賜給はいわず、琉球   側での作製を認めるというに止まっている。] [七四  礼部より中山王(尚巴志)あて、大統暦の給賜についての咨文(一四三七年)]  大明行在の礼部、暦日の事のためにす。琉球国中山王の咨を准けたる に開すらく、本邦は洪武年来より今に至るまで、正朔を遵奉し、逓年遣 使し駕船して、方物を装載して進貢す。海道を渉るにより、遅延して京 に赴き暦日を領受して回還す。なお泊船処所に到りて、料を計りて修理 し、方めて国に到るを得たり。まさに半年また次年に及びて方めて回る 者あり。乞うらくは福建につきて暦日を給付せらるれば便益なり。本部 に移咨して已経に奏准せられ、福建布政司に行移して、年ごとに刊印の 暦日内において一百本を装*し、本国差来の使臣あるに遇えば領回せし められよとあり。いま照らすに、正統三年の欽賜の大統暦日は、来使阿 普礼是等をして福建布政司に至るの日において、領回せしむるを除くの 外、理として合に移咨して知会すべし。欽遵領受して施行せられよ。須 く咨に至るべき者なり。  計るに給賜の正統三年の大統暦は一百本‐内黄綾面一本   右、琉球国中山王に咨す。  正統二年六月十三日 対同都吏何永澄 [七五  中山王(尚巴志)より(暹羅国)あて、礼物の献上についての咨文(一四三七年)]  琉球国中山王、見に礼儀の事のためにす。切に照らす。惟うに貴国と 交すること積□多年にして、感激の情懐は愈々□して固より深し。四海 一家となし、ともに万載の太平を享けん。誠に慇懃を感じ、深くもって 喜謝す。これがため、いま正使歩馬結制等を遣わし、礼物を齎捧して、 順字号海船一隻に坐駕し、詣り前みて奉献し少しく微誠を伸べ、もって 遠意を表す。幸希わくば海納せられよ。なお望むらくは、来人を寛恤し て貨もて蘇木・胡椒等の物に易え、早に風に趁りて回国せしめば便益な るに庶からん。いま奉献の礼物をもって後に開坐す。咨もて施行せられ んことを請う。須く咨に至るべき者なり。いま開す。  閃色段五疋 素青段二十匹 大青盤二十箇  小青盤四百箇 小青碗二千箇 腰刀五把 扇三十把  硫黄二千五百斤大三千斤小 正統二年八月十六日  礼儀の事 順字号船 通事梁徳仲 火長等物度 [七六  中山王(尚巴志)より(礼部)あて、琉僧(報恩寺の天屋)への度牒を請う咨文(一四三八・正統三年)]  琉球国中山王、度牒を請う事のためにす。近ごろ僧官裔則の告による に称すらく、いま国王の差遣を蒙りて使となり、朝貢するの外、いま思 うに本国十刹内の報恩寺の僧官を授得し住持すること年久し。乞うらく は、説行転達をなし、移文して度牒を授けられんことを請うとあり。こ れにより参照したるに、僧官の裔則、道号天屋は実に本国十刹内の報恩 寺の僧官に係り、住持することすでに歴年、深く修行に勤む。理として 合に咨すべし。乞い煩為わくば、題奏をなして度牒を給賜して回国せし めば、誠に便益なり。咨もて施行せられんことを請う。  正統三年 月 日   咨す [注1度牒 僧侶や尼僧の免許証のこと。2裔則 人名。本項の記述か   ら報恩寺の住持で道号を天屋といい、中国に度牒を請うたことが解   る。きわめて珍らしい事例である。3報恩寺 『琉球国由来記』の   「公私廃寺本尊併鐘事」の項によると、本尊は釈迦如来、鐘名は景   泰七丙子小春鋳とある。寺の創建、廃止の年代は不詳であるが、本   項の記述から、正統三年以前の創建であることが知れる。] [七七  琉球国王尚巴志より(爪哇カ)あて、礼物の奉献および貿易についての咨文(一四三八年)]  琉球国王尚巴志、見に礼儀の事のためにす。久しく聞く。貴国が産積 せる諸珍は華麗にして景致なり。君相は仁賢、国人は忠義なり。及以 遠人を寛柔す。ここをもって四海の遐迩、競い趨きて来庭すること皆然 り。歓楽して大いに太平を享く。誠にまさに礼儀に合えば以に馳せて賀 すべし。これがため、特に正使歩馬結制等を遣わし、永字号海船一隻に 坐駕して、礼物を齎捧し、前み詣りて表献し、もって遠意を表す。万望 すらくは海納せられよ。永く四海一家を結び、盟好を相通ぜん。なお希 わくば早に人船を寛恤して買売し、風信に*趁て、時月もて回国せしめ られよ。および先の宣徳五年に本国始めて遣使を行い、駕船して礼を奉 ずるに照以し、珍*を回恵し、および人船を恤してともに安んじて国に 到らしむるを感蒙するの外、理としてまさに通行すべし。奉謝すれば知 会せられよ。いま奉献の礼物をもって、数目を後に開坐す。まさに移咨 を行うべし。施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  いま開す  (礼物脱カ) 正統三年 月 日 [七八 王相懐機より旧港の管事官あて、礼物の献上および貿易についての書簡(一四三八年)]  琉球国王相府王相懐(機)、端拝して書を三仏斉国旧港の管事官閣下 に奉る。近自、卑爵王旨を敬奉す。これを敬み敬依して奉行するを除く の外、いま正使阿普尼是等を遣わし、安字号海船一隻に坐駕して、礼物 を領齎し、詣り前みて遠信を表送す。万望すらくは収受せられよ。永く 四海一家を結び、音好を相通ぜん。なお煩わくば、早に人船をして便に 従いて買売し、風に趁りて時月もて回還せしめられよ。およびすでに先 の宣徳五年、本国の遣使の駕船は、前み至りてはなはだ礼意を回奉して 国に到るを蒙るに照らして、当に類進を行うべし。喜受せられよ。これ を敬みまさに拝謝を行えば知会せられよ。いま送信の物件をもって、数 目を後に開坐す。草字不専。伏して希わくば照亮せられよ。  いま開す   各色段十一匹 各色羅九匹 各色紗五匹 正統三年十月初四日 [七九 王相懐機より宝林邦の施氏大娘仔あて、貿易についての書簡(一四三八年)]  琉球国王相府の王相懐(機)、端粛して書を三仏斉国宝林邦の施氏大 娘仔の粧前に奉る。宣徳六年より、甚だ珍奇・好信に感じ、および書一 封は来使の船隻に就付して回国せしめ、すでに喜受に憑りて受収り訖れ り。向後、累ねて遣使して、しばしば貴国に達せんと欲するも、火長を 少くがために以て疎広を致すこと年深し。それ多く厚意を感じ心に銘じ て忘れず。これがため、いま微誠を備えて奉謝し、使を遣わして信物を 齎送し以て遠意を表す。万幸すらくは笑納せられよ。これ四海一家とな し、永く心盟を通ぜん。なお望むらくは、ともに遠来の人船を柔恤する をなし、早に便に従いて買売して回国せしめられんことを。いま礼物を もって後に開坐す。草字不専。万望すらくは心照せられよ。  いま、開す   漆盤中様二百箇 漆桟二百箇 正統三年十月二十六日 [注1施氏大娘仔 五一項の愚婦俾那智施氏大娘仔の注参照。] [八〇 琉球国執礼等の事の官烏魯古結制より暹羅国の中人密讃あて、献上物の送付についての書簡(一四三八年)]  琉球国執礼等の事の官烏、書を暹羅国の中人密讃に回して知道せし む。いま、かつて書および酒二*を送□して国に到るあり。即随に王相 府の大人に進献したるに、甚だ喜びてまさに漆盞一百五十箇を給賜し て聊遠信となさしむるを蒙ることあり。これをうけ正使楊布(勃)也に 就付して、齎送前来せしむ。収受に憑るべくんば幸たり。  琉球国執礼等の事の官烏魯古結制、回書す。 正統三年十月 日 [※この文書は、烏魯古結制から密讃あてであるが、内容は王相府の大  人、つまり懐機が、密讃からの贈物進上に対するお礼を送るという  ものである。ただ、贈主が国王等でなく、中人の密讃であるところ  から、その返書も懐機名ではなく、烏魯古結制の名で出されたので  あろう。烏魯古結制の肩書の「執礼等の事の官」は、暹羅国の中人  とほぼ相当の官ということになろう。  あろう。烏魯古結制の肩書の「執礼等の事の官」は、暹羅国の中人  とほぼ相当の官ということになろう。] [八一 王相懐機より天師府大人あて、科録の給賜を願う書簡]  琉球国王相懐機、端粛拝謝して書を天師府大人の座前に奉る。機、正 統三年夏の間より符録を賜下せらるるを奉承す。国王尚巴志および機、 大人の大徳に感激すること浅からず。叨くも天恩の極りなきを承る を蒙る。惟だ心恭しく念うに、遠く山海を隔てれば趨きて別に大人に拝 謝すること能わず。いま則ち謹みて尺楮を奉じて代面し、恭陳して拝 謝す。なお尊慈を希う。煩わくば科録に憑り、大証明を作すを賜えば、 永くいまより復世に及るまで、無究の尊上の大徳を感戴し、無究の上天 の洪恩を寵受するを享けんことを。恭しく垂慈俯念せられんことを惟 う。伏して焉を鑑みられんことを乞う。  琉球国王相懐機、上書す 正統三年十一月初十日 [注1符録 符讖とも書く。道教で未来のことを予言した文書である  が、七一項での「誥録」も併せみると、護符の類ということであろ  う。2代面 直接お礼に赴くにかえて書をもってするの意。3科録  免状、証明書の類か。] [八二 中山王尚巴志と王相懐機より天師府あて、進献礼物の目録]    別幅    琉球国王相懐機 いま開す  国王尚巴志     沙金二十包通八十両重を奉ず   王相懐機     沙金一十包通四十両重・銀面彩色扇一十把・水墨画扇二十把     を奉ず   右、謹みて天師府に専献し、以て香花の儀を表す。伏して尊慈もて   特に容納を賜わらんことを惟う。謹みて伏す。    正統三年十一月初十日 [八三 中山(王)より礼部あて、補貢および船隻の給賜を願う咨文]  琉球国中山(王)、慶賀の事のためにす。近ごろ使者謂巴魯・通事鄭 長等の告に拠るに称すらく、正統三年十月初四日において差わされ、長 史梁求保等とともに、表文・方物を齎捧して、安字等号の海船三隻に坐 駕し、正統四年の正旦令節を慶賀せんとす。内に謂巴魯・鄭長等の領駕 せる順字号海船一隻ありて、馬二十疋・硫黄二万斤を装載し、すでに本 国那覇港において開洋す。期せざりき、前みて海上の馬期山に至りて、 風に遭いて礁に衝たりて打破す。貢物存するなし。謂巴魯・鄭長等水に 浮かびて岸に投じ小船に駕して国に到り具に告ぐ。これにより前事を参 照したるに、すでに礼部に移咨して転達して奏聞せる事理に係れば、未 だ敢えて擅便せず。理としてまさに、いま使者謂巴魯・通事人等を遣わ し、馬一十疋・硫黄二万斤を管送して、使者阿普礼是の船隻に附搭して 装載して京に赴き進貢す。并びに咨もて前因を奏聞せられんことを請う の外、切に照らすに、本国は洪武年来より始めていまに至るまで職貢を 敬謹し、忠義を慇懃して天朝に奉事す。欽みて聖恩もて小邦を寵愛し、 遠人を懐来するを蒙る。いま照し得たるに、貢物を装載せる船隻の一節 は、比先、洪武・永楽年間、数として三十号船あり。逓年往来して多く 破損を被る。ただ海船七隻を存するのみ。縁りて照らすに前船は、原宣 徳六年の間、福建都司永寧衛金門千戸所にて欽撥せる順字号船にして、 近故の使者由南結制・通事梁振に給付して領駕して国に到るに係る。い ま遭風して打破するにより、切に微邦は物料艱難にして工力贍らざるに よって未だ成造すること能わず。乞うらくは、別に海船一隻を撥して給 賜し、来使の謂巴魯等に交付して領駕して回国せしめ、もって往来朝貢 に応ぜしむるを蒙らば便益なり。咨もて施行せられんことを請う。  右、礼部に咨す 正統四年三月初六日   慶賀の事  咨す [注1馬期山 馬斯(歯)山で慶良間諸島のことか。2近故 近ごろ死  んだとの意か。] [※洪武〜永楽の間には、海船が三十号(隻)ありと、当時の船隻数が  記されている。尚巴志代は、いまだ中国から海船を欽撥されている  時期である。] [八四 中山王(尚巴志)より中国あて、補貢の使者に対して発給した符文]  琉球国中山王、慶賀の事のためにす。近ごろ使者謂巴魯・通事鄭長等 の告に拠るに称すらく、正統三年十月初四日に差わされ、同長史梁求保 等とともに、表文・方物を齎捧して順字号海船一隻に坐駕し、馬二(十) 疋・硫黄二万簧を装載して、すでに本国那覇港において開洋す。期せざ りき、前みて海(上)の馬期山に至りて、風に遭い礁に衝たりて打破す。 貢物沈(没)して存するなし。謂巴魯・鄭長等水に浮かび岸に登りて小 (船)に乗駕して国に到り具に告ぐ。これにより前事を参照したるに、 すでに礼部に移咨して転達して奏聞せるの事理に係る。これがためいま 謂巴魯等を遣わし、方物を管送しておよび遭風の使者謂巴魯・通事人等 を領帯して、前差の使者阿普礼是の船隻に附搭して、京に赴き進貢す。 なお礼部に赴きて咨もて前因を奏聞せられんことを請う。ここに諭遣を 承くれば、途に在りて遅滞して不便を得るなからしめよ。所有の符文は 須く出給に至るべき者なり。いま開す、京に赴く  使者一員は謂巴魯  通事一員は鄭長   人伴は…… 正統四年三月初六日 [注1諭遣 諭もて遣わす、つまり使者のこと。] [八五 中山王尚巴志より礼部あて、慶賀等についての咨文]  琉球国中山王尚巴志、慶賀等の事のためにす。いままさに行うべきの 事理をもって開坐す。移咨すれば施行せられんことを請う。須く咨に至 るべき者なり。   計二件  一件慶賀の事。いま長史梁求保等を遣わし、使者楊布勃也ととも に、表文一通を齎捧し、および使者明泰の勇字等号の海船四隻に坐駕し て、通共に馬五十疋・硫黄七万斤を装載して京に赴き、正統五年の正旦 令節を慶賀す。咨もて進収施行せられんことを請う。  一件番貨の事。所有の各船の附搭せる蘇木は、煩為わくば具奏して 乞いて、便利の事例に照らして給価すれば、航海の労を虧損するなく、 遠人の便を下憐するに庶からん。咨もて施行せられんことを請う。  右、礼部に咨す   これ一起四隻船 共に馬五十疋・硫黄七万斤を装す   勇字号船 馬十疋 硫黄二万斤大 通事蔡譲   義字号船 馬十疋 硫黄二万斤大 馬通事   永字号船 馬十疋 硫黄二万斤大 范通事   地字号船 馬二十疋 硫黄一万斤大 李通事 正統四年四月初九日  咨す [八六 王相懐機より天師府大人あて、尚巴志の訃報と尚忠等への(科)禄の加授を請う書簡]  琉球国王相府王相懐機、天師府大人の座前、深く恩を蒙るを感ず。前 に符*はすでに受くるも、不幸にして国王尚巴志、近ごろ薨逝蒙られ、 請いて本国都城外の天齎山縁に葬陵す。及、挙国臣民天に号泣して、深 く傷み痛み思うも、幽冥測るなく、遠叩投伏して、大道天師大人の慈に 仗り、上天の老祖天師に転達するをなし、痛哀に下憐し、薦めて天に度 生せしめられよ。及いま世子尚忠ならびに機に賜うに科によりて陞せて 禄を加授すれば、陰陽極りなきの洪恩を享くるに庶からん。恭しく垂慈 俯念せられんことを惟す。伏して乞うらくはこれを鑑みられよ。  琉球国王相懐(機)、百拝して奉書す 正統四年 月 日 [注1天齎山 尚巴志の陵墓のある山。第二尚氏代にはその分家たる北  谷御殿(後の与那覇殿内)の墓所となっていた、現那覇市首里池端  町の「天山」のことかと推測されている。2尚忠 第一尚氏二代の  王。尚巴志の次子で、初代の北山監守とされる。在位は一四四〇〜  四四年。] [八七 王相懐機より天師府あて、香花の奉献についての書簡]  別幅  琉球国王(相)府王相懐(機) いま開す   国王府奉じ    王相、右謹みて天師府に拝献す。表奉して少しく香花の儀を    伸ぶ。伏して惟うに、尊慈もて特に容納を賜えと。謹みて状    す。 正統四年 月 日 [八八 琉球国王より爪哇国あて、礼物の奉献および貿易についての咨文]  琉球国王、見に礼儀の事のためにす。宣徳五年より始初めて敬みて 礼物を備え、使を遣わして貴(平此)国に通達し、王殿下に奉献す。ま た正統三年に至りて再び遣使を行いて礼献すること二次なり。以後能く 海道の便を諳んずるものを少くがため、(平此)年ごとに常に懐いて忘れ ず。甚だ厚意を感ず。前後礼罅を回恵し、および来使人船を憐恤し、買 売して安全に回国せしめらる事あり。照すに間々阻まること(平此)多 年にして、未だかつて礼謝せず。理として合に、いま正使楊布勃也等を 遣わし、海船一隻に坐駕し、咨文一道を齎捧し、并びに礼物を齎して、 王殿下に奉献し、もって遠意を表わす。万望すらくは笑留せられよ。念 いて四海一家となし、永く往来和好を盟う。さらに煩わくば遠方差来の 人船を寛憐して、所載の磁器等の貨は、早きに買売して回国せしめられ よ。いま礼物をもって開坐す。咨もて施行せられんことを請う。須く咨 に至るベき者なり。  いま、開す   青紵糸一匹 閃色段二匹 緑段四匹 腰刀十把   扇二十把 小青碗二千箇 小青盤四百箇  右、爪哇国に咨す 正統五年十月十六日  咨す [注1平此 意味不明。たとえば貴平此国は貴国を強調したものか。] [八九 王相懐機より三仏斉宝林邦・本頭娘あて、貿易についての書簡]  琉球国王相府の王相懐(機)、端粛して書を三仏斉国宝林邦の本頭娘の 粧前に奉る。知り得たるに、先に宣徳六年の間において甚だ好信を謝 し、憑書収め訖れり。向後、却って能く海道を諳んずるの火長を少き、 もって疎曠を致すこと多年。いま正使伍実佳勃也をして遠く書を齎捧 し、代面して奉謝し、送意を備う。幸希わくば収納せられよ。是心に四 海一家を盟い、永く音好を通ぜん。さらに煩わくば共に遠来の船を憐恤 するを成し、早きに買売して回国せしめられよ。いま礼物をもって数を 後に開坐す。草字不専。幸希わくば心照せられよ。  いま、開す 正統五年九月 日 [九〇 王相懐機より旧港宝林邦の施氏大娘あて、貿易についての書簡]  琉球国王相府の王相懐機、端粛して貴国三仏斉旧港の宝林邦の施氏大 娘の粧前に奉復す。宣徳六年において甚だ喜びて見に珍宝の奇なるもの 并びに書一封を収め、付す所の本国の来便船、国に回到すれば逐一憑書 収め訖れるにより、向後、累ねて回謝して、しばしば貴国に達せんと欲 するも却って航海の火長を少き、もって疎曠を致すこと多年。それ感激 の心は朝夕忘れず。これがため、いま礼物を備えて馳送しもって遠意を 表す。惟うに心に四海一家を盟い、酬謝を万容せられよ。なお希わくば 笑留せられよ。さらに望むらくは、共に遠方を憐懐するを成し、早きに 今次の人船をして買売を従して回国せしめられよ。いま礼物を後に開 す。草字不専。万望すらくは心照せられよ。  いま、開す   白段二匹 漆盤中様二百箇 漆桟二百箇 正統五年十月初四日  琉球国王相府王相懐機、端粛して奉復す [九一 中山王世子尚忠より礼部あて、襲封を請うこと等についての咨文]  琉球国中山王世子尚忠、見に朝貢等の事のためにす。いま各行うべ きの事理をもって開件す。咨もて照験施行せられんことを請う。須く咨 に至るべき者なり。   計三件  一件朝貢の事。いま長史梁求保・使者楊布・明泰等を遣わし、表文 一通を齎捧し、および義字等号の海船二隻に坐駕して、共同に馬二十疋 硫黄四万斤を装載して、管送して京に赴き朝貢す。啓もて進収施行せら れんことを請う。  一件世襲の事。不幸にして父王尚巴志、正統六年四月二十六日にお いて薨逝す。切に思うに、本国は遠く海邦に処り、久しく国政を停むる は深く便ならずとなす。縁りてすみやかに印信もて国事を権管す。いま 事因をもって理としてまさに通行すべし。乞うらくは上年の先祖の事例 に照らして、王爵を襲封し、ならびに皮弁冠・朝服等の件を欽賜せらる れば便益なり。具してならびに長史梁求保等を遣わし、齎捧して京に赴 き奏聞するを除くの外、合しく行べし。咨もて知会施行せられんこ とを請う。  一件番貨の事。所有の蘇木は附搭の各船前来すれば、煩為わくば遠 人を便益するの事例もて、奏して施行を賜わらんことを。  右、礼部に咨す 正統六年七月初六日  咨す [注1印信もて国事を権管す 国王の印をもって、かりに国政を司るこ  と。] [※本項では、尚巴志の没年月日を「正統六年四月二十六日」としてい  るが、正統四年の天師府大人あて懐機の書翰では、すでに「尚巴志  薨逝」を告げており(八六項)、また『中山世譜』でも「正統四年四  月二十日」没とあって相違している。本項は尚忠の襲封を乞う咨文  であるため、意図的に没年を遅らせたのであろうと推測される。] [九二 中山王世子尚忠より礼部あて、万寿聖節の慶賀についての咨文]  琉球国中山王世子尚忠、慶賀の事のためにす。いま使者達福期等を遣 わし、使者伍是佳・吉旦担等とともに共同に表文一通を齎捧して、およ び永字等号の海船三隻に坐駕して通共に馬四十疋・硫黄五万斤を装載 し、管送して京に赴き、正統六年の万寿聖節を慶賀す。咨もて進収せら れんことを請う。ついで附搭の蘇木あれば、煩為わくば常の給価に加え て、遠人を憐恤せられよ。理としてまさに通行すべし。移咨して照験施 行せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 正統六年七月初六日  咨す    永字号船 使者は達不期、馬十疋・硫黄二万斤大を進む   三隻一起 地字号船 使者は伍是佳、馬十疋・硫黄二万斤大を進む    恭字号船 使者は吉旦担、馬二十疋・硫黄一万斤大を進む [注1常の給価に加えて 通常の(蘇木等の)代価にさらに上乗せして、  優恤して、の意。] [九三 中山王(尚忠)より爪哇国あて、貿易についての咨文]  琉球国中山王、見に礼儀の事のためにす。感聞したるに、貴国国王は 大徳にして宝眷は仁賢なり。遠近の聞く者みなもって感賛す。および照 らすに前後深く厚意を承る。礼としてまさにいま正使阿普斯古等を遣わ し、人船一隻に管駕して、咨文一通を齎捧し、ならびに礼物を齎し、詣 り前みて王殿下に奉献し、もって遠意を表す。万望すらくは叱留せられ よ。もって綿々礼敬を継ぎ、永く歳々盟好を通ぜん。煩わくば四海一家 を念い、早きに来船をして貿易せしめ、風に趁りて回国せしめられよ。 いま開咨をもって奉献せんとす。須く咨に至るべき者なり。  いま、開す   白段九匹 緑段一匹 藍段一匹 閃色段一匹   素青紵糸一十三匹 腰刀一十把 彩色扇三十把   小青盤四百箇 小青碗二千箇  右、爪哇国に咨す 正統六年四月十九日    安字号船、通事は沈志良   この船、風に遭いて福建福州府諞県地面に漂至す。自ら船隻を   修して、正統七年三月内に至りて回国す。この文行らずして了   る。 [注1宝眷 家族のこと。国王のご家族の意であろう。] [九四 中山王(尚忠)より爪哇国あて、礼物の奉献および貿易についての咨文]  琉球国中山王、見に礼儀の事のためにす。正統六年の間、厚く奇珍の 礼物を回恵するを承け、および遠人を憐愛し、就行に来使楊布勃也等に 順附し、国に到りて収受すでに訖れるを奉謝す。礼として当に合しく  行べし。いま長史達福期等を遣わし、人船一隻に管駕し、咨文一道を 齎捧して、ならびに礼物を齎し、前み詣りて王殿下に奉献し、表謝して もって遠意を伸ぶ。懐心感じて忘れず。万望すらくは海納せられよ。も って四海一家となし、永く和好を通じ、往来して盟を堅くせん。いま人 船を差わし、なお乞うらくは、遠来を憐恤し、早に盤纒等の貨を貿易し て回国せしめられよ。いま礼物をもって開坐す。咨もて奉献せられんこ とを請う。須く咨に至るべき者なり。  いま、開す   白段九匹 藍段二匹 緑段一匹 素青紵糸一十三匹   彩色扇三十把 腰刀十把 小青碗二千箇 小青盤四百箇  右、爪哇国に咨す 正統六年七月初六日   永字号船 通事は梁掀   本年十月初一日に至りて風に遭いて使回す。本月初三日開洋   す。この文停め了る。 [九五 中山王世子尚忠より礼部あて、飄流船隻等のことについての咨文]  琉球国中山王世子尚忠、見に慶賀等の事のためにす。いままさに行う べきの事理をもって開件す。咨もて照験施行せられんことを請う。須く 咨に至るべき者なり。   計二件  一件慶賀の事のためにす。いま使者明泰等を遣わし、表文一通を齎 捧し、および勇字号海船一隻に坐駕し、馬一十疋・硫黄二万斤を装載し て京に赴き、正統八年の正旦令節を慶賀す。通せて乞うらくは咨もて進 収せられんことを請う。咨もて施行せられんことを請う。  一件風に遭いて飄流せる船隻の事のためにす。近ごろ使者阿普斯 古、通事沈志良等の告に拠るに称すらく、正統六年四月十九日において 本国の差を蒙り、安字号海船一隻に管駕して、磁器等の物を装載し、本 国の印信明文の執照を齎執して、前みて爪哇等の国の地面に往き、胡 椒・蘇木等の貨を両平に収買して回国せしめ、応に下年の聖朝への進貢 に備えんとす。期せざりき、本船海に在りて風に遭い、槓*損失し、福 建福州府諞県地面に漂至す。まさに所在の都・布・按三司等の官、本船 の磁器等の物をもって収盤上庫するを蒙る。具本もて奏聞するの外、方 にもって給還すべし。まさに自ら物料を備えて原船を修理するを行い、 爪哇等の国に往かんと欲す。また三司等の官、原より領去せる護船の軍 器をもって、累乞うも与さず。ただ回国を得るのみ。□□施行せられ よ。これに拠り前を参照したるに、切に本国は異物の進貢に充てるに堪 うるを欠乏するにより、これがため、および照らすに永楽十九年五月 内、本国差わすところの使者痺達□尼等、海船一隻に駕し、軍器なきに より、海にありて倭賊船二十余隻の劫殺を被る。以後の各船は倶に軍器 を領して人船を守護す。いま前事に照らし、遠国爪哇等の処に往かんが ために、護船の軍器ならびに在前の各進貢船の軍器は先例によらずして 発還す。倶に福建三司等の官の留阻を蒙らば、非常に遇□して、もって 備禦するなきを恐るあり。もし前の如きに遭わば、もって陥害を致し、 事に及びてもって阻まれ、深く未だ便ならずとなす。理としてまさに通 行すべきの事理は、咨もて奏聞をなさんことを請い、本国の使者明泰、 通事李敬等に給付して、護船に領駕して回国すれば便益なり。咨もて施 行せられんことを請う。例に准じて、もし本国の来使明泰、通事李敬等 に給付して護船を領帯して回国するを蒙らば便益なり。咨もて施行せら れんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 正統七年九月初十日  慶賀等の事  咨す [注1都布按三司 地方の軍政、行政、司法を司る三役所のことで、  各々都指揮使司、布政使司、按察使司のこと。2収盤上庫 没収し  て庫に収めるの意。3倭賊船 倭の海賊船、倭寇のこと。 ※本項の漂流船は、九三項に記される「爪哇」行の船のことで、漂流  の事は同項末尾にも注記されている。ところで同船は漂着した福州  で、積荷や武器を没収され、その返還(特に武器)について一悶着  起きている。『明実録』にも同事件は記されているが(「英宗実録」  正統六年閏十一月の条)、「(爪哇行の琉球船は)至東影山、遭風喩  折、進港修理、妄称進貢……」とあって、琉球船に非のあることを  記している。が上奏の結果は、「遠人宜加撫綏、況遇険失所、尤可   矜憐……」と、全没収物の返還を指示している。] [九六 琉球国王府より暹羅国あて、礼物の奉献および貿易についての咨文]  琉球国王府、見に礼儀の事のためにす。切に聞く、貴国は相通ずるこ とすでにいま多年なり。海道韜かなりといえども、上祖の義交を忘れ難 く、前後恵罅を承け、意の深厚なるを感ずるも、甚だもって疎曠数年に して絶えて音信の相伝うるなきを慚愧す。これがため特に正使阿普斯古 等を遣わし、咨文一通ならびに礼物を齎捧し、および人船一隻に管駕 し、詣り前みて王府に奉献す。幸望わくば海納せられよ。および照らす に、いま差わす人船の装載せる磁器等の物は、乞うらくは所在の管客の 各官に参行して、前に比べて多く虧くるをもってせざれ。官買等の項は 遠人の航海の艱難なるを憐みて、早く両平に買売して寛仁もて回遣せし むれば、もって使客の往来して虧かず、もって四海一家となし永く盟好 を通ずるを得べし。いま礼物をもって後に開坐す。咨もて照験施行せら れんことを請う。須く咨に至るべき者なり。  いま開す   官段五匹 各色段二十匹 扇三十把 腰刀五把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 小青碗二千箇   硫黄二千五百斤‐これ秤三千斤  右、暹羅国に咨す 正統七年十月初五日 通事沈志良   礼儀の事  咨す [九七 琉球国王より爪哇国あて、礼物の奉献等についての咨文]  琉球国王、見に礼儀の事のためにす。切に聞く、貴国は真に華錦の地 にして奇異の宝物を出産す。聖君、賢臣の大徳は遠く四海に聞え、敬し てもって感讃し、心馳せて韜かに賀す。本より去年において正使人等を 差遣し、海船二隻に坐駕して、前来して奉謝せんとするも、船風に遭い 槓*損失するにより漂回す。これがため再び行り、いま正使楊布等を 遣わし、咨文一通ならびに献礼物を齎捧して、詣り前みて王府に奉じ、 もって遠敬を表伸す。なお望むらくは海納せられよ。および照らすに、 いま差わす人船の装載せる磁器等の物は、乞うらくは遠人の航海の艱難 を憐み、早くに両平に買売せしめて寛仁もて早きに遣回をなさしむべ し。以為に四海一家、永く往来を通ずれば利便ならん。いま礼物をもっ て後に開坐す。咨して施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者な り。  いま開す   白花段四匹 白素段二匹 緑花段二匹 閃色段二匹   葱白花段三匹 藍色素段一匹 青素段一十一匹   彩色扇二十把 腰刀一十把 小青盤四百箇  右、爪哇国に咨す 正統七年□月初五日 通事梁掀   礼儀の事  咨す [九八 代宗より中山王世子尚泰久あて、冊封の詔]  天を奉け運を承くるの皇帝、詔して曰く、帝王は天下を主宰するに恒 に一視にして同仁なり。藩募、国中を表率し、或いは同気もってあい嗣 ぐ。朕、恭しく天命を膺け、華夷を撫馭し、諸侯を封建するに遠近を間 なし。況や琉球国は遠く海涯に居り、その民を統べしむ。豈主なかる べけんや。故国王尚金福ちかごろ王封を襲い、嗣ぎて国政を理む。天を 敬い、大に事え、境を保ち、隣に睦す。いますでに薨を告ぐ。承継なか るべけんや。その弟尚泰久、性資英厚にして国衆帰心す。肆、特に正使 右給事中李秉彝、副使行人劉倹を遣わし、勅を齎し、封じて琉球国中山 王となす。およそ彼国中の遠近の衆庶、夙夜ただ寅しみ、宜しく心を輔 翼に悉くし、務めて理分に循えば、或いは乖違に至るなく、長く忠順の 心を堅くし、永く太平の福を享けん。ゆえにここに詔示し、咸に聞知せ しむ。 景泰六年七月二十日 [注1尚金福 第一尚氏王統五代の王。在位一四五〇〜五三年。尚巴志  の六子。一四五一年に冊封使の渡来に備えて、那覇と泊を結ぶ長虹  堤を築いた。2尚泰久 第一尚氏王統六代の王。在位一四五四〜六  〇年。尚巴志の七子。在位中広厳寺等諸寺の建立や万国津梁の鐘な  ど多くの梵鐘を鋳造した。3李秉彝 尚泰久の冊封正使であるが、  『明実録』や『明史』には、景泰六年四月の記録で「正使厳誠」と  あり、李秉彝とする『宝案』や『中山世譜』と異同している。『明実  録』以後、『宝案』の六年七月段階までに、交代があったのだろう。] [九九 朝鮮国王より琉球国王(尚徳)あて、礼物の献上等についての書簡]  朝鮮国王李*、琉球国王殿下に奉復す。書を承りて起居の佳勝なるを 知る。なお厚罅を奉じて欣感交拝す。幣邦と貴国とは壌地あい夐かなり といえども、雅に隣並の義あり。王すなわち遠く信使を遣わし、もって 殷勤を致す。また漂去の人口を刷還して流離を免れ、室家あい保つを得 せしむ。王の賢にあらざれば、交隣を慎重すること未だかくの如くする あたわざるなり。去る戊寅の年、古羅沙也文還るの時、不腆の綿紬二百 一十匹・綿布一千三十一匹もて付送してもって厚意に答う。いま幣産を もって謹みて回价に付し、少しく謝隆を布ぶ。領納すれば幸なり。海波 遼闊にして、耗を致すこと良に艱なり。余は冀わくば順序して自留せら れよ。 天順五年七月初七日 [注1李* 李氏朝鮮七代の王。世祖。在位一四五六〜六八年。在位  中、内では学制を広め、経国大典等を編纂し、外には琉球や日本と  さかんに交易するなど、李朝の最盛期を築いた。] [一〇〇 中山王尚徳より英宗あて、冊封の謝恩等についての奏文]  琉球国中山王臣尚徳、謹みて奏し、謝恩の事のためにす。天順七年七 月十三日、欽承したるに、欽差の正使吏科右給事中潘栄・副使行人司行 人蔡哲、官軍人等を率領して海船一隻に坐駕し、国に到りて詔書・勅諭 を開読し、王ならびに冠服・礼物等の件を頒賜し、臣尚徳を封じて 王となす。および先父王尚泰久を賜祭す。これを欽み欽遵し、倶にす でに奉受するの外、所有の欽奉せる詔書・勅諭は上年の封王の事例に照 依して番国に留鎮するの外、臣尚徳深く聖朝の恩寵を荷くし、固より まさに親躬ら闕に詣りて天恩に拝謝すべきも、奈んせん遠く海邦を守る により、天を瞻て稽首す。これがため理としてまさに通行すべし。特に 王舅王察都等を遣わし、表文一通を齎捧して、および勝字等号の海船二 隻に管駕し、金結束金竜起花金*洒金漆鞘金竜紋腰刀四把・鍍金銀竜結 束鍍金銀*洒金漆鞘金竜紋腰刀二把・鍍金銅結束*螺鈿鞘腰刀一十把・ 鍍金銅結束紅漆鞘螺鈿*袞刀一十把・鍍金銅結束螺鈿紅漆*鞘袞刀一十 把・鍍金銅結束紅漆*(鞘)袞刀四十把・貼金馬鉄面一対・貼金馬鉄甲 二付・金箔彩色募風二扇、象牙三十六条‐ともに重さ五百簧・犀角三十 箇‐ともに重さ一十七簧・磨刀石二様‐ともに重さ一万簧・馬三十疋・ 硫黄四万簧を装載して、京に赴き謝恩し進収せしむ。細を備えて礼部に 移咨して知会せしむるを除くの外、謹みて具して奏聞す。  右、謹みて奏聞す 天順七年八月初四日 琉球国中山王臣尚徳  一号は長史梁賓を差わし、使者崇嘉山・魏古・闍班那・都通事蔡   斉・存留通事梁応とともに、杜古麻沙里‐勝字号船に坐して謝恩   せしむ。  二号は使者読詩・茫普仕古・(尤)那須を差わし、通事金鏘・存留   通事李栄とともに、徳字号に坐して同行せしむ。 [注1尚徳 第一尚氏王統最後(七代)の王。在位一四六一〜六九年。  尚泰久の三子。喜界島征伐や安里八幡宮の創建をなした他、朝鮮王 李*から方冊蔵経を贈られるなど朝鮮との交易も活発に行った。  2潘栄 尚徳王の冊封使。天順六年(一四六二、吏科右給事中の  時、冊封正使に任じられ翌年来琉。帰任後、吏科都給事中、南京太  常少卿等を経て、成化二十年南京戸部尚書に陞った。同二十三年官  を辞し、弘治十年七十八才で没した。琉球について「中山八景記」  を残しており、後の冊使郭汝霖の使録中に収められている。] [一〇一 琉球国王より満剌加国王あて、礼物の献上および貿易についての咨文]  琉球国王、満剌加国王殿下に咨す。けだし聞く、交聘睦隣は邦たるの 要、貨財生殖は富国の基なり。迩賢王の起居康裕なるを審にして深く もって慰となす。且敝邦と貴国とは西よりし東よりすと云うといえども、 礼信往来して未だかつて少しも替らず。曩歳、また厚恵を蒙り懐に銘刻 す。ここに特に正使呉実堅等を遣わし、礼物を齎し、詣り前みて酬献 し、もって寸忱を叙ぶ。伏して希わくば少留せられよ。また微貨あり、 載装して前来し殊方の土産と貿易せんとす。煩わくば属に行けて早き に買売を与し、風時に羮趁して回還せしむれば利便なり。須く咨に至る べき者なり。  いま礼物を開す   色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、満剌加国に咨す 天順七年八月初四日  控之羅麻魯‐恭字号 正使呉実堅、副使那嘉・明泰、通事田   泰・鄭傑を差わす。 [一〇二 琉球国王より蘇門答剌国王あて、礼物の献上および貿易についての咨文]  琉球国王、謹みて蘇門答剌国王殿下に咨す。曩者音問往来し、儀物 交互するは、睦隣の要にあらざるはなきなり。迩聞く、賢王、恩は一 国に加え、利は四隣におよぶと。欣羨の至なり。かつ貴国と敝邦は交通 おのずから他の比にあらざるあり。いま特に正使達古是等を遣わし、礼 物を齎し、もって寸謝を申ぶ。伏して希わくば笑領せらるれば幸なり。 また瑣砕の物貨あり。来船に装載して殊方の土産と貿易せんとす。乞う らくは属に行けて、買売を作成め、早きに回帰を与せば利便なり。須 く咨に至るべき者なり。  いま、礼物を開す   緑雲段二匹 柳黄三匹 青段二十匹 腰刀五把   扇三十把 大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、蘇門答剌国に咨す 天順七年八月初四日  呉羅麻魯‐安号号船 正使達古是、副使蒲嘉麻・衛巴路、通  事王元を差わす。 [注1蘇門答剌国 インドネシアのスマトラ島の西北部にあった小国。] [一〇三 中山王尚徳より礼部あて、長史蔡撥の父の祭祀等についての咨文]  琉球国中山王尚徳、慶賀等の事のためにす。いま各件の事理をもって まさに移咨を行うべし。請うらくは、照験施行せられよ。須く咨に至る べき者なり。  計三件   一件喪礼の事。近ごろ王舅王察都・長史梁賓等を差わして謝恩する に還回して告□す。大行皇帝、賓天す、と。恭聞して哀慟にたえず。就 令に属に行けて旧制に照依して、すでに喪礼を行うの外、□香一*‐ 計重さ七十五簧を□備し、使者明査度・通事馬俊等を差わし、慶賀船隻 に附搭して、齎捧して前来し、恭しく詣りて拝進す。臣子哀痛の至誠を □尽す。咨もて施行せられんことを請う。  一件慶賀の事。天順八年七月廿七日、王舅王察都・長史梁賓等、欽 蒙して勅書を齎捧し、国に到りて開読するに、皇帝天位に嗣登す、これ を欽めよや、とあり。欽遵するを除くの外、いま特に王弟尚武、長史蔡 撥等を遣わし、表文一通を齎捧して、海船三隻に管駕し、金結束金竜紋 起花*洒金漆鞘金竜紋腰刀一把・鍍金銀竜結束起花*洒金漆鞘金竜紋腰 刀二把・銀結束光花竜紋銀*黒漆鞘銀竜紋腰刀一把・鍍金銅包*鞘鍍金 銅竜結束腰刀二把・鍍金銅結束線沫*螺鈿鞘腰刀一十把・貼金銅結束皮 沫*紅漆鞘腰刀一十把・鍍金銅結束紅漆螺鈿*鞘袞刀一十把・鍍金銅結 束紅漆*鞘袞刀一十把・鍍金銅□綵線褊条穿束鍍金銅甲一頂事件全・鍍 金銅結束綵線褊条穿束黒漆皮□二□事件全・馬四十五疋・硫黄六万簧を 装載して京に赴き慶賀せんとす。咨もて施行せられんことを請う。  一件戸口の事。本国長史蔡撥告げ称すらく、伊が父実達魯、永楽年 間、身、通事に膺り、しばしば承りて朝貢す。福建福州府諞県高恵里に ありて母梁氏を聘して、当地の民人范祖生の房屋二間を就買し、永楽年 間において、男一口と母を帯して、完聚して長楽県に入籍せりと陳告 す。礼部具題して、完聚を欽准し、差役を優免せられて住坐す。その 後、父故し神主は房内に安慰して、兄母奉祀して絶えず。景泰四年に至 りて母兄□故す。遺下の房屋は久しく空にして損壊するも、人の修理す るなく、神主は祀を失う。いま撥、慶賀に蒙差れ、男一口蔡光をもって、 正統四年の長史梁求保の奏准せられたる事理に照らして、男をして諞県 に入籍せしめ、差役を優免せられんことを欲す。福州府、査得したる に、永楽十四年、礼部具して題奏し欽准せられ、伊の父実達魯、男をも って入籍せしむるは彼の咨文にあり。照会して国に到る。事理としてこ れ実なり。まさに移咨を行うべし。煩為わくば題奏して施行せられよ。  右、礼部に咨す 天順八年八月初九日  慶賀の事  恭字一号控之羅麻魯船 王弟尚武は一号に坐す。通事は蔡曦、在留   は梁徳  安字二号呉羅麻魯船 長史蔡撥は二号に坐す。通事は林茂、在留   は鄭傑  徳字三号徳固之麻魯船 通事は梁信   進香通事の馬俊も順搭す [注1大行皇帝 薨御した皇帝のことで、ここでは英宗(天順帝)のこ  と。2尚武 尚徳の弟とされるが、詳細は不明。3蔡撥 久米村蔡  氏の三世。一四二六〜八六年。長史職等にあって中国や朝鮮への遣  使として活躍した。一四七一年には、中国で禁制の蠎竜服を私造せ  んとする事件を起こし、二年一貢とされる原因の一つを作ってい  る。4実達魯 本項で蔡撥の父とされるが、『蔡氏家譜』では、撥  の父は蔡譲となっている。活躍した時代や童名等々異同している点  からして、別人と見るべきで、「家譜」編纂時、譲と撥を無理に結  びつけたための誤謬であろう。※本項の実達魯についての記述は、当  時の渡来中国人の性格を考える上で示唆的な史料である。] [一〇四 琉球国王より暹羅国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王、謹んで暹羅国王殿下に咨す。窃かに念うに、躬ら会するに 由なければ、しばらくここに謝を叙ぶ。稔知したるに、賢王の動止は多 福にして喜慰の至なり。貴国と敝邦は相去ること遐苟なりと云うと雖 も、交好の情いよいよ堅し。すでに厚恵を蒙り、まさに少謝の誠を申ぶ べし。ここに正使亜斯美等を遣わし、礼物を齎し、詣り前みて酬献し少 しく情隆を布ぶ。笑留せらるれば万幸なり。船内また微貨あり。乞うら くは属に行けて早きに買売を与されんことを。風時に羮趁して回還せ しむれば利便なり。須く咨に至るべき者なり。  いま、礼物を開す   緑雲段一匹 白雲段一匹 藍雲段一匹 桃紅雲段□匹   木紅雲段一匹 素青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇 硫黄二千五百斤  右、暹羅国に咨す 天順八年八月初九日  礼儀の事 差わせる通事王元・鄭彬   亜哇郡尼にありて打破し船ともに亡す [注1亜哇郡尼 粟国島のことであろう。粟国島は『海東諸国紀』(一  四七一年)で粟島、「上納手形」(一六一一年)でも粟島とあって、  古くは「アワ(グニ)シマ」と呼ばれていたと推測される。] [一〇五 琉球国王より満剌加国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王、礼儀の事のためにす。謹んで満剌加国王殿下に咨す。窃 かに謂うに、信を結び盟を修むは、すなわち交隣の大典なり。有をもっ て無に易えるは誠に相生の要道なり。恭しく惟うに、賢王践祚するや、 寛仁大度にして、沢は群生を被い、名は列辟に揚がる。さきに遣使して たまたま彼と殊方の土宜を貿易す。衆をして協成せしめ、かつ侵漁して 自利せしめず。心は公恕に宅き、交隣輯和せしむるを荷蒙す。なお饋恵 を承れば、何ぞ忘るべけんや。ここにまた正使読詩・通事蔡回保を遣わ し、咨文および回奉の礼物を齎し、もって区区たる芹忱の実を表し、少 しく万一に酬いんとす。また微貨ありて前来す。なお望むらくは、遠人 の買売を寛洪せられんことを。早きに回帰するを与せば利便なり。永く 惟いて遐かに慕い、所有の径咨は幸惟は鑑納せられよ。文なきに異なる なきも須く咨に至るべき者なり。  いま、礼物を開す   各色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、満剌加国に咨す 天順八年八月初九日  一に差わす勝(字)号船 杜固麻沙里   正使読詩 通事蔡回保 [一〇六 中山王尚徳より礼部あて、附搭貨物の代価として銅銭の支給を願うこと等についての咨文]  琉球国中山王尚徳、見に進貢等の事のためにす。いま各件の事理をも ってまさに開坐を行うべし。移咨して照験施行せられんことを請う。須 く咨に至るべき者なり。  計二件   一件進貢の事。いま正議大夫程鵬・長史梁賓等を遣わし、表文一通 を齎捧し、および勝字等号の海船二隻に管駕し、硫黄四万簧・馬三十 匹・象牙一百六十斤・檀香二百斤・束香二百五十斤・胡椒三百五十斤を 装載して、京に赴き進収せしむ。咨もて施行せられんことを請う。  一件恩を乞うの事。切に照らすに本国は太祖高皇帝開基より以来し ばしば職貢を修め、皆、聖恩を蒙り、附搭の物貨をもって数に照らして 估価し、永楽通宝ならびに歴代の銅銭を給与せられて回国し、流通使用 すれば、方物を収買するにはなはだ便なり。前に王府失火するにより 銅銭・貨物はともに焼毀を被り、行使するにたえず、国用匱乏す。近年 以来、附搭の物貨はただ絹匹等の貨を給せられて回至す。本国下年の方 物を収買するに欠銭す。本国はただ硫黄・馬疋を産するのみにて、その 余の物貨は諸番より出ずるによって方物を収買するに、ただこれ銅銭流 通すれば便益なるのみ。節次に具本もて奏し乞うも未だ恩賜を蒙らず。 恭しく惟うに、皇上宝位に嗣登するや仁恩広大にして万邦に普及す。附 搭の物貨をもって煩為わくば題奏せられて永楽および宣徳三年の事例に 照らし、銅銭を給与して回国流通せしめられんことを乞う。庶わくは国 用乏しからず、職貢常あるを得しめられよ。咨もて施行せられんことを 請う。  右、礼部に咨す 成化元年八月十五日   通事は金鏘 存留は李栄 読麻査理船   通事は梁応 存留は鄭傑 固志羅魯船  咨す [注1程鵬 第一尚氏の尚巴志代から第二尚氏の尚真代にかけての進貢  使者。特に尚徳〜尚真代にはその中心人物として活躍し、正議大夫  の職(一四五六)も程鵬が最初である。2王府失火 一四五三年の  「志魯・布里の乱」による王城の焼失を指したものであろう。] [一〇七 中山王尚徳より暹羅国王あて、貿易についての咨文]  琉球国王尚徳、謹んで暹羅国王殿下に咨す。嘗て聞く、饋献の典は交 隣より出で、貿易の方は足用に本づく、と。恭しく審かにするに、貴 国は恩徳これ崇く、風化これ大にして、しばしば珍罅を回恵せられ、お よび人船を寛恤せらるるを蒙り、感激してたえず。これがため特に正使 崇嘉山を遣わし、通事田泰等とともに人船に管駕し、咨文・礼物を齎捧 し、詣り前みて賢王殿下に奉献し、もって遠意を表す。万望すらくは海 納せらるれば幸甚なり。旧歳正使達固是を遣わし、正使亜斯美等ととも に海船二隻に坐駕して、礼を齎し詣り献じて永く前盟を固くせんとす。 その船二隻、あるいは彼にありて買売遅延するによるや、未だ何事によ りて今に至るも未だ本国に回せざるを致すやを知らず。伏して冀わく ば、賢王殿下、上は先祖王の列位の義を重んじ交を深くするを体し、そ の禁約を寛くし、その懐来を尽くされんことを。乞うらくは属に行けて 早きに貿易を与し、風迅に羮趁して回国せしめられんことを。四海一家 を盟結し、永く往来を通ぜしむれば便益ならん。いま奉献の礼物をもっ て開坐す。移咨して照験施行せられんことを請う。須く咨に至るべき者 なり。  いま、開す   緑雲段一匹 桃紅雲段一匹 白雲段一匹 藍雲段一匹   葱白雲段一匹 素青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇   硫黄二千五百斤  右、暹羅国に咨す 成化元年八月十五日  礼儀の事   一に差わす吾剌麻魯舟 正使崇嘉山・通事田泰 [注1その船二隻… 亜斯美等の船のこと。同船が亜哇郡尼(粟国)で  遭難したことは一〇四項末尾の但書にあり。] [一〇八 中山王尚徳より満剌加国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王尚徳、謹んで満剌加国王殿下に咨す。諒に惟みるに、貴国、 徳もて黎庶を懐け、恵は隣邦に及ぶ。誠を推めて物に待し、万里の舟来 たり航し、善を楽しみ人を愛みて四方の商旅を集む。さきに遣使して礼 を献じ、はなはだ珍罅を回恵せられ、および人船を寛恤して貿易して早 く帰らしむるを蒙る。深く衷に感ず。これがため特に正使阿普察都を遣 わし、通事蔡回保等とともに咨文・礼物を齎捧し詣り前みて奉謝し、 永く前盟を固くす。伏して希わくば、賢王殿下、見納せらるればこれ美 ならんか。いま来る人船は貨物を装載せり。なお乞うらくは街市にて貿 易を寛容されんことを。早きに風迅に趁りて回国せしむれば便益なら ん。いま奉謝の礼物をもって開坐す。移咨して照験施行せられんことを 請う。須く咨に至るべき者なり。  いま、開す   色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、満剌加国に咨す 成化元年八月十五日  正使務布察都 副使二員 通事蔡回保   読固至麻魯船 [一〇九 琉球国王より満剌加国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王、満剌加国王殿下に移咨す。けだし聞く、土あればこれ財あ り、財あればこれ用あり。いやしくも貨財をもって生殖せざれば、また いずくんぞ財用の足るを得んや。稔知したるに、貴国の民生の富庶、物 産の豊登はみな賢王の仁徳に由りてもってこれを致すなり。旧載使を遣 わして幣を奉じ、もって交隣の道を申ぶ。多く厚恵を蒙る。誠に乃の心 に副わんとして、ここに特に正使読詩・通事蔡回保等を遣わし、咨文な らびに礼物を齎し、詣り前みて国王殿下に酬献す。伏して望むらくは、 笑留せらるればこれ幸いなり。船内はなお瑣砕の方物あり、前来して 互相に殊方の土産を易換せんとす。煩わくば属に行けて早きに買売を 与し、回還を作成しめば利便なり。須く咨に至るべき者なり。  いま、礼物を開す   各色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、満剌加国に咨す 成化二年 月  一に差わせる正使は読詩   副使は魏武・安謨盧   通事は蔡回保 [一一〇 中山王尚徳より謝恩船に発給された執照文]  琉球国中山王尚徳、謝恩等の事のためにす。差遣せる官員人役等は福 字号にいま地字一百二十一号を給せるの海船一隻に坐駕す。姓名は後に 開す。   京に赴くの正議大夫一員は程鵬     使者三員は呉嘉美・魏古・巴寧仕     通事一員は梁応      人伴二十一名    存留在船通事一員は李栄     火長は魏鑑     管船直庫は沙奇馬       梢水  右執照は存留在船通事李栄等に付す。これを准す 成化三年八月初九日  執照 [注1福字号に…海船 福字号海船に地字一百二十一号の半印勘合執照  を給した(船)の意。2これを准す 此を准す、右、領承せり(せ  られよ)の意。] [一一一 満剌加国王より琉球国王あて、使臣の礼物献上についての書簡]  満剌加国王、謹んで琉球国王殿下に奉る。けだし聞く、土あればここ に生あり。生あればここに用あり。いやしくも貨生をもって闊殖せざれ ば、またいずくんぞ生用の足自するを得んや。稔知したるに、上国は民 生富庶にして物産豊登なり。これ賢王の仁徳のこれに至れるに由る。天 下、九天の下、天下を知るなり。弊邦あい去ること□なるも、交遠の情 いよいよ堅く、すでに数載余なり。使臣・頭目・通事等を差わし、宝物 を装載して到来し、咨もて収弁するを与さるるを蒙る。後に礼信もて往 来し、嘗嘗懐に銘刻す。人を行差せて前来せしめんと欲するも、便なら ず。もし此を准さるるを蒙るも、未だ尽くさず。茲に特に謹んで堅き礼 物を齎し、上国の王殿下に前来せしむ。乞い望むらくは笑留すればこれ 幸にして、もって寸忱を叙ぶ。使臣頭目の交遊称睛してもって畢るあれ ば、風迅もて回還せしめられよ。須く奉に至るべき者なり。  いま礼物を開す   好三連打布二十匹 椒達布十疋 □達布九疋   南*瀞布十一疋 共計五十疋 成化三年三月二十日 [一一二 博多州の道安より琉球国王府あて、朝鮮国からの献上物についての私信]  成化三年四月初二日乙酉良吉、博多州道安、王府に齎進して開読し訖 れり。言に称すらく、礼物は先に対馬州にありて本国の朝鮮国に差往せ る公幹の正副使等の官に送付して、収領し順帯して回還し訖れりと。  別幅   白細苧布一十五匹 黒細麻布一十五匹 白細綿布一十五匹   満花席一十五張 豹皮五張 虎皮五張 人参五十斤   松子三百斤 金剛経一部 起信論一部 円教経一部   四教儀一部 心経一部 翻訳名義一部 画鼓一面   香炉一事 小鐘一事 蝌鐃二部 油畭四番   正□六百一十一匹 綿布三百一匹 成化三年四月初二日乙酉良吉 [注1博多州道安 尚巴志代以降、琉球と朝鮮の通交は、直接的でなく  九州の商人を仲介して行われるようになるが、道安もそれらの商  人の一人と推測される。尚金福〜尚泰久代にかけて、三度琉球国の  使となった博多(船)の船頭に道安なる者がおり(『李朝実録』)、  大友氏の配下の俗僧ともされているが、本項の道安と同一人かは不  明。 ※本項について、東恩納は『黎明期の海外交通史』で、尚徳が道安に  託した朝鮮あての書契としているが、そうだろうか。朝鮮への書で  あれば、書式、内容ともそれなりの体裁となるはずである。しか  も、内容的に見ても、道安が、琉球王府に朝鮮からの礼物について  報告したものであって、朝鮮への書とはなっていない。本項の書は、  書牴ではなく、道安の報告を受けた王府のメモ(覚書)といった性  格のものと解釈すべきではなかろうか。] [一一三 朝鮮国王李*より琉球国王あて、礼物献上等についての書簡]  朝鮮国王李*、琉球国王殿下に奉復す。緬に惟うに、貴邦は自来世々 聘問を修め、寡人の継緒に逮びては、特に信使を遣わしもって旧好を講 ぶ。ただ海路夐阻なるにより久しく酬謝を曠くす。いままた遠く書問を 辱くし、ますます信義を敦くし、感愧交并さる。ならびに罅わるとこ ろの鸚鵡、孔雀はちかごろ来价が偶これを□□するにより、すなわち 異域に求めて送至す。かねて書籍・酒等の物を寄らるれば、ますます厚 意を感ず。不腆の土宜はつぶさに別幅にあり。領納せられよ。余に冀わ くば自玉永好ならんことを。  成化三年八月十九日   朝鮮国王李   別幅    綿布一万匹 綿紬二千匹 紅細苧布一十匹    白細苧布四十匹 黒細麻布四十匹 白細綿紬三十匹    人参一百五十簧 虎皮一十張 豹皮一十張    満花席一十五張 満花方席一十五張 鞍子二面    豹心皮獺皮辺鹿皮裏座子二事 厚紙一十巻 冊紙一百巻    油紙一十五張 募風一座 簇子二対 石燈盞四事    油煙墨一百丁 紫石硯一十面 朱紅匣 錫硯滴具    黄毛有心筆一百枝 黄毛無心筆一百枝 白摺扇二百把    青玉短珠一串 *子四把 毛鞭一十把 松子六百簧    焼酒三十瓶 清蜜三十斗 蝋燭一百枝 法華経二部    大悲心経二部 永嘉集二部 成道記二部 四教儀二部    円覚経二部 翻訳名義二部 楞枷経疏二部    阿弥陀経疏二部 維摩経宗要二部 観無量寿経義記二部    道徳経二部 金剛経五家解二部 楞厳義海二部 法数二部    岻虚堂員覚経二部 金剛経冶父宗鏡二部 楞厳会解二部    高峯和尚禅要二部 真実珠集二部 楞枷経二部    碧厳録二部 水陸文二部 維摩詰経二部 法鏡論二部    真草千字文二部 証道歌二部 心経二部 紫芝歌二部    八景詩二部 浣花流水詩二部 東西銘二部 赤壁賦二部    趙学士蘭亭記二部 王羲之蘭亭記二部 [注1来价 使いにきた小者の意。2自玉永好 書牴用語。自重自愛  せられよ、の意。] [※朝鮮からの礼物中に仏典が多数含まれているが、これは李朝が儒教  を国教として高麗朝で隆盛であった仏教をしりぞけたため、当時仏  教国であった日本や興隆期にあった琉球が仏典を競って求めたから  であろう。] [一一四 琉球国王より蘇門答剌国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王、蘇門答剌国王殿下に移咨す。窃に聞く、礼もって交通し、信 もって講好す。礼に非ず、信に非ずんばいずくんぞ邦交の道を尽くさん や。恭しく惟うに賢王禄位に嗣登するや、徳は邦家を被い、声華は遠迩 に揚ぐ。忻ぶに足り、羨むに足る。ここに特に正使茫普察都・通事紅英 等を遣わし、諸礼物の誠を致す。王延の下に聘し、もって交隣を申ね、 貿易を通ず。惟に自らその宜を得るのみならず、抑且その利を両便せ ん。船内また微貨あり。乞うらくは属に行けて、早きに買売を与すを 作成しめられんことを。風迅に羮趁して回還せしめば利便なり。須く咨 に至るべき者なり。  いま開す、礼物   各色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、蘇門答剌国に咨す 成化三年八月 日  一に差わす正使は茫普察都・游那仕・宋紀   通事は紅英・田春 [一一五 琉球国王より満剌加国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王、満剌加国王殿下に移咨す。つとに厚恵を蒙り感慰良に深 し。詢に知る、賢王の寿体の多福なるは天より之を佑くと。かつ敝邦と 貴国は交和好を通ずること、けだしまた年ありて、一朝にあらざるな り。一介の使の往来にてよくこれを致さんや。ここにまさに正使沈満 布・通事蔡回保等を遣わし、幣交して国王殿下に報聘す。笑留すればこ れ幸いなり。それ船内にまた微貨あり。望むらくは賛成を賜いて、早き に貿易を与し、回帰すれば利便なり。須く咨に至るべき者なり。  いま開す、礼物   色段五疋 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、満剌加国に咨す 成化三年八月 日  一に差わす正使は沈満布 副使は査農是・阿布甼都   通事は蔡回保・林昌 [一一六 琉球国王より蘇門答剌国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王謹んで蘇門答剌国王に咨す。かつて聞く、交通は礼儀に則り 互易を興し而して財用足る。これを舎きて何をもってこれが先務となさ ん。近ごろ貴国の富庶、方物の豊隆なるを見るに、何ぞ徳化の致すとこ ろに非ざるなけんや。ともに旧歳使を遣わして薄礼を齎捧し詣り見えて 重ねて厚愛を蒙る。感徳してたえず。ここに特に正使巴那仕古を遣わ し、通事紅英等とともに人船に管駕して、咨文・礼物を齎馳して酬献 す。伏して希わくば、賢王殿下、海納すればこれ幸いなり。なお乞うら くは、来船を寛容して、早きに貿易を賜いて回帰せしめられよ。庶わく ば、永く往来を通ぜしめんことを。盟好を金石のごとくならしめば便益 ならん。須く咨に至るべき者なり。  いま開す、礼物   各色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把  大青盤二十個 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、蘇門答剌国に咨す 成化四年八月十五日  一に差わす正使は巴那仕古   副使は魏古・沈満志礼   通事は紅英・田春 [一一七 満剌加国王より琉球国王あて、礼物献上についての咨文]  満剌加国王、微礼の事のためにす。謹んで琉球国王金畑殿下に奉る。 朝聞したるに、滄海を収攬するは、これその負販に務め、商を経むに由 る。すなわち薄土をもってするも、然れどもその宝は景いに四方に通ず るの舟車・商賈の積聚する所にして、金銀錦綉百貨の、茂竹・青松・桃 源に処るの儀なり。先世聿修の徳を聖承するも齟齬して貴国の朝を昌な らしめんと欲し、海宇を混一し、万物を仁育す。その生の盛んなること 前代にあらず。  交隣は天よりし、皇恩福徳を感ず。殿下の咨もて、使臣安遠路・通事 蔡回保等を遣わし、宝舟を掌管して微国に到るを蒙る。豊楽にして民安 んじ、瓊瑶もて武の勇なるを歌い、貿易するを任従し、咨旨に違うなか らしむ。遺礼重んずるの儀を荷くし、微国いささか素宝を備えて奉献す。 回国すれば深幸なり。懐蓋の景を万冀い、旧朋の意を覧られよ。嗚呼万 歳。帝王誠意あれば、廷臣望み有りて、清風・高節なり。蟠谿、周富を 御するの思もて錦帆高く掛け風に称いて回国す。歓びは因りて永遠広甚 なり。二渡の宝舟平安なれば歳ごとに率再復するを便となす。須く咨に 至るべき者なり。  いま開す、微礼   別布好*十一个 別**十九个 南母掌十个   山南八好*五个 左達五个  右、琉球国に咨す 成化五年正月二十六日発行  微礼の事 [注1齟齬 予期に反して、にもかかわらずの意か。2瓊瑶 瓊も瑶も  ともにりっぱな玉のこと。また、人の贈り物、書信、詩文。ここで  は書信、書牴の意か。] [一一八 琉球国王より暹羅国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王、暹羅国王殿下に移咨す。恭しく詢いたるに、賢王の納福康 裕なるを慰至となす。かつ貴国と敝邦は地は遐苟にして風馬牛もあい及 ばざるが如しといえども、舟車至るところ、人力の通ずるところなり。 前に船を遣わして彼に適き、阻留日久しくして風迅期を過ぐるを致すに より、海にありて損失す。ここをもってまま聘問を闊く。いま特に正使 読詩・通事魏鑑等を差わし、贄を奉じて交聘し、もって貿易の宜を申 べ、もって先後の雅意に答えん。伏して希わくば笑留せられよ。それ船 内にまた瑣砕の方物ありて前来す。乞うらくは属に行けて早きに買売 を与すを作成しめられんことを。風信に羮趁して回帰せしめば順便な り。須く咨に至るべき者なり。  いま開す、礼物   色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇   硫黄二千五百簧  右、暹羅国に咨す 成化五年八月十五日  一に差わす正使は読詩   通事は魏鑑・李進 [注1風馬牛…及ばず 風する馬牛(発情した馬や牛)はメスを求めて  一千里も走るが、それでも及ばないほど遠く離れていること。] [一一九 満剌加国王より琉球国王あて、礼物献上および使節の人選方についての咨文] 満剌加国王、琉球国王殿下に回咨す。恭しく審かにするに、賢王の福 禄無疆なるは浩天の庇なり。なんぞ永昌に勝えざらんや。毎に貴国の聘 するところを受くるも、未だ微物もて酬称せざるを愧ず。歳歳来往すれ ば貿易においては未だかつて毫厘の軽んずるところにあらず。四海の 内みな兄弟なり。本より遣使前来して聘を致して交通せんと欲するも、 奈んせん、水途熟ずして未だ便ならず。咨してもって聞せしむ。望むら くは喜納せられよ。いま微物ありて貴舶に就寄して聘を致して回礼す。 具に後に開す。須く咨に至るべき者なり。   いま開す、回聘の礼物    *瀞哩一匹 細紹達布四匹 疱布五匹 紹達布四十匹   右、琉球国に咨す   復奉す  賢王殿下、毎歳差来せる使臣・通事はともに好し。ただこれ以下の頭 目、甚しきは非をなすに至る。勧諭を听かずして争闘を行わんと欲す。 まことにこれ州府を撹擾す。後年乞うらくは的当の人員を差わして前来 交通せば、両便を得るに庶からん。咨してまた聞せしむ。  成化六年三月 日   咨す [※本項の後段からすると、使節の下役には満剌加で非法をなす者がい  たようである。] [一二〇 琉球国王より満剌加国王あて、貿易等についての咨文]  琉球国王、満剌加国王殿下に移咨す。恭しく審かにするに賢王の英資 は天錫にして、地方を継統し、徳沢は諸生霊を被い、声華は遠迩に揚が る。はじめ先君開基より、永く盟好を通じ、題質を紹承す。まことに 惟うに瞰爾、襲*して、いささか恪恭を致す。特に優容を賜わり、なお饋 恵を承け、銘刻して忘れず。いま正使安遠路・通事陳泰等を遣わし、咨 文および回礼の物を齎して、詣り前みて酬献す。伏して惟うに見納せら るれば欣慰常に倍せん。前歳多く下人あり。故に禁命に違いて事を端 なきになす。咨文至るの日、聞知して随即に区処す。今後、もし常儀を失 うことあらば、望希むらくは言もて回示せられよ、もって懲めん。尚、 両つながら負くこと無ければ永く一盟に協なわん。それ船内に装載せる 瑣砕の方物は、彼に適きて互相に奇貨に易換せんとす。乞うらくは属に 行けて、風信に羮趁して回還するを作成しむれば利便なり。須く咨に 至るべき者なり。    いま開す、礼物   色段五匹 青段二十匹 腰刀五把 扇三十把   大青盤二十箇 小青盤四百箇 青碗二千箇  右、満剌加国に咨す 成化六年 月  咨す [注1題質 親密なる関係の意。] [一二一 中山王尚徳より朝鮮国王殿下あて、礼物の贈答についての咨文]  琉球国王尚徳、朝鮮国王殿下に奉復す。比、頒恵を蒙るも敢えて拝嘉 せざらんや。かつ賢王の起居ますます康なるを審かにするに、はなはだ 傾企を慰む。敝邦と貴国は江漢の遠きを隔つと雖も、而して聘献の礼は 未だかつて輟むことあらず。王の孤を鄙しまざるに非ずんば、よく是の 如くならんや。近ごろ、日本国商舶書信ならびに礼儀を致すにより、と もにすでに収受して心に銘刻す。ここにその帰るによりて順いで新右衛 門尉平義重を遣わし、いささか土儀を致す。別に別幅を申ね、少しく厚 罅の万一に酬いん。笑留せらるれば惟れ幸ならん。さらに希わくば順序 保嗇せられよ。  右、朝鮮国に咨す 成化六年四月初一日  別幅   闊綿布二匹 色線花布二匹 粧花膝欄二匹   棋子花異色手巾二条 彩色糸手巾二条 綿布染花手巾二条   御磚畑長錦二匹 織金孔雀青段二匹 黒骨摺扇二十把   犀角六箇 象牙四条一百簧 水牛角二十箇   孔雀尾爻三百根 玻擱瓶二隻 白地青花盤二十箇   白地青花碗二十箇 青盤二十箇 大青碗五十箇   小青碗一百箇 束香五十簧 降員香一百簧 檀香五十簧   木香二十簧 丁香二十簧 肉荳*二十簧 *撥二十簧   烏木一百簧 蘇木二百簧 胡椒二百簧 番錫二百簧   大腰刀二把事件全 鸚鵡一隻 **一隻 白鴿一隻   天竺酒一甕 [一二二 中山王世子尚円より中国あて、謝恩使派遣についての符文]  琉球国中山王世子尚円、見に謝恩等の事のためにす。いま特に長史蔡 撥を遣わし、ともに差わす使者呉司馬、実奇那および王達魯等とともに 表文一通を齎捧し、および智字号海船一隻に坐駕して、馬一十五疋、硫 黄二万簧、鍍金銅結束紅漆*鞘腰刀二把、鍍金銅結束黒漆*螺鈿鞘腰刀 二把、鍍金銅結束紅漆*鞘袞刀四把、象牙四百簧・束香二百簧・胡椒四 百簧を装載して、京に赴き謝恩す。なお礼部に赴き進収するを告稟する の外、ここに諭遣を承け、途に在りて遅滞して不便を得る毋らしめよ。 所有の符文は須く出給に至るべき者なり。  いま開す、京に赴く   長史一員は蔡撥    使者三員は呉司馬 益周間 宋璧    通事一員は梁応     人伴は二十一名  国王世子の附搭せる蘇木六千簧・番錫五百簧・胡椒一千簧なり。 成化六年九月初七日  右符文は長史蔡撥・通事梁応等に付す。これを准せり。 謝恩等の事  符文 [注1尚円 第二尚氏の始祖。在位一四七〇〜七六年。尚泰久〜尚徳に  仕えて御物城御鎖之側の要職に陞り、尚徳の没後、衆人に推されて  王位に即いたとされる。しかし近年はクーデター説が有力である。] [一二三 憲宗より中山王世子尚円あて、蠎竜羅段の没収についての勅]  琉球国世子尚円に勅す。近ごろ差来の長史蔡撥、大紅織金蠎竜羅段二 疋をもって、私に針工を喚びて館に在りて衣服を剪裁するによって、所 司以て聞す。撥称すらく、宣徳三年朝廷より給賜せらるるに係り、本国 より帯来すと。事該部に下す。査照したるに彼の時、原より蠎竜花様を 給賜するなし。これ応に禁ずべきの物に係る。縦使果して本国より帯来 するも、また宜しく明白に告知して工に命じて裁製すべきを当となす。 いま却って然らず。事は違あるに属す。羅段は収留し、撥等は礼をもっ て遣回せしむるを除くの外、特に爾に諭して之を知らしむ。故に勅す。 成化七年四月初八日 [注1大紅織金蠎竜羅段(緞) 赤地に金で蠎竜(大蛇)を浮織にした  絹織物。古来中国で竜は皇帝の象徴であり、竜をあしらった衣服等  は原則として皇帝の専用であった。ただ皇帝から諸侯等へ下賜品と  して竜の模様を描いた衣服(竜紋服)や反物が与えられることも  あったが、それでも竜の爪は三〜四本で皇帝の五本と区別されてい  た。※本項では蔡撥の持ち渡った蠎竜服を沖縄側が以前の下賜とした  のに対し、中国側ではその事実はないとして没収したものである。] [一二四 憲宗より中山王世子尚円あて、冊封の詔]  天を奉け、運を承くるの皇帝、詔して曰く、朕、大統を紹承ぎ、旧章 に率循し、諸侯を封建するに遠迩間なし。惟うに爾琉球国、世々海浜に 居り、声教に密迩し、封を受け、業を伝うこと、蓋しまた年あり。故国 王尚徳、仁はもって境を保ち、民を安んずるに足り、誠はもって天を敬 し大に事うるに足る。襲封未だ久しからずして替もって終を告ぐ。王 業の存する所宜しく承継あるべし。それ世子尚円性資純篤にして、国衆 心を帰す。ここに特に正使給事中官栄・副使行人韓文を遣わし、詔を齎 し、往きて封じて琉球国中山王と為す。なお賜うに皮弁冠服等の物をも ってす。凡そ国中の官僚士庶、宜しく心を協せて匡扶すべし。永く藩翰 を固くし、礼度を踰越すること毋く、懋めて先猷を纉がんこと期せば、 忠厚の風を臻し、ともに太平の福を享くるに庶からん。故にここに詔示 す。想うに宜しく知悉すべし。  皇帝の宝 成化七年七月初八日 [一二五 憲宗より中山王世子尚円あて、冊封の勅諭]  皇帝、琉球国故中山王尚徳の世子尚円に勅諭す。惟うに爾克く世々海 邦を撫有し、皇明に臣事して克く忠敬を篤くす。乃が父尚徳王封を紹襲 してかつて未だ数年ならずして遽に薨逝す。爾は冢嗣たり。式、克く賢 に象たり。宣しく爵命を承け、その国人を統ぶべし。ここに特に正使給 事中官栄・副使行人韓文を遣わし、詔を齎し爾を封じて琉球国中山王と なす。并びに爾および妃に冠服綵幣等の物を賜う。爾よろしく永く臣節 を堅くし、ますます天心に順い、常に事大の誠を懐い、もって承先の志 を広むべし。欽めよや、故に諭す。  広運の宝 成化七年七月初八日 [一二六 憲宗より中山王尚円および妃への冊封の頒賜物]  皇帝より   琉球国中山王尚円に    皮弁冠服一副     七旒*皺紗皮弁冠一頂 旒珠金 事件全     玉圭一枝 袋全     五章絹地紗皮弁服一套     大紅素皮弁服一件     白素中単一件     *色素前後裳一件     *色素磊膝一件 玉鈎全     *色粧花錦綬一件     *色粧花佩帯一副 金鈎玉 叮*全 紅白素大帯一条     大紅素紵糸*一双 襪全 母礬紅平羅銷金雲包袱四条    常服羅一套     紗帽一頂 展角全 金相犀帯一条     大紅織金胸背麒麟円領一件 青**一件     緑貼裏一件    紵糸     織金胸背麒麟大紅一匹 織金胸背白沢大紅一匹     暗骨朶雲鴬奇緑一匹 素栢枝緑一匹    羅     織金胸背麒麟大紅一匹 織金胸背獅子大紅一匹     素黒緑一匹 素青一匹     白*糸布一十匹を   王妃に    紵糸     織金胸背白沢大紅一匹 織金胸背獅子青一匹     素栢緑一匹 素青一匹    羅     織金胸背獅子青一匹 織金胸背彪大紅一匹     素黒緑一匹 素明緑一匹     白*糸布一十匹 を頒賜す。  広運の宝 成化七年七月初八日 [一二七 中山王尚円より礼部あて、冊封の謝恩についての咨文]  琉球国中山王尚円、見に謝恩等の事のためにす。いま各件の事理をも って、まさに開坐を行うべし。移咨して照験施行せられんことを請う。 須く咨に至るべき者なり。   計二件  一件謝恩の事。成化八年七月初四日、欽差正使給事中官栄・副使行人 韓文、官軍人等を率領して、海船一隻に坐駕し、国に到るを欽蒙す。詔 書・勅諭を開読したるに、冠服・礼物を頒賜して円を封じて王となし、 および王妃に綵幣を賜い并びに先父王尚徳を賜祭す。これを欽めよやと あり。欽遵してともにすでに奉受するの外、所有の欽奉せる□□諭は頒 賜して、上年の封王の事例に照依して、番国に留鎮するの外、理として まさに通行すべし。いま特に王舅武実、長史李栄および使者明泰等を遣 わし、表文一通を齎捧し、および寿字等号の海船二隻に坐駕して、金結 束金竜紋金*洒金漆鞘金竜紋腰刀一把・金結束金竜紋紅線扎*洒金漆鞘 腰刀二把・銀結束銀竜紋級花*紅漆鞘腰刀二把・銀結束銀竜光*紅漆鞘 腰刀二把・鍍金銅結束紅線扎*螺鈿鞘腰刀一十把・鍍金銅結束沙魚皮 *螺鈿鞘腰刀一十把・鍍金銅結束紅線扎*紅漆鞘腰刀一十把・鍍金銅結 束紅線扎*黒漆鞘腰刀一十把・鍍金銅結束紅漆*鞘袞刀三十把・鍍金銅 結束螺鈿*鞘袞刀二十把・五彩褊*穿束皮鉄甲一領・紅褊*穿束皮鉄□ 一領・鎖□甲手套一双・鍍金鉄面一双・鍍金銅護*一双・色線穿紅漆鉄 護腿一双・犀角二十六箇共重一十七簧・磨刀石二様共重一万簧・貼金彩 画募風二扇・貼金墨画等様扇二百把・象牙四十三条共重五百簧・馬三十 疋・硫黄四万簧を装載して、京に赴き謝恩す。咨もて施行せられんこと を請う。  一件番貨の事。所有の各船に附搭せらる蘇木・胡椒・番錫等の物は、 煩為わくば、奏して常の給与に加えて絹疋を賜われば、航海の遠人をし て利便ならしむに庶からん。咨もて施行せられんことを請う。  右、礼部に咨す 成化八年九月二十八日  謝恩等の事を咨す [一二八 琉球国王より満剌加国王あて、旧年の遣使の消息問い合せについての咨文]  琉球国王、満剌加国王殿下に移咨す。恭しく惟うに、賢王の叡謨は天 資にして、盛徳は日々新たなり。恩は黎民を被い、徳は隣国に聞こゆ。 己を推して人に及ぼし、物我の間るなし。人を愛するに己のごとくして 彼此の殊なるなし。商旅踵を接して来たり、遐迩風を聞きて継ぎ至る。 年々承恵の何に多きや、歳々報答の及ぶなし。いま正使王達魯・通事□ 等を遣わし、咨文并びに礼物を齎し、前みて貴国に詣りて酬献す。伏し て惟うに、見納せらるれば欣慰常に倍せん。ただ旧年の差去せる通事林 昌・陳泰等の二隻船、時月期を過ぐるも未だ回還を見ず。胎や、風水の 虞ざるありて、あるいは船隻損壊して人口所属に漂在するか、あるい は彼処の客商と睦せざる等の事あるか、煩わくば交隣の道を念い、もっ て招来の心を煕くされよ。乞為うらくは和輯を貴となし、優恤を望とな し、本国に送回して、もって図報を期さば、四海もて一家となし、とも に万々年の太平の福を享くるを見るに庶からん。その船内に装載せる瑣 砕の方物は、互相に宝貨と易換せん。乞うらくは属に行けて両平買売 を作成さしめんことを。風信に羮趁して回帰せしむれば利便なり。須く 咨に至るべき者なり。  右、満剌加国に咨す 成化八年九月二十日 [一二九 憲宗より中山王尚円あて、福州における琉使の強盗殺人事件についての勅諭] 皇帝、琉球国中山王尚円に勅諭す。先に該王の差来の使者沈満志并び に通事蔡璋等、京に赴き進貢す。すでに例に照らして賞賜し、人伴を差 わして福建地方に送至し、打発登船して去きて訖る。期せざりき、船外 海に到りて風に阻まる。成化十年六月初八日、本船の姓名を知らざるの 番人、潜行して登岸し、福州府懐安県四都の居民の陳二官夫妻をもって 殺死し、房屋を焼毀す。所有の家財・猪・鶏等の物は尽く劫掠を被る、 と前去らる。その鎮守等の官、被害の家の隣右人等の供報に審拠して、 明白なれば実を具えて奏聞す。いま王国差来の正議大夫程鵬等回還する により、特に勅を降して省諭す。勅至らば王宜しく蔡璋等の鈴来(蚪 束カ)を行わざるの罪を責問すべし。并びに殺人放火行凶の番人を追究 して法に依りて懲治すべし。今後二年一貢、毎船ただ一百人を許すの み。多くも一百五十人を過ぎず。国王の正貢を除くの外、例に照らして 胡椒等の物を附搭するを許し、その余の正副使人等、私貨を夾帯して前 来して買売し、および途にありて事を生じ、平民を擾害し、官府を打撹 し、国王忠順の意に累あるを許さず。王それ之を省みよ。これを省み よ。ゆえに諭す。  広運の宝 成化十一年四月二十日 [注1蔡璋 久米村蔡氏の三世。一四四五〜一五〇四年。父は譲、兄は  撥。一四七〇〜八四年の間、五度の渡唐が記録される。※本項の強盗  殺人事件で、中国側から管理者として譴責されたが、琉球側では不  問に付したようで、事件後も貢使として渡唐し、官も長史まで陞っ  ている。2蚪束(を行わざるの罪) 部下を取り締まらない、監督  不行届の罪。 ※本項の強盗殺人事件は、沖縄の進貢制度の根幹に係わる貢期と使節  人員数が、従来の不時朝貢から二年一貢へ、人員の制限なしから百  〜百五十人の定数化へと制限を受ける契機となった大事件である。  ここでの制限は以後、琉中関係の断絶する琉球処分時(一八七九  年)に至るまで、基本的に引きつがれる大原則となった。なお次項  (一三〇)の琉球側の反論の外、『明実録』にも関連記事がある。] [一三〇 中山王尚円より憲宗あて、強盗殺人事件への釈明および旧制通り一年一貢を願うことについての奏文]  琉球国中山王臣尚円奏して、開読して復命の事のためにす。本国成化 十年謹んで方物を備え、正義大夫等の官程鵬等を差わし、朝貢して回還 し、勅諭を齎捧して国に到る。開読するに、夷邦に着して先次の通事蔡 璋等を責問し、劫を行うの番人を追究して法に依りて懲治すべし。今後 は毎船一百人、多くも一百五十人を過ぎざれ。二年一貢とせよとあり。 遵依して即に、通事蔡璋并びに同船一起の人犯を拘して、親自ら逐一隔 別に研究したるに、各陳二官は賊に劫殺被らると供す。之を拘問する に、先船は港外の馬頭江の綱崎を離れて聾泊す。通船の人衆は一人も登 岸するを許さず。豈、番人の遠く本船を離れて強劫して殺人するの情由 あらんやと。異口同詞なり。事明にして理順う。委に実情なし。懐安の 県官、一時に挨捕に従るなし。ただ陳二官の隣人王宗の人の空告に托す るに憑って、番人を指して劫を行うとなす。該管地方の里老に着して、 王宗の告ぐる所の供結に依憑して申達せしむ。上司実跡有りや無きやを 究めずして、ただ該県の申呈に照らして具奏す。一夫の浮言より出ずる をもって九重の聖聴を煩涜す。まさに各人の備細の供詞をもって具本復 命すべし。伏して望むらくは、天朝海涵春育して、曠蕩の恩赦を覃敷せ られよ。それ疑わしきは罪せざるに似たり。謹みて鍍金銅結束黒漆沙魚 皮*螺鈿鞘腰刀四把・鍍金銅結束螺鈿*鞘袞刀四把・□香二百斤・象牙 二百斤・檀香二斤・束香三百斤・胡椒一千斤・馬二十三疋・硫黄三万斤 を備えて、長史梁応・使者亜蘇等を差わし、勝字等号の海船二隻に駕し て、装載し、表文一通を齎捧して謝恩す。  切に惟うに、琉球国の歴世の先王、天朝屡々廷臣を遣わし、夷国に 俯臨して、王を封じ、錫賚賞賜を荷蒙すること多儀なり。欽みて惟う に、太祖高皇帝、国王の陪臣の子をして国子監に入りて読書せしむるを 許し、儒学を知りて、その夷風を化せしむ。永楽十五年三月内、礼部の 咨を准けたるに、太宗文皇帝の聖旨を奉じたるに、琉球国王は敬みて 天道に順い、恭しく我が朝に事う。我ここに人を差わして去きて硫黄を 取らしむ。他便ち数の如く送りて将来す。好生至誠なり。恁に礼部、王 の差来せる人をもって都て衣服を与えて賞賜せよ。王の賞賜はすなわち 使□に着して毎に帯して回去せしめよ。ただ附搭せる一応物貨は都て抽 分を免し、例に照らして価鈔を給与せよ。他に東西を収買して回□する を従し、船の壊的は他に修するを与し、該に換的は他に換うるを与して、 風迅に留了るを休しめよ。これを欽めよや、欽遵せよとあり。消埃報 い難きも、方物を備えて年を按じて職貢す。聖徳の柔遠を含弘するの盛 治に仰頼し、もって臣子の恩に感じ、化に向う微誠を尽くさん。一年一 貢は旧規を遵奉せり。二載一朝は実に疎曠たり。孝子は父母に事うるに 一日見ざれば、心をば安んぜず。夷国、天朝を仰ぎて一年一貢するは誠 をばすなわち尽くすなり。乞うらくは洪武・永楽年間の事例に照らして、 名に照らして稟糧を支給せらるれば、乞丐を免らしめて実に万幸なるに 庶からん。謹みて具して奏聞す。伏して勅旨を候つ。  成化十二年 [※前項の強盗殺人事件、琉球人犯人説への反論であるが、その後の対  応等に見るごとく、結極中国側の容れるところとはならなかった。] [一三一 中山王尚円より憲宗あて、漂流民救助に対する謝恩についての奏文]  琉球国中山王臣尚円謹みて奏して謝恩等の事のためにす。近ごろ本 国の王舅武実等、朝貢して回還し告に拠るに称すらく、本国通事林昌等 ありて、成化七年九月内、船隻に差駕して本国の財本を関領し、前みて 満剌加国に往き、貢物を収買してもって下年の進貢に備えんとす。回り て七州洋に及び風に遭いて衝礁打破す。貨物は尽く漂失を行い、番吮人 等は多く溺死を被る。ただ通事林昌等一百二十六名は浮板登岸し、性命 を存するを得たり。当に広東三司等の官、験実して人を差わして送りて 福建に至らしむるを蒙る。ついで彼処の官司柔遠轣に発下して安歇せし め例に照らして糧を給し存恤するを蒙る。実等京に赴きて、具本もて奏 し、礼部を奉じたるに皆字五百三十七号勘合(船)は、自ら物料を備え て工匠を雇倩し、船隻を補造し回国せしむるを許令さる。また成化九年 九月初三日、差去せる朝貢の使者沈満志等の告称に拠るに、本国通事紅 英、使者王宝等坐駕の瓠隻あり。また本国の財本を領して前みて暹羅国 に往き、貢物を収買して回りて広東外海洋に至り、忽颶風に遭いて打 破す、時に人衆板を拾いて福建地方に漂至す。すでに所在の官司一体に 前例もて存恤するを蒙るの外、沈満志等京に赴き具本もて奏して、例に よりて自ら物料を備えて瓠隻を補造するを准依さる等の因あり。臣円天 恩を感戴し、万一に補報すること能わざるを愧ず。まさに躬親闕に詣り て聖恩を拝謝すべきも、奈んせん謹みて藩維を守るにより遠く離れるこ と能うなし。いま特に正議大夫程鵬等を遣わし、表文一通を齎捧し、お よび恭字等号の海瓠二隻に坐駕して、硫黄四万斤・馬三十疋ならびに鍍 金銅結束螺鈿*鞘腰刀四把・(鍍金銅)結束螺鈿*鞘袞刀四把・速香五百 斤・象牙一十三条―共に重さ二百斤・丁香二百斤・胡椒一千斤を装載して 京に赴き謝恩す。臣円まさにますます堅く敬みて補報すべし。ここに円 咨を備えて礼部をして知会せしむるを除くの外、謹みて具して奏聞す。  成化十五年九月初三日 [注1広東三司等の官 広東省の三司(布政使司・按察使司・都指揮使  司)のこと。2柔遠轣 福州におかれた琉球の公館。 ※本項は成化十五年九月付、尚円の上奏文となっているが、尚円はす  でに同十三年には没している。ために*は「円、真ノ誤カ」として  いる。しかし、使者名、船の字号、謝恩方物の品目、斤量等からし  て巻二八‐八の成化十二年九月初三日付の執照(未収録)とセット  の上奏文と考えられる。王名の誤りではなく記年の誤りであろう。] [一三二 中山王尚真より礼部あて、冊封の謝恩および礼物献上についての咨文]  琉球国中山王尚真、謝恩等の事のためにす。いま各件の事理をもって まさに開坐を行うべし。移咨して照験施行せられんことを請う。須く咨 に至るべき者なり。   計二件  一件謝恩の事。成化十五年八月初二日、欽みて欽差正使兵科給事中 董旻、副使行人司右司副張祥、官軍人等を率領して海船一隻に坐駕し、 国に到るを蒙る。詔書・勅諭を開読したるに、冠服・礼物を頒賜し、真 を封じて王となし、および王妃に綵幣を賜え。ならびに先父王尚円を 賜祭せよ。これを欽めよやとあり。欽遵してともにすでに奉受するの 外、所有の欽奉せる詔諭は上年の封王の事例に照依して、番国に留鎮す るの外、理としてまさに通行すべし。いま特に王舅馬怡世および正議大 夫程鵬・長史蔡曦等を遣わし、表文一通を齎捧し、義字等号の船隻に坐 駕し、金鞘腰刀二把・銀起花*銀鞘腰刀二把・螺鈿鞘鍍金銅結束袞刀二 十把・紅漆*鞘鍍金銅結束袞刀一十把・鍍金銅結束線紮*紅漆鞘腰刀三 十把・鍍金銅結束螺鈿*鞘腰刀三十把・沙魚皮*銅結束黒漆鞘腰刀八十 把・鍍金銅結束□綵線穿鉄甲一領・五綵線穿護腿鉄□一対・鍍金銅線穿 手套一付・鍍金銅護*一付・鍍金銅頭*一頂・金箔彩画募風一対・両面 泥金彩画黒骨扇二百把・泥金次等彩画黒骨扇一百五十把・貼片金墨画粘 骨扇二百把・色布穿馬鉄甲一付・馬鉄面一箇・象牙五百簧・束香二百簧・ 檀香二百簧・磨刀石二様‐共に重さ四千簧・馬一十五疋・硫黄二万簧を 装載して京に赴き謝恩す。咨して施行せられんことを請う。  一件番貨の事。所有の附搭せる各船の蘇木・胡椒は奏して常の給与に 加えて絹疋を賜えば、航海遠人をして利便ならしむるに庶からん。咨し て施行せられんことを請う。  謝恩等の事のためにす 成化十五年九月二十六日 [注1尚真 第二尚氏三代の王。在位一四七七〜一五二六年。尚円の  子。約五〇年の治政で、官人組織・神女組織を整備して強力に中央  集権化を推め、また宮古・八重山を服属させるなど古琉球王国の最  盛期を築いた。しかし中国への進貢は、一年一貢への努力を続けた  が果せず、この期以降二年一貢が定着した。] [一三三 中山王尚真より中国あて、進貢使節のすみやかな通交を乞う執照文]  琉球国中山王尚真、謝恩等の事のためにす。なお正議大夫程鵬を遣わ し、ともに使者泰那を差わし、箋文一通を齎捧し、礼字号海船一隻に坐 駕し、馬一十疋・硫黄一万五千簧ならびに腰刀等の物を装載して京に赴 き皇太子殿下に進謝す。所拠のいま差去せる人員は別に文憑なし。誠に 所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。王府除外、いま玄字一十九号 半印勘合執照を給し、存留在船通事梁能等に付して収執して前去せし む。もし経過の関津去処を把隘し、および沿海の巡哨官軍の験実に遇わ ば即便に放行して留難して遅留不便を得ることなからしめよ。所有の執 照は須く出給に至るべき者なり。  いま開す、京に赴く   正議大夫一員は 程鵬   使者三員は 尼是 王馬佳尼 模都布   通事一員は 梁徳    人伴は二十一名   存留在船通事一員は 梁能    火長は 鄭文生    管船直庫は 他魯毎     梢水は二百五名  国王の附搭は蘇木五千簧・胡椒一千五百簧・番錫一千簧なり。   右執照は存留在船通事の梁能等に付す。これを准せり。 成化十五年九月二十六日  謝恩等の事   執照 [一三四 中山王尚真より礼部あて、皇太子への冊封の謝恩ならびに礼物献上についての咨文]  琉球国中山王尚真、謝恩等の事のためにす。いま各件の事理をもって まさに開坐を行うべし。移咨して照験施行せられんことを請う。須く咨 に至るべき者なり。   計(一件)  一件謝恩の事。成化十五年八月初二日、欽みて欽差正使兵科給事中 董旻・副使行人司右司副張祥、官軍人等を率領して海船一隻に坐駕し、 国に到るを蒙る。詔書・勅諭を開読したるに、冠服・礼物を頒賜し、真 を封じて王となし、および王妃に綵幣を賜え。ならびに先父王尚円を賜 祭せよ。これを欽めよやとあり。欽遵してともにすでに奉受するの外、 所有の欽奉せる詔諭は上年の封王の事例に照依して番国に留鎮せしむる の外、理としてまさに通行すべし。いま特に王舅馬怡世および正議大夫 程鵬・長史蔡曦等を遣わし、箋文一通を齎捧し、礼字号海船一隻に坐駕 して、銀*黒漆鞘竜文腰刀二把・線紮*銀結束洒金漆鞘腰刀二把・紅漆 *鞘鍍金銅結束袞刀一十把・鍍金銅結束線紮*紅漆鞘腰刀六把・鍍金銅 結束線紮*螺鈿鞘腰刀五把・沙魚皮*紅漆鞘銅結束□刀八十把・泥金彩 画黒骨扇一百把・貼片金墨画粘骨扇一百把・銀箔彩画募風一対・馬一十 疋・硫黄一万五千簧を装載して、京に赴き皇太子殿下に進謝す。煩為わ くは具啓せられよ。咨もて施行せられんことを請う。  成化十五年 [一三五 孤子(尚真)より冊封使(董旻、張祥)あて、謝礼についての書簡]  孤子、書を天使相公閣下に復す。ここに審かにしたるに、星槎遠く微邦 に臨むは、ただ草木の回春するのみにあらず、かつ孤等歓忻して感戴せ ざるはなし。ただ東洋の万里をもって、歴風涛の険、蛟竜の虞を冒す。 大人その険難に臨めば、すなわち天に*り霊に叩きて来る。聖天子の洪 恩、大人の仗節を仰荷し、孤感激すること再三なり。心に銘じ骨に刻む と雖も、もって万々一に称報するに足らざるなり。辱くも書札を賜わ るに、詞豊にして誼渥く、愛は骨肉を踰え、故人拳々の意を仭すに足る なり。ただ微邦は鄙陋にして、廩軛菲薄にしてもって長者の待をなすべ きなきを愧ず。懐悚懐悚。僣に微物をもってし、もって長者の寿をなす も、相公謙丐してこれを却く。懐懼懐懼。孤礼を失するところ多くあ り。孤聞く、幣帛はそれ敬を致す所以なり。苟にも物をもって、その敬を 寓せざれば、すなわち孤また安んぞ敬を存するところあらんや。大人の 高誼は上下神祗のともに知るところなり。また諭を蒙りてもって仁を舒 いて下を撫し、忠を篤くして上に事う。またもって大人教愛のいよいよ 篤きを見る。父子と雖も、もってこれを踰ゆるに足らざるなり。感荷感 荷。孤謹みて書を致す。伏して望むらくは大人俯領すればこれ願うとこ ろなり。もしそれ寸忱を図報するも、すなわちまた心にありて、物にあ らざるなり。これを敬みて書復す。切に鑑念を希う。不宣。  成化十五年十月 [注1懐悚懐悚・懐懼懐懼 書牴用語。おそれおそれる。まことに恐れ  入っております。2感荷感荷 書牴用語。ありがたやありがたや。  めぐみに感じてありがたく思う。] [一三六 冊封副使張祥より中山王尚真あて、礼金を辞すについての書簡]  欽差副使右司副張、□書を琉球国王に申奉す。惟うに交際は幣をもっ て敬となし、律身は廉をもって賢となす。故に曾子は魯において幣裘な るもその□を受けず、孟子は斉において兼金せらるも必ずその餽を却 く。古昔の大賢は□故に是がために、風俗華常にして釣名・沽誉する や。これを悪傷うるのみ。某、頃者聖天子の威命を欽奉して中山に副 使す。月を計るに凡そ三、饗をなすこと凡そ□、□饗、食に値たるに金あ り。すなわちかつて筵席をば固辞すること再に至り三に至る。王曰く、 これをもって敬を将めんとすと。百官族姓声を同じくしてこれに和す。 時に某、雅意に副わんとして、暫く侍者に命じて之を巻めしむ。而れ ども実に中懐は忸怩たり。…刺を負いて針に坐す。寧処に遑あらず。 況や中華の治は礼義を崇び、俗は廉恥を尚ぶ。金玉は宝にあらず。人 これがために**飾わざれば、時に歯せず。某、不敏にして朝臣中にお いて車載斗量の数なるのみと雖も、又安んぞ敢えて自ら汚し、以て先賢 の教に負き、文明の治を抔しめんや。必ず曰く、此を以て敬を将めんと すの意は則ち善なり。某の自処の如きは何ぞ且に恭敬もて幣の未だ将ら れざるに寓せんや。某此において、王の館穀せられ、使の問候せられ、 百司の承奉せらるるを辱くす。敬たること備に至れば、固より此を 待ちて而して後に見ゆるなきなり。王、又曰く、海国は万里にして波涛 *湧たり。又聞く、嘗て颶風甫贔の恐れあり。これ此を以て労を償わん と欲するなりと。辱念するに此に至るは意また円なり。もし義これ可な らざれば、何ぞ傭せられて、人の直を受けんや。猶黽黽として事に従い て敢えて告労せざるがごとし。況や、君の食を食せば、必ず忠君の事に 当る。明命下るあれば、湯に赴き火所を蹈むと雖も敢えて辞せず。故に 古の人…槎に乗りて窮源・犯斗に奉使して避けざる者あるも、亦ただ其 の職分の当に然るべき所なるのみ。何ぞ敢えて自ら以て労となさんや。 琉球は遠く□東の郷に居ると雖も、封建の域たり。瀚海网かなりと雖 も、風迅時に順えば日を計りて渡るべし。借りて曰く、此をもって労を 償うは、蓋し傭うにこれが儔をもってするのみ。豈可ならんや。国王は 春秋鼎盛にして屶祚兩落まる。而して今より後、益々忠貞を篤くし、以 て天恩に答え、務めて仁恵を施し、以て夷醜を撫せば、近きよりして東 南の諸夷、友邦、皆称えて賢なれば則ち孤ならず、と曰わしめよ。天朝 の封ずる所、某これ行きてともに光輝あり。豈これ金の餽に直るのみな らんや。餽らるる所の金物は、悉く故封の如くし故数の如くして大夫・ 長史に給付して納還すれば、往来の僕々を労するなかれ。謹みて書を奉 る。不宣。  成化十五年十月初六日 [注1孟子は…餽を却く 孟子が斉の王から兼金(通常に倍する高価  な金)一百両を餽られたが、入用でない金は受け取れないとして返  した故事(『孟子』公孫丑上)を引いたもので、ここでは孟子が清廉  であったことをいったものであろう。2釣名・沽誉 虚名を得たり  名誉をほしがること。3**…歯せず *・*はともに穀物を盛っ  て神に供える祭器、**飾わずとは転じてワイロを貪る官吏や大臣  をいい、また歯せずで、そのような人は時代に受け入れられないの  意。4車載斗量の数 車に載せたり、ますではかったりするほど物  が多い、人が多いことのたとえ。5館穀 賓客に宿舎と穀物を供す  ること。6告労 労にたえないとして職を退くこと。7窮源・犯斗  奥深いみなもとや山岳地帯。8春秋鼎盛 まさに壮盛の時にあたる  の意。] [一三七 憲宗より中山王尚真あて、二年一貢を定めた勅諭]  皇帝、琉球国中山王尚真に勅諭す。王の奏を得たるに、祖父より以来 朝廷に忠順にして不時に朝貢す。後にその人に非ざるを差わし、憲章を 罹犯するにより、遂に二年一貢の命あり。意うに冗費を裁省するを以て ならんか。いま欲すらくは使臣を選差して年を按じて朝貢せん等の因あ り。事該部に下す。議し得たるに、二年一貢は専ら差来人の人を擾して 法に違うがためにして、冗費を裁省するためには非ず。先年巡撫等の官 累に奏すらく、王国使臣貢する所の方物をもって、指して中国内外の官 員に饋送するを以て花銷と名づけ、己に入れて中国を点汚す。また福建 懐安県地方にありて殺人放火し、居民の財物を強劫し、および長史蔡撥 等は私に蟒竜衣服を造る。多端の違法ともに顕跡ありと。朝廷これによ り定めて二年一貢の例となす。豈冗費を裁省するためならんや。この例 すでに定まる。再び紛更し難し。勅至らば王宜しく旧に照らして二年一 貢、それ在船の人数ならびに正貢附搭の方物を遵守すべし。使臣に夾帯 を与すは違法なり等の因あり。ともに前勅に載す。いま再及せず。ここに 勅して使臣馬怡世に付して齎回して省諭せしむ。王それこれを□……。 故に諭す。  広運の宝 成化十六年四月二十一日 [注1花銷 費用、経費、生活費等のこと。] [一三八 満剌加国王より琉球国王(尚真)あて、貿易および礼物贈答についての咨文] 満剌加国王、謹んで琉球国王殿下に奉る。恭しく聞くに、中華唐朝 の聖恩もて臣が年六歳に方るを宥け、神恩もて小邦の安泰なるを保佑す るに感謝す。伏して望むらくは、琉球父王、多く勅書・封賞を欽賜蒙ら れんことを。専ら使臣沈満志・通事鄭珞等を差わし、宝船に坐駕して、 方物を装載し、前来して齎捧す。商旅踵を接して継ぎ至る。奈んせん海 遼夐にして酬謝して、具に優待倍然なるを告ぐること能わず。彼処へ 来きて貢謝せんと欲するも、凡そ船隻便ならずとなす。永遠交隣の道を 懐念し、これをもって特に信義薄礼の心を修め、少しく至情に答えん。 収受して笑納せらるれば万幸なり。父王、窮番を哀憐し、伏して世代往 来、興感恵珍を候む。星分は翼軫にして土沃え財富む。ここをもって遠 客商聚す。すなわち所属をして早く買売をなさしめば勝意平安ならん。 来使を転責して、風迅に遅留せずして回国すれば、実に便益となすに庶 からん。咨する者なり。  いま開す、礼物   山南不十疋 生巳殺十疋 南母 十疋   山南不文地里十疋 火 外十疋 成化十六年二月 日 奉行す [注1中華唐朝 外国人はもとより、中国人自身でも自らを指して唐朝  ともいった。2星分は翼軫 星分は星の分布、翼軫はともに二十八  宿の星の名で方位は南。つまり、琉球は南方に位置しているが、の  意。3来使を転責して 来使に注意するほどの意か。] [一三九 満剌加の楽系麻拏より琉球国王(尚真)あて、難船琉人の救助につき褒賞を願う書簡]  満剌加楽系麻拏、琉球国王殿下に拝奉す。拝知して聞き得たるに、 宝船一隻打されて交趾にありて水を失い、交趾人とあい殺すと。聞き 得たる楽作麻拏、小船一隻を差使して、前みて占城地面に往きて根尋 す。得着たるにただ人口二名あるのみ。それ日久しからずして一名は病 故す。いま琉球国王差来せる使臣、通事鄭珞等国に到る、売買平安にし て本国に回還せんとするあり。円に楽作麻拏は満刺加の奴婢にして、也 是琉球国王脚下の奴婢なり。かくの如ければ所有の人口一名は代りて字 しみ、我が王殿下に奉来す。乞うらくは腰刀一把・榜身一个、馬鞍一付 を賜えと。乞いて来らせば奴婢用いる所顕見ならん。奴婢ここにあり、 年々宝船来往すれば酬保をあい増さん。煩わくば奴婢永遠の心を念われ よ。 国王万々歳なり。  成化十六年三月初二日 楽作麻拏拝す [注1楽系(作)麻拏 マレー語のラクサマナで海軍司令官。満刺加史  上普通に現われる重要官職という(小葉田淳『中世南島通交貿易  史の研究』)。2交趾 コウシ、漢代のトンキン(湾)地方の郡名。  現在のベトナム北部の古称。3占城 チャンパ。インドシナの東海  岸で現ベトナムの中部にあった国。中国では奏代に林邑国と称した  が、唐末以後占城(占婆他)と称した。香木を産し、インドと中国  の貿易中継地であったが、十七世紀末ベトナムの南下により滅亡。  4我が王殿下 ここでは琉球国王を指したものであろう。] [一四〇 暹羅国王より琉球国王(尚真)あて、難船人の送還についての咨文]  暹羅国王謹んで琉球国王殿下に咨回す。恭しく惟うに天を体して道 を行うはもって善なり。民を牧して徳を盛んにすれば孤ならず。仁親を 宝となす。曩古より今に至るまで、両国財を通ずるの美あり。迩に至り 遐を歴て、有を貿し無を易うるの交あり。常に遣使して来たり。絡繹し て絶えず。況、前歳、使臣澹馬巴等を差わして来到するも、不幸にして 船財、殃を被るは皆これ命なり。新たに舟航一隻を措けて、専ら正使奈 悶英謝替・副使奈曾謝替・通事奈栄等を差わし、方物を装載して、 正副使等を伴送して貴国に回還せしむ。舟行将近して、また風水に遭い て船洋中に溺し、人亡し財散ず。近ごろ咨の来たるを蒙けて方めてその 事を知る。これすなわち天の降せる禍なり。或いは番衆の逃命して存す る者あり。みな発揮して回来するに頼り、実に伶恤をなす。差を蒙くる の使臣泰刺・通事紅錦等咨を持ちて礼を厚くし、数に依りて収め訖る。 之を回さんとすれば及ばず。之を受けんとすれば愧あり。いま護送の奈 *を差わし、番梢三名を帯領して、咨を計ちて礼を齎し、来使に随同し て前来して貴国に回す。伏して乞うらくは、海涵もて允納せられよ。も って献芹の意を表す。伴送の来使望むらくは早かに本国に回るを賜わら んことを。須く咨に至るべき者なり。   いま開す、礼物    蘇木三千簧 紅布一十匹   回奉の礼物    蘇木二万簧  右、琉球国王に咨す (成化十六年) [注1仁親 親しむべき人、愛すべき人。2奈悶英謝替 奈は上位の位  階をもたぬ人につく称号の一つ。悶英は人名。謝替はチャオターで  港務官の意。以下、奈曾謝替、奈栄も同様(東恩納寛惇『黎明期の  海外交通史』参照)。3逃命 命からがらのがれること。 ※暹羅国の位階については東恩納寛惇『黎明期の海外交通史』に詳し  い。それによると、位階は七等に区分され上位から、一パヤ、二オ  ックヤー、三オック・プラ、四オック・ルワン、五オック・クー  ン、六オック・ミューン、七オック・パンである。また中国の『大  清一統志』では九等に分けられ、一握亜住、二握歩喇、三握蟒、四  握坤、五握悶、六握文、七握板、八握郎、九握救となっている。] [一四一 暹羅国礼部尚書の屋把粘摩訶甼陀烈より琉球国王あて、遭難琉使の護送および礼物についての書簡]  暹羅国、礼部、尚書屋把粘摩訶甼陀烈、琉球国王殿下に啓す。前歳使臣澹 馬巴等を差わして来到す。不幸にして船財、殃を被るは皆これ命なり。 新たに舟航一隻を措け、専ら正使奈悶英謝替・副使奈曾謝替・通事 奈栄等を差わし、方物を装載して、正副使等を伴送して貴国に回還せん とす。舟行将近して、また風水に遭いて船洋中に溺し、人亡し、財散 ず。近ごろ咨の来るを蒙けて方めてその事を知る。これすなわち天の降 せる禍なり。或いは番衆の逃命して存する者あり。咸発揮して回来する に頼り、実に怜恤をなす。差を蒙くるの使臣泰剌・通事紅錦等咨文・礼 物等を持し、および管事官列位に賜い、ともにすでに行じて数収め訖 る。之を回さんとすれば及ばず。之を受けんとすれば愧あり。いま護送 の奈*を差わし番梢三名を帯領して、咨を炉ちて礼を齎し、来使に随同 して前来し殿下に回貢す。伏して乞うらくは海涵もて允納せられよ。も って献芹の意を表す。伴送の来使望むらくは早かに本国に回るを賜えば 便益なり。鑑納せられよ。不宣。  いま開す、屋把粘摩訶甼陀烈回奉す   紅鎖袱一疋‐長さ一丈六尺 薔薇露水五罐 香花紅酒三縛   蘇木一千簧  冒坤孛陀屋回奉す   西洋紅布二条 薔薇露水二罐 香花紅酒三縛  奈勾歌沙回奉す   手巾織花糸黄布一条 蘇木六百斤  長史奈悦本   香花紅酒一縛 蘇木四百斤 成化十六年三月二十三日 [注1屋把粘摩訶甼陀烈 屋把粘はシャム語のオック・プラで、位階七  等中の第三位の上級位の称号。摩訶はマハーで梵語に由来し、大の  意。高級の人名につけられる。甼陀烈はサットレで人名(東恩納前  掲書、以下同)。2冒坤孛陀屋 冒坤はオークン(オック・クーン)  で位階の第五位、孛陀屋は人名。3奈勾歌沙 奈は前項の注と同で  七等の位階をもたぬ人につける称号。歌沙はコーサーで人名。勾は  人名に含まれるかどうか不明。4奈悦本 奈は前同、悦本は人名。 ※本項で、屋把粘摩訶甼陀烈や奈悦本に、礼部尚書や長史の片書がつ  いている。これは礼部や長史(司)など中国の官制・官職が暹羅で  行われていた、取入れられていた、と見るよりも暹羅の位階のみが  一般的でもあり便宜的に借用したと見るべきであろう。] [一四二 暹羅国の長者名下の奈羅思利より琉球あて、謝恩についての書簡]  暹羅国の長者名下の奈羅思利、頓首百拝す。貴国王万々歳にして純 誠・仁徳の心もて、毎年咨来たりて絶えず。区々たる思念休まず。隻船 に駕して国に到りて謝恩せんと欲するも、思うに国に賢者の海道に知達 し、貴国殿下に至りて拝謝すべき無きに苦しむ。いま寄来の船をもって 香花白酒一縛、紅酒一縛を上る。  成化十六年四月十二日 奈羅思利百拝して仰望す [注1長者名下の奈羅思利 長者名下は不明。奈は前注と同で高位の人  物ではない。羅思利は人名。ロシリー、またはロシーであろう(東  恩納前掲書)。] [一四三 暹羅国の長史の蕭奈悦本より琉球あて、礼物贈与についての書簡]  暹羅国の長史の蕭奈悦本、誠に上命を奉じて、去歳において宝船前 来するも、火焼して倶に空くするは天命に係由る。本国王正使奈悶英 謝替、副使奈曾謝替・通事奈栄等を差わし、海船一隻に掌駕して、 特に正使澹馬巴・副使社納奇・通事鄭興等を送り、咨文を順齎して并び に方物を奉じて回国せんとするも、風水便ならざるにより暹羅に回還し、 押冬して修船す。今まさに打発して前みて回国せしめんとす。また端に 貴国王正使倪実・通事鄭珞等を差わし、咨文并びに奉謝の礼物を順齎し て、および管事の列位に送り、倶にすでに収受を行いて洪恩の咨、洪厚 の徳を感鑑す。なお事例に照らして、すみやかに理物をもって打発す。 来使回還すれば、賢王もって両国の同一家の如きの好みを見て、往来し て通情せん。乞うらくは薄意を留められよ。鑑納せられよ。不宣。  いま開す、回奉   屋把(粘)摩訶甼陀烈 緑鎖袱一匹   (冒)坤孛陀屈 香花酒一縛   奈勾歌沙 上水花布一十条  一件 暹羅国差せる正使奈悶英謝替等の船隻の外   礼物 一蜜林檎香白酒二十一縛 一蜜林檎香紅酒二十九縛 [注1蕭奈悦本 蕭奈は位階かどうか不明。悦本は人名。一四一項の奈  悦本と同一人か。 ※本項の文書は内容からすると、澹馬巴らの船が出発する前、未だ遭  難しない成化十六年三月以前のものである。項目の上でも一四〇項  より以前におかるべき文書である。] [一四四 満剌加国の楽索摩拏より琉球国王あて、返礼物の献上についての書簡]  満剌加国、琉球国王殿下に回奉す。道もて契り、万民を撫字す。太山 これ瞻ぐがごとし。政は、清濁に優游し、廉恥才名を激ますを得る。七 類は台端に布まり、正色の憲度を推し、すでに威霊を伸ばす。日月を双 佩し、天命を参照して而して人心を順う。錦銹の佳賓たり。身は太平を 致すはこれ遠き親朋なればなり。世代大明国に奉謝す。兄王の乾坤の福 禄は、万々子孫を栄修し、天幾の命運もて太平の景を亨く。ここに、使 臣通事等をもって船隻・礼物を前来せしめらる。国に到れば平安にして 並えて法禁なし。所属をして買売せしめ、早きに勅もて金花・御酒を封 じ、登途の衆臣をして回国せしめ、山河に坐して万歳山呼するを愿わ ん。  楽索摩拏 琉球国王殿下に拝謝す。馬安山到る。  いま開す、礼物 吉地布二十个 林母拏十二个 星幾指十四个 山南比四个  成化十七年三月 日 奉行す   礼物の事 [注1道もて契り 道をもって契を結ぶ。道の奥義を悟る。2馬安山   不明、人名か。] [一四五 暹羅国王より琉球国王あて、琉球使節の遭難および返札物献上についての咨文]  暹羅国王謹んで咨して琉球国王殿下に回奉す。心は孝友、賦性は温文 なるにより、宝祚を万年に延べ、至仁を外国に施す。それ邦たるの道、 貴ぶこと睦隣にあり。常に遣使してもって相通じ、もって無を貿して有 を易う。前使遣来するも不幸にして風に遭う。傷嗟、屍は潮*に飄いて 命は洋中に殞とす。すなわち天の喪う者ならんか。後に奈*を遣わして 使となし、番従三名を帯領して、便によりて搭来し実情を啓探せしむ。 遣を蒙くるの使武志馬等、咨を齎して駕舶し、護送して国に到る。附来 の厚礼は数によりて収め訖る。春景まさに暮れなんとす。貴使武志馬等 貴国に還らんことを告ぐ。謹みて薄菲の儀を備えて回使に附与し、前来 して殿下に酬謝す。伏して希わくば海納せられよ。春育これ幸なり。須 く咨に至るべき者なり。   いま開す    蘇木三千斤 紅布一十疋   一回奉の礼物    香花酒上等一縛‐内に椰子香花酒五縛あり  右、琉球国に咨す 成化十七年三月十五日  咨す [一四六 暹羅国王より琉球国王あて、礼物献上についての咨文]  暹羅国王謹みて回咨するものなり。それ貴国と交を托するは旧あり、 好を通ずるは新に従う。契闊を思うにより、一道の咨文を回奉す。問安 を欠曠すれば謹みて数項の菲儀の礼物を聘す。前使遣来して風水の災に 遭うは、すなわち天の数となすなり。豈易うるべけんや。後に奈*等 を遣わし虚実を来探せしむ。国に送還し、讃羨寵賜するを蒙り、厚待 感徳すること奚ぞ忘れんや。ここに絮うに、琉球国王殿下は天生聖質、 叡智聡明にして、徳は唐虞に及び、仁は文武に同じ。正副使倪始等を遣 わし、咨二道を齎し、重礼を蒙り、ともに収めるの外、いま客使倪始等 本国に回らんことを告ぐるあり。瓊瑶の報なきといえども備うるところ の信物は、風によりて附寄す。報と云うに匪ざるなり。伏してここに海 納せられよ。聊芹情を表せば、両つながら雅懐に称い、一室するに同 じきが如し。須く咨に至るべき者なり。   いま開す、回する礼物     蘇木三千簧 紅布一十匹   一答謝の礼物    香花酒上等二縛‐内に椰子香花酒五縛あり  右、琉球国に咨す 成化十七年三月十五日 [注1契闊 久しく会わないこと、無沙汰。2唐虞 中国古代の伝説  時代の帝王である陶唐氏の波と有虞氏の舜のこと。ともに徳の高い  天子。3文武 周の文王と武王のこと。ともに英王として名高い。  4瓊瑶の報 瓊瑶については一一七項の注2を参照。瓊瑶の報は、  りっぱな贈物、土産の意であろう。] [一四七 中山王尚真より礼部あて、官生の派遣についての咨文]  琉球国中山王、例に照らして本国陪臣の子弟を送りて入監読書せしめ んが事のためにす。切に本国は海中に僻在するにより、すでに学校の 育才なし。いずくんぞ経書をこれ講習することあらんや。天朝しばしば 延臣を遣わして、遐国に俯臨するを蒙るといえども、終に識字の人才鮮 し。切に詳するに夷人不学して衣冠は□□□といえども何ぞ殊ならん。 反って□俗いよいよ乖訛を致すを恐るなり。いま本国官……を遣わし、 □貢船隻前来す。乞うらくは永楽および宣徳年間の事例に照らして口 糧・船隻・脚□を給付せられよ等の因あり。京に赴き入監読書せしむれ ば、これがため福建布政使司に移咨す。乞うらくは朝廷柔遠の意を体 し、ともに天朝の教化に沐し、咸済々の俗とならん。煩為わくば旧例に 照依して転達施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  成化十七年八月十二日   咨す [※本項は官生制度復活を記した文書である。察度代の一三九二年に開  始された官生(中国国子監への留学生)派遣は、当初寨官の子弟  (琉球人の子弟)が官生に充てられたが、一四一一年以後しばらく  中断し、本項の成化十七年(一四八一)に至って復活した(派遣は  翌年)。ただこれ以後の官生は、十八世紀末の官生騒動時まで、専  ら久米村人子弟のみが充てられた。成化十七年時点での官生制度の  復活と人選の改変は、寨官の子弟が国用に立たなかったこと、およ  び帰化人である久米村人の土着化の進行によると推測される。] [一四八 憲宗より中山王尚真あて、遣使の人選についての勅諭」  皇帝、琉球国中山王尚真に勅諭す。近ごろ王、使臣梁応を遣わし、進 貢して京に至る。誠意を備悉して、礼をもって撫して還さしむるを除く の外、然るに、事ありて王に与えて言えらく、日者海外諸国ならびに西 域の番王等差来の人員、往往沿途にて多く船馬を討め、貨物を夾帯し て、私塩を装載して人口を収買す。飲酒撤発して駅逓を騒擾す。違う事 ただ一端のみに非ず。各該巡撫・巡安・守土等の官、しばしば章もて陳 奏す。国法に依りて之を治せんと欲すれば、念うに遠人に係る。法をも って之を治せざらんと欲すれば、則中国の人その害を被る等の因あり。 朕惟うに已往は必ずしも追究せざるも、将来はなお開導すべし。今後王 の差人の来貢は須く大体を暁知し礼法を遵守するの通事・番人を選択す るを要し、毎起一・二名、夷伴を量りて、厳に戒飭を加え、往回するに 小心安分せしめ、前項の非為を作さしむ毋れと。もって奉使の礼を尽く し、もって納款の忱を伸ぶれば、王国の人もって保全を得しめ、朕が中 国守臣等は煩擾を免かるるを得て、彼此両つながら有益たるに庶から ん。王それ朕が至懐を体せよ。故に諭す。  広運の宝 成化十八年五月初六日 [一四九 中山王尚真より礼部あて、慶賀使派遣についての符文]  琉球国中山王尚真、慶賀等の事のためにす。先ごろ王舅等の官馬審礼 等を差わすにより、京に赴き謝恩し、欽蒙せる詔書・勅諭を齎捧して回 国す。開読したるに、恭しく皇上の宝位に嗣登するに遇う。合に進賀を 行うべし。いま特に王舅麻勃都を遣わし、正議大夫梁得等とともに表箋 文各一通を齎捧して、仁字号海船一隻に坐駕し、絶細漂白土夏布三十 匹・絶細生土夏布一十匹・金粉匣一対‐共に重さ八両、銀粉匣一対‐共 に重さ一十両・束香二百簧・胡椒二百簧・硫黄二万簧・馬一十五疋を装 載して京に赴き、皇后殿下に慶賀す。なお礼部に赴き進収するを告稟す るの外、ここに諭遣を承け、途に在りて遅滞して不便を得ることなから しめよ。須く出給に至るべき者なり。   いま開す  赴京の王舅一員は 麻勃都     正議大夫一員は 梁得     使者三員は呉実 韓俊 銭広     都通事一員は蔡搏      人伴は二十二名    国王附搭は蘇木四千簧・胡椒一千簧・番錫四百簧 弘治二年九月十二日  右符文は使者呉実および都通事蔡搏等に付す。これを准す。  慶賀等の事 符文 [一五〇 中山王尚真より暹羅国あて、貿易についての執照文]  琉球国中山王尚真、進貢等の事のためにす。切に照らすに本国は産物 稀少にして貢物に欠乏し、深く未だ便ならずとなす。これがためいま正 使勿頓之玖・通事梁敏等を遣わし、寧字号海船一隻に坐駕し、磁器等の 物を装載して、前みて暹羅国出産地面に往き、両平に蘇木・胡椒等の物 を収買して回国し、預め下年の大明天朝への進貢に備えんとす。所拠の いま差去せる人員は別に文憑なし、誠に到処の官司の盤阻して便ならざ るを恐る。王府、除外いま玄字一百七十二号半印勘合執照を給し、正使 勿頓之玖等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘 し、および沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行し留難して因り て遅留不便を得ることなからしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき 者なり。  いま開す   正使一員は 勿頓之玖   副使二員は 仮土 参魯毎   通事二員は 梁敏 蔡樟    火長は 林椿    管船直庫は 麻加尼    吮水は共に一百二十名 正徳四年八月十八日   右執照は正使勿頓之玖、通事梁敏等に付す。これを准す。  進貢等の事のためにす   執照 [一五一 中山王尚真より満剌加国あて、進貢品購入使節の派遣についての執照文]  琉球国中山王尚真、進貢等の事のためにす。切照に本国は産物稀 少にして貢物に欠乏す。深く未だ便ならずとなす。これがためいま正使 佳満度、通事高賢等を遣わし、康字号海船一隻に坐駕し、磁器等の貨を 装載して前みて満剌加国の出産地面に往き、両平に蘇木・胡椒等の物を 収買して回国し、預め下年の大明天朝への進貢に備えんとす。所拠のい ま差去せる人員は別に文憑なし。誠に到処の官司の盤阻して便ならざる を恐る。王府除外にいま玄字一百七十四号半印勘合執照を給し、正使佳 満度等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、 および沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行して、留難して因り て遅留不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者 なり。いま開す  正使一員は 佳満度  副使二員は 麻寧球 吾剌毎  通事二員は 高賢 高賀  火長は 梁実  管船直庫は 麻勃他  吮水は共に一百五十名 正徳四年八月十八日   右執照は正使佳満度・通事高賢等に付す。これを准す。  進貢等の事のためにす   執照 [一五二 中山王(尚真)より安南国あて、奉謝礼物の贈答使節派遣についての執照文] 琉球国中山王、礼儀を奉謝せんが事のためにす。いま特に正使正議大 夫鄭玖・副使馬沙皆・通事鄭昊等を遣わし、咨文一道を齎捧して、およ び信字号海船一隻に坐駕し、硫黄一万簧・鍍金銅結束青皮兼線殼鉄甲一 付・金結束金竜*黒漆鞘腰刀二把・金結束兼鍍金事件腰刀六把・鍍金結 束螺鈿*紅漆鞘笆刀二把・鍍金銅結束螺鈿*黒漆鞘鎗二把・桑木弓四 張・貼金竿鷹毛爻沂一百二十茎・各色嫩夏布一百匹・生鉄二千簧を装載 して安南国に赴き、進みて万寿大王殿下に謝す。所拠のいま差去せる人 員は別に文憑なし。誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。王府 除外に、いま玄字一百七十六号半印勘合執照を給し、正使正議大夫鄭玖 等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、およ び沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難してよりて遅留 不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。  いま開す   正使正議大夫一員は 鄭玖    副使二員は 馬沙皆 梁*    都通事一員は 鄭昊    副通事一員は 梁俊     管船直庫火長二名は 高義 烏是     吮水は共に一百三十名 正徳四年十月(初)九日  右執照は正使正議大夫鄭玖・通事鄭昊等に付す。これを准す。  執照 [一五三 中山王(尚真)より巡達等の国あて、進貢品購入使節の派遣についての執照文]  琉球国中山王、見に進貢等の事のためにす。切に照らすに本国は産物 稀少にして貢物に欠乏す。深く未だ便ならずとなす。これがため、いま 正使栢古・通事蔡樟等を遣わし、寿字号海船一隻に坐駕して磁器等の貨 を装載し、前みて巡達等の国の出産地面に往き、両平に蘇木・胡椒等の 物を収買して回国し、預め下年の大明天朝への進貢に備えんとす。所拠 のいま差去せる人員は別に文憑なし。誠に所在の官司の盤阻して便なら ざるを恐る。王府除外に、いま玄字一百九十六号半印勘合執照を給し、 正使栢古等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘 し、および沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因 りて遅留不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき 者なり。  いま開す  正使一員は 栢古  副使二員は 吾剌毎 高彼比  通事二員は 蔡樟 鄭昊   火長は 梁瑞   管船直庫は 他魯毎   吮水は共に二百二十六名 正徳八年八月初七日  右執照は正使栢古・通事蔡樟等に付す。これを准す。 進貢等の事のためにす  執照 [一五四 中山王(尚真)より仏大泥国あて、進貢品購入使節の派遣についての執照文] 琉球国中山王、見に進貢等の事のためにす。切に照らすに本国は産物 稀少にして貢物に欠乏す。深く未だ便ならずとなす。これがため、いま 正使毛是、通事鄭昊等を遣わし、寧字号海船一隻に坐駕して、磁器等の 貨を装載して前みて仏大泥国の出産地面に往き、両平に蘇木・胡椒等の 物を収買して回国し、預め下年の大明天朝への進貢に備えんとす。所拠 のいま差去せる人員は別に文憑なし。誠に所在の官司の盤阻して便なら ざるを恐る。王府除外に、いま玄字二百五号半印勘合執照を給し、正使 毛是等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、 および沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難してよりて 遅留不便を得ることなからしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者 なり。  いま開す   正使一員は 毛是   副使二員は 呉実 馬参魯   通事二員は 鄭昊 高義    火長は 宗逐    管船直庫は 南比     吮水は共に二百九名 正徳十年八月十二日  右執照は正使毛是および都通事鄭昊等に付す。これを准す。 進貢等の事のためにす  執照 [一五五 中山王尚真より中国あて、官生派遣についての執照文]  琉球国中山王尚真、例に照らして官生を起送し、入監読書せしめんが 事のためにす。切に本国は海島に僻居するにより、すでに学校の育才 なし。いずくんぞ経書をこれ講習することあらんや。おおいに惟うに、 我が太祖高皇帝の旧章の内に開すらく、大琉球国は朝貢不時にして、王 子および陪臣の子は皆太学に入りて読書せしむとあり。礼待はなはだ厚 し。洪武より以来、恩例を欽蒙す。これがため、特に官生蔡廷美等を遣 わし、進貢船隻に順搭し、前来して入監読書せしめんとす。所拠のいま 撥去せる生員は別に文憑なし。誠に到る処の官司盤阻して便ならざるを 恐る。王府除外に、いま玄字二百三十六号半印勘合執照を給し、官生蔡 廷美等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、 および駅逓の官吏人等の験実に遇わば、即便に放行して、留難してより て遅留不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者 なり。いま開す  南京国子監に赴く、官生四名は    蔡廷美 鄭富 梁梓 蔡浩   人伴四名は 馬勃他 鄭勿度 三郎 麻志羅  国王、官生に胡椒八百簧を給与し、貢船に順搭して前み去かしめ、  依りて盤纒に資せしむ 嘉靖二年八月十七日  右執照は官生蔡廷美等に付す。これを准す。 入監読書の事のためにす  執照 [注1官生 中国への国費留学生。中国では中華思想の喧伝・冊封体  制の維持強化のため夷風の教化を目的として、朝貢国等からの留学  生を受け入れ、国子監等で学問(四書五経)や礼義を学ばせた。沖  縄では明代の一三九二年に第一回の派遣がなされた。当初は一回に  つき三〜四人で、期間は五〜十年であった。一四七項の項注参照。  2蔡廷美 久米村蔡氏の六世。生没年不詳。一五二三年官生として  留学後、計五度進貢通事等として渡唐した(「蔡氏大宗家譜」)。一  五四一年には、通商のため那覇に停泊中の中国船同志の争いに介入  し、海賊として財は没収、身柄は拘束して中国へ送還したため、中  国側の反発を買った(『明実録』)。] [一五六 世宗より中山王世子尚清あて、冊封の詔]  天を奉け運を承くるの皇帝、詔して曰く、朕うやうやしく天命を膺 け、天下の君となる。およそ庶政を推行するには、必ずその古礼を斟酌 し、其錫爵の典においては、いまだかつて海内外をもって間あらず。爾、 琉球国は、遠く海浜にあるも久しく声教を被る。故国王尚真つとに顕封 を紹ぎすでに四紀を踰ゆ。ここに聞くならく、薨苺せりと。属国請封す るに、世(子)清の徳は惟れ類に克り、衆心の帰する所なれば、宜し く国統を承くべしと。朕、篤く懐柔の義を念い、もって敬順の誠を嘉す べし。特に正使吏科左給事中陳侃・副使行人司行人高澄を遣わし、詔 を齎し往きて爾を封じて琉球国中山王となす。なお皮弁冠服等の物を賜 う。王宜しく慎しむべし。乃初服なればますます忠勤を篤くし、前烈を 光かすことあれ。およそ国中の耆俊の臣僚はそれとともに寅しんで翼賛 し、協力匡扶せよ。尚わくば上に事うるの心を殫くし、恪しんで臣藩の 節を尽くさば、海邦を保守し、永く寧謐に底らん。もって我が同仁の化 を弘め、ともに太平の休を享けん。故に茲に詔示して、咸に知悉せしむ。  皇帝の宝 嘉靖十一年八月 日 [注1尚清 第二尚氏王統四代の王。一四九七〜一五五五年。尚真王の  五子。治政中、『おもろさうし』第一巻の編集(一五三一)、奄美大  島の与湾大親の乱の平定(三七)、また那覇港の防御のための屋良座  森城の築造(五三)等をなした。一方で、中国との進貢貿易は徐々  に衰退に転じていった。2陳侃 尚清王の冊封正使。浙江*県の  人。生没年未詳。一五二四年吏科左給事中のとき渡琉した。約四カ  月滞在。帰国後『使琉球録』を著した。3高澄 尚清王の冊封副  使。順天固安の人。生没年未詳。行人司行人のとき来琉した。 ※本文は嘉靖十一年八月付であるが、実際に陳侃らが来琉したのは二  年後の嘉靖十三年(一五三四)のことである。] [一五七 世宗より故王尚真への諭祭文]  崇元寺において祭礼を行う。これその祭文なり。左記す。 諭祭文  これ嘉靖十一年歳次壬辰 月朔日、皇帝、正使吏科左給事中陳侃・副 使行人司行人高澄を遣わし、琉球国中山王尚真を諭祭して曰く、惟うに 王、海邦を嗣守すること四十余載、天を敬い上に事え、誠に恪しみて渝 わらず。永き寿年を宣べ、朕が藩募となる。なんぞ遘疾せん。遽に爾終 を告げ訃音来聞す。良にもって悼惜す。官を遣わして諭祭し、特に殊恩 を示す。霊それ知るあれば、尚わくばよく墹服せよ。  祭品   牛一隻 猪一口 羊一* 饅頭五分 粉湯五分   蜂糖渣一盤 象眼渣一盤 高頂茶食一盤 響糖五箇   酥餅酥*各四箇 纒碗五箇 蜂真香一* 燭一対重一斤   焚祝紙一百張 酒三瓶 [注1崇元寺 那覇市泊にあった琉球国の国孟。臨済宗の寺で円覚寺の  末寺。創建年代は尚巴志・尚円・尚真代と各々所伝がある。歴代国  王の位牌を祀っており、冊封使渡来の際、同寺で故国王の諭祭が行  われた。第二次大戦で堂宇は消失、一部残った石門は現在補修さ  れ、国指定重要文化財となっている。] [一五八 世宗より中山王世子尚元あて、倭寇捕殺、中国人被虜の救助についての勅諭] 皇帝、琉球国中山王世子尚元に勅諭す。近ごろ該提督福建軍務都御史 阮鶚題称すらく、世子国差来の正議大夫等の官蔡廷会等の呈によるに、 倭寇の被風漂流せる船隻、(世)子国の境内に至る。土官馬必度等すな わちよく火を放ちて船を焼き、格殺して殆ど尽くす。内に中国被虜の 人民ありと。蔡延会等をして管送して前来せしむとあり。具に世子藩を 奉じて忠順なるを見る。朕、もって嘉悦す。ここに特に勅を降して奨諭 す。なお白金・綵段を賜い、もって忠労に答えん。すなわち蔡廷会をし て齎し回す。至れば収領すべし。それ蔡廷会および功を獲るの人員馬必 度等には各賜賚するに差あり。ならびに世子に諭してこれを知らしむ。 故に諭す。  世子に賜う   (賜物‐欠) 嘉靖三十七年二月十七日 [注1尚元 第二尚氏王統五代の王。一五二八〜七四年。尚清王の次  子。即位に際しては、重臣間に対立があったとの伝聞がある。治政  中、南方貿易が杜絶(一五七〇)した他、島津氏との関係もその使  者の接待問題が起きるなど悪化した。2蔡廷会 久米村蔡氏の六  世。生没年不詳。尚清〜尚元王代、始めは通事、後には正議大夫と  して八度渡唐。この間、一五四八年の渡唐では給事中の黄宗概に賄  賂を送って発覚したが、貢使の故をもって処分保留の上帰国させら  れた。また五八年には、本文に見るように倭寇の捕殺、中国人被虜  の救出、送還をなし、六〇年には、渡琉のため福建に滞留中の冊封  使郭汝霖らと会い、「中朝の遣使を煩わせず」として福建での給詔  を乞うたが、礼部の上奏により却下された(『明実録』『中山世譜』  他)。3馬必度 生没年不詳。一五五六年、琉球近海に漂来した倭  寇を討ち、中国人被虜を救出。五八年に中国から賞賜された。『中  山世譜』では「海疆の守臣馬必度」とある。 ※本項の事件は『明実録』(世宗実録・嘉靖三十七年の条)および『中  山世譜』(尚元王・嘉靖三十六年春の項)にあり。参照されたい。] [一五九 中山王世子尚元より中国あて、冊封使迎接のための使者派遣についての執照文]  琉球国中山王世子尚元、天使の海邦に光賁するを迎接せんが事のため にす。切に照らすに、本国は嘉靖三十六年、正議大夫・長史等の官蔡朝 器等を差遣し、本奏を齎して、王爵を襲封せんことを乞いたるに、聖恩 もて勅を頒ち、官を差わして皮弁冠服を齎賜し封建せん等の因を荷蒙せ り。理として合に上年の封建の事例に照依して、いま特に長史梁怡・使 者王金・通事蔡朝用等を遣わし、海船一隻に坐駕して、夷吮を率領し て、前みて福建処所に去き、天使船隻を迎接して導引して国に到らんと す。いま差去せる人員は別に文憑なし。誠に所在の官司の盤阻して便な らざるを恐る。王府除外にいま宇字十二号半印勘合執照を給し、通事蔡 朝用等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、 および沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行して、留難してより て遅留不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者 なり。  いま開す   長史一員は 梁怡 人伴十名    使者三員は 王金 馬加泥 馬南比 人伴九名    通事一員は 蔡朝用 人伴二名    副通事一員は 蔡朝俊 人伴二名     管船火長・直庫二名は 紅文綵 越度佳美      吮水は共に一百二十一名 嘉靖三十九年十月二十九日   右執照は通事蔡朝用等に付す、これを准す。  天使を迎接せんが事のためにす   執照 [注1蔡朝器 久米村蔡氏の七世。喜友名親雲上。一五二五〜八七年。  尚元〜尚永王代の進貢使。官は正議大夫に陞る。2梁怡 久米村梁  氏の出。生没年不詳。尚元王代の進貢使。冊封使迎接の使者などと  して度々渡唐した。3蔡朝用 久米村蔡氏(支流)の七世。屋良親  雲上。一五二八〜七六年。尚元王代の進貢使。一五五〇年、官生と  なり国子監に入学。五五年帰国。官は長史に陞る。 ※冊封使の渡来に際しては、琉球から迎接のための使者を派遣し、福  州で迎えて、琉球まで同行するのが例で、後代その際の使者を迎接  使、遣船を迎接船と称した。] [一六〇 中山王尚元より中国あて、冊封使の帰国を探問するための使者派遣についての執照文]  琉球国中山王尚元、天使船隻の回朝の消息を探聴する等の事のために す。聖恩を荷蒙して、給事中・行人等の官人役を差遣わし、三喩海船一 隻に坐駕して、嘉靖四十年閏五月内、国に到り、勅を頒ち、皮弁冠服を 齎賜し、封建の事完りて、十月九日において本国謝恩船とともに、一斉 に開洋して回朝したれ外、奈んせん山海に阻隔さるるにより、消息を知 らず。これがため、いま特に使者・都通事等の官馬三路・蔡朝用等を差 わし、宇字十八号半印勘合執照を給付して、夷吮を率領し、本国小船一 隻に坐駕して、前みて福建等処に去き、回朝の消息を探聴し、および原 差の護送官使者宋庇・都通事鄭憲等の官人等を接回して回国せんとす。 もし経過の関津、去処の把隘し、および沿海の巡襍官軍の験実に遇わ ば、即便に放行して、留難してよりて遅留不便を得ること毋らしめよ。 所有の執照は須く出給に至るべき者なり。  いま開す   使者一員は 馬三路 人伴二名   都通事一員は 蔡朝用 人伴二名    管船火長一名 紅文綵     吮水は共に七十四名 嘉靖四十一年二月十五日  右執照は都通事蔡朝用等に付す。これを准す。 天使船隻の回朝を探聴せんが事のためにす  執照 [注1三喩海船 喩はマスト。三喩海船は三本マストの海船、大型船の  ことであろう。 ※本文中、陳侃らの宝船は十月九日に那覇開洋とあるが、陳侃『使琉  球録』では、当日は乗船、那覇出船は同月十九日とある。[ [一六一 中山王尚元より中国あて、官生の派遣についての執照文]  琉球国中山王尚元、例に照らして官生を起送し、入監読書せしめんが 事のためにす。切に本国は海島に僻居するにより、すでに学校の育才な し。いずくんぞ経書をこれ講習することあらんや。洪いに惟うに、我が 太祖高皇帝の旧章の内に開すらく、大琉球国は朝貢不時して、王子およ び陪臣の子は皆太学に入りて読書せしむとあり。礼待はなはだ厚し。洪 武より以来、恩例を欽蒙す。これがため特に官生梁昭等を遣わし、進貢 船隻に順搭して、前来して入監読書せしめんとす。拠る所のいま撥去せ る生員は別に文憑なし。誠に到る処の官司の盤阻して便ならざるを恐 る。王府除外に、いま宇字二十六号半印勘合執照を給し、官生梁昭等に 付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、および駅 逓の官吏人等の験実に遇わば、即便に放行し、留難してよりて遅留不便 を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。  いま開す。南京国子監に赴く   官生四員は梁昭 蔡* 梁* 鄭*  人伴四名 嘉靖四十四年二月二十二日   右執照は官生梁昭等に付す。これを准す。  入監読書の事のためにす   執照 [注1梁昭 久米村梁氏の出。生没年不詳。一五六五年の官生。2国子  監 中国の教育関係機関。晋代の二七六年に貴族子弟の教育のため  国子学を設けたのが始まり。隋・唐代に国子監に改称。明・清代に  は教育行政官庁であると同時に最高学府でもあった。もと官吏養成  を目的としたが、科挙の盛行により清末には衰微した。北京と南京  に置かれ、国内だけでなく外国からの留学生も受け入れた。琉球で  は一三九二年から留学生(官生)を派遣。人員・派遣年限・間隔等  の変遷はあったが、一八六八年に同制度が廃されるまで、約五百年  にわたって多くの留学生を送り込み、彼らを通じて中国文化の導入  が図られた。3蔡* 久米村蔡氏の七世。生没年不詳。一五六五年  の官生。尚寧王代の進貢使。官は都通事に陞る。4梁* 久米村梁  氏の出。生没年不詳。一五六五年の官生。5鄭* 久米村鄭氏の九  世。謝名親方。?〜一六一一年。官は三司官に陞る。一五六五年の  官生。七二年帰国。以後進貢使者として度々渡唐。一六〇五年、城  間盛久に代わって三司官に陞る。〇九年の島津侵入の際、親中国派  の頭目として捕われ、二年後に甼摩で処刑された。琉球および甼摩  側の史書では「権臣」とされているが、中国側では大概「国難に殉  じた忠臣」とされている。] [一六二 中山王尚元より中国あて、官生の帰国についての執照文]  琉球国中山王尚元、太学読書の官生を接回し、帰国して省親せしめん が事のためにす。案照したるに、先に嘉靖四十四年二月内において、 官生梁昭等四員、人伴嘉満杜等四名を遣送して、前みて福建布政使司に 去き、南京国子監に転送して読書習礼せしむ。作養して頗る文理を悟る を荷蒙す。すでにいま五年なり。各生、年紀長成なるを見るがため、ま さに取回して婚娶を行うべし。兼且、本国官員を欠用す。船なくしても って回国し難きにより、これがため、いま特に使者、都通事等の官馬至 連、鄭禄等を遣わし、宇字四十四号半印勘合執照を給付し、夷吮を率領 して、しばらく本国海船一隻に駕して、前みて福建等の地方に去き、太 学読書の官生梁昭等四員を接回して回国せんとす。もし経過の関津、去 処を把隘し、および沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留 難してよりて遅留不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に 至るべき者なり。  いま開す   使者一員は 馬至連 人伴五名   都通事一員は 鄭禄 人伴三名    副使者二員は 賈美 陶禄 人伴四名     管船火長・直庫二名は 林華 馬益志      吮水は共に一百二十二名 隆慶六年正月二十八日  右執照は都通事鄭禄等に付す。これを准す。 太学読書の官生を接回せんが事のためにす  執照 [注1省親 他郷から帰郷して両親を見舞うこと。ここでは官生が帰国  して親の面倒をみること。2梁昭等四員 前項(一六一項)の四名  の官生のこと。3取回して婚娶 連れ帰って妻を娶らせること。4  鄭禄 久米村鄭氏の八世。生没年不詳。鄭*、週の父。尚元〜尚永  王代の進貢使。] [一六三 中山王世子尚永より中国あて、進貢硫黄の補貢についての執照文]  琉球国中山王世子尚永、硫黄を欠小する事のためにす。照し得たる に、万暦三年は貢期にして、すでに正議大夫蔡朝器等および護送通事陳 継茂等を差わし、土船二隻に坐駕して、硫黄、馬疋を分載して、前来し て進貢す。内に期らざりき、陳継茂の船隻風に被いて海壇山に打傷し、 硫黄漏湿すること過半なり。幸に人船平安を得たり。これがため、いま 通事蔡朝傑等を遣わし、人伴吮水を率領して、小船一隻にE駕し、硫黄 五千簧を装載して前来して数を補せんとす。なお福建等処の承宣布政使 司に赴き、進収するを告稟するの外、いま宙字十二号半印勘合執照を給 し、通事蔡朝傑等に付して収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処 を把隘し、および沿海の巡襍官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難 してよりて遅滞不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至 るべき者なり。  いま開す   通事一員は 蔡朝傑 人伴二名    管船火長・直庫二名は 林世栄 馬三輅     吮水は共に四十九名 万暦三年十二月二十一日  右執照は通事蔡朝傑等に付す。これを准す。 硫黄を補数する事のためにす  執照 [注1尚永 第二尚氏王統六代の王。一五五九〜八八年。尚元王の次  子。一五七三年即位。七九年冊封の時、初めて「守礼之邦」の額を  現守礼の門に掲げた。ただし冊封使滞在中のみで、通常は「首里」  の額を掲げた。2蔡朝傑 久米村蔡氏の七世。一五三九〜八七年。  尚元〜尚永王代の進貢使。] [一六四 中山王尚永より中国あて、官生の派遣についての執照文]  琉球国中山王尚(永)、例に照らして官生を起送し入監読書せしめん が事のためにす。切に本国は海島に僻居するにより、すでに学校の育才 なし。いずくんぞ経書をこれ講習することあらんや。洪いに惟うに、我 が太祖高皇帝の旧章の内に開すらく、大琉球国は朝貢不時にして、王子 および陪臣の子はみな太学に入りて読書せしむとあり。礼待はなはだ厚 し。洪武より以来、恩例を欽蒙す。これがため特に官生鄭週等を遣わ し、進貢船隻に順搭して、前来して入監読書せしめんとす。例に照らし て官生鄭週等に路費の蘇木一千五百簧、胡椒三百簧を給与す。所拠のい ま撥する生員は別に文憑なし。誠に到処の官司の盤阻して便ならざるを 恐る。王府いま宙字二十五号半印勘合執照を給し、官生鄭週等に付して 収執して前去せしむ。もし経過の関津、去処を把隘し、および駅逓の官 吏人等の験実に遇わば、即便に放行して、留難してよりて遅留不便を得 ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。いま開 す、南京国子監に赴く  習礼の官生三員は鄭週 蔡常 鄭迪 人伴三名 万暦七年十二月十一日給す  右執照は官生鄭週等に付す。これを准す。 進監読書の事のためにす  執照 [注1鄭週 久米村鄭氏の九世。生没年不詳。鄭*の弟。一五七九年の  明代最後の官生。尚永〜尚寧王代の進貢使。官は長史に陞る。迎恩  亭や天界寺・竜王殿の扁額はその手跡といわれ、俗に「善書万古長  史」と称された能書家であった。2路費 道中の費用、路銀のこ  と。官生等への王の餽。官生の中国での生活費は中国側で一切面倒  を見る慣例であるので、関係者等への贈答およびその資に当てたも  のであろう。] [一六五 中山王尚永より中国あて、朝京官人および官生の消息を探索する使者派遣についての執照文]  琉球国中山王尚(永)、夷命を保全し、もって遠望を慰めんが事のため にす。通事金仕歴の掲稟に拠るに、万暦十四年十一月内、命を奉じて前 往し、方物を進貢し、ともに稟に照らして収めるの外、例に照らして大 夫・使者等の官梁応等、起送して赴京進貢するを准蒙す。通事金仕歴に おいては摘発先回して国に到る。その余の人船は梁応の京より回り到る の日を待候して一併に開洋して駕して帰還せんとす。況に本船限に違い て未だ還らず。料るに必ず船隻年久しくして、朽壊損傷し、船の駕して 帰るなきか、あるいは、開洋して行きて中海に至り、被風損失するか、 未だ真実を見ず。急ぎ都通事金仕歴を差わし、海船一隻を督駕して前来 して、朝貢官員を接回し、兼ねて歴監の官生鄭週等を接して領回して国 に到り省親せしめんとす。先年の事例に比照して、いま差せる員役は別 に文憑なし。誠に所在の官司の盤阻して未便なるを恐る。本国除外、 いま宙字三十九号半印勘合執照を給し、都通事金仕歴に付して収執して 前去せしむ。沿海の処所の巡海哨船、官軍、もし彼に到りて験実に遇わ ば、即便に放行し、阻滞留難せられて便ならざるを得ること毋らしめ よ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。計開す  使者三員は 馬達路 丹加泥 鄭通  都通事一員は 金仕歴 人伴九名   管船火長・直庫二名は 陳栄 馬益志    吮水は共に九十一名 万暦十六年四月初四日給す  右執照は都通事金仕歴等に付す。これを准す。 夷命を保全しもって遠望を慰めんが事のためにす  執照 [注1金仕歴 久米村金氏の六世。友寄親雲上。一五四八〜一六二〇  年。尚永〜尚寧王代の進貢使。官は正議大夫に陞る。2梁応 久米  村梁氏の出。生没年不詳。尚永〜尚寧王代の進貢使。官は正議大夫  に陞る。] [一六六 中山王世子尚寧より中国あて、関白(豊臣秀吉)の大明・朝鮮侵犯情報を伝達する使者派遣の執照文]  琉球国中山王世子尚(寧)、倭情を哨探せんが事のためにす。本年六月 二十六日貢畢りて回還せる大夫鄭礼等、貴司の咨文兼び本員に給せらる 信牌を順齎し、一面、部院の咨文を遵奉したるに、務めて用心して的 実の情由を査探するを要すとあり。該国の印信の公文を取具して、限を 九月に定め、風に乗りて諞に赴き報銷して、憑をもって撫院に転報し、 部に咨して施行せしめられよ等の情あり。国に到る。即ち方外所属の北 山地方に行きて、査得したるに声聞すらく、関白は自ら王たりて、船万 隻を造り、倭国六十六州に盤糧を分備し、各々船隻に駕して、限るに本 年初冬をもってして、路、朝鮮国を経て、大明に入犯するの事情あり。 飛報せらる。これがために、先ず使者守達魯、冠帯舎人梁守徳、火長鄭 思存等を遣わし、咨文一道を齎捧し、水梢一十五名を率領し、小船一隻 に坐駕して、前来して通報せしむ。これがため、いま洪字第六号半印勘 合執照を給し、舎人、火長等に付して前み去かしむ。もし経過の関津、 去処を把隘し、および沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、 留難してよりて遅留不便を得ること毋らしめよ。所有の執照は須く出給 に至るべき者なり。計開す   使者一員は守達魯 人伴六名    冠帯舎人一員は梁守徳    管船火長一員は鄭思存     梢水は共に九名  右執照は冠帯舎人火長梁守徳・鄭思存等に付す。これを准す。 万暦二十年九月二十三日給す  執照 [注1尚寧 第二尚氏王統七代の王。一五六四〜一六二〇年。尚懿(尚  真王の長子尚維衡の孫)の子。尚永王に嗣子がないため、一五八九  年跡を嗣いで即位。一六〇九年、島津の侵入に遭い、捕虜となって  鹿児島から駿府・江戸へと回り、家康・秀忠に謁し、二年後帰国を  許された。島津侵入の結果、奄美大島は割譲され、王国は甼摩に従  属するに到った。死後、遺言により歴代の王の陵である玉陵ではな  く、浦添の極楽陵(ユウドレ)に葬られた。2鄭礼 久米村鄭氏の  出。生没年不詳。尚永〜尚寧王代の進貢使。官は正議大夫に陞る。  3信牌 官吏が地方庁を巡回する時、携帯する証となる札。ただし  ここでは手紙、書簡のことであろう。4関白 豊臣秀吉のこと。一  五三六〜九八年。八五年関白任官。八七年九州制圧。八九年に琉球  使僧と京都で謁見。九一年大陸(明国)遠征を布告し、九二・九七  年の二度、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を敢行したが失敗した。こ  の間、九二年には島津氏の嘆願もあって、琉球を島津の〈与力〉と  なし、その軍事指揮権を認めたが、これが後に琉球‐島津の附庸国  たる論拠となった。5梁守徳 久米村梁氏の出? 生没年不詳。5  鄭思存 久米村鄭氏(支流)の九世。生没年不詳。 ※関白豊臣秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮はもとより明国をも震撼させた。  時に琉球へは島津氏を通じて秀吉からの諸協力要請がなされていた  が、一方、明側からも秀吉の動静の探報を求められていた。琉球で  は明側の要請に応じて情報を探り、通報したが、本項もその使者派  遣の文である。] [一六七 中山王世子尚寧より中国あて、中国官員を護送する使者派遣についての執照文]  琉球国中山王世子尚(寧)、官員を護送せんが事のためにす。照し得 たるに、本年八月二十九日、北京兵部の差委せる錦衣衛指揮の史世用に 拠るに、使を日本の公幹に奉ずるも、不意き駕来の船隻風に遇い所を失 うなり。造船を待候して回還せんとするも誠に限に違いて速やかならざ るをえざるを恐る。小船に順搭して国に至らんとす。看得したるに、本 員は奚にこれ中朝の使臣にして、難に遇いてここに到るを審にすれば、 礼としてまさに転送すべし。これがため、いま使者・通事等の官于*等を 遣わし、夷梢を率領して鳥船一隻に坐駕し、馬二匹、生硫黄八千簧を順 載して、もって明年の正貢に備う。船小にして人衆ければ、もって重載 しがたし。貢船到るの日、一併に秤納せられよ。これがため本府除外 に、いま宙字第九号半印勘合執照を給し、通事鄭俊等に付して収執して 前去せしむ。もし経過の関津去処を把隘し、および沿海の巡哨官軍の験 実に遇わば、即便に放行し、留難してよりて遅留不便を得ること毋らし めよ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。  計開す   使者二員は于* 熊普達 人伴は七名   通事二員は葉崇吾 鄭俊 人伴は四名    管船火長・直庫二名は毛勢 勿布      梢水は共に二十三名     右執照は通事鄭俊等に付す。これを准す。 万暦二十二年十月十一日給す 官員を護送せんが事のためにす  執照 [注1史世用 錦衣衛指揮。一七〇項によれば万暦二十二年正月、兵部  尚書の命を受けて倭情を探るため日本に派遣された。同年(帰国の  際)遭難して甼摩に至り数月滞在。八月琉球船の来航にあって便乗  して琉球に到り、十二月に帰国。本文はその送還の文書。2于*  首里士族。生没年不詳。尚寧王代の進貢使者。本項の中国官員の護  送使者として翌年入唐。その際、尚寧の冊封を乞うも、世子の表を  もって請うのが慣例として却下された。時に福建撫臣の許孚遠から  福建省城での面領(領封)説が出されている(『明実録』神宗実録、  『中山世譜』尚寧王の条)。3鳥船 不明。早船の意か。4鄭俊   久米村鄭氏(支流)の八世。生没年不詳。官は正議大夫に陞る。] [一六八 福建布政使司より琉球国あて、遭難した中国官員転送の琉球官員への船隻支給・回国についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、官員を護送せんが事のためにす。万暦二十 二年十二月十三日、琉球国中山王世子尚(寧)の咨を准けたるに称すら く、送回せる北京兵部の差委せる錦衣衛指揮の史世用呈称すらく、出使 して難に遇い、懇恩もて船を撥して転送しもって回報に便ならしめよ等 の情あり。国に到る。看得したるに、本員の起居動静は諒に官体に似た り。査して文憑なきと雖も、その人品を以て飢寒を助済す。本より礼 に依りて衣食を供給せんと欲し、応該に厚待すべきも、本国は糸緞・綿 花の類を産せざるにより、ただ蕉・麻・布匹有りてそれ冬夏の衣裳に 応ずるのみ。連年、関白に騒擾せられ、諸事整わず。寧等、悵赧にたえ ず。敝国の遣船は三年二貢なり。荷しく天朝の優待を蒙ること甚だ隆 し。況やいま使臣難に遇いてここに至れば、実に当に加倍報効すべき も、海島に僻居するにより、よく願の如くせず。これがため、特に使 者・通事等の官于*等を遣わし、鳥船一隻に坐駕して、馬二疋・生硫黄 八千斤を順載して、もって明年の正貢に備えんとす。船至るの日一併に 交秤せられ、煩乞わくば、貴司収納して撫・按両院に転達して施行せら れよ等の因あり。咨を備う。これを准けたり。送到せる指揮史世用を将 て転発して回京せしむるを除くの外、該国の差遣せる使者・通事等の官 于*等、馬二疋・硫黄八千斤を順載して、前来したれば貢を候たしめん とす。切に本船風に遭いて泉州府平湖山地方に漂至するにより、硫黄は 消溶し、馬疋は倒斃す。所拠の夷使人伴、梢水四十三員名は例に照らし て発駅して安挿せしめ、糧米蔬薪を供応す。および両院の詳允を奉じ て、司庫の餉銀一百三十両一銭八分八厘を動支し、海防官温同知に給発 して、転発して開支せしめ、例に照らして銀花紅段布疋、宴賞を備弁 し、および置造せる船隻、過海の行糧は随ちに夷使の人伴梢水于*等に 給して収領せしめ、風便を聴候して回国せしむるの外、いま前因を准け てまさに就に咨覆すべし。これがため由を備えて貴国に移咨す。煩為わ くば査照施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦二十三年五月二十七日 [注1悵赧 なげきはじること。2撫按両院 巡撫と按察使のこと。3  餉銀 税金等のこと。4同知 中国の官名。もと各官衙の長官輔佐、  次官を称した。明代では中央の一部および地方各府・州に置かれ、  清代には地方各府・州の知府の下に置かれた。] [一六九 福建布政使司より琉球国あて、進貢についての咨文] 福建等処の承宣布政使司、進貢の事のためにす。万暦二十二年四月初四 日、琉球国中山王世子尚(寧)の咨を准けたるに称すらく、いま正議大 夫・使者・通事等の官鄭礼等を遣わし、表文を齎捧し、船隻に坐駕し、 硫黄・馬匹を装載して、前来して進貢せり。已経に官を差わし百戸の石 洪をして正議大夫鄭礼等を伴送して京に赴かしめ、朝見の事畢りて回省 す。および進到せる硫黄は煎銷して餅に成り、官を差わし南京の該庫に 解送して交納し、批をえて巻に附して訖れり。いま照らすに、大夫鄭礼 等の人伴相喜等呈して筵宴して風に趁りて帰国するを乞う。□該本司例 に照らして宴待するの外、いま前因を准けて、まさに就に咨覆すべし。 これが為に由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば、知照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦二十三年五月二十七日 [注1百戸 官名。元代、官中警備の官で兵百人を指揮する官。明代、  衛所の官で兵百人を掌った。2批を……訖れり 領収証を受け取  り、帳簿に添付した。つまり、貢物を納める諸手続を終えたの意。] [一七〇 福建布政使司より琉球国あて、領封の是非を議定することについての咨文]  福建等処の承宣布政使司、琉球冊封を乞恩せんが事のためにす。万暦 二十三年七月二十四日、欽差提督軍務兼巡撫福建地方都察院右僉都御史 沈の案験を奉じたるに、礼部の咨を准けたるに、該本部の題につき、儀 制清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、欽差軍 務兼巡撫福建地方都察院右僉都御史許の題あり。  万暦二十二年十二月内、琉球国使者于*、通事葉崇吾等の前事を呈す るに拠るに、今年八月二十九日、中国の二人、身に敝衣を服し、□頭跣 足するものあり。称説すらく、使臣の指揮史世用、承差鄭士元にして、 日本に奉差して偵探せんとす。媼に遇うも、船は倖にも死を免れ脱して 琉球に至ると。査するに文憑のよるべきなきも、その人品談論を視るに 官体に疑似たり。随に船を撥して、*等四十三人を差わし、福省に伴送 す。硫黄八千簧、馬二匹を上載して、もって明年の正貢の用に備う。思 い得たるに、琉球は海島に僻居するといえども、世々天朝の正朔を奉 じ、年ごとに貢を修め、藩を称して、侯度を恪守す。比ごろ天災流行す るにより、地の出だすところ以て国の用いるところに供するに足りず。 また関白のために擾害せらる。十九年には人を差わして金の進貢を要め らる。二十年世子、僧天竜寺を差わして、日本に到らしめ、白金二百 両、蕉布等の物を送る。関白琉球の北山を討ちて、兵を屯せんとす。こ の僧あえて命に違わず、遂して銀四百塊、塊ごとに重さ四両三銭を賞せ らる。及倭使とともに琉球に至り世子に見えんとするも允されず。この 僧前銀を費□して遂に自ら弔死す。倭使回報す。関白すなわち曰く、す でに北山を与えるを肯ぜずして、何故我が銀両を受くるや、毎年利を加 えて銀四千両を算□せよと。世子已むをえずして賠還す。二十一年、ま た僧建善寺を差わし日本に到らしめて行礼す。関白僧をもって留住せし む。ただちに倭使新納伊勢を差わし琉球に到らしめ、万人三年の糧食も て載せて朝鮮に至らんことを要む。世子、民窮し国小にして銭糧の処す るなきをもって、二十二年二月僧を差わして回復す。関白仮するに生子 を賀するをもって由となし、その動静を観るに、今十月に至るも未だ回 らずして音信を知らず。いま中山王世子惟うに貢を中朝に修め、関白に 臣を称するを恥ず。年三十歳あえて王を称せず。世子をもって国に当た れば位号未だ隆ならず。懇乞うらくは、奏して加封を請い、聖恩の広大 なるを仰荷して、ますます効順の微忱を堅くせん、等の因あり。  また兵部の原差せる指揮史世用の呈に拠るに称すらく、琉球一国効順 なること二百余載、朝貢絶えず。必ず冊封に倚りてはじめてあえて王と 称す。屡歳関白のために擾害さる。地勢は聯属して山に倚るに因り、行 くに風順なれば開洋し、逆なれば山に収め、波涛の険なし。甼摩より□ 船四日にして琉球北山に到るべし。その山延寰三百□里にして日本琉球 の境界となす。三日にして琉球国に到るべし。陸路山あり。早に行き夜 に宿る。関白その路順を見、その国の弱きを欺り、所以に船を発して来 伐せんと声言し、彼の北山に兵を屯せんとす。もし果して北山に拠れ ば、すなわち琉球は必ず得るところとならん。諞広はその出没の地とな り、盤拠して騒擾すれば、まさに寧歳なからん。いま中山王世子尚寧年 三十歳、容貌英偉にして、頗る力量あり。関白に臣事するを肯ぜず。 一意天朝に向化す。それ年大なるも世子たり。あえて封を請わざるは、 旧時封王の官二員、随従五百余人彼に在ること半年にして、食費の供給 もっともこれ浩繁なり。また連年関白のために擾せられ、国貧しく民困 むによる。故に力請うあたわざるなり。懇乞うらくは酌処して奏請して 勅諭もて国王を加封し、冠服を頒賜せば、いよいよそれ忠貞の念を篤く せん。差去かしむ員役は必ずしも別に海船を造りて官銀幾千両を動費せ ず。ただ過海に慣れる者数人を覓め、□商船□送し、あるいは進貢夷使と ともに帯回せしむれば、豈便益ならざらんや。世用、去年軍門の日本に 差□して偵探せんことを蒙り、今年正月開船して回報す。風逆にして沖 □、海に打沈す。幸に残喘を救われ琉球船に順搭して帰国す。所以にそ の詳を備知す等の因、各々臣に到る。  これより先、臣二十一年四月内において、史世用の奏に拠るに、兵部 石尚書の差遣して倭情を打探せしむとあり。臣、すなわち同安人許予の 商船を選取して、史世用とともに前みて日本に往かしむ。二十二年三月 内に至りて、拠の許予は先回して倭情を報知す。已経に臣具本して奏聞 するの外、十二月内におよび史世用はじめて琉球より回還すと。けだ し、世用風に遭いて沈船し、僅に身をもって免れ、甼摩州に流落するこ と数月。たまたま琉球使船に遇い、脱して琉球に至り、頼に彼の世子、 使者于*等を差わして伴送して諞に還らしむ。臣世子の義を嘉し、及* 等の労を恤う。ついで布政司に行し、福州府に転行して、重ねて賞宴 を加え訖る。いま于*および史世用前因を具呈す。該臣看得したるに 琉球は遠く海外にあり。古よりは中国に通ぜず。ただ我が祖宗の威徳遠 く被り、朝貢はじめて通ず。請封はすなわち宣徳間、尚巴志よりはじま り、いまに十有二王なり。それ正使は給事中、副使は行人に定むるは正 統年間より起こる。臣かつて先正の刑部尚書鄭暁の吾学編を読むに、云 うあり。海島の夷、我が封使の往来の礼を勤めんや。夷は往来を言わず。 往来は諸侯を言うなり。四夷の来王八蛮道を通ずるも、未だ報使あるを 聞かず。然ればすなわち領封可ならんや、いずくんぞ不可となさんや。 夷官は、命を京師に請い、使臣は命を海上に到し、両にしてこれをえた り。臣またかつて先臣郭汝霖・蕭崇業、および見任の南*の撫臣謝杰に 面会して琉球に出使するの事を備に聞くに倶に称す。琉球は諞を去る こと万里、かつて地のもって止泊すべきなく、浩蕩たる風波危険万状た り。百死を出して一生を得ん。語るの間、なお驚怖の色あり。蕭崇業言あ りて曰く、昔蘇武窮窖に幽置せらるるも彼猶然として草野を膏するがご ときのみ。ここに不貲の躯を奉じて、陽侯の険において僥僥たり。桴翼 を設けて水帯に造らんと欲し、また棺を蔵し牌を懸け、見る者をして之 を崖谷に*せしめんと欲するに至っては、豈よく万一を庶幾わんや。臣 窃に焉を危ぶむ。臣聞く、往者は琉球に使するの諸臣、往往にして計□ して規避をなす。有司仮りにもって応にことさらに遷延をなすべきや否 やを勘覈し、期に臨みて已むをえざれば則ちもって之を朴忠孫元の臣に 付して顧みず。けだし馳駆鞅掌は恒にその平を得ざるあり。臣また考う るに、嘉靖間の給事中陳侃・行人高澄の奉使するや壬辰夏五月を以て し、その行けるや甲午夏四月を以てす。給事中郭汝霖・行人李際春の奉 使するや己未夏四月を以てし、その行けるや辛酉夏五月を以てす。万暦 初の給事中蕭崇業・行人謝杰の使するや丙子秋九月を以てし、その行け るや己卯夏五月を以てす。或いは二年、三年その難きことかくの如し。 けだし採木の一節は至って繁費となす。合抱の喩は千に一を得ず。しか してまた、巨艦の造作は尋常と異なり、年を経月を累ねるに非ざれば、 すなわち成ることあたわず。及その垂成して定*するも、なお丁丑のご とく壊裂することあり。また興工の事難きの所以なり。それ海外遠夷を 以て、特に朝廷を煩わすのみならず、諸臣の命を奉ずるを侍み、これを 万分危険の地に往駆せしめるは、本より事体において未だ安からざる所 あり。而も況や造船、選役においては繁擾百端にして、一使諞中に至 るごとに、すなわち有司二、三年の累を増すをや。およびその彼に到る や、帝臣を以て島服に臨み、前王を恤し、後王を封じ、礼遇隆渥なり。 彼頂戴して地無し。ここにおいて日に廩軛の供あり。旬に問安の礼あ り。月に筵宴の設あり。随従四、五百人、淹留三・四・五月。糧食犒賞 の費もっとも貲からず。すなわち琉球の情、またために甚だ苦しむ。こ れ世子尚寧すでに壮なるも、而もあえて封を請わざる所以にして、使者 于*等の陳乞する所以なり。朝廷にありて遣使の難きはすでにかくの如 し。琉球にありて請封の難きはまた彼の如し。然ればすなわち、先臣鄭 暁いわゆる領封の説は今日において議してこれを行うべきにあらず や。況や琉球まさに日本の侵悔を受くも、正に切に聖朝に帰戴せんと す。時に及びて封ずるに王号を以てするをなさざれば、恐らくはその効 順の志を堅くし、それ悍禦の力に資することなし。誠に詔書一通を発し て、中山王世子尚寧に諭令し、即ちに具本もて朝廷に来奏せしめ、ただ 使臣一員を遣わして、勅を齎して福建省城に至らしめ、その差官の面領 するを聴し、あるいは海涛に慣経するの武職一員を遣わし、彼の差官と 同に前みて命を致す。それ頒賜の儀物と受封の謝恩は一に旧礼の如くす れば、すなわち使臣は波涛の険なく、朝命すでに遐方に遠くおよび、夷 邦供億の繁を省き、封典は上国に承くるを得、かつ諸臣をして稽避の情 を免れしめ、有司をして採弁の累を免れしめ、その利益たるや浅鮮に 非ざるなり。伏して乞うらくは勅もて該部に下し、再び酌議を加え、も し果して臣が言謬たざれば、乞うらくはすなわち琉球世子尚寧を詔諭し て、亟に来りて封を請わしめ、官を遣すこと議の如くすれば、すなわ ち朝廷の体統ますます尊ばれ、夷邦の受賜は量る無からん、等の因あ り。聖旨を奉じたるに、礼部知道せよ。これを欽めよや、とあり。  ついで該礼科参看し得たるに、福建巡撫許の一本、琉球冊封を乞恩せ んが事のためにするあり。照し得たるに、琉球は海外に介臣し、冊封の 使は遠く波涛を渉り、万一不測あれば、国体を損する所小ならず。かつ 彼の国頻年喪乱す。また供億をもって難きとなす。議に拠りて使臣勅を 境上に齎して、その差官の面領を聴せば、上は国体を尊び、下は夷情に 順い、誠に長便の策となす。もしさらに一武職を遣わせば、恐らくは多 事に及ばん。かついわゆる己を行うに恥あり。君命を辱かしめざるこ と、また難し。概ね若曹より青きなり。故事を按ずるに、琉球の襲封は 必ず世子の表請より後にす。いま憑る所は一二の夷使の呈請のみ。天朝 の冊命は、太褻に属するに似たり。相応に一夷使を遣わして帰国せし め、世子の表文を齎して来請し、然る後に之を与せば、中国を尊び、遠 人を懐けるの義、両ながら失わざるに庶からん。抄出してこれを酌 し、通抄して部に到り司に送る。  案査したるに、万暦四年六月内、該琉球国中山王尚元の嫡長男尚永、 乞いて父爵を襲封せんことを要む。すでに該本部題し、欽依を奉じ正使 戸科左給事中蕭崇業、副使行人司行人謝杰を遣わして前去せしめ、冊封 遵行し去後り。いま該の前因案呈して部に到る。看得したるに、福建巡 撫許、題し、琉球国使者于*等の呈に拠るに称すらく、琉球世々正朔を 奉ず。近ごろ関白のために擾害せられ、世子国に当たりて臣事するを肯 ぜず。宜しく時に及びて封ずるに王号を以てせられよ。使臣一員を遣わ し、勅を齎し、ただ福建省城に到りその差官の面領するを聴し、および 頒賜の儀物と受封の謝恩は一に旧礼の如くせられよ。乞うらくは該部に 勅して酌議せしめられよとの各一節あり。為に照らすに我が国家の威徳 は遠く被い四夷咸賓す。故に海外琉球の諸夷□風に向う者は山に梯し海 に船して憚らず。稽首して以て貢を朝廷に納む。また帰順を嘉与して、 これを綏柔するに難とせず。使に命じて官を遣わし、勅を齎して、以て 頒封せば、けだし無外の化来旧に従うところなり。ただ封典に遇うごと に、すなわち有司船を造り、木を伐るの諸費動もすれば万を以て計る。 命を啣む者は万里の遠きに間関して、万死に一生を出すに至る。且也、 臣に命じて璽書を奉じて前往すれば、万に覲る所なきといえども、彼の 国供億宴労の費、また自ら貲れざる者あり。故に先臣鄭暁の領封の説 は、識者また多く之を賽とす。今琉球中山王世子尚寧、彼の国に当たり て多故の余あり。天朝の名号未だ定まらず。臣節を堅守して、あえて王 と称せざるにより、これそれ帰順の一念、信に嘉すべし。尚わくば応に 尚永襲封の事例に査照して、錫うに王号を以てするは、疑なき者なり。 ただ彼の国累関白の難に遭い、海洋未だ靖からず。使に命じて宜しく戒 しめて虞まらざらしむべし。境土、未だ寧からざれば行礼また難し。供 具して既経に巡撫具題して前来す。相応に擬に依りて、姑くは遣官を准 し、福建省城に頒封して、夷使境に詣るを俟ちてその面領を聴し、□必 ずしも別に武臣を遣わして以て紛擾を滋くせず。それ一切の頒賜の儀物 と受封の謝恩は悉く旧礼の如くすれば、また夷情に俯順するの一端に似 たり。ただこれ中山王の襲封は向きに世子由り表を奉じて天朝の冊命を 請いて之に付するか。名器関わる所、豈宜しく屑越かくの若くすべけん や。恭しく命の下るを候ち、容に臣等、該省巡撫に移咨して于*等に諭 令して帰りて世子に伝示せしむべし。表を具して前来し申請せば、表文 の到るの日を俟ちて、即ち題請を行い、使を遣わして冊封すること、前 議の若くせん。もし異日彼の国寧謐にして海波揚がらざるの後、まさに 封典を行うべきあり。なおまた先年の事例を査照し、彼の国に遣官して 頒封すれば、懐柔の権変宜しきを得、典制の経常また失うなきに庶から ん、等の因あり。万暦二十三年五月二十一日、本部尚書兼牴林院学士范 等具題し、二十四日聖旨を奉じたるに、是なり。琉球の襲封はそれ世子 の具表申請を待ち、遭礼部具題して官を遣わして福建省城に頒封し、彼 の国使臣をして面領するを聴せ。此を欽めよやとあり。欽遵して擬して まさに就行すべし。これがため合に咨して前去せしむ。煩為わくば本部 の題奉せる欽依内の事理に査照して、これを欽み、欽遵して施行せよ、 等の因あり。これを准け案照して、先に該本院具題し去後れり。いま前 因を准け擬して合に就行すべし。これがため抄案を仰いで司に回して着 落す。まさに該官吏、案験に照依して備に欽依内の事理を奉じて各司道 に通行し、所属の軍衛・有司等の衙門に転行して、一体に知照せしむ。 なお移文して彼の国世子に伝示し、聖旨を欽遵して具表請封して施行せ よとあり。これを奉じ擬してまさに通行すべし。これがため由を備えて 貴国に移咨す。煩わくば案験に依りて備に聖旨内の事理を欽遵するを奉 じて具表請封して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦二十四年六月 日 [注1僧天竜寺 天竜寺は十五世紀中頃、尚泰久により創建された臨済  宗の寺。僧天竜寺は、万暦十七年(一五八九)に秀吉のもとに遣わ  された天竜寺桃庵のことか。しかし、年代がずれており、また本項  中に見える賞金と北山についての記録は、他の史料(『甼藩旧記雑  録』他)には見えていない。2僧建善寺 建善寺は十五世紀中頃、尚  泰久により創建された臨済宗の寺。僧建善寺は、万暦十九年(一五  九一)に秀吉のもとに遣わされた建善寺大亀のことか。しかしこれ  も本項とは年代にずれがある。当時、琉球は秀吉から対明交渉の仲  介を求められており、天竜寺桃庵をはじめ建善寺大亀等も、そのた  めの使者として秀吉のもとに遣わされている。3新納伊勢 秀吉で  はなく島津氏の使者であろう。なお新納の要求した朝鮮出兵での琉  球の負担は、※本項では万人、三年分の食糧とあるが、島津側の史料  では、七千人の十カ月となっている。3諞広 福建と広東二省のこ  と。4鄭暁 明・嘉靖期の人。官は兵部尚書に陞る。後に時の権力  者厳嵩に悪まれて職を辞す。5吾学編 鄭暁の撰した書の名。6領  封 中国が諸王を封ずる際、冊封使を派遣せずに、諸王(またはそ  の使者)が、中国にやってきて封を受けること。7郭汝霖 尚元王  の冊封正使。江西永豊の人。生没年未詳。一五六二年刑科左給事中  のとき来琉。帰国後、『使琉球記』を著す。8蕭崇業 尚永王の冊  封正使。雲南の応天上元の人。生没年未詳。一五七九年、戸科左給  事中のとき来琉。帰国後、『使琉球録』を著した。9南* 地名。  *は江西省の別名とあり。江西省の南部の地名か。10謝杰 尚永王  の冊封副使。福建長楽の人。生没年未詳。一五七九年、行人司行人  のとき、正使の蕭崇業とともに来琉。蕭との共編の『使琉球録』の  他、『日東交市記』などの著書がある。11蘇武…膏す 蘇武は前漢  の人。武帝の時、匈奴に使いしたが、そのまま窖(あなぐら)等に  幽閉され、鼠や草実を食して十九年間も漢の臣としての節を守った  故事のこと。12不貲の躯 貲(はか)られざるの身。計ることがで  きないほど多くの者の一人、たいした者ではない、との謙遜の語。  13陽侯の険 陽侯の水神、転じて波浪の意。波涛の険と同。14朴忠  孫元 朴忠はかざりけがなくてまじめの意。孫元は不明。朴忠孫元  で、実直で従順の意か。15馳駆鞅掌 仕事等で走り回って身なりを  整える暇のないこと。16李際春 尚元王の冊封副使。河南杞県の  人。生没年未詳。一五六二年行人司行人のとき来琉。17丁丑…壊裂   尚永の冊封使蕭崇業らの、福建で建造した冊封船が、完成後に喩  (メインマスト)が壊裂した事故をさす。18面領 対面して収領せ  しめること。19長便の策 後々までの便利な策、方法。20己を…君  命を辱しめず 何をしても恥かしくない行動をとり、主君の顔に泥  を塗らないこと〈論語・子路篇〉。21若曹…青きなり おまえらよ  りもまだ若い、未熟だろうの意か。22太褻に属す 普通、ふだんの  こと、軽々しいこと。23屑越 放漫で、大切にしないこと。24経常  つね、つねの道、規範。25具表申請 表文を具えて申請す。表文で  もって(冊封を)お願いすること。] [一七一 中山王世子尚寧より中国あて、遭難琉球人護送の中国官員の回送についての執照文]  琉球国中山王世子尚(寧)、官員を護送せんが事のためにす。照し得た るに、本年六月二十四日、欽差福建提督軍門金、鳥船一隻を恩給し、兼 市舶提挙司の通事憑璽・夥長陳徳・舵工曾廷を差わし、本船一隻に坐駕 して夷吮哈那等三十二名を護送するを蒙る。護送して国に到り、ともに 照らして収め訖るの外、いままさに時に応じて省に回りて復命せんと す。礼としてまさに奉送すべし。これがためいま通事梁順等を差わし、 員役を護送して回還せしむ。誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐 る。本府除外いま洪字第十三号半印勘合執照を給し、通事梁順等に付し て収執して前去せしむ。もし経過の関津の去処を把隘し、および沿海の 巡哨官軍の験実に遇わば、即便に放行し、留難して因りて遅留不便を得 ることなからしめよ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。  計開す   通事一員は 梁順 人伴三名    管船直庫一名は 済尼     吮水は共に二十八名    右執照は通事梁順等に付す。これを准す。 万暦二十四年九月初八日給す  執 照 [注1市舶提挙司 中国の海外貿易事務を管掌する機関。明代は福建、  広東、浙江の三カ所に設けられていた。※本項の市舶司は福建市舶提  挙司のことであろう。2夥長 船舶で羅針盤を司る者。琉球側では  火長と記したが、その職掌については、異なるとする見解もある  (高瀬恭子「歴代宝案第一集における火長について」『東南アジ  ア‐歴史と文化』No.12,1983)。3舵工 かじをとる船頭、舵  とり。4梁順 久米村梁氏の出? 生没年不詳。万暦年中、「梁氏  家譜」には五度の渡唐記録あり。 ※本項のように、中国に漂流した琉球の遭難者を中国側で直接送還す  る例はきわめて稀である。福州の柔遠駅に送回するのが通例であ  る。] [一七二 朝鮮国王より琉球国あて、礼物贈与についてのお礼の咨文]  朝鮮国王、隣好を敦くして厚恩に酬いんが事のためにす。万暦二十三 年二月初八日、賀至の陪臣刑曹参判閔汝慶等、貴国の咨を齎到するに前 事あり。  窃に照らすに、海邦はともに禹の績に都す。緬に惟うに、祖父封彊を 継守し、講信、修睦して始終懈らず。深く帝臣の戴を堅くす。幸いに、 上国の塵に尾して、忝なくも幼冲をもって挙げて国事を署し、日夜憂勤 すること、乾乾僚若たり。屶みて堪えざるを恐る。奈んせん、生は覆載 を同じくするも、地は北南に隔てらる。一堂に会晤するに由なしといえ ども、実に思を肝膈に馳す。為照に上年本国の差せる所の進貢官員、京 師にて常に貴国使臣に遇い、傾蓋してともに語り、備に聞く。荷くも人 民・政事・土地・物産を詢い、踵を帰して啓知するに遠念を重労するを 見るに足る。この情、この義、人をして激切感佩せしむ。数歳船乏しきも 往来してもって音信を通ず、報を図るの一念須臾も忘れず。及照らすに 万暦十八年本国所属の太平山の土官要宇等、部衆を率いて米布を進運し て来国す。風を被りて貴轄の港地に飄到す。津隘にて査審したるにこれ 琉球人民に係る。優恤はなはだ厚し。官を差わして遼東に導送し、転じ て京師に詣らしむ。伏して、欽差鴻臚寺序班の護給・応付して、直ち に福建に至りて貢船に順搭して帰国せしめ、復故土に還さしむるを蒙 る。陳情宣布すれば厚恩もて、主および庶を愛しむを録白し、微にこれ を尽くすなり。挙国臣僚とともにただ碑に勒し銘を刻して功徳を頌繕す るのみ。ここに歳貢期なれば、特に正議大夫鄭礼・使者馬富多・通事蔡 奎等を差わし、表を齎して京に赴き進貢するに、瓊瑶の報なきを赧ず。 跣ら具して後に開するの絹匹・珍蔵は、恭しく使者に托して帯回献上せ しめ、もって*菲の微誠を伸べしむ。伏して碚むらくは貴国の祚、山海 に綿がりて万世、藩募の固きを覩、寿は岡岳に斉しくして億代ならんこ とを。耆頤の尊、薫翰の衷を仰ぎ、曲にこれを謹みて箋申す。万望すら くは照験して鑑納せられよ等の因あり。  これを准け為照に、我が皇上の声教の曁ぶところ、普天の下、凡そ民 社冠帯ありて、国たるものは皆皇上の臣子なり。すなわちともに北面し て命を受くるあるは、兄弟の義なり。あに宜しく遠近をもって殊なるべ けんや。然るに敝邑は京師を距ること三千余里なり、貴邦は風媼を渉 り、約幾日程にしてもって南徼に抵るべく、これ由りもって京師に至る こと、またすなわち六千余里なり。けだし二国あい距ること、ただに万 里の遠きのみならず、躬ら朝聘してもって京師に聚するをえざれば、則 ちまた何によりてもって邂逅交際の私をえんや。独り行人の往来、時に あい値いて、その土地・風俗を談ずるあり。これによりてこれを得、髣 髴として、もって悒悒の衷を慰むる者は想いはこれに同じきなり。来咨 あり。この情、この義、人をしてこれを激切せしむ、という。あに重ねて 相感ぜざらんや。及査するに、万暦十八年の間、貴邦人民、船に駕し て敝境に漂到する者あり。訳審するにそれ他にもって事をなすなし。矜 哀すべきは、我人と何ぞ異ならんや。すなわち官を差わして遼東に押送 し、もって備に奏知して転解せしむ。闕を顧りみて一咨もて相聞する 者あり。敝邑は義として私交を謹むに縁るといえども、壌地のあい接せ ざるに於いてまた多くその不敏を見るなり。すなわち一尺の書を辱く し、副えるに両色の幣をもってす。委曲遠問して辞して曰く、相謝する は、それ馬牛、それ風するは末界の微事にして、越逐して復さざれば、 すなわち昔は常刑あり。況や、我が友邦はともに皇上の仁威を奉じ、 あえてその人物を獲て、或は攘し、或は残して還さざるの理あらんや。 ここに謝をえればすなわち愧なり。然れども好音に頼りて、不遐の心 を見る、何と幸いなるかな。何と幸いなるかな。鄙忱もって宣導するな し。後に土物の菲薄を開し、もって冬至令節に進賀するの陪臣奇自献に 付して齎して京師に到らしめ、貴邦の使臣あるに遇えば、すなわちとも に交送せしむ。前二年よりかくの如くするも、再にして未だ遇わず。い ままた必しも難きなり。ただ幸わくば万里相領するの外、祝るところは 時に順いて加愛し、紙に臨み、庸庸の至に勝えず。これがためまさに回 咨を行うべし。請うらくは照験領納して施行せられよ。須く咨に至るべ き者なり。  計開す   白苧布二十匹 白綿二十匹 人参二十筋  右、琉球国に咨す 万暦二十五年八月初六日  隣交を敦くし、厚恩に酬いんが事  咨す [注1刑曹参判 刑曹は朝鮮李朝の六曹(刑、吏、戸、礼、兵、工曹)  の一つで、法律、裁判等を司った。長官を判書といい、参判は次官  クラス。2禹の績に都す 「天、多辟に命じて禹の績に都す」(詩  経、商頌殷武)の引用。諸侯が各々大禹の治水の功業の地に都邑を  定めたとの故事。3日夜…僚若たり 日夜乾乾、憂勤僚で、日夜  おこたらず政務に励み、勤めを憂いて、おそれつつしむこと。E激  切感佩せしむ 深く感激して忘れないの意。4遼東 中国遼寧省の  南部、遼東半島のことか。5鴻臚寺序班 鴻臚寺は明清代の官庁名  で宮中での朝賀や慶弔の儀式、また来朝した異民族の接待を掌る。  序班は官名で鴻臚寺に属し、百官の班次を序することを掌った。6  蔡奎 久米村蔡氏(支流)の八世。生没年不詳。稲福親雲上。一五  四八〜? 尚寧王代の貢使。7耆頤の尊 高齢者としての尊。8薫  翰の衷 御書簡中に示された真心の意。9悒悒の衷を慰む 楽しま  ず、うれえ思う心を慰めるの意。10鄙忱 私の心中、我がおもい。  11冬至令節 冬至の賀節のこと。12庸庸の至 はげみはげむ思いに  たえない。] [一七三 中山王世子尚寧より中国あて、関白の動向報告の使者派遣についての執照文] 琉球国中山王世子尚(寧)、倭情を飛報せんが事のためにす。照し得た るに、本国、前に欽差福建提督軍門許の咨文の国に到るを蒙る。職に着 して倭奴関白の動静を偵探せしめ、もって咨報に憑らしむるの外、本年 三月二十二日において敝国偵探してえたるに関白博多地方に在りて人衆 を鳩集し、議して六十六州とともに船隻を打して糧米を搬運し、大明に 入寇せんとす。理としてまさに人を遣わして報知すべし。即時、特に使 者・都通事等の官を遣わし、咨文一道を齎捧して、人伴梢水一十名を率 領し、小船一隻に坐駕して、諞省に前往して通報せしむ。これがため、 まさに洪字第十六号半印勘合執照を給し、都通事鄭俊等に付して前み去 かしむ。もし経過の関津去く処を把隘し、および沿海の巡哨官軍の験実 に遇わば、即便に放行し、留難してよりて遅留不便を得ることなからし めよ。所有の執照は須く出給に至るべき者なり。  計開す   使者一員は守達魯 人伴二名   都通事一員は鄭俊 人伴二名    管船舎人一名は王立思     梢水は共に六名  右執照は都通事鄭俊等に付す。これを准す。 万暦二十六年四月初七日給す  執照 [注1王立思 久米村王氏の初代。一五五一〜一六〇〇年。尚寧王代の  進貢使。もと福建幤州府竜溪県の人。万暦十九年(一五九一)に久  米三十六姓の欠を補うとして、琉球に遷し唐栄(久米村)籍に入る  とされる。] [一七四 中山王世子尚寧より中国あて、関白の死を飛報する使者派遣についての執照文]  琉球国中山王世子尚(寧)、倭奴関白の身亡ぶを飛報せんが事のために す。照し得たるに、本国、前の欽差福建提督軍門許の転発せる咨文の国 に到るを蒙る。職に着して関白の行動の情由を偵探してもって咨報に憑 らしむるの外、ここに関白覇称して王となり、日本六十六州を騒動し て、乱を作し、累朝鮮を侵して天朝を擾動するにより、文武官民安か らず。職、毎時、人を差わして窃に去きて密訪せしむるの情由あり。本 年九月十四日に至りて、七島の船、記助を装載して回国して報道するあ り。探得したるに、関白本年七月初六日において身故すと。即時に特に 使者栢槎・通事梁順等を差わし、咨文一道を齎捧して、人伴梢水四十員 名を率領し、諞船一隻に坐駕して前みて諞省に往きて馳報す。なお齎載 の生硫黄二千簧はもって前年の貢儀を補す。これがためまさに洪字第十 七号半印勘合執照を給し、通事梁順に付して収執して前去せしむ。もし 経過の関津去く処を把隘し、および沿海の巡哨官軍の験実に遇わば、即 便に放行し、留難してよりて遅留不便を得ること毋らしめよ。所有の執 照は須く出給に至るべき者なり。  計開す   使者一員は栢槎 人伴二名   通事一員は梁順 人伴二名    管船冠帯舎人一名・直庫一名は黄滌 顧庇     梢水は共に三十二名  右執照は通事梁順等に付す。これを准す。 万暦二十六年十月初三日給す  倭奴関白の身亡ぶを飛報せんが事のためにす  執照 [注1記助 記録、記録したものの意か。 ※本項では関白秀吉の没年月日を、万暦二十六年(一五九八)七月初  六日とするが、日本側の記録では同年の八月十八日とある。中国暦  と和暦の差か。] [一七五 福建布政使司より琉球国あて、琉球貢使の遭害事件に係る中国官兵の処分についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、官兵の惨掠を申明せんが事のためにす。  案照したるに、先に軍門都御史金の批を奉じて、該本司呈詳す。査し 得たるに、琉球国正議大夫・使者・通事等の官金仕歴等進貢して浙江丹 陽県蓼花橋地方に回至す。哨官侯成美等機に乗じて財物を劫掠するを被 る。捏りて正倭と作して県に投じ、沈遊撃に転送して浙江軍門の劉に申 解す。連人をも温州府署印羅同知に押発して審明す。問擬したるに、侯 成美、白昼人の財物を搶奪し人を傷くにより、首たる者は斬罪、贓物は 追給すること明白なり、等の縁由あり。批を奉じたるに、哨官侯成美は 貢夷を劫掠すること、既経に浙省衙門、典刑を明正にして、すでにその 辜にあたる。即便に該国に移文して夷心を慰安せしめ、もって天朝柔遠 の意を示す。此を炸奉して擬してまさに就行すべし。これがため由を備 えて貴国に移咨す。煩為わくば査照施行せられよ。須く咨に至るべき者 なり。  右、琉球国に咨す 万暦二十七年五月十一日 [注1申解 下級官(庁)から上級官(庁)へ申し送る。またその書。  2問擬 犯罪の事実や原因を問い質し、法刑の適用を擬定するこ  と。3贓物 わいろ、窃盗などの不正な手段で得た品物。] [一七六 福建布政使司より琉球国あて、関白の死を報じた琉球使臣の帰国についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、倭奴関白の身亡ぶを飛報せんが事のために す。琉球国の咨を准けたるに称すらく、照し得たるに、本国、人を差わ して前去せしめ、関白の動静を密察せしむの情由あり。本年九月十四日 に至りて七島船、記助を装載し得て回国して報道するあり。探得したる に関白、本年七月初六日において身故すと。特に使者栢槎、通事梁順等 を差わし、諞船に坐駕して前来して馳報せしむ等の縁由あり。咨を備え て司に到る。これを准け、ついで前項の事情をもって由を備えて撫・按 両院に呈報して知会せしむ。なお通事梁順等をもって発駅して優恤し、 例に照らして宴待するの外、いま夷使の回還に照らしてまさに咨覆を行 うべし。これがため由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば知照施行せら れよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦二十七年五月十一日 [注1七島 不明。トカラ列島あたりのことか。] [一七七 福建布政使司より琉球国あて、進貢謝恩等の琉球使臣についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢謝恩、王爵を請封せんが事のために す。案照したるに、先に琉球国の咨を准けたるに、長史鄭道等を差わ し、硫黄・布疋・鎗・刀・*・甲・馬・螺等の項を齎進す、とあり。本 司已経に官に委して会盤したるに明白なり。見に馬匹に在りては駅に発 りて*養せしむ。及鎗・刀・*・甲・螺・布をもって、随に福州左衛百 戸顧大節を差わして、使人(とともに)伴送せしむ。また硫黄・土夏布 をもって批もて福州右衛指揮江*を差わして領解せしめ、前みて南京礼 部に赴き交納せしめ、批を獲て巻に附し訖れり。いま照らすに、夷使進 貢の事おわりて回省す。例に照らして宴賞して帰国せしむるの外、まさ に就に回覆すべし。これがため由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば査 照施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦二十八年六月初一日 対同通吏陳応魁  進貢謝恩・請封王爵の事 [注1鄭道 久米村鄭氏(支流)の九世。生没年不詳。尚寧王代の進貢  使。官は正議大夫に陞る。2*養 飼い養うこと。] [一七八 朝鮮国王より琉球国あて、度々の厚恩に対するお礼についての咨文]  朝鮮国王、歴聘問を修めもって厚恩に答えんが事のためにす。査照 したるに、先に該に万暦二十八年二月初三日、敝邦賀至の陪臣韓得遠京 師より回りて貴国の咨文一角を齎到するあり。  前事節該するに差せる長史鄭道・使者兪美玉京師に詣り、方物を貢 す。あえて土儀を奉じて、咨もて貴使の在京の者と交る。これがため 転微情を致す。また照らすに、所属の七島山来りて関白二十六年七月 初六日において身亡ぶを報ず。尤も貴国の深幸となす。かつ聞く、天朝 の兵威はその余衆の蚕食する者をもって、直ちに駆去せんと欲す。姑く 捷書を俟ち、再び恭賀せんことを図る。書の去らんことに神馳せ瞻仰す るにたえず等の因あり。  これを准け、ついで後開の土夏布二十匹・芭蕉布二十匹・排草二十簧 をもって数に照らして収領するの外、いま照らすに、敝邦と貴国とはと もに世々藩職を守り、聖化に均霑す。地は海を隔つこと万里なりと雖 も、自ら誠意を来らしめ、ともに交歓の情を孚くみ、ともに隣封なるあ り。これによりまず前に敝邦は凡そ貴国の漂流人口に遇えば、ともにす なわち天朝に奏聞して転解して回郷せしむ。貴国また之のごとし。先年 敝邦、貴国の米布を運ぶの員役をもって奏解して回郷せしむ。これ旧例 を遵行するに係れば、深謝するに足らず。貴国再び備物を行りて咨謝 す。また賊酋の死亡の消息を報ず、厚意鄭重にしてもって報をなすな し。所拠の関賊は罪盈ち、悪積み、天これに罰を降す。これただに敝邦 の幸のみにあらず。実に是天下の幸なり。余賊の蚕食する者はまた已に ともに官兵の駆勦を被り過海し去訖れり。煩乞わくば貴国日後およそ賊 情あれば緩急を揀ばず、須く径に天朝に報じ、もって敝邦に転示せられ んことを。なお不腆の土宜をもって、遠く微忱を表す。賀至の陪臣柳根 をして京師に齎赴せしめ貴使に転交せしむ。庶幾わくば左右に達するを 得ん。擬してまさに咨覆すべし。これがためまさに回咨を行うべし。請 うらくは照験施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。計開す  一 白苧布一十匹 白綿紬二十匹 人参二十簧 霜華紙二十巻   花硯二面 黄毛筆五十枝 油煤墨□十錠  右、琉球国に咨す 万暦二十九年八月初七日  聘問を歴修して以て厚恩に答えるの事  咨す [注1節該 聖旨その他の公文を首尾完全に載録する煩を避け、主旨の  概略を伝えること。※本項だと、「前事節該」の前に「貴国(琉球)  の咨文一角を齎到す…」とあり、「その咨文を要約するに…」の意  となる。2兪美玉 那覇兪姓の二世。加賀寿親雲上重光。一五五九  〜一六一二年。尚寧王代、二度の渡諞記録あり。島津侵入の翌年.  万暦三十八年(一六一〇)の池城安頼らとの渡諞では、当時甼摩に  在った鄭*が密かに中国にあてた反間の書(甼摩側の内情を通報し  たものという)を北京へ転送する前に取り戻したという。] [一七九 礼部より琉球国あて、冊封使の選任問題(武官か文官か)と捕捉せる琉球船の乗員の処置についての咨文]  大明礼部、進貢謝恩の事のためにす。該本部題し、儀制清吏司案呈 す。先に琉球国中山王世子尚寧の奏に拠るに称すらく、表文、方物を齎 捧し、謹み奉じて進貢するの外、臣、聖朝の褒嘉を荷くし、臣が祖首 めて奉貢に趨きてより、優隆の封典あり。正使給事中、副使行人を差わ すことすでにいま一十二王なり。不幸にして父王尚永、万暦十六年十一 月二十五日に薨逝す。臣庶、臣を挙げて権に国事を嗣がしむ。例とし て旧典に遵い、即に承襲を奏すべきも、関白の侵擾に遭うにより、いま だあえて恭請せず。旧年に至りて探聞するに、関白身斃す。敬んで長史 鄭道を遣わし馳せて請う。礼部の咨を蒙けて開するに、武臣を差わして 微臣を冊封せんと欲す等の因あり。臣ら惶懼して内理の情由を研査した るに、微臣の咨叩に干からず。かつ聖祖の旧製にあらず。いま跣ら長史 蔡奎等を遣わし、聖明を冒涜するに、微臣歴代の忠順、一心の向化を垂 照して、乞うらくは会典に准じ、文臣を賜差して、勅もて皮弁冠服等の 件を頒てば、臣まさに海邦の人心を鎮服するを得、四夷天威を凛仰し、 臣感激感戴せん。もし改めて武臣を差わせば、臣聞く、吉事には文を尚 び、凶事には武を用うと。恐らくは、臣が所属の山頭、まさに臣罪あり て討を受くるを疑い、終に梗逆して服せざれば、すなわち臣、上は祖宗 の典章を墜とし、下は子孫の憲度を壊ち、中山寧日の長きをなすこと能 わざるなり。伏して聖恩を懇い、乞うらくは万暦七年の父王尚永の事例 を体せば、臣激切祈仰の至に任うるなし等の因あり。聖旨を奉じたるに 礼部知道せよ、これを欽めよやとあり。欽遵す。  また琉球国差来の長史等の官蔡奎等の呈に拠るに称すらく、小国は太 祖高皇帝称して礼義の邦となすを蒙る。先年、一十二王ともに文官を差 わして冊封す。昨二十七年、世子尚寧、長史鄭道等を差わして請封し、移 咨を蒙りて開称するに、武臣を差わして国に到らしめんと欲すとあり。 世子驚惶にたえず。遂に先差の鄭道等をもって、ともに重罪に問う。い ま特に奎等を差わし、また来たりて奏請す。伏して乞うらくは、小国礼 を守り順を効し、三年二貢あえて欠くあらざるに垂念し、旧典に査照し て、文官を差わして国に到らしめて冊封せられんことを。切に照らす に、奎等館にあること日久しく、廩糧を耗費して犬馬の心もて実に自ら 安からず。乞要らくは、早かに題請を賜えば、風に乗りて帰国するを得 るに庶からん。もし少しく延遅すれば必らず久しく順風を候ち、銭糧を 冒費するに至るべし。世子、日夜懸思等候の苦しみを免がれず、等の情 あり。各々部に到り司に送る。  案査したるに万暦二年七月内、該琉球世子尚永請封す。本部覆題すら く、海外の夷邦の事は遥度し難し。封爵の大典は尤も慎詳を貴ぶ。いま 尚永奏するところに拠るに、もし査勘明白にせざれば倫序不明にして情 偽弁ずるなきを恐る。まさに嘉靖七年の事例に照らして移文して査勘せ られよ、等の因あり。聖旨を奉じたるに着して例に照らして査勘して 具奏せよ、これを欽めよや、とあり。ついで該国府臣、王舅・法司・正 議大夫・使者・通事等の官翁寿祥等の印信結状、申炸して前来するに拠 り、已経に本部、欽依を題奉して、官を遣わし該国に前往せしめて、勅 もて尚永を封じて中山王となし訖れり。  また査得したるに、万暦二十三年五月内、該福建巡撫都御史許孚遠題 すらく、琉球使者于*等の呈称に拠るに、琉球は世々正朔を奉ず。近ご ろ関白のために擾害せらるるも、世子、国に当たりて臣事するを肯ぜ ず。宜しく時に及びて封ずるに王号をもってすべし。使臣一員を遣わ し、勅を齎し、ただ福建省城に到りて、その差官の面領するを聴し、お よび頒賜の儀物と受封、謝恩はともに一に旧礼の如くせしむ、の縁由あ り。  該本部覆題すらく、中山王世子尚寧、堅く臣節を守り、あえて王と称 せず。帰順嘉すべし。まさに錫うに王号をもってするも疑なし。ただ中 山王の襲封は向に世子の表を奉じて命を請うによる。いま于*等いまだ 尺書を奉ぜず。かつ中山国君、なお未だその存亡を委らかにせず。まさ に遂に勅命をもってこれに付すべけんや。合応に該省撫臣に移咨して、 于*等に諭令して帰国せしめて世子に伝示し、具表申請せしむべし、等 の因あり。聖旨を奉じたるに、是なり。琉球の襲封は、それ世子の具表 申請を待ちて、遭が部裏具題し、官を遣わして福建省城に頒封し、彼の 国使臣の面領を聴せ。これを欽めよや、とあり。已経に福建巡撫衙門に 咨行し、該国に転行し欽遵し去後れり。  また査得したるに、万暦二十八年正月内、該琉球中山王世子尚寧、具 表して請封す。ついで該国差来の長史鄭道等の稟に拠るに称すらく、乞 うらくは万暦八年の事例に照らして、官を遣わして渡海授封せしめられ よ等の因あり。該本部覆題すらく、累朝以来、遣使渡海して授封す。使 臣たる者はすなわち波涛の不測に苦しみ、属国たる者はすなわち供億の 貲ざるに苦しむ。故に原任の福建撫臣許孚遠、これに拠り具題し、本 部欽依を覆奉するは、属国の費を省く所以にして、徒に使臣の労を憫む のみにあらず。廟堂もとより成議あり。夷使于*等の一言たるにあらざ るなり。かつ歴査したるに、中山王の襲封は必ず該国の結状を取具す。 いま陪臣鄭道等並えて未だ王舅・法司等の官の印信甘結を齎有せずし て前来す。世子嗣立して十二年、臣民あい安んじまさに襲封すべしと決 するといえども、通国の結状また欠くべからず。いま命の下るを候ち、 中山王世子に移咨して、諭するに天朝領封の議をもってす。原より属国 を体恤するがためなり。世子明白に領封を具奏せば、福建撫按に移文し て、該衙門に転行して、例に照らして琉球合国の王舅・法司等の官の印 信結状を取具し、世子の奏本とともに齎到せば、もって査照題覆するに 便なり、等の因あり。聖旨を奉じたるに、琉球世子尚寧の請封は、具 に恭順を見す。ただ該有の通国の印結および世子特に具するの表文は方 に敬順を見す。天朝行して他に与えて知らしめよ。それ差官の一節は、 陪臣すでに来たりて敦く請う。著して慣海廉勇の武臣一員を選して、他 の請封使臣と同に前往して行礼せしめ、必ずしも採木造船してもって繁 費を滋くせざれ。また多く人役を帯して、彼国を騒擾し、朝廷柔遠の至 意を失うことあるを許さず。余は擬に依れ、これを欽めよや、とあり。 已経に咨行し去後れり。  いま該に前因通査案呈して部に到る。看得したるに、琉球国中山王世 子尚寧奏して、進貢謝恩するを除くの外、内に称すらく、父尚永薨逝 す。乞要らくは、父爵を請襲し、并びに乞うらくは会典に准りて文臣を 差わして、勅もて皮弁冠服等の件を頒つを賜わらんことを。又行して該 国府の臣、王舅・法司・正議大夫・長史・通事等の官毛麟等の扶めざる の印結を取具して粘炸して前来するの一節あり。為照らすに琉球は東南 に僻処し、世々職貢を修め、まさに承爵すべしと決するも、累倭警に 遭い、廷逗して今に至るはゆえ有るなり。ただ先年の夷使于*等未だ表 請を奉ぜず。長史鄭道等未だ印結を具せざれば、冊命は委に軽しく錫い がたし。いま已経に世子尚寧、奏請前来す。また経に該国諸臣、印結を具 有し、および差来の長史等の官蔡奎等前情を具呈す。あいまさに封ずる を准すべし。恭しく命の下るを候ちて、世子尚寧をもって、封じて琉球 国中山王となし、そのまさに用うべきの皮弁冠服・紵糸等の項、および まさに用うべきの装盛の木櫃、杠索、鎖鑰、沿途の杠運人夫、護送軍快 は、各該衙門に通行し、旧例を査照して造弁完備ならしめ、例に照らし て応付すべし。それ遣官の一節は、すでに明旨を奉有すれば、合行遵守 せしむべし。ただその陳乞の情詞に拠れば謂えらく、累世の封典は、具 に各属の観瞻の繋かるところに存するも、会典に拠援りて必ず文臣をも ってすべし。請者は、すでに殊寵をもって天朝より頒つ。嘉礼を草莽に 委るを欲せず。あるいは銜命をもってこれを武弁に属せば、未だあえて 廉節を皇華に期さず。ここを用って懇切陳請して旧章を復せんと図る は、また遠藩の至情に似たるなり。それ将来において齟齬するよりは、 今日において酌処するにしかず。伏して皇上の裁奪を候つ。あるいは謂 えらく成命収めがたし。あるいは謂えらく国典まさに復すべしと。ただ 聖明もて長に従いて計を定められよ。勅もて本部に下し欽遵施行せしめ られよ等の因あり。聖旨を奉じたるに、是なり。尚寧、琉球国中山王を 襲封するを准し、すでに官を遣わして懇に請えば、着して旧に照らして 文官を差して去かしめよ。これを欽めよやとあり。  ついで主客清吏司の手本を准け、開称したるに、兵部の咨に、夷使の 訳詞たるやすこぶる異なり、海洋の功罪は宜しく叙すべく、懇乞して部 に勅して覆行詳勘し、議処してもって人心を服せしめんが事のためにす とあり。該本部題し、職方清吏司案呈すらく、本部より送りたる兵科の 抄出を奉じたるに、提督軍務にして浙江等処の地方を巡撫せる都察院右 副都御史劉の題せる前事あり、等の因あり。聖旨を奉じたるに、兵部知 道せよ。これを欽めよやとあり。欽遵して抄出し、部に到り司に送り、 案呈して部に到る。看得したるに、浙江巡撫劉 題称すらく、獲るとこ ろの夷犯の訳詞たるやすこぶる異なり。ただその帯びる所の衣笠、刀仗 は、的に倭物に係る。また会同館主事に抄到して、長史蔡奎、通事梁 順に訳審せしめたるに、吐称すらく、諞人林元・黄滌、年貌絶えてあい 類せず。かつ云えらく、人を差して進貢の信息を探討するは、また旧規 に係る。この事の処分は慎しまざるべからず。前日の勘叙は原より成心 なし。今日の覆勘は自ら宜しく虚議たるべし。籀斌・荘以屶をもって先 に罰治を行うを要すと。それ策励料理せしめて、媼防の夷犯熊普達等 は、なお琉球使臣蔡奎等の浙に到るを待ちて、責令して一一質認し、及 各司道に行して本省の該国通事を拘集せしめ、公虚に研審せしむ。□前 勘と異なるなければ死を論ずるも、彼ますます詞無からん。もしその探 貢、これ真にして、劫虜拠なければ、官兵別に虚捏あり。あにただ功に 叙するを准さざるのみならず、還宜しく罪を議して戒を示すべし。もし 情の疑似に渉るべく、語の支吾に近きことあれば、貢後の遣、すでに使 臣の知る所にあらず。海外の情、またあに使臣よく料らざらんや。ある いはすなわち往事に比照して文を給すべし。蔡奎等をして本国に押回し て彼の査処を聴さしむの一節あり。  為照らすに、将領には功罪あり。功罪確なれば賞罰ありて宜を失うを 致さず。夷情に順逆あり。順逆明らかなれば恩威もって互用すべし。そ れ海防に関係するは最も重きなり。所拠の浙省の検獲せる夷船は先に該 撫按、各官の功罪を会奏す。本部、謂えらく事体隔越して、未だ虚的を 委らかにせず。随即に礼部に移文して琉球陪臣に査訳せしめ、もって真 偽を探り、回称を行拠たれば、事の有無は陪臣もまた逆料しがたし。な お須く面質すればその詳を得るに庶からん。業已に該部に咨行して事竣 るの日を俟ち、該国陪臣をして、便道して浙に由りて回国し、真情を面 審して通行せしめ去後れり。いま撫臣劉に拠るに謂えらく、事体区画は 当に慎しむべし。各官の功罪は当に明らかにすべし。また前因を題し、 具に慎審を見る。刑賞は人心を警僚するの意なり。有功被傷の官軍は査 明して別に議するを聴すを除くの外、所拠の把総籀斌、荘以屶は海洋の 信地を賊艇の縦横に任せ、巡哨弛防して漁商の劫殺を致く。追捕して効 ありといえども微労の事なり。自ら推絎し難し。委に当に罰治してもっ て疎虞を警むべし。ただこれ擒獲の夷犯、供詞すでにしばしば支離す。 情偽ついに懸断し難し。もし果して真正の島倭なれば、法として当に 首を藁街に懸るして、もって窺伺するを杜げば、自ら異詞なからん。 もし果して琉球の遣わす所なれば、何ぞ文引の憑るべき無からんや。既 に差わして封貢を探りて来るに係れば、何故雑るに真倭数名をもって し、衣仗また倭物に係るや。いま欽みて冊使を遣わすの時に当たり、正 に外夷観望の際なれば、此の情形は測り*く、之が為に熟計せざるべか らざるものあるに似たり。事は海外に属すればもって*度しがたし。委 さに応に詳らかにして査明をなせば、区処するに便なるに庶からん。け だし、撫臣訳詞の異を慮るは、人命に関するところ軽きに匪ざればな り。覆勘を行わんことを請う。  臣等、冊使の遣、国体に関するところ尤も重きを慮り、また旨してこ れに及ぶはまさに撫臣の意見とあい同じ。既経に具題前来してあい応に 酌議して、上請して合に命の下るを候ち、籀斌、荘以屶をもって重く罰 治を加え、容に臣等が咨を浙江撫按衙門に行して、熊普達等をもって、 しばらく監候をなすべし。併せて礼部に咨して、琉球国陪臣蔡奎等をも って、速やかに浙に由りて回らしめ、各犯をもって、詳らかに認識を加 え、もし真倭に係れば即ち前議に照らして区処すべし。もし果して、琉 球の差わすところに的係すれば陪臣に交付して順帯して回国せしめ、責 令して逐一質審して明確ならしめ、具奏定奪すべし。なお各該沿海地方 に移文して、海寇の警息むなきあるを備査して、出洋果して虞りなきや 否や、実に拠りて礼部に咨回し、もって別請に憑きて施行せられよ等の 因あり。聖旨を奉じたるに、是なり。籀斌等は着して罰俸五箇月なり。 これを欽めよやとあり。欽遵して移咨して部に到り司に送る。  本部先に遣官の旨を奉じて抄到す。随即に各衙門に移文し、応に差官 の員職名を取る。いま礼部の手本を准けたるに、推得せる兵科給事中洪 瞻祖は正使に充てるに堪え、また行人司の手本を准けたるに、推得せる 行人王士嚶は副使に充てるに堪う等の因あり。各回報前来す。査得した るに先年外国に出使せる給事中等の官は、例として該に大紅織金胸背麒 麟白沢羅円領各一件、緑羅**各一件、青羅貼裏各一件を給与す。案呈 して部に到る。看得したるに、給事中洪瞻祖・行人王士嚶は、すでに各 該衙門、推選して前来すれば正副使に充てるに堪う。あいまさに擬によ りて、それ各官まさに品服を給すべし。および例として該に詔・勅各一 道を齎捧して前去すべし。まさに命の下るを候ち工部に移咨して査照制 造して関給すべし。なお翰林院に行して、詔・勅各一道を請い、それを して前去して行礼せしむ。  臣等職掌の関するところ、あえて旧例を査照せずんばあらず、もって その盤獲せる夷船を請うの一事あり。該兵部浙江に行文して、海上の声 息あるいは有りや、あるいは無きや、冊使の行まさに遅かるべきや、ま さに速かるべきやを査勘せしむ。総て臣等のよく*度するところに非ざ れば、伏して聖裁を候つ等の因あり。万暦二十九年十一月十三日、本部 尚書兼牴林院学士憑等具題し、十七日聖旨を奉じたるに、琉球の冊封は 洪瞻祖・王士嚶に着して去かしめよ。すでに夷船を盤獲せるも声息未だ 定まらず。国体に関するあれば、還前旨に着遵して、該国の質審回奏を 待ち、海寇寧息して警する無ければ、方めて渡海して行礼せしめよ。こ れを欽めよや、とあり。欽遵す。擬してまさに就行すべし。これがため まさに琉球国王に咨して欽遵して知会施行せしむ。須く咨に到るべき者 なり。  右、琉球国中山王に咨す 万暦二十九年十一月二十二日  咨す [注1所属の山頭 王国の支配地域内の各島の酋長。2犬馬の心 臣下  が主君のために尽くす心。3懸思等候 心配して待ちわびるの意。  4韜度 はるかにはかる、考えるの意か。5翁寿祥 首里翁氏の初  代。国頭親方盛順。一五一一〜一五八〇年。尚元〜尚永王代の三司  官。6印信結状 官庁へ出す保証書。関係者が誓約や保証のため、  連名で署名捺印をした文書。7許孚遠 明、徳清の人。嘉靖の進  士。神宗の時、建昌知府、福建巡撫等を経て、兵部左侍郎に陞る。  8印信甘結 印信結状と同じ。公印を押した官庁へ出す保証書、誓  約書の類。9毛麟 本項からすると万暦二十年代の王舅であるが未  詳。10粘炸 はりつけて一緒に、まとめての意。11草莽 民間、在  野のこと。12銜命 命をうけたまわる。君命を奉ずる。13皇華 天子  の使臣、勅使のこと。14それ将来…今日…酌処…しかず 将来に憂  い(問題)を残すより今日で処理した方がよいの意。15手本 礼部  など六部の各清吏司や各処経歴司が、同品衙門(役所)の属司(下  部機関)に送る文書のこと。16職方清吏司 明代、兵部の四清吏  司の一つで、武官の賞罰、関口海洋に関する禁令等を掌った。17会  同館(主事) 元、明、清代、外国使節の宿泊所。明代には外国使  臣を接待し、朝貢に伴って行われる貿易を監督した。主事は同所  の員外郎の下役。18勘叙 取り調べること。19成心 故意に、わざ  との意。20覆勘 再度の取り調べの意。21推絎 責任をおしつける  こと。22首を藁街に懸るす 藁街は長安城南門内の街の名で、後に  罪人を処刑する所となる。つまり、処刑場に首をつるすこと。23*  度 はるかに度る、考えるの意。韜度と同。24監候 獄中に監禁し  て死刑の執行を停め秋審を待って擬定する。罪に疑いある者等に行  う特例。25罰俸 俸給を奪取する刑罰。官吏の公務上の犯罪に対す  る制裁。26洪瞻祖 一六〇一年(万暦二十九)、兵科給事中の時、  尚寧の冊封正使を命じられたが、海寇の跳梁等、渡海の困難を理由  に出発をしぶったとして、翌年解任、同役の夏子陽に代わった。27  王士嚶(禎)尚寧の冊封副使。山東泗水の人。一六〇六年(万暦三  十四)行人司行人の時、正使夏子陽とともに来琉。帰国後、夏とと  もに『使琉球録』を著した。28牴林院 牴林の名(官)は唐代より  始まる。明代では、官衙としての牴林院が設けられ、宮中の文書関  係を司った。長の学士の他、侍読学士、編修等の官がおかれた。] [一八〇 福建布政使司より琉球国あて、進貢使臣等に対する給賞についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、勘合を行移せんが事のためにす。礼房の准 けたる勘合科の付に礼部の皆字一千九百四十七号勘合を承准けたるに、 内に一件進貢の事あり。精膳清吏司案呈すらく、主客清吏司の付を准け たるに、該本部の題につきて本司案呈すらく、本部より送りたる該琉球 中山王世子尚寧の咨を奉じたるに、長史蔡奎等を差わし、表文を齎捧 し、方物・馬匹を管送して、京に赴き進貢請封すとあり。  襲封の事宜は別に行うを除くの外、査得したるに、進貢の馬四匹の 内三匹倒斃し、一匹は発駅走差せり。硫黄并びに附搭土夏布二百疋は該 福建布政司、南京該庫に解送し交収し訖れり。それ硫黄は該国の咨に拠 るに称すらく、一万九千斤なりと。都布二司の文内はただ五千二百三 十斤にて煎熟二千斤を開するのみ。その数目互に異なるに因り、随ちに 帯管提督会同館本司添、註主事何に行して、訳審し得たるに、差来の長 史蔡奎等称すらく、風に遭いて水に棄つと。ただし該省の文移未だ声説 明白なるを見ざればもって憑信し難し。已経に福建巡撫衙門に咨行して 査勘せしめ、回文の至るの日を候ちて別に議するの外、使臣もし勘回を 候ちて給賞すれば必ずや坐して数月を候たん。事未だ便ならざるに属 す。まさに先に題賞すべし。所拠の差来の長史一員蔡奎・使者二員毛如 鳳、毛鳳威、通事一員梁順、人伴十名相喜等、該布政使司に存留するの 使者二員馬三魯・馬珠、通事二員梁守徳・王立(思)、人伴一百名読古 等は例として応に給賞すべし。査得したるに該国の賞例は凡そ差来の長 史・使者には毎員綵段二表裏・折鈔の綿布二疋、通事には毎員綵段一表 裏・折鈔の綿布二疋、人伴には毎名折鈔の綿布二疋なり。附搭の土夏布 二百疋は官、一半を抽し例として給価せざるを除き、それ抽して剰れる 一半は毎疋に鈔五十貫を給し、鈔二十貫毎に闊生絹一疋と折与す。進過 の方物の馬匹・硫黄は例として給賞せず。また査するに、万暦十六年二 月内、本部の欽依を覆奉せるの後、官を差わして夷人を伴送することあ り。経に賞賜の本内において坐名差委す。いま照らすに、琉球国差来の進 貢請封使臣回還するに、例として該に官を差わして伴送すべし。査得し たるに、琉球館序班の呉応麟は先に限に違いて差を圧うをもって止む。 補欠ありて暫く冠帯を通事孫時捷に給して相応に差委すべし。通査案呈 して部に到る。看得したるに、琉球国中山王世子尚寧差来の長史蔡奎等 に賞賜せる表裏布疋并びに抽して剰れる土夏布に価値の生絹は官を差わ して伴送せしむ。既経に該司査議して明白なれば、相応に題請して、ま さに命の下るを候ち、本部、内府の各該衙門に行移して数に照らして関 出給賞すべし。差官に給涸し、存留使者・通事・人伴に賞賜せる表裏布 疋并びに土夏布に価値の生絹を伴送し、供に到京の長史蔡奎等に給付し て領回せしむ。本部なお福建布政司に行して、実を審にし名に照らして 給散せしむ。それ硫黄の斤数互に異なるの故は該省の査回を候ちて別に 定奪を行えば、朝廷柔遠の仁を失わず、四夷ますます天朝を尊ぶの礼を 知るに庶からん等の因あり。万暦二十九年八月初七日、本部署部事右侍 郎兼翰林院侍読学士朱 等具題し、本月初九日聖旨を奉じたるに、是な り、これを欽めよやとあり。欽遵して擬してまさに就行すべし。これが ため到京の使臣人等の賞賜はすでに給散し、それ存留使者・通事人等の 段絹布疋は長史等の官蔡奎等に給付して領回せしめ、福建布政司実を審 にして給与せしむるを除くの外、まさに手本をもって精膳清吏司に前去 せしむ。煩為わくば福建布政司に類行して、本部の題奉せる欽依内の事 理に照依し、琉球国中山王世子尚寧に転行して知会施行せしめられよ等 の因あり。司に到る。案呈して部に到る。擬して合に就行すべし。これ がため福建布政司に照会して、勘合内の事理に照依し、一体に遵奉施行 せしむ等の因あり。これを承け、擬してまさに就行すべし。これがため 査得したるに、進貢の事は礼房の行うあるに係る、まさに付して前去せ しめ、即便に査照して遵奉施行すべし等の因。備に付せり。これを准け 擬してまさに就行すべし。これがため存留使者・通事人等段絹布疋をも って、ともに長史蔡奎に付して領回給賞せしめ、本司なお例に照らして 筵宴を備弁して礼待するを除くの外、由を備えて貴国に移咨す。煩為わ くば査照施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 勘合を行移せんが事 万暦三十年五月初九日 対同通吏 陳敦美 [注1礼房(科) 布政使司等、地方衙門の六房科の一つであろう。2  勘合科 布政使司等の地方衙門で対外文書を収発する部所のことで  あろう。3精膳清吏司 明代、礼部の四清吏司の一つで、禁中の饗  宴の礼を司った。4毛如鳳 不明。使者職に任じているので首里か  那覇人であろう。『宝案』での渡唐記録は本項に記す万暦二十八  年の一度だけである。5毛鳳威 不明。首里の毛氏(大新城系)の  支流三世か。万暦二十四〜天啓五年にかけて在船使者、使者として  五度の渡唐が確認される(『歴代宝案』)。6折鈔 鈔(紙幣)に換算  する。折鈔の綿布は賜給の綿布を鈔に換算して給する意。7琉球館  (序班) 福州の柔遠駅のこと。琉球の進貢使一行が宿泊、滞在する  所。序班は鴻臚寺に属する官であり、琉球館に序班なる官があった  のかどうか不明。8抽して剰れる(土夏布) 抽分した(税として  払った)余りの土夏布の意。9関出給賞 官より出して賞し給する  事。10給涸 涸を給す。涸は下級官庁あて公文書の一種。11給散   わけてやる、わたすの意。] [一八一 神宗より中山王世子尚寧あて、冊封の詔]  天を奉け運を承くるの皇帝、詔して曰く、朕恭しく天命を承け、誕い に多方を受く。奚に海隅に曁ぶまで率俾せざるはなし。声教の訖るとこ ろ慶賚同じくす。爾琉球国東南に僻処し、世々職貢を修む。我が皇祖よ り称して礼義の邦となす。国王尚永祗しみて王封を襲い、侯度を恪遵 す。倏焉として薨逝す。良に朕が心を惻ましむ。それ世子寧賢にして 人に長じ、才能衆を馭するに足る。間関して命を請い、恭順加うるあり。 念うにそれ国統の帰するところ人心胥属す。宜しく寵渥を膺け、我が藩 疆を固くすべし。特に正使兵科右給事中夏子陽・副使行人司行人王士嚶 を遣わし、詔を齎して往きて封じて琉球国中山王となす。なお賜うに皮 弁冠服等の物をもってす。凡そ国中の官僚耆耋、尚わくばそれ忠を殫く して輔導協力し、匡襄して事上の小心を堅くし、承継の大業を鞏くし、 永く海国を綏んじ、共に昇平を享けよ。惟うに爾君臣また世々永く休を 孚けん。故に茲に詔示し、咸に聞知せしむ。  皇帝の宝 万暦三十一年三月初三日 (再対して之を正す) [注1夏子陽 尚寧王の冊封正使。江西玉山の人。生没年未詳。一六〇  六年兵科右給事中の時、冊封のため副使王士禎とともに来琉。帰国  後、禎とともに『使琉球録』を著した。] [一八二 浙江の提刑按察司より琉球国あて、探貢琉球人の不法行為取調についての咨文]  浙江等処の提刑按察司、夷使の訳詞たるやすこぶる異にして海洋の功 罪はよろしく覈にすべく、懇乞すらくは部に勅して詳勘を覆行し、議 処してもって人心を服せしめんが事のためにす。  万暦三十年二月初十日、欽差提督軍務巡撫浙江等処の地方都察院右副 都御史劉の憲牌を奉け、兵部の咨を准け、該本院前事を題す。本部覆 議し得たるに、擒獲せる夷犯の供詞すでにしばしば支離す。情偽つい に懸断しがたし。もし果して真正の島倭なれば法としてまさに首を藁街 に懸るし、もって窺伺を杜ぐも、自から異詞なかるべし。もし果して琉 球遣わすところなれば、何ぞ文引の憑るべきなからんや。すでに封貢を 差探して来たるに係れば、何故に雑るに真倭数名をもってし、衣仗また 倭物に係るや、かつ官兵の追捕に当たりては何ぞ命を請い、哀を乞わず して、あえて戈を操りてあい向うや、意うに陽に探聴をなし、陰に入犯 を図ること、容にあるいはこれあるべし。糅ぞ倉卒に聴信して彼の狡謀 に堕つるべけんや。いま欽みて冊使を遣わすの時に当たり、正に外夷観 望の際なれば、此の情形はかりがたく、これがために熟計せざるべから ざるものあるに似たり。況や今春媼期に届る。海寇到る処劫掠して、正 に浙省のみ然りとなさず。もし或いは海寇言を探貢に託してもって禍を 琉球に嫁し、或いは琉球各島機に乗じて合謀してもって罪を海寇に委す れば、事は海外に属しもって*度し難し。委さに応に詳らかに査明をな せば、区処するに便なるに庶からん。相応に酌議して上請し、まさに命 の下るを候ち、咨もて浙江撫按衙門に行じ、熊普達等をもって暫く監候 をなし、併せて礼部に咨して、琉球陪臣蔡奎等をもって速やかに浙由り 回らしめ、各犯をもって詳らかに認識を加え、もし真倭に係ればすなわ ち原議に照らして区処し、もし果的して琉球差わす所に係れば、陪臣に 交付して順帯回国せしめ、責令して逐一質審して明確なれば具奏定奪す べし等の因あり。欽依を題奉し咨を備えて院に到る。すでに案を准け、 按察司に行じて遵照し去後れり。  該本院、巡按浙江監察御史馬と会同して、看得したるに熊普達等の事 情、国体の海防に関係し、王法・天理はなはだ重し。該部の覆議は至っ て厳正たり。いま琉球国長史蔡奎等既已に浙に到る。相応に会して詳 勘して議処を行い、もって人心を服せしむべし。これがために牌を備 えて司に仰じ即便に布都二司と会同して、熊普達等の一千(一群)の夷 犯を提取して、使臣蔡奎等に責令して一一質認せしめ、及通事を拘集し て公虚に訳審せしめ、もし糾して倭、劫殺し、官兵に拒敵する等の項の 情節、前次の勘報と異なることなければ、なお原議に照らして重く処 し、もし果して琉球遣わす所の探貢これ真なるに係れば、劫丶拠るな し。あるいは情は疑似に渉り、語は支吾に近ければ、貢後の遣すでに使 臣の知るところにあらず、海外の情はまた使臣のよく料るところにあら ず。即便に往例に比照して給文し、蔡奎等をして本国に押回せしめ、彼 の査処を聴し、回奏して逐一勘審して明確ならしめ、由を具して詳解せ しむ等の因あり。  遵行するの間、また巡按浙江監察御史馬の憲牌を蒙けたるに、琉球国 進貢請封長史蔡奎等の呈に拠るに称すらく、奎等本国の人名、ともにこ こに陥るを見る。伏して望むらくは拘審して明白ならしめ蟻命を超う を得ん等の情あり。院に到る。これに拠り前事を案照したるに、已経に 欽依を題奉し、涸を備えて司に行し勘審し去後れり。いま前情の遽に准 信しがたきに拠り、擬してまさに訳審し司に仰じて堂に呈し、即ちに原 発の倭犯熊普達等をもって二司と会同し、および本官面審して的実査照 し、原行の陪臣に交付して彼国に帯回せしめ、質審明確ならしめて具奏 定奪すべし。もし別に故あれば報に由るべし等の因あり。司に到る。依 蒙行文巻発あるをもって杭州府正佐官に仰じて熊普達等を会訳し、明確 に解詳ならしめ去後れり。  ついで該府の呈に拠るに称すらく、案照したるに、先に官兵外洋哨勦 す等の事のためにすとあり。本司の故牒を蒙け、まさに巡按浙江監察御 史馬前事を批呈するを蒙る。行を備え府に仰じ、すなわち発来の倭犯林 元等をもって監候会審すべし等の因あり。  遵行して審を候つの間、ついで本府司獄司并びに仁和県の申報に拠る に、倭犯黄滌・禿鶏病故するの縁由ありて府に到る。已経に由を具えて 転報するの外、いま前因を蒙け、ついで該本府知府朱正色、管糧通判常道 立理刑推官丁啓濬と会同して遵将して文巻を発下し逐一検閲し、并びに 夷犯熊普達等を取りて、琉球国長史蔡奎・通事梁順とともに、本省標下 通事の夷来序、李恵と逐一姓名・年貌を面弁して各あい訳対して明白なら しむ。熊普達・未大・戈頼・石浦・楊馬度・宇四甲・馬加粘・其甲・馬 丹台・寧粘・搭南・弓児安寧・脱古・寧粘・葛盛・即満世・倪四はとも に琉球人に係り、林元は福建幤州府の人に係る。各供これ的なり。会看 し得たるに頃日島奴、生心し、奸人勾引して、海上これに苦しむこと久 し。浙省数年以来、憲法森厳にして賞信罰必なるに仰伏し、故を以て将 士は命を用いて氛權潜銷す。夷犯熊普達等、適春媼の期に当たり内地 に闌入す。おのずから官兵の堵截するに非ざれば其の狡謀測り難きに似 たり。初め探封を執りて詞あるに縁って、故に使臣の面質するを得んと 欲するのみ。いま長史蔡奎および通事梁順等逐名弁認するに拠り、首め て熊普達、儔衆中において彼の国官舎に係ると称するを識る。また林元 諞人の本土に流落し、看針舵工に充為を認る。その余の戈頼、馬加粘等 験するにともに琉球の声音なり。たえて倭夷内に在るなし。および審す るに、刀沂各器を以てすれば、すなわち称すらく、彼国日本に迫近し、 器機大約あい同じ。それ劫船殺人の一節は通事梁順と我が浙通事夷来 序、李恵等のともに訳するに拠るに、各犯はともに実を吐かず。独り林 元のみ黄滌冒招すと吐称するも、黄滌すでに物故せり。探封の一節に至 りては、訳によるに称すらく、熊普達、原より給せられて国王の咨文あ るも、登岸の時混搶により遣失すと。以上の情節均しく各犯の口供に係 る。通事の訳報旧案と□□す。異同無くんばあらず。語は求生より出 で、多く改□を致す。□使臣かつ枝梧の説あり。豈外夷独り香火の情な けんや。然るに各犯蓄髪吐音すれば、通事これを執りて拠ありとして海 上にて初獲す。即ち供すらく、彼国差官の日期は、いまの使臣称すると ころと爽わず。万一探封の情真にして、我、闌入の故をもってこれを重 典に弊けば、あるいは外夷委心回面の意にあらざるのみ。ただこれ登岸 の時各犯宜しく頓*して命を乞うべきも、悍然として兵を執り、かつ圉 人と事に従い、かつ官兵殺傷するは確として左験あり。縦真に刺探の人 たるも業已に宥さざるの罪にあり。いわんや黄滌生前の口詞、筆供は昭 昭として案に在るをや。事は海防に属し、尤も国体に関る。之を狸せ ば、天朝字小の仁を失うを恐れ、之を縦せば奸夷僥倖の路を開くを恐 る。合無径ちに各犯をもって陪臣に交付して本国に帯回せしむべし。な お往例を査して給するに咨文をもってし、その査明して具奏するを聴せ ば、則ち既に懐柔を失わず、亦奸計に堕ちず。それ国体海防において両 ながらこれを得ん。再び照らすに林元は諞人なり。各犯と同じからず。 彼の中に解回するの理なし。情、疑似あり。また軽しく従しがたし。あ るいは本犯をもって福建軍門に咨解し、牢固監候せしめ、琉球回奏の日 を候ちて、果して別情なければ彼の処査を聴し、原籍の保結を取りて逓 回せしむ。なお正すに越境通夷の罪をもってす。さらに枉縦するなし。 由を備えて呈解し司に到る。  ついで該署按察司事布政司右布政使范、布政司左布政使史、都司署都 指揮僉事馬、屯局都司僉書范と会同し、琉球国長史蔡奎・通事梁順とと もに本省標下通事夷来序、李恵を拘集す。ついで彼の国の通事梁順の預 め先に吐称するに拠るに、姓あるも的には名を記得せず、福建福州人に 係り、ただ約年四十歳なるを記得す。その人、身矮にして鬚少なく、面 は黒麻なり。二十三年内、琉球国に漂到す。彼の処にありて字法を作教 えて生理す。また吐すらく、熊普達は該国人に係り、見に官舎銜となる。 官舎はすなわち武職なり。すなわち中国の指揮と一様なり。また吐す、 黄五すなわち黄滌は幤州人に係る。年約三十七・八才、肥胖して身長く 鬚なしと。該国にありて見に通事となる。各犯を□拘して面証す。長史 蔡奎口称すらく、熊普達、林元二人を識得するも、余はあい識らずと。 通事梁順口吐するに、熊普達はこれ官舎なり。林元はこれ看針人なり。 査するにそれ年すでに老い、預め先吐するところと年貎同じからず。ま た吐するに、寧粘・馬加粘・戈頼・石浦・禿鶏・牛四甲・楊馬度はとも に該国人なり。黄滌・禿鶏病故するを除くの外、余はともに識認す。そ の戈・石・賈・倪四・寧粘は山上人に係り、面識せざるといえどもその 声音また琉球人に係ると。および前時拿獲するの各刀器・衣帽等の項を 取出して面質したるに云えらく、多く琉球の物なり。内に好く倭刀二 把・染花色の真倭の衣一件あり。このところの通事夷来序口報するに、 此的にこれ倭中の物に係ると。琉球通事梁順また俯首して云えらく、是 なり。徐徐にまた云えらく、これ倭物なりといえども彼の琉球官舎人の 家あるいはまた倭より貨買し来たらんか。および長史に問えば、彼の熊 普達あるいは領差の後、隣倭の島山の民を随帯し、同行して伴となし、 もって洋中にて事を生じ商を劫すを致さんかと。ただに国王知らざる のみならず、汝等使臣離国の後なれば、また預め知ることあたわずと。 長史および通事ただ云えらく、これ固より知らず、またあるいは敢えて せず等の情あり。  これに拠り案照して前事を巻査したるに、先に撫・按二院の批を蒙 け、司、熊普達等一千の人犯を会審し、ついで黄滌の口吐および親筆の 供に拠るに称すらく、黄滌家は辺海に居り。捕魚して活生す。禍なるか な、万暦二十三年語嶼にて捕魚するにより、倭に舒掠せられて倭国に到 る。時に幸いにも郷親ありて銀五両を弁じて身を取る。二十五年に至り て逃れて琉球の外山に入る。朝暮哀慮するも父母兄弟に見え難し。幸い にも今春四月初八日、夷瓠一隻あり。官舎の首たるもの称すらく、福建 に往きて進貢するを由となし、滌の同船を欲す。滌が唐語を諳説するを 称すればなり。時に奈何ともするなく孤就に同船す。料らざりき、夷 人意の良からざるを起こし、魚船三隻を劫掠す。ただ一隻に夏布八十疋 あるのみなれば、三人を殺害す。余は丶せらるるも本船より洋に逃れ去 る。それ船上水乏しければ、ここに滌、騙して東洛に邀い、すなわち 官兵に抵敵して獲解せられ、天台を擾するを致す。伏して乞うらくは、 仁爺哀情を鑑察して上叩せられよ。また吐するに、商人の米四包・銀一 包‐約一二十両を劫す等の情あり。已経に由を備えて詳允を呈奉して具 題遵奉して巻にあり。  続いで撫・按二院の勘涸を奉じて司に行し、夷犯熊普達等をもって監 候す。なお琉球使臣蔡奎到るの日を候ちて、布都二司と会同して、訳審 し認識明確ならしめ、由を具えて院に呈す。  いま前因に拠りて会審し得たるに、熊普達等をして果して彼の国貢情 を探聴するに来たるに係れば、すなわち官兵に襍執せらるるの時、何以 に咨文をもって証となさずして、反って我が官兵に敵するや。前案のご とく載するところの兵の陳智は弓児安寧に左手に傷つけらること一刀、 郭子直は馬加粘に右手の第四指を傷つけらること一弾、また左腿に傷 す。隊長の狄竜は脱古に傷つけらること一弾、これまた何たるものぞ や。すなわち各夷をしてともに琉球遠近島の人氏に係れば、これ真倭刀 と真倭衣、また何処より得来たるや。これまたこれ解し難き者なり。況 や前時の黄滌と林元および各夷、互いにあい面証するに、劫商の情的は ただに口報するのみならず、かつ親筆もて手書するなり。いま黄滌物故 す。林元、各夷みな口を改めて、昔日報ずるところの詞に非ず。然して 生者の口は改むべくも、死者の筆は改むべからず。各夷の情詞は変換す べくも、それ倭の刀、(倭)の衣は変換すべからず。すなわち彼の使 臣・通事もまたこの二物を指して倭に非ずとなすこと能わず。ただ云え らく、あるいは貨し来たるのみと。また遁詞に似たり。ただ琉球はもと より属国に係り、またかつ守礼向化の邦なり。いま既経に使臣執認し て、熊普達確に彼の国の官舎なれば、すなわち前報の劫情はまた疑うべ きに属す。それ疑いてこれを入れるよりは、疑いてこれを出すにしか ず。まさにこれ一千夷犯ともに一十五名をもって琉球陪臣に交付し、順 帯回国せしめて、彼の国中の審究を聴すべきに似たり。各夷果して尽く これ伊の国人民なるや否や、如何また倭国の刀衣を帯するや、すでに探 貢して飄風し犯界するに係れば、ただまさに咨文をもって哀を乞うべき も、若何抗敵して官兵の手足を傷つくるや、逐一審明して具奏定奪せし めよ。それ林元は中国の人に係れば委ねて并発し難し。まさに府議に依 りて原籍に逓回せしめ、監禁してもって越境通夷の罪を治すべし。彼の 処の審明を候ち、別に定奪を行うべし。  再び照らすに、琉球貢使、歳ごとに常期あり。期に先んじて例として公 文ありて福建藩司に報ず。至るの日、礼をもって之を柔遠館に賓す。舟 行くに護送の符あり、舟回るに護送の使あり。常期の外また探貢あらし むがごときは、もって彼此稽するなきを致す。海洋釁を啓きて、襍海の 官卒ただ界を犯すに遇えば法に遵いて当に擒すべし。倉卒に帆を揚げて 火器にてあい向うは弁認しがたし。之を縦せば、恐らくは貢に仮りて内 を犯すの謀に中り、之を勦せば、恐らくは事を生じ順を殺すの罪を蹈ま ん。進退処するなく、瞭望すること実に難し。以後彼の国正貢より外の 探貢の一節は、免行すべきに似たり。彼此均しく便ならん。また別に定 奪あれば、照詳を呈乞すべし等の因あり。  由を具えて万暦三十年二月十五日において、欽差提督軍務巡撫浙江等 処地方都察院右副都御史劉の批を奉じ、本司、夷犯熊普達等の由を通呈 す。批を奉じ、詳に拠るに、蔡奎等熊普達等を識る。該国人海洋にて劫 丶を為すは支吾して認めず。恨むらくは原供の黄滌死して対質するに由 なし。各犯は宜しく発して回籍せしめ、彼の査処を聴すべきは是なり。 ただ奎等の先供には、黄滌三十余歳、肥胖、身長にして鬚なしと。前 に滌を睹るに実に五十に近く、長暎にして鬚あり。また供すらく、林元 は四十歳なり。身矮にして鬚少なしと。いまその人耄にしてかつ矮者に 非ず。一は彼の国通事たり。一は教字看針をなす。果して爾ら必ず熟識 するに係れば、何ぞ吐くところと矛盾するや。かくのごとければすなわ ち、稽加等の前供は七島の其甲山人なりと。いま口を琉球に改むるは、 また安んぞ尽く憑とすべけんや。林元はすなわち林明吾なり。海上の賊 首たりて最も慣るると。勾引の周明等の詞なり。然るや否や、以上の情 節は並びに宜しく一質してもって部に報じ司に仰ずるに便ならしむべ し。再訳して確なれば詳報せよ。  また巡按浙江監察御史馬の詳批を蒙るに、熊普達等海洋に擒せらるの 情偽は、固より測るべからず。ただ蔡奎すでに彼の国官舎に係るを認 む。すなわち官をもって盗をなすは、恐らくはまた理のなきところなり。 審に拠るに委に疑うべきに属す。往例に准照して給咨し、順帯回国して 査明具奏せしむ。林元は原籍に逓回して議処す。余は悉くこの炸に照行 して、奉覆によりて経行せよ。杭州府の呈に拠るに称すらく、またすで に取帯せる各夷犯熊普達等は、来使蔡奎・通事梁順并びに標下通事夷来 序、李恵に面同して、また会同訳審を行う。得たるに、先供の黄滌は三 十余歳、肥胖、身長にして鬚なしと。前に睹たるに実に年五十に近く、 長暎にして鬚あり。審に称を執るに拠るに、黄滌は的にこれ三十余歳 にして、肥胖、身長、鬚なし。あるいは執えらるるによりて驚惶艱苦し てもって暎弱を致さんか、また来使にあい別れて四、五年、あるいは微 鬚を長じ、顔色倉老し、五十に近きに似たるかと。審するに先供の林元 は四十歳、身矮にして鬚少なし。いまその人は耄にしてかつ矮なる者に は非ざるなり。称を執るに、彼の国の姓、林は二あり、ともに福建人な り。一名は林朝、年四十歳ばかり、身矮にして鬚少なし。一名はすなわ ち、いまの林元なり。前に供するところはこれ林元を道わずして、すな わち林朝の年貌を供すと。ただ先供はかつて二林あるを明言せず。いま 突にこの説を出すは准信しがたきに似たり。また称を執るに、其甲山は 原より琉球地方に係り、七島は日本地方に係る。中に海洋のあい隔つあ り。前供の稽加等、其甲山人に係ると。原より七島と各々別□、黄滌詞 称すらく、二十三年倭に丶掠せられ、二十五年逃れて其甲に入ると。こ れによるにあるいは其甲これ琉球地方ならんか。故に云えらく、逃れ入 ると。ただし前案は未だ供明ならず。悉くはまた准信しがたし。審する に、林元はすなわち林明吾なり。称を執るに林元はただこれ一名のみ。 並えてかつて林明吾と号せず。査するにこの説は周明および解兵の侯紹 の吐く所に係る。いま拘するところの周明の父周応竜の称を執るに、周 明は本年正月初十日において号手の李化とともに密雲軍門に前往して領 賞す。取有の周明・李化は隣佑保結して巻にあり。侯紹は温州の解兵に 係り、久しくすでに回し訖る。林元はこれ林明吾なるや否や、執証に従 るなし。まさに明が父周応竜をもって解審定奪して由を備えて呈解して 司に到る。  該本司覆勘し得たるに、熊普達等近ごろ供するところに拠るに、すな わち黄滌・林元の年貌は殊に異なり、稽加等はこれ七島の倭夷に非ず と。前後の情詞、委に矛盾に属す。みな黄滌物故するにより、もって口 を変じ詞を易うるを得たり。然るに倭衣倭刀はともに真正の倭物に係 り、官兵に拒敵するは、前案の傷証にはなはだ明らかなり。衆すでに訳 審すること再三なり。確として的拠あり。それ林元すなわち林明吾なる は、先の茅国科の旗手周明の訳報に係る。けだし彼、国科に随いて倭国 に往く、故にこれを知る。いま周明密雲に前往し、質証するに従るな し。ただ使臣、熊普達等、すでに該国官舎に係るを面認すれば、すなわ ち前供の各情は疑信あい半ばす。況や琉球はすなわち守礼の属国なり。 まさに府議に従うべし。なお熊普達等一十五名をもって、琉球陪臣蔡奎 に交付して帯して回国せしめ、彼の審究を聴す。先後報称せるの年貌と 同じからざるの故と真正の倭衣倭刀は何をもってか、得来たるの由、ま た何をもってか官兵に抗敵し、彼傷害を致すや。而して飄いて商船に遇 いまた何をもってか夷従に聴随して三命を殺害するや、布米銀両を丶劫 するは的に何人のなすところに係るや、逐一審確して明白ならしめて回 奏せしむ。林元なお原籍に発回して、福建衙門監禁して罪を治し、彼の 帰結を聴す。批を奉じて再訳を仰ぎ、事理を確詳するにより、未だあえ て擅便せず。照詳を呈乞す等の因あり。  批を奉じたるに、熊普達等海上に劫丶するの情は、疑うべきありとい えども、然れども倭衣倭刀および官兵を拒傷するはすでに真なり。すな わち百口するも罪を辞すところなし。琉球使者の詞は支吾に渉り、固よ り信ずるに足らず。ただすでに(熊)普達等は彼の国の人たるを認むれ ばすなわち恭順守礼の素をもって、自ら宜しく寛によりて議処し、属国 の体を□存すべし。議の如く熊普達等十五名は陪臣蔡奎に交付して帯回 せしめ、彼の審明して回奏するを聴すべし。司の咨を仰ぎ該国に行して 遵照せしむ。林元は福建衙門に解発して禁治せしむ。これを炸奉して擬 してまさに就行すべし。これがためまさに咨して前去せしむ。咨文内の 事理に査照して、すなわちまさに陪臣蔡奎に交付して順帯回国せしめ、 熊普達等一十五名は逐一審究せしめ、すでに探貢に係れば、何によりて 洋にありて劫殺するや、それ真正の倭衣倭刀は何より得来たるや、備査 して的確明白ならしめて回奏すべし。以後は正貢を除くの外、探貢の一 節は免行すべきに似たり。ともに違錯枉縦して不便毋らしむ。須く咨に 至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦 [注1提刑按察司 明代、十三道に配され、獄訟のことを司った。地方  行政の軍、民、刑の三本柱のうち、刑を掌った。2巡按浙江監察御  史 官名。秦代に初めて置かれ、各朝ともに置かれた。各省府州  (ここでは浙江省)を巡察して役人の行動、賦役、農業の状況、盗  賊等の監察を主務とした。明代では布政使の事務を分掌(百官の糾  劾、文巻の照刷等)した。3故牒 上司が下司に行する文。三品  以下の官で用いる。4香火の情 (神仏に)香をたいて誓約した  心。5委心回面 信頼して臣従すること。6保結 身元保証書のこ  と。7柔遠館 柔遠駅、福州の琉球館のこと。 ※本項の事件は、中国の対琉感情を悪化させ、対琉疑念を生じさせ  た。なお熊普達は、万暦二十二年の貢使(一六七項)でもある。] [一八三 福建布政使司より琉球国あて、遭難進貢船の乗員の救助および帰国方についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢謝恩等の事のためにす。琉球国中山 王世子尚寧の咨に拠るに称すらく、特に使者通事等の官蔡奎等を遣わ し、人伴夷吮を帯領し、本国海船に坐駕し、生硫黄、馬匹を装載し、并 びに表箋、鎗刀・蕉土夏布・紅花・土扇等の物件を齎捧して、前来して 京に赴き、朝貢謝恩す等の因あり。咨を備えて司に到る。これを准け案 照したるに、本年四月十六日福州府管北路海防通判樊および北路参将黄 烽火門水寨把総施の各々呈に拠るに称すらく、本月初七日、捕盗の陳忠 の報に拠るに称すらく、本月初五日未時、□山の捕盗の陳子棟・黄政と ともに琉球国進貢船隻を護送して芙英山に至る。忠等思うに天時昏暮な るを見、各船をもって泊に聾まり*に寄せんと欲するも、夷船の人衆、 南風に転じて便ならざるを恐れ、堅く執りて肯ぜざるを被る。ついで 北風に趁りて連夜駕使して参更時分に至って、不意に天濛霧に変じ、各 船咫尺も弁ずるなし。夷船草嶼の暗礁に撞衝して打破せられ、牛皮・硫 黄等の物ともに各々沈失し夷衆靫水す。捕盗の陳聡等力めて夷衆を救 い、并びに通事馬居喇等の員名の各々糧食を給す。なお掌号官の王陞を 差わし、陸路管解して司に赴くと。査審し得たるに、長史蔡奎等、委に 坐駕の船隻行きて中海に至り、暮れて濛霧に値る。船をもって礁に衝る に因り、靫水して身故す。情実に憫むべし。ついで拾得せる見存の夷使 并びに通事・夷従、馬居喇等伍拾九員名をもって福州府に発仰して柔遠 駅に転発せしめ、例に照らして稟米・蔬菜を支給して優恤す。なお夷使 馬居喇等をもって司に送り、司庫銀一十三両二銭を動支して、逐名分給 稿賞す。および海防館に行して船隻を撮取し、別に行糧一箇月を給して 収領せしめて風に趁りて帰国せしむるの外、いま前因に拠りてまさに知 会を行うべし。これがため備に貴国に咨す。煩為わくば査照して施行せ られよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦三十二年六月十三日 [注1参更時分 午前一時頃。2動支(官庫などから金を)支出するこ  と。3稿賞 ねぎらい賞すの意。4海防館 明・清代の地方官は、府  だと長たる知府の下に、地方により種々の職掌をもつ官がおかれた  が、その一つに河海防御のための江防同知、海防同知等があった。  海防館はもと福州城内で後に南台に移った海防同知署のことか。] [一八四 浙江等処の提刑按察司より琉球国あて、不法行為の阜疑を受けた林元の処治についての咨文]  浙江等処の提刑按察司、夷使の訳詞たるやすこぶる異にして、海洋の 功罪は宜しく覈すべし等の事のためにす。万暦三十一年十月二十二日、 琉球国の咨文を准けたるに、前事につき咨もて称すらく、熊普達等一十 五名は査照して釈放するを除くの外、林元は原より福建衙門に解発して 禁治するを蒙り、的に辜にあらざるに係れば、別にまさに由を備えて移 咨して、同仁に釈放せられよ。乞うらくは咨文内の事理に査照して、由 を具えて回奏施行せられよ等の因あり。咨を備えて司に到る。これを准 け、已経に備に福建按察司に関し、林元をもって査照するの外、いま前 因を准け擬してまさに回覆せんとす。これがため咨を備えて前去せし む。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦三十二年五月二十日 [注1関 三品以下の同等衙門(役所)間で相互に送る文書をいう。] [一八五 福建布政使司より琉球国あて、冊封使迎接使者の帰国事情についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、呈もて咨文を乞いもって回報に便ならしめ んが事のためにす。琉球国通事金応魁の呈に拠るに称すらく、魁、使者 馬似竜等と、旧年十月内において命を奉けて前来し欽差を迎接せんとし て咨を齎して投逓す。目今夏至の風媼迩にあれば、例として該に帰国す べし。呈もて乞うらくは、咨を賜いて齎回して馳報せば、遵守するに便 なるに庶からん等の情あり。司に到る。これに拠り案照したるに、先に 天使を迎接せんがことのためにするあり。琉球国の咨を准けたるに称す らく、随、使者・通事等の官馬似竜等を差わし、咨文を齎捧して夷吮を 率領し、海船に坐駕して迎接せしむ。まさに咨して知会すべし。伏して 乞うらくは査照して転達施行せられよ等の因あり。咨を備えて前来す。 これを准けついで夷使馬似竜等をもって例に照らして駅に発して安挿し 去後れり。いま前因に拠り、冊封起程の日期をもって、科司に聴きて別 に回覆を行うを除くの外、擬してまさに就行せんとす。これがため備に 貴国に咨す。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者な り。  右、琉球国に咨す 万暦三十三年五月初十日 [注1呈 申と同。下級の役所や官吏が上級の役所等に送る文書のこ  と。2金応魁 久米村金氏の七世。具志親雲上。一五七九〜一六二  〇年。尚寧王代の人。進貢使として度々渡唐した。3馬似竜 那覇  牛氏の三世。我那覇親雲上秀昌。後代、唐名を牛助春と謚名され  た。一五六八〜一六二三年。島津侵入前後、冊封使迎接のための渡  唐役、大和役、仕上世座奉行等を勤めた。「大頭我那覇」の俗称  あり。] [一八六 朝鮮国王より琉球国あて、朝貢国間の友好関係を厚くすることについての咨文]  朝鮮国王、申ねて厚儀に酬いんが事のためにす。査照したるに、先 該に万暦三十二年二月二十五日、敝邦の賀至の陪臣宋駿回るありて、京 師より貴国の咨文一角を齎到す。前事節該に、万暦二十九年、敝国の陪 臣蔡奎等貴国の咨文を承領して国に到る。内に開すらく、賊酋殲亡し 余賊はともに官兵に勦除せらる。及煩乞わくは、本国、日後およそ賊情 あれば須く天朝に経報してもって転示せられよ。なお厚儀をもって貴使 柳根をして敝国の陪臣に転交せしむれば、達するを得るに庶幾からん、 等の因あり。  これを准け、ついで厚儀をもって拝領するの外、照し得たるに、関酋 肆逆すれば、神人ともに憤り、天、驕虜を亡して海宇歓を騰ぐ。矧ん や、いま天朝の神武大いに振う。日後、豈復匪茹の関酋の如き者あら んや。ままあるいは萌しあらば、敝国は職として藩封にあり、誼として 友邦に属す。自ら猷念をもって、ともに韜□を分ち、予め探りて馳せ て天朝に奏し、左右に転じて以聞せん。幸わくば遠き慮なきを尤も重ん ず。愧ずるに島外瞰土なるも恩護を獲承すること山岳の戴に勝えず。不 腆なるを揣らず布ねて厚徳に酬いん。慶賀謝恩の陪臣毛継祖・蔡朝信等 をして、京師に齎赴して、貴使に奉交し跣ら殿下に達せしむ。伏して乞 うらくは遠く微衷を昭らかにし、その菲薄なるを恕されよ、等の因あ り。  これを准け、ついで後開の線絹二十端、黄石絹十端、花紋絹十端、土 扇二百把をもって数に照らして収領するの外、窃に照らすに帝徳は遠く 届り、率土みな寧んじ、薄海内外ともにただ帝の臣あるのみ。敝邦は貴 国と疆場截ありて、義として私交しがたきも、誠意あい孚ずれば彼此間 なし。近年以来、敝邦節として貴国の漂流員役をもって天朝に転解し、 もって回国に便ならしむ。貴国も亦復かくの如し。これより毎に進貢の 年節には互いに聘問をもって陪臣を替交するによって、情義ますます敦 く風を望み徳を慕い、幸たること実に多し。いま厚儀また心罅より出ず るを蒙る。諭すに藩封の重きをもってし、ここに友邦の誼を申ね、さら に賊情を分探し、駆せて奏して転示せんことを期す。天下の同倫は禍患 あい恤れむこと理として宜しくかくの如くすべし。茲にために賀至に縁 りて委差せるの陪臣洪遵等天朝に進貢すれば、これに因りてほぼ薄儀を もって遠く微忱を表す。なお謝咨を修め、併せて陪臣に付して著令し、 京師に齎赴して貴使に転交せば、左右に達するを得るに庶幾からん。外、 これがため合に咨覆を行うべし。請うらくは照験して施行せられよ。須 く咨に至るべき者なり。  計開す   一白細苧布二十匹 白細綿紬二十匹 人参一十簧    虎皮三張 豹皮三張 粘陸張厚油紙五部 霜華紙二十巻    花硯二面 黄毛筆五十枝 油煤墨五十錠  右、琉球国に咨す 万暦三十四年八月十三日  厚儀に申酬せんが事  咨す [注1匪茹 匪はわるい、茹はむさぼり食うで、匪茹は貧欲な輩の意  か。2猷念 はかり思うこと。3不腆 少しばかり、粗末な物。4  毛継祖 首里毛氏の五世。豊見城親方盛続。一五六〇〜一六二二年。  島津侵入後の三司官。5蔡朝信 久米村蔡氏の七世。屋良親雲上。  一五五一〜一六〇八年。尚寧王代、進貢使として三度渡唐の記録あ  り。官は長史に陞る。] [一八七 中山王尚寧より礼部あて、冊封使に謝礼金を送ることについての咨文]  琉球国中山王尚(寧)、頒封のこと竣り、特に*金を辞し、もって使節 を重んぜんが事のためにす。本月十四日、欽差せられて一品服を賜わり たる正使兵科右給事中、いま工(科)都給事中に陞せらるるの夏、副使行 人司行人王の咨を准けたるに称すらく、窃に惟うに、交際に礼あるも、 これ貴国に在りてのみ。まさに咨して知会すべし。査照して施行せられ よ等の因あり。備開は、屡次の宴金二封、共計一百九十二両を送還す と。移咨して国に到る。これを准け為照うるに、卑国は海陬に僻処し、 世々聖朝の恩に沐すること渥く、感激極りなし。ここに天使光臨して恩 綸の封典を頒ち、寵栄宦に蒙むれば、挙国懽欣せり。ただ小国荒野にし て物なし。敬を将むるに、故に宴款の際において物に代えるに金をもっ てす。自ら菲薄なるを知るといえども、実に世々縁りてもって例となす。 乃に天台、屡晏するも屡辞するを辱くし、書諭を往返すること 再三に至るも、大義を堅持して固く却け、金を揮うこと土の如し。大節 昭然たり。小国ともに国人を挙げてこれ固よりすでに信孚して間なし。 ただ天台は難苦すること三年、遠く風涛を渉ること万里なるも、敝国 は物に藉りて敬を表す。礼として儀をもってせざれば、この心何ぞよく 自ら安んぜんや。故に作るに屡宴の前金をもって併に具書を封じて、特 に法司、大夫、長史等の官馬良弼等を差わし、犲ら送りて受けんことを 懇う。謂わざりき、また書を致し官を遣わして送還するを煩す。又復、 移咨して固く辞す。窃に謂うに天使の清白自ら持すること、誠に聖朝臣 節の重、外国使臣の表たり。ただ卑国は徳に酬い功に報いるに、万一を 展ぶるなきを殊に慚ず。旧礼*くるありて微敬未だ申べず。それまさに これをいかんせん。送還せる屡次の宴金二封、共計一百九十二両をもっ て、封識具表するを除き、陪臣をして順率せしめて天朝に奏聞す。転じ て懇に、勅もて収受するを賜われば、もって卑国の懇切の心を彰かに し、一念の微忱また少しく尽くすに足るに庶からん。合に就かに咨覆す べし。これがため備に貴科・司に咨す。煩為わくば査照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 万暦三十四年  咨す [注1*金 *は饋に通じ、おくるの意で、宴金と同様に宴会で餞別と  しておくる金のこと。2天台 ここでは冊封使(夏子陽・王士禎)  のこと。3馬良弼 首里馬氏の三世。名護親方良豊。一五五一〜一六  一七年。尚寧王代、冊封使の来琉、島津侵入と続く時期の三司官。] [一八八 礼部より中山王尚寧あて、福建人阮国、毛国鼎の琉球への入籍を承認することについての咨文]  礼部、旧典に査循し懇に藩封を培わんが事のためにす。  該本部題し、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉 じたるに、琉球国中山王尚寧奏称すらく、縄の断つ者は続くべく、国の 虚なる者は培うべし。琉球は旧く朔を奉ずるの初、洪武永楽の間より、 両ながら聖祖の隆恩を蒙り、ともに諞人三十六姓を賜いて国に入る。書 を知る者は名を大夫・長史に列し、もって貢謝の司となし、海に慣れる 者は任ずるに通事・総管をもってし、もって指南の備となす。けだし才 によりて職を効して累世休を承く。謂わざりき、世久しくして代更り、 人湮して裔尽く。僅に六姓を余すもなお侏*・椎髻の習に染り、天朝の 文字音語尽く盲昧と行す。外島海洋の針路は常に舛迷に至り、文移は多 く駁問に至り、舟楫は多く漂没するを致す。甚しきは貢期欠誤、儀物差訛 するに至り、万里の螻誠少しも君父に達するを得ざるなり。これより先、 万暦二十二年臣菊寿等を差わして進貢す。途に迷いて浙に入り、官兵に 擒獲せられて屈斃邀功す。余は審にして卑国貢使に係れば解りて、福建 撫臣金学曾、幤人阮国を選差して護送回国せしむ。二十八年臣また長史 蔡奎を差わし表を齎して請封す。奎、帰路を失い福建衙門に呈請す。な お阮国ならびに幤人毛国鼎を遣わして卑国に送回す。臣天恩を感戴し、 言の喩うべきなし。続いで人の天使を導接するに乏しきにより、ついで 阮国を差わし、給するに都通事色目をもってす。渡海迎護しばしば勤労 を著す。事竣るをもって彼をして本国大夫に列*せしめて、天使を差送 して諞に還えさしむ。毛国鼎は給するに都通事をもってし、差わして王 舅毛鳳儀・正議大夫鄭道とともに齎捧して奏謝す。窃に惟うに卑国は海 邦に僻処し、入貢受封の後より一切の輔導、礼儀は悉く原賜の三十六姓 の裔を頼る。いま世更り代謝して遂に孤国支せざるに至る。一撮の琉球 重きとなすに足るなしといえども、聖祖の隆恩、茂典は尤もまさに続く べきを冀う。理としてまさに懇に請うべし。伏して乞うらくは勅もて礼 部に下し、洪、永年間の恩例に査照して、再び三十六姓を賜撥して球に 入れられよ。なお効労差役の阮国・毛国鼎をもって、各々見色目に照ら し、給するに照身をもってし、それ跟随をして帰舟を導引せしめ、積労 あるを俟ち、琉球の藩佐に准照して一体に陞叙せしめ、国に在りては佐 理の需あり、入貢には愆危の患なければ、皇仁永に戴き、祖沢疆り無 く、臣が子孫世々東藩を守り余幸あるに庶からん、等の因あり。部に到 り司に送る。  査し得たるに、洪武二十五年中山王、子を遣わして国学に入れ、もっ てその国往来朝貢す。賜うところの諞人三十六姓はよく舟を操る者な り。その後大夫・長史・通事の官司を奉表するはみな三十六姓および国 学に学ぶ者これとなす。ただ事は開国にあり。すでに久しく未だ挙行を 見ず。人の世は相伝わるに、諸姓何ぞ皆代謝するや。良民は必ず行くを 楽しまず。奸徒あるいは竄入するに至らん。俯従しがたきに似たり。相 応に題覆し案呈して部に到る。看得したるに琉球国王、中華を嚮慕し職 貢を勤修す。華族を陳請してもって指南となすの旧典は査すべく、まさ に俯順すべきに似たり。ただ善良の族はその郷を去るを重しとし、中国 を強いてもって外夷に就かしめんと欲するは、必ず民情の楽従する所の 者にはあらざるべし。沿海の奸民のごときは投入せんことを営謀し、始 めは貨売の利を貪り、ようやく交搆の端を啓かん。事情測りがたきこ と、またあるいはこれあらん。況や開国の特恩はもとより子を遣わして 入学をなす。この典久曠くすれば安んぞこの例もて続行するを得ん や。かつ、天朝にわかに遣わすも未だ必ずしも俛して約束を受けず。か えってこれをもって該国の処分を累すも未だ知るべからざるなり。宜 しく無事にあい安んじ、必ずしもその請を曲徇せざるに似たり。その効 労差役の阮国、毛国鼎はもとより本差を奉ず。何ぞすなわち他国に逗艪 せんや。すでに夷目に充つれば、中国の照身を給しがたし。しばらく国 王の奏もて討むるを念いて、相応に便に従りて酌処すべし。恭しく命の 下るを候ち、合無該巡撫衙門ならびに琉球国王に移咨して、阮国、毛国 鼎をもって、すなわち賜姓に充て、それをして貢謝に跟随して、帰舟を 導引せしむるの以外、必ずしも再び遣発を行い、もって煩擾を滋くすべ からず、等の因あり。万暦三十五年九月十五日、本部署部事左侍郎兼牴 林院侍読学士楊 等具題し、二十八日聖旨を奉じたるに、是なり。これ を欽めよやとあり。欽遵す。三十六姓の請に為照らして、相応に題奉せ る欽依内の事理に照依して必ずしも続行せざるべし。それ阮国・毛国鼎 は該国に発著して、朝貢を導引するの助に充て、それ原籍の差徭は已経 に福建巡撫衙門に移咨して豁免し去後れり。擬してまさに文を行りて知 会せしむ。これがためまさに貴国に咨すべし。煩為わくば本部の題奉せ る欽依の咨文内の事理に査照して欽遵して施行せられよ。須く咨に至る べき者なり。  右、琉球国王に咨す 万暦三十五年十二月十三日  咨す [注1諞人三十六姓 諞は福建省の別称。諞人三十六姓は十四〜十五世  紀に福建地方から沖縄に移住してきた中国人の総称。進貢等に従事  し、また久米村を形成した。十六世紀末〜十七世紀初、久米村は衰  微し、蔡、鄭、金、梁、林の五家他数姓となったが、後にその五姓  をのみ三十六姓の末裔と称した。2指南の備 指南は教え導く、案  内するの意で、ここでは中国への航海の指導者、案内人を確保して  おくこと。3侏*・椎髻の習(に染り) 侏*は意味不明な外国語  のこと、椎髻は髻の一種で、欹髻のことか。外国の言葉や異国風の  結髪に染まった、つまり琉球の風俗に染まって、の意。4阮国 久  米村阮氏の初代。一五六六〜一六四〇年。もと福建幤州府竜溪県の  人。一五九四年、浙江に漂着した琉球使節につき命により帰国の案  内をしたが、その後も度々琉球貢使の往還に加わり、実質的には使  節の一員となっていた。一六〇七年、琉球王が明朝へ要請して琉球  (中山)へ入籍(帰化)した。5毛国鼎 久米村毛氏の初代。一五  七一〜一六四三年。福建幤州府竜溪県の人。官は正議大夫。阮国と  同様に、度々琉球使節の中国往還を助け、一六〇七年、中山への入  籍が許された。6色目 種類、名目のことで、ここでは(都通事  の)職の意。7毛鳳儀 首里毛氏の三世。池城親方安頼。一五五八  〜一六二三年。尚寧〜尚豊代の三司官。島津侵入の後、二年一貢の  進貢貢期が十年一貢となったため、その復旧と併せて尚豊の請封の  ため一六二二年渡唐、五年一貢を許されたが、帰国の途次福州で病  没。8照身 身を照らす、ここでは身分証明書のこと。9賜姓に充  つ 三十六姓同様に琉球に賜わるの意。10貢謝 進貢と謝恩。11原  籍の差徭 本籍のある地域での徭役のこと。12豁免 責任を免除す  る。租税など官への負担を欠いた際にその補充を免ずること。] [※本項は、阮国・毛国鼎の琉球への入籍を承認した咨文であるが、同  文は両者の家譜にも採られている。王府編集の『球陽』等でも「三  十六姓の欠を補う」として阮毛二姓の賜与の話が記されているが、  本項の咨文では、中国側が既成事実を前にしぶしぶ承認した様が窺  える。] [一八九 大常寺少卿夏・光禄寺寺丞王より中山王尚寧あて、琉球の通商について諌言した咨文]  大常寺少卿夏・光禄寺寺丞王、夷情を俯恤し、題請して通商を議処 し、もって国用に需え、もって諸艱を済うを懇賜せんが事のためにす。  万暦三十五年十月内、琉球国差来の謝恩の陪臣王舅毛鳳儀、大夫鄭 道、阮国、都通事毛国鼎等、中山王の咨文を呈送するに拠りて称すら く、前事のために内に称すらく、切以に聖人御極して中国に屶み、四 夷を撫し、東西二洋を開き、販を興して餉に充てもって辺費を足らし む。琉球また属国にあり。而して貿易通ぜざれば、国暎せ民貧せしむる を致す。琉球はもと開国の初より、欽みて聖祖、三十六姓を恩撥して琉 に入れ国に幹たらしむるを蒙る。旧例を稽査するに、もと朝鮮、交址、 暹邏、柬埔*と興販するあり。これに縁り、卑国陸続資籍に依るを得た り。今に迄りて三十六姓世久しく人湮す。夷酋は指南車路を諳んぜず。 ここをもって各港に販するを断つ。計るにいま六十多年、毫も利の入る るなし。日に鑠け月に銷き、貧にして洗うがごとし。況やまた地窄く して人希なり。賦税入るるところほぼ出すところを償うのみ。斯の如き の匱窘なり。もし懇に議処を乞わざれば、すなわち国本日ごとに虚し く、民間日ごとに*きん。幸に天使安臨して頒封するに逢い、正に当に 議処もて富庶に資せしむるを懇乞すべし。理としてまさに懇乞して題請 し、両院に通行して、引を給して商販し、毎年定むるに一、二隻の船を もって率となし、例として東洋に比して餉に充て、あるいは船隻の往来 は、卑国が号引を詳査して、給するに勘合印信をもってし、照回査験す べし。もし回文印信なければ、すなわちこれ別港に私通するの情弊あり 等の因あり。前来す。  これに拠り査得したるに、貴国引を給して通商するは、もとより旧例 なし。すなわち聖祖、国初賜うに三十六姓あり。また該国入貢航海する に、風涛測り*きがため、彼の三十六姓はよく操舟を習知しもって導引 をなすのみ。あに興販のために設けんや。それ貴国はもとより貧瘠を称 す。すでに物産の貿易を通ずべきなく、また資財の積知に備うべきな し。それ患うるところの者は貧にありといえども、その恃みてもって安 きとなすところもまた貧にあり。富国を浮慕するがごときは、議するに 通商を欲し名を往来に託す。貴国陰に実に倭夷と市を為し、ただに禁を *り奸を長ずるのみにあらず、将来中国の憂を遺さん。窃に恐るら くは、争奪して*を啓けば殺掠これに随わんと。いわゆる寇を延きて室 に入るるは、また貴国*保の計たるところにあらざるのみ。あにただ利 を失うのみならず害これより大なるはなし。  本寺等、前に貴国にあるの時、適倭舶もまた来たりて貿易す。本寺等 厳に禁絶を示し、一人も倭夷と交易するを許さざるは、まさにここに見 ることあればなり。貴国あに利あるを知りて害あるを知らず。目前を急 にして後患を顧みざるべけんや。通商の議、断じて開くべからず。すな わち貴国これより前、進貢船回りて夷官往往にして奸徒を夾帯し、潜に 日本に販し、口を飄風に藉りるはまた査究してこれを申厳せざるべから ざるなり。まさに咨覆を行うべし。煩為わくば査照して施行せられよ。 須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王に咨す 万暦三十五年十二月十九日 [注1大常寺少卿 大常寺は宗孟の祭祀を司った官署名。少卿はそこの  次官。2光禄寺寺丞 光禄寺は諸々の膳を司った官署名。寺丞は属  官で少卿の次位。3資藉 たよる、よりかかる、力とするの意。  4匱窘 とぼしい、物がなくなり苦しい。5東洋 中国の東方の  海、そこの国々。東南アジア等の国のこと。 ※大常寺少卿と光禄寺寺丞は前年の冊封使夏子陽と王士禎の帰任後の  職。] [一九〇 中山王尚寧より中国あて、島津侵入と貢期が緩れることにつき使者派遣についての符文]  琉球国中山王尚(寧)、倭乱を急報し貢期を緩るるを致さんが事の ためにす。いま特に正議大夫・使者・都通事等の官鄭俊等を遣わし、水 吮を率領し、小土船一隻に坐駕して、并びに生硫黄二千簧を装載して福 建等処の承宣布政使司に前赴して、前項の縁由を投報す等の情あり。い ま差去せる員役は並えて文憑なし。誠に所在の官兵の盤験して便ならざ るを恐る。これに拠り理としてまさに符文を備給す。これがため除外 に、いま洪字第五十二号半印勘合符文を給し、都通事梁順等に付して収 執して前去せしむ。もし関津去く処を把隘し、官兵験実せば即便に放行 して、留難して不便をうることなからしめよ。須く符文に至るべき者な り。   計開す、 (京に)赴く    正議大夫一員は鄭俊 人伴一十名     使者一員は麻富都 人伴五名     都通事一員は梁順 人伴三名      管船火長・直庫二名は蔡喜 銭富  右符文は都通事梁順等に付す。これを准す。 万暦三十七年五月(十一)日給す  符文 [注1倭乱 島津侵入のこと。 ※同文書は島津侵入後の第一報である。] [一九一 福建布政使司より琉球国あて、補貢の受納と進貢使節への給賞についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢等の事のためにす。案照したるに、先 に琉球国の咨を准けたるに、長史・使者・通事等の官鄭子孝等を差わ し、夷吮を率領して船隻に坐駕し、表箋文を齎捧して硫黄・馬匹を装載 し前来して三十五年分の貢額を補進す等の因あり。司に到る。咨を備え これを准けてすでにすでに本司、官に委して会盤明白ならしめ、馬匹の ともにすでに倒斃するを除き、ついで硫黄の煎銷して餅を成すをもっ て、福州左衛百戸の顧大節を差委して管解せしめ、それ夷使并びに附搭 の土夏布は福州右衛百戸の夷大道を差委して伴送せしめ、各々両京に前 赴して交納し、批を獲て巻に附し訖れり。それ欽賞するに、長史・使 者・通事并びに留駅の鄭子孝等六員にはともに綵段十表裏、また長史人 伴、到京并びに留駅通事人等ともに五十員名にはともに綿布一百十疋な り。原搭の土夏布は生絹二十五疋に折値し、ともに長史鄭子孝に給付し て領回せしむ。いま照らすに夷使進貢の事おわりて回省せば、例に照ら して宴賞して帰国せしむるの外、まさに就ち回覆すべし。これがため由 を備えて貴国に移咨す。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至 るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦三十七年六月初六日 [注1福州左衛(百戸) 福州に置かれた衛(軍隊の駐屯地)の一つ。  明代の軍制は、中央に五軍都督府を置き、各軍の下に地方には衛、  所を設けて各都指揮司に属せしめた。福建都指揮司下の衛には、福  州左衛の他、福州右衛・中衛など、所には定海・梅花千戸所など二  七衛・所があった。衛の長は指揮(大概五千人を率いる)で、以下  千戸(千人)、百戸(百人)、総旗(五〇人)、小旗(十人)と続く。] [一九二 琉球国の国事を看るの法司馬良弼より礼部あて、島津侵入の経緯を報ずる咨文]  琉球国中山王府の王妃馬氏・王弟尚宏を摂して暫く国事を看るの法司 馬良弼、飛報の事のためにす。万暦三十七年十一月内、日本に出奔して 未だ回らざるの国王の憲牌を奉けたるに、咨を備えて、天恩もて遭乱を 恤憐し貢職を贖修せんが事を懇乞せよとあり。齎称すらく、伏して惟う に天朝の皇帝は天地と合し、その徳は日月と並び、その明洋は四表に溢 れ、寿は万年を計る。欣幸なるかな。伏して以うに琉球は天朝に服事す ること、けだし数百年なり。□、*豆の礼を聞くも未だ□旅の事を学ば ず。己酉の歳季春、倭人兵を率いて来□す。小は大に敵すべからず、い かんともするなし。僧菊居隠法印等を遣わし、幣帛□解す。倭人舷を扣 いて□還す。琉球は倭国とあい去ること僅か二千余里、いま礼を講ぜざ れば後世必ず患あらん。やむをえずして遐く倭国甼州に致り、力めて和 議を主とす。熟視するに彼の国の風俗は外勇猛にして内慈哀なり。深く 睦めば講好す。また弱小を恤み、地を割きて尽く行退す。また鶏篭は諌 を聴きて罷む。ただあい和好するを約し、永く魯衛の治世をなす。□照 するに、本国は原より例として三年二貢なるも、驟に倭乱を警報するに より貢期を緩るるを致す。本年五月内、続いで大夫・使者・通事等の官 鄭俊等を差遣し、土小船一隻に坐駕し、ついで硫黄二千簧を載せて前去 し、風を候ちて馳報せしむ。切に□□微小なるを見、飄風渉海は危測知 るなければ、特に毛鳳儀をして回国して報ぜしむ。作速かに例を査して 員役を添差して齎報せしむ等の情あり。なお例に照らして硫黄の簧数を 備弁し、福建布政使司に先赴して投逓す。伏して乞うらくは、礼部に移 文して君父に遣奏して、貢を緩るるの罪を赦宥せられんことを、等の情 あり。此を奉け、馬良弼情を将てついで王妃馬氏・王弟尚宏に稟請し、 遵いて原奉もて国王の差来せる王舅毛鳳儀を将て、ついで旧例を査照し て、長史・使者・通事等(の官)金応魁等を添差し、咨を齎して船隻に 坐駕し、原奉の前項、備弁の額‐硫黄四千簧を装載して福建布政使司に 前赴し投逓して飛報せしむの縁由あり。伏して乞うらくは遣奏して施行 せられよ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 万暦三十八年正月二十日  咨す [注1尚宏 尚寧王の弟。国相の具志頭王子朝盛。一五七八〜一六一〇  年。島津侵入後、尚寧に随行して上国。翌年再度の上国で尚寧とと  もに駿府の徳川家康に謁見したが、同地で病没。2日本に…国王  島津侵入後、捕虜として鹿児島に連行されている尚寧のこと。3*  豆の礼 *・豆はともに祭祀や饗宴に用いる器で、*豆の礼で諸儀  式の意であろう。4己酉の歳…来□す 万暦三十七年(一六〇九)  己酉の島津侵入のこと。5菊居隠 国相菊隠のこと。円覚寺十八代  の住持。?〜一六二〇年。島津侵入時、かつて日本に遊学し、甼摩  にも知己が多いとして、降服の接衝に当たった。ついで国相とな  り、六年務めた後、西来院に隠居した。6鶏篭 台湾のこと。7魯  衛の治世 魯・衛はともに周代の国名。魯衛はもと兄弟から始まる  国で、その政事(つまり治世)もよく以ていることをいう。] [一九三 法司馬良弼より福建布政使司あて、薩摩侵入の経過と進貢の継続を願う咨文]  琉球国中山王府の王妃・王弟尚宏を摂して暫く国事を看掌するの法司 馬良弼、懇乞すらくは天恩もて遭乱を恤憐し、貢職を贖修せんが事のた めにす。査して先に案照したるに、万暦三十七年十月十一日、正議大夫 鄭俊等を差わし報を齎し、倭乱を急報し貢期を緩らすを致さんが事のた めにすとあり。  照し得たるに、本国三年二貢にして歴進して爽わず。本年例として貢 期に該りまさに進奉を行うべく、すでに員役、土船に坐駕して馬匹・硫 黄を装載して完備するの外、風を候ちて開駕せんとするに驟に警報を聞 く。日本甼摩州の倭酋他魯済・呉済等鳩党して海島に流毒し、属地に蔓 肆し、進貢行程を阻滞するを致す。  三十七年三月内、先に葉壁山・奇佳山等の処に拠りて、連に烽号を放 ち、虚惨を伝報するも、ただ未だ郵舗もて実事を投呈するに接せざれ ば、挙国疑いて惶惶たるに似たり。議して兵を興して救に向わんと欲す るも、それ藩城守りを失うを恐れ、すなわち劫殺せらるるを傍観せんと 欲するも生民の塗炭するを忍びず。  三月二十日、卑職、法司馬良弼を差遣し、精兵千余を率領して陸に向 い彼に致るも救を阻まれ去後れり。ついで馬良弼の回りて称するに拠る にその倭勢の雄張を観るに、戦艦糾結し、布擺散処し、紅白の旗幟、間 閃飛揺す。遠望するにそれ幾千余なるを弁ずるなし。銃声を聆聴くに綿 連として絶えず。麓を火き山を焚き、勢、毛を燎くがごとし。真に人の 髪をして上指せしむのみ。三月二十六日、馬良弼密に之きて襍窺する に、船多くして倭少なし。中心思忖するの十分の八にしてその醜虜を量 る。これ虚張の賊勢にして捲劫するに僥倖たり。良弼兵をして進み殺さ しめんとす。糅ざりき倭狡計もて深山に伏寇し、敗るると詐りて侵を弭 む。四顧するに驟に弼の兵囲せられて傷損して半を去る。良弼は倭に擒 獲せられ、*拷して献降す。良弼天を仰ぎて呼号すらく、我が琉球、上 は天朝万歳の爺父あり、下は琉球国主あり。良弼兵を領して敵に向う も、すでに戦勝すること能わず。また身を衛ること能わざれば死すとも 何ぞ惜しむに足らん。二賊首、それ一匹の懦夫、あえて万軍の雄陣に向 うは、これ火に入りて擒に就くを知るなきといえども、ついに忠君愛国 を明らかにするを嘉し、殺さずして忠を全からしむ等の情あり。  四月初一日に至りて倭寇中山の那覇港に突入す。卑職、師官鄭*・毛 継祖等に厳令して、技兵三千余を統督し、堅を披き鋭を執りて那覇江口 に雄拠して力敵す。彼の時、球兵は陸居して勢強く、蠢倭は水処して勢 弱し、百たび出でて拒敵し、倭それ左す。かつまた倭船浅小にして武に 用い難し。沂射れば逃れ難く、鋭発せば避くるなし。愴忙急処して船各 自携角し衝礁し、沈斃および殺死するもの勝げて紀すべからず。糅ざり き彼の倭奴兵を蔵して継ぎ至り、陸に沿いて東北より入る。この処兵の 備禦なし。虞喇時等の地方悉く焚惨を被る。かつ琉球は東隅に僻在する の絶島なり。兵出だすに限あり。助を求むるに地なし。孤危きも独支う。 兵をして北に敵せしむればすなわち南を失い、南に敵すればすなわち北 を失う。首尾あい顧みること能わず。継祖等兵を帥いて退き、首里王城 を堅防す。倭ただちに那覇営巣を突く。彼の時窺伺核考するに衆寡弁ず るなく、ただ隊蜂蟻をなし、勢喊虎のごとし。かつ彼の蠢爾地に拠りて 倍強し、一は十に当たるに足り、もって力敵しがたし。卑職仰思して俯嘆 す。いま閭閻地墟しく百姓疲饑す。進戦せしむれば生民の肝脳塗地に忍 びがたし。官民人等に呼令して躱避して入城せしむ。四月初四日藩城、 倭に羅囲せらること数沫、村麓劫せられ孑遺あるなし。卑職詳思熟察す るに、進戦退守は勢として恐らくは両ながら難し。いかんともするな く、僧菊居隠、僧法印等を遣わし、帛を幣して釈解す。倭の兵を罷めん ことを愿い休を告ぐ。まさに旬余ありてまた土を割きて献降せんことを 逼る。暴肆鵬言なり。仮に議のごとくせざれば城孟ことごとく焚毀を行 い、百姓ことごとく剿滅を行いて土地は悉く所有に捲せんと。卑職仰念 するに、天朝に叩救するも、ただ波程万里にして一朝にして力の為すべ きにあらず。興慨するも計窮まる。それ官民を顧みて曰く、此の似の疥 癬、療せざれば恐らくは心腹の患を貽さん。一指舎ざれば肩背の全を保 ちがたしと。挙国官民いかんともするなく議して北隅の葉壁一島を割 き、民の塗炭するを拯う。なんぞ彼の狡倭壟を得て蜀を望まんや。また 挟制助兵して鶏篭を協取せんとす。卑職、それ鶏篭を看るにこれ萍海の 野夷なりといえども、その咽喉は諞海に毘連するの地に居る。藉りに鶏 篭をして殃虐せらるれば、すなわち省の浜海の居民、なんぞよく安破す ること故のごとくして之がために警懼せざらんや。卑職深く隠憂をな す。すでにその非を制馭することあたわざるも、いずくんぞあえてその 虐を恣に助けんや。口に絶拒を矢い、尽瘁彌縫して称して道わく、我 が琉球はこれ一撮の海島なりといえども、もとより詔もて守礼の邦と褒 せられ、進貢を賜准せられて帰順し、なお陪臣の子の大学に入読せられ て、聖教を襲受するを賜うを欽蒙するに係る。今もし汝が肆乱を助けれ ばなんぞ我が君父の罪責を舂れん。糅ざりき彼の狡倭の喜怒常なく、変 幻測るなし。また肆に攻焚し、国戚および三法司等の官を勒挟して、 ことごとく寺院に牢罹して威嚇して虐を助けるの前議を諾允せしめんと す。卑職、延久するも聴さず。狡倭計の稽遅に変じ、禍の日久きに生ず るを恐れ慮るなり。  五月初五日節端陽に乗じて二賊首醴を設け*みて遊船せんことを揖 む。卑職もとよりこれ酒もて穽しめられ、礼もて嚢らるやを知るも、ま た未だ真非を剖決せず。また恐るるらくは冒却すれば嗔を増してやすん ずるなからん。就前まんとしてすなわち覊絆を惹くも耄歩離るるなし。 なお国戚三法司等の官を挟率して一併に日本に随往し、その国首に見え て前情を裁奪せしめんとす。この時この際、進退両ながら難し。屈して 議に依るを聴く。ついで喚びて三法司等の官呉頼瑞・鄭*・王舅毛鳳 儀・訳使毛鳳朝・毛万紀等と同に、すなわち五月十四日に、彼の倭奴と ともに一起に開駕す。切に思うに職として藩募に任じ、難に臨みて死守 するは、義として当に然るべきところなるも、ただ、君父を仰瞻して未 だあえて躯を捐てず。まさに措りて就行せんとす。これにより彼の狡奴 を看るに此のごとく兇を行い毒を肆にすれば恐るるらくは、放恣忌な く、窺蔓して省の浜海の居民に及ぶ事あるも、また未だ知るべからざる なり。矧や、冊封の国王他国に出奔す。事は重大に干わる。倭奴*をな すの情、また軽きに匪ず。理としてまさにすみやかに飛報を行うは、こ れがためなり。ただ、北風未だ発せざれば、もって通行しがたし。卑職 ついで咨を備えて給照し、正議大夫・使者・都通事等の官鄭俊等を差遣 し、土小船一隻に坐駕し、并びについで生硫黄二千簧を載して風を候ち て馳報せしむ等の情あり。これによりついで印信をもって法司馬良弼に 交嘱し、王妃・王弟を摂して、しばらく看掌を署せしむ。なお原差の員 役は媼発すれば即時発行して貴司に報道せしむ。別に部に報ずるの咨文 一道あり。伏して乞うらくは人を差わして京に赴きて投逓せしめられん ことを。原差の員役は五月に遣発を賜いて帰国するを乞う等の情あり。  これを奉け馬良弼ついで王妃・王弟尚宏に請稟して、すでに原国王を 奉じたるの前項の差遣せる員役は咨を齎らして小船に坐駕し、并びに原 奉の備弁せる前項の硫黄をもって旧年十月内、北風発するに方たり、随 に開駕して馳報せしむるの外、十月二十日に至りて、ついで奉じたるに 国王日本より未だ回らざるも、王舅毛鳳儀等を差遣して文を捧じて国に 致す。  これを奉けたるに称すらく、飛報の事のためにす。切に以うに国家乱 に遭うはすなわち天運の災数なり。乱れるも貢を失う毋きはさらに臣子 のまさに然るべきところなり。旧年遠く藩維を離るるはこれ苟も活き て生を偸むものにはあらず、実に国家の重担を耽いて無聊ざるなり。こ こに念い、ここに在りて日として我が君父の重譴を惶れざるはなし。尚 宏・良弼、爾輩暫替も位を虚しくするをもって貢典を欠失することなか れ。作速かに例を査して咨を備えて差遣し、天恩もて遭乱を恤憐し、職 貢を補わしめんが事を懇乞せよ。孤…蠢爾、……、すなわちこれ好克博 高にして、並えて毒を肆にして呑并するにはあらず。前に地を割きて尽 く行退す。復た鶏篭を取らんことを要むるも諌を聴きて罷止む。ただ未 だ倭君に見えて講請せざれば、誠に毘連せる強梁の甼摩州の詐冒測られ ざるを恐る。来年二、三月、孤、関東に去きて奪を杜がんとす。もしこ れ匹馬、行李の帰期は必ず爽わざるべし。風に由りて艦に載せ万旅跟程 す。卜するに故国に抵るは明冬にあらざれば定めて後春にあらん。爾輩 家国に競競として忽がせにすることなかれ。これ乾乾として修貢を図 り、孤を体して謀をなせ。もっぱらここに王舅毛鳳儀を差遣して齎回し て特に報ぜしむ等の情あり。これを奉け、馬良弼ついで情をもって、王 妃・王弟尚宏等に稟請し遵いて国王の差来せる王舅毛鳳儀を将て、なお 議して旧例を査循し長史金応魁等の官を添差し、なお前差の正議大夫鄭 俊等の倭乱を齎報して貢期を緩らせるを致す等の事の情由をもって、抄 粘して咨を備え遣発して土船に坐駕し、陸続と硫黄四千簧を装載し、福 建等処の承宣布政使司に前赴して投逓す。伏して乞うらくは施行せられ よ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 万暦三十八年正月三十日  咨す [注1他魯済 甼摩の征琉軍の副将、平田太郎左衛門増宗のこと。2呉  済 征琉軍の大将、樺山権左衛門久高のこと。3葉壁山 伊平屋島  のことであろう。4奇佳山 喜界島のことか。5懦夫 臆病で意気  地のない男。6虞喇時 地名。ぐらじ(うらしー)で浦添のことで  あろう。7呉頼瑞 人名。ごらずい(うらしー)で浦添。島津侵入  時の三司官向里瑞・浦添親方朝師のこと。8毛鳳朝 尚寧〜尚豊王  代の三司官。読谷山親方盛韶(当時は江曾栄真と称す)。一五五六〜  一六三二年。島津侵入後、国相菊隠らと和平交渉等にあたった他、  子のない尚寧の跡嗣に尚豊を立てた功労者とされる。] [一九四 中山王尚寧より中国あて、島津侵入前後の事情を報ずる使者派遣についての執照文]  琉球国中山王尚(寧)、懇乞すらくは天恩もて遭乱を恤怜し、貢職を 贖修せん等の事のためにす。いま特に王舅毛鳳儀.長史・使者・通事等 の官金応魁等を遣わし、水吮を率領し、土船一隻に坐駕し、并びに生硫 黄四千簧を装載して、福建等処の承宣布政使司に前赴して前項の縁由を 投報す等の情あり。いま差せる員役は並えて文憑なし。誠に所在の官司 の盤阻して便ならざるを恐る。本府除外、いま洪字第五十三号半印勘合 執照を給し、存留通事蔡崇貴等に付して収執して前去せしむ。もし経過 の関津去く処を把隘し、および沿海の巡襍軍兵の験実に遇わば、即便に 放行し、留難して遅留不便を得ること毋らしめよ。須く執照に至るべき 者なり。計開す。  王舅一員は毛鳳儀 人伴一十名   長史一員は金応魁 人伴一十名   使者一員は兪美玉 人伴五名   通事一員は蔡錦 人伴二名   存留在船使者二員は栢寿 呉自福 人伴五名   存留在船通事一員は蔡崇貴 人伴二名    管船火長直庫二名は林世厚 馬故巴     水吮はともに四十九名なり  右執照は存留通事蔡崇貴等に付す。これを准す 万暦三十八年正月二十日給す  執照 [注1蔡崇貴 久米村蔡氏(平川家)の初代。福建西門外の人。琉球への  帰化は嘉靖年間とある(嘉徳堂規模帳)。2蔡錦 久米村蔡氏(志多  伯家)の九世。稲福親雲上。島津侵入後、貢期の回復等につき度々  渡唐した。3栢寿 那覇栢氏の三世。小禄親雲上良宗。一五八二〜  一六五六年。尚寧〜尚賢王代の人。御物城、御物奉行等を歴任し、  一六二四年には八重山のキリシタン事件等の処理に当たった。] [一九五 神宗より中山王尚寧あて、島津侵入に対する憮恤と前後の事情を問う勅諭]  皇帝、琉球国中山王尚寧に勅諭す。近ごろ該福建撫按官題称すらく、 差来の王舅毛鳳儀表文方物を齎捧して称すらく、王国倭乱に遭うにより 貢期を愆つを致すと。念うに爾この喪乱の秋に当たりてなお緩貢の懼れ を切にするがごときは、深く朕が懐を惻ましむ。ここに特に勅を降して 憮慰す。爾国に還るの日、務めてまさに流散を撫安し、疆場を保守し、 修貢常の如くし、永く恭順を堅くすれば、朝廷遠宇を恤むの意に負かざ るに庶からん。それ該国と倭国との前後の事情は爾まさに再び奏報を行 いもって裁処に憑らしめよ。それ王舅毛鳳儀および長史・通事人等はと もに各々例に照らして賞賚すること差あり。并びに爾に諭して之を知ら しむ。故に諭す。  万暦三十八年十二月十六日 [一九六 中山王尚寧より朝鮮国あて、修好および返礼についての咨文]  琉球国中山王尚(寧)、隣好を敦くせんが事のためにす。万暦三十九 年五月、敝邦の陪臣王舅毛鳳儀等京師より回りて貴国の咨文一角を齎到 するに称すらく、無禄の先父王群臣を奄棄す。寡人命を朝に受け、箕封 を嗣守するも、煢々として疾にあることすでに三年を過ぐ。私交戒むる 所ありといえども、旧好あに修せざらんや。いま咨を蒙けてまた知る。 貴国また皇恩もて王爵を襲封せらるるを荷くすと。これを欣慰すること 私なるも、いずくんぞ馳嚮するに勝えざらん。かつ聞く、鳥島の酋の褫 魄の鯨波少しく妥まる。これ実に皇霊の遠きを震わし、そもまた友邦の 福なり。およそ賊情あれば細大を揀ばず天朝に経報して敝国に転示せば 幸甚なり。不腆の土宜もて遠く微忱を表す。よりて謝咨を修めて、賀至 の陪臣吏曹参判兪大禎等に著令して、京師に齎赴して貴国に転交せし む。庶幾わくば左右に得達せられよ、と。擬してまさに咨覆すべし。後 開の白細苧布二十匹・白細綿紬二十匹・人参一十簧・虎皮三張・豹皮三 張・粘張厚油紙五部・霜華紙二十巻・花硯二面・黄毛筆五十枝・油煤墨 五十錠は国に到りて拝領せり。理としてまさに回咨して齎報すべし。  それ敝邦と貴国とは、実に重*を隔て、地は遐迩の殊なることありと いえども、心は永く伯仲の雅に聯なる。先王奄の捐館を憫み、継述の これ賢なるを慶ぶ。ただに貴国考妣を喪うが如きのみならず、孤の心 また吾が翁若が翁を以いてますます戚なり。煢々として疾にあるも勤 めて旧好を修むるは子道、友道の兼隆を信ずればなり。緬想うに寡人襲 封、無幾きも外寇侵侮す。天災の流行なりといえども、実に涼徳の致 すところにして生民の塗炭に忍びず。ここをもって越国して会盟し淹滞 すること三年、和議始めて定まり、はじめて言に帰るを得たり。およそ 賊情の謀をなすや測られざるあれば、宜しく*戸の防を周くすべし。事 は巨細なく天朝に奏聞してもって裁断に憑るべし。敝邦倭の乱に遭い府 庫空虚にして君民懸磬す。しばしば厚儀を蒙くも報徳するによるなし。 万里神交せんとしていささか土宜を具えて遠く微忱を表し、敬みて謝咨 を修し、もっぱら陪臣法司馬良弼等を遣わし京師に齎赴して貴国に転交 す。庶幾わくば左右に得達せられんことを。これがため移咨す。須く咨 に至るべき者なり。  計開す   右、朝鮮国に咨す (万暦四十年代か) [注1箕封 箕(殷の人)の封ぜられた国、つまり朝鮮の意か。2褫魄  の鯨波 たましいを奪うほどの大波。ここでは「鳥島の酋の…」と  あるので、島津侵入の騒動を指したものか。3考妣 死んだ父母。  考はなき父、妣はなき母。4*戸の防 窓と戸、つまり出入口の防  禦の意。5懸磬 何もない。すっからかん。] [一九七 中山王尚寧より福建布政使司あて、勅諭によりて倭乱平定し甼摩より帰国したことの謝恩と進貢についての咨文]  琉球国中山王尚(寧)、開読、進貢、謝恩等の事のためにす。  万暦三十九年十月十九日、出奔帰国し、皇帝の中山王尚寧に勅諭する を欽奉するに、近ごろ該福建撫按官題称すらく、差来の王舅毛鳳儀表文 方物を齎捧して称すらく、王国倭乱に遭うにより貢期を愆つを致すと。 念うに爾喪乱の秋に当たりて猶緩貢の懼を切にするがごときは、深く朕 が懐を惻ましむ。ここに特に勅を降して撫慰す。爾国に還るの日、務め てまさに流散を撫安し、疆場を保守し、修貢常の如くして永く恭順を堅 くすれば、朝廷遠宇を恤むの意に負かざるに庶からん。それ該国と倭国 との前後の事情は、爾再び奏報を行いてもって裁処に憑らしめよ。故に 爾に諭して知らしむ等の情あり。これを欽めよやとあり。  欽遵して先ず拠りて案照するに、万暦三十九年五月内、差して倭乱の 事情を飛報せる王舅毛鳳儀・長史金応魁等、皇帝の勅諭を齎捧し国に到 り、ついで航海して倭に入りて称するに拠るに、倭乱を報ずるの事竣り て回還すと。拠りて称するに、紫泥□の内、いまだ何の縁由を作すやを 知らず、未だあえて開啓を擅便せず、等の情あり。  これにより切に□するに天威遠く播き、夷酋みな惶れて胆を喪う。帝 勅頒臨して倭君もまた悉く傾心す。帰国の瓜期、本より定吉あり。勅諭 を欽奉して遂に礼を加うること隆増、二員の首目を差わし二百余従を帯 領して、二船に坐駕して護送帰国せしむ、等の情あり。  旧年十月十九日藩城に□按するに官□胥□□を慶ぶ。遵いて欽奉せる 勅諭を将て開読したるに、欽依して奉行せよ。これを欽めよやとあり。 欽遵して、また天恩もて畳ねて襍船二隻を賜り、毛鳳儀等に給与して 坐駕して帰国せしむるを蒙むれば、恩ともに頂戴す。ここに疆土を平定 すること故のごとくして士民維新するに当たり、例としてまさに進貢謝 恩して供に藩職を修むべし。いま特に法司馬良弼、正議大夫鄭俊を遣わ し、使者、通事等の官を率同して、表箋を齎捧し船隻に坐駕して、馬四 匹・硫黄一万簧を装載せり。慮うに船隻窄くして重載に堪えざるによ り、内に先に五千五百簧は三十九年十一月内にありて差遣して帰国の事 を急報するの人船に*載して前来投逓す。請うらくは正貢の船隻省に到 るを候ちて、一併に類斉せしめ万暦三十九年の貢額を進奉せんとす。な お真金沙魚皮*真金結束黒漆鞘腰刀二把・真銀沙魚皮*真銀結束黒漆鞘 腰刀二把・沙魚*鍍金銅結束黒漆鞘腰刀二十把・鍍金銅結束黒漆鞘紅漆 柄笆刀一十把・鍍金銅結束黒漆鞘紅漆柄鎗一十把・扣線結黒角甲二領・ 鉄*二領・護面胸掩手套護吭全六幅・真金描帷募一対は前来して謝恩 す。方今倭寇甫めて定まるも、国困しみ民貧すれば儀物斉わず。恤憐せ られんことを乞念う。前の万暦三十四年に差わしたる王舅毛鳳儀・正議 大夫鄭道等は、前来して万暦三十三年の貢額の硫黄一万簧を進奉す。員 役の回称に拠るに、すでに庫に貯うるを蒙るも未だ京に解るを蒙らず。 ここに倭乱平定に当たりて進貢前来す。原貯の硫黄は、伏して乞うらく は今年の硫黄と類同して惓銷し、声説明白ならしめて一併に解進せば歳 貢の常を欠失する毋きに庶からん。なお土夏布二百疋は歴として絹帛二 十五疋と兌う。ここに三十三年の夏布はまた未だ兌回するを蒙らず。見 に庫に積む。拠りて中間に鼠耗朽爛の慮なきあるも、恐らくは積むこと 久しければ湿灰せん。いまついで一百疋を附して前来して補に抵つ。耗 兌を除くの額はこれもとより歴年の恩典に係れば、伏して乞うらくは査 照して今年の二百疋は湊…四……一併に絹帛と兌換して齎回すれば、朝 廷遠宇を柔するの意、外夷恩典に沾うの例、両ながら失わざるに庶か らん。これがため理としてまさに貴司に移咨して知会せしむ。希わくば 咨文の事理もて伏して乞うらくは逐一査照して帰国せしめ、倭寇平定の 情由は伏して乞うらくは題奏して施行せられよ。これがために移咨す。 須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 万暦四十年正月 日  咨す [注1瓜期 瓜時。任地で勤務する年限が満ちること。ここでは捕囚と  なっている尚寧が放たれる時期のこと。2鼠耗朽爛 鼠による損害  や朽ち果てること。] [一九八 中山王尚寧より福建布政使司あて、王府銀料詐取横領事件に関し真犯人の探索依頼についての咨文]  琉球国中山王尚(寧)、盗贓を急究せんが事のためにす。切に以うに、 蛇は頭によりて酖毒す。盗は囮に憑りて害を肆にす。該国歳ごとに職貢 に循い、遣わすに定員あり。財副の設は、本よりこれ銀を管す。因りて よく授任して、結確を詢らざれば、孰かあえて営充せん。原差わすの栢 寿は銀両を管解して買整す。倭が燬つこと、これ百十の数にあらずし て、なお千余に足る。身家の係るところなれば、監守防閑して夙夜懈ら ざるは理の必ず然るところにして、勢勉むるを待たず。ただ、機、*、囮、 賂、愛、披、肝は飾りて抒情となるを知るのみ。夷人、性直なるに仰 り、計篭に陥いる。拙…坑…*、ただ嚢を探りて物を取り易し。窃に聞 見するに…追恩を蒙り…造、曲節未だ情を詳にせず。織を弊り方を欺く を恐る。俯聴して請乞うらくは神電を留めて、照して玉石を明分し、真 盗を*り、もってすみやかに追叩して罩捏し、□放せられよ。かつて聞 く、鳥飛べば羽落つ、盗は王銀千余両を託む。あに賊跡なからんや。か つ天網苓々にして真盗また奚んぞよく漏脱せんや。これがため理として まさに貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば追究して施行せられよ。 これがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 万暦四十一年二月十一日  咨す [注1盗贓 窃盗などによって得た品物。2酖毒 酖という鳥の毒。転  じて害毒の意。3財副 ツァイフウ。会計責任者のこと。沖縄側の  記録には才府とある。4勢…待たず 人にいわれ、強いられてする  ものではないの意。5罩捏 篭にこめる、とじこめるの意か。6天  網…漏脱せんや 天の網は広く大きい。天網苓々疎にして漏らさず  と同意。] [一九九 福建布政使司より琉球国あて、島津侵入の痛手に稽み十年後に進貢すべき旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢謝恩等の事のためにす。案照したる に、万暦四十年三月十五日、該国の咨を准けたるに、法司馬良弼・正議 大夫鄭俊等を差遣し、夷吮を率領し、船隻に坐駕して、硫黄・馬匹を装 載して前来し、進貢謝恩す等の因あり。司に到る。  これを准け、ついで福州府海防館の査を行拠たるに、進到せる方物 をもって盤験明白なるの呈報、前来す。両院に転詳するの外、ついで撫 院の案験を奉けたるに、題請して勅諭を遵奉したるに、爾が国、新たに 残破を経て、財匱しくして人乏し。なんぞ必ず間関して遠来するや。還 りてまさに厚く自ら繕聚すべし。十年の後、物力やや完するを俟ち、 然る後また貢職を修むるも未だ晩きとなさざるなり。見にいま貢物、巡 撫衙門に着して、査せしむるに、倭産に係る者はそれ悉く携え帰らし め、若が国に出るに係る者はしばらく収解を准し、もって爾が恭順の意 を見ん。また来貢の人は旧に照らして給賞し、即便に回国せしめ、必ず しも入朝せしめず。もって跋渉の労苦を省かん、等の因あり。司に到 る。  これを奉け、依奉して査するに、夷使の法司馬良弼等の日給、廩軛、 蔬薪、賞賚等の項をもって、ともに旧規に照らして優給して欠かず。た だ進貢の硫黄は収めて惓銷を候ちて部に解す。それ謝恩の真金沙魚皮* の各項の方物は、ともに法司良弼等に着して、数に照らして領回せしむ るの外、まさに就ちに咨覆すべし。これがため、いま媼期の一に便なる に値れば、船隻を製造して完備し、あいまさに送帰すべし。貴国に移咨 す。勅諭を遵照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦四十一年五月十三日 [二〇〇 福建総鎮府より法司馬良弼あて、三年二貢の定例への回復を上奏した旨についての咨文]  欽差福建総鎮府 貢を絶たるるにつき代りて請わんが事のためにす。 咨文一角、琉球中山王尚(寧)に前往して知会せしむ。爾が国、前年い かんせん倭虜を被るによるも、旧年において回復して帰国せり。夷使の 法司馬良弼等を差遣して呈称すらく、いま来りて謝恩・進貢するは忠順 報効を事とす。期せざりき水寨把総の勒騙を被りて遂げず。捏情して中 に倭産ありと申報す。軍門丁詢問して未だ明らかならずして、径ちに自 ら上本…奏して…命下りて、十年の後を俟ちて方めて来貢を許すと。た だ念うに、我が国二百余年並えて倭に通ずるの情なし。いま具呈して叩 投し……代りて上本をなし、前情を分解して例に照らして三年進貢を乞 えば、王臣、徳を感ずと。本府即ち代りて上本して朝廷に申奏す。幸い に聖上命下る。兵部に着して会議明白ならしめて回奏せよと。いま兵部 回奏すらく、官を差わして貴国に往き事情を襍探せしめ、方めて進貢の 期を定むるを要むと。もしここに命下れば即ち官員を差わし、前往襍探 して回報せしめ、果して倭情なければ、依如として常の三年の例に照ら して進貢すべし。爾等憂慮をうるなかれ。別に牒咨をなして照会す。須 く咨に至るべき者なり。  万暦四十一年六月初九日 咨行す [注1欽差福建総鎮府 総鎮は地方の駐留軍の長官である総兵官の意  で、福建の駐留軍の長官の役所の意か。欽差は勅使のこと。2把総    官名。明代永楽中、三大営を設け、把総・把司等を置き、功臣を  充てた。しかし清代には武官の末級となり、位は千総につぐ。ここ  での水寨把総は沿海や河川の守備に当たる把総であろう。3勒騙   無理に騙す、無理矢理騙しての意。4軍門 明・清代、地方長官で  軍政を担当している者の敬称。5牒咨 官文書の称の一つ。ここで  は福建総鎮府から法司馬良弼あてであるため、通常の(平)咨では  なく、上から下への牒咨となったのであろう。] [二〇一 中山王尚寧より礼部あて、十年一貢をやめ旧例(二年一貢)を覆するを乞うことについての咨文]  琉球国中山王尚寧、開読して、天に*り、電かに簸弄せらるるを豁さ れ、歳貢を鑑納せられ、もって孤危を拯いて、もって毒寇を釐められん が事のためにす。  万暦四十一年七月内、勅諭を奉じたるに、国土貧挟にしてまた新たに 残破を経るを恤念す。歳事愆つといえども、また爾が責ならず。爾よろ しく人民を拊綏し、慎みて封圉を固くし、もって自完の計をなし、十年 の後、物力の充燉するを俟ちて、再び修貢を行うべし等因。これを欽め よやとあり。欽遵す。  薄土仰瞻して光天の化日、陬を環りて、頌囿の玉燭を春台に載せるを 喜ぶ。□□琉球、九区に□□し、諞を去ること万里にして、東海の波□ に懸る。居するに□□無く、人戦を習わず。すなわち所属の諸島波末に 浮影するを以て、将旦の星、河漢に錯落するが如し。日本は素より強狡 を称す。これと隣をなすの琉球は世に伝えて今に永きを得るは、あに聖 神極に御し、威徳広く被いて属国の世々の守りたらしむにあらざらん や。ついでその守りを恃むは、またただ険と神のみ。それ険は固より恃 むべきも、また未だことごとくは恃むに足らず。神は拠るべきといえど も、またあにことごとくは拠る能わんや。それ恃む所の安を覆盂よりも 甚しくするは□よりは毋し。該国天朝に効順し、すなわち山川の神霊は 黙してその順を助くるなり。  知らざりき、万暦三十七年において、にわかに□変に遭い、流離播越 するとは。殆うきかな、岌岌乎として虧くところを知るなし。これを 愚躬に揣りて、侯度を恪遵するも、あえて瑕なきと謂わんや。奚為くん ぞ歴歴たる盛*に忻臺したるに、ここに蹇にして殊危に遇い、刺棘に惶 愕するや。また焉くんぞ天誅を舂れんや。忽にして、命の天よりし、愆 咎を海岻せらるるを聞く。誠歓誠*して躬を措くに地なし。  これをもって万暦四十年、もっぱら法司馬良弼、正議大夫鄭俊等を差 わし、前来して謝恩するも、未だ起送して京に赴かしむるを蒙らず。望 むらくは聖勅を奉じて、齎捧して回国せしめられよ。欽みて体恤を軫念 するを蒙り、慵□を俟ち、文教に染みて、まことに夷風を洗い、顧みて 天命の敢えて忤違せざるを知る。慮うに狡倭、体恤の無外の至仁なるを 知るなくして、該国を窺伺するを恐る。その職、十年の久しきを曠疎す れば長蛇封豕の順行の□において□雑するを免れがたし。斯して安んじ て忤逆を冒すは、豈及ばざるを知らんや。□凛凛たる斧鉞、赦宥するあ たうなし。勢緩なるを得ざれば、大いに已むを得ざるもここに□して死 を冒し、間関として投*撫携す。聖霊に祈襲し、もって狡倭の観聴する を崇らしめ、仰ぎて威福を藉りて、もって毒寇の畏服を起さしむ。然ら ざれば、ここに簸弄四起するあるに仮りて、これを絶たんと欲するの深 意あらんや。かつ天朝の謨猷は広遠にして、経緯は弘深なり。孱渭の処 分は、端めに必ず伏れたるを摘くの神あるべし。豈亡命の徒輩の孟浪訛 □し、弄誑揺間し、疑信の半に介して罪無きの国を絶ち、もって寇□を 長ずるを容さんや。夫の蠢たる彼の狡たる倭、昔朝鮮を破り、いま琉球 を残す、□□なること天朝なきがごときなり。況や、該国遭躙の日のご ときは、我が天朝、朝鮮を急とするの故事をもって、これを急とし、倭 をして退かしめず。一たび我を舎避してその俘に任せ、その帰するを聴 すは、殊に威徳を褻すことあるがごときのみをや。これ則ち波藩猥瑣の あえて言わざるところなり。今ここに言わざるを得ざるは、もって日本 の狡を□絶せんと欲するに藉令して、概いに琉球の順を絶たば、すなわ ち何をもって属国の心を繋ぎ、皇霊を暢ばさんや。これ九区の向背なれ ば、伏して、今日において之が拒納を決せんことを乞う。然らばこれを 拒むも、これを納るるも、大計に関わる無きといえども、あえていうも また少国体に裨することあるのみ。これを拒めば、為にこれ順を駆りて 逆に就かしむのみならず、かつ懐柔の重典を虧くるあり。これを納るれ ば、為にこれ滅を興し、絶を継がしむるのみならず、かつ威福の大観を 増重す。そも堂堂たる天朝、自在の謀あるというなからんか。そもまた 自在の備あるというなからんか。然ればこれに備えること密にして、こ れを守ること固し。これ故に国家安にして危を忘れず。治にしてまさに 乱を思うべきは、深遠の謀慮なり。もし琉球を拒みて倭を防がんとする は、これを慮ること遠くして近く、これを謀ること深くして浅きなり。 これ故に倭はまさに絶つべく、琉球は……。希為わくば、狂言、妄冒を 罪する勿く、俯垂して採択せられ、留神して斟酌せられよ。それ海外不 軌は、これ偵探に由りて、その緒要の故を得、詳察に由りてその端を得 るなり。縦、偵影の報を信ぜざれば、任人の政を傷つくるあるがごとき に似たり。設若、偏に偵報に憑りて、実となすがごときは、辜に当たら ざるの国を罪せんことを恐る。かつ琉球は藩と称して、襲ぎて天朝二百 余年の卵翼の恩を蒙る。あえて一旦捐棄して仇に事わしむは、天理とし て必ず無きところ、人情として有らざるところにして、間深く議すべき ものあり。それ、倭区に□住するの輩、大讒は忠に似たり、大詭は信に 似たり、陰□に奸をなし、内外簸弄す。往来搆寵して、進退生を託む、 険にして測るべからず。弊は最も防ぎ難し。朝鮮の昔日は実に此輩の災 に由る。琉球の今日も誠に此輩の禍に出づるのみ。この情形により、該 藩身すでに目撃すれば、あえてここに咨もて聞す。  前差の馬良弼・鄭俊等前来して謝恩するに拠るに、知らざりき、作何 使命を抔辱して、闕に叩するを獲ず。明旨もて中止せらるるを望奉して 廻還せんとは。看得したるに良弼等、勅諭を奉齎して帰るは、理として 原すべく、情として恕すべし。即之、勅諭を望奉して帰るも、畏難り て中止するは竟にこれ疎虞して謬を獲るに非ざらんや。もっぱら大臣を 遣わすは、本より躬に代りてまさに敬せんと欲すればなり。糅らざり き、反えって命を辱しめて尤を招き、法に依りて斃に坐し各員連坐す、 等の情あり。これによりまさに咨報を行うべし。  これがため咨を備えて、長史蔡堅等を差遣し、前来して逓報せしむ。 なお備弁して、歳ごとのその職を修め、馬四匹・硫黄一万簧は往赴して 投逓す。希わくは咨文の事理もて、伏して乞うらくは照詳して施行せら れよ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、大明礼部に咨す 万暦四十二年九月二十四日  咨す [注1光天の化日…春台に載せる 太陽が琉球のような辺境をも照ら  し、宮殿の君主(中国皇帝)の高い徳が光り輝いて、盛んなる御世  を戴くこと。2岌々乎として あやういさま。3長蛇封豕 残忍  で貪欲な者の意。ここでは甼摩のことであろう。4謨猷 国家の大  計、はかりごと。5経緯 道の常法。6孱渭の処分 にごり水の孱  水と清流の渭水の区別、転じて清濁、善悪の区別が明らかなこと。  7卵翼の恩 鳥が卵を翼でおおってかえすように、はぐくみ育てる  恩。8蔡堅 久米村蔡氏の九世。喜友名親方。一五八五〜一六四七  年。官は紫金大夫。尚豊代久米村の指導的地位にあって、島津侵入  後の対中関係の安定に腐心した。] [二〇二 中山王尚寧より中国あて、十年一貢をやめ旧例に覆するを乞う使者派遣についての符文]  琉球国中山王尚(寧)、開読して天に*り、電かに簸弄せらるるを豁 され、歳貢を鑑納せられて、もって孤危を拯い、もって毒寇を釐められ んが事のためにす。これによりいま特に王舅、長史、使者等の官呉鶴 齢、蔡堅等を遣わし、表箋、咨文各一通を齎捧して、船隻に坐駕し、馬 四匹・生硫黄一万簧等の方物を装載して、京に赴き投進す、等の因あ り。拠るところの差せる員役は別に文憑なし。誠に所在の官司の盤阻し て便ならざるを恐る。理としてまさに照を給すべし。これがため王府、 いま洪字第六十五号半印勘合符文を給し、都通事蔡廛等に付して前去せ しむ。沿途もし経過の関津去く処を把隘して験実するに遇わば、即便に 放行して、留難して遅留不便を得ること毋らしめよ。須く符文に至るべ き者なり。  計開す   王舅一員は呉鶴齢 人伴一十名    長史一員は蔡堅 人伴一十名    使者一員は毛鳳威 人伴五名    都通事一員は蔡廛 人伴四名    存留在船使者二員は馬世禄 高和任     人伴五名  存留在船通事一員は金応元 人伴三名  管船火長直庫二名は林世正 馬居頼 附搭土夏布は二百疋  右符文は都通事蔡廛等に付す、これを准す 万暦四十二年九月(二十四)日給す  符文 [注1呉鶴齢 首里向氏(小禄御殿)の四世、大宜味家の初代。国頭親  方朝致。後に追贈された唐名は当初向光祖、ついで向鶴齢。生没年  未詳。尚寧〜尚豊王代の人。中国関係では蔡堅とともに二年一貢の  貢期の回復、白糸貿易等の交渉に当たった。2蔡廛 久米村蔡氏  (伊計家)の初代。具志堅親雲上。生没年未詳。尚寧王代の人。華  語や礼数に通じていたため、万暦三十八年に長史蔡堅の推薦によっ  て久米村籍に入り、その後、久米村人として進貢時の諸役に任じた。  3金応元 久米村金氏の七世。与那覇親雲上。一五九〇〜一六五三  年。尚寧〜尚質王代の人。官は正議大夫。度々通事等として渡唐。  順治元年の渡唐では、明清交代時で、弘光帝の滅亡、隆武帝の即位  を眼のあたりにしている。] [二〇三 福建布政使司より中山王尚寧あて、倭情を報じた琉使への給賞についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、倭情を馳報しもって中外を防がんが事のた めにす。琉球国の咨を准けたるに、通事蔡廛を差わし、咨文を齎捧し、 倭の消息を報ず等の因あり。咨を備えて司に到る。これを准け、已経に 撫・按両院に通詳して具題せしむるの外、撫院の憲票を奉じたるに、司 に行じて議して廩軛および一節の犒賞を給せしめよ等の因あり。依りて 奉じて該本司査照するに、二十六年の間、該国使者栢槎等を差わし、関 白の情由を飛報するの事あり。例として通事蔡廛は銀花二枝‐重さ二 両、紅絹二疋、銀一十二両を賞せられ、人伴□喜等五名は毎名絨花二 枝、紅絹各二疋、銀各二両を賞せられ、吮手紗開等十一名は毎名草花二 枝、紅布各二疋、銀各一両なり。それ廩軛は通事蔡廛には日に斤廩銀一 銭二分を給し、人伴吮水には毎名日に各々口糧銀三分を給して発駅して 安挿存□せしむるの外、いま媼便なるに値り、船隻を修葺して送□せん とす。また該本司、査得したるに使臣海を渉りて来たりて報警するは、 忠順にして嘉すべし。風便なれば国に遣送すべし。礼もて宜しく重加て 賞賚すべし。なお通事蔡廛をもって、また彩緞四表裏、折鈔棉布四疋、 人伴五名は毎名折鈔棉布四疋、吮水十一名は毎名折鈔棉布二疋を賞し、 もってその労を恤う。両院に具呈して、□賞を□允するの外、まさに就 に咨覆すべし。これがために由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば知照 して施行せられよ。  右、琉球国中山王に咨す 万暦四十四年六月二十二日  咨す [注1憲票 上官の命令書。書きつけ。] [二〇四 福建布政使司より琉球国あて、国力疲弊により、十年一貢を守るべしとの咨文]  福建等処の承宣布政使司、懇恩もて転疏し、聖聴に啓呈して、藩情を 俯察し、顛危を鑑照して、仁を垂れて貢を納れ、もって属国を繋ぎ、も って封疆を固くせんが事のためにす。  案照したるに、万暦四十六年六月初六日、琉球国の咨を准けたるに、 疏一本を具し、陪臣の王舅毛継祖・正議大夫蔡堅を差遣し、齎捧して前 来投逓す。懇に転奏を賜り、もって聖断に憑らしむれば、上は皇霊を暢 べ、下は属国を繋ぐに庶からん等の因あり。移咨して司に到る。  これを准け前事を巻査したるに、万暦四十年、すでに勅諭を奉じたる に、爾が国新たに残破を経て、財匱しく人乏しければ、何ぞ必ず間関し て遠く来還せんや。まさに厚く自ら繕聚し、十年の後物力やや完にし て、然る後、また貢職を修むるも、未だ晩きとなさざるなりとあり。計 るにいま六年にしてなお未だ期に及ばず。また修貢を欲するは、明旨照 然たれば、誰かあえて悖逆せんや。已経に司・道会詳して、両院具疏し て題知するの外、それ差来の王舅毛継祖・正議大夫蔡堅等旧に照らして 賞賚し、量りて軛廩す。船隻を造りて送帰せしめんがためにすでに咨文 を具して回覆し去後れり。  ただ本船開駕の期を愆り、風媼を守候するにより、ついで本年四月二 十六日において、五虎遊把総陳文*の呈に拠るに、琉球国王舅毛継祖・ 正議大夫蔡堅の呈に拠るに称すらく、継祖等命を承けて天朝に奉貢す。 旧年の回船は、風に遭いて失水し、信書貨物は沈没す。回文なければ、 もって復命しがたきを慮り、呈もて俯して咨文を賜り、もって啓行する に便ならしめんことを乞う、等の因あり。これにより査得したるに、原 回の該国の咨文は、すでに失水して存する無しと称す。あいまさに、合 行咨覆すべし。これがために由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば勅諭 に遵照して、十年に至るを俟ちて、また前貢を修められんことを。施行 せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 万暦四十七年五月初三日 [注1五虎遊把総 五虎は諞江の河口で外海への出入口となる小島。五  虎遊把総はその島、つまり河口付近を守備する把総であろう。] [二〇五 中山王世子尚豊より朝鮮国あて、尚寧の死を報じ、末長き交隣を願うことについての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、情礼を敦くし交隣を篤くせんが事のために す。万暦四十八年九月内、我が父王先君、昔に否運・多難にあたり、親 ら臨んで醜に入り、既に返るも躬を省みて逸しまず。ただ化して昇仙す るを痛む。孤、遺命を受くるも、遽かに承くるを忍びず。内は哀疚して 暇あらざるといえども、外は当に政を布きて維新すべし。天を敬して大 に事うるは、職としてよろしく勤むべき所にして、修信・睦礼は廃すべ からず。上はまさに天朝に貢献すべく、ついでまさに貴国に礼儀すべ し。  査循して案照したるに、万暦三十九年五月内、拠の該国の差遣せる王 舅毛鳳儀等京に赴き、進貢の事おわりて廻還し、朝鮮国王欽差の陪臣吏 曹参判兪大禎の咨文を領捧して、国に到る。咨を准けたるに称すらく、 無禄の先父王、群臣を奄棄す、寡人命を朝に受くれば、私交戒しむる ところあるといえども、旧好修めざるべからず、等の情あり。これを 准け、情動して傷心を増し、事に応じて倍々悼む。なお咨を閲したるに 開すらく、白細苧布、白細綿布は共に四十疋、人参十斤、虎豹皮は共に 六張、粘張厚油紙五部、霜華紙二十巻、花硯二面、黄毛筆五十枝、油 媒墨五十錠等の厚幣あり。これを故老に詢るに、先君拝領するを知る。 ついで万暦四十年、該国貢舟、中洋にて颶に遇い、漂いて貴国の轄境に 至る。山に向いて水を取らんとして群を失い、岸に棄てらるるの総管林 世正等ともに八人名あり。越年して尽く帰復を行う。拠の林世正等国に 回りて口称するに、朝鮮国王の恤隣、豢養して、再び完生を造すを蒙 る。恵なること九鼎に弥り、仁なること九淵に啻らん。これに拠り理と してまさに就中、差遣して謝忱せしむ、等の情あり。  ここに倭奴荒邸を蹂躙するに縁り、聖諭を奉蒙むりたるに、十年にし て物力充燉し、然る後に進貢するを寛宥せらる。これにより、久しく絡 繹を違え、ここに信音を疎闕して、礼失すること重畳なるを致す。情と して怜厚かるべし。ここにまさに貢期に届り、理としてまさに咨を備 えて報復し、永く交隣を結ぶべし。緬想うに、貴国は箕もて風教を治 め、上国を*美す。敝壌は荒邸海鄙にして、具に皇図に属す。濫りに交 好を投じ、羊質を被うに虎皮をもってし、隣歓に縱結し、蛇珠を魚目に おいて溷す。分を揣るに奚ぞ躬ら責むるに宜しからずに堪えん。ここに 旧好を念い、自ら厚愛忘形なるを知る。盛徳に瞻依して、あえて高明を 信じて*せず。ただ永く伯仲なるを綿ぎ、千里孚を交え、堅く魯衛を 締び一心照許せんことを冀う。嗟夫、先王薨苺すれば、若が翁を悼むこ と之滋惻む。偉なるかな。象賢継述して天眷の維新を慶ぶも、賀忱未 だ遂げず。醜虜の途に蔓るを恨む。惇うに虧くあり。天朝の竇なきを惜 む。ここに貢歳に値り、いささか任(土)の菲儀を伸べ、咨を備えて開 坐す。王舅毛鳳儀・正議大夫蔡堅等を遣わし、京師に齎赴し、転旋して 交逓せしむ。庶幾わくば、少、情礼を敦くし、永く交隣を篤くせん。こ れがため理としてまさに貴国に移咨して知会せしむ。煩為わくば、照詳 して鑑納して施行せられよ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者 なり。   計開す   (任土の菲儀‐欠)  右、(朝鮮国に)咨す  (天啓元年八月?) [注1尚豊 第二尚氏八代の王。在位一六二一〜四〇年。尚久の第四子。  2吏曹参判 朝鮮李朝の官名。吏曹は六曹(刑、吏、戸、礼、兵、  工)の一つで、文官の選任、勲階、懲戒などを司った。長官は判  書、参判は次官クラス。3私交 冊封国同志の交際、中国を介さな  い交際。4山に向いて…失い 上陸して水を探すうち仲間とはぐれ  て、の意。5羊質を…虎皮をもってす 中味は羊で外皮は虎、外面  ばかり立派なたとえ。6蛇珠を魚目において溷す 蛇珠とは蛇が口  から吐いた霊石で、魚目はにせものの玉。霊石を魚目に混じえてけ  がすこと。7忘形 形式にとらわれない交際。]  天啓大婚の詔書。天を奉け運を承くるの皇帝、詔して曰く、朕惟う に、君は天下を統べてもって家を為め、后は一人を輔けて内を正す。ゆ えに大婚は彝倫の本なり。風化基づくところ聖人これを謹む。朕沖齢 をもって宝暦を嗣*ぐ。ただこれ宗*の重計なれば、夙夜つつしみ念う のみ。ここに皇考の詔命を遵承し、特に所司に諭し、令淑を簡求て配と なす。朕躬らこれをもって天地宗孟に告げ、天啓元年四月二十七日にお いて張氏を冊立して皇后となし、中*に正す。九孟を奉り六□を帥い て、もって万方を式す。祚胤を茂開するの祥、邦家を丕衍するの慶は、 中外に布告して、咸に知聞せしむ。  皇帝の宝 天啓元年四月二十九日  礼部謄黄 [注1中*に正す 后妃の居所である後宮にさだめる。] [二〇七 礼部より中山王世子尚豊あて、請封の手続不備なるについての咨文]  礼部、藩を嗣ぎ政を執るに、勅諭を奉じて戒信すること十年にして、 貢職を復修し、もって忠款を効さんが事のためにす。  儀制清吏司案呈すらく、本部より送れる琉球国中山王世子の咨を准 けたるに称すらく、万暦四十八年九月十九日、我が父王先君、群臣を棄 ててもって長逝し、孤子を捐てて帰らざるを痛む。憫予小子、家の不造 に遭い、**として疚に在り。その泣を啜るなり。なお何をか云わん や。国僉の言に拠るに、海圉、藩を維ぐに一日として君なかるべから ず。黎民の元首は崇朝も位を虚しくするを得がたしと。聊く縄ぎて嗣に 就き、権に執政と為るも、侯度に確遵し、未だ敢えて王と称せず。昔 乱初めて安んずるの際に当たり、殊異に維を張りて先君顧命の厳なるを 懐い、敬みて修貢を勤めよとの言は常に耳にあり。忠、豈心に忘れん や。査循して案照したるに、万暦四十年、勅諭を奉じたるに、念うに爾 が国土地貧狭にして、また新たに残破を経たり。歳事愆つといえども、 また爾が責ならず。爾宜しく人民を拊綏して、慎みて封圉を固め、も って自完の計をなし、十年の後、物力の充燉するを候ちて、再び修貢を 行うべし等の因あり。これを欽めよや、とあり。欽遵す。ここに践祚 の辰より、恩覆の下に懽臺し、よく飯飯然として感激なきをえんや。緬 想うに、疇曩の初、官を差わして、次いで再び闕に叩す。これ詔命に方 衡するを知るなきにあらざるも、まさにこれ涸魚の濡沫を期し、窮鳥の 投叢に傍くのみ。乞うらくは妄動を原し、誠に哀矜すべし。ここに十年 の也に臨み、まさに九天の謖に叩し、ここをもって恭しく歳貢を修めて 来賓す。ゆえに我が朝廷信を立てて移さず、必ず却拒の憂無かるべきを 知る。ただ該国備を失い、時に当たりて罪難掩襲するを慮るも、います でに自ら苓振を完うすれば、貢献を復修せん。未だ功過あい準するを得 るや否やを審せざるも、これを執りて危疑すれば、逡巡畏縮の患なきあ たわず。然れども人臣の君に事えて或いは寛され、或いは罪するも、義 として当に身を勇往に致すべし。属国の進貢は、これ却けられこれ納れ らるるも、職として当に信を奉じてこれ行うべし。これがため敬みて 硫黄一万簧・馬四疋等の方物を備えて、舟を造りて載運し、官を遣わし て坐駕せしむ。これがため咨して、王舅毛鳳儀、正議大夫蔡堅等の官を 差わし、表箋を齎捧して、馳せて台端に赴きて進奉せしむ。上は朝廷遠 宇を恤むの盛意を揚げ、下は該国恭順を堅くするの小心を昭らかにせ ん。ついでここに先君薨苺し、世子就封して旧章を率由す。なんぞあえ て稽遅せんや。題請して盛典に遵依し、懇乞すらくは、蚤亟に頒封すれ ば、波臣栄耀を増し、属国永く綿延せしむるに庶からん。伏して望むら くは、広く遊揚に借り、曲げて提奨を垂れ、転じて具して題請せられ よ、等の因あり。これがため理としてまさに一併に貴部に移咨して知会 せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ、等の因あり。部に咨して司 に送る。  万暦二十九年の稿を案査したるに開すらく、該国の進貢方物、通国の 印結および世子特に具したる表文もて承襲を奏請すれば、聖旨もて部に 下し、本部例を査して具題す。冊封はこれ該国襲封の旧例なりと。いま 准けたるに、該国ただ方物を貢すのみ。襲封を咨称するに、すでに通国 の印結なく、また奏請の表文なし。これを旧例に揆るに題請しがたきに 似たり。あいまさに該国に移咨して表文を補奏し、および通国の印結を 具して、前来してもって題請に憑らしむべし。案呈して部に到る。擬し てまさに就行すべし。これがためまさに琉球国中山王世子に咨して知会 せしむ。査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 天啓三年三月初六日 対同都吏陳舒誠 [注1憫予小子 憫れなる私の意。予小子は天子が祖先に対していう自  称(詩経)。2崇朝 朝の一刻たりともの意。3涸魚の濡沫…窮鳥…  傍く かわいた魚が水のあわでうるおされることを期待し、追いつ  められた鳥が草むらに近づき、かくれること。つまり、琉球が詔に  背いてまで使者を派遣した心境のたとえ。4九天の謖 宮廷の門。] [二〇八 福建布政使司より琉球国あて、進貢方物の収領についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、藩を嗣ぎ政を執るに、勅諭を奉じて戒信す ること十年にして、貢職を復修し、もって忠款を効さんが事のために す。案照したるに、先に琉球国中山王世子尚豊の咨を准けたるに、王舅 毛鳳儀、正議大夫蔡堅等を差わし、夷吮を率領して表箋文并びに硫黄・ 馬匹を齎捧して前来して進貢す。已経に官を差わして伴送し、および 方物をもって解進し、京に赴きて批を取獲して廻る。併びに序班孫斉賢 を差わして送回して司に到らしむ。例に照らして宴待して安挿するの 外、いま各夷の帰国するに照らして、まさに咨覆を行うべし。これがた め由を備えて移咨し□去り。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨 に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 天啓三年七月十四日 [二〇九 福建布政使司より琉球国あて、熹宗天啓帝の登極と大婚の詔書を送るについての咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢夷船入港の事のためにす。礼部の照会 を承准けたるに、頒発せる皇上の登極・大婚の詔書は司に到れば、転行 して官を差わし、琉球国に齎捧せしめよ、等の因あり。これを承け、つ いですでに両院に具詳し、福州中衛指揮同知蕭崇基を差委して齎捧前来 せしめて開読せしむ。煩為わくば欽遵して施行せられよ。須く咨に至る べき者なり。  計開す。齎す詔書は四道   右、琉球国に咨す 天啓三年七月二十六日 [注1福州中衛指揮同知 官名。福州中衛は福州に置かれた衛(軍隊の  駐屯地)の一つで、指揮同知は衛の次官。一九一項の注1福州左衛  参照。] [二一〇 中山王世子尚豊より朝鮮国あて、交隣を篤くするために礼物を送ることについての咨文]  琉球国中山王世子尚(豊)、情礼を敦くし、交隣を篤くせんが事のた めにす。貴国を仰瞻し荒邸を俯顧するに、地のあい去るや滄溟もて界隔 せらるること万有余里、世のあい後るるや休戚あい関すること百許多年 なり。躬方初践祚に膤び、庶務始めて身に及ぶ。すでに支離すれば治道 一心す。常に愧忸を懐うこと無外なり。天を敬し大に事え、朝夕ただ想 々として礼を講じ、隣を締して夙夜惓惓を釈めざらんことを存うのみ。 すなわちこれ二端、先君永訣の顧命の叮嚀及び平時の治□訓誨を承け、 遺音は常に耳にあり。永く念いて心に忘れず。  近ごろ曩案を稽査したるに、叨くも貴王の雅愛殊隆なるを蒙り、躬ら 承基幹蠱の日にあたり、よく礼教に悦服して仰慕して用情せざらんや。 ここに朝聘の年期に際し、まさに咨を備えて福履を奉詢すべし。これが ためいささか任土の菲儀を伸べ咨を載して開具す。正議大夫鄭俊等を遣 わし、齎捧して往きて京師に赴き転旋交逓して、馳せて三階に貢す。 少しく情礼を万一に伸ぶれば、永く交隣を不二に篤くするに庶幾から ん。これがため理としてまさに貴国に移咨して知会せしむ。来文の事理 は煩為わくば査照して鑑納施行せられよ。これがために移咨す。須く咨 に至るべき者なり。開具す。  右、朝鮮国に咨す 天啓三年閏十月十六日 [注1世のあい後るる 国の歴史は各々新古があるが、世に出たのは前  後しているが、の意で、琉球と朝鮮とでは歴史の長さが違うがの  意。2承基幹蠱 基業を承けついで事に任ずる。] [二一一 中山王世子尚豊より朝鮮国あて、交隣を篤くするために礼物を送ることについての咨文]  琉球国中山王世子尚(豊)、情礼を敦くし、交隣を篤くせんが事のた めにす。貴国を仰瞻し荒邸を俯顧するに、地のあい去るや滄溟もて界隔 せらるること万有余里、世のあい後るるや休戚あい関すること百許多年 なり。躬方初践祚に膤び、庶務始めて身に及ぶ。すでに支離すれば、治 道一心す。つねに愧忸を懐うこと無外なり。天を敬し大に事え朝夕た だ想々として礼を講じ、隣を締して夙夜惓惓を釈めざらんことを存うの み。すなわちこれ二端、先君永訣の顧命の叮嚀及び平時の治□訓誨を承 け、遺音はつねに耳にあり。永く念いて心に忘れず。  近ごろ曩案を稽査したるに、叨くも貴国先に異篤を施し、新章を考瞰 するを蒙る。多く賢王の雅愛殊隆なるを被り、躬ら承基幹蠱の日にあた り、よく礼教に悦服して仰慕して用情せざらんや。ここに朝聘の年期に 際し、理としてまさに咨を備えて福履を奉詢すべし。これがためいささ か任土の菲儀を伸べ咨を載して開具す。正議大夫鄭俊等を遣わし、齎捧 して往きて京師に赴き転旋交逓して、馳せて三階に貢す。少しく情礼を 万一に伸ぶれば、永く交隣を不二に篤くするに庶幾からん。これがため 理としてまさに貴国に移咨して知会せしむ。来文の事理は煩為わくば査 照して鑑納施行せられよ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者な り。開具す。  右、朝鮮国に咨す 天啓三年閏十月十六日 [※前項(二一〇)とほぼ同一の文で、日付も同日である。実際に送ら  れたのはいずれか一通のみであろう。] [二一二 中山王世子尚豊より礼部あて、印結および表を具えて冊封を乞うことについての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、もって愚忠を効し、もって盛 典を昭らかにせんが事のためにす。  照し得たるに、泰昌元年九月十九日、我が先君世を辞して薨苺するを 痛む。念うに予小子嫡嗣にして*を承く。然れども侯服度ありてあえて 僣称せず。基業永存するにはまさに先に襲を請うべし。彼の海国波区な るを瞻、冊封の重命を膺けざれば、撮土安くんぞよく中流に砥柱せん や。荒服の藩臣、天子の褒綸を奉ぜざれば躬を揣るに奚くんぞ絶域に安 瀾するをえんや。況や祖封照烈、宜しくまさに亟かに題襲の旧章較著な るに循い、例として違越稽遅するなし。すでに差して奏請し去後れり。  未だ渙汗を蒙らずして、天啓三年三月内、礼部の咨を准けたるに称す らく、歴年の稿を査循したるに開すらく、該国封襲の事宜は、もと通国 の印結および世子の具表ありて承襲を奏請し、聖旨もて部に下し、本部 具題して冊封す。これ該国襲封の旧例なりと。いま該国の咨を准けたる に、襲封を称するも、すでに通国の印結なく、また奏請の表文なし。こ れを旧例に揆るに題請しがたきに似たり。相応に該国に移咨し、表文を 補奏し、および通国の印結を具して前来して、もって題請に憑らしむべ し、等の情あり。これを准け擬してまさに就行すべし、等の因あり。  これがため遵依して、表文を備具して題請し、并びに通国誠実の印 結を具して、謹んで縁由を将て開載す。咨を備えて、特に正議大夫等の 官蔡廛等を遣わし、迢遘に馳聞す。伏して乞うらくは、広く遊揚を借 り、曲げて咳唾を垂れ、転具して題請せられよ、等の因あり。上は朝廷 寵渥の盛典を光かし、下は該国恭順の小心を昭らかにするに庶からん。 これがため理としてまさに貴部に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照 して施行せられよ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 天啓五年二月十九日  咨す [注1侯服 五服の第二。古代中国で王城の周囲五百里以内を王畿とい  い、以下五百里ごとに甸服、侯服、綏服、要服、荒服の五等に区分  した。ここでは広く諸侯のこと。2撮土 ひとつまみの土地。ここ  ではちっぽけな琉球のこと。3砥柱 河南省陜県の黄河中にある山  の名。激流中にあって動かぬところから、乱世にあって正して心を  固く守る者にたとえる。4荒服 五服の一つで、天子の都から最も  遠くへだたった地、またその地の異民族。荒服の藩臣は、遠くへだ  たった地にいる藩臣の意。5襃綸 天子のおほめのことば。ここで  は冊封の詔勅のこと。6絶域 遠くはなれた地域。7安瀾 しずか  な波。天下太平のたとえ。8渙汗 王者が詔を出すこと。ここでは  冊封の詔勅のこと。9広く遊揚を借り 名高い名声におすがりし、  の意か。10曲げて咳唾を垂れ まげてお言葉をいただき、お口添え  いただき、との意か。] [二一三 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、登極・大婚の詔書を拝開し、齎捧せる使者蕭崇基を護送するについての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、開読の事のためにす。照し得たるに天啓三年 七月内、福建等処の承宣布政使司の咨を准けたるに称すらく、礼部の照 会を承准けたるに、皇上の登極・大婚の詔書、頒発して司に到る。転行 して官を差わし琉球国に齎捧せよ、等の因あり。これを承け、ついです でに、両院に具詳して、福州中衛指揮同知蕭を差委して、齎捧前来し て開読せしむ。欽遵せよ、等の因あり。  これを准け欽遵奉行して詔書を迎接す。天威は顔を違れざること咫尺 なるを敬畏し、理としてまさに良を涓び吉を択びて粛心・拱候して開読 すべし、等の因あり。これがため謹みてすなわち九月十五日、天使を奉 迎して王城に按臨して開読し、これを欽み欽遵す。齎到せる詔書は奉留 して藩疆の重鎮となし、永く国宝となさん。事竣りて廻朝すれば理とし てまさに官を遣わして坐駕護送せしむ、等の因あり。  これがため、使者・都通事等の官金応元等を遣わし、別船に分駕し て、護送前来せしむ。これがため理としてまさに貴司に移咨して知会せ しむ。煩為わくば査照して施行せられよ。これがために移咨す。須く咨 に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓五年二月十九日  咨す [注1天威…咫尺 皇帝の威光は顔前から数十センチも離れていない。  きわめてまぢかにあることのたとえ(春秋左氏伝)。] [二一四 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、漂流民の救助に対する謝恩の咨文]  琉球国中山王世子尚豊、謝恩の事のためにす。  照し得たるに、天啓二年六月内、該国進貢の員役、使者馬世禄等事竣 りて廻還し、南轄の太平山の三十三人名を携帯して帰国す。啓称するに 拠るに、原人は、泰昌元年船一隻に坐し、糧粒を解運して、迢かに中山 王府に往き、納税して回りて中洋に至り、萃に颶風に遇い、大いに浪蕩 を発して途に迷う。天に号びて命を保ち、苟も残喘を全うして広東瓊雷 二州の界処に漂入するに係る。まさに験実して豢労の費を官給し、駅逓 もて福建本省に送至せらるるを蒙る。福建布政使司、懐柔の大典を仰念 して、浪蕩の遠人を俯恤し逐名柔遠駅舎に安挿して、口に照らして支給 し、饑を慮りて給養し、寒を念いて衣を授け、凍餒を憂うるなからし め、完原して国に到らしむるを蒙る。拠りて前事を称す、等の因あり。  天恩の浩蕩なるを仰荷し、頂踵ともに忘れて、もって報称しがたし。 理としてまさに就ちに謝恩を行うべし。これをもって虔みて任土の鄙菲 の方物を備え、官を差わして解運す。天階に俯伏して紫宸を仰ぎ、三祝 して藩臣の万一を尽す。これがために、所有の金結束金起沙魚皮紋*金 誂全鞘腰刀二把、銀結束銀起沙魚皮紋*銀誂全鞘腰刀二把、鍍金銅結束 紅漆鞘糸線纒*腰刀十把、鍍金銅結束紅漆鞘笆力六把、鍍金銅結束紅漆 鞘貼金柄鎗六把、貼金灑金銀山水描画松雉牡丹等花景帷募一対、漂白嫩 苧布五十端、練光嫩蕉布五十端等の方物を遵将して虔み備え、咨を備え て開載す。正議大夫蔡廛等を遣わし、表文を齎捧して台端に解赴して投 逓す。伏して乞うらくは、時に及びて員役を起送せられよ。進奉して礼 部に移咨し、聖鑑に聳呈すれば、上は朝廷遠宇を恤するの盛意を揚げ、 下は該国恭順を堅くするの小心を昭らかにせん。これがため理としてま さに貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。こ れがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。計開す。  附搭土夏布の事、原奉じて船隻を遣わし省に到るごとに、しばしば例 として附搭土夏布二百疋を准す、等の因あり。遵依して例に照らして咨 に載せ、附搭前来す。煩乞わくば往年の事例に査照して施行せられよ。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓五年二月十九日  咨す [注1南轄の太平山 宮古島のこと。2残喘を全う 息たえだえの命を  全うしての意。3広東瓊雷二州 広東省の瓊州・雷州。瓊州は海南  島、雷州は対岸の中国本土の雷州半島の地。二州の界処に漂入とあ  り、瓊州海峡に漂流したのであろう。] [二一五 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、五年一貢に従うも、二年一貢に復さんことを乞うことについての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、藩職を涜修し、文を奉じて遵守してもって恭 順を昭らかにせんが事のためにす。  照し得たるに、天啓四年八月内、拠の該国の差遣せる正議大夫蔡堅等、 進貢のこと竣りて廻還し、咨文を齎捧して国に到る。咨を准けたるに称 すらく、表箋もて別に題進を行うを除くの外、硫黄・馬匹等の方物併び に附搭の土夏布二百疋は、往年の事例を査照して題請して施行せらるる を蒙る。官を差わして伴送して進奉するの外、ついで拠の聖主の登極、大 婚の所有の詔書を□請して、何作すれば頒給せらるるや、等の因あり。 礼部の査例を蒙りて覆請す。ともに聖旨を奉じたるに、礼部知道せよ。 儀制司に移会して酌議せしめよとあり。請う所の貢期の一節は、査し得 たるに、琉球国は向に二年一貢に係るは、会典に開載してはなはだ明らか なり。該国遵行することまた久し、等の因あり。通査案呈して部に到る。 看得したるに琉球国は、海浜に処るといえども、素より効順を称し、献 享するに常額を踰えず。万暦四十年の間より、国勢微弱にしてしばしば 倭警を被るにより、修貢それ恭順の念なりといえども、瘡痍未だ定まら ざれば、自ら固より未だ遑あらず。該省撫院題請し本部議覆す、十年の 後、物力稍充するを俟ち、方めて修貢を准すべしと。いま年限すでに満 ち、かつ皇上大宝に登極するに臺い、該国世子尚豊、また爾につつしみ て儀文を備えて貢を修め、封を請う。議して頒詔は、儀制司の査例をし て別に議するを俟ち、冊封の典は、亟かにまさに俯従すべく、入貢の期 はしばらく五年一次に擬し、該国を封ずるの後を俟ちて、再び期限を酌 議するを行うべし。題請して欽定す。該国慶賀を奏請するに至りては、 常貢の限にあらざれば移会せしめよ、等の因あり。貴司に□□すれば、 部議に遵依して施行せられよ、等の因あり。移咨して国に到る。これを 准け擬してまさに欽依遵守して奉行せよ、等の因あり。  これがため照し得たるに、該国二年一貢は、祖制にして移らず。いま 秧優を蒙り、しばらく五年一次に擬するは、始め勤め終り怠るに渉るに 似たり。また盛衰改節の辞を掩い難きが如し。然るに貢献常の如けれ ば、すなわち封疆永く固からん。胎若来貢の期を愆つあれば、愕撻の威 を疑うなき能わず。いまここに文を奉じて暫く明制を改秧するを行う は、誠に謂うに、恩に感じること浩蕩、訓を奉ずること愚忠なるも敢え て云う、偏に軽約を垂るるも、反って該藩ただ恭順を謹むを俯察せられ よ。これ特、文を奉じて遵守するは、なおこれ効化□と為すがごとし。こ れがため擬してまさに欽依もて遵守施行すべし。伏して再び酌議を行い て、二年一貢の期を妥定するを候ちて、旨を請いて施行せん、等の因あ り。続いで亟かにまさに俯従して冊封の典を題請すべし等の因を蒙る。  これを蒙け、遵依して別咨を修備して、正議大夫蔡廛等を差遣し、表 疏を齎捧して、前来して叩奏せしむ、等の因あり。これがため、理とし てまさに貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば、査照して施行せられ よ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓五年二月十九日 [注1愕撻の威…能わず 討罰するとおどすこと、またそうしうる権  威。つまり、そうしうる権威を疑わないわけにはいかない、の意。  2軽約 軽々しい約束。] [二一六 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、蕭崇基の渡来の際に、貢船の難破について知らせた咨文]  琉球国中山王世子尚豊、船に駕して回国せんが事のためにす。  照し得たるに、天啓四年八月内、拠の該国の正議大夫蔡堅等、進貢のこ と竣りて廻還す。原天啓二年二月内、世子の差遣を奉じて、員役を帯領 し、表文を齎捧して、船隻に坐駕し、硫黄・馬匹等の方物を載運して、 前来して進奉するに係るに、皇帝の登極、大婚に慶遇す。所有詔書は、 福建等処の承宣布政使司□し、礼部の照会を承准して差官に転行して、 琉球国に齎捧せしむ、等の因あり。ついで両院に具詳して福州中衛指揮 同知蕭を差委して、齎捧して国に到らしむるを蒙る。渡海前来せる随差 の役従并びに進貢して回国せる員役は、二船に分駕す。拠りて称すら く、二船は天啓四年五月二十一日、解纜して省を離れ、携斉して出港 す。波浪を□□し両ながら…昼夜を経て漸く分かれて*に進むも、… …遂に太はだ後先す。瞻るに彼の海天あい接し、万里一碧にして彼此随 即にはあい及ぶこと能うなし。喜懼交措く。糅ぞ意わん、指南縱つこ と向に毫釐なるも、奉詔の原船は六月初二日、留りて北山地方の港*に 入る。彼の地方官の中山王府に馳報するに拠るに、後船の定止を見るな し。衆心危愕して望慰皇皇たり。本船人等、苟寄棲遅す。遂に彼の処の 居民をして、歴浪して挨尋偵探せしめたるに、後船は七島の地方に収在 す。それ坐処を確真するを獲て、捷報もて前来す。彼此あい保し、在前 の員役はやや坐臥に安んず。然れども各々異土に居りて中山を□顧す。 誰れか知らん、海上の浮区、地は一帯なると雖も*流□折すれば艦を輓 きて回航するには、須く北風の盛発を待つべし。此夏秋の交に際し、風 転ずること日に南し日に北し媼期いまだ定まらず。各天懸仰す。後船、 遂に湾泊の故処を離れ、全く声応じ気求むるにあり。すみやかに帰計を 図るも糅ざりき巧、拙となるとは。七月十八夜、萃に風狂逆激の勁敵に 遇い勒駕して、本船の原泊せる港口に至る。後船湍の礁に衝触し、忽に して告損す。行李は漂流し、人は板上に登りて生に逃る。惟うに先の使 者呉自福等上下三人は時に当たりて逓報前来し、随差して真的を勘験 し、彼処の地方官民の結状を取具して併せて炸報を行うべし等の因あ り。仰思するに駕来の二船は、原これ天を奉ずるの遣使、詔書を齎捧し および貢使員役を携帯して回国せるものなり等の因あり。いま後船の一 隻、萃に風涛に遇う。測り*きは天なるかな、海なるかな。人力ついに 何をか為さんと欲するや。計は、無聊に出ず。新たに土船を造り、官を 差わし、坐駕護送して前来せしむ。これがため理としてまさに貴司に移 咨して知会せしむ。煩為わくば、査照して施行せられよ。これがために 移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓五年二月十九日  咨す [注1無聊 よりどころがない。ここでは万策尽きてどうしようもない  の意。] [二一七 中山王(世子)尚豊より欽差巡視あて、進貢船隻の消息安否を問う咨文]  琉球国中山王尚豊、進貢して危疑を探り、大礼を隆んにし盛典を重く し、もって愚忠を効し、もって帰順を明らかにせんが事のためにす。  照し得たるに、該国の進貢は三年二貢にして例として成規を右んず。 稽査案照して、あえて違遅するなし。天啓三年、例として該に進貢すべ し。ここに北風媼発するに当たり、理としてまさに遵依して進奉前来す べし。これがため任土の常貢の方物を備弁して、正議大夫・使者・通事 等の官鄭俊等を遣わし、表を捧じ、咨を齎し、土船一隻に坐駕して、硫 黄一万斤・馬四疋等の方物を運載し、前来して進奉す。ついで拠りて照 し得たるに、前の万暦四十年、勅諭を奉じたるに、琉球、倭の残破を被 るを恤念し、寛緩して十年貢を免ぜよ、等の因あり。これを奉じ遵依し て十年也れば、まさに九天の謖に叩すべし。これがため天啓二年二月 内、専ら王舅・正議大夫・使者・通事等の官毛鳳儀・蔡堅等を遣わし、 前来進貢せしめ、并びに王爵を襲封するを奏請行む、等の因あり。収進 して准行するを奉蒙するの外、原遣の員役毛鳳儀・蔡堅等奉差し去後れ るも、未だ廻還に及ばず。ついで拠りて照し得たるに、天啓三年正月 内、ついで王舅・長史・使者・通事等の官馬勝連・林国用等を遣わし、 前来して皇帝陸下の登極を慶賀し、并びに王爵を襲封するを奏請行む、 等の因あり。仍りて使者・通事官英梓、蔡錦等を差わし、香二*を齎捧 して前来して二先帝の賓天に進奉す。各々一船に坐駕して同日開駕す。 拠りて□二船を差遣す。奉行の肆事は、上は大礼の盛典、まさに崇重に 行うべきに関り、下は卑職の愚忠、もって軽忽にし難きに係る。往きて 差遣し去後りてより、反って計籌するに、いまに迄るまで春秋の序爽 い、媼候の期違えば、誠に人をして憂鬱を醸さしむるなり。あるいは廻 りて、□途縱舛するも、想々微勤して君前に達するを得ば、我邸鄙の藩 臣をして、少しく万一を伸べしめ、或いは去きて轍を失い、危を…し て、すなわち想々微勤するも未だ上聴を聞かざれば、我が邸鄙の藩臣を して、慍を積み無聊なるに庶からん。然れども維うに舟は万斛を尽載し て忠貞に帰順す。坐駕せる百人は、□身靡*するにあらざるなきも、往 廻して険を渉るに未だ安危を実際に得ず。夙夜懸煩す。あに起居の逸慰 なること能わんや。寤寐に思服するを釈めんと欲するも、危疑すること 逾りなし。差遣して端的を訪探せしむ。なかんずく進貢の年期は、謹み て情由をもって咨に連ね、并びに遣来して情実を探らしむ。これに拠 り、原遣の前来せる員役は、除外にまさに職任に該つべし。赴京および 在省等の員役は、伏して乞うらくは、往年の事例に査照して、存留司責 を分撥し、余の員役はそれ南薫の媼に循い、蚤きに及びて馳せ帰り前後 の事情を媼報せしむべし、等の縁由あり。これに拠り、除外に、また原 奉の有無貿易するの盛例あり。貢船ごとに附搭せる土苧布二百疋は絹帛 に兌換するを賜准せらる。遵依して例に照らし、附搭して前みて福建等 処の承宣布政使司に赴き、官にて絹帛に兌う。理としてまさに声説すべ し。これがため一併に貴道に移咨すれば知会せられよ。咨文の事理は煩 為わくば照詳して施行せられよ。これがために移咨す。須く咨に至るべ き者なり。  右、欽差巡視に咨す 天啓五年 月  咨す [注1馬勝連 首里馬氏の五世、富島家の三代。勝連親方良継。一五七  六〜一六四九年。尚豊代の三司官。2林国用 久米村林氏(名嘉山  家)の七世。儀間金城親雲上。一五八九〜一六四一年。官は正議大  夫。万暦〜崇禎間に四度の渡唐記録あり。] [二一八 福建布政使司より琉球国あて、慶賀進香使節への欽賞および附搭貨物への給賞についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、慶賀進香の事のためにす。  案照したるに天啓四年十二月初一日、軍門都御史南の案験を奉けたる に、礼部の咨を准けたるに該本部の題につき、主客清吏司案呈すらく、 本部より送れる該琉球国中山王世子尚豊の咨を奉けたるに、王舅馬勝連 等十二員名を差わし、表文を齎捧して、方物を管送して京に赴き、皇上 の登極を慶賀す。また使者英梓等五員名を差わし、神宗顕皇帝、光宗貞 皇帝に香品を齎進す。それ進到せる表文および方物は、已経に本部具 題し、進収し訖れり。いまに及りて、該国使者英梓等の官、定陵・慶陵 に赴きて行礼するの外、所拠の差来せる員役は、存留・通伴の賞賜は近 ごろ該本部議題して減免するを除くの外、それ到京の王舅一員馬勝連、 長史一員林国用、使者二員翁寿慶・英梓、通事一員蔡錦、人伴相連等十 二名は、例としてまさに給賞すべし。査得したるに、該国の賞例は、凡 そ差来の王舅は綵段四表裏・羅四疋・紗帽一頂・級花金帯一条・織金紵 糸衣一套・賈襪各一双を賞し、長史・使者は毎員綵段二表裏、折鈔綿布 二疋、通事は綵段一表裏・折鈔綿布二疋、人伴は毎名折鈔綿布二疋な り。附搭土夏布二百疋は一半を官抽して例として給価せざるを除き、そ の抽剰の一半は毎疋鈔五十貫を給し、毎鈔々二百貫は闊生絹一疋に折与 す。進過の方物は例として給賞せず。通査案呈して部に到る。看得した るに、琉球国中山王世子尚豊の差来せる王舅馬勝連等は、綵段表裏・冠 帯衣服・絹布を賞賜す。既経に該司査するに前例あり、あいまさに題請 し、まさに(命の)本部に下るを候ちて、内府の各該衙門に行移し、数に 照らして関出して給賞す。土夏布の価値の生絹は、到京の王舅馬勝連等 に給付して、伴送の百戸林挺棟と同に領(回)せしむ、等の因あり。天 啓四年五月初八日、太子少保本部尚書兼牴林学士林等具題す。十一日 聖旨を奉じたるに是なり。これを欽めよや、とあり。遵いて王舅・長史 等の官馬勝連等の賞賜は、ともにすでに関領して完備し、六月初十日給 散するを除くの外、あいまさに移会す。これがためまさに貴院に咨す。 煩為わくば本部の題奉せる欽依内の事理に査照して、琉球国および該布 政司に転行して欽遵施行せられよ、等の因あり。これを准け擬してまさ に就行すべし。これがため抄案を仰ぎ、司に回して着落せしむ。当該の 官吏、咨内の事理に照依して、琉球国中山王世子尚豊に移行して欽遵施 行せしめよ等の因あり。これを奉じ擬してまさに就行すべし。これがた め滉を備えて貴国に移咨す。煩為わくば遵照して施行せられよ。須く咨 に至るべき者なり。計開す。  琉球国中山王世子尚豊、差来せる王舅・長史等の官馬勝連五員并びに 人伴相連等十二名はともに綵段十一表裏・羅四疋・紗帽一頂・級花金帯 一条・織金紵糸衣一套、計三件、靴襪各一双、折鈔綿布三十二疋を欽賞 す。抽剰せる本国附搭の土夏布は生絹と価値してともに二十五疋を給賞 す。  右、琉球国に咨す 天啓五年六月二十二日 [注1神宗顕皇帝 明朝第十四代の皇帝、万暦帝のこと。2光宗貞皇帝    明朝第十五代の皇帝、泰昌帝のこと。3定陵 神宗万暦帝の陵。  北京郊外にある(明十三陵の一つ)。4慶陵 光宗泰昌帝の陵。5翁  寿慶 首里翁氏の三世。具志川親方盛継。一五七九〜一六三九年。  6滉 由と同じ。天啓・崇禎帝ともに諱に由の字があるため、同字  を避けて、この間、滉の字で代用された。] [二一九 中山王世子尚豊より礼部および福建布政使司あて、再び冊封を請うことについての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封せんが事のためにす。照し得たる に、泰昌元年九月内、我が先君世を辞して薨苺するを痛む。念うに予小 子、嫡長なれば*を承く。然れども侯服度ありてあえて僣称せず。王統 永存するには、まさに宜しく題請すべし。天啓五年二月内、正議大夫蔡 廛を遣わして奏請し去後れるも、未だ渙汗を蒙らず。いままた正議大夫 蔡延を遣わして、疏を捧じて再請す。咨を備えて前来して、伏して乞う らくは、転じて具題して襲封を請う。上は朝廷寵沃の盛典を光かし、下 は該国恭順の小心を昭らかにせん。これがために理としてまさに貴部・ 司に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。これがた めに移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部・福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓六年二月 日  咨す [注1蔡延 久米村蔡氏の八世、屋良家の二代。照屋親雲上。一五七五  〜一六四四年。官は正議大夫。万暦〜崇禎間に四度の渡唐記録あ  り。] [二二〇 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、五年一次の貢期に循って進貢することについての咨文]  暫く五年一貢に擬し、期に及びて進貢するの咨□  琉球国中山王世子尚豊、進貢の事のためにす。案照したるに、天啓二 年二月内、差せる正議大夫蔡堅、進貢の事竣りて廻還し、福建等処の承 宣布政使司の咨を奉齎して、天啓四年八月奉到す。咨を准けたるに称す らく、礼部の看得を蒙るに、琉球国は海浜に処るといえども、素より効 順を称し、属藩として享献の常額を踰えず。万暦四十年の間より、国勢 微弱なるにより、しばしば倭警を被る。貢を修むるは、それ恭順の念 ありといえども、瘡痍いまだ定まらざれば自ら固よりいまだ遑あらず。 該省撫院題請して、その貢を却回し、本部議覆して十年の後、物力やや 充なるを俟ち、方めて修貢するを准すとあり。今年限すでに満ち、かつ 皇上の新たに大宝に登るに臺いて、該国世子尚豊、またいよいよ虔みて 儀文を備え、貢を修めて封を請う。これ誠に向化の嘉すべくして、懐柔 のまさに優たるべきものなり。冊封の典は亟かにまさに俯従すべし。入 貢の期は暫く五年一次に擬し、該国を封ずるの後を俟ちて、再び期限を 酌議するを行い、欽定を題請すべし。該省撫院に移咨して知会施行せし む、等の因あり。太子賓客本部署部事右侍郎兼牴林院侍読学士鄭、具題 して聖旨を奉じたるに、是なり、これを欽めよや、とあり。欽遵して撫 院に咨す。本部、欽依内の事理に査照して、布政司に行し、琉球国に転 行して欽遵施行せしめよ、等の因あり。抄呈して司に到る。移咨して国 に到るを奉蒙す。これを准け、擬してまさに欽依して遵守施行すべし、 等の因あり。  これに拠り案照して、査得したるに、本年まさに貢期に及べば、理と してまさに進奉すべし。これをもって祖例に遵循して、虔みて硫黄一万 簧・馬四匹・常貢等の方物を備え、前来して上進す。正議大夫・使者・ 都通事等の官蔡延等を遣わし、咨を齎し表を捧じて船隻に坐駕し、前項 の方物を解運し、謹み赴きて投納す。これがために理としてまさに貴司 に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。これがため に移咨す。須く咨に至るべき者なり。  一件、附搭土夏布は絹帛に兌換するの事。原奉じて船隻を遣わすごと に省に到れば、しばしば例として附搭土夏布二百疋の兌換を准さるるを 蒙る、等の因あり。遵依して例に照らして附搭し、咨に載して前来す。 伏して乞うらくは、往年の事例に査照して施行せられよ。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓六月二月 日 [二二一 朝鮮国の吏曹判書金から正議大夫蔡延あて、咨文および礼物受領についての書簡]  朝鮮国吏曹判書金、礼物を験領せんが事のためにす。貴国の本国に送 至せる謝咨一通、後に開するの礼物等は、まさに職として数に照らして 験領し、本国に齎回す。まさに他日、別に咨を修せしむるの外、擬して まさに先に移文す。煩請わくば照験して施行せられよ。須く移文に至る べき者なり。  右、琉球国正議大夫蔡 に移文す 天啓六年十二月二十三日  収領の礼物   細嫩練光土蕉布二十端 細嫩生地土蕉布二十端   五色紗二十端 五色糸布二十端 天藍色線絹二十端   土扇二百把 建扇二百把 紅緑花緞二端 蕉布一十端   氈条四張 肇慶硯二面 徽墨二十錠 胡筆二十枝   檀香一千枝 土扇一百把    際 [注1吏曹判書 李氏朝鮮の官名。吏曹(二〇五項注2参照)の長官。] [二二二 三司官呉鶴齢等より福建布政使司あて、請封の甘結提出についての咨文]   請封通国の甘結  琉球国中山王府三法司呉鶴齢・孟貴仁・毛泰運等、請封の事宜誠実に 執結してもって海圉を固くし、永くもって天朝の韜感を豁むるを図らん が事のためにす。  照し得たるに、泰昌元年九月十九日、先王薨苺す。顧命ありて嫡長に 付す。世子中心哀疚して、遽かに宗親を承くるに忍びず。国戚・朝野の 臣庶あい率いて強勧す。以為うに王位は久しく虚しくすべからず。生霊 は主なかるべからず。統業嫡継は国家の大経なり、と。陳詞すること再 三にして幸いにも懇切なるに鑑み、輿情を俯納して、良を涓び吉を択 び、天朝の社稷を望拝して、祗しんで本国の神祗に告げ、恭しく即位を なすも、侯度に確遵して、いまだあえて王と称せず。猗歟、世子新君、 稟性純篤にして、素より国人の心を得、義を慕うこと誠孚にして、実に 藩臣の職を謹む。ここにまさに襲べきを奏請して、冊封の栄の降るを佇 望す。士民胥慶び、朝野具に瞻ぐ。顧みるに、それ中外野を分かち、天淵 界を隔てれば備詳慎密なるも韜度なきことかたし。これがために卑職遵 いて継統の縁由、承基の事歴をもって、在朝の臣属および許くの在野の 耆老名を参し号を尽くすの確実なる具結と合符するも、事は国体国法に 関わればあえて妄りに冒すなし。伏して爺台に乞い、氷鑑高く懸りて、 遠鄙を照臨し、韜度毋らしめんことを請う。ために祈願す。蚤亟に転詳 題封せらるるを賜えば海宇治平の福を広め、藩疆永遠の基を固くせん。 結はこれ実なるに拠り、あえて冒りに結せず。   計開す  右、福建等処の承宣布政司に具結す 天啓七年 月 日具す  咨す [注1甘結 印結、印信結状のこと。ここでは請封通国の甘結で、冊封  を請うため、国中の在野の耆老が署名捺印した保証書の意。2孟貴  (帰)仁 首里孟氏の三世?、今帰仁親方宗能。生没年未詳。尚豊代  の三司官。3毛泰運 首里毛氏の六世。豊見城親方盛良。一五八  六〜一六四二年。尚豊〜尚賢代の三司官。一六四二年、島津へ使し  ての帰途、遭難した。] [二二三 中山王世子尚豊より礼部あて、甘結を備えて三たび冊封を請うの咨文]   礼部への咨  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。  本年五月内、礼部の咨を承准けたるに称すらく、儀制清吏司案呈すら く、本部より送りたる内府の抄出を奉じたるに、琉球国中山王世子尚豊 奏称すらく、照し得たるに泰昌元年九月十九日、痛ましくも我が先王臣 尚寧、世を辞して升苺す。念うに予小子臣尚豊、長嫡なれば*を承く。 然れども王統永存するには、まさに継述を行うべきも、侯服度あれば敢 えて僣称せず。典例に欽遵して封を請い、綸音もて爵を錫うを佇望す。 これがために臣尚豊遵将の事宜もて礼部に移咨して知会するの外、謹み て疏章を具して、正議大夫蔡廛を遣わし、捧馳叩奏して聖聴を冒涜せし む。然れば小臣の請封は該国の恭順を明らかにし、大帝の錫爵は歴朝の 盛典を光かさん。伏して望むらくは、皇上臣が祖の事例に俯照して、蚤 かに皮弁冠服を賜れば、恩栄は一弾の波区万載にして億代に延綿し、藩 疆は重光を累歴するに庶からん。臣尚豊、激切翹首して待命の至に任う るなし、等の因あり。  聖旨を奉じたるに、礼部知道せよ、これを欽めよや、とあり。欽遵 す。抄出して部に到り司に送る。査するに該省の巡奏なし。堂批を呈奉 して、該省撫按に行文して、違碍ありやなきやを査勘せしめ、已経に移 咨し去訖れり。あいまさに咨覆すべしと。案呈して部に到る、等の因あ り。移咨して国に到れば、査照して知会せられよ、等の因あり。  これを承け前事を案照して、照し得たるに、琉球は朔を奉じて臣と称 す。藩を海外に維ぎ忠に帰し款を納れ、華中に属載し、累代竜光の栄を 襲い、永世駝紐の重きを操る。循支逓派して伝流授受す、橋を観、梓を 視て、継述して昭明なり。原根一脈にして、数を暦ること千年なり。父 王薨苺して顧命あり。嫡長世子に付すと。容を正して器を奉ずるは、実 に微躯、祖緒の遺垂を承くるに出ず。これ時によく謹みて冊封を請い、 もって鬯を被り、就日し、ただ許国に勤め、ただ帰順を知るのみ。貞を 堅くし藩を維ぐは、実に大誥を崇褒するに頼る。天啓五年、正議大夫蔡 廛を遣わし、捧疏叩闕し奏聞して請襲す。情をもって咨を備えて移会し 去後れり。聖旨を奉じたるに礼部知道せよ、これを欽めよやとあり。 欽遵す。査するに該省の巡奏なきも、撫按に行文して、違碍のありやな きやを査勘せしめらるを蒙る、等の因あり。あいまさに移咨して国に到 る。  この教旨を承け、義もて心に慙ずるを激せられ、天の畏るべきあり、 地の申ぶるに堪うなし。ただ益々金貞を励ますを知り、韜かに王闕を 瞻、万歳の声を嵩祝して敢えて瑕無きの抔を告ぐ。盛治に慶臺するこ と、波天に異ならざれば、願わくば蚤かに名を夫の比屋に参じ、もって まさに懇を明台に致さん。敢えて曲全て咳唾を請い、深仁もて艀やかに 題封して錫爵するを賜えば、丕いに王会の図を振うこと、日々新たにし て、長く臣貢の区を繋ぐこと辰拱なるに庶からん。これがためについで 前事の縁滉をもって、具疏して移咨す。長史林国用を遣わし、粛心捧馳 し前赴して投逓す。なお咨もて福建布政使司に移会し、両院に転詳して 前恩を類奏し、もって襲封を題請するに便ならしむ。これがため理とし てまさに貴部に移咨して知会せしむ。煩為わくば、査照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 天啓七年  咨す [注1堂批 堂は役所の長、批は差図、指令。ここでは礼部尚書の差図  の文書のこと。2循支逓派 支・派ともに子孫の意で、子々孫々に  伝えること。3橋を観、梓を視て 橋(木)は父道、梓(木)は子  道のたとえ。父子の道をみての意。4鬯 まつりで神をよぶのに用  いる香酒。5許国に勤め 身を捨てて国に勤めるの意。6名を夫の  比屋に参じ 名をのきなみ連ねて。善政を謳歌する人民の一人とし  て名を連ねる、印信結状(甘結)に官人耆老が署名すること。7王  会の図 王者が諸侯を会同する模様を描いた図。8辰拱 北極星を  中心に周星が回ること。] [二二四 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、甘結を備えて三たび冊封を請う咨文]   布政司への咨  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。  本年五月内、福建等処の承宣布政使司の咨を承准けたるに称すらく、 礼部の照会を承准けたるに、儀制清吏司案呈すらく、(本)部より送り たる内府の抄出を奉じたるに、琉球国中山王世子尚豊奏称すらく、照し 得たるに、泰昌元年九月十九日、痛ましくも、我が先王臣尚寧世を辞し て升苺す。念うに予小子臣尚豊、長嫡なれば*を承く。然れども王統永 存するには、まさに継述を行うべきも、侯服度あれば、あえて僣称せ ず。典例に欽遵して封を請い、綸音もて錫爵を佇望す。これがため臣尚 豊、遵将の事宜もて礼部に移咨して知会せしむるの外、謹みて疏章を具 して、正議大夫蔡廛を遣わし、捧馳叩奏して、聖聴を冒涜せしむ。然れ ば小臣の請封は該国の恭順を明らかにし、大帝の錫爵は歴朝の盛典を光 かさん。伏して望むらくは、皇上臣が祖の事例に俯照して、蚤かに皮弁 冠服を賜れば、恩栄は一弾の波区万載にして億代に延綿し、藩疆は重光 を累歴するに庶からん。臣尚豊、激切翹首して待命の至に任うるなし、 等の因あり。  聖旨を奉じたるに、礼部知道せよ、これを欽めよやとあり。欽遵す。 抄出して部に到り司に送る。査得したるに、外国の襲封は、それ支派の 是なるや否や、承襲の応にすべきや否や、まさに福建衙門に行りて、査 勘して明白ならしめば、題請するに便なるに庶からん。案呈して部に到 る。まさにすみやかに本布政司に照会して、細さに訪勘を加え、尚豊嫡 長にして承襲するの応にすべきや否や、詐冒ありやなきや、合国人員の 碍なきの甘結を取具して、回覆前来し、もって定奪に憑らしむべし、 等の因あり。これを承け前事を案照したるに、擬してまさに貴国に移咨 す。煩わくば事理によりて査勘して明白ならしめ、合国人員の碍なきの 甘結、一様の四本を取具して、咨報してもって両院に転詳し、具題して 定奪に憑らしむべし、等の因あり。  承准して案照したるに、閲繹の縁由、重ねて教旨を蒙り、義もて心に 慙ずるを激せられ増々礼の斉うを感じ、教化益々興り、義を慕い誠を輸 す。曩に先君の顧命を奉じ、藩治を継承す。天啓五年、正議大夫蔡廛を 差わし、疏を捧げ咨を齎して、襲封を奏聞し去後れり。聖旨を奉じたる に、礼部知道せよ、これを欽めよやとあり。欽遵す。査するに該省撫按 の具奏無きも、該布政司に照会して、違碍ありやなきやを査勘せしむ、 等の因を蒙る。  幸いに台下の玄鑑に臺い、凝氷微として照らさざるはなく、詳密にして その方命を欺き、輿結を揆りてもって疑碍を開くべし、等の因あり。然 らば琉球は東隅の流末に僻処するも、原より禹甸の区中に載すれば、仰 ぎて天朝の政教を被り、習いてもって性成す。国を治め家を斉え、よく 天経地義を明らかにし、上行えば下効う。孰か顧命もて承基を更変する に忍びんや。微躯は嫡長の之辞し難きに係り、身は暦数に当たれば、己 を反りみて菲才の任うるなきを慙ず。重ねて皇霊の遠鬯崇褒なるを頼 り、竜半の盛典を仰ぎ、鳳詔以て新頒を期し、常に貞を励まし報を図ら んことを懐う。これを髪膚に誓い尽瘁して磨せず。帰忠の大節、誰かあ えて支派を跳梁し、国経を孟浪し、天聴を誑涜して、三錫の栄を今日に 於いて苟徇して、不賽の名を沽冒してもって身後に流さんや。伏して盛 治の波天に異ならざるに忻臺するを慶び、願わくば蚤かに名を夫の比屋 に参じて、用てまさに懇を明台に致さん。敬んで曲全て咳唾を請い、深 慈もて艀やかに応に襲ぐべきを題請するを賜えば、丕いに王会の図を振 うこと日々新たにして、長く臣貢の区を繋ぐこと辰拱なるに庶からん。 これがため、来文の事理の違碍ありやなきや等の因に遵依して、確実に 由を備えて咨報し、并びに輿情の甘結、一様の四本を取具して、彙斉し て移咨す。長史林国用を遣わし、疏を捧げ咨を齎して前来して投逓す。 これがために理としてまさに貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば査 照して両院に転詳し、具題定奪して施行せられよ。須く咨に至るべき者 なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓七年 [注1閲繹 王統継承のこと。2不賽の名 よからざるの名、悪名。] [二二五 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、未帰還進貢船の探報および使者迎接のための咨文]  琉球国中山王世子尚豊、探報の事のためにす。天啓五年遣去したる進 貢請封の二船、旧年八月内、拠の英梓等の坐駕せる一船帰国し、梓の啓 に拠るに称すらく、後船は踵を接して随則に継ぎ至るべきも、今にいま だ蹤影を見ざるに縁り、日ごと憂患を生じ、誠に自ら安んぜず。まさに 差遣を行いて、もって端的を探らしむ等の因あり。拠の前二次に差遣せ る官員該に司務に当たるべきの存留・朝京等の役はいま事竣るに逢い、 期に及べば応に廻りて報復すべし。済□に至れば須く舟楫を用うべきを 慮り、特に都通事・使者等の官陳華等の員役を遣わし、坐駕前来して以 て前遣二次等の員役、一併に帰還せしむるに便ならしむ等の因あり。船 は波浪に韜れ、軽蕩して根まらず。百命の関わるところもって苟且しが たければ、順便に硫黄・方物二千簧を載運して、前来投納し、預め後逢 の貢期の補欠に充つ等の因あり。これがために、理としてまさに貴司に 移咨して知会せしむ。煩わくば査照して施行せられよ。これがため移咨 す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 天啓七年二月二十二日  咨す [注1陳華 久米村陳氏(幸喜家)の一世。生没年未詳。福建の人。一  六一七年、慶良間諸島に漂着して久米村籍に入り、以後琉球の進貢  に従事した。2苟且 かりそめ、なおざり、一時のまにあわせ。] [二二六 福建布政使司より琉球国あて、毅宗登極の詔書等を齎すため左衛指揮閔邦基を遣わすについての咨文]  福建等処の承宣布政使司、開読の事のためにす。礼部の照会を承准け たるに、頒発せらる皇上登極并びに謚号の各詔書、司に到る。旧例に査 循して、両院に呈詳し、福州左衛指揮閔邦基を差委して、齎捧前来して 開読せしむ。欽遵して施行せよ。須く咨に至るべき者なり。  計、齎す詔書は四道  右、琉球国に咨す 崇禎元年五月十八日  咨す [注1閔邦基 本項で福州左衛指揮として毅宗登極の詔を齎し到った  が、後に隆武帝の即位(隆武元年=順治三年)に際しても、やはり  登極の詔を齎した(二九三項)。] [二二七 朝鮮国王より琉球国あて、琉球国王の即位にあたりますます交隣を篤くしたい旨の咨文]  朝鮮国王、情礼を敦くし、交隣を篤くせんが事のためにす。  天啓七年五月十九日、敝邦の節を賀するの陪臣金尚憲等、京師より回 りて貴国の咨を齎到す。前事節該に曩案を稽査したるに、叨くも貴国先 に異篤を施すを蒙り、躬承基継統の日に当たれば、安んぞ礼教に敬服 し、福履を奉詢せざるを得んや。復た照し得たるに、万暦三十九年該国 の遣わせる王舅毛鳳儀等京師より回還し、領奉せる朝鮮国王の咨に拠る に、遣わせる吏曹参判兪大禎等咨文もて国に到る。詳査したるに厚罅・ 儀幣等の物を開載す。諸を故老に詢うに、備に我が先君時に当たりて拝 領するも未だ報酢を行わざるを知る。続いで照らすに、万暦四十年該 国の遣官朝聘し、舟楫廻還するのとき中洋*に遇いて貴国の境界に漂入 す。総官林世政等共に八人名、尽く帰復を行いて口称すらく、朝鮮国王 恤憐豢養せられ再び生を完するを造すと。是に倭奴荒邸を蹂躙するに縁 って、聖詔もて十年にして物力充燉し、然る後貢を修むるを寛宥せらる を奉蒙す。此に因り信音を疎闊すれば情として矜原すべし。此に循いて 闕に叩するの盛際に、先曩年の先君の拝幣を将て悃を謝し、既に漂風人 役恵を被るを将て恩に酬ゆるに、聊か任土の菲儀を将てし、咨を備えて 開具す。正議大夫蔡廛等を遣わし齎馳赴京して転旋交逓し三階に捧涜せ しむ、等の因あり。  此を准け随ちに後開せる両款の厚儀の細嫩練光土蕉布二十端・細嫩生 地土蕉布二十端・五色紗二十端・五色糸布二十端・天藍色線絹二十端・ 土扇二百把・建扇二百把・紅緑花緞二端・蕉布一十端・氈条四張・肇慶 硯二面・徽墨二十錠・胡筆二十枝・檀香一千枝・土扇一百把を将て数 に照らして収領せしむるの外、為照うるに、海陸万有余里なるも枉牘忽 ち至り、辞意鄭重にして情文備に尽くす。就ち想うに、賢王の鬯もて基 を承け命に服し、伊に始めて嗣を称し、継いで好允に礼経の文に合す。 肯えて善述を構え、深く隣徳の望を慰め、風を向いて馳せ*う。曷ぞ 忻賀に任えざらんや。漂海の員役は随いて津に到れば与国に遣わすの常 事として称揚せられ、既に罅儀太侈なるを過ぐ。窃に用て忸怩たり。 祈る所は底めて令徳を宣べ侯度を恪謹せられ、共に聖天子の一視の恩を 承くれば幸甚なり。不腆の土宜もて聊か微悃を申ぶ。賀至の陪臣吏曹参 判宋克粐に著令して京師に齎赴せしめて貴国の来价に転交すれば、庶幾 わくば堂廉に徹するを得、途道夐苟にして物、情に称わざるも仰ぎて惟 寛諒せられよ。此がために合に咨復を行う。煩わくば照験施行せられん ことを請う。須く咨に至るべき者なり。  計開す。   白苧布一十匹 白綿紬一十匹 黒麻布二十匹 人参三簧   彩花席一十張 霜華紙一十巻 黄毛筆三十枝   油煤墨三十錠 花硯二面 白畳扇五十把   粘六張厚油紙二部 粘四張厚油紙二部  右、琉球国に咨す 崇禎元年七月十一日  情礼を敦くし交隣を篤くせんが事  咨す [二二八 中山王世子尚豊より礼部あて、五年一貢に従って進貢するについての咨文]   五年一貢に擬す  琉球国中山王世子尚(豊)、進貢の事のためにす。案照したるに天啓三 年七月内、福建等処の承宣布政使司の咨を承准けたるに称すらく、軍門 都御史南の案験を奉じたるに、礼部の咨を准けたるに前事の所有の貢期 の一節あり。査得したるに、琉球国は向に二年一貢に係り、会典開載し てはなはだ明らかなり。該国遵行することまた久し。万暦四十年に至り て、該国倭の残破を被るにより、それ十年自立を俟ちて、方めて修貢を 与す。ついで経に本部議に依りて勅諭を題請す、該国遵守し去後れり。 いまに迄りすでに十年の期に及び、拠りて該国、復爾に貢を納め封を請 う。該省撫院題請し、本部貢期を議覆す。旨を奉じたるに、部に下す。 為照うに、貢期は祖制ありといえども、該国は向に削弱をもって、暫く 息むこと十年、いま拠りて遵照して、期に依りて貢を修むるは、誠に汲 々として義を慕うの忱なり。ただ該国の休養生息すること、未だ久しか らざれば、暫く擬して五年に進貢一次とし、国王を冊封するの後を俟ち て、本部再び貢期を酌擬するを行いて、欽定を題請して、まさに該省撫 院に咨して知会して施行せしむ、等の因あり。太子賓客本部署部事右侍 郎兼牴林学士鄭、具題して聖旨を奉じたるに、是なり、これを欽めよや とあり。欽遵す。擬してまさに就に行うべし。これがためまさに貴院に 咨す。煩為わくば本部の題奉せる欽依内の事理に査照して、布政司に行 じ、琉球国に転行して、欽遵して施行せしめよ、等の因あり。これを准 け擬してまさに就に行うべし。これがため抄案を仰ぎ、司に回して著落 せしむ。当該の官吏、事理に照依して、該国に転行して欽遵施行せしめ よ、等の因あり。抄案は依准して呈来し、依奉抄呈して司に到る。これ を奉じ擬してまさに就に行うべし。これがために滉を備えて移咨して前 去せしむ。煩為わくば欽遵して施行せられよ。これがため承准して移咨 して国に到る。これを准け擬して合に奉行すべし等の因あり。これを奉 じ、備滉の事理に遵依して、欽遵奉行せられよ、等の因ありて憲とな す。天啓六年、経に正議大夫蔡延を差わし進貢し去後れり。回咨の附巻 を伏奉す。これに拠り査得したるに、本年また進貢の歳期に当たる。理 としてまさに官を差わして進奉すべし。これがため祖例に遵循し、虔み て硫黄一万簧・馬四匹・常貢等の方物を備え、滉を備えて移咨す。正議 大夫・使者・通事等の官鄭俊等を遣わし、表を捧げ咨を齎して船隻に坐 駕し、前項等の方物を解運して、前みて福建等処の承宣布政使司に赴 き、投納するの外、これがため理としてまさに貴部に移咨して知会せし む。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  一件、附搭土夏布は絹帛に兌換するのこと。原奉じたるの遣船、省に 到るごとに、例として附搭土夏布二百疋を准さるを蒙る、等の因あり。 照例に遵依して附搭し、咨に載して前来す。伏して乞うらくは往年の例 に査照して施行せられよ。  右、礼部に咨す 崇禎三年正月十九日 [二二九 中山王府長史司より閔指揮使あて、琉球にて逃亡した中国使節の一員(方茂)の送還につき情状酌量せられたき旨の書簡]  琉球国中山王府長史司、跟役を提する事を請うの事のためにす。  照し得たるに、崇禎二年六月内、軍門に聴用せられて前に奉使して齎 捧して琉球に往きたるの指揮使閔の牒移を准けたるに、前事あり。准称 すらく、奉使して詔を齎して、琉球国中山王府に往きて開読し、事を竣 りて廻還せんとし、本年三月廿六日において、那覇より開駕す。所有随 従の員役は逐名点発して登舟するも、ただ鼓手の方茂のみ稽避して到ら ず。まさにすみやかに諞に提解を行うべし、等の情あり。司に到る。こ れを准けて擬してまさに就ちに行うべし。提解を為して諞に到□せんと す。これがため票を備えて巡捕庁に仰じて着落の各該地方に前去し、挨 査緝獲して前来せしむ。当官、保を召して、秋媼を聴候し、貢船に附搭 して原籍に解回して取炸せしめんとす、等の情あり。  これに拠り看得したるに、鼓手方茂、役に充てられて渡海来球するも、 帰るに臨みて躱閃遁跡す。主に背き親を忘るるは情として怨恨むべし。 ここに起解して法を執るに当たり、まさによろしく固哥して、縦逸に循 うこと毋らしめば、始めて逃条に近からん。ただ念うに詔に扶りて鼓吹 すれば、厳しく桎梏を加うるには忍びず。況やまた貢舟に順搭すれば、 ことさらに刑人もて駕度の夫に附し難し。発棹揚帆すれば千程一碧にし て縦よく挿翅するも、飛翔するに易からざれば、同舟に篭絡して偕に稍 共爨せしめ、密かに提防をして移文解赴せしむ。希為わくば審放して寧 家せしめられよ。幸わくば難に従りて究治すること勿かれと。来文の事 理もて煩為わくば査照して施行せられよ。須く牒に至るべき者なり。  右、軍門に聴用せられ前に奉使して齎捧して琉球に往きたるの指揮  使閔に牒す。 崇禎三年正月十九日  跟役を提するを請うの事 [注1牒移 牒を送ること。また送られた牒。牒は三品以下の官相互で  交される公文書。2那覇 首里の王城の西に開けた王府の港町。第  一尚氏(一五世紀)以降、東アジアの一大貿易港として発展した。  現在の那覇市。3鼓手 行事等で太鼓を打って楽を奏する人。4提  解 捕縛して護送する。5票 札、手形、キップのこと。何がしか  の文書の意であろう。6取炸 ここでは、身柄を引き渡すこと。7  躱閃遁跡 世の中からにげかくれる。8縦逸 ほしいままにする。  9審放 審査して釈放するの意であろう。] [二三〇 中山王府長史司より進貢正議大夫鄭俊あて、方茂の送還方についての訓令]  琉球国中山王府長史司、跟役を提することを請うの事のためにす。  照し得たるに崇禎二年六月内、軍門に聴用せられ前に奉使して齎捧し て琉球に往きたるの指揮使閔の牒移を准けたるに、前事あり。理としてま さに就行すべし。これがために依りて逃役の鼓手方茂一名を提し、牒を備 えて起送して諞籍に逓回せしめられよ、等の因あり。仰じて進貢船隻の 発駕するに臺わば、方茂一名をもって請挿して順搭して省に去かしむ。 原船港に到れば、□方茂の人牒をもって、随ちに河口四通事に交し領憑し 去後りて、投逓せしめよ、等の情あり。今まさに附搭して解去せしむべ し。ただ念うに、天朝の赤子にして、詔を仰護するの従人なれば、海途の 薪水・日食の裹糧は就ち公司之を給瞻し、風寒の布被、夜宿の眠籬は吮衆 をして以てあい安んぜしむ。審査して的確ならしめ、並えて篭箱を扶挟 するなからしめ、雑砕等の物は推撥して艙に存し、舟人を擾わして慮を致 すことなからしめよ。ただ小包袱一件あり。彼の方茂をして、自ら帯して 身に随わしめこれをして日夜起居せしめ、自ら謹みて携防して、員役舟 人のことに与ることなからしむ。これがため理としてまさに移会す。煩 為わくば査照して施行せられよ、等の因あり。須く牒に至るべき者なり。  右、正議大夫鄭俊に牒す 崇禎三年二月初三日  跟役を提するを請うの事 [注1吮衆 水吮たち、船員たちのことであろう。 ※『宝案』に本項のような琉球側の内部文書が納められている例は少  ない。] [二三一 福建布政使司より琉球国あて、皇子誕生他一通の詔書の頒賜についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、開読の事のためにす。照し得たるに、皇子 誕生、東宮を冊立するの詔書、天下に頒行す。官を差わして齎捧して省 に到り、已経に各属に通行して開読せしめて欽遵するの外、いま長史林 国用等、朝京の事竢りて回還するに照らし、前項の詔書はあいまさに順 齎せしむ。これがため滉を備えて貴国に移咨す。煩為わくば開読して欽 遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。計開す。詔書二通。  右、琉球国に咨す 崇禎三年六月初六日 対同通吏陳有徳  開読の事   咨す [二三二 福建布政使司より琉球国あて、請封を許可する旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らか にせんが事のためにす。  撫按両院の案験を奉蒙けたるに、礼部の咨を准けたるに、該本部の題 につき、儀制清吏司案呈すらく、本部より送りたる崇禎元年十月二十七 日の礼科の抄出を奉けたるに、欽差提督軍務にして巡撫福建地方都察院 右僉都御史を兼ねたる朱一馮称すらく、福建布政使司の呈に拠るに、琉 球国中山王世子尚豊の咨を准けたるに、長史林国用を遣わして齎投す とあり。天啓七年五月内、本司の咨を承准け、礼部の照会を承准けたる に、儀制清吏司案呈すらく、本部より送りたる内府の抄出を奉けたる に、琉球国中山王世子尚豊の奏に称すらく、照得したるに、泰昌元年九 月十九日、痛ましくも我が先臣尚寧、世を辞して升游す。念うに予小子 臣尚豊は嫡長なれば*を承く。然れども王統永存するには合に継述すべ きも、侯服度ありて敢えて僣称せず。典例に欽遵して封を請い綸旨もて 爵を錫うを佇望す。此がために臣尚豊遵いて事宜をもって礼部に移して 知会せしむるの外、謹みて疏章を具し、正議大夫蔡廛を遣わし捧馳叩奏 して聖聴を冒涜せしむ。然り而して小臣の請封は該国の恭順を明らかに し、大帝の錫爵は歴朝の盛典を光かさん。伏して望むらくは、皇上臣が 祖の事例に俯照して早に皮弁冠服を賜らんことを。恩栄もて一弾の波区 万載にして億代に延綿し、藩疆は重光に累歴せん。臣尚豊、激切翹首し て待命の至に任うる無し、等の因あり。  聖旨を奉じたるに、礼部知道せよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄 出して部に到り司に送る。査得したるに、外国の襲封は其の支派の是な るや否や、承襲の応にすべきや否や、合に福建衙門に行りて査勘明白な らしめば題請するに便なるに庶からん。案呈して部に到る。合に就に本 布政使司に照会して細加に、尚豊は嫡長なるや、承襲は応にすべきや否 や、詐冒の有りや無きやを訪勘し、合国人員の碍げ無きの甘結を取具し て回覆前来せしめ以て定奪に憑らしめよ、等の因あり。此を承け前事を 案照して擬して合に貴国に移咨す。煩わくば事理に依りて査勘明白なら しめ、合国人員の碍げ無きの甘結一様の四本を取具して、咨報して以て 両院に転詳し、具題して定奪するに憑らしめよ、等の因あり。  承准して案照して、縁滉を閲釈するに、重ねて教旨を蒙り義もて心の 慙を激し、増々齎礼教化を感じ、益々慕義輸誠を興す。曩に先君の顧命 を奉じて、藩治を継承し、天啓五年特に正議大夫蔡廛を遣わし、咨を齎し 疏を捧じて襲封を奏聞し去後れり。聖旨を奉じたるに、礼部知道せよ、 此を欽めよやとあり。欽遵す。査するに該省撫按の具奏なければ、該 布政司に照会して、違碍の有りや無きやを査勘せしむ等の因を蒙る。然 らば琉球は東隅の流末に僻処するも、原より*甸の区中に載すれば、仰 ぎて天朝の政教を被り、習いて以て性成す。国を治め家を斉え克く天経 地義を明らかにし、上行えば下効う。孰か顧命もて承基を更変するに忍 びんや。微躯は嫡長の之辞し難きに係り、身は歴数に当たれば、己を反 りみて菲才の任うる莫きを慙ず。重ねて皇霊の遠鬯崇褒なるを頼り、竜 半の盛典を仰ぎ、鳳詔以て新頒を期し、常に貞を励まし報を図らんこと を懐う。此を髪膚に誓い尽瘁して磨せず。帰忠の大節、誰か敢えて支派 を跳梁し、国経を孟浪し、天聴を誑涜して三錫の栄を今日に於いて苟徇 し、不賽の名を沽冒して以て身後に流さんや。仰ぎて盛治の波天に異な らざるに欣臺するを慶び、願わくば早に名を夫の比屋に参してもって将 に懇を明台に致し、敬んで曲全げて咳唾を請う。深く慈もて艀やかに応 襲を題封するを賜えば、丕いに王会の図を振うこと日に新たにして、長 く臣貢の区を繋ぐこと辰拱ならしむるに庶からん、等の因あり。確実に 滉を備えて咨報し、并びに輿情の甘結一様の四本を取具して、類斉して 移咨し、長史林国用を遣わし疏を捧じ咨を齎して前来して投逓せしむ。 煩為わくば査照して両院に転詳し、具題して定奪施行せられよ、等の因 あり。  此を准け前事を案照したるに、天啓七年四月内、撫按両院の憲牌を蒙 り、守巡兵海の各道鎮及び琉球国に行じ、細査に尚豊の是れ嫡長の親男 なるや否や、応に承襲すべきや否や、詐冒有りや無きやを訪勘せしめ、 査勘明確ならしめ例に照らして、合国人員の碍げ無きの甘結を取具し て、滉を具えて通詳し以て会奏して定奪施行するに憑らしめ去後れり。  今、分守福寧道右参政の朱大典、督理屯塩水利にして福州兵備道副使 を帯管たる杜喬林、巡視海道右参政にして僉事を兼ねたる周応期の各滉 覆を准け、海防館に拠るに、呈炸せる甘結は随ちに送りて司に到るとあ り。此を准け滉を備えて転炸して臣に到る。巡按福建太僕寺少卿にして 監察御史事を仍管たる趙胤昌と会同して、看得したるに、世を継ぐに命 を請うは実に外夷恭順の*忱なり。履を賜い綸を頒つは、尤も天朝懐柔 の洪いに造るなり。琉球国中山王世子尚豊、泰昌元年より応に合に承襲 すべきも敢えて自ら専にせず。天啓五年具疏して奏請す。旨を奉じて部 に下し転行して覆勘せしめ、該国臣民の結状を取有して、委に違碍無け れば相応に准従すべし。念うに其れ九年以来、王号を虚しくして未だ称 せざれば梯航翹首せん。庶わくば万里の外をして聖諭に徼い、以て嗣服 せしめ、藩牴をして心を傾けしめん。既経に司道勘覆して前来すれば合 に代りて具題すべし。伏して乞うらくは、勅もて該部に下し査例して封 襲を覆請して施行せられよ。該国臣民の結状は長史林国用に着令して別 に行して親ら礼部に齎し投逓するを除くの外、等の因あり。聖旨を奉じ たるに、該部知道せよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到 り司に送る。  巻査したるに、天啓三年三月内、該琉球国中山王世子尚豊の請封、部 に到る。該国止方物を貢するのみにして、奏請の表文無く、又通国印信 の保結無くして、以て査勘致し去後れるに因り、今、福建巡撫の朱一 馮、巡按御史趙胤昌と会同し、具題して前来するを准けたるに、応に具 に襲封するを准すべきに似たりとあり。  又況琉球国中山王府三法司等の官呉鶴齢・孟貴仁・毛泰運等の印結を 取有したるに、封を請うの事宜は、誠実の執結以て海圉の永図を固く し、以て天朝の韜度を豁めんが事の為にすとあり。照得したるに泰昌元 年九月十九日、先王薨苺す。顧命もて嫡長に付す。世子中心哀疚して遽 かに承くるに忍びず。宗親・国戚・朝野の臣庶相率いて強勧するに、以 て王位は久しく虚しくすべからず、生霊は主無かるべからず、統業嫡継 は国家の大経なりとなす。陳詞再三にして、幸にも懇切なるに鑑み、俯 して輿情を納れ、良を涓び吉を択びて天朝の社稷を望拝し、祗しんで本 国の神祗に告げ、恭しく即位を為す。侯度を確遵すれば敢えて王と称せ ず。猗歟世子新君、稟性は純篤にして素より国人の心を得、慕義誠孚し て実に藩臣の職を謹む。茲に応に襲ぐべきを奏請して、冊封の栄を降さ んことを佇望す。士民胥慶び朝野具に瞻る。顧みるに夫れ中外野を分か ち、天淵隔を界し、備詳慎密なるも韜度無き難し。此がため卑爵遵いて 継統の縁滉をもって承基するの事歴は、在朝の臣属及び許くの在野の耆 老名を参し号を画せる確実の具結に合符するも、事は国体国法に関われ ば敢えて妄りに冒す罔し。伏して乞うらくは、氷鑑高く懸り遠鄙を照臨 せられて、韜度毋らんことを請う。為に祈願すらくは、蚤亟に転詳して 題封するを賜り、海宇治平の福を広くし、藩疆永遠の基を固くせられん ことを。結する所は是れ実なり等の因あり。部に到り司に送り、通査案 呈して部に到る。  看得したるに琉球国已に故せる中山王尚寧の世子尚豊父爵を承襲せん ことを乞要むるの一節は、既経に福建巡撫朱一馮等会勘するに、碍げ無 きの彼の国諸臣の印結を取具して、粘炸前来すれば相応に封を准すべ し。合に命の下るを候ち、世子尚豊をもって琉球国中山王と為す。其れ 該に用うべきの皮弁冠服、紵糸等の件及び合に用うべきの装盛木櫃は杜 索鎖鑰して、沿途の杠運人夫、護送の軍快は各該衙門に通行して、旧例 を査照して造弁完備ならしめ、例に照らして応に付すべく、別に題請を 行いて、官を遣わして該国に前み去かしめ、勅封行礼せしむ等の因あ り。聖旨を奉じたるに、是なり、此を欽めよやとあり。続いで該本部題 請すらく、遣差せる正使戸科給事中杜、副使行人司司正楊、詔勅を齎捧 して該国に前み去かしめ、封を授けしむ等の因あり。崇禎二年五月二十 七日、本部尚書何等具題し、六月初一日聖旨を奉じたるに、是なり、此 を欽めよやとあり。欽遵して合に咨して前み去かしむべし。煩為わく ば、本部の題奉せる欽依内の事理に照らして、欽遵施行せられよ。此を 准け擬して合に就行すべし。此がため抄案を仰ぎて司に回して着落せし む。当該の官吏事理に照依して欽遵施行せられよ等の因あり。  此を奉じ合に就に滉を備えて貴国に移咨す。煩為わくば欽遵施行せら れよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎三年六月初六日 対同通吏陳有徳  王爵を請封せんが等の事  咨す [注1訪勘 たずねて調べること。2歴数 定まった運命。3尽瘁して  磨せず 心を尽くして、努力してなおすりへらないこと。4杜三策   尚豊の冊封正使。山東東平州の人。一六三三年六月に来島し、同  年十一月に帰国。その際の記録として従客の胡靖の『杜天使冊封琉  球真記奇観』がある。5楊倫(揚*) 尚豊の冊封副使。雲南籍上元  の人。] [二三三 中山王世子尚豊より冊封正使杜三策あて、迎接使派遣についての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。  崇禎三年六月初六日、福建等処の承宣布政使司の咨を承准けたるに前 事を称すらく、照し得たるに、撫按両院の案験を奉蒙し、礼部の咨を准 けたるに、該に本部の題につき、儀制清吏司案呈すらく、本部より送れ る崇禎元年九月二十七日の礼科の抄出を奉けたるに、欽差提督軍務兼巡 撫福建地方都察院右僉都御史朱称すらく、福建布政使司の呈に拠るに、 琉球国中山王世子尚豊の咨を准けたるに、長史林国用を遣わして齎投 す。天啓七年五月内、本司の咨を承准け、礼部の照会を承准けたるに、 儀制清吏司案呈すらく、本部より送れる内府の抄出を奉けたるに、琉球 国中山王世子尚豊、前事を奏称するあり。査照して称を蒙るに、いま福 建巡撫朱、巡按御史趙と会同して確実にして碍げなきを査勘して具題し て前来せるを准けたるに、まさにその封襲を准すべきに似たり、等の因 あり。部に到り司に送る。通査案呈して部に到る、等の因あり。咨もて 前事を称するを承准けて奉蒙す。  看得したるに、琉球国の已に故せるの中山王尚寧の世子尚豊、父爵を 承襲するを乞要むるの一節は、すでに福建巡撫朱等会勘して碍げなけれ ばあいまさに封を准すべし。まさに命の下るを候ちて、世子をもって封 じて琉球国中山王となし、別に題請を行い遣官して該国に前去せしめ、 勅もて封じて行礼せしむ。聖旨を奉じたるに是なり、これを欽めよやと あり。ついで該本部題請して、正使戸科給事中杜、副使行人司司正楊を 遣差して、詔勅もて該国に前去して封を授けしむ、等の因あり。崇禎二 年五月十七日、本部尚書何等具題し、六月初一日聖旨を奉じたるに是な り、これを欽めよやとあり。欽遵す。まさに咨して前去せしむ。煩為わ くば、本部の題奉せる欽依内の事理に査照して欽遵して施行せられよ、 等の因あり。これを准け擬してまさに就行すべし。これがために仰じて 案を抄して司に回して着落せしむ。当該の官吏事理に照依して、欽遵し て施行せられよ、等の因あり。これを奉じまさにすみやかに滉を備えて 貴国に移咨す。欽遵して施行せられよ、等の因あり。奉到す。これを准 けこれを欽みて欽遵し、擬してまさに奉行すべし。これがため備に当該 の官吏に仰じて案を抄して回呈せしむ。これに拠り、欽依内の事理に遵 照して、欽遵して奉行すべし、等の因あり。  これがため照し得たるに、該国琉球仰ぎて累朝爵を錫うの典を被り、 俯して継代封襲の栄を貽す。ここに庸って践祚に遇うに膤び、明良喜起 すること快覩にして、風虎相従うこと盛艶なるに際会し、奇しくも地天 交泰して昌隆するに遭う。荷くも皇上冊を降して新に頒ち、日を指して 褒封して海宇を光かすを蒙る。驚聞すらく、使君の揚旌煥彩し、天を奉 じて澳を拝するは優宸より出ずればなりと。部司の教暁を承准けて、俄 に*舞を興すも、恨許らくは、山海韜网なれば、起居を候うなし。ただ 二星の炳瑞、燮香を観て、稽首して万里に懸*し葵硼の傾心するを翹瞻 し、*車を無外に護御し、官を遣わして、台に赴きて服役せしめ、前駆 貼駕して慣水の夷吮を択艾して迢来す。これがため遵将の縁滉もて咨を 備えて、正議大夫、都通事等の官蔡廛等を差わし、総管を帯領して慣水 夷吮二十名を督率し、駆舟歴浪して前赴し、俯伏して投逓す。朝に轣騎 諞南に賁むを聞き、夕に趨蹌として道左に迎うるに至るは、礼義として まさに然るべし。職分としてよろしく爾るべし。ただこれ巨海汪洋とし て天間に連なれば、畳ねて扶揺を待ちて楫棹を移し、火に惠りて槐檀に 改むるに籀るを須たんと欲するは、極めて違遅して舂避しがたきを知る も、聊気序に籍りて務めて原されんことを乞う。これがため理としてま さに貴科に移咨して知会せしむ。請乞うらくは、査照して施行せられ よ。これがため移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、欽差正使戸科給事中杜に咨す 崇禎三年十月十日 [注1明良喜起 明は賢明な君主、良は忠良な臣のことで、忠良な臣が  喜んで忠をつくし、賢明な君主の政が盛んになること(書経)。  2快覩 ここちよく見る。3風虎相従う 風は虎につきものであ  る。君臣がめぐり合うことのたとえ。4懸* はるかに思いをはせ  る。5葵硼の傾心 葵硼は君主の徳をしたう臣下のたとえで、ひま  わりが日光に向かうように、臣下が君主を仰ぎしたうたとえ。6道  左 賢者あるいは賓客を迎える場所。7扶揺 つむじかぜ。ここで  は季節風のことであろう。8気舒に籍る 気舒は心がのびのびする  こと。立派なお心にすがっての意。] [二三四 中山王府長史司より海防館呉あて、接封船乗組員の携帯螺殻の取り扱い規定についての故牒]  琉球国中山王府長史司、進貢船隻の事のためにす。崇禎三年七月初四 日、福州府海防館兼清軍同知呉の故牒を准けたるに前事を称すらく、布 政使司の票を蒙けたるに、館に仰せて、即ちに来船の附搭に螺殻のあり やなきやを査して、査明してもって官に委して買解し京に赴き上用する に便ならしめよ、等の因あり。これを蒙け遵行す。該本館、看得したる に、螺殻はすなわち上供としてまさに用うべし。例として福省において 買解す。つねに球国の来るを伺い、もって歳進の需に充つ。該国長史司 に故牒して煩為わくば発到してもって買備して解するに便ならしめんこ とを、等の情あり。  これを准けて前事擬してまさに就行すべきも、未だあえて擅便せず。 遵いて来文の事理をもって滉を備えて啓請するに、旨もて三法司に下し て知道せしむ。三法司の長史司に仰せらるるを蒙るに、会議して妥当な らしめ、滉を備えて回報し、もって覆請するに憑らしめよ、等の情あ り。司に到る。これを蒙け該本司、看得したるに、海螺は水族の動物な り。独り深淵に産じ、人はなはだしくは覓めがたし。漁戸の螺を採るは たまたま出没に遇いて抓撈す。浅沢には生ぜず。時に常にはあらず。水 吮の帯せる殻は便に随いて挟附に有無あり。殻の平なる時を視れば棄置 して見ること縦横なるに似たり。殻の貴なる時に遇えば尋取して、また 見ること希罕なり。議して照うに往歳は、水吮の多寡に帯去するを秧与 し、粗磁と兌貿して廻還せしむ。上奉せる吮を恤み、役を労うの常例は 軽々しく議して易えがたし。仰念するに京に解して上用するの事は孰か 焉より重大ならん。往日、水吮帯去するも、彼の市利をば地奸の恣肆蚕 啖するを被るは、常に机上の肉たり。夷の性直なれば詭談奸行に堕ち易 し、百械するも巧拙を防ぎがたし。仮使、前に陰に勢を恃みて七を賺 し、後には陽に公に仮りて三を呈す。弊織私に哄して償うことなけれ ば、夷人孰にか訴えん。上解を挨*して給せざれば、官府何にか求めん。 公私二つながら誠に惶として未だ便ならざるを致す。何若ぞ、経をすて て権に従うや。此次の遣船は接封なり。就中、吮卒役伴、携挟するの多 寡は幾多なるやを計湊し、声数は官に従りて実を逐いて移文知会せし む。省に到りて投逓し、委験して文に照らして点検交卸すれば、上解す るには充て易く、唖夷擾さざるに庶からん。ついで給値を請陳すれば降 下するを聴従せられよ。これがため会議して滉を覆す、等の情あり。呈 詳し去後れり。奉蒙したるに議に依れ、とあり。  ついで三法司の参看を蒙くるに、螺殻は細物なるも、奇しくも上用に 臺えば籌鼎するに堪う。故牒を具して知会せしめよ。肯えて広容を施さ るるも、擅進すれば、乞求するも售償を給する勿く、或いは妄涜に行言 を愆つを責め、蠢突を矜原せらるるを願わば、遵依して価を領し、吮卒 に頒給せよ、等の情あり。司に到る。  これを蒙け理としてまさに遵行すべし。ついで原遣の接封員役に着し て、就中、挟附せる螺殻を計算せしめたるに三千五百個なり、簿送して 前来せしむ。これに拠りまさに簿に照らして螺殻の実数を報じ、滉を備 えて貴館に故牒して知会せしむ。煩為わくば委験して盤卸して施行せら れよ。須く故牒に至るべき者なり。  崇禎三年 [注1螺殻 ヤコウ貝のこと。漆器の螺鈿細工に用いる。崇禎期あたり  から進貢物(三千箇)および附搭貨として中国に輸出されたが、康  惡三十一年に進貢品から免除された。2挨* のばす、遅延するの  意。3籌鼎するに堪う 鼎を籌(はか)る、充分に考える、基本的  な事として考えるで、今後を含め考慮するに値いするの意。] [二三五 中山王世子尚豊より朝鮮国王あて、進物の謝礼および長き友好を願うことについての咨文]  琉球国中山王世子尚(豊)、情礼を敦くし、交隣を篤くせんが事のた めにす。  崇禎元年七月十一日、朝鮮国王の咨を准けたるに前事あり。賀至の陪 臣吏曹参判宋克粐に著令して、京師に齎赴せしめ、貴国の来价に転交せ しむ。庶幾わくば堂簾に徹するを得られんことを、等の情あり。  此を准け恭しく白苧布一十疋、白綿紬一十疋、黒麻布二十疋、人参三 斤、彩花席一十張、霜華紙一十巻、黄毛筆三十枝、油煤墨三十錠、花硯 二面、白畳扇五十把、粘六張厚油紙二部、粘四張厚油紙二部等の厚罅を 承く。照験して拝領するの外、来文を披閲するに、繹情の辞これ懇篤な れば頓かに起ちて韜瞻し、拝礼の幣これ侈陳なれば徒に俯揣を増す。惶 惶として撫心し厚徳を存するを知る。顧影して猥容に落失するも、反り みて思うに天を仰ぎ共に戴き、九重の雨露に均霑して忘形す。地を迥か にし区を分かつも永く万祀雷陳の莫逆を聯ね、情殊爽ず、義毀疵するな し。稔審に鮑子は其れ我を知るなり。矧、亦常に先人の家訓を念い、淡 交すること水の若し。長く古人の風味を鰐めば、君子之を尚ぶ。是を以 て報酬の称わずして愧を蒙くるを避けず。特乃ち永く道義を堅くし、相 に中孚を成す。用いるに献芹の鄙意をもってし、敢えて寸草の微忱を昭 らかにすべし。茲に東宮を慶賀するの盛際に当たり、敬んで咨復を修 め、聊か任土の菲儀を具えて計開すること左の如し。王舅毛時耀、正議 大夫鄭子孝等に着令して、順程齎逓し、都門会館に往赴して、貴国の来 使に転交し、伝捧進呈して上献せしむ。極めて軽胚異褻なるを知るも統 べて崇亮を仰ぎて惟祈るのみ。此がため理として合に貴国に移咨して知 会せしむ。煩わくば照験して施行せられんことを請う。須く咨に至るべ き者なり。  右、(朝鮮国王に)咨す 崇禎四年三月 [注1顧影…落失す 自らを顧みてその至らなさに落胆する。朝鮮の厚  情、礼物の素晴らしさに比べ、琉球の卑少なるに愧じ入っているの  意であろう。2雷陳の莫逆 雷陳は人名。雷義と陳重のことで、膠  (にかわ)と漆(うるし)にたとえられ、互いに逆らうことのない  心の通じあう友人の意。3毛時耀 首里毛氏の四世。池城親方安  幹。一五八八〜一六三三年。官は三司官座敷。一六三三年王舅とし  て進貢し、同年、尚豊の冊封使杜三策らに随行して帰国した。4鄭  子孝 久米村鄭氏の十世。安次嶺親雲上。生没年未詳。官は正議大  夫。万暦〜崇禎間、貢使として度々渡唐。5都門会館 都門の近く  にある会同館のことであろう。6軽胚異褻 軽々しくて異国の褻な  るもの。琉球からの贈り物をへりくだっていったことば。] [二三六 中山王世子尚豊より毅宗あて、皇太子の冊立を慶賀することについての表文]   東宮を冊立するの慶賀の表  琉球国中山王世子臣尚豊、伏して覩るに、崇禎三年二月初十日、皇太 子を冊立し東宮に定位す。詔して天下に告ぐれば謹みて表を奉じて賀を 称する者なり。臣尚豊誠懽誠*、稽首頓首して上言すらく、伏して以う に煕朝啓運し、地天交泰じて方めて隆なり。茂*華を承け、日月明を 離ねて照を継ぐ。欽みて惟うに、皇帝陛下、沢は八紘に暢べ、化は万類 に融る。黎庶、春台の世に囿しみて泰階常に平かなり。蛮夷瀚海の波に 通じて玉関閉さず。慶は麟趾に鍾まり、つとに仁孝の声を蜚ばす。夢は 熊占に叶い再び徇斉の胤を震む。内外重光し、神人みな慶ぶ。臣尚豊世 々辺藩を守り、躬盛際に臺い、華封を効す。祝を致して天闕に望みても って嵩呼す。伏して願わくば、天保を祚隆し、永く瓜攬の祥符を綿ぎ、 寿衍にして日升り、長く泰寧の玉燭を享けんことを。臣尚豊天を瞻み、 聖を仰ぎて激切募営の至りに任うるなし。謹みて表を奉じて賀を称し、 もって聞す。  崇禎四年 [注1夢は熊占に叶い 熊を夢みると男子を生む前兆である、との意。  2瓜攬 瓜が連なり実るように、子孫が繁盛することのたとえ。] [二三七 中山王世子尚豊より礼部あて、皇太子の冊立慶賀についての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、開読の事のためにす。仰ぎ承くるに、崇禎三 年二月初十日、皇帝、東宮を冊立す。詔して天下に播し、咸に知開せし む。これを欽めよやとあり。欽遵す。恭しく聞くに、知君命を受け、位 定まりて乾を承く。霜露墜つるところ、遐陬も均しく盛泰を歌う。舟車 至るところ、僻壌も悉く重惡を頌う。俯して揣うに、琉球は華諞に密迩 し、少しく海幀の波に忻臺すれば、殊に渥潤快に被うを蒙り、前星照 耀し、異襲輝煌すれば、職守の関わるところ、理としてまさに先を争い て慶賀すべし。これがため謹みて表箋を修め、咨を備えて、王舅正議大 夫等の官毛時耀、鄭子孝等を差遣し、齎捧して出疆し、梯航して闕に赴 き、東宮を仰ぎて献頌す。嗣いで祖成の規例に法り、菲物代搜ありて上 進す。理としてまさに咨に載して開具す。鍍金銅結束紅漆鞘*腰刀二 把・鍍金銅結束黒漆鞘*腰刀二把・鍍金銅結束黒漆貼金鞘黒漆*笆刀四 把・鍍金銅結束黒漆貼金鞘黒漆*鎗六柄・練光蕉布二十疋・両面満金扇 一百把・両面満銀扇一百把・□金描画帷募一対あり。京に赴きて進奉 す。理としてまさに貴部に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照して進 奉施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 崇禎四年三月  咨 文 [二三八 福建布政使司より琉球国あて、迎接使の一部の帰国に際し咨文を給することについての咨文]  福建等処の承宣布政使司、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らか にせんが事のためにす。崇禎三年十二月初六日、琉球国中山王世子尚 (豊)の咨を准けたるに称すらく、正議大夫・都通事等の官蔡廛等を差遣 し、総管吮伴とともに一百一十五員名を率領して、前赴して天使を迎接 せしむとあり。旧例に査照して存恤安挿するの外、ついで正議大夫蔡廛 等の呈に拠るに、文を賜りて国に帰らんがことのためにす。廛命を奉 じて、使者・都通事等の官とともに、船隻に坐駕して、前来して天使を 迎接せんとするも、いま封船なお未だ工を興さざるに縁り、切に思うに 廛と使者毛泰世・都通事林世重および貼駕の都通事陳華・総管金思敬・ 伴吮馬加等三十八名とともに例としてまさに存留在駅し、封船を導引し て国に到るべし。その余の使者、都通事官并びに伴吮人等は議して先□ 回国せしめば、坐して糧食を費すを免らしむに庶からん。例として回文 あれば、もって復命に便ならん、等の情あり。司に到る。これに拠りま さに移覆を行うべし。これがため理としてまさに滉を備えて前去せし む。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎四年六月初六日 対同通吏陳必賢  王爵を請封せんが等の事  咨す [注1毛泰世 人名。未詳。2林世重 久米村林氏(上原家)の初代。  翁長親雲上。生没年未詳。首里欽氏の出身で、『嘉徳堂規模帳』に  は万暦三年 久米村入籍とあるが、天啓〜崇禎年間の編入か。3金  思敬 久米村金氏(渡具知家)の八世。具志親雲上。生没年未詳。] [二三九 福建布政使司より琉球国あて、慶賀進香使節への欽賞物品の賜給についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、慶賀進香の事のためにす。欽差提督福建軍 門都御史熊の案験を奉けたるに、礼部の咨を准けたるに、該本部の題に つき、主客清吏司案呈すらく、本部より送れるを奉じたるに、該琉球国 中山王世子尚豊、咨もて王舅毛泰時等一十六員名を差わし、表文を齎捧 し、方物を管送して京に赴きて、皇上の登極を慶賀し、并びに熹宗熔皇 帝に香品を追る。それ進到せる表文および方物は、已経に本部具題して 進め、及いま該国長史蔡錦等前みて徳陵に赴き行礼するの外、所拠の差 来の員役は、例としてまさに具題して、琉球国中山王世子尚豊差来の王 舅、長史等の官毛泰時等一十六員にともに彩段九表裏・羅四疋・紗帽一 頂・*花金帯一条・織金紵糸衣一套、計三件、賈襪各一双・折鈔綿布三 十疋を欽賞すべし。抽して剰れる本国附搭の土夏布の価値の生絹二十五 疋を給賞す、等の因あり。まさに貴院に咨して布政司に移行し、琉球国 に転行して知会して施行せしめられよ、等の因あり。これを奉け擬して まさに就行すべし。これがため滉を備えて移咨して前去せしむ。煩為わ くば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎四年六月初六日  咨す [注1毛泰時 首里毛氏(座喜味家)の六世。読谷山親方盛泰。一五九  七〜一六六七年。官は三司官座敷。2熹宗熔皇帝 明の十六代の皇  帝天啓帝のこと。3徳陵 天啓帝の墓陵。明十三陵の一つ。] [二四〇 冊封正使杜三策より中山王世子尚豊あて、迎接使の派遣を受くるも渡琉が遅れる旨の咨文]  欽差正使戸科右給事中杜、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。崇禎三年十一月十五日、琉球国中山王世子尚(豊) の咨を准けたるに、正議大夫・都通事等の官蔡廛等を差わし、総管を帯 領し、慣水夷吮二十名を督率し、舟を駆りて歴浪して前赴し、俯伏して 投逓す。ついで崇禎四年六月初一日、都通事林世政を遣わすとあり、両 次移咨して科に到る。これを准け、照し得たるに、帝が近臣を簡びて海 外を冊封するは、累朝の旧典にして、また聖主の新恩に係る。本科たま たま承乏の人にして、幸いにも使命を叨くす。すでに崇禎三年六月十八 日において諞に抵りて任を履む。つねに懐うも及ぶなきの思いを抱く。 王言宿めざるの義を矢い、朝に榕郡を離れて、夕べに中山に抵らざる を恨む。奈んせん一水の汪洋たるを隔つれば、須く万全の舟楫に資るべ し。巨艦を督修するに、日ならずして告成するを期す。大川を利渉して 長風に乗じて、もって往く所、寸心黙祷し、夙夜敬共す。ただ祈るに皇 霊に憑藉りて、波滄海に揚らざれば庶幾わくば、粛みて帝命の寵をもっ て、蚤かに藩封を錫乎わらんことを。ここに官を遣わして迎封するによ り、理としてまさに移咨して回復すべし。これがため滉を備えて前去せ しむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王世子尚(豊)に咨す 崇禎四年六月十一日   王爵を請封し愚忠を効し盛典を昭らかにせんが事  咨す [注1承乏 官職に就くのをへりくだっていう。適当な人物がいないの  で、間に合わせにその職に就く。2王言宿めざるの義 王言は天子  のことば。天子のおことばを滞らせずに、速やかに行うこと。3榕  郡 福州のこと。かつて福州は榕樹(ガジュマル)が多かったとこ  ろから、榕城とも呼ばれた。] [二四一 冊封副使楊倫より中山王世子尚豊あて、迎接使の派遣を受くるも渡琉が遅れる旨の咨文]  欽差副使行人司司正楊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。崇禎三年十一月十六日、琉球国中山王世子尚(豊) の咨を准けたるに、正議大夫・都通事等の官蔡廛等を差わし、総管を帯 領し、慣水夷吮二十名を督率し、舟を駆りて歴浪して前赴し、俯伏して 投逓す。ついで崇禎四年六月初二日、都通事林世政を遣わすとあり、両 次移咨す、等の因あり。司に到る。これを准け照し得たるに、天、胚軒 の臣を遣わし、海外の国を勅封するは、皇霊遐く鬯び、寵錫特に加え、 優庭に鳳詔を頒ち、九天雨露の施を洒ぎ、金闕竜章を煥かし、万里皇華 の色を霽らす。これ誠に無外の弘恩にしてまた世々奇臺せざるものな り。本司身ら封役を叨くし、心切に馳駆して任に履くも条びてすでに週 年なり。工を興すこと卜して即日にあり。擬るに冬末において竣を得 ん。封舟は博望の槎なり。まさに遠からずして綸澳の賁、日を計るべ し。ここに官を遣わして迎封するにより理としてまさに移咨して回復す べし。これがため滉を備えて前去せしむ。煩為わくば査照して施行せら れよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王世子尚(豊)に咨す 崇禎四年六月十一日   王爵を封じ、愚忠を効し、盛典を昭らかにせんが事  咨す [注1胚軒の臣 天子の使臣。] [二四二 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、迎接使節の回国の時期についての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。崇禎四年七月二十一日、欽差正使戸科左給事中 杜、欽差副使行人司司正楊の前事を咨するを承准けたるに、崇禎三年十 一月十六日、琉球国中山王世子尚の咨を准けたるに、正議大夫・都通事 等の官蔡廛等を遣わし、前赴して投逓す。ついで崇禎四年六月初二日、 都通事林世政を遣わすとあり、両次移咨して迎封す、等の因あり。科・ 司に到る。これを准け理としてまさに移咨して回復すべし。これがため 滉を備えて前去せしむ。査照して施行せられよ、等の因あり。国に到る。 これを承准けて遵依して奉行すべし、等の因あり。これがため天使の降 臨迩にあるを仰瞻し、礼としてまさに重復迎接すべし。これがため咨を 備えて正議大夫、通事等の官蔡延等を遣わして、舟を駆りて歴浪し、前 赴して迎接す。万一封舟もしいまだ告竣せずして、発駕あるいは暫く改 歳に移れば、前後の原差の員役は夏蚤媼に及ばん。伏して乞うらくは移 文して摘令回国せしめば、冗費を免らしめ、便捷に封務を馳聞するに庶 からん、等の因あり。これがため理としてまさに貴司に移咨して知会せ しむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 崇禎四年十月 日  咨す [二四三 中山王世子尚豊より冊封正使杜三策あて、四度目の迎接使派遣についての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。  崇禎四年七月二十一日、欽差正使戸科左給事中杜の前事を咨するを 承准けたるに称すらく、崇禎三年十一月十五日、琉球国中山王世子尚 (豊)の咨を准けたるに、正議大夫・都通事等の官蔡廛等を遣わし、総管 を帯領し、慣水夷吮二十名を督率して、前赴して俯伏投逓せしむ。つい で崇禎四年六月初一日、都通事林世政を遣わすとあり、両次移咨して国 に到る、等の因あり。これを准けたるに、蒙称すらく、帝、近臣を簡びて 海外を冊封す。本科偶承乏の人にして、幸にも使命を叨くす。すでに 崇禎三年六月十八日において、諞に抵りて任を履めり。毎に懐いて及ぶ なきの思を抱き、王言宿めざるの義を矢う。ただ祈るらくは、皇霊に憑 藉して、波滄海に揚らず、庶幾わくばつつしみて帝命の寵をもって、す みやかに藩封を錫わらんことを。ここに官を遣わして迎封するにより、 理としてまさに移咨して回復すべし。これがため滉を備えて前去せし む。査照して施行せられよ、等の因あり。国に到る。これを承准け遵依 して奉行す、等の因あり。  これがため天使の降臨*瞻すること迩きに在り。頂踵ともに忘れ、啓 処に遑あらず、夙夜懈らず、ただ敬恭を持すのみ。彼の巨海の汪洋なる を観て、寸心哂萢に係関す。窃に聖明の盛世允なるに欽臺するを懽ぶ。 海波揚らずして、使命の辺に臨むを奉迎するを致慮す。誠なるかな。野 鄙堪えがたきも、反揣るに外藩の撮土、すべてこれ中国の飛塵なり。お よそ舟車の至るところ、人力の通ずるところ、みな上天灑露の恩栄を吸 う。ここをもってやや乱惶を釈き、重申ねて赴き膊う。これがため旧冬 咨もて正議大夫・通事等の官蔡延等を遣わし、前赴して迎接せしむ。今 春咨を備えて、都通事・使者等の官鄭藩献等を遣わして、前赴して俯伏 投逓し、繞旋の玉節、附衛の金符を迎接せしむ。これがため理としてま さに貴科に移咨して知会せしむ。請乞うらくは、査照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。  右、欽差正使戸科左給事中杜に咨す 崇禎五年二月十六日 [注1啓処に遑あらず 家でくつろぎ、膝まづいて休息する暇がない。  2哂萢 不安なさま。3鄭藩献 久村米鄭氏(与座家)の二世。国  場親雲上。一五八四〜一六四二年。官は正議大夫。万暦〜崇禎間、  進貢使として数度渡唐。崇禎十五年、帰国の途次、遭難して没す。  4繞旋の…金符 冊封使の齎す玉節や金符。具体的には冊封の詔勅  や先王の諭祭文のことであろう。] [二四四 中山王世子尚豊より欽差副使楊倫あて、四度目の迎接使派遣についての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。  崇禎四年七月二十一日、欽差副使行人司司正楊の前事を咨するを承准 けたるに、崇禎三年十一月十六日、琉球国中山王世子尚の咨を准けたる に、正議大夫・都通事等の官蔡廛等を差わし、総管を帯領し、慣水夷吮 二十名を督率して、舟を駆りて歴浪して、前赴して俯伏投逓せしむ。つ いで崇禎四年六月初二日、都通事林世政を遣わすとあり、両次移咨す、 等の因あり。司に到る。これを准けたるに、蒙称すらく、天胚軒の臣を 遣わし、海外の国を勅封す。本司身ら封役を叨くす、心切に馳駆して任 を履むも、条びてすでに週年、工を興すこと卜して即日にあり。擬るに 冬(末)において得竣せん。封舟は博望の槎なり。遠からずして、綸澳の 賁日を計るべし。ここに官を遣わして迎封するにより、理としてまさに 移咨して回復すべし。これがため滉を備えて前去せしむれば、査照せら れよ、等の因あり。国に到る。これを承准けて遵依して奉行すべし、等 の因あり。  これがため韜かに望むらくは、胚軒の重寄、聖徳を承宣し、賁して揚 旌すること日において近し。卑思うに、海国浮磽なるも、天威を仰奉 し、凛戦の氷兢を懐い、頂踵ともに忘れて歓驚ならび措す。反揣るに、 辺区の撮土もすべてこれ中国の飛塵なり。およそ舟車の至る所、人力の 通ずる所、ことごとく上天灑露の恩栄を吸う。景いに漑ぎて回春し、来 蘇を*慕すること、耿切にして夙に降節を期し、練望引領して傅*す。 ここをもって煩褻を避けず。重申ねて叩迎す。これがため旧冬咨もて、 正議大夫・通事等の官蔡延等を遣わし、前赴して迎接せしめ、今春咨を 備えて都通事・使者等の官鄭藩献等を差遣し、前赴して俯伏投逓せし む。繞旋の玉節を迎接し、趨きて金符を侍衛せしむ。これがため理とし てまさに貴司に移咨して知会せしむ。請うらくは、査照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。  右、欽差副使行人司司正楊に咨す 崇禎五年二月十六日 [注1重寄 重い任務。2凛戦の氷兢を懐い おそれつつしみかしこま  る、おごそかで厳粛な懐いの意か。3来蘇 仁者が来りて人民がそ  の徳に頼って再生の思いをすること。4引領 首を伸ばして待ち望  むこと。] [二四五 冊封正使杜三策より中山王世子尚豊あて、渡琉が来夏にのびる旨を伝えた咨文]  欽差正使戸科左給事中杜、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らか にせんが事のためにす。崇禎五年二月十六日、琉球国中山王世子尚(豊) の咨を准けたるに、都通事・使者等の官鄭藩献等を遣わし、前赴して俯 伏投逓し、旋繞の玉節、附衛の金符を迎接せしむ。これがため理として まさに移咨して知会せしむ。請乞うらくは査照して施行せられよ、等の 因あり。科に到る。これを准け照得したるに、海外冊封の典は、すなわち 天朝柔遠の仁なり。本科、綸澳ここに将に覃敷せんとすることいよいよ 切なり。ここに巨艦を修し、冀くば大川を渉らん、奇を苣谷の中に捜す に前に耶し後に許し、匠を選ぶに成風の技をもってし、左に輸し、右に *して、万里の楼船を碚催す。蚤かに九重の恩誥を布く。眷せられてこ こに藩服し、夙に守礼の邦と称せられ、しばしば賢良を遣わし、来たり て使星の駕を趣す。望恩何ぞそれ篤きや、向化なんぞそれ誠ならんか。 いかんせん鑑工竣るといえども喩木求めがたく、風媼すでにすでに時を逾 ゆ。吉期はまさに来夏を須つべし。中山を望みて引眺すること何ぞ磴瀛 に異ならん。良覿のなお懸するを念い、翹跂に勝えず。敢えて帰帆の便 を籍り、少しく恭候の忱をもってす。ここに遣官迎封の船廻るにより、 理としてまさに移咨して回復すべし。これがため滉を備えて前去せし む。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王世子尚に咨す 崇禎五年六月初五日  咨す [注1前に…後に許し 力仕事をする際の前後あい応じたかけ声。2引  眺 遠く望むの意。3磴瀛 磴莱・瀛州の二神山のこと。4良覿   よい会合、楽して会合。5翹跂 つまだちのぞむ、待ち望むこと。] [二四六 福建布政使司より琉球国あて、迎接使節の帰国につき回文を賜与する旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らか にせんが事のためにす。崇禎五年三月十八日、琉球国中山王世子尚(豊) の咨を准けたるに称すらく、都通事・使者等の官鄭藩献等を差遣し、夷 吮を率領し、前来して天使を迎接す等の縁滉、司に到る。旧例を査照し て存恤安挿せしむるの外、ついで都通事鄭藩献等の呈に拠るに、回文を 賜いて帰国せんがことを乞う。献等命を奉じて使者等の官とともに、船 隻に坐駕して、前来して三たび天使に接す。切にいま封船完すれば、 固より献等例としてまさに先回して馳報すべし。伏して乞うらくは、回 文を賜いて帰国し、もって復命に便ならしめば、遅留なくして遠人戴徳 するに庶からん、等の情あり。これに拠りまさにすみやかに移覆すべ し。これがために咨を備えて前去せしむ。煩為わくば査照して施行せら れよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎五年五月二十九日   王爵を請封す等の事  咨す [二四七 中山王世子尚豊より福建布政使司あて、迎接使再遣についての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。崇禎五年五月二十九日、福建等処の承宣布政使司 の前事を咨して国に到るを准く。これを准け崇禎五年六月初五日、つい で欽差正使戸科左給事中杜・欽差副使行人司司正楊の咨を准けたるに蒙 称すらく、艦工竣るといえども、喩木求めがたく、風媼すでにすでに時を 逾ゆ。吉期はまさに来夏をまつべし。徒に**の憂を懐くも、克く済る の具鮮しきを奈んせん。ここに遣官迎封の船廻るにより、理としてまさ に移咨して回復すべし、等の因あり。国に到る。これを准け照し得たる に、天使天書の重大なるを負荷し、遠く九重を離れるも、使命に馳駆 す。間関して諞に臨むこと三載、蚤に大典を襄す的今秋に竣らんとす。 糅んぞ中喩を欠き、移改して来夏の節を涓ぶ。員役を膊えて、すでに発 帰して回報せらるるを蒙る。護衛の舟車まさにまさに再遣して前来すべ し。君を敬し、使を重んずるは、臣が職としてまさに然るべし。これが ため咨して正議大夫・使者・通事等を差わし、舟を駆りて航海奔赴して 投迎す。これがため理としてまさに貴司に移咨して知会せしむ。煩為わ くば旧例に査照して起送施行せられよ。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 崇禎五年九月十七日 [注1靡*の憂 靡*は『詩経』の王事靡*で王事をしっかり勤めるの  意。つまりは、それが果せない、果せそうにないことを憂う。] [二四八 中山王世子尚豊より欽差副使楊*あて、迎接使の派遣についての咨文]  琉球国中山王世子尚豊、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らかに せんが事のためにす。  崇禎五年六月初五日、欽差副使行人司司正楊の前事を咨するを承准け たるに、蒙称すらく、帝命を捧じて都門を出で、皇華を履みて諞境に入 る。夙夜図りてこれただ碚むるは蚤に大典の襄らんことのみ。艦役を督 率して直ちに即ちに中山に抵らんと欲す。ただこれ吉期すでに卜する も、大喩なお稽る。徒に靡*の憂を懐くも、克く済るの具これを奈んせ ん、等の因あり。これがため滉を備えて前去せしむ。煩為わくば査照し て施行せられよ、等の因あり。国に到る。これを承准け査照して奉行す べし等の因あり。  これがため天使聖詔を奉揚し、冊封を頒賜するの栄膺を仰瞻し、使遣 の拝命は九重より出ず。諞に臨みて親ら造舟を督すること三載。任重き も、綸澳の威厳、百霊効職し、万神呵護す。人事斉わざるがために採喩 稽緩をなすにあらず。まことに是なり。使駕の按臨すること、癸酉に端 然たれば、掃榻してもって候つ。尚豊懇願すらくは、蚤に雨露に沾い、 再び天心の眷顧に順わんことを敬請するに至る。海国を蕩すること春風 をもってす。万里翹瞻して、坐臥に寧んぜず。一心確向して毎に夢に趨 蹌す。ここに北風媼発するにあたり、正議大夫・使者・通事等の官林国 用等を差わし、舟駆航海して前赴奉候し、繞旋の符節を迎接し、舟車を 輔衛す。これがため理としてまさに貴司に移咨して知会せしむ。請うら くは査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、欽差副使行人司正司楊に咨す 崇禎五年九月十七日 [二四九 福建布政使司より琉球国あて、迎接使の帰国に際し回文を賜与する旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らか にせんが事のためにす。崇禎六年四月十日、琉球国中山王世子尚(豊)の 咨を准けたるに称すらく、都通事金応元等の官を差遣し、夷吮を率領 し、前来して天使を迎接す等の縁滉あり。司に到る。旧例を査照して存 恤安挿せしむるの外、ついで通事林有材等の呈に拠るに、蚤に回文を賜 いて帰国復命せんが事を乞う。材等命を奉じて船隻に坐駕して前来す。 五たび接して天使を恭迎し、今に迄りて事竣り、帰国即にあり。例とし て回文あり。伏して乞うらくは、蚤に賜いてもって復命するに便ならし めば、公務留りなく遠人戴徳するに庶からん等の情あり。司に到る。こ れに拠り合に就ちに回覆すべし。これがため滉を備えて移咨して前去せ しむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎六年五月初三日 対同通吏陳必賢  王爵を請封せんが事 [注1林有材(才) 大嶺親雲上。生没年未詳。官は正議大夫。] [二五〇 福建布政使司より琉球国あて、東宮の慶賀使への賞賜および帰国についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、開読の事のためにす。案照したるに、崇禎 四年六月十八日、琉球国中山王世子尚豊の咨を准けたるに、王舅毛時 耀、正議大夫鄭子孝を差わし、夷吮を率領して、表文ならびに各方物を 齎捧して、前来して東宮を冊立するを慶賀せしむ。已経に官を差わして 伴送し、および方物をもって解進して京に赴き、批を取獲して廻る。な お例に照らして宴待して安挿せしむるの外、また夷船を飛報せんが事の ためにす。  巻査したるに、崇禎五年八月初十日、軍門都御史鄒の案験を奉け、礼 部の咨を准けたるに、該に本部の題につき、主客清吏司案呈すらく、本 部より送りたるものを奉じたるに、該琉球国中山王世子尚豊咨もて、王 舅毛時耀等一十六員を差わし、表文を齎捧し、方物を管送して京に赴き 東宮を慶賀せしむ。それ進到せる表文および方物は、巳経に験明して題 奉す。照数せる遵将の方物は内府各衙門に開送して、交収し訖れり。所 拠の差来の王舅一員毛時耀、正議大夫一員鄭子孝、使者一員葉春耀、都 通事一員金応精、人伴紅有耀等十二名は、例としてまさに給賞すべし。 査得したるに、該国の賞例は凡そ差来の王舅は綵緞四表裏、羅四疋、紗 帽一頂、蚋花金帯一条、織金紵糸衣一套、賈襪各一双を賞し、正議大夫・ 使者は毎員彩緞二表裏、折鈔綿布二疋、通事は毎員彩緞一表裏、折鈔綿 布二疋、人伴は毎名折鈔綿布二疋なり。進過の方物は例として給賞せ ず。已経に具題して聖旨を奉じたるに、是なり、これを欽めよやとあ り。欽遵して各項の賞賜せる緞・絹・布疋・衣服・賈襪をもって、京に 到れる通事等の官金応精等に給付して領回せしめ、および鴻臚寺序班の 賀徳煌を差わして伴送して回還せしむるを除くの外、擬してまさに知会 せしむ。これがためまさに貴院に咨す。煩為わくば、本部の題奉せる欽 依内の事理に査照して、布政司に移行して琉球国に転行して知会せしむ 等の因あり。これを准け擬してまさに就行すべし。これがため抄案を仰 ぎて司に回して着落せしむ。当該の官吏、事理に照依して琉球国に転行 して知会施行せしむべし等の因あり。  これを奉けて、まさに各夷使の帰国に照らして、擬してまさに知会せ しむ。これがため滉を備えて移咨して前去せしむ。煩為わくば査照して 施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎六年五月初三日 対同通吏陳必賢  開読の事   咨す [注1東宮 皇太子のこと。ここでは毅宗(崇禎帝)の世子を指す。] [二五一 冊封正使杜三策より中山王世子尚豊あて、封船出発についての咨文]  欽賜一品服の戸科左給事中杜、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭 らかにせんが事のためにす。崇禎五年十月内、琉球国世子尚(豊)の咨を 准けたるに、正議大夫林国用等の官を差わし、水吮人伴を率領して、四 次迎封し、俯伏投逓せしむ等の因あり。科に到る。これを准け照し得た るに、冊封の大典は、聖主の新恩なり。本科勅を捧じ、時に心旌懸して馳 せてすでに中山の瑞靄の間にあり。惟うに船務拮据すること三年、迎封 遠勤を致すこと四次なり。あに惟忠順の誼、加うるありてやむなきのみ ならず、乃使者儀節の克く閑するは、何ぞ彬彬乎として君子多きなる をや。いま封舟成を報ずれば、すでに吉を五月十六日に卜して啓行せん とす。念うに中国の道ありて海波の揚らざるを知る。煌煌たる宝冊日を 計りて披宣をなすべきか。迎封の官帰国を為すに縁ってまさにすみやか に貴国に移咨せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至る べき者なり。  右、琉球国世子尚に咨す 崇禎六年五月二十日咨す   前事  咨す [注1何ぞ彬彬乎…多きなるをや どうして文飾と質の兼ね備わった君  子が多いといえようか。] [二五二 中山王尚豊より毅宗あて、冊封使に宴金の収受を命ずる旨、願った上奏文]  琉球国中山王尚豊、謹奏して頒封の事竣り、特に饋金を辞して、もっ て使節を重んぜんが事のためにす。崇禎六年、欽差使臣‐戸科左給事 中杜・行人司司正楊‐大典を捧頒して、恩綸を宣読するを蒙る。奕葉の 光栄、山川は怱耀し、冠裳物惆は国と更新す。号令ここより伊はじま る。これ誠に天朝特賜の殊恩にして、臣豊曠世の奇遇なり。臣拝受して 感激し、踴して歓*に勝う。窃かに惟うに、皇上の感蓋、無外にして恩 を寡昧の躬に覃ぼす。労勤の禁従に至るまで辰を重ねて窮僻の国を履 む。愧ずるところは、臣が小邦荒野にしてもって敬を将むるなし。ゆ えに宴款の際において物に代うるに金をもってす。自ら菲薄なるを知る といえども、まことに世々よりてもって例となす。すなわち二使臣屡 宴して屡辞すること再三に至るを辱くす。大義を堅持して固より却けて 受けず。氷霜の大節日月昭らかなり。臣が挙国の臣民固よりもって信孚 すること間なし。念うに二使臣艱辛三年にして遠く風涛の万里を渉る。 敝物に借りて敬を表し、礼は儀をもってせざれば、臣が心まことに窃か に安んじがたし。後の屡宴の前金、併封の具書をもって、特に法司・大 夫・長史等の官を差わしてもっぱら送りて受けんことを懇う。意わざり き、また書を煩わし、遣官に諭し、送還して固辞す。窃に謂うに、天 使、清白自ら持す。誠に聖朝臣節の重、外国藩臣の表たり。ただ微臣徳 に酬い功に報ずるに、万一を展ぶるなし。ことに旧礼欠くるあれば、微 敬いまだ伸べざるを慚ず。すなわち天子の使臣を簡慢し、窃に斧鉞の誅 を惶恐る。謹みて送還せる屡次の宴金二封‐共に計一百九十二両‐をも って、具本して、謝恩官王舅呉鶴齢、紫金大夫蔡堅等に附遣して、順齎 して奏聞せしむ。懇乞すらくは勅もて二使臣に賜いて収受せしむれば、 臣豊惶懼悚僚の至りにたえずと。  崇禎六年十月十五日 琉球国中山王臣尚豊謹みて上奏す [注1禁従 天子につき従う、またその者。2斧鉞の誅 おのとまさか  りによる刑罰、極刑。ここでは征伐、処罰されること。] [二五三 中山王尚豊より福建布政使司あて、冊封の謝恩についての咨文]  琉球国中山王尚豊、謝恩の事のためにす。崇禎六年欽差正使戸科左給 事中杜三策・副使行人司司正楊*、詔勅を齎捧し、随従の員役を帯し、 海船一隻に坐駕して、六月初九日において本国に到るを蒙る。旧例に照 依して文武百官等詔勅を那覇港口に奉迎し、天使を天使館中に款奉す。 七月初一日において先に先父王を寝孟において諭祭し、ついで二十二日 において詔勅を宣読して、臣豊を封じて中山王となすを蒙る。皮弁冠服 等の項并びに妃に綵幣等の物を欽賜するを荷授す。某百官とともに拝 舞し北向叩頭して謝恩するの外、ついで天使に請いて懇に詔勅を留めて 鎮国の宝となさんとす。天使その誠の切なるに鑑み、依聴して許留する を蒙る。窃に惟うに某遠く海東に処り、荒島に托居し、一統の正朔を奉 じ、累朝の深恩を荷くす。遡惟うに、太祖高帝よりもって今日に至る まで、まことに寵霊に憑籍して、長きことこれ一方なり。某封を請い勤 懇して遠く馳せれば、天使大典を捧頒して恩綸を宣播す。奕葉の光栄に して山川怱耀し、冠裳物惆は国とともに更新す。号令約束これより伊に 始まる。これ誠に天朝特錫の殊恩にして、某が曠世の奇遇なり。封栄を 拝受して以来、風雨調和す、これ天沢一臨ただに某が身、殊栄を荷くし てもって墜ちざるべきのみならず、すなわち挙国人民の全活を保つを得 るは、実にみな天朝生成の大賜なり。叨くも洪恩を荷むるは、天地と等 し。欣躍感戴して名言を煕くしがたし。愧ずるところは、小国瘠たる荒 野にして万一に図報すること能わず。ただ挙国臣民矢いて愚鈍を竭く し、堅く外藩を守り、聖寿の万憶に長春なるを祝い、皇恩の子孫世々に 無窮なるを頌するのみ。義は土を守るにあるに縁り、あえて擅離せず。 謹みて斎沐す。王舅呉鶴齢、正議大夫蔡堅等を遣わし、表箋文各一通を 齎捧し、夷吮を率領し、海船一隻に坐駕して、小国の土産‐金*鞘腰刀 二把、銀*鞘腰刀二把、黒漆*鞘鍍金銅結束腰刀二十把、紅漆*鞘鍍金 結束笆刀一十把、黒漆*鞘鍍金銅結束鎗一十把、糸線穿鉄甲一領、鍍金 護手護*各全、鉄*一頂、黒漆洒金馬鞍一坐、轡頭・**・前後牽*各 項件全、金彩画募風二対、金面扇一百把、銀面扇二百把、水墨画扇二百 把、紅銅五百斤、土糸綿二百斤、胡椒五百斤、土苧布一百疋、芭蕉布二 百疋を装載して、前来して京に赴き、謝恩せしむ等の情あり。伏して乞 うらくは転題せられよ。それ来たる王舅・正議大夫・使者・都通事等の 官呉・蔡等は起送して京に往かしむ。それ船は夏蚤媼に及びて発回すれ ば冗費を免がれ、便捷に平安を馳聞するに庶からん、等の因あり。これ がため理としてまさに貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照して 施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  一件、附搭土夏布は絹帛に兌換するの事。原奉じたるの遺船、省に到 るごとに、しばしば例として土夏布二百疋を附搭するを蒙る。照例に遵 依して附搭して前来す。煩為わくば往年の事例に査照して、兌換施行せ られよ。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 崇禎六年十月十五日 [注1天使館 冊封使一行の宿泊所。那覇港に近い那覇市東町にあっ  た。2寝孟 崇元寺のこと。] [二五四 中山王尚豊より福建布政使司あて、「空白紙文」を携帯せしむる旨の執照文]  琉球国中山王尚(豊)、公務の事のためにす。照し得たるに、進上の謝 恩の表箋併びに部文各項の公文は、全くしてともに心を用いて照管すべ く、損湿をうること毋らしむ。ただし水陸路途、ともに三千里の韜にあ り。特に空白の紙文をもって、王舅呉鶴齢、大夫蔡堅に付与して、収領 して前去せしめ、もって用に防備え、如若用いざればよろしくまさに回 炸すべし。併びに二天使の宴金二封を附して、同齎して京に赴き進上給 賞せしむべし。二使臣違留不便をうること毋らしめよ。須く照に至るべ き者なり。右執照は王舅呉鶴齢、正議大夫蔡堅に付す、これを准す。  崇禎六年十月十五日給す   執照 [※本項の「空白紙文」は、国王印のみを押して未だ文字を書いてない  白紙のことと考えられる。同文書は、表箋・咨文等の湿損や中国到  着後にたまたま皇太子が誕生したなど、慶弔いずれを問わぬ不測の  事態の発生に備えるため携帯するとしており、本項の符文の中にも  その旨を記している。中国に秘して携帯したとされる「空道」(伊波  普猷説)も、あるいはこの空白紙文のことではないかと推測される。] [二五五 福建布政使司より琉球国あて、謝恩使の上京等についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、天使の回駕を護送せんが事のためにす。案 照したるに崇禎六年十二月初八日、琉球国中山王尚(豊)の咨を准けたる に王舅呉鶴齢・正議大夫蔡堅・都通事金応元等を差わし、夷吮を率領し て表箋文を齎捧し、方物を装載して前来し、京に赴き謝恩せしむ。并び に封舟を護送し及び貢期を復せんがことを請う等の因あり。司に到る。 これを准け、ついで方物を将て盤験して明白ならしめ、夷衆は例に照ら して宴待安挿せり。已経に官を差わして伴送し、方物は解進して京に赴 かしむるの外、いま便に照らして各夷風に趁りて帰国すればまさに就に 咨覆すべし。これがため理としてまさに滉を備えて貴国に移咨す。煩為 わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎七年六月十一日 [二五六 福建布政使司より琉球国あて、冊封使帰着の通知および琉使の帰国についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、天使回駕するやの音信を詢問せんが事のた めにす。本年四月初三日、琉球国中山王尚(豊)の咨を准けたるに、使者 都通事等の官鄭子廉等を差わし、夷吮を率領し、船隻に坐駕して、前来 して天使の回朝の消息を探問せしむ。及査するに、前に差せる王舅呉鶴 齢、正議大夫蔡堅等の官の謝恩の船隻は、順に生硫黄二千斤を齎載して、 もって下年の貢儀を補わしむ等の因あり。司に到る。これを准け査得し たるに、天使の封舟并びに謝恩の船隻はともに崇禎六年十一月七日回駕 し、諞に旋りて南台滉り登陸し、崇禎七年正月十六日栄帰して復命す。 それ硫黄二千斤は已経に盤験して庫に貯え、夷官夷衆は例に照らして安 挿するの外、いま照らすに各夷媼便に風を趁いて帰国すれば、まさに就 に咨覆すべし。これがため理としてまさに滉を備えて貴国に移咨す。煩 為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎七年六月十一日 [注1鄭子廉 久米村鄭氏(義才)の十世。池宮城家の祖。上原親雲上。  一五八二〜一六四九年。万暦末〜崇禎初の進貢貢使。2南台 福州  城外の諞江の北岸の地。もと福州の要港で、南京条約(一八四二  年)で開港された五港の一つ。] [二五七 礼部より琉球国王あて、貢期を三年両貢に復し、方物を加進し船一隻を増すことを准す旨の咨文]  礼部、藩臣政を嗣ぎて聖恩を恭謝し、旧典に欽遵して貢職を修め、も って忠忱を竭さんが事のためにす。  該に本部の題につき、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の 抄出を奉じたるに、琉球国中山王尚豊前事を奏するの内に称すらく、欽 差正使戸科左給事中杜三策、副使行人司司正楊*、詔勅を齎捧し、臣を 封じて中山王となし、臣に欽賜の冠服等の項ならびに臣が妃に綵幣等の 物を授けらるるを荷蒙す。臣百官を率いて北向叩頭して謝恩するの外、 窃に惟うに臣遠く海東に処り荒島に僻居するも、一統の正朔を奉じ、累 朝の深恩を荷くし、遡りて太祖高皇帝よりもって今日に至るまで、実に 威霊に憑藉してこの一方を保つ。ここにけだし伏して皇帝陛下湛恩もて 海外を遺さざるに遇い、ここに五等の封を班ち、緑沢普く遐陬に施く。 臣三錫の賜を荷くす。臣即ち為に頂踵を捐糜するももって大君の計に補 報しがたし。惟うに貢職勤修して差く先祖を継述すべし。伏して太祖高 皇帝の旧典を覩るに、臣が国三年両貢なるを欽定す。臣が先世の貢献の 程式を稽うるに方物は加うるあり。天啓三年に至りて旨を奉じたるに矜 恤培植して暫く貢期を寛め、冊封の後を俟ちて定奪すべしとあり。伏し て思うに臣が国の来享は最も久しく、恩を受くること最も深し。すなわ ち三年両貢はなお少しく忠款の忱を煕くすに足らざるがごとし、況や五 年はこれ遠し。あにこの源来嚮慕の念を悉くすを得んや。区区たる愚忠 冒昧を揣らず。陳請して懇に乞うらくは皇上蟻誠を俯念して芹献を棄て ず。旧制に准依して三年両貢の常期に復せられんことを。臣をして先代 増加の定例に循わしむれば、小国恭順にして祖孫替わらず、聖朝の恩波 長く世世に沐するに庶からん、等の因あり。具奏す。崇禎七年十月初四 日聖旨を奉じたるに、王の奏謝を覧たり。知道了。請うところの貢期は 該部看議して具奏せよ。これを欽めよやとあり。欽遵して抄出して部に 到る。  ついで福建等処の承宣布政使司の咨を准けたるに、呈准せる琉球国中 山王尚豊の咨に称すらく、ただ窮陬の土産は馬匹、硫黄あるのみ。区区 を揣らずして謹みて迩年常貢の外に於いて、旧制に遵依して馬六匹を増 し、ともに十匹となす。硫黄は一万斤を増しともに二万斤となす。螺殻 は三千箇なり。これ豊が祖先世代の定制にして、微に芹曝の愚忠を効す ものなり。ただ計るに貢物人馬はすこぶる重し。一船に装載すれば、恐 らくは波涛を遠渉しがたし。須く分かちて両となせば不測の虞を免らし め、乃もって駕運して進献するを得るに庶からん。その原擬れる貢期 においては、聖旨を荷蒙したるに冊封の後、定奪を奏請するを准さる。 伏して乞うらくは具題してなお祖制三年両貢に遵わんことを、等の因あ り。部に到り司に送り、案呈して部に到る。  該臣等看得したるに、貢期はもとより定限あり。該国三年両次の朝貢 は載せて会典にありてはなはだ明らかなり。天啓三年臣が部の題請を経 て、欽依もてそれ五年一次に定む。原より該国かつて倭難に遭うによ り、ゆえにしばらく貢期を展べ、もって体恤を示す。然ればまさに冊封 の後に定奪を奏請するの旨あるを奉ずべし。いま冊封の典、すでに頒 つ。すなわち朝貢の期よろしく復すべし。かつ該国素より忠順を称す。 いまここにこれを請うこと情詞懇切なり。まさにその嚮化を嘉し、なお 三年の制に従うべき者に似たり。もし生息いまだ久しからざるをもっ て、再び与すに期を寛むるをもってするは、これまた聖明の特恩に係 り、臣等のあえて議するところにあらず。常貢の外において馬六匹、硫 黄万斤、螺殻三千を増すを欲するに至っては慕義嘉すべく、あいまさに 俯従すべし。ただ船一隻を増せば須く用うるところの駕船の人は該国自 らまさに斟酌して量加すべきも、会典の載する所に遵照して毎船百人の 数を過ぐるをえず。用いてもって恭順を昭らかにし恪謹を表すべし等の 因あり。崇禎七年十一月十七日、太子少保本部尚書兼牴林院学士加俸一 級李等具題し、十九日聖旨を奉じたるに、海藩貢期を復し、方物を加進 するを請う。情詞真懇なり。議に依りて允従せよと。それ一船を量増す るも水手の数百にみたず。併びに諭して遵行しもって恪順を昭らかにせ しめよ。これを欽めよやとあり。欽遵して抄出し案呈して部に到る。擬 してまさに就行すべし。これがためまさに貴国に咨す。よりて欽依内の 事理を奉じて、会典に遵照し、三年両次に朝貢せよ、それ方物を加進 し、一船を量増し、水手の数は百にみたざれと。欽遵して恪順施行せ よ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国王に咨す 崇禎七年十一月二十八日 対同都吏薛大勲(再対して之を正す)  藩臣政を嗣ぐ等の事 [注1緑沢 平和の恩恵。] [二五八 朝鮮国王より琉球国あて、進物への謝礼と長き友好を願うことについての咨文]  朝鮮国王、情礼を敦くし、交隣を篤くせんが事のためにす。崇禎五年 十月二十二日、敝邦の賀至の陪臣金蓍国京師より回りて貴国の咨を齎到 す。前事節該すらく、来文を披閲するに、繹情の辞これ懇篤なれば頓か に起ちて韜瞻し、拝礼の幣これ侈陳なれば徒に俯揣を増す。惶惶として 撫心し厚徳を存するを知る。顧影して猥容に落失するも、反りみて思う に天を仰ぎて共に戴き、九重の雨露に均霑して忘形す。地を迥かにして 区を分かつも永く万祀雷陳の莫逆を聯ね、情殊爽ず、義毀疵するなし。 稔審に鮑子は其れ我を知るなり。矧、亦常に先人の家訓を念い、淡交す ること水の若し。長く古人の風味を鰐めば、君子之を尚ぶ。是を以て報 酬の称わずして愧を蒙くるを避けず。特乃ち永く道義を堅くし、相に中 孚を成す。用いるに献芹の鄙意を将てし、敢えて寸草の微忱を昭らかに すべし。茲に東宮を慶賀するの盛際に当たり、敬んで咨復を修め、聊か 任土の菲儀を具えて計開すること左の如し。王舅毛時耀、正議大夫鄭子 孝等に著令して、順程齎逓し、都門会館に往赴して、貴国の来使に転 交し、伝捧進呈して上献せしむ。極めて軽胚異褻なるを知るも統べて崇 亮を仰ぎて惟祈るのみ。此がため理として合に貴国に移咨して知会せし む。煩わくば照験して施行せられんことを請う、等の因あり。此を准け 随で後開の白地紡糸花綢二十端、白地花綾二十端、細嫩闊幅琉球甬布二 十端、細嫩小幅甬布二十端、胡州筆四十管、徽州大板墨二十笏、徽州竜 紋墨八匣、棕竹骨扇一百把を将て数に照らして収領するの外、為照る に、毎に冠蓋朝聘するに因って、金玉の遺音を逓伝し、深情の厚罅前後 替わらず。況此に来咨至り、古人の交際を引きて、以て今日の隣好を勉 むれば、嚮慕の誠は益々中に切なり。方今、聖天子一視同仁にして、海 内外遠近なく、一家同胞の義あり。共に天朝の藩募と作る。肝胆自から 当に相照らすべく、豈疆場の分かつあるを以て間隔をなすべけんや。惟 願うらくは、賢王侯度に惆処し、益々友誼を念い、両国兄弟の雅、鈴 久しくして鈴篤からしめば、幸甚に勝えず。不腆の土宜もて聊か遠忱を 表し、賀至の陪臣礼曹参判洪命亨に著令して、京師に齎赴し、貴国の来 价に転交せしむ。庶幾わくば執事者に達するを得られんことを。山河を 否ること夐闊にして儀物は菲薄なり。楮に臨みて庸庸の懐いに任え ず。此がため合に咨復を行うべし。煩わくば照験して施行せられんこと を請う。須く咨に至るべき者なり。計開す。  白苧布二十匹 白綿紬二十匹 黒麻布二十匹 人参五簧  彩花席一十張 霜華紙二十巻 黄毛筆五十枝  油煤墨五十錠 花硯三面 白畳扇四十把  油扇一百把 粘六張厚油紙三部 粘四張厚油紙三部  右、琉球国に咨す 崇禎七年七月二十二日  情礼を敦くし交隣を篤くせんが事   咨す [二五九 礼部より琉球国王あて、冊封使への餽金を齎回せしめる件についての咨文]  礼部、頒封の事竣り特に餽金を辞しもって使節を重からしめんが事の ためにす。主客清吏司案呈すらく本部より送れる礼科の抄出を奉じたる に、琉球国中山王尚豊の奏に前事あり。内に称すらく、崇禎六年欽差使 臣戸科左給事中杜三策・行人司司正楊*大典を捧頒して恩綸を宣播する を蒙る。奕葉光華して山川怱耀し、冠裳物惆は国とともに更新す。号令 これより伊に始まる。これ誠に天朝特賜の殊恩にして臣豊曠世の奇遇な り。臣拝受感激していずくんぞ懽*に勝えざらんや。惟うに皇上の亟 蓋、無外にして恩を寡昧の躬に覃ぼす。労勤の禁従に至るまで重ねて辱 くも窮僻の国を履む。愧ずるところは臣が小邦荒野にしてもって誠を将 すなし。ゆえに宴款の際において、物に代うるに金をもってす。すなわ ち二使臣大義を堅持して固く却けて受けざるを辱くす。窃に謂うに天使 の清白自ら持す。誠に聖朝臣節の重、外国藩臣の表たり。ただ微臣徳に 酬い功に報ずるに万一を展ぶるなし。殊に旧例欠くるありて微敬未だ伸 べざるを慚ず。つつしみて送還せる屡次の宴金二封‐ともに計一百九十 二両‐をもって具本して、遣わす王舅呉鶴齢等に附して順齎して奏聞 す。懇乞すらくは聖明もて二臣に勅賜して収受せしめられよ、等の因あ り。具奏して聖旨を奉じたるに、奏を覧たり。つぶさに該国の誠款をみ る。ただ杜三策等例の餽を固辞するは、まさに使臣の体を得たり。礼金 は還来使に着して齎回せしめよ、礼部知道せよ。これを欽めよやとあ り。欽遵してついで礼金をもってただちに使臣呉鶴齢に発還して齎回せ しむるの外、抄出して案呈して部に到る。擬してまさに就行すべし。こ れがためまさに貴国に咨すべし。煩為わくば明旨内の事理に遵奉して欽 遵祗領して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国王に咨す 崇禎八年二月初二日 対同都吏薛大勲  頒封のこと竣り特に餽金を辞す等の事 [二六〇 中山王尚豊より福建布政使司あて、遭難の宮古人への救恤に対する謝恩についての咨文]   麻姑山人飄風につき謝恩の咨  琉球国中山王尚豊、失水して命を造し、土に復して生を完うすれば、 祖例に遵循して聖慈に謝答し、もって小を字しむを昭らかにせんが事の ためにす。崇禎七年九月内、三法司の呈詳せる、長史司の執称に拠る に、崇禎七年六月二十六日福州府総捕にして清軍海防通判を帯管せる宋 の故牒を蒙けたるに称すらく、六年十一月初一日兵備道布政使司張の案 験を蒙け、巡按御史路の批を蒙く。該に本道の呈せる本館の呈詳に拠る に、議して琉球国失水夷人溌即盧等毎名に日に給米一升五合、蔬菜銀五 釐、柴薪銀一釐を給す。ただ解到の日をもって起支し、毎名に衣被銀二 銭を給す。なお照らして安挿せしめん等の縁滉あり。批を蒙けて夷人例 に照らして支給して炸めしむ。また巡海道副使徐の案験を蒙け、軍門鄒 の批を奉ず。本道の呈拠せる本館の呈詳に拠るに前事あり。批を奉けた るに、属夷は国のために颶に遭いて船を壊し、久しく諞省に寓す。衣食 何にか出でん。皇仁柔遠なれば、豈之をして我が土地において饑餓せし むべけんや。日に衣被を給するはともに議のごとく起支を行い、もって 護送封船の到るの日を俟ちて故国に還るを准す。ここに炸めてこれを奉 ぜよとあり。また巡按御史路の批を蒙け、該本道の詳、前滉に同じ。批 を蒙けたるに夷人の糧食はすでに成例あり。准照して給炸せよとあり。 これを蒙け案を備えて館に仰じ、すなわち属夷溌即盧等三十九名の糧米 蔬薪をもって議の如くせしむ。ともに六年九月十四日の解到の日におい て起支す。なお各々衣被銀二銭を給せよ等の因あり。これを蒙け、すで に関府造支し、ならびに衣被銀両を給発するの外、これがために故牒し て前去せしむ。煩為わくば知照せられよ等の因あり。これがため三法司 の呈詳せる長史司の執称・福州府総捕にして清軍海防通判を帯管せる宋 の故牒に前事の縁滉を称するに拠り、軍門鄒・巡按御史路・兵備道布政 使司張・巡海道副使徐の申詳して議して批允せらるるを蒙る。伏して蒙 るらくは、孟廊柔遠の大典を仰瞻し、広く天地好生弘仁を播き、属国夷 民の失水して内地に饑寒するに忍びず。ともに例に照らして蒭牧を支給 するがごときは、六年九月十四日に解到してより起支す。計口三十九名 は悉く再び帰り寧んずるを造すを蒙る。編門の老幼は驟かに蒿目を慰し て揚眉し、撮土の黎*はことごとく同声を起こして帝沢の露垂・皇仁の 奉灑を頌徳す。失水の夷民蟻橋を編するを荷くするのみならず、誠に窮 藩地主をして鼇戴を驚負せしむ。自ら揣りて彼の木石にあらざれば、い ずくんぞ亭毒の仁を忘れんや。旋りてこの髪膚あるを観ればまさに捐糜 の報を誓うべし。これがため遣官して闕に赴きもって天恩に答え、紫極 を仰ぎて嵩呼し、窮藩の微悃を申ぶ。所有の虔しく備えたる任土鄙□の 方物は金結束金起沙魚皮紋紅糸線纒*金誂全鞘腰刀二把・銀結束銀起沙 魚皮紋紅糸線纒*銀誂全鞘腰刀二把・鍍金銅結束紅漆鞘紅糸線纒*腰刀 十把・鍍金銅結束紅漆鞘笆刀六把・鍍金銅結束黒漆鞘貼□金鎗六柄・満 面金扇五十把・満面銀扇五十把・貼金銀描画松鷹花帷募一対・細嫩練光 土蕉布二十疋・漂白土苧布二十疋にして、咨を備えて開載す。長史、使 者、都通事等の官鄭藩献等を遣わし、表箋を齎捧して台端に解赴して投 逓せしむ。伏して乞うらくは聖鑑に*呈して、上は朝廷撫字の盛典を□ するを揚げ、下は該国恭順の小心を堅くするを照らかにす。これがため 理としてまさに貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照して施行せ られよ。これがために移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処の承宣布政使司に咨す 崇禎八年二月 日 [注1麻姑山人 宮古人。麻姑山は琉球の南海の島。2福州府総捕…清  軍海防通判 福州府の、警察事務たる総捕と軍隊の糧食供給に関わ  る清軍、さらに河海防禦の事務を掌る海防の三職務を兼掌している  通判。明代では府の長たる知府、次官の同知に続く官名。3兵備道   数府州を合わせた区域を管内として、その安寧秩序を保持するこ  とを職掌とする官。兼任が多い。※本項でも布政使司の兼官である。  4巡按御史 明代、各省毎に派遣され政情民風の巡察に当たった  官。三年交替。清初廃された。5巡海道 清代の海関を監理した海  関道に類する部署か。6蒭牧 牛羊を飼う、牧畜の意だが、ここで  は人の食料を指したものであろう。7蒿目を慰して揚眉す 憂いを  慰めて目をみはらせる。8鼇戴を驚負せしむ 大いなる恩に驚き感  激する意。9亭毒 亭育と同。造物主が万物を生成すること。10捐  糜の報を誓う つきることのない報恩を誓う。] [二六一 礼部より琉球国王あて、箋文の体式(書式)に従うべしとの咨文]  礼部、進貢の事のためにす。主客清吏司案呈すらく、儀制清吏司の付 文を准けたるに内に開すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに 本部の題に前事あり。琉球国王尚豊咨もて、陪臣正議大夫蔡錦等を差わ し、表箋を齎捧し方物を管送して京に赴き進貢す等の因あり。部に到り 司に送る。査得したるに硫黄・土夏布は福建布政司南京該庫に解赴して 交収せしめ、所拠の進到せる表箋は相応に転送して査収して転進せしむ 等の因あり。移付して司に到る。案査したるに崇禎七年十一月内、該琉 球国王尚豊特に王舅呉鶴齢を遣わし、表文を齎捧し方物を管送して京に 赴き謝恩す。該に本部の欽依を題奉したるに、表文は内府司礼監に送り て交収せしむるの外、いま該に前因もて通査案呈して部に到る。  看得したるに、琉球国王尚豊特に陪臣正議大夫蔡錦等を遣わし、万寿 を慶賀するの表文および皇太子千秋の箋文を齎進して前来す。既経に該 司査するに前例有ればあいまさに題請して恭進すべしと。臣等該国の表 箋を細さに閲するに、それ賀するところの皇太子千秋の箋文と万寿の表 文は異なるなし。事は違式に属す。ただ外国に係れば例として題参せ ず。まさに例に照らして司礼監に送りて交収せしめ、臣部なお再び箋文 の体式をもって差来の陪臣に給発して該国に齎至せしめ責令して以後式 の如く撰進すべきやいなや。臣等いまだあえて擅便せず。恭しく命の下 るを候ちて遵奉施行せん等の因あり。崇禎九年三月初四日本部尚書兼牴 林院学士加俸一級黄等具題し、初七日聖旨を奉じたるに是なり、これを 欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到り司に送り、案呈して部に到 る。擬してまさに就行すべし。  これがためまさに貴国に咨す。煩為わくば本部の給発せる箋文の体式 に遵照して以後式の如く撰進して施行せよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国王に咨す 進貢の事 崇禎九年四月二十五日 代弁対同都吏薛大勲  咨す [注1司礼監 明代、宮廷の礼儀を掌る官。宦官を以てこれに任じた。  明の中葉以後、権限は甚だ重かった。2千秋 長寿、またそれを祝  うことば。千秋節は天子の誕生日。本項では皇太子あての長寿を祝  う文書のこと。3題参 弾劾すること。4本(礼)部尚書…黄 黄士  俊。] [二六二 福建布政使司より琉球国あて、不時の進貢をやめて会典の規定に遵うべき旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、夷船を飛報せんが事のためにす。案照した るに、崇禎八年四月十一日、軍門都御史沈の批を奉けたるに、福州府署 海防事汀州府同知黄色中の呈に拠り、諞安鎮巡簡雷正化の報に拠るに、 本月初六日未時、夷船一隻ありて鎮を過ぎ港に進む。卑職兵を督して、 琉球国中山王府の通事王克善を査拠するに、奉差の長史鄭藩献等の官水 吮を率領し船隻に坐駕して方物もて前来して謝恩せんとす。三月内開洋 して本日鎮を過ぎ港に進む等の情あり。職に到る。此に拠り具呈転報し て照詳す等の縁滉あり。批を奉けたるに夷国の入貢謝恩は常期あり。限 制あり。琉球封を受けてより以来、両年の中夷船凡そ四たび至りて既に 恩を謝せり。又探聴と曰いて既に入貢せり。又謝恩と曰うも今謝する所 は何の恩たるかを知らず。須く義例あれば乃ち敢えて上聞すべし。如其 れ上聞すべからざれば決して私に諞地に留めるの理なし。且中山王既に 皇恩を受くれば当に国憲を明らかにすべし。此の船は定めし未だ必ずし も是本王の遣わす所にあらざらん。如誤ちて遣わせるに係れば、亦まさ に阻回して申ねて中国の法を明らかにすべし。布政司に仰じて按都二司・ 兵海二道と会同して、来因を査問して咨もて該国に還し、以て本王の効 順守法を明らかにせしめん。其れ通事員役に惑誘の情弊有りや無きやは 別に申究を行う。此に依奉して備に按都二司、兵海二道に移し、煩わく ば憲批内の事理に依りて細査明確ならしめ、希わくば即ちに覆に滉りて 以て転詳に憑らしむべし。及海防館に行じて即ちに来船は何に因るか、 謝する所は何の恩か、何の方物を載するか、義例有りや無きや、其の船 の来たるは果して国王の遣わす所なるや否や、符文・印信執照有りや 無きや、応に阻回すべきや否や、及通事員役に惑誘の情弊有りや無きや を査し、逐一細査明確ならしめ、火速に滉を具えて詳報し、以て転詳に 憑らしめ去後れり。続いで該館の詳に拠るに称すらく、本司の涸付を蒙 けたるに、按察司・兵備道・巡海道の憲牌を蒙け、布政司の照会を准 け、軍門都御史沈の批を奉けたるに、前滉に同じとあり。牌を備え館に 仰じ、即ちに前項の夷船の進港して謝恩するは、是該国の遣わす所に係 るや否や、果して例に合するや否やを査せしめ、細査明確ならしめて滉 を具えて詳報せしむ。仍査するに船内に別項の貨物を夾帯すること有り や無きや、通事員役に惑誘の情弊有りや無きや、逐一究明して併詳し、 以て移覆転詳に憑らしむべし等の因あり。此を蒙け随即に通事官曾大正 に行令して、夷船に前往して査明訳審せしめ去後れり。続いで本官の回 称に拠れば、牌文を遵奉して正等随即に船に到りて訳査するに夷官の長 史鄭藩献等の口称に拠るに、彼の国天朝の洪恩に沐し、未だ能く万一に 報いるを得ず。  茲に崇禎六年に為て、本国轄島の麻姑山の属夷運米して琉に入りて冊 封に供応し、事竣りて島に回らんとするに風に遭い海壇地方に飄至す。 本船は衝礁打破し倶に水中に靫して僅かに溌即盧等三十九名を存するの み。海壇の遊把総楊止戈に猟洋救護被れて、署印通伴に解送し兵海二道 爺に転解れ、九月十四日に於いて柔遠駅に発りて安挿せらる。已に両院 に請詳して日に衣食を給して豢養するを批允せらるるを蒙り、幸にも余 生保全して帰国するを得たり。本国主深恩に感激して、天啓五年の太平 山の夷人の失水の事例に遵照して、今春特に長史等の官共に六員、伴吮 一百名を遣わし、海船一隻に坐駕して方物を装載し、表箋文もて前来し て京に赴き謝恩せしむ。帯ぶる所の随身の銀貨は常規として按臨して盤 験するを聴候て冊報せしむ。献が船は二月二十日に開洋し、駕して中海 に到り、萃かに颶風に遭い、船喩打折して凡沈没せんとす。幸にも天恩 の福祐を蒙り、飄至して四月初六日方めて諞に抵りて虞無きを得たり。 切に献が本船海に在りて波涛日久しく船破損し漏して棲止するに堪え ず。方物を防りて壊るること有れば罪責軽からざるを恐る等の縁滉あ り。正等夷官夷衆に諭令して一人も登岸するを許さず。詳允を候ちて吊 進せしむ。続いで中軍官、正等と同に諭令して出港するを蒙る。奈んせ ん船に喩無く篷無ければ*駕するも前まず。伏して憲奪せられんことを 乞う。今行査を蒙り理として合に実に従りて回報すべし。中間に並て夾 帯のもの無ければ夷の情弊とは別なれり。其れ方物は倶に符文・執照に 載すれば、抄を備えて呈報す。伏して転詳せられんことを乞う等の情あ り。職に到る。此に拠り理として合に回報通詳すべし等の縁滉あり。司 に到る。此の案に拠り按都二司、兵海二道の来因を査明するを候ち、覆 に滉りて具詳せんとするの間に、又海防館の呈に拠るに、巡海道の批も て卑職の前詳の縁滉に拠るを蒙る。  批を蒙けたるに来享来王の制に定期あるは、ただに以て小国奔命の労 を恤むのみならず、亦以て朝廷尊厳の体を彰にするなり。今中山王封を 受けてより甫め両年にして使臣すでに四たび至る。令甲に非ざるに似た るも至れば以て安挿す。失水の夷遠く来たりて謝恩するを辞と為す。此 れ柔遠の常にして事において頗る細なれども果して以て軽しく至尊を涜 すべけんや。海防館に仰じて憲牌に遵照し備に会典を査せしめ、該国の 来船は応に阻回すべきや否や、三日の内に確詳すべし。仍通事奸棍交通 して事を生ずるを厳禁せよ、司道の詳を候ちて示炸せよとあり。此を蒙 け該卑職、査得したるに会典の載する所は、ただ五年一貢の礼あるの み。并えて謝恩の事なし。封を受けて謝するは猶冊立の大典を曰うがご とし。遭風の溌即盧等哀れみて食せしむるに至っては、院道一に矜恤の 仁を念うに過ぎず。原より未だ朝廷に上聞せず。何ぞ此を援きて名と為 し中国を窺伺するや。其の滉は蓋し中山王初めて立ち年少くして未だ故 典を諳んぜず、其の臣下は中国に於いて貿易して日本に転販するを利と するに縁るのみ。理として応に阻回すべきは再計を待たざるべし。尤説 あり。旧例には貢船は必ず先ず梅花・千石の間に泊し、卑館の報聞して 上台具に進泊するを許すを候ちて方めて敢えて港に入る。此の番の船は 命を請うに滉らずして径に内河に入る。昨之を論じて鎮外に退出せしめ んとするに、漫に喩の折るるを以て詞となす。夫れ喩折るるも逆水を以 て鎮内に入るべければ、独り順水を以て鎮外に出ずるべからざらんや。 内港は省城に迫近すれば以て牙棍と交通すべきを利となすにあらざるな きのみ。宜しく一憲牌を発して督令して鎮を出だすべきに似たり。即遽 に外洋に往かしむるに便ならざるも或いは怡山・琅岐の近処に在りて棲 泊せしめ、以て喩を葺するを俟ちて往かしめば、猶逼処の会地に至りて 牙棍と交通せざるがごときに庶からん。其れ諞鎮の文武官吏擅放に入港 せしめて亟阻を行わざるに乃んでは、応に并議すべきに似たり等の縁滉 あり。司に到る。此に拠り随で按察司の牒呈を准け、福州府海防館の 査詳せる前滉を行拠とあり。司に到る。此を拠け随で該按察使盧、看 得したるに夷国の入貢謝恩するは倶に常制あり。今琉球の貢船来泊する も既に入貢の期に非ざるに、謝恩と称するに至る。溌即盧を矜全するを 以て名と為す。則ち此れ地方柔遠の常事に係り、原より未だ上聞せず。 例として軽涜するなし。則ち咨もて船隻を還すは乃ち法守これ宜しく然 るべし。再び旧例を査するに、貢船の内泊は必ず防館の申報を待つべ し。今此の船報聞を待たずして径ちに内港に入る。是何の情の当る所に 属するやは併行して一体に申諭すべし。仍該地方擅放に内に入れ亟阻を なさざるの罪を究むれば、法守もて明を彰にし功令もて匪と画し、朝廷 の政を尊ぶ所以にして小国を訓るの所以なるに庶からん等の縁滉あり。 司に到る。此を准け又巡視海道にして福州兵備道副使を帯管せる徐の牒 呈を准けたるに、福州府海防の査詳せる前滉を行拠とあり。此を拠け該 本道看得したるに、琉球は素より恭順の国と称し累朝の浩蕩の恩に沐 す。会典の貢期は必ず定むるに年、人、船を以てし、皆之が限と為す。 寧んぞ属国向慕の誠を体せざらんや。正に高厚に仰酬するを以て煩数を 事とせず。共を明らかにして要荒を界別するは屡匍匐奔命せしめ難け ればなり。今中山王、溌即盧等の飄泊して還るを得るを以て、因りて使臣 を遣わして表謝す。地方官に在りて夷属を矜恤するは原より皇仁を宣布 するの以にして、聖明の怙冒は天の如くして、豈涓滴を以て徳を示さん や。況や両年の内に夷船四たび諞中に至る。往来の跡は既に踵なり。夷 夏の防漸く弛む。万一習熟浸淫すれば奸人其の舶に俯し、番に通ずるの 牙歎を以て其の人を誘い釁を起こさん。舟非時に至らば稽詰し難し。将 来突に詐偽影射あれば、意外盧るべし。誰か其の咎を執らん。或は該国 天恩を感念して、夫の成憲を備査するに暇あらずして、祖宗立法定制の 意において未だ之を深思せざれば、例を創めること未だ軽しく阻回を開 くに便ならず。もって画一に遵う。是貴司に在りて酌議主持すべきのみ 等の縁滉あり。移覆して司に到る。此を准け又巡視海道兼理辺知副使徐 の牒呈を准けたるに、福州府海防館の査詳せる前滉を批拠たりとあり。 道に到る。此を拠け該本道看得したるに、朝廷の覆湊無外にして、それ 属国を待するに恩あり。礼あり。輸搜入貢するは各限制を為す、著して 彝章に在りて数百年来共に遵う所なり。中山王新たに冊命を承け業に其 れ方物もて闕廷に表謝し、已に恭順を明らかにす。属夷風に遭いて諞に 泊するがごときは、此中院道案を査して優恤して之を遣わす。情理とし て宜しく爾るべし。原より未だ上聞せず。今それ感激に拠りて入謝し、申 ねて小国の誠を云うと雖も、至尊を煩涜するは実に未だ来王の例に合わ ざるべし。該国王新たに立ちて未だ典故を諳んぜず、或いは留遣に属せ ん。然れば向に該国三年両貢を求め会議するに、尚会典と未だ合せざる を以て敢えて軽しく徇わず。則ち今日の来るは義例無き所にして開端盧 るべし。応に阻回して以て祖宗の制を守るべきに似たり。一に以て夷夏 の防を存し、物力を惜みて以て字小の仁を申べ、郵伝を省きて以て駅騒 の累を免れ、奸猾交通の釁、*節陪臣の貿易の濫觴を杜げば、国憲・海 防両ながら之を得ん、等の因あり。移覆して司に到る。此を准けたり。  又都司李の咨を准けたるに、布政使司の前事を咨するを准くるに、謝 恩夷船を酌議せよ、等の因あり。該本司看得したるに、該国属夷の遭颶 漂泊は院道恤むに衣糧を以てし船に附して国に帰さしむ。茲に乃ち輸 搜して表謝するは、恭順嘉すべし。且先年夷を恤むに拠って謝を修する の事例は、名あるに属するに似たり。但会典を査するに、貢には常期あ り。時に非ざれば禁ずとあり。該国崇禎六年封を受けてより以来、四た び夷船を駕し、滄溟万里にして向化の梯航を昭らかにするに足ると雖も、 然れども一時に絡繹すれば恪守の甸服に非ざるを恐る。況や近ごろ邸報 に接するに、西北の番夷は倶に守臣が人数を厳禁するの旨あり。即ち朝 鮮は守礼の邦にして、節明旨を奉ず。使臣の行李の往来は厳に査験を加 う。則ち該国の此の挙は、応に去留を裁酌して以て瑣涜を煩すことなか らしむるべきに似たり、等の因あり。咨を備えて司に到る。此を准け該 本司看得したるに、属夷の貢享は例あり、期あるは撫照の典を示し、華 夏の防を厳にするの所以なり。琉球は封を受けてより以来、両年にして 四たび至る。之を五年常貢に律すれば例多く未だ合せず。謝恩・探聴と 曰うに至りては名多く未だ馴まず。天朝に在りては、尊なること穹窿に 埒し。豈梯航に籍りて遠を示さんや。小夷に在りては、誼として当に恭 順たるべし。何ぞ繁縟輸誠を煩さんや。溌即盧等風を失い諞に飄す。此 中院道飼沫を量加するは、皇仁の浩蕩を体するに過ぎず。恩を示すと曰 うに匪ず。原より未だ奏請を待ちて以て伝宣するにあらず。寧ぞ報謝を 煩さんや。乃ち箋を粛み物を備えて犲使して来庭するは、総て該藩新た に立ちて未だ故典を諳んぜず、臣下は端に借りて蛍惑するに縁る。然れ ども既に隆恩を受くれば宜しく森憲に遵うべし。義例無き所は理として 軽しく徇い難し。況や頻に物力を労するは、反って字小の仁に非ず。屡 宸厳を涜すは豈王を尊ぶの体と成さんや。且海気尚戒しければ、衣*郵 伝は方に供億し難し。貿易の濫觴は当に杜ぐべく、悴誘の隠隙は宜しく 防ぐべし。当に阻回すべくして応に異議無かるべきに似たり。惟館詳に 拠るに、夷衆*称すらく、本船は喩を損じて尚出港し難しと。統て上台 の酌示を候ちて転行遵照すべきも、未だ明文を奉ぜずして径ちに内地に 入るに至りては、誰ぞ指引を為すや。則ち牙棍の接搆虞るべく、亟阻を 行わざるは則ち官吏の疎玩舂れ難し。更に憲断もて飭行せんことを祈 る。法を奚み威を申ぶれば、遠きを柔け、奸を烈めること両ながら之を 得ん。具呈して会詳す、等の縁滉あり。批を奉け拠りて査するに、夷船 此に来たるは乃ち六年の失水疾救の小事たり。中国は広大なれば地方の 属弁は皆靫を援け夷を活すを得る。当年は看て尋常と作す。原より未だ 天聴を瑣涜せず。今輙ち代聞するの義例無ければ、本院貢疏中に于て声 説明白ならしむ。貢期・海禁は当に天語の申飭あれば、夷船風を候ちて 国に還らしむべし。此に此を炸奉して、依奉して備に福防館に行じ、遵 照して夷使に諭令し、風を候ちて国に還さしむ。其れ進謝の方物は館詳 に拠りて査するに、義例なければ以て上聞し難し。未だ批を奉ぜざるも、 司盤験して来使の齎回するを聴せ。本司復代りて呈詳す。船喩を葺して 返棹せしめ以て生還を保せしめんと。合に就ちに移知すべし。此が為、 貢期海禁の明旨の申飭及び修船の縁滉をもって、別文もて移知せしむる を除くの外、滉を備えて貴国に移咨す。請うらくは憲批内の事理に依り て査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎九年四月二十二日 [注1諞安鎮 鎮は明代、軍の駐守の地で、総兵(官)が指揮した。諞  安鎮は福建省・諞江の河口、琅岐島の南北の水路が合流する地にあ  って、海防上の重鎮であった。2王克善 久米村王氏の出か。古波  津親雲上。3令甲 勅令のこと。令甲、令乙、令丙等があるが、こ  こでは広く勅令のことであろう。4法守 正しい道に従って自分の  職務を守ること。5煩数 うるさくたびたび、ひんぱん。策煩と  同。6怙冒 頼りいただく。7涓滴 しずく、したたり。小さなも  ののたとえ。8浸淫 しだいにしみこむ、ようやくそまる。9*節  陪臣 悪い陪臣。 ※麻姑山の漂流については二六〇項参照のこと。] [二六三 福建布政使司より琉球国王あて、進貢の規定を遵守すべしとの咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢夷船の入港の事のためにす。准照した るに崇禎八年十月初四日、軍門都御史沈の案験を奉けたるに、礼部の咨 を准け、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたる に、本部、巡撫福建地方都察院右僉都御史沈の題せる前事に題覆す。内 に称すらく、福州府署海防通判宋大勲の申報に拠るに、琉球国中山王尚 豊特に正議大夫蔡錦を遣わし、海船一隻に坐駕して、硫黄・馬匹・土夏布 を装載して前来して修貢す等の因あり。再び照らすに琉球の三年一貢は すでにこれが期を立つ。すなわち夷船・夷官・夷伴は各々定数あり。来享 来王の誠を拒まざるもなお内夏外夷の限を存す。乃に夷、漢市に利し、 名を立つること多端なり。しきりに往きしきりに来たる。煩なればすな わち褻となる。臣、旧年諞に到るに夷、封を謝するをもって至る。いま だ幾ばくならずして探問一たび至り、修貢一たび至る。至れば必ず盤詰 して後これを棲挿し、これを約束す。夷の最も貪なる所はただ湖糸を市 うのみ。ここにおいて通事姦牙広く転售を営む。即ち官これがため監し てもって觴濫を杜ぐも絶つことあたうなし。いま四月初六日また報ずる に琉球夷船一隻ありて諞安鎮に進み、名を謝恩と称す。臣それ謂なきを 訝り、随ちに布按都三司に行し来滉を詰問せしむ。査するに義なし。例 として先ずその入港を阻みて以て風を候ちて国に還るを聴すの外、臣思 うに向来いまだ申飭を経ざれば、小夷あるいは遵奉するを知らざらん。 臣、職として封疆を守り、微漸を殷ならしむを慮る。伏して祈るらくは 天語もて再び飭して例を定め、就令に入貢夷官をして齎回せしめられん ことを。已後惟太常貢を等ちて方めて員役を選択し船隻を限定し、典例 に遵照して事を行うを許されよ。この外別に題目を創りて非時に差遣す るを得ず并びに違禁の諸貨を夾帯するを得ず。すなわち義を慕いて来る 者は旋に役を竣りて返らしめば大体明らかに大防正しくして遠人の向 化ますます粛まん。伏して乞うらくは部に勅して覆議せしめられよ等の 因あり。崇禎八年七月初六日、聖旨を奉じたるに、礼部知道せよ、申飭 の事宜は看議して具奏せよ、これを欽めよやとあり。欽遵す。抄出し て部に到る。該臣等照し得たるに、該国は既経に冊封奏請の後にすでに 三年朝貢の期に復す。聖恩もて貢を増し一船を量加し、人数は百に盈つ をえざるを允従す。明旨煌煌たれば永く宜しく遵守すべし。先にすでに 臣が部、該国に咨行することただ詳なるのみならざるなり。乃に名を立 つること多端にして謝恩と冒称して、該撫に到る。再び申飭せられんこ とを祈るの請あり。惟にこれ三年入貢はすでに定期あれば、もし限内ま たまた名を借りれば自らまさにすみやかに禁ずべし。貢物船人はもとよ り定数あり。もし額外多増して例を逾ゆれば即にまさに厳裁すべし。こ れ夷人に在りては、もとより自ら忠順を忘れざらしむ。すなわち奸牙通 事、射利悴引してもって端を生ずるを致さば、あいまさに再た前に照ら して申飭を行うべし。夷をして服せしむれば申ねて王の悃を享くべく、 辺疆兼ねて内外の閑を峻すれば、柔遠、防奸両ながら礙げ無きに庶か らん。伏して乞うらくは、聖明、勅もて臣部に下さば、欽遵して厳飭し て施行せん、等の因あり。崇禎八年八月初八日、本部尚書兼牴林院学士 加俸一級黄等具題し、初十日聖旨を奉じたるに、貢期は名を借りるをえ ず、貢物船人は例を逾ゆるをえず、すなわち該撫按に着して再び申飭を 行い、該国は務めて旨に遵いて恪順せしめ、姦牙通事をして端を生じて 悴引せしむるなからしめよ。これを欽めよやとあり。欽遵す。抄出し て案呈して部に到る。これがためまさに貴院に咨すべし。煩為わくば明 旨内の事理に遵奉して該国に転行し、欽遵して恪順施行せられよ等の因 あり。  これを准け出示するを除くの外、これがために仰じて案を抄し、司に 回して着落せしむ。当該官吏、明旨内の事理を遵奉して即便に該国に給 咨して欽遵せしめよ。なお夷船は作速かに国に還らしめよ、施行せよ等 の因あり。これを奉じたるにまた前事のためにすとあり。崇禎八年十月 十五日、本司すでに司を歴て案呈せる抄に拠り、巡按福建監察御史張の 案験を蒙け、都察院巡按福建五千二百六十六号勘涸を奉ず。礼部の咨を 准けたるに、該本部前事を題覆して涸を備えて院に到る。これを奉け司 に仰じ抄案して堂に呈す。明旨内の事理を遵照して厳に申飭を行い、な お海防官に転行して一体に欽遵施行せしむ等の因あり。抄呈して司に到 る。  これを蒙け擬してまさに併行すべし。これがため海防館に行して遵照 せしむるを除くの外、滉を備えて貴国に移咨す。煩為わくば題奉せる明 旨内の事理に査照して以後例に照らして期に依りて修貢すべし。貢物船 人は幸わくば例を逾ゆるなかれ、旨に遵いて恪順施行せよ。須く咨に至 るべき者なり。  右、琉球国に咨す 進貢夷船入港の事 崇禎九年四月二十二日行す(再対して之を見す) [二六四 福建布政使司より琉球国あて、謝恩の使節に対する賞賜についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、謝恩の事のためにす。案照したるに崇禎六 年十二月初六日、表文ならびに各方物前来して謝恩するを准けたり。こ れを准け已経に官を差わして伴送せしめおよび方物をもって解進して京 に赴かしむるの外、事竣りて廻還して司に到れば例に照らして宴待して 安挿す。また前事のために巻査したるに、崇禎八年五月十三日、軍門都 御史沈の案験を奉けたるに、礼部の咨を准け、主客清吏司案呈すらく、 本部より送れるものを奉じたるに、該琉球国中山王尚豊、王舅呉鶴齢等 を差わし表文を齎捧して方物・馬匹を管送して京に赴き謝恩す。表文は 別に題進を行うを除くの外、所拠の進到せる方物はすでに具題して収進 し訖れり。  案査したるに差来の員役、存留の該布政使司の人伴は名数概ね賞せら れ、慮るに濫觴あるも、近ごろ該本部題准してともに給賞せざるを除き、 それ京に到るの王舅呉鶴齢・正議大夫蔡堅・使者栢寿・都通事阮士乾・ 人伴王志等一十六名は例としてまさに給賞すべし。査得したるに該国例 として凡そ差来せる王舅は綵段四表裏・羅四疋・紗帽一頂・*花金帯一 条・織金紵糸衣一套・靴襪各一双を賞し、長史・使者は毎員綵段二表裏・ 折鈔綿布二疋、通事は毎員綵段一表裏・折鈔綿布二疋、人伴は毎名折 鈔綿布二疋なり。附搭土夏布二百疋は一半を官抽して例として給価せざ るを除き、それ抽剰の一半は毎疋鈔五十貫を給し、鈔二百貫毎に闊生絹 一疋に折与す。進過の方物は例として給賞せずと。通査案呈して部に到 る。  該臣等看得したるに琉球国中山王尚豊の差来せる王舅呉鶴齢等、綵段 表裏・冠帯衣服・絹布を賞賜せるは、既経に該司査するに前例あり。 あいまさに題請して、恭しく命の臣が部に下るを候ちて、内府各該衙門 に行移して数に照らして関出給賞し、官を差わして涸を給して伴送せし む。その附搭の土夏布の価値の生絹ならびに賞賜の表裏の布疋はともに 京に到るの王舅呉鶴齢等に給付して領回せしむ。なお福建布政使司に行 文して知会せしむ等の因あり。崇禎七年十一月初六日太子少保本部尚書 兼牴林院学士加俸一級李等具題し、初九日聖旨を奉じたるに是なり、こ れを欽めよやとあり。欽遵す。合に頂くべきの賞賜の段絹布疋ならびに 抽給せる附搭土夏布の価値の生絹二十五疋をもって、ともに京に到るの 王舅呉鶴齢等に給付して領回せしむるを除くの外、擬してまさに知会す べし。これがためまさに貴院に咨し、布政司に転行して琉球国に咨行し て知照せしむ等の因あり。これを准け案を備えて司に行りて着落せし む。当該官吏明旨内の事理に照依して該国に転行して欽遵施行せしむ等 の因あり。  これを奉けいま各夷使の帰国に照らしまさに咨覆を行うべし。これが ため滉を備えて貴国に移咨す。煩わくは明旨内の欽賞せる事理に査照し て欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎九年四月 日  咨す [注1阮士乾 久米村阮氏の二世。津花波親雲上。一六〇三〜一六四一  年。天啓・崇禎年間、通事、都通事として四度渡唐す。] [二六五 中山王尚豊より礼部あて、貢期の回復と貢物の増加を准さることへの謝礼の咨文]  琉球国中山王尚(豊)、進貢の事のためにす。案照したるに、崇禎七 年十一月二十八日、礼部の咨を承准けたるに称すらく、藩臣政を嗣ぎ、 恭しく聖恩を謝し、旧典に欽遵して貢職を修め、もって忠忱を竭くさん が事の為にす。該本部の題につき、主客清吏司案呈すらく、本部より送 れる礼科の抄出を奉じたるに、琉球国中山王尚、前事を奏するの内に称 すらく、欽差正使戸科左給事中杜三策、副使行人司司正楊*、詔勅を齎 捧し臣を封じて中山王となし、臣に欽賜の冠服等の項并びに臣が妃に綵 幣等の物を授くるを荷蒙す。臣百官を率いて北向叩頭して謝恩するの 外、窃に惟うに臣遠く海東に処り荒島に僻居して一統の正朔を奉ず。累 朝の深恩を荷くし、遡りて太祖高皇帝より以て今日に至るまで実に威霊 に憑藉してこれ一方を保つ。ここにけだし伏して皇帝陛下の湛恩海外を 遣さずして、ここに五等の封を班つに遇う。緑沢普く遐陬に施し、三錫 の賜を隆荷す。臣すなわち捐糜頂踵するももって大君の計に補報しがた しとなす。ただ貢職勤修してやや先祖を継述すべきのみ。伏して太祖高 皇帝の旧典を覩るに臣が国三年両貢に欽定す。臣が先世の貢献の程式を 稽うるに方物は加うるあり。天啓三年に至って旨を奉じたるに矜恤して 培植せられ暫く貢期を寛くし、冊封の後を俟ちて定奪すとあり。伏して 思うに臣が国の来享最も久しく、恩を受くること最も深し。すなわち三 年両貢は尤少しく忠款の忱を煕くすに足らず。況や五年かれ遠し、あに これ源来嚮慕の念を悉くするを得んや。区区たる愚忠冒昧を揣らずして 陳請して懇乞すらくは、皇上蟻誠を俯念せられ芹献を棄てられず。旧制 に准依して三年両貢の常期に復せしめ、臣をして先代増加の定例に循わ しむれば、小国の恭順祖孫替らずして聖朝の恩波長く世世に沐さしめら れよ、等の因あり。具奏す。崇禎七年十月初四日聖旨を奉じたるに、王 の奏謝を覧たり。知道せり。請う所の貢期は該部議を看て具奏せよ。こ れを欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到る。  ついで福建等処の承宣布政使司の咨を准け、琉球国中山王尚豊の咨を 准けたるに称すらく、ただ窮陬にして土産はただ馬匹、硫黄あるのみ。 区区を揣らずして謹みて迩年常貢の外において、旧制に遵依して馬六匹 を増しともに十匹となし、硫黄一万斤を増してともに二万斤となす。螺 殻は三千箇なり。これ豊が祖先世代の定制にして、微かに芹曝の愚忠を 効すものなり。ただ人物を計るにすこぶる重く一船に装載すれば恐らく は波涛を遠渉しがたし。須く分かちて両となせば、不測の虞を免がれ 乃もって駕運して進献を得るに庶からん。それ原擬の貢期は聖旨を荷 蒙し冊封の後、奏請定奪するを准さる。伏して乞うらくは具題してなお 祖制の三年両貢に遵わん等の因あり。部に到る。  該臣等看得したるに、貢期は原より定限あり。該国三年両次の朝貢は 載せて会典に在ればはなはだ明らかなり。天啓三年臣が部の題請を経て 欽依もてそれ五年一次に定む。原より該国かつて倭難に遭うのゆえによ り、暫く貢期を展べてもって体恤を示す。然ればまさに冊封あるの後、 奏請定奪の旨を奉ずべし。いま冊封の典すでに頒つ。すなわち朝貢の期 は宜しく復すべし。かつ該国素より忠順を称す。いまここにこれを請 う。情詞懇切にしてまさにその嚮化を嘉し、なお三年の制に従うべきも のに似たり。もし生息いまだ久しからざるをもって再び与うるに期を寛 くするをもってするは、これまた聖明の特恩にして臣等のあえて議する ところにあらざるに係る。常貢の外馬六匹・硫黄万斤・螺殻三千を増さ んと欲するに至りては慕義嘉すべく、あいまさに俯従すべし。ただ船一 隻を増すは須く駕船の人を用うべし。該国自らまさに斟酌量加して、会 典載する所の毎船百人の数を過ぐるを得ざるに遵照して、用いてもって 恭順を昭らかにし、恪謹を表すべきなり等の因あり。崇禎七年十一月十 七日太子少保本部尚書兼翰林院学士加俸一級李等具題し、十九日聖旨を 奉じたるに、海藩貢期を復し方物を加進するを請う。情詞真懇なり。議 に依りて允従せよ。その一船を量増するも水手の数は百に盈たざれ。併 せて諭して遵行しもって恪順を昭らかにせよ、これを欽めよやとあり。 欽遵す。抄出して案呈して部に到る。擬してまさに就行すべし。これが ためまさに貴国に咨すべし。欽依内の事理に依奉して会典の三年両次の 朝貢に遵照して、それ方物を加進し、一船を量増し、水手の数は百に盈 たざるを欽遵して恪順施行せよ等の因あり。国に到る。これを承准け擬 してまさに欽依内の事理に依俸して遵守奉行すべし等の因あり。  これがため遠く明良喜起して一徳を交孚するを望み、韜かに吁匿都兪 して万方を諧遼するを瞻る。一撮の琉球、藩を海外に称し、世々東隅を 守り、永く累朝の鴻恩の浩蕩なるを荷くし、孤の践祚の際に迄り泰交の 昌期に遇い、いよいよ倍優柔し、加隆体恤せられ、期を愆ち聘に爽うを 寛恕せらる。旨もて冊封の後、復貢は常のごとくして三年両享なるを定 めらる。恩信に感激して欽依もて遵守して奉行す等の因あり。これがた め伏しんで奇しくも期に届るに逢えば祖進の庭実の方儀の条に稽循して *奏せらるるに遘う。陳疏して懇乞すらくは、一に原行に復するを賜ら んことを。謹みて咨を備えて聞す。練かに望むらくは俯循して題請し、 求めて克く家声を紹ぎ奕葉に光揚せられんことを謀り、勉めて丕いに世 業を承け沢雲仍に衍んことを図る。迥かに奨揄嚮化を蒙り、曲に藩情を 悉し、藉りて弼良の言を啓き、聖鑑に留めしめ、允従するを賜准せらる るは、天聴の泰・霽・直・方自りするを奉じ、題請は情に宥密匡襄より 出ず。澳を拝して山呼し、咨を承け雀躍す。伏して覩るに化、無外に敷 き、あえてますます愚忠を励まし捐糜して報称せざらんや。これがため ここに朝貢の歳期にあたり聖旨を欽奉し、これを欽み欽遵して欽依内の 事理に依奉して奉行すべし等の因あり。  これがため恭しく硫黄二万斤・馬十匹・螺殻三千箇を備え、遣船二隻 に*分載運す。任船の水手の数は百に盈たず。風を占い月を候ちて海に 航し山に梯す。正議大夫・使者・通事等の官林国用等を差わし、表箋を 齎捧して員役を率領し、坐駕して前項の方物を解運して、闕に赴きて朝 貢し、微かに献曝の愚忱を効し、特に傾葵の素志を伸ぶ。これがため擬 してまさに貴部に移咨す。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に 至るべき者なり。  一件附搭土夏布は絹帛と兌換するの事。原奉の毎遣進貢の船隻はしば しば例として土夏布二百疋を附搭して前みて福建等処の承宣布政使司に 赴きて投逓して兌換するを准さるるを蒙る等の因あり。旧例に遵依して 附搭前往して投逓するの外、まさに咨して知会せしむ。煩為わくば往年 の事例に査照して施行せられよ。  右、礼部に咨す 崇禎九年十月 日  進貢の事  咨す [注1一徳 純粋な徳。2諧遼 調和する。3雲仍 子孫のこと。4弼  良 よき臣下。5泰霽直方 神を祀る。6宥密 ゆるく静かなこ  と。7匡襄 たすける。] [二六六 琉球国三法司より福州府青天爺爺あて、王銀詐取の真犯人を逮捕し、現銀の返還を要めることについての申文]  琉球国中山王府の三法司馬勝連・毛泰運・呉蘭瑞、柔遠を懇天せんが 事のためにす。切に以うに聖王極を建て、中国に屶み、四夷を撫し、華 と戎、天を共にして頂戴し、遐と迩と地を率いて居るところなり。瞰爾 たる琉球は福建と毘連し、世々海荒に拠りて長く東隅の垣牴をなし、代 々天寵を膺け、歴々北闕に朝す。賓王、義を慕い誠を輸し、固より望雲・ 就日に欣欣たり。商を優するの貿易は、容天・蓋地に蕩蕩たるを荷る。  崇禎七年航海梯山して頻りに朝し、二船を連遣して封を謝し貢を進む。 ふたつながら商資を附挟し、明らかに隠伏することなく、官諭に聴憑し て妥定交関することを致す。なんぞはからん、彼の地の奸、巧みに術陥 を弥す。故に夷の直にして蠢なるを将て、危機・詭索を蹈む。王の銀四 千九百九十八両零は先に誑去され訖れり。湖糸四千五百九十四斤零を空 网す。後に償還を準むるに、期に至るも躱閃し、帰程を誤るを致さんと す。事竣れば蚤かに廻り、例として久しく艪ること無し。夷人は暗唖に して有天に訴うるなく、怨みを含みて忙しく帰りて監守自盗に枉罹せら る。危に臨みて泣訴す。軽しく屈死埋冤を宥さんや。当今、清廉なる府 尹太守呉老爺は、政の潔なること氷霜にして、明なること日月に弥る。 懇乞すらくは、申呈投天し、監候を追給し、来夏に就刑せられんことを。  此に拠り遠く爺台に望むらくは、法を飭しめて釐を保ち、仁を垂れ字 を撫せば、虎狼猶逃遁を知るがごとし、社鼠、曷ぞ敢えて縦横ならし めんや。卑職馬勝連等、職は王朝の股肱に任ず、義として袖手身耽し難 し、士庶*瘁すれば、糅ぞ傍観するに忍びんや。情を謹み申を備え、望 光上告す。査究考叩せられんことを懇乞す。在駅して守催するの夷人の 指認せる、銀を得るの人等の真正姓名三十一人名は後に開す。各名下に 負銀の多寡を登定す。伏して望むらくは厳しく正犯を拘し、招審して定 罪するを追給すれば頑民警を知り、遠人恩に沾うに庶からん。これが 為、通事官を発遣し、馳逓具申す。須く申に至るべき者なり。  計開す  (人名等 同上)  右、福州府青天爺爺に申す 崇禎九年十月 日 [注1望雲・就日 望雲は旅先で子が親を思う心。就日は天子の近くに  はべること、日は天子のたとえ。遠くにあって心は天子の近くにあ  るの意。2監守自盗(の罪) 公務、業務上の自己の主管する金品  を盗むこと。3屈死 不平をいだいて横死する。4埋冤 うらみを  いう。 ※本項は、崇禎七年の進貢使が帯銀を詐取されたため、その処理方を  願ったものである。二六七、二七六、二七八項も関連項目。崇禎九  年にも同様の事件があり(二七五項)、『甼藩旧記雑録』後編 巻九  五、九六に関係者の処分がともに記されている。] [二六七 琉球国長史司より福州府海防館あて、王銀詐取の真犯人を逮捕し、現銀あるいは湖糸にて弁済されたき旨の牒文]  琉球国長史司、柔遠の事のためにす。切に以うに聖王極に御して中国 に屶み、四夷を撫し、華と戎、共天頂戴し、遐と迩と地を率いて居ると ころなり。瞰爾たる琉球、福建に毘連し、世々海荒に拠り、長く東隅の 垣牴をなし、代々天寵を膺け、歴々北闕に朝す。賓王の義を慕い誠を輸 し、固より望雲・就日に欣欣たり。商を優するの貿易は容天・蓋地に蕩 蕩たるを荷る。  崇禎七年、王、朝して船を遣し進貢す。商資を附挟し、明らかに隠伏 することなく、官諭に聴憑して妥定交関す。なんぞはからん、彼地の 奸、三五成群して甲を結び、三十一人名が巧みに術穽を弥す。故に夷の 直にして蠢なるをもって、危機・詒索を蹈む。王銀四千九百九十八両零 は先に欺去れ訖れり。湖糸四千五百九十四斤零を网約せらる、後に来り 償わんことを準むるに期に至るも躱閃して廻程を留るを致さんとす。事 竣れば当に帰るべく、例として久しく艪ることなし。夷人は捺唖にして 有天に訴うるなく、冤を含みて忙しく帰る。罪、監守自盗に服すれば、 国法寛し難し。員役の妻子を率いて哀訴して生を求む。願わくば監候と 同じくし、一線の路を開かんことを*む。来夏、彼の守催の回報得るに 至るを待って、胎し王朝の銀両の銖錙にても失えば、都て不幸なるに帰 す。妻子も甘んじて同科に坐せん。庶わくば清濁分ありて義もて死する も悔い無きを得ん、等の情あり。  此に拠り招を具して詳報し、批准を蒙りて監候を容さるれば備に該司 に仰せて、行査して確実ならしめ、炸照して此を奉じ、擬して合に就行 すべし、等の因あり。遵循して進貢・来朝し、情をもって牒を備え、通 事官を戒めて附馳して投逓せんとす。乞うらくは査究を行い、幸いに惟 だ捺夷を軫恤せられんことを。後に三十一人名を開す。真犯を厳に拘 し、各正身をして王銀四千九百九十八両を追給せしめ、或いは数に照ら し、原約の估値にて糸四千五百九十四斤を償わしめるか、両便に聴従せ ば、官、投納給領するに当たり、巧術・文飾を容るるなく、頑民は警を覚 り、遠人は恩に沾うに庶からん、等の因ありて去後れり。未だ人船の廻 還をえず、未だ移牒を蒙らざるの縁滉、国に到る。今、国王の船を遣し 貢船の消息を馳探するを奉じ、合に再び情をもって牒を貴館に備するを 涜す。煩為わくば査照して施行せられんことを。須く牒に至るべき者な り。  計開す  (人名等 同上)  右、福州府海防館に牒呈す 崇禎九年十月 日 [二六八 琉球国王(尚豊)より朝鮮国あて、交隣を篤くするために礼物を送る旨の咨文]  琉球国王、情礼を敦くし交隣を篤くせんが事のためにす。崇禎九年六 月内、拠の該国、王舅呉鶴齢・正議大夫蔡堅等を差遣し、闕に赴き冊封 を叩謝す。事竣り廻還せんとして都門より出で、朝鮮国王の咨を領齎 す。  案照したるに、崇禎七年七月二十一日、前事を咨移するを准けたる に、叨くも、益々友誼を念い、両国の雅を篤くし、厚く情礼を先施せ らるるを荷り、盈庭の珍を侈するを蒙る。これを准け、随で後に開する 白苧布二十匹、白綿紬二十匹、黒麻布二十匹、人参五斤、彩花席一十張、 霜華紙二十巻、黄毛筆五十枝、油墨煤五十錠、花硯三面、白畳扇四十 把、油扇一百把、粘六張厚油紙三部、粘四張厚油紙三部を将て、数に照 らして収領するの外、照したるに、毎に朝聘に因り金玉の遺音を得獲 し、叨くも天朝の福庇を承け、均しく皇恩に沐す。同に王臣たれば肝胆 自ら当に相照らすべし。矧んや兄弟の国、久しく当に益々篤くすべし、 幸甚に勝えず。不腆の儀、聊か遠忱を表し、永くもって好を為すなり。 朝貢に当たるに届り、任土の菲薄を□具し、正議大夫林国用等に著令し て、程に順って齎逓し都門の会館に往赴し、貴国の来使に転交し、伝捧 して進呈上献せしむ。楮に臨んで情慇にして、未だ衷臆を尽くさず。此 がため、合に咨復を行うべし。煩わくば照験施行せられんことを請う。 須く咨に至るべき者なり。   計開す  白地紡糸花綢二十端 白地花綾二十端 細嫩闊幅琉球葛布二十端  細嫩小幅葛布二十端 胡州筆四十管 徽州大板墨二十笏  徽州竜紋墨八匣 杭州金扇一百把   右、朝鮮国に咨す 崇禎九年 月 日  情礼を敦くし交隣を篤くせんが事 [二六九 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢員役の安否を訪ねるための使者派遣についての咨文]   初めて二船を遣し、三年両貢して帰るを探報するの咨  琉球国中山王尚(豊)、安危を告探し、介慮を釈寛し、貢歳を明らかに し、輸誠を闡らかにせんが事のためにす。  照し得たるに、該国往きに天啓三年より、聖旨を奉じ、矜恤して培植 し、暫く五年一貢を寛す、等の因あり。崇禎七年十一月十九日に至り、 復た聖旨を奉じたるに、海藩貢期を復し、旧に照らして方物を加進せん ことを請う。情詞真懇なれば議に依りて允従し、船一隻を増すも、水手 の数は百に盈たざらしむ。并びに諭して遵行して以て恪順を昭らかにせ しめよ。此を欽めよや、とあり。欽遵す。礼部が欽奉せる聖旨を承准し て移咨して国に到る。此を准け、欽依内の事理に依奉し、会典の三年両 次の朝貢に遵照し、其れ加増の方物は、馬六匹を増して共に十匹と成 し、硫黄一万斤を増して共に二万斤と成し、螺殻三千箇を増し、一船を 量増す。水手の数は百に盈たざらしむ、等の因あり。咨を准けたるに称 すらく、聖旨を奉けたるに、此を欽めよや、とあり。欽遵して欽依内の 事理に依奉し、遵守奉行せよ、等の因あり。  此が為照し得たるに、該藩、聖旨の頒を奉じ、竜顔を臨欽すること咫 尺たり。貢歳に当たるに届り、敢えて期を愆る罔し。崇禎九年十月内、 遵依して虔みて任土の方物、馬十匹、硫黄二万斤、螺殻三千箇を備え、 船二隻を遣し、均*して解運す。毎船水手の数は百に盈たず。此が為情 を将て咨を備え、正議大夫・使者・通事等の官林国用等を差わし、表・ 箋を齎捧し、水手を率領して二船に分駕し、応に、風を占い解纜するを 候つべし。時に当たれば発*揚帆し、福建等処の承宣布政使司に前赴し て投逓せしめば、方物を転解して、員役を起送して、京に赴かしめ表・ 箋を馳捧し、闕に叩して山呼せしめられたし、等の因あり。此が為、拠 の駅に在りて庶務の職守等に当該の員役は、存留を除くの外、余は合に 時に応じて帰るべく、復延緩するを容さざれば始めて該藩の敬畏忠誠な るを得ん。期を爽りて杳音を致さば、藩情惑慮無き難し。就ち権に忖度 するに、胎し闕に叩して事竣る等の員役を伺斉して一併に携え帰らんと 欲するは、理に於いて順なるに似たり。十に一も敢えて然を疑わんや。 且つ二船の省に在るあり。況や崇禎七年の進貢の(時)差わせる正議大 夫・使者・通事等の官蔡錦等は事竣れば当に廻るべきも、崇禎九年夏至 に於いて、計程るに已に争一歳を越遅するや。ここに南風盛んに発する に迄び、理として合に彙斉に急帰せしむべきは、再贅を庸うる無し。拠 の先後両次の差遣前来せる在前の員役は、総計するに僅かに二百多人に 足るのみ。就中摘して明台に廻還せしめば、定めて区処あらん。豈駐涸 を容し、坐して軛廩を糜やし、躬ら違遅を望まんや。耆亀準罔ければ、人 をして昏惑せしめること滋甚し。天海の常無きに惑い、風涛の測り* きに惑う。反りてこれを思うに、万邦帰順するは、天海の霊神、呵護し て順を助くればなり。大都、九重の霊爽を瞻仰すれば煩冤は頓に万一 をも消す。続いで昏思するに岐路には間々狼子、野心にして、貧残性を 成すの輩あり。陽には商として海に下り、陰には盗として負隅す。梟懺 と勾接し搆済張獰す。風に随って出没し、聴候うけて*椋す。海上に羅 織し、毎に官商の患となる。進貢の人船の往廻を惑慮し、乖遭蹇遇すれ ば、奮健の危を逃れ難し。此の一端に拠り、憂い深くして膈に結ぶ。昼 は*に安んぜず、宵は枕を帖にし難し。照し得たるに該藩、綸澳維れ新 たなるを仰奉し、進貢旧に照らすを賜准さる。此が為、遵依奉行し、 *みて方物を倍増す。是れを用て船二隻を挙げて尽く載せ、帰順して心 を一にせり。先後差去せる員役は、共に二百多人、勤王靡*に非ざるは 無し。未だ去来の安危を卜せず、往廻の順逆を知る罔し。去きては、 貢務の繋関を慮り、君を敬するを重きとなす。来りては臣民の陥靫を 憂い、己を揣りて奚ぞ安からんや。往廻の安危の介慮を釈かんと欲すれ ば、急赴して端的を告詢するに逾る無し。伏して廻文を奉じて帰報して 始めて解豁寛慰を得ん、等の因あり。  此が為、咨を備え、都通事蔡祚隆等を差遣し、使者章邦彦等を訳導 し、水吮を率領し、土造快船一隻に御駕し、天朝に前赴して、進貢の二 船の安危の端的を告訪すれば、貢歳の重務を申明し、藩臣の微忱を展布 するに庶からん、等の因あり。此が為、理として合に貴司に移咨して知 会せしむ。遵して前項の縁滉を将て、咨を備え、原遣等の官都通事蔡祚 隆等に着令して、馳逓して告投せしむ。煩わくば査照して施行を為さん ことを、等の因あり。此が為、南風早媼に乗得して発原し、希わくば亟 かに廻文を下し、帰国して急報せしめ、返棹の良期を滞る勿からしめ よ。此が為、移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処承宣布政使司に咨す 崇禎十一年正月二十五日(再対して過を正す) [注1培植 培い植える、人材を育てる。2伺斉 伺候と同義で待つ、  待っての意か。3煩冤 わずらいもだえる、うれいが胸いっばいに  なる。4頓に…消す 万に一つほどの小さな〈煩冤〉をも消す。5  羅織 人を罪におとしいれる。6乖遭蹇遇 (運悪く)あやまって  遭遇する。7勤王靡* 王事のことに勤める。8章邦彦 首里章氏  の一世。宣野湾親方正成。生没年未詳。尚賢・尚質代の三司官。] [二七〇 福建布政使司より琉球国あて、白糸貿易は今回についてのみ准すも以後禁ずる旨等の咨文]  福建等処の承宣布政使司、旨に遵いて看議具奏せんが事のためにす。  軍門都御史沈の憲牌を奉じ、礼部の咨を准けたるに、該本部の題につ き、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、 本部、福建巡撫沈、巡按張と会同して題せる進貢の事を題覆す。内に称 すらく、琉球貢使、白糸を貿易す、或は其れ現在は准し、其れ将来は絶 つや、飭もて彼の国に行し、此の後、貢年には布帛・器用より外、市い て白糸に及ぶを許さず、永く垂れて令と為す、の縁滉、具題して聖旨を 奉じたるに、該部、看議具奏せよ、此を欽めよ、とあり。欽遵して抄出 し部に到る。司に送り案呈して部に到る。  該本部看得したるに、琉球の入貢貿易は、諞地にて従う所、来るや久 し。率ね皆微賎の物にして、未だ市いて糸炒に及ぶ者有るを聞かず。曩 に中山王尚豊、曾て湖糸を買わんことを乞うの咨あり。該撫・按、其の 事を慎重し、業巳に具疏上聞して、部に勅して具覆せしむ。該本部議覆 したるに、白糸は当に禁ずべきの明旨を奉有せり。これ、十年五月に在 りて、通行申飭す。法として当に厳禁すべし。豈奸牙射利、夷使を悴惑 し、糸商と勾引し、遂に白糸を以て夷と貿易するを意わんや。これ、未 だ厳旨を奉ぜざるの前に在り。今、業に牙商を獲る。各其の罪を究し、 夷の市う所の糸は、法を按じて当に没すべし。但だ其の遐荒を念い、姑 く寛政に従う。其の糸を没して償わんと欲すれば其の価は則ち貴く、之 を物に易えんとすれば更に難し。復た售るところの流商、星散してまた 追するに従なし。若し夷使をして中土に斃れるを待たしめば、また内を 安んじ外を攘うの策にはあらず。或は該国素より恭順を秉り、万里航海 するを俯念すれば、空手帰国せしむるは情また憫むべし。況や禁を聞く こと稍遅し。これ、故に犯す者とは異なる有らん。或は該撫・按の会疏 題請の如く、其れ現在は准し其れ将来は禁ぜんか、恭しく厳旨を候ち、 再び彼の国に申飭するを行い、以後、貢に該るの年、布帛・器用を除く の外は白糸及び違禁の物を市買するを許さず、永く著して令となせば、 小邦は天朝覆露の洪恩に感じ、厳粛精明の良法を昭示するに庶からん、 等の因あり。崇禎十一年三月初七日、礼部署部事左侍郎兼牴林院侍読学 士顧等具題し、初十日聖旨を奉じたるに、是なり、凡そ該国応に貢すべ きの年には、着して前旨に遵いて申禁し、再び違うを許さず、永く著し て令と為せ、此を欽めよ、とあり。欽遵して抄出し部に到る。司に送り 案呈して部に到る。合に咨して前去せしむ。煩わくは本部の覆奉せる欽 依内の事理に照らし、欽遵して施行せられよ、等の因あり。此を准け、 擬して合に就行すべし。在駅の頓糸は已に巡海道に行して発落するを除 くの外、牌を備えて司に行じ、咨文の明旨内の事理に照依して、即便に 中山王に移文して欽遵せしめ、以後、応に貢すべきの年は、夷官をして 多貲を携帯し、白糸及び違禁の物を市買せしむるを得ず、務めて宜しく 明綸を恪奉し、以て恭順を昭らかにせよ、等の因あり。此を奉けたり。  又、安危を告探し、介慮を釈寛し、貢歳を明らかにし、輸誠を闡らか にせんが事の為にす。本都院の批を奉け、該本司抄を備えて呈詳すら く、琉球国、都通事蔡祚隆を差して前来して探報せしむるの咨文の縁滉 あり。批を奉けたり。貢夷、禁に違いて貿易し、以て返国に期を愆るを 致す。此来たり探問するもまた例に非ざるに属す。駅糸追せざれば原価 を付し、権に本色を給し、已に浩蕩を徼む。此に継いで、便ち当に新禁 を恪守すべきなり。司に仰せて回咨明白ならしめ、該国をして永く遵し て以て恭順を昭らかにせしむ。此こに此を炸奉し、案照したるに先に該 国の咨を准けたるに、正議大夫林国用を差して前来進貢し、已経に官を 差して伴送し表を齎して進京するの外、今、探報の咨文を准けて、合に 就ちに移覆す。此が為滉を備えて移咨して前去せしむ。煩為わくは題奉 せる明旨内の事理に査照して、以後、応に貢すべきの年には、務めて新 禁に遵って、夷使をして多貲を携帯し、白糸及び違禁の貨物を市買する こと勿からしめ、明綸を欽遵し、恪みて恭順を昭らかにすべし。須く咨 に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎十一年五月初十日  旨に遵って看議具奏せんが事   咨す [二七一 福建布政使司より琉球国あて、今回に限り白糸の市買を寛免するも以後は法により禁ずる旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢の事のためにす。崇禎十年四月内に、 巡撫福建都御史沈の批を奉け、該本司呈す。琉球国の咨を准けたるに称 すらく、茲に新旨の三年両貢を欽奉して届期に忻臺するに当たり、特に 正議大夫、使者、都通事等の官林国用等を遣わし、前来して修貢す。海 船各一隻に分駕して、大船は法に遵いて銀一万二千両を帯し、小船はた だ銀九千両を帯す。共に二万一千両となす。諞に来たりて貨を買い、以 て国用を滋す。もっぱら、詳允を府循せられんことを祈る等の因あり。 此を准け随で該本司の署司事参議呉、看得したるに、夷使の進貢、銀を 帯して糸を買うは原より典制に非ず。憲牌を奉有して輸貢するの年、一 万両を過ぐるを得ざれば、柔遠の戒と約束の法は両全に称わん。今、中 山王の咨に拠るに称すらく、大小二船の帯銀二万一千両なりと。これを 憲禁に較ぶれば、すでに多きこと、帯銀一万一千両なり。且つ三年一貢 なるも去来絡繹として相継ぎて絶えず。制に違うの濫觴は皆通事、奸牙 の射利、撥引に滉る。漸は長ずべからず。誠に宜しく諭止して以て国法 を粛み、以て憲禁に遵わしむべし等の縁滉あり。批を奉けたるに、朝廷 通貢を許すも、未だ糸を市うを言わず。琉夷は以て恭順来庭して封疆の 常法を定守す。多く銀両を帯するは皆通事、奸牙の誘惑の致す所なり。 仰じて一面もて諭止し、仍具題を候ちて飭行せん。通牙事を生ずれば重 懲して貸さず、此に炸めて此を奉けたり。又巡按福建監察御史応の批を 蒙け、本司の経歴司の呈に拠るに前滉と同じ。批を蒙けたるに貿易は撫 院の批に准照して行い、奸牙の影射して多買するを許さずとあり。此に 炸めて此を蒙けたり。  また崇禎十年十月内に於いて進貢の事の為にす。巡撫福建都御史沈の 批を奉け、該本司、本院の憲牌を呈奉して司及び按都二司、海兵二道即 に貢市の典例を査し、夷官に厳諭して、務要めて恪奉し、多資にて踰越 するを得ざらしめ、恭しく旨意を繹がしむ。先に云えらく、白糸を除く と。先に明旨を奉じたるにまた云えらく、布帛・器用は旧に照らして貿 易せしめば朝廷懐遠の仁を昭らかにし、聖慮深微にして仁義兼ね至る。 間者奸*に惑誘せられて雑えて糸炒を市う。本院、疏題の後、業に貢夷 を勒して、暫く旨を候たしむ。茲に風を候ちて国に返るに当たり、前貨 は封貯し合に今日の処分を議定するを行い、并に後来の観望を杜ぎて以 て覆奏に便ならしむべし。該司即ちに按都二司、海兵二道と会同して、 詳に酌確を加え速速に詳報せん。其の回返は須く媼限に照らして遣を催 し、夷官に諭令して遵依して逗延を許すなく、慎みて違忽なからしむ等 の因あり。此を奉けたり。  該本司看得したるに、琉球素より恭順を称し、聖朝、其の三年両貢を 許し、更に意を体恤に加う。凡そ、綢疋、布帛、器物、皆通市を許すは 恵亦至れり。而して明旨もて、独り白糸を禁ずるは良に深意有るなり。 乃ち新禁甫めて遠方に頒つも、未だ遽に暁るに及ばずして、利に趨るこ と轆の如き民は、業にして糸を以てあい貿易す。今日一たび巧令に 遵いて闌出することなからしめば、また別に説くべきなきに似たり。惟 うにこれすでに散ずるの価はまた返すべからず。諸夷空手にて国に帰れ ば、首領を保す莫きを将て*を摶ちて隣を乞う、情また憫むべし。或い は念うに中山王の先に咨もて請う有れば、専擅とは異なれり。諸夷人禁 を聞くも稍遅れれば、故犯の者とは異なれり。しばらく今次を容し、将 来を厳禁せん。これすなわち聖恩よりいずれば職として敢えて軽しく議 するところに非ざるなり、等の縁滉あり。批を奉く。貢夷国法を暁らざ れば、彼の冒昧、この通融底止するところなし。明旨はまさに繹ぐべ く、仰ぎて具題を候ちて行炸めて此を奉けたり。  已経に備に福州府海防館に行し、即便に通事林国用等に諭令して遵照 せしむるの外、また崇禎十一年五月内において、旨に遵いて看議具奏 せんが事の為にす。巡撫福建都御史沈の憲牌を奉けたるに、礼部の咨を 准けたるに、該本部の題につき、主客清吏司案呈すらく、本部より送れ る礼科の抄出を奉じたるに、本部、福建巡撫沈、巡按張と会同して、題 せる進貢の事に題覆す。内に称すらく、琉球貢使の白糸を貿易するは、 あるいはその現在を准し、その将来を絶ち、彼の国に飭行して此の後の 貢年、布帛・器用より外、市うこと白糸に及ぶを許さず。永く著わして 令となさんとの縁滉あり。具題して聖旨を奉じたるに、該部、看議して 具奏せよ、これを欽めよやとあり。欽遵して抄出し、部に到り司に送 り、案呈して部に到る。該本部看得したるに、琉球の入貢して貿易する は、諞地にて従来久しき所なり。率、皆微賎の物にして未だ市うに糸炒 に及ぶ者あるを聞かず。曩者中山王尚豊かつて湖糸を買うを乞うの咨あ り。該撫按其の事を慎重にして、すでに具疏して上聞するに、部に勅し て具覆せしめよ、とあり。該本部議覆するに、白糸はまさに禁ずべしと の明旨を奉有すること、これ十年五月に在りて通行申飭せり。法はまさ に厳禁すべし。豈、意うに奸牙射利にて夷使を悴惑し、糸商を勾引して 遂に白糸をもって夷と貿易するとは。これ未だ厳旨を奉ぜざるの前にあ り。いま業に牙商を獲えて各その罪を究す。夷市うところの糸は法を 按じてまさに没すべし。ただその遐荒なるを念い、姑く寛政に従い、そ の糸を没してその価を償わんと欲すれば、則貴し、これを物に易えん とすればさらに難し、復た售るところの流商は星散してまた追するに従 なし。夷使をして中土に斃るるを待たしむるがごときは、また内を安ん じ外を攘うの策にはあらず。あるいは俯念うに、該国素より恭順を秉り、 万里航海す。空手にて帰国せしむるは、情としてまた憫むべし。況や 禁を聞くこと稍遅る。これ故犯の者とは異なるあり。あるいは該撫按の 会疏して題請するが如く、その現在を准し、その将来を禁ずべし。厳旨 を恭候して、再び彼の国に申飭するを行い、以後の該貢の年、布帛・器用 を除くの外、白糸及び違禁の物を市買するを許さずと。永く著わして令 となせば、小邦、天朝覆露の洪恩を感じ、厳粛精明の良法を昭示するに 庶からん、等の因あり。崇禎十一年三月初七日、礼部署部事左侍郎兼牴 林院侍読学士顧等具題し、初十日聖旨を奉じたるに、是なり。凡そ該国 応に貢すべきの年、着して前旨に遵い申ねて禁じ、再び違うを許さず。 永く著わして令となせ。これを欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に 到り、司に送りて案呈して部に到る。合に咨して前去せしむ。煩わくば 本部の覆奉せる欽依内の事理に照みて、欽遵して施行せよ、等の因あ り。これを准け擬して合に就行すべし。駅に在るの頓糸は已に巡海道に 行して発落するを除くの外、牌を備えて司に行り、咨文の明旨内の事理 に照依して即便に中山王に移文して欽遵せしめ、以後の応に貢すべきの 年夷官をして多貲を携帯して、白糸及び違禁の物を市買せしむるを得 ず。務めて宜しく明綸を恪奉し、もって恭順を昭らかにすべし。また椦 *を奉じたるに駅糸を除くの外、闌出するを厳禁せよ、等の因あり。  また旨に遵いて遣発せんが事の為にす。巡撫福建都御史沈の憲牌を奉 じて照得したるに、夷人糸を買いて禁を干すも、本院題請して、権に現 在を准し、永く将来を絶つ。朝廷の寛恤に頼りて特に該夷遣発するを准 さば、すなわちまさに疾速に国に返すべし。国禁はこれ法なり。権に准 すはこれ仁なり。皆これを主るに信をもってす。今、原糸一百七十担 は恙なし。該夷詭わりて糸なきと称すは、これ我信にして夷詐なり。こ れ誰かこれを教えん。串誘の奸徒別に緝拿を行うを除くの外、牌を備え て司に行り、事理に照依して原行を査照し、夷人をして速に発して国に 回らしむ。再びまた観望して播弄し、本院必ず狡状を題明して、もって その貢を絶てば、終に該夷の詐反を受けず、并びに信を該夷に失わず、 等の因あり。  これを奉け、今前因を准け、合に移して知照せしむ。これがため滉を 備えて貴国に移咨す。煩為わくば部院の題奉せる新旨内の事理に遵依し て、以後の応に貢すべきの年は、ただ布帛・器用をもって旧に照らして 貿易せしめ、多資を携帯して白糸及び違禁の物を市買するを得ざらし む。永く著して令となす。なお夷官に飭行して、務要めて明禁を恪遵し もって恭順を昭らかにすべし。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎十一年五月二十六日  進貢の事   咨す [注1巡撫福建都御史 官名。巡撫にして都御史を兼ねる官。明代、巡  撫は都察院の長官である都御史を兼ね、布政使以下州県官等を監督  した。2観望 ようす、なりゆきを見る。旗色をうかがう。3首領  を保す 頭と首を保つ、つまり身体を全く保つの意。3故犯の者   ことさらに犯す者、知っていて法を破る者。] [二七二 中山王尚豊より毅宗あて、進貢に際し白糸購入の許可を願った奏文]  琉球国中山王臣尚豊、謹奏して天に*り、例にしたがって効順輸税 し、再び議処を賜らんが事のためにす。  切に惟うに、上天の雨露は地を択ばずして施す、小国の人民はただ恩 を徼むること尤も切なり。念うに臣豊、該国よろこび服すること二百余 年、以来慕風の化に向い、機宜を遵守し、夷習の染を滌蕩し、華教の休 を倣孚すること一日にあらず。故に三年両貢に、船一隻を増して、方物 の硫黄、馬匹を装載して、期に依りて貢を奉じ、未だ嘗て少しも違わ ず。殊に覆育の恩を蒙り、深く教化の沢を荷くす。因りて衣服・器用は 皆天朝に仰給す。固より進貢の規、互市の例あり。祖制を恪遵するに禁 は硝鉄軍需の物に在り。然り而して糸炒は未だ禁ずること有らざるな り。夫れ求むる者は、天朝衣冠文物の美を美とするに過ぎず。顧みるに 臣が国、糸織を藉りて緞疋を造り、以て文惆の盛を昭らかにせんとす。 殊に蠹害の物の比すべきに非ず。ここに既経に撫按具題して礼部、議覆 す。  又明旨を奉じたるに糸を将て禁を議す、敢えて欽遵せざらんや。唯、 是に広東の香山澳に例有り。暹羅、交趾の貢には互市有りて、糸を貿す る有り。其の糸価は毎両、納税三分なり。例として通査すべし。事同じ くして一体なり。夫れ福建、広東は乃ち隣邦たること咫尺にして、琉 球、暹羅、交趾は乃ち貢典相揃し。粤に既に恩を開く。諞独り禁有るは 朝廷の恩、未だ普からずして、瞰爾の国、向隅して懐柔の至意に負くに 似たりと謂うを恐る。蓋し、臣が国の所轄は三十六島なり。願わくば糸 三十多担を求め、例を体して毎両三分を輸税し正官を差委して験明収税 せられんことを。須く千計を下らざるを期すべしと云うといえどもまた 少しく辺餉の万一を助けん。已むをえず情を君父の前に瀝ぶ。懇恩すら くは、部に勅して再び酌議を賜り、広東の事例に照依して施行するを俯 准せられんことを。進貢の年に遇う毎に互市して糸を貿い、数に照らし て報税せば、朝廷浩蕩の恩波に沐して、臣豊が小国をして悠久に踴躍せ しむるに庶からん。此が為に具本して専ら正議大夫蔡堅等を差わし齎赴 して謹んで上奏して聞す。伏して勅旨を候つ。  為字自り起こして、旨字に至りて止む。四百三十七字、紙一張なり。   右、具奏す  崇禎十一年十月二十日、琉球国中山王臣尚豊謹んで上奏す [注1向隅 仲間はずれになる、一人ひとり残される。] [二七三 中山王尚豊より礼部および福建布政使司あて、進貢硫黄の煎煉および補貢についての咨文]  琉球国中山王尚豊、進貢の事のためにす。照得したるに、崇禎七年十 一月十九日聖旨を奉じたるに三年両次の朝貢、此を欽めよやとあり。欽 遵す。此に欽依の事理を奉じて、遵守奉行せよ等の因あり。案照したる に崇禎十一年、歳循り届及べば、擬して合に進貢すべし。敢えて稽遅せ ず。是を用て、虔んで庭実の方儀を備えて、航海の二船を牢緻して、官を 遣わし庶務を分司し、水吮共に二百人の数に盈たざるを率領し、協*し て船隻にE駕して解運す。後開の儀物は前みて福建等処の承宣布政使司 に赴きて、投納して転解せしめ京に赴きて進奉せしむ等の因あり。此が 為に備うるに任土の常貢の方物を将てす。生硫黄二万斤、馬十疋、海螺 殻三千個等の方物は、進上に関繋するの重物なれば敢えて軽忽する罔 し。理として合に咨を備えて開載し明白ならしむの縁滉あり。  続いで拠るに崇禎十一年五月二十九日、福建都指揮使司の行移して国 に到るを准く。此を准けたるに査称すらく、進貢の生黄は煎煉するに銷 耗過多にして、因りて往年の貢額充たさざるを致す。すでに都通事林有 材等に行じて、査して黄数を将て呈報し、以て転詳に憑らしめ去後れ り。続いで、林有材等の呈に拠るに称すらく、本国以後の下年の進貢の 生黄は、王の行令を啓して自ら煎して餅と成せばやや斤数に足り、天朝 の帑蔵の費を致さずと。已経に撰稿して両院に呈詳す。改正して発下せ る謄写の正本は、人を差して京に赴き奏報せしむるの外、今夷官の帰国 に照らして、合に就かに知会せしむべし等の因あり。此を准け今常貢の 生黄二万斤を将て煎して餅塊と成し、天朝官煎の定額の斤数に依遵し て、篩浄せる泥沙、石砕并びに煎銷の火耗等の項を除去くの外、拠りて 実在の熟黄一万二千六百斤は生黄二万斤に抵也し、相応に崇禎十一年分 の貢額を充足すべし。続いで前年の貢額、煎銷の耗損の斤数を補足する の熟黄七千五百一十斤は彙斉、装載して官を遣わして管解し、前来して 投納す。合に就かに声説明白ならしむべし等の因あり。  此が為に特に紫金正議大夫、使者、都通事等の官蔡堅等を遣わし、咨 を齎して告投し、迢かに表箋を捧じて天階に赴きて、俯伏して宸陛を仰 ぎ以て嵩呼す。此が為に除外に、附搭の土夏布二百疋は官に憑りて絹帛 に兌換す。歴として毎貢来朝するに、附搭を賜准せられ、着して永例と 為すを蒙れば、今附搭前来して兌換するに遵う。合に就かに一併に貴 部、貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。  これがために一は礼部に立案し、一は福建等処承宣布政使司に移咨 す。移咨して須く咨に至るべき者なり。  崇禎十一年十月二十日 [注1抵也 あたり足りるの意。等しい、あたる。] [二七四 中山王尚豊より福建都指揮使司あて、進貢硫黄の煎煉および補貢についての咨文]  琉球国中山王尚(豊)、進貢の事のためにす。照し得たるに崇禎十一年 五月二十九日、福建都指揮使司の咨を准けたるに称すらく、巻査したる に琉球国の進貢、入港は例として応に本司、布・按二司并びに巡視海道 と会同し、三次具題して撫・按両院に呈詳し、批允もて人を差わし京に赴 きて奏報せしむ。今査照したるに、該国の進到せる黄斤の数目は合に応 に具題すべくして、業に都通事林有材等に行し、黄数を将て呈報して以 て転詳に憑らしめ去後れり。続いで林有材等の呈に拠るに称すらく、本 国の進到せる生黄二万斤は、海防館人匠を喚集して、官に委して公同に 庫貯の黄斤を将て惓を行うを蒙るの外等因とあり。除去せる泥沙并びに 火耗の消躔は過多にして以て補足し難し。国王に回啓して下貢は自ら惓 して餅と成せば較斤数に足りて献納せん等の因あり。司に到る。此に拠 り已経に本司撰稿して両院に呈詳す。改正発下せる謄写の正本は、人を 差わして京に赴き奏報せしむるの外等因とあり。国に到る。此を准け来 文の事理に照依して遵行すべし等の因あり。  此が為、今進貢の年期に当たれば、合に進むべきの生硫黄二万斤は天 朝の惓煉成法に照依して、泥沙石砕を篩浄し、官に委して自ら惓煉を行 い、已に餅塊と成す。拠りて実在の熟黄一万二千六百斤は実在の常貢生 黄二万斤に抵てて較崇禎十一年分の貢額に足る。又補貢の欠少の熟黄七 千五百一十斤は一併に二船に分載して解運し、前みて福建等処の承宣布 政使司に赴きて進奉し、合に貴司に咨して知会せしむ。煩為わくば査照 施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、福建都指揮使司に咨す 崇禎十一年十月二十日 [二七五 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢使が商人に騙取された銀両の追給返還を懇請した咨文]  琉球国中山王尚豊、天を体して柔遠し、瞑を恤み、唖を憐み、虎噬に 冤遭すれば、乞うらくは追吐を厳にして、当官主に給し、以て頑民を警 め、以て聖化を昭らかにせんが事のためにす。  伏して覩るに、聖君御極し、礼を明らかにして以て民を導く。朝廷は 刑無きの盛治を期し、黎民、欽化滌心して善に従う。里巷は恥格の淳風 を興し、財は苟にも取る無く、道に遺を拾わざらしめんとす。慨か わしくも、夫の民風は駁して、日に*く利を貪りて是に趨る。其の律令 を藐じ侈りて日に肆にし、身を弊て顧みず。許多の無籍の棍徒は夥を 搆えてあい従い、復た巨奸大蠧有りて同悪あい済け、生業に安んぜず、 大いに*醇を壊り、爪党を勾結して、国法を磬にして無きが若し。牙 行と営充して夷財を攬りて己の有となし、焔の勢豪に依りて羽翼を開張 し、官府を把持して威風を展作し、縉紳の士類は実にこの輩のために高 標を損うことを嘆くに堪う。台省の尊厳は実にこの輩のために弔憲を傾 くを傷むべし。是と言い、非と言いて頻りに耳を乱して造圏造套し、暗 に心索を邀え、貢使の行資を尽くして貪饕を任恣にし、空船の人貨物を 糅り、肆に乾没をなし、欲は渓壑より深く、涓滴を納るるも盈たず。貪 虎は狼に過ぎ、膏血を吮うて飽き難く、奪わずんば厭かず。計るに王銀 三万九千八百七十六両七銭八分をもって、公に騙訖を行う。包械包機し て、聖旨を横犯し、糸禁を厳にするも謀りて搶消に抵る。夷人は法を懼 るるも排碁の穽局に墜ちざるはなし。事竣ればまさに帰るべければ処す る無し。鼓を撃ちて冤を鳴らすも姑奸の供せる票証を取りて奔回す。自 ら誤錯を招きて、法に依りて甘んじて愁屈に坐す。一天を等つと雖も、 条に按ずるに三尺を辞し難し。多官の会議に拠りて衆口を合するも言に 符す。窃かに冊封王銀の半億なるを念えば、豈休罷を容さんや。仰ぎて 承流宣化の至尊を瞻れば、安んぞ鳴らさざるを得んや、況や聖恩の柔 遠、優渥の典の恒隆なるを荷くし、且つ厳律の縄頑、創懲の科の縱らざ るに稽みれば夷財を索むるは細事と雖も君を無するの罪は逃れ難し。真 の大奸法を蔑すむの刑を硬化して赦す罔し。他の金屋に阿嬌を貯うるを 看るにことごとく是れ暗夷の汗血なり。彼の良田の隴野に際らるるを* するに皆法を枉げての真贓なり。縦使死に仮りて詞を飾れば、妻孥を坐 追す。律、刻なるに阜たらず。安然として全家共享すれば、親属を拘徴 す。刑、実に辜に当たる。蓋し中外の人民は均しく是れ天朝の赤子な り。然るに冊封の王臣も共に大明の青天を戴き、詞に妄冒無きを矢う。 原より情は哀矜すべし。且つ陌物を拾遣すれば律なお匿蔵よりも厳乎た り。況や夷財を局騙すれば、官、豈追給を厭わんや。此が為、咨を備 えて行移す。願わくば惟申詳もて追銀して主に給し、法を飭して奸を懲 らしむるを擬議すれば、群党、縦横の踪跡を迸け、遠人、優渥の仁慈に 懐くるに庶からん。濁を激して清を揚ぐれば、善政の口碑、頌を載して 忘れ難からん。此が為に、擬して合に貴司に移咨して知会せしむ。煩為 わくば査照して施行せられよ。此が為に移咨す。須く咨に至るべき者な り。  一は立案し、一は福建等処の承宣布政使司に移咨す   計開す 大船の銀両の欠く所・花名は後に開具す    (人名、欠銀は同上につき略す) 崇禎十一年十月二十日 [注1嘆くに堪う はなはだ嘆かわしい。2造圏造套 篭絡する、だま  す。3貧饕 むさぼりむさぼるの意。4包械包機 あらゆる機会に、  あらゆる手段をもって、の意か。5三尺 刑罰の道具、また刑罰の  こと。6阿嬌 漢の武帝の皇后。武帝幼児の時「阿嬌を得ば金屋を  作りて貯えん」といい、即位の後、皇后に立てたとの故事がある。  転じて、広く美人、娘の意に用う。7真贓 盗んだ現物のこと。  8全家 全家族、一家全部。9共享 共に(恵みを)享受する。10花  名 戸籍簿に登録してある名前。 ※本項は、崇禎九年の進貢使の帯銀詐取事件である。二七八項も関連  文書。他に『中山世譜』附巻崇禎十一年の項および多くの資銀を委  託していた島津側の『甼藩旧記雑録』後編 巻九五、九六にも同事  件の経緯および関係者の処分がある。] [二七六 三司官の馬勝連等より福州府の青天爺あて、崇禎七年進貢の際の詐取事件について再度の欠銀回収要請の書簡]  琉球国中山王府の三法司馬勝連等、群虎横逆して夷を噬むを除き、も って風化を正し、もって柔遠を昭らかにするを懇わんが事のためにす。  照得したるに、琉球の進貢来朝するは、上は天恩もて撫字を荷り、商 を恤して互市するは尽く台省の綏柔を被る。蹇遇城狐の巨悪の林泰等、 乖遭社鼠の大奸の何六等夥を搆えてあい従い、同悪あい済け、爪党を勾 集して、国法を磬にして、無きが如し、牙行と営攅して夷財を攬りて 己の有となし、局を設けて愚を篭し墜套せざるはなし。償を催すも飾る こと巧にして、全□□□す。事竣りて台より辞せんとするに延至り、熟 談して明白的還促するも、整装登程に及びて方めて来年継ぎ至れと説 う。台に告ぐるは厚賂を追して漏脱を埋差せんことを蒙る。天に号して 解纜し懸嚢して抱泣帰来す。公の究審の的真なるを聞き、原より情、恕 すべし。任役の管司の出納は法を按じて循拠し難し。危に臨みて泣訴す るに及び、義に就きて従容するも、上物は以て傷虧するを顧惜す。心に 懊恨を填す。天朝の聖恩、柔遠の優渥は尤も隆く、大明の厳律は縄頑、 創懲にして爽わず。当今の清廉の府尹爺々、明は日月に弥り、政は氷霜 に類す。微も照らさざるはなく、冤申べざるはなし。伏して願うらくは 衆議して審詳し王に啓して行文して上涜すれば、則、奸党把持の悪を息 め、唖夷望訴の冤を獲るは、特に螻蟻今再び造るを蒙るのみならず、な お員役をして去きて超生せしむるがごとし。これに拠り情を将て滉を具 し、上啓して命を奉じて僉議して行移す。これがために馬勝連等、職は 王朝の股肱に任じ、義として袖手身耽し難し。士庶の*瘁安んぞ傍観す るに忍ばんや。これがため滉を備えて具申し、光上に望みて告ぐ。遵い て等第に負銀人等并びに実在の銀両の星数を将て後に連ねて逐一計開 し、なお発落して罪を定め、出支謹まざるの原官は職を罷め死を免がら しむ。文を奉じて前赴し投逓して守催し、伏して廻文を奉じて帰復せん とす。懇に、天を体して遠きを柔け、褻涜を拡涵せられんことを乞い て祈となし、啓もて恩を推めて小を字しみ、厳訊して拘追せられんこと を*めて是に祷るなり。これがため具申す。須く申に至るべき者なり。  一に立案し、一に福建福州府青天爺に移申す。   計開す、欠銀・人等は逐名具に後に列す。この負するところの原   銀は、これ崇禎七年の進貢に係る。未だ廻せざるの通事蔡国材、   九年五月に冊もて拘追を具呈すること案にあり。査すべし。    (人名・欠銀は同上につき略) 崇禎十一年十月二十日 [注1営攅 結託すること。攅は鑽に通じ、「鑽営」で*縁に善みなる  者の意。*縁はつらなること。2墜套 落套と同意で篭絡せらるこ  とか。3等第に 順序よく、順々にの意。4守催 居すわって催足  すること、居催足のこと。] [二七七 中山王府長史司より福州府海防館あて、進貢品の生硫黄の補貢の件について、照会の牒文]  琉球国中山王府長史司、進貢せんが事のためにす。王命を奉じ三法司 の信票を蒙けて仰ぎ称すらく、照し得たるに、崇禎十一年五月二十九 日、福建都指揮使司の咨を准けたるに称すらく、琉球国の進貢せる生硫 黄二万斤は、海防館、人匠を喚集し、官に委して公同に庫貯の黄斤をも って惓煉するを蒙るに、消損すること過多にして、以て補足し難し。合 に惓成すべきの餅は、斤数を充足して献納せしめよ等の因、国に到る。 此を准く。行して長史司に仰じて会議、回報せしめんとて此を蒙けた り。相率いて議同し、自ら惓成せる餅に照依し、申詳・批允せんとて此 を蒙けたり。今、進貢の年期に当たれば、合に進むべきの生硫黄二万斤 は、斤数を減ぜず。天朝の惓煉の成法に照依して、泥沙石砕を篩浄し、 公同に官に委し、自ら惓煉を行い、已に餅塊を成る。拠の実在の熟黄一 万二千六百斤は、実在の常貢の生黄二万斤に抵り、ほぼ崇禎十一年分の 貢額に足る。また欠少の熟黄七千五百一十斤を補貢し、一併に二船に分 載して解運し、前来進奉せん等の因あり。  此が為に、一は立案し、一は牒呈し、理として合に滉を備えて、貴館 に牒呈して知会せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く牒呈に 至るべき者なり。  福建福州府海防館   左は国場 崇禎十一年十月二十日 長史司   右は照屋 [注1申詳 うかがいをたてる。2批允 指図して許可する。] [二七八 中山王尚豊より銀銭騙取人あて、説諭]  琉球国中山王、厳しく信票を行りて信を示し、銀を騙るの人等に暁諭 して曰く、本府、官を遣わして進貢、来朝すれば、明欽を以て遠(人) を柔くべく、暗昧を以て馮凌すべからず。朝廷、推拡して商の以て些少 を私索すべきを准すも、以て縦横に紂騙すべからず。官府は弔儼として 上にあり。爾、畏れざるか。律法は峻厳昭明なり。爾、あえて犯すか。 料るに、我が王銀半億は、爾に任せたるに瓜分して嚢に入れ、自(物) に易えたり。眼前の幸を賀するも、当に身後の憂を思うべし。もし財は 我が手にありと謂わば、官法はなんぞ人に憑らんや。いかんせん、我、 なんぞ上は九天の*闔を仰ぎ、六合を疏通し、登聞鼓を轟々かし、奸を 除くの上撃を禁ぜざらんや。過を知りて銀を還すものあれば、守催官、 名にしたがって改正し、追を免ずるを許さん。迷を執りて醒めざるもの あれば、縦りに軽々しく宥すなし。爾、あえて法を蔑み、我が王銀半億 を騙る。我、具奏して、爾の妻子・全家を虧なわん。信を示して誣か ず。特に諭して知悉せしむ。  右、紫金正議大夫蔡堅を差わし、此を准けたり。 崇禎十一年十月二十日、給す [注1瓜分 分割すること。2*闔 天上界の門。3六合 全世界、地  球全体。4登聞鼓 臣民が無実の罪にかかって上訴しようとする  時、これを打って通ぜしめるために、朝堂に掛けておいた鼓。] [二七九 中山王尚豊より朝鮮国王あて、交隣を求めるための返答の咨文]  琉球国中山王尚(豊)、情礼を敦くし、交隣を篤くせんが事のためにす。 崇禎九年六月内に、拠の該国の差遣せる王舅呉鶴齢、正議大夫蔡堅等、 闕に赴きて冊封せらるるを叩謝し、事竣りて廻還せんとして都門より出 ずるに、貴国の礼曹参判洪命亨に会し得て、朝鮮国王の咨を交収領到せ り。崇禎七年七月二十一日、貴咨を案照したるに前事あり。此を准けて 香を焚きて□を啓くに、言言、義重く、断□として日に対して宣揚す。 語々、情深く堅漆にして、儼んで其の威儀に対越す。啻、其の肺腑を披 き抽みて、嘉を拝して措愕す。慶を襲くるは光栄なり。□□隆んに施し 興んに頒ち、波(の行いを)行いて璧の鼇肩を抵し、厚罅は起纐す。舜 に効いて珠の五明を投ぜらる。攝據は殿閣に分来すれば、余は涼に贐撃 を朝納す。職、万里梯航して是をもって轣に附し、献芹してまさに寸心 を申べ、洌もって葛碎の情を宣んとす。祇、蒹葭の倚なるを愧ずるのみ。 此が為に、任土の鄙儀もて咨を備えて□布し、正議大夫林国用に戒令し て、捧げて都門に到らしめ、齎して会館に臨み、貴价使に臺迎し、瑶階 に進みて、□□□に臨ましむ。瞻依して統て照鑑せられんことを□す。 此が為にまさに貴国に咨し、煩わくば査照して施行せられんことを請 う。須く咨に至るべき者なり。  計開す 崇禎十一年 [注1威儀に対越す 威儀は厳正な動作や態度。私もあなたの威儀に応  えますの意。2肺腑 心の中、心底。ここでは書牴の意。3措愕す    おそれをなくす、ほっとするの意か。4璧の鼇肩を抵し 大亀の  背に璧をのせて贈る。5起纐 続くの意。6五明 舜のつくった五  明扇のこと。7攝據 他人の手紙の尊称。8贐撃 贐儀、はなむけ  のことか。9葛碎の情 樛木に葛碎がまとわりつくたとえ。あい思  うこと。10蒹葭の倚 蒹葭は玉樹に倚るで、美醜あいあわざるこ  と、つりあいがとれないことをいう。11瑶階 宮殿、北京の紫禁城  のこと。] [二八〇 福建布政使司より琉球国王あて、進貢の際の白糸購入を許可しないことについての咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢の事のためにす。琉球国中山王尚(豊) の咨を准けたるに、官を差わし庶務を分司せしめ、水吮を率領し、備に 任土の硫黄・馬匹・螺殻をもって十一年の貢を進めんとあり、移咨して 前来す。此を准けたり。  又、紫金正議大夫蔡堅の齎せる貴国の咨に拠るに、天に*り例に循 い、順を効して税を輸し、再び議処を賜らんが事の為にすとあり。咨に 称すらく、福建・広東は乃ち隣邦咫尺にして、琉球・暹羅・交趾は乃 ち貢典相揃し、広東の香山澳より貢を進め、糸を市い課を抽するに照依 して、願わくば惟だ申詳すれば、擬議して曲循て題請せられんことを、 等の因あり。此を准けて看得したるに、天朝、該国の恭順なるを恤念せ られ、凡そ緞疋・布帛は平買を禁ぜず。湖糸に至っては、近ごろ経に題 禁せり。明旨森厳なれば、体例として課を納むるの説は、いまだ議詳し て上請するに便ならず。紫金大夫蔡堅、使者毛継善、都通事阮士乾、京 に赴きて表を進め、事竣りて回還するを除くの外、今、呈に拠るに称す らく、都通事王克善等、人衆を帯領し、先に回りて貢期至るを俟ち、例 に照らして方物を解運せんとす等の情あり。此に拠り、合に移咨して覆 すべし。此が為に滉を備え、移咨して前去せしむ。煩為わくば知照施行 せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 崇禎十二年四月二十二日  進貢の事  咨す [注1毛継善 那覇牛氏支流の四世。後代牛似真と謚さる。我謝親雲上  秀正。] [二八一 礼部より琉球国王あて、進貢の際の貿易制限規定遵守について要請した咨文]  礼部、旨に遵い看議して具奏せんが事のためにす。  該本部の題につき主客清吏司案呈すらく、崇禎十二年十二月十二日、 本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、琉球国中山王尚豊、奏して天 に*り例に循い、順を効し税を輸し、再び議処を賜らんが事の為にする の内に、広東の事例に体依し、税を輸して白糸を貿買せんと称するの縁 滉あり。具奏して聖旨を奉じたるに、礼部看議して速やかに奏せよ、此を 欽めよとあり。欽遵し抄出して部に到る。司に送れば案呈して部に到る。  該本部、看得したるに、属国は順を効し、期に依って入貢すれば、朝 廷、賞給の外において、許すに貿易を以てし、もって懐遠を昭らかに す。凡そ一切の違禁にして他慮を滋すものは、慎みて許すなし。案査す るに、白糸禁買は通行に申飭して、已経に旨を奉けたり。崇禎十一年、 福建撫按、該国の貢夷の人員は、貿買先に在り、禁を聞くこと後に在る に因って、該撫按、その空手にして国に返ることこれ難く、流商の追 価易からざるを念い、部に咨して題覆せしむ。また旨を奉じたるに、再 び違うを許さず、永く著して令となす。該国、恪遵すること素あり。な んぞ乃ちまた此の請あらんや。即え税を納め餉を助くと称するも、煌煌 たる功令は豈、此の錙銖を愛んで借りて口実と為さんや。その暹羅・交 趾は、原より一体に申禁し、諞粤の分なく、相応になお厳禁の事例を昭 らかにして遵行せしめ、再び請を議するなければ可なり、等の因あり。 崇禎十三年正月十九日、本部尚書兼牴林院学士林等、具題し、二十一 日、聖旨を奉じたるに、是なり。すなわち一体に厳に飭行せしめよ、此 を欽み、欽遵せよ、とあり。抄出して部に到る。司に送れば案呈して部 に到る。擬してまさに就行すべし。此が為に合に貴国に咨す。煩為わく ば本部の題奉せる欽依内の事理を査照し、以後、進貢の人員は、務めて 須く明旨に確遵し、白糸違禁等の物を貿買するを許さず、欽遵恪慎して 施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国王に咨す 崇禎十三年閏正月初七日 都吏・薛大勲と対同す  旨に遵い看議具奏の事 (再対して之を正す) [注1流商 琉人から銀を騙収した中国商人のこと。2錙銖 少量、わ  ずかの意。] [二八二 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢物の件について照会の咨文]  琉球国中山王尚豊、進貢せんが事のためにす。  案照したるに、崇禎七年十一月十九日、聖旨を奉じたるに、三年に両 次朝貢せよ、此を欽み、欽遵せよ、とあれば、欽依内の事理を奉じて遵 守奉行せん等の因あり。  此を奉じて査に拠り案照するに、崇禎十三年、歳循りて届り及べば、 擬してまさに進貢し、あえて稽遅せざらんとす。此が為に虔しく庭実の 方儀を備え、航海の二船を牢緻し、官を遣わして坐駕せしめ、庶務を分 司し水吮を率領せしむ。二船中間の上下の員役は、共に二百人の数に盈 たず。船隻にE駕し方物を解運するを遼*せしむ。福建等処承宣布政使 司へ前赴して投納転解せしめ、京に赴きて進奉せんとす等の因あり。此 が為に遵いて任土の生硫黄二万簧・馬十疋・海螺殻三千個等の方物は、 上進に係関すること重大なるを将て、あえて軽忽にするなく、理として まさに咨を備えて開載し、縁滉を声説して明白ならしむ等の因あり。  此に拠り、続いで福建都指揮使司、行移して国に到るを准く。此を准 けて査称すらく、進貢の生硫黄は、惓煉すれば銷耗過多にして、往年の 貢額充たざるに因り、合行自ら惓して餅と成すを致せば、銷耗を除くの 外、実在の熟黄は、計るに斤数に足り、累年の欠少の情弊を致さずと。 経に両院に呈詳して発下せる謄写の正本を改正し、人を差わして京に赴 き奉報せしむるの外、等因とあり。  此を准けて遵いて、常貢の生硫黄二万簧を将て泥沙石砕を篩去し、法 の如く惓して餅塊と成し、装束包裹して、進奉前来するに遵わん。今年 の拠の実在の惓熟硫黄六千七百一十簧は装束包裹し、余外は仍ち崇禎十 一年の歳貢を将て京に解るを除くの外、剰に庫に儲えたる見に在るの熟 黄五千八百九十簧あり。就ち抵乗殻もて原額の熟硫黄一万二千六百簧に 足るを将て、相応に崇禎十三年分の歳貢の常額に充盈して並えて欠少な かるべし等の因あり。此に拠り、まさに官を遣わし管解載運を行い、前 赴投納し、理として合に声説して明白ならしむ等の因あり。  此が為に、特に正議大夫・使者・都通事等の官、鄭藩献等を遣わし、 咨を齎して告投し、迢かに表箋を捧げ、天階に赴きて俯伏して宸陛を仰 ぎ、以て嵩呼せしめん。此が為に除外に附搭せる土夏布二百疋は、官よ り絹帛に兌換せしむ。歴、貢して来朝するごとに附搭を賜准せらるるを 蒙り、著して永例と為し遵依して附搭前来すれば兌換せられよ等の因あ り。  此が為に、擬して合に一併に貴司に移咨して知会せしむ。願為わくば 査照して施行せられよ。此が為に移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処承宣布政使司に咨す 崇禎十三年二月初二日 [注1乗殻 二つのものの中味のこと。先に送って蓄えていた硫黄と今  回もっていった硫黄のことか。] [二八三 中山王尚豊より福建布政使司あて、進貢の際の白糸買入れについて、題請を依頼する咨文]  琉球国中山王尚豊、藩情に俯順し、愚言を探択し、例を援きて糸を市 い、規に依りて税を徴し、輸して天帑に充て、以て辺需を裕かにせんが 事のためにす。  照し得たるに、琉球は世々東隅を守り、休戚相関し、福建に毘連し、 壌は一脈に綿なるも、天造地設して水を界し分つこと韜かなり。奚に臣 が始祖、基を開きてより、歴として累朝の亭毒の思い深きを蒙る。太祖 皇帝の金印を欽奉し、頒封せられて同に帯砺の盟を望む。孤り践祚する に迄んでは、詔を降して封襲し、中山王と為し、箕裘世業を振わさんこ とを期す。あえて益々忠勤に励み、誓って報称を図らざらんや。夙夜思 いを興して抑塞し、従りて一見の愚を陳ぶるを忘るることなければ、僅 かに朝廷を万一に補することあるに似たり。萃に瞻て直言す。唯だ曲げ て咳唾を垂れ、代りて題請を行い、進貢来朝には商に附して糸を市うを 允許せられんことを願う。なかんずく、常規に照依し、官に憑りて科を 徴し課を餉し、天帑に解輸すれば、外を諛ぎ辺を防ぐを作し、やや三軍 一日の淬の需に充て、用て聖慈の無外に答うるに堪えん。比の広東 香山澳にて暹羅を軫恤せられ貢して糸を市うの事例に循い、俯して愚言 を採りて垂允せられ、申詳もて擬議して題請せらるれば、上にては辺を 防ぎ知を積むに益あるのみならず、下は窮藩を和らげ、希わくば富強な らしめ、長く琉球を繋ぎ、東隅を壮んにし、世々の守りと為すに幾から ん。此が為に理として、合に貴国に移咨して知会せしむ。煩為わくば査 照して施行せられよ。此が為に移咨す。  右、福建等処承宣布政使司に咨す 崇禎 年 月 日 [注1天帑 国庫のこと。2帯砺の盟 永遠にかわらない誓いのこと。  3箕裘世業 父の業を受け継ぐ、父の世業を受け継ぐこと。4抑塞   胸を塞ぐ、うつうつたる思い。] [二八四 中山王尚豊より礼部あて、進貢の際の白糸買入れについて、題請を要請する咨文]  琉球国中山王尚(豊)、柔遠を懇恩し、例に循いて税を輸し、再び議処 せられんことを請わんが事のためにす。  案照するに、崇禎十三年閏正月初七日、礼部の咨を奉じたるに、内に 題称すらく、旨に遵い議を看て具奏せんが事、とあり。該に本部の題に つき、主客清吏司案呈すらく、崇禎十二年十二月十二日、本部より(送 れる)礼科の抄出を奉じたるに、琉球国中山王尚豊奏して、天に*り例 に循い、順を効して税を輸し、再び議処を賜らんが事の為にするの内 に、広東の事例に体依し、税を輸して白糸を貿買せんと称するの縁滉 は、具奏して聖旨を奉じたるに、礼部議を看て速やかに奏せよ、此を欽 めよとあり。欽遵して抄出し、部に到れば司に送り、案呈して部に到る。  該に本部看得するに、属国は順を効し、期に依って入貢す。朝廷は賞 給の外において、許すに貿易を以てし、もって懐遠を照らかにす。凡そ 一切の違禁にして他慮を滋くする者は、慎みて許すなし等の情、国に到 れば、遵守奉行す等の因あり。此が為に、窃かに念うに、琉球は藩国な れば天子の命に遵わざれば、焉ぞよく中流に砥柱せんや。赤子を恤む の憐を乞いてはじめて海域に安瀾して情を投じて入貢するを得るなり。 藩国の理は当に然れば期に依りて朝覲すべし。邦を嗣ぎては恭順小心に して、乾々として僚若なり。而して違禁の物はなんぞ敢えて意を滋くし て他に求めんや。拳々として服*す。絹帛の物は貢を屡ねるごとに貿易 して黼黻(に用う)。窃かにおもうに、夫れ硝鉄はもと励禁して条あるに 係るも、白糸は誠に乃ち冠裳たれば禁なし。一たび新例もて励禁する を聞けば、理として合に遵守奉行すべし。再び例に循いて税を輸するを 請うは、誠に属国の恭を篤くするに係る。然りと雖も、錙銖の末は聊か 芹を表わし微忱を曝さん。広東・福建は地一帯に連なり、暹羅・交趾は 貿易十万の余に止らず。属国は荒藩にしてただに百分の一の貿易ならん や。然りと雖も、多寡の輸税は理として合に当然にも例に循うべし。懇 に雨露の沐を灑がれんことを祈願す。一体に輸誠し、紫宸の庇を望瞻 す。いずくんぞ敢えてその志を越えるあらんや。惟だ乞い冀うらくは旧 恩を賜らんことを。事は陛宸に属すれば、凡そ賛襄の福に頼る。此が 為、縁滉もて咨を備え、伏して題請を乞う等の因あり。此が為に貴部に 移咨して知会せしむ。煩為わくば査照施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。  右、礼部に咨す 崇禎 年 月 日 [注1拳々…服* 常に心によく覚えて忘れずに守ること。2黼黻 天  子の礼服に斧や己の字の形をぬい取ったもようの名。] [二八五 中山王世子尚賢より礼部あて、襲封を請う咨文]  琉球国中山王世子尚賢、王爵を襲封するを請い、以て愚忠を効し、以 て盛典を昭らかにせんが事のためにす。  崇禎十三年五月初四日、我が先君、世を辞して薨苺せるを痛む。念う に予小子、嫡を嗣ぎ*を承けんとするも、侯服度有れば、敢えて僣称せ ず。基業永く存せんとして因りて題請を為す。我が海国の波区なるを顧 みるに、冊封の重命を*けざれば、撮土安んぞ能く中流に砥柱せんや。 荒服の藩臣、天子の褒綸を奉じて躬を揣らざれば、奚ぞ絶域に安瀾する を得んや。然り而して祖封昭烈なれば、宜しく当に亟かに循うべし。襲 を請うの旧章は較著たれば例として違越する無し。此が為、今特に、正 議大夫蔡錦等を遣わし、齎らし赴きて奏請す。此が為、情として咨を備 え、迢逓馳聞す。伏して乞うらくは、炙しく休光を重ね、曲げて咳唾を 垂れ、転じて具して題請せられよ等の情あり。上は朝廷の寵渥の盛典を 光かし、下は該国恭順の小心を昭らかにす。此が為理として合に貴部に 移咨して知会せしむ。煩為わくば査照施行せられよ。此が為に移咨す。 須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 崇禎十五年三月初七日 [注1尚賢 第二尚氏王統九代目の王。在位一六四一〜四七年。尚豊の  第三子。その治政は明清交代期に当たっており、対中国関係に苦慮  し、冊封を受けぬまま薨じた。2休光 りっぱな手柄。恩恵。 ※尚賢の父尚豊は崇禎十三年(一六四〇)五月四日薨去、在位二十  年、寿五一。崇禎十七年、金応元・吉時臺等が訃告、襲封の使者と  して派遣されたが、偶々明朝滅亡により兵乱が起こり、福建におい  て、使者の一行は非常な苦難をなめた。尚賢の冊封使は結局来島せ  ず、次の尚質の冊封使張学礼も順治十一年(一六五四)に任命され  たが、来島は康煕二年(一六六三)であった。] [二八六 中山王世子尚賢より福建布政使司あて、未だ帰国しない使者の安否を訪ねる旨の咨文]  琉球国中山王世子尚賢、安危を告探し、介慮を釈寛し、貢歳を明らか にし、輸誠を闡らかにせんが事のためにす。  照得したるに、本国往自に崇禎十五年三月、期を奉じて遵依して、虔 みて任土の方物、馬十匹、硫黄二万斤、螺殻三千箇を備え、船二隻を遣 わし、均*解運す。毎船の水手の数は百に盈たず。此が為、情を将て 咨を備え、正議大夫・使者・通事等の官蔡錦等を差わし、表箋を齎捧 し、水手を率領して、二船に分駕し、応に風を占いて解纜するを候つべ し。時に当たりて発*揚帆し、前みて福建等処承宣布政使司に赴きて投 逓す。方物を転解し、員役を起送せしめ、京に赴き、馳せて表箋を捧じ、 闕に叩して山呼せしむ等の因あり。此が為、拠の在駅して当に庶務の職 守に該るの員役は、在留せしむるを除くの外、余は合に時に応じて帰ら しめて復た延緩するを容さずして、始めて該藩敬畏忠誠なるを得べし。 期に爽いて杳音するを致せば、藩情惑慮無きこと難し。就ち権に忖度す るに、胎、闕に叩して事竣る等の員役を伺斉して一併に携え帰らんと欲 すれば、崇禎十三年の進貢に差わしたる正議大夫・使者・通事等の官、鄭 藩献等、事竣りて当に崇禎十五年夏至に廻る。計程するに都通事阮士元 は一隻に坐駕して帰国し、正議大夫鄭藩献は一隻に坐駕するも、未だ帰 国するを得ずして越えて一歳を遅る。人をして昏惑せしむること滋甚 だし。天海常無きを感じ、風涛測るなきを感ず。反りて之を思うに、万 一の琉邦帰順するは天海の霊神の助護すればなり。大都、九重の霊爽を 瞻仰すれば、煩冤は頓に万一をも消さん。続いで昏思するに、岐路には 間々狼子野心にして貪残性を成すの輩有り。陽には商として海に下り、 陰には盗として負隅す。梟懺と勾接し、搆済張獰す。風に随いて出没し、 聴候うけて*掠す。海上に羅織し、進貢人船の往廻を惑慮し、乖遭蹇遇 すれば、奮健の危を逃れ難し。此の一端に拠り憂深く膈に結び、昼は* に安んぜず、宵は枕を帖かにし難し。往廻の安危の介慮を釈かんと欲す れば、急ぎ赴きて端的を告詢するに逾る無し。伏して廻文を奉じ、帰り 報じて、始めて解豁寛慰するを得ん等の因あり。  此が為、咨を備え、差遣の都通事王克善等、水吮を率領し、土造快船 一隻に坐駕して、前みて天朝に赴き、進貢船安危の端的を告訪すれば、 貢歳の重務を申明し、藩臣の微忱を展布するに庶からん等の因あり。  此が為に理として貴司に移咨して知会せしむ。前項の縁滉に遵将し て、咨を備え、原遣等の官都通事王克善等に着令して、馳逓告投せし む。煩為わくば査照施行せよ等の因あり。  此が為に南風の早媼に乗り得て発原し、希わくば、亟かに廻文を下し て帰国急報せしめ、返棹の良期を滞むる勿からしめんことを。此が為に 移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処承宣布政使司に咨す 崇禎十六年三月初一日 [注1負隅 要害の地に頼ること。] [二八七 中山王世子尚賢より福建布政使司あて、糸炒について毎両三分の輸税で互市を許されんことを請う咨文]  琉球国中山王世子尚賢、懇恩もて遠を柔けて仁を施し、弱国を培植し て、以て藩疆を固くせんが事のためにす。  臣が国、土産方物もて、期に依りて貢を奉じ、未だ嘗て少しも違うあ らず。殊に覆育の恩を蒙り、深く教化の沢を荷くす。因りて衣服・器 用は給を天朝より仰ぐ。進貢の規は互市の例有れば祖制に恪遵す。禁は 硝鉄軍需の物に在り。然り而して糸炒は未だ禁有らざるなり。琉球は白 糸を互市せんと祈請し、恭しく納税助餉せんと称す。俯念に蟻誠もて天 朝に芹献するは豈此に在らんや。繊微未だ恩許を蒙らざれば敢えて遵守 せざらんや。曾て奈んせん、小国三十余島、海藩に僻居し、瘠地荒土、 別に産する所無し。男女只だ紡織して生を営むを知るのみ。通国の衣食 は、全て寸糸尺縷も皆、天朝より給せらるるに頼ること、将に三百年に 及ばんとす。太祖高皇帝より以て今日に至るまで、荷くも雨露潤沢にし て、民物均沾し、朝廷の威霊を仰ぎて、君臣固く守りて一方を保庇す。 今白糸を禁ぜられて男女驚惶し、生を度ること能わず、人々困苦哀々し て臣に求む。琉球は則ち天朝の属国にして、人民は即ち朝廷の赤子な り。報いざるを得ず。方に敢えて屡々祈りて已まず。君父の前に瀝情 し、部に勅して再び酌議を賜い、旧例に俯准せられんことを懇恩す。進 貢の年に遇う毎に、互市貿糸し、価は毎両輸税三分、数に照らして報税 せば、朝廷浩蕩の恩波に沐し、臣賢が小国をして、悠久に踴躍するに庶 からん。  此が為に今、特に正議大夫金応元等を遣わし、齎し赴きて奏請せし む。此が為に情として咨を備え、迢逓して馳せて聞す。伏して題請せら れんことを乞う等の情あり。此が為、理として合に貴部・司に移咨して 知会せしむ。煩為わくば査照施行せられよ。此が為に移咨す。須く咨に 至るべき者なり。  右、礼部・福建等処承宣布政使司に咨す 崇禎十七年二月二十八日 [二八八 福建布政使司より(中山王世子尚賢)あて、使者花*を遣わして謚詔三道を伝達する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、開読の事のためにす。  南京礼部の昭会を承准けたるに、祠祭清吏司案呈すらく、本部の欽頒 せる恩宗烈皇帝、孝節□粛淵恭荘毅奉天靖聖烈皇后の謚詔一道、孝寧温 穆荘恵慈懿憲天裕聖□皇太后、恭皇帝、恪貞仁寿皇太后、孝誠□恵慈順 貞穆皇太后、孝哲懿荘温貞仁靖皇后、孝義端仁粛□貞滿皇后の謚号詔赦 一道、興宗孝康皇帝、孝康皇后、恵宗譲皇帝、孝愍温貞哲叡粛烈襄天弼聖 譲皇后、代宗景皇帝、孝淵粛貞恵安和輔天恭聖景皇后の先朝の謚詔一道 を恭順す。例として応に天下に頒行し、合行官を差わして齎捧すべし。 案呈して部に到れば本布政使司に照会して、所属に転行し、一体に欽遵 せしむ等の因あり。此を承け遵行すること案に在り。  軍門都御史□加一級張の批を奉けたるに、該に本司呈詳して官に委し て……琉球に詔□を……とあり。該に本司看得したるに、該国は聖人を ……する有り。裔夷効順するは、□□の盛治なり。琉球は在外の□に属 し、恭順すること已に歴し。仮令大典完整修挙するも、聞知せしめざれ ば、甚だ夷情を聯ぎて、之をして威を畏れ、徳に懐ける所以に非ざるな り。茲者明詔三道を奉接するは、皆本朝の曠典に属す。先後輝映し、遐 迩観瞻し、裔夷伝聞すれば、手を挙げ額に加えざる者有らんや。詔を頒 ちて宣示して以て既往の向化を慰め、将来の恭順と作さんとすれば、則 ち使を遣わすに其の人を須うるを得たり。察得したるに、福州左衛指揮 花*は言貌人より出ずれば任使に堪副い、当に委用すべき所にして、齎 捧して以て皇華を壮にし、体を隆にする者なり、等の縁滉あり。批を奉 けたり。三詔は允に曠典に属すれば、自ら応に属国に齎宣すべし。花* は詳の如く委して頒炸すべし、等の因あり。批を奉けたり。  又、巡按御史陸の批を蒙けたるに、拠の本司の□□司の呈は前滉と同 じ。批を蒙けたり。詔を琉球に□し、花*に准委して……等……貴国… 将に……を捧到せんとす。  ( 後 欠 ) (弘光元年二月カ) [注1祠祭清吏司 礼部の四清吏司の一つ。吉凶の礼及び僧道等を掌っ  た。2謚詔 おくり名を記した詔。3花* 南明の弘光帝(唐王)  下の官。福州左衛指揮として、弘光元年(一六四五)弘光の先祖を  帝に列する旨の謚詔を捧じて来琉した。 ※同文書は、北京の毅宗没後、南京で帝と称した明朝の族氏の弘光帝  が、自らの先祖に帝としての謚号を贈り、その謚号の詔を琉球に対  して伝えたもの。] [二八九 南京礼部より都御史張あて、琉球の要請した納税しての白糸貿易を許す旨の咨文]  南京礼部、懇恩もて遠を柔らげ、仁を施し、弱国を培植し、以て封疆 を固くせんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より(送りたる)礼科の抄出を奉じたる に、琉球国中山王世子臣尚(賢)、謹んで前事を奏するの内に開称すらく、 臣が国、土産方物は期に依りて貢を奉じ未だ嘗て少しも違わず、殊に覆 育の恩もて教化の沢を荷くす。因りて衣服、器用は給を天朝に仰ぐ。進 貢の規に互市の例ありて、祖制に恪遵す。禁は硝鉄軍需の物に在りて、 然して糸炒は未だ禁ずることあらざるなり。琉球は白糸を互市せんと祈 請し、恭しく納税助餉せんことを称す。俯念に、蟻誠もて天朝に芹献す るも豈此の繊微もて未だ恩許を蒙らざれば、敢えて遵守せざることあら んや。但だ、小国三十余島、海藩に僻居し、瘠地荒土にして、別に産す る所無し。男女只紡織して生を営むを知るのみ。通国の衣食は全く寸糸 尺縷も皆、天朝より給せらるるに頼ること、将に三百年に及ばんとす。 太祖高皇帝より以て今日に至るまで、雨露潤沢、民物均沾するを荷くし、 朝廷の威霊を仰いで君臣固く守りて一方を保庇す。今、白糸を禁ずれば、 男女驚惶して生を度ること能わず。人人困苦し哀哀して臣に求む。琉球 国は天朝の属国にして、民人は即ち朝廷の赤子なり。報じて方に敢えて 屡々祈らざるを得ず。已むをえず君父の前に瀝情し、部に勅して再び酌 議を賜い、旧例に俯准せられんことを懇恩す。進貢の年に遇う毎に、互 市貿糸し、価は毎両輸税三分、数に照らして報税せしめれば、朝廷浩蕩 の恩波に沐し、臣尚が小国をして悠久に踴躍するに庶からん等の因あり。  崇禎十七年十二月二十三日、聖旨を奉じたるに、王の奏を覧たり。遠 く方物を貢するは具に忠尽を見す、互市を請うは白糸に納税、助餉する を准行し、硝榲軍鉄を夾帯するを許さず。此を欽めよやとあり。欽遵し て抄出して部に到る。擬して合に就行すべし。此が為に合に貴院に咨 す。煩為わくば明旨の事理に察照して、凡そ白糸等の物を互市するあれ ば、倶に本部に着して、差官して稽察せしめ、数目簿に登せて部に報じ て察*するの外、納むる所の助餉税銀は布政司に転行し、的当の人役を 差して貢逐に本部に起解し、以て題報して施行するに便ならしめよ。須 く咨に至るべき者なり。  右、欽差提督軍務巡撫福建都察院右僉都御史張に咨す   礼部印 弘光元年二月初六日 対同都吏*  懇恩もて遠を柔げる等の事 [注1弘光帝 明末遣王の一人で、明朝の族氏の福王由捧のこと。万暦  帝の第三子常洵の子。崇禎十七年(順治元年=一六四四)、毅宗の  自害後、監国を称し、清軍の北京入城後、南京にあって帝位に即き  弘光帝と称した。翌年を弘光元年(清・順治二年)として清朝に抵  抗したが、五月に南京が落ち、捕えられて北京へ護送される途次、  殺された。] [二九〇 南京礼部より福建布政使司あて、白糸貿易につき牙行の任命および取締りに関する照会]  南京礼部、仰いで祖制の体例に遵い、牙を定めて以て部に遵い、統べ て以て奸殃を杜ぎ、以て柔遠を全くせんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れるものを奉じたるに、琉球国夷 使正議大夫金応元等、前事を呈称するに拠るに、切に元等、本国恭順し て来朝し、進貢して封を請い、互市を開くを請うとあり。旨を奉じたる に、互市を開き白糸は納税助餉するを准すとあり、欽遵して案に在り。  其の白糸を互市するに、但だ官牙に非ざれば以て市価を平すること無 く、兼ねて熟識の通訳にして語を諳んずるに非ざれば、以て交易し難 し。元等の稔知せる本地の識牙の梁迹、鄭玄等十人は、身家に過り無 く、音語知る所なり。已経に布政司審取して信牌を給涸し、使に随いて 京に到れば、例として応に部涸を迹等の存執に換え、奸棍歹を生じ、* 縁挿入して禍が遠夷に及ぶを致すこと毋らしめんことを請うべし、等の 情、部に到る。  此に拠り、涸を給して梁迹、鄭玄、曾豊、何益達、鄭碧、王恂、張 拱、憑陞、鄭斉、梁英十人に付して遵執せしむるを除くの外、此が為に 合に該布政司に行して来文の事理に察照して凡そ互市交易等の物有れ ば、随ちに本部に報じ、官を差わして簿に登せ、約束して恣肆を得る毋 らしむるに聴在す。貢に随いて到るの日、別に行して倒換施行せよ。須 く照会に至るべき者なり。  右、福建等処承宣布政使司に照会す。此を准けよ。   礼部印 弘光元年三月初七日  印 祖制に遵う等の事  照会 花押 [注1歹 悪、悪いこと。2*縁挿入 有力者によりすがって出世を求  める。からみつく。3倒換 とりかえる、かわるがわるの意。] [二九一 中山王世子尚賢より中国あて、先帝毅宗への進香使の派遣についての符文]  琉球国中山王世子尚(賢)、進香の事のためにす。案照したるに、大行 先帝賓天す。該国王臣合に進香を行うべし。今特に使者都通事等の官、 毛大用、阮士元等を遣わし、船隻に坐駕し、香品一*重さ三十五簧を管 運せしめ、京に赴きて進奉す。なお慶賀の方物、紅花一百簧、胡椒二百 簧、蘇木一千簧を分載し、福建に前み往きて交し、同に進上す。差去せ る員役は別に文憑無し。誠に所在の官司の盤阻して便ならざるを恐る。 今、仁字第六十号半印勘合符文を給し、本員役に付して、収執して前去 せしむ。沿途、如し経過の関津の去処を把隘するに遇わば験実して即便 に放行し、留難遅留して便ならざるを得ること毋らしめよ。須く符文に 至るべき者なり。   計開す。京に赴く  使者一員は 毛大用 人伴(欠)  都通事一員は 阮士元 人伴(欠)   在留在船使者一員は 馬知記 人伴(欠)   在留在船通事一員は 林士奇 人伴(欠)   管船火長・直庫二名は(欠) 那高達  右符文は使者毛大用、都通事阮士元等に付す。此を准せよ。 弘光元年四月十五日給す  符文 [注1大行先帝 崩御して、未だ謚号のない皇帝。ここでは明朝の最後  の皇帝毅(懐)宗(崇禎帝)のこと。2毛大用 首里毛氏の七世  (富川家)。屋富祖親雲上盛代。後に小禄親方。一六一三〜七三年。  王府の要職を歴任。官は三司官座敷に陞った。3阮士元 久米村阮  氏の二世。一六一〇〜五一年。官は都通事。4林士奇 久米村林氏  (上原家?)の出か。多田良親雲上。生没年未詳。] [二九二 中山王世子尚賢より福建布政使司あて、護送使者鄭子廉等の通行を阻害しないでほしい旨の執照文]  琉球国中山王世子尚(賢)、開読の事のためにす。照得したるに、福建等 処承宣布政使司の咨を蒙けたるに、福州左衛指揮花(*)を差わし、詔書 を齎捧して按臨開読せしむ。事竣り廻還のとき、理として合に官を差わ し護送せよ等の因あり、此が為、今特に都通事鄭子廉を遣わし、慣海の 水吮五名を帯領し、詔を奉ずるの原船を向導し*同て駕に任り、護送し て回諞せしむ等因。差わし去く員役、別に文憑無ければ、誠に所在の官 司盤阻して便ならざるを恐れ、合行に照を給す。此が為に、今、仁字第 五十七号半印勘合執照を給し、本員役に付し、収執して前み去かしむ。 如し関津巡襍の去処に遇えば、実を験して即便に放行し、留難遅留して 便ならざるを得しむこと毋れ。須く執照に至るべき者なり。   計開す  都通事一員は鄭子廉 人伴(欠)    火長一名は李茂 吮水共四名  右執照は護送都通事鄭子廉等に付し、此を准けしむ。 弘光元年四月十五日給す(再対して之を正す)  執照 [二九三 行在の礼部より琉球国あて、詔書齎捧の閔邦基を福州に滞在中の鄭子廉に護送せしめる旨の咨文]  行在の礼部は、微臣の感激鈴々深し等の事のためにす。礼科の抄出 に、該の前の署部事太嘗寺卿林の題せる前事ありて、聖旨を奉われる に「四夷は皆我が赤子なり。朕切に懐け柔げん。故に惓々として此に使 するなり。閔邦基は、果たして能く国体を達して夷邦を擾さざれば、即 ちに遣行を准し、宴礼・綏緞厚きを加え優きに従い、深く朕が恤遠の意 を得しめよ。衙門知道せよ。此を欽めよ」とあり。  又詔を琉球に頒つこと、未だ事宜を尽くさざれば、伏して聖裁を促 し、以て遣発に便ならしむるを補陳せんが事の為にす。礼科の抄出を准 けたるに、該に本部の題せる前事あり。主客司案呈すらく、本部より送 りたる礼科の抄出を奉けたるに、本部の署部事都察院左都御史加一級何 の題せる前事ありて、聖旨を奉われるに「使を遣わし、琉球国王に勅 諭・詔書・綏緞を頒賜し、并びに該の国の使を奉ずる員役の宴礼は、堆 て議の如く行い、三詔は初九日御門に于て頒給せしめよ。衙門知道せ よ。此を欽めよ」とあり。欽遵して抄出して部に到り、司に送る。随で光 禄寺に移行して宴を弁ぜしめ、綏緞は琉球使臣金応元等に賞給して収領 せしめ、鴻臚寺の頒発せる詔書は、閔邦基に与え、領齎せしむる外、本 月十二日、又本部より送りたるものを奉けたるに、琉球国正議大夫金応 元、使者吉時臺の具呈に拠るに、懇ろに夷情を体し、再び回奏を賜らん が事の為にすとあり。内に称すらく、元より卑国は外(洋)に僻処する も、高皇帝中原を平定せしとき、卑国榲を進めて恭順なるを嘉され、世 子と陪臣の子第、皆太学に入るを得て、優渥なること嘗に異なる。所以 に今上も卑国大いに他の国と異なるの旨有り。恩を覆載に蒙る。卑国も 亦生成を慶ぶ。但だ詔を頒ち官を差わすのことは、議を蒙りたるに、夷 使をして護送指引せしめよとあれば、敢えて遵依わざらんや。(金応) 元、進退両ながら難きに縁り、説わざるを得ず。指揮閔邦基は、前曾に 詔を頒たんとして卑国に到りしとき、其の人役水吮甚だ海国諸島を熟 り、指送を待たず、且つ向例の進貢には、一官往けば、方に一官帰り、 前後交接するは、卑国の定規なり。今祖制に於いて懇ろに通融せんこと を思い、命を奉じて前の詔官花*の諞に回るを護送したるの夷官都通事 鄭子廉併びに慣海の水吮五人に犲委して、閔邦基に伴侍して以て往かし め、皇華を敬粛し聖恩を上達して以て徳意に遵い、併びに回奉施行せら れんことを乞う。須く咨文を給し、鄭子廉に与えて回国せしむれば、元 等感激の至に勝えず等の因あり。批を奉じたるに、主客司議に依って具 稿題請せよとあり。此を奉け、案呈して部に到る。該本部看得するに、 琉球は朝貢の属夷に係る。既に旨を奉じたるに新詔を頒賜せよとあり。 又為に優く宴賞を具うるは、将に海隅日出ずるの邦をして咸な中国に聖 人有るを知らしめ、我が好音に懐けんとするなり。乃ち夷使金応元等に 拠るに、指揮閔邦基の此の行駕軽なるを以て、就ち胸中固より自ら南針 有り。且つ彼の国の貢規官は、此彼帰ること前後交接し、未だ敢えて 遽に旧例を変えざるを以て、*懇して前に詔使の諞に回るを送るの通事 鄭子廉輩に委ねて以て邦基に伴侍せしめ、早やかに彼の及ばざるの懐を 遂げしめんとす。用て我が中興の盛に在れば、理として従うべきに似た り。伏して裁奪を候つ等因と。聖旨を奉わるに「閔邦基は鄭子廉等の伴 送して去くを准せ。此を欽めよ」とあり。欽遵抄出して部に到る。擬し て合に就行すべし。此に合に貴国に咨す。煩為わくば、明旨の事理に遵 照して、即ちに委官閔邦基が齎到れる詔諭三道を将て、一体に開読 し、欽遵して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 隆武元年八月二十三日 (再対して之を正す)  微臣の感激鈴々深き等の事 [注1太(大)嘗寺 太常寺(少卿)の項(一八九項)参照。泰昌〜弘光  代、常の字は嘗で代用されている。泰昌帝(常洛)や弟の常洵(弘光  帝の父)らの諱に常が用いられているため忌避したものであろう。  2吉時臺 未詳。3敬粛 おがむこと、礼拝。4具稿題請 主客司  で案をつくって題請すること。5好音 ここでは好意のことか。6  此の行駕軽なる… 駕軽就熟、なれた道を行く、航海に習熟してい  るといった意であろう。7南針 指導、指南車のこと。8隆武帝   明末遺王の一人で、明朝の族氏(太祖の八世孫)の唐王聿鍵。毅宗  の自害後、監国を称し、ついで弘光帝没後の順治二年六月、福州に  拠って隆武帝を称し、同年を隆武元年として清朝に反抗したが、翌  順治三年八月福州が落ち、汀州で殺された。] [二九四 行在の通政使司より中山王世子尚賢あて、白糸の互市納税を許可する旨、通知した咨文]   今隆武皇帝の聖旨を抄するに、互市輸税を恩准し、并びに題請あり   たる官牙のことは、部に勅し、司に行せよとあり。後に遵照す。  行在の通政使司の左通政、布政司事を帯管ねたるの周は、謹んで互市 輸税の縁滉を陳べ、仰いで聖明の鑑納を叩い、以て遵行に便せんが事の ためにす。  礼部の照会を承准りたるに、八月初一日礼科の抄出を准けたるに、琉 球国陪臣正議大夫臣金応元の奏に、前事の為にすとあり。臣島中に僻処 するも、高皇帝中原を平定し、華夷を一統せし自り、臣が国かつて* を貢し、忠を竭すを以て臣が恭順なるを允せらる。所以に文治衣冠し て、車書普及するに与るを得たり。因りて世子陪臣の子弟は皆辟雍に与 て絃誦し、三百年来聖朝の柔遠に沐浴す。  臣旧年の体例に于て、聖安なる皇帝の詔書を請齎し、犲臣蔡錦、捧回 開読せんとするに、忽り通事に参及せらる。臣驚惶地無く、即ちに具疏 し、七月初十日通政司に赴き投封するも、未だ旨の下るを蒙らず。臣が 心更に戦慄を加うるも、何ぞ敢えて別に宸聡を涜さんや。但だ事は互市 請税佐餉に関る。皇上の為に之を陳べざるを得ず。  臣崇禎十七年冬、方物を進貢して京に赴く。臣、世子尚の章疏を齎 すに、内に云う、臣が国は三十余島、地は瘠せ、土荒れ、別に出産無 し。向より中華の糸縷に頼り、以て男女の紡織を資け、以て衣食に易 え、相沿ぎて互市す。擬らずも崇禎十年衙棍、苛だ費用を求むるも、欲 する所を遂げず。妄に撫臣沈猶竜に呈して議して禁ぜしむ。臣が国男女 一時に望絶たれ、束手して困苦し、世子に奏請せられんことを哀求す と。崇禎十七年十二月二十三日旨を奉われるに、王の奏を覧たり。遠 く方物を貢し、具に忠尽を見わす。請う所の互市は、白糸納税助餉を准 行し、硝*軍鉄を夾帯するを許さず、此を欽めよとあり。欽遵い、随 で礼部より即ちに咨文を給するを蒙る。一は臣に与えて該国に領回せし め、一は臣に与えて福建撫臣張肯堂に領投せしむ。  又臣が貿易は旧制、牙人を設立するに因り、臣が廉知せる良民梁迹・ 鄭玄等十名の如きは、人と為り誠恪、身家も犯す無し。兼て臣が音語を 諳んず。曾経て布政司、臣に代わりて選取す。臣更換あるを恐れ、亦礼 部に投じて咨を行す。梁迹・鄭玄等十名に限定せしむるの外は、奸棍の 鑽刺するを許す無く、別に咨文照会を給して布政司に移行されたしと。 なお題す、今鴻臚寺少卿に陞る臣楊廷瑞を差官して伴送せしめ、交易の 税を核べて簿に登し回奏せしむと。臣帰途に於いて危を覆み険を渉ると き、風鶴すれば兵と皆に官を差わし多方に看顧せしむ。臣が身今日有る を得て一たび諞中に到り景星慶雲を見るは、正に昌期の御*に応あれば なり。臣夷属と偕に聖明なる天子に朝賀し、慶び簪紳に溢る。随で咨文 照会を将て布政司に投ぜんと欲するも、時に司篆方に去留を議して未だ 臣に代わりて収めず。臣思うに、公文は敢えて*ままに頓めず。改めて 礼部に投じて察収せしめん。今見に左通政にして布政司事を仍管るの臣 周汝撈、事を管すれば、則ち臣が原礼部に投ぜし二角の咨文照会は、部 司着落有る無し。此の冬貢船必ず至らん。御駕親征に値わば、行在の部 司必ず前旨に遵わん。微臣の納むる所は毎両三分の税額なり。楊廷瑞は 必ずや官牙梁迹・鄭玄等をして、臣が為に平価互市せしめん。若し部咨 未だ発せざれば、惟に楊廷瑞が登報に便ならざるのみならず、且つ臣が 交易に便ならず。臣の苦衷又期に先んずるの奏を為さざるを得ず。伏し て皇上の察せられんことを祈る。臣曾て前旨を奉じたるに、勅もて礼部 に下して察せしむとあり。臣が原投ぜし税を議するの咨文と官牙の照会 公文二角は、即ちに発して着落せしめ、布政司遵守施行せば、臣冬船の 到るを待ちて、互市納税し、少しく忠悃を竭くして以て皇上の厚恩に答 うるに庶く、臣の感激更に深からんと。聖旨を奉われるに、是なり。 該部知道せよ。此を欽めよとあり。  欽遵し抄出して部に到る。擬して合に就行すべし。此が為に本司に照 会す。明旨内の事理に遵照して即ちに琉球に発来せる互市輸税併びに官 牙の公文二角を将て察収し、巻に附したる外、冬貢船の到るの日を候ち て遵行せられよと。今前の因を承け、擬して就行すべし。此が為に滉 を備えて貴国に移咨す。請うらくは、依りて明旨内の事理に遵照せられ よ。煩為わくは遵守するを知りて施行せられよ。須く咨に至るべき者な り。  右、琉球国中山王世子尚に咨す 隆武元年八月二十九日 咨す  謹んで互市を陳ぶる等の事 [注1帯管 兼任。仍管も同。2文治衣冠 文治は武力によらず専ら文  教をもって政治を行うこと。衣冠は衣服、冠の礼儀が整うこと。  3車書普及 車書は車の幅と文字。それらを一体として普くするこ  と、中国の文明を導入すること。4辟雍 学校のこと。5鑽刺 う  がちさす。鑽営、鑽入などと同義で、とり入る、くぐり入るの意  か。6風鶴 風声・鶴曇のことで、うわさにおじける。おじけづい  て少しのことにも驚くこと。7司篆 うけつけ。] [二九五 福京の礼部より琉球国長史司あて、毛大用等の進むる所の竜香を察収した旨通知する照会の咨文]  福京の礼部は、恭しく竜香を進むる事のためにす。祠祭清吏司案呈す らく、主客清吏司の手本を准けたるに、恭しく琉球夷船等を報ぜんが事 の為にす。聖旨を奉われるに、進香船到着せば、即ちに内港に吊入し、 香は祠祭司に□して察収せしめ、貨は旧例に照らして餉を納めしめ、一 切の事宜は堆て往例に照らして奏明遵行し、紊乱して柔遠の至意に負く こと有るを得しめざれ。此を欽めよとあり。欽遵して察し得たるに、主 客司の職掌は、止だ応に貢品方物を盤験すると夷使を安挿するとにある べし。其の進到せる竜香は、応に祠祭司の収掌して遵行移用するに係る べし。手本司に到る。此を准けたれば、該本司察し得たるに、琉球は島 夷にして我が天朝の属国為り。其の誠を輸し化に向うこと已に一日の非 ざるなり。茲に烈孟の賓天するに遇い、使者毛大用等を差遣し、例に遵 い遠く竜香を進む。彼の恭順なること素有りと雖も、而も聖明柔遠の弘 恩もてまた已に礼を優くして宴待す。今毛大用等の呈称に拠れば、媼候 に帰国せんとす。相応に回文を給与して其の開駕に便ならしむべし等因 と。案呈して部に到る。合行に照を給すべし。此が為、進むる所の竜香 を将て暫く庫に収貯し、別に具題して奏するを除くの外、本司に照会 し、即便に遵照して施行せしむ。須く照会に至るべき者なり。  右、琉球国長史司に照会す 隆武二年六月初六日  恭しく竜香を進むるの事 [注1福京 隆武帝は福州に拠って帝と称したが、その際福建を福京、  福州を天興府と改称している。2竜香 竜涎香のこと。沖縄側史料  では竜糞または鯨糞と記される。抹香クジラの腸内にできる腫瘍を  原料とする香料。] [二九六 行在の礼部より中山王世子尚賢あて、硫黄等の補貢を許し、貢使を回国せしめる旨の咨文]  行在の礼部尚書呉は、旨に遵い廻文せんが事のためにす。本月初五 日、礼科の抄出を准けたるに、該本部前事を具題するあり。旨を奉わ れるに、琉球国官を差し、貢を修め、事竣れり。該部即ちに回文を発し、 其をして帰国せしめよ。該部知道せよ。此を敬めよとあり。敬遵して内 に照するに、本年四月初六日、琉球国は、蔡祚隆を差官し、咨文一角を 齎し、福建布政司に移す。内に称う、隆武二年進貢の駕船一隻、久しく 未だ回国せざる有り。復又硫黄等の物もて、前来補貢するあり等因と。 本部、布政司の偶々印を欠くを以て官をして即ちに来船を護送して太師 建国公鄭が営中に至らしめて盤験し、随で啓奏して貢し来たれる方物を 将て上用に進供し、部に発りて察収し、別に行して勅を頒せしめる外、 本部合応に移咨して照と為すべし。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王世子に咨す 監国魯四年五月初七日  咨す [注1蔡祚隆 久米村蔡氏(平川家)の出。平川親雲上。生没年未詳。  崇禎〜康惡の初めにかけて都通事・正議大夫として度々渡唐。中に  明清交代期の監国魯四年(順治六=一六四九)には、隆武二年(一  六四六)の慶賀使金正春の消息探問のために渡唐、同年帰国後、中  国変乱報告のため、鹿児島、ついで江戸に赴いた。また順治十年  (一六五三)、清世祖登極の慶賀及び尚賢の襲封、故明朝の勅印返  還のため、謝必振を護送して渡唐、冊封使張学礼を案内して帰国せ  んとしたが、陸・海上ともに不穏のため容易に帰国できず、十年後  の康惡二年に至ってようやく帰国した。2太師建国公鄭 永勝伯鄭  彩。魯王を奉じて清軍に抵抗した。3啓奏 上奏文の一体、陛下に  申し上げること。4監国魯 明朝滅亡後、相継いでたった明朝の遣  王の一人。南京の弘光帝滅亡の翌年(一六四六)、紹興に拠ってた  ち、監国を称した洪武帝の十世孫魯王以海のこと。四六年清軍に攻  められて福建に逃れ、その後浙江・福建の沿海を転々としながら清  に抵抗した。この間日本への援助要請も行っている。五三年に監国  の称を去り、澎湖・金門を転々とした後、六二年台湾で没した。 ※本項は、魯監国(下の礼部)から琉球国に齎された文書としては、  現存『宝案』中唯一のものである。そこに見る魯監国四年は順治六  年(一六四九)に当たっており、隆武文稿(巻三七)の六番文書、  隆武二年(一六四六)の文書の間に収められているのは不都合であ  る。内容的にも三〇二項に掲げた隆武文稿の最終項(一七項、隆武  五年二月=一六四九)に対する返書であり、その後に置くべきもの  である。多分に『宝案』編集の際、魯監国の記年を諒解しえなかっ  たための配列ミスであろう。   ところで、三〇二項の文書は、琉球国から隆武帝下の福建布政使  司に宛てたもので、隆武二年の慶賀使金正春の消息探問等のため、  蔡祚隆を派遣する旨を通知したものである。蔡祚隆らは、当時すで  に福州等を制圧していた清朝ではなく、清軍に対峙して、福建・浙  江の沿海地方に展開していた魯監国及び鄭成功ら海上勢力の下に到  ったのであろう。その結果が、本項の魯監国下の礼部からの文書に  なったものと推測される。なお、当時の琉球では、明朝、ついで弘  光が倒れ、隆武帝がたった、までの情報しかなく、魯監国の存在は  もとより、福州が清軍に制圧され、金正春らが清に投誠して北京に  赴いていることなど、知る由もなかった。] [二九七 中山王世子尚賢より隆武帝あて、登極を賀し、朝廷の恩を謝す奏文]  琉球国中山王世子臣尚賢、一本謹んで奏し、謝恩せんが事のために す。礼部の咨を承遵たるに称う、聖旨を奉われるに、四夷は皆我が赤 子なり。朕、切に懐け柔らぐ。使を遣わし、琉球国王に勅諭詔書三道を 頒賜せよとあり、隆武二年正月二十一日国に到る。天威は顔を違れざる こと咫尺なるを敬み畏れ、理として合に良を涓び吉を択び、謹んで就ち に二月初五日、天使の王城に按臨するを奉迎して開読す。此を欽み欽遵 す。虔んで方物を備え、王舅長史通事等の官毛泰昌等を遣わし、京に赴 き皇上の登極を慶賀せしめんとす。なお綵緞紗羅共に二十四疋を欽賜せ らるるを荷れば、紫宸を迎いで嵩呼し拝して跪きて領す。太祖高皇帝よ り以て今日に至るまで、雨露潤沢なるは朝廷浩蕩の恩波なり。世子臣尚 賢、悠久に踴躍す。此が為、謹んで具奏し、謝して以て聞す。  為の字より起こして矣の字に至りて止む。一百六十四字、紙一張。 隆武二年三月初九日  琉球国中山王世子臣尚賢、謹んで上奏す [注1毛泰昌 首里毛氏豊見城家の七世。毛泰久・豊見城親方盛常のこ  と。一六一七〜四八年。一六四六年、隆武帝の登極を賀するため、  慶賀王舅として渡唐。隆武が滅ぼされるに及んで、清軍に投誠し、  貝勒将軍に伴われて北京に赴き、清世祖に謁見した。招撫通事謝必  振とともに帰国の途次、延平府(現・福建省南平市)で没した。] [二九八 中山王世子尚賢より礼部あて、使者閔邦基が頒賜の詔書を王城に於いて開読しおわりたるにつき、都通事鄭子廉をして護送せしむ旨の咨文]  琉球国中山王世子尚賢、開読の事のためにす。承遵したるに、行在の 礼部、微臣の感激鈴々深し等の事の為にす。礼科の抄出に、該に前に部 事を署するの太嘗寺卿林、前事を題するあり。聖旨を奉われるに、四 夷は皆我が赤子なり。朕、切に懐け柔げん。故に惓惓として此に使する なり。閔邦基は、果たして能く国体を達して夷邦を擾さざれば、即ちに 遣わし行くを准す。宴礼綵緞は厚きを加え、優きに従い、深く朕が恤遠 の意を得しめよ。衙門知道せよ。此を欽めよとあり。  又詔を琉球に頒つに、未だ事宜を尽くさざるを補い、伏して聖裁を候 ちて以て遣発に便ならしめんが事の為にす。礼科の抄出を准けたるに、 該に本部の題せる前事あり。主客司案呈すらく、本部より送れる礼科の 抄出を奉じたるに、本部の事を署するの都察院左都御史加一級何の題せ る前事あり。聖旨を奉われるに、使を遣わし、琉球国王に勅諭・詔書・ 綵緞を頒賜し、并びに該の国の使を奉ずるの員役の宴礼は、堆て議の如 く行い、三詔は、初九日御門に于て頒給せしめよ。衙門知道せよ。此を 欽めよとあり。欽遵して抄出し部に到り司に送る。随で光禄寺に移行し て宴を弁ぜしめ、綵緞は琉球使臣金応元等に賞給して収領せしめ、鴻臚 寺の頒発せる詔書は、閔邦基が領齎到たる詔諭三道と一体に開読し、欽 遵して施行せられよ等情とあり。  此を准けたれば、欽遵奉行して詔書三道を迎接せり。天威は顔を違れ ざること咫尺なるを敬み畏れ、理として合に良を涓び吉を択び、粛心拱 候して開読すべし等因。此が為、謹んで、就ちに二月初五日天使の王城 に按臨するを奉迎して、開読す。此を欽み欽遵す。詔書は奉留れて藩疆 に重鎮たらしめ、永く国宝と為す。事竣り朝に廻るのとき、理として合 に都通事鄭子廉を遣官し、海に慣るるの水吮五名を帯領し、坐駕護送せ しむ。此が為理として合に貴部に移咨して知会すべし。煩為わくば察照 して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 隆武二年二月 日 [注1粛心拱候 つつしんで恭しくまつこと。] [二九九 中山王世子尚賢より礼部あて、隆武帝の登極を慶賀するため、使節を派遣する旨の咨文]  琉球国中山王世子尚賢、慶賀の事のためにす。承遵したるに、行在の 礼部は、微臣の感激鈴々深し等の事のためにす。礼科抄出すらく、該に 前に部事を署するの太嘗寺卿林、前事を題するあり。聖旨を奉じたる に、四夷は皆我が赤子なり。朕、切に懐け柔げん。故に惓々として此に 使するなり。閔邦基は果たして能く国体を達して夷邦を擾さざれば、即 ちに遣わし行くを准す等因とあり。天使閔、詔書三道を齎奉し、隆武二 年正月二十一日、国に到る。天威は顔を違れざること咫尺なるを敬み 畏れ、理として合に良を涓び吉を択び、粛心拱候して開読す等因。此が 為、謹んで就ちに二月初五日、天使の王城に按臨するを奉迎して、開読 す。此を欽み、欽遵す。  例として該に方物を虔み(備え)、特に王舅・長史・使者・都通事・通 事等の官毛泰昌・金思徳等を遣わし、海船一隻に坐駕して、金罐一対共 に重さ六十六両六銭八分正、銀、罐一対共に重さ五十両六銭正、細嫩土蕉 布一百疋、漂白細嫩土苧布百疋、細嫩黄色蕉布一百疋、細嫩赤色蕉布一百 疋、泥金彩画囲募一対、満面泥金扇五十把、満面泥銀扇五十把、紅花一百 斤、胡椒二百斤、蘇木一千斤を装載し、進奉して皇上の登極を慶賀す。 仍、金粉匣一対共に重さ七両四銭六分、銀粉匣一対共に重さ七両二銭一 分、満面泥金扇二十把、満面泥銀扇二十把、細嫩土蕉布二十疋、細嫩土 苧布二十疋は、中宮殿下に進奉す。遣わし来く王舅・長史・都通事等の 官毛泰昌・金思徳等、例に照らして京に赴き表を進め併びに方物は一起 に京に解る。此が為、理として合に貴司に移咨して知会すべし。煩乞わ くば察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、礼部に咨す 隆武二年三月 日 [注1金思徳 久米村金氏(渡具知家)の八世。金正春、城間親方のこ  と。一六一八〜七四年。順治十一年(一六五四)総理唐栄司となり、  以後没するまで二十年間勤め、近世久米村の基礎を固めた。通事、  長史、紫金大夫として度々渡唐しているが、順治二年、長史の時、  隆武帝の登極慶賀の副使として渡唐、正使の毛泰昌(毛泰久)らとと  もに明清交代の渦中に翻弄され、また康惡二年(一六六三)の聖祖康  惡帝の登極慶賀の際には副使の紫金大夫として渡唐して、北谷・恵  祖事件に遭遇している。なお、同人は崇禎・順治の間には金思徳ま  た金思義、後には金正春と諱を替えている。これが明清交代を意識  してのものか否かは詳らかでない。] [三〇〇 中山王世子尚賢より行在の礼部あて、先の白糸貿易の許可にもとづき規定通り貿易する旨の咨文]  琉球国中山王世子尚賢、皇上の覆育を蒙り、恩許もて互市するを准行 せられ、白糸は税を納め餉を助けて民物を潤沢にせんが事のためにす。  行在の通政司左通政にして布政司事を帯管するの周、謹んで互市輸税 の縁滉を陳べ、仰ぎて聖明もて鑑納せらるるを叩い、以て遵行に便なら しめんが事の為にするを承准けたるに、礼部の照会を承准け、八月初一 日礼科の抄出を准けたるに、琉球国陪臣正議大夫金応元の奏に前事の為 にすとあり。臣、島中に僻処するも、高皇帝中原を平定し、華夷を一統 してより、臣が国曾て榲を貢し、忠を竭すを以て、臣が恭順を允せら る。所以に文治衣冠して車書普及するに与るを得たり。因りて世子・陪 臣の子弟は皆辟雍に与て絃誦し、三百年来聖朝の柔遠に沐浴す。  崇禎十七年冬、進貢の方物もて京に赴き臣、世子尚賢の章疏を齎す。 内に云えらく、臣が国三十余島は地瘠せ土荒れ、別に出産無し。向きに 中華の糸縷を頼り、以て男女の紡織を資け、以て衣食に易え、相い沿ぎ て互市す。擬らざりき、崇禎十年衙棍苛だ費用を求め欲する所を遂げ ず。妄に撫臣沈猶竜に呈して議して禁ぜしむ。臣が国の男女一時に望絶 たれ束手困苦して、世子の奏請せられんことを哀求す。崇禎十七年十二 月二十三日、旨を奉じたるに、王の奏を覧たり。遠きより方物を貢する は具に忠尽を見わす。請う所の互市は白糸もて税を納め餉を助くるを准 行し、硝榲・軍鉄を夾帯するを許さず。此を欽めよやとあり。欽遵す。 随で礼部より即ちに咨文を給し、一は臣に与えて該国に領回せしめ、一 は臣に与えて福建撫臣張に領投せしむ。  又臣が貿易は旧制、牙人を設立するに因って、臣が廉知せる良民の梁 迹、鄭玄等の人の如きは、人となり誠恪にして身家犯す無し。況兼ねて 臣が音語を諳んず。曾経て布政司、臣に代わりて選取す。臣更換を恐 れ、亦礼部に投じ咨を行りて梁迹・鄭玄等十名に限定せしむるの外、奸 棍の鑽刺を許すなく、別に咨文・照会を給して布政司に移行す。なお題 す。今、鴻*寺少卿に陞るの臣楊廷瑞を差官して伴送せしめ、交易の税 を核べ、簿に登せ回奏せしむと。臣帰途に危を謝み、険を渉るのとき、 風鶴すれば兵と皆に官を差して多方に看顧せしむ。臣が身、今日を得る は一たび諞中に到りて景星・慶雲の正に昌期の御*に応あるを見たり。 臣夷属と偕に聖明なる天子に朝賀し、慶び簪紳に溢る。随で咨文・照 会を将て、布政司に投ぜんと欲するも、時に司篆方に去留を議して未だ 臣に代わりて収めず。臣思うに公文は敢えて擅ままに頓めず。礼部に投 じて察収せしめんと。今見に左通政にして布政司の周、事を管すれば則 ち臣が原礼部に投じたる二角の咨文・照会は、部司着落有る無し。此の 冬、貢瓠必ず至らん。御駕親征に値わば、行在の部司必ず前旨に遵わ ん。微臣の納むる所は、毎両三分の税額なり。楊廷瑞は、必ず官牙の鄭 玄等に着して臣が為に平価互市せしめん。若し咨未だ発せざれば、惟に 楊廷瑞の登報に便ならざるのみならず、且臣が交易に便ならず。臣の苦 衷又期に先んずるの奏を為さざるを得ず。伏して祈るらくは、皇上、臣 が曾て奉じたるの前旨を察せられ、勅もて礼部に下して、臣が原投じた る税を議したる咨文と官牙の照会公文の二角を察せしめ、即ちに発りて 着落せしめ、布政司衙門をして遵守施行せしめらるれば、臣冬瓠の到る を待ちて互市(納)税し、少しく忠悃を竭くして以て皇上の厚恩に答う るに庶からん。臣の感激更に深からん。聖旨を奉じたるに該部知道せ よ。此を欽めよやとあり。欽遵して抄出し部に到る。擬して合に就行す べし。  此が為、本司に照会し、明旨内の事理に遵照して、即ちに琉球に発来 せる互市輸税并びに官牙の公文二角を将て、察収して彼の国に回咨して 遵守せしめよ、等の因あり。此に前因を承け、擬して合に就行すべし。 此が為、滉を備えて移咨して国に到れば、請うらくは依りて明旨内の事 理に遵照して、此を欽み欽遵せられよ。聖天子の覆育を蒙り、深く進貢 の規に互市の例有るを恩許せらるるを荷くし、進貢の年に遇うごとに、 糸価を貿し、毎両三分もて数に照らして報税せしむれば、朝廷浩蕩の恩 波に沐し、臣賢等が小国の人民男女をして踴躍の至なるに庶からん。此 が為、通国の人民銀 両・馬尾 簧を忻備して、前来して糸を貿す。例 として官牙の数に照らして報税するあり。此が為、理として合に貴部に 移咨して知会せしむ。煩為わくば察照施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。  右、礼部に咨す 隆武二年 月 日 [三〇一 中山王世子尚質より中国あて、隆武帝登極の慶賀使節派遣についての符文]  琉球国中山王世子尚(質)、登極を慶賀せんが事のためにす。今、特に 王舅・長史・使者・都通事等の官毛泰久・金思義等を遣わし、咨を齎し表 を捧じて船隻に坐駕し、任土の方物の金罐一対共に重さ六十六両六銭八 分、銀罐一対共に重さ五十両六銭、細嫩土蕉布一百疋、漂白細嫩土苧布 一百疋、細嫩黄色蕉布一百疋、細嫩赤色蕉布一百疋、泥金彩画帷募一 対、満面泥金扇五十把、満面泥銀扇五十把を装載し、仁字号六十号船に は紅花一百簧、胡椒二百簧、蘇木一千簧を分載して、前みて福建に往 き、交同して一起に皇帝陛下に進奉す。  復、金粉匣一対共に重さ七両四銭六分、銀粉匣一対共に重さ七両二銭 一分、満面泥金扇二十把、満面泥銀扇二十把、細嫩土蕉布二十疋、漂白 細嫩土苧布二十疋有りて、中宮殿下に進奉す。  差去せる員役は、別に文憑なし。誠に所在の官司の盤阻して便ならざ るを恐る。仁字第五十九号半印勘合符文を給し、都通事王明佐等収執し て前去せしむ。如し経過の関津去処を把隘し、及び沿途の官軍の験実に 遇わば、即便に放行して留難して遅留不便を得ること毋らしめよ。須く 符文に至るべき者なり。  計開す。京に赴く   王舅一員は 毛泰久 人伴は十三名    長史一員は 金思義 人伴は八名    都通事一員は 王明佐 人伴は五名    存留在船使者二員は 楊富春、蔡疝 人伴は四名    存留在船通事一員は 田時盛 人伴は二名    管船火長・直庫二員は (欠) 隆武二年三月 日 [注1毛泰久 毛泰昌と同。二九七項の注参照。2金思義 金正春のこ  と。二九九項の金思徳の注参照。3王明佐 久米村王氏の三世。国  場親雲上。?〜一六八四年。順治二年(一六四五)、都通事として  隆武帝の登極慶賀使節に加わり渡唐。同六年帰国の際、甼州の山川  に漂着、長崎に送られ中国の動乱を報告させられる。また順治十年  の渡唐では、陸海不穏により、十一年も諞に停まって後、康惡二年  (一六六三)に至って帰国した。] [三〇二 中山王世子尚質より福建布政使司あて、未だ帰国しない進香および慶賀使節の安否を問う咨文]  琉球国中山王世子尚質、探問の事のためにす。  照し得たるに、弘光元年四月内、専ら使者・都通事等の官毛大用・阮 士元等を遣わし、土船一隻に坐駕して竜香一*を運載す。詔官花指揮は 随送して同日開洋す。  隆武二年四月内、原遣わせる王舅・長史・都通事等の官毛泰昌・金思 徳等前来慶賀して方物を進奉し、大礼を隆にし、盛典を重んじ、以て愚 忠を効し、以て帰順を明らかにせしむ。事例は古より成規として、存留 して船に在るものは帰国せしめ、員役は夏至南薫の媼に因り、蚤に及べ ば馳帰せしむ。此に因り使者毛大用の駕船は帰国するも、王舅毛泰昌の 駕船は或いは廻りて途に迷い、縱舛して未だ帰国に及ばざれば、想々た る微勤君前に達するを得て、我が邸鄙の藩臣をして少しく万一を伸べし むるやを庶いて、夙夜懸煩す。豈起居逸慰する能わんや。寐寤思服する の安危を釈かんと欲して、稽査案照したるに、隆武三年は修貢の年期な り。此が為、任土の常貢の方物を備弁して、方に正議大夫・使者・都通 事等の官蔡祚隆等を差遣し、咨を齎し表を捧じて、土船一隻に坐駕し、 硫黄・馬疋・螺殼等の方物を運載せしむ。隆武三年九月十五日、本国開 駕するも不幸にして途に迷い、温州外山に到り、海賊に残破せらる。十 月初七日愁極して還国す。則、想々たる微勤未だ上聴に開さず。我が邸 鄙の藩臣をして慍を積みて無聊す。此に因り、再び正議大夫蔡祚隆等を 遣わし、土船一隻に坐駕して、硫黄四千九百二十一簧を運載し、前貢の 欠少を補足し、続いで情実を探らしむ等の因あり。  并せて先報を行わしむ。隆武三年九月二十二日、我が先君世を辞して 薨苺するを痛み、哀疚して忍びず。念うに予小子、嗣嫡にして承*す。 然れども侯服度あれば、敢えて僣称せず、基業永存す。理として合に貴 司に先報して天使の褒綸を奉ぜずして、躬を揣るに奚んぞ絶域に安瀾す るを得んや。況や祖封の照烈宜しく当に亟かに請封進貢の旧章に循うべ きは較着たり。少しく越遅すと雖も、慶賀船媼候の期に違いて未だ廻文 を蒙らざれば、臣尚質を安んぜず。誠に人をして憂堙を醸さしむるな り。下年謹んで縁由を将て咨を備えて迢逓して馳聞す。伏して乞うらく は、炙しく休光を重ね、曲げて咳唾を垂れ、転じて具して題請せられよ 等の情あり。上は朝廷の寵渥の盛典を光かし、下は該国の恭順なるの小 心を昭らかにす。此が為、理として合に貴司に移咨して来文の事理を知 会せしむ。煩為わくば査詳して施行せられよ。亟かに廻文を下す。此が 為移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、福建等処承宣布政使司に咨す 隆武五年二月 日 [注1尚質 第二尚氏九代の王。在位一六四八〜六八年。尚豊王の四  男。一六六三年、張学礼らにより冊封を受く。その治政は明清交代  の動乱およびその後の甼琉関係の確立期にあたり、羽地朝秀の下、  近世沖縄の転換期とされている。2思服 常に思って忘れない。頭  をはなれない。 ※本項の記年の隆武五年は順治六年(一六四九)に相当するが、隆武  は二年までで、その年に清に亡ぼされている(なお鄭成功は「隆武  四年暦」を出している)。当時の琉球の情報は隆武帝の即位までで  あり、隆武二年の金正春らの慶賀使派遣、同年冬の毛大用の帰国以  後、情報はとだえており、この間の金正春らの探訪船の派遣も福州  に達していない。まして、清軍による福州制圧の情報は未だもたら  されていなかった可能性が強い。なお、本項への中国側(魯監国)  からの返書は二九六項にあるので、項注ともに参照されたい。] [三〇三 福建布政使司より琉球国あて、招撫使謝必振とともに隆武帝即位の慶賀使金思徳等を帰国せしめる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、原より齎せるの勅命を遵領して、回国の咨文 を賜い、以て裹糧を給し、以て乗風に便ならしむるを乞わんが事のため にす。  撫院都御史張の批を奉けたるに、該に本司呈詳すらく、本都院の批を 奉けたるに、琉球国長史金思徳等の呈に拠るに称すらく、縁みに本国世 々天朝に納款するに、道は福建に由る。歴歴たる事宜は布司攷うべし。 順治三年、瓠琅掀地方に至る。通共百有五人なり。寇に遭いて劫殺せら る。僅かに逃れたる官伴五十余人は、幸にも貝勒王の帯徳に臺い、及通 事等の官伴六人は臘月初八日に于て京に赴き、四年四月十七日京に到 る。六月初七日、皇帝広開の柔遠もて格外に優恤せられ、宴を賜い袍を 賜い、賈を賜うを蒙る。初十日、礼部、勅書一道を頒発し、通事謝必振に 諭して、本国を招撫せしむ。兵部、護送官二員を差わし、直に福建浦城 県に至り、八月十四日張部院に謁したるに、時に寇警の為に勅書は、張 部院に送交して収貯せしむ。今、風媼已に至り瓠隻また備わる。但し水 運は陸行に比するに非ずして、風に乗り浪を破ることあれば必ず須く先 に準備すべし。恭しく欽遣に臺い、韋弦を頌佩して已むをえず斧鉞を冒 し、天恩に瀝叩し、備に始末を陳べ、玉成せる柔遠の大徳に根因して、 懇に勅もて布政司に行して刻に原齎の勅命を領せしめんことを乞い、回 国を賜らんことを乞う、等の情あり。批を奉けたり。布政司に仰じ査議 して定奪せしめよ。此を奉けたり。  案査したるに、上伝を欽奉せる事の為にす。前の部院張の憲牌を奉け たるに、頃邸報を奉けたるに、該に兵部の題せる前事の内に院の伝奉 せる上伝あり。兵部に諭して孛羅貝勒得る所の琉球国・安南国・呂宋国 的人は各々勅諭一道を付し、遣わして各国に赴かしめて招安せよ。爾が 部、総督張に移咨すべし。令して彼処に存有せる去人原伴者を将て、収 賂して夥を成さしめ、一同に発りて本国に帰らしめよ。此を欽めよやと あり。伝奉部に到る。理として合に具本もて題して知らしめよ、等の因 あり。移咨するを聴すを除くの外、牌を備えて司に行る。如、前項の琉 球等国の諸人、諞に到るに遇えば、なお曾て有るところの原伴の諸人を 査して、各国の人の到るの日を俟ちて、収賂して夥を成さしめ発りて本 国に帰らしめ、招安して施行せしめられよ、等の因あり。此を奉け遵行 して巻に在り。  今、前因を奉け随で該に本司左布政使朱、看得したるに、琉球各国の 使臣は荷くも皇上の柔遠の至意もて、勅書を頒賜せられ、着して通事謝 必振に令して齎捧せしめ、収賂して夥を成さしめ発りて本国に帰らし む。因りて風媼未だ便ならざるがために、欽頒せらる勅書は未だ敢えて 擅発せず。業に前撫院捉(の批を)奉けたるに、随ちに原勅を将て司に 発りて庫に貯え詳を候ちて給発せよ。今、守候すること経年、風媼已に 便なれば応に齎往せしむべし。招撫通事謝必振の請う所の随帯して合に 用うべきの員役の如きは、必ず裹糧を需む。内に勅を捧ずるの官一員、 礼生二名には毎名応に米六斗を給すべし。吮従の人役二十七名には毎名 応に米三斗、塩菜銀三銭を給すべし。一月を量発して少しく途費を資く べし。詳允の日を候ちて併びに夷使の行糧を将て糧兵二道に転移し、例 に照らして支給して啓行招撫せしむれば、外邦咸天恩の徳意を知り、具 表来帰して、声教は四に無外に訖るに庶からん、等の縁由あり。此を奉 けたり。詳に拠りて、如し風媼已に便にして海上阻まるる無ければ、即 ちに応に勅を齎して啓行し以て声教を通ずべし。応に給すべきの米・菜 糧銀は詳の如く行炸するを准せ、と。此を奉けたり。  又巡按御史霍の批を蒙けたるに、該に本司の経歴司の呈も前由に同 じ。批を蒙けたり。撫院の詳を仰候て行炸せよ、等の因あり。此を蒙け たり。勅諭一道を将て招撫通事官謝必振に令して齎捧前来せしむるを 除くの外、なお遣わせる長史金思徳等七員、人伴誠意等四十四名は帰国 せしむれば合に移知を行うべし。此が為に由を備えて貴国に移咨す。煩 為わくば、知照して欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 順治六年五月二十三日 (再対して之を正す)  原より齎せる勅命を遵領し、帰国を賜らんがことを乞う等の事   咨す [注1撫院都御史張 張学聖、順治五年八月〜十年二月間の福建巡撫。  2貝勒 ベーレー、多羅貝勒(たらばいろく)の略。清朝の皇族や  蒙古の貴族に与えられた爵位の一つで、郡王に次ぐ。第五級。3臘  月 陰暦十二月のこと。4浦城県 福建の県名。琉球使節等が福州  から北京に行く際の途上の駅・町。諞江を韵って延平(現・南平市)  に到り、そこから北上して省境の難所仙化嶺に到る途の中間にある  県。5韋弦を頌佩して 緩急を配慮しての意。6邸報 邸鈔。都に  設けてある諸侯、藩鎮の出張宿泊所から、詔勅・法令などを本国に  通知する報告書。7総督張 張存仁、順治二年七月〜四年十二月間  の浙諞総督。8夥を成さしむ グループ、一団を組織すること。  9布政使朱 朱鼎新、順治四年二月〜六年間の左布政使。11撫院捉    捉国*、順治四年〜五年八月間の福建巡撫。] [三〇四 中山王世子尚質より巡撫福建都察院捉あて、金思徳らの送還の際の尽力に感謝する咨文]  琉球国中山王世子尚(質)、敬んで不腆の儀を修め、恭しく山の如きの 恩に謝せんが事のためにす。照し得たるに、敝国の使人、福省に淹留し、 叨くも貴院の遠人に垂念し、其の餓を憫みては則ち食を推って以て之に 哺わせ、其の寒を恤みては則ち衣を解て以て之に衣せ、其の歳時、伏臘 の措く無きを憐みては則ち俸を捐して以て之を済う。人人徳を頌え、個 個心を傾く。日者国に帰りて敬んで感情を達して、縷縷称述す。  不穀、佩服して已む無し。満擬朝廷に申奏して、以て厚徳を彰らかに せんとするも、奈んせん始めて投誠して遂に敢えて僣言するは不経に属 するに以たり。来年の慶賀には貴院の感情を将て、一々本末を修陳し、 断じて敢えて没せざるは至善なり。但、海隅に僻居すれば奇珍に乏しく して万一に酬報すること能わざるを愧ず。特に通事梁廷牴を遣わし、薄 き芹藻を具え、聊か寸衷を表す。伏して冀うらくは、海涵すれば瞻仰す るに任うる無し。此が為に移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、巡撫福建都察院捉に咨す 順治六年十一月十三日 [注1食を推って…衣を解て 推食解衣で、人に食物をゆずって食べさ  せ、衣をぬいで着せるの意。2伏臘の措く無き 伏は夏祭り、臘は  冬祭りのことで、夏・冬の祭りも行えない、取り組めないの意。  3不経 道にそむく。非常な大罪の意。] [三〇五 中山王世子尚質より正白旗平国公府あて、遭難琉球国使節を救済帰国せしめたことに対する謝恩の咨文]  琉球国中山王世子尚(質)、盛徳もて人を感ぜしめること弥々深く、下 情、恩を戴くこと極まりなきが事のためにす。恭しく惟うに、貴藩の声 名洋く溢れ、遠く遐方に及ぶ。不穀、瞻仰すること素よりなり。近ごろ 敝使帰国して厚情を称述するに、丙戌の歳、劫に遭いて流離したるに恩 憐を蒙る。念うに饑に啼きて寒に号する者有ること無し。後、貝勒王の 拘督を被りて京に赴き、又恩顧もて庇護せらるるに沐して、向隅して抱 泣する者有ること無し。朝を辞し諞に帰るに至りても復た、恩光を叨 くし、役を差わして羮いて路費を賜い、人をして途に窮するの念無から しむ。真に所謂、天覆い地載す。世を没するも奚ぞ忘れんや。不穀、頓 に斯の言を聆きて、几を撫して嘆じ、想慕の懐鈴々深し。疇昔、茲に通 事梁廷牴を遣わし、特に投誠の表文を上り、敬みて鄙咨を修め、恭しく 台下に候す。不腆の儀、伏して鑑納せられんことを祈る。此に慰んじて 隆を懸けられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、正白旗平国公府に咨呈す 順治六年十一月十三日 [注1丙戌の歳…流難したる 崇禎十七年(一六四四、甲申)明朝が滅  亡し、この年の使節金応元・吉時臺等、続いて遣わされた毛泰久・  金思義(金正春)・阮士元等は、戦乱の地で流難、苦難をなめ、死  者多数を出した。丙戌年(一六四六)金正春・陳初源等は容貌衣服  を改め、福建に入った貝勒に投誠、その力により上京し、清朝にわ  たりをつけ帰国することができた(『球陽』『中山世譜』)。2梁  廷牴 久米村梁氏の出であろうが未詳。百名親雲上。3此に…懸け  られよ 慰此懸隆、慰情勝無の意か。十分ではないがないよりはま  し。不腆の土儀はたいしたものではないがお受けとりいただければ  心が安まる。4正白旗(平国公府) 清朝軍制中の八旗の一つ。] [三〇六 福建布政使司より琉球国あて、明の詔勅印を返還する使者を帰国せしめることについての咨文]  福建等処承宣布政使司、移咨して照会し、恩を望みて申ねて奏せんが 事のためにす。  順治六年十二月初一日、琉球国中山王世子尚(質)の咨を准けたるに 称すらく、本年九月十三日、天使宝船の敝国に按臨するを蒙り、随って 文武百官を率いて迎接するの外、謹んで十月初二日の吉辰を択び、王城 に在りて開読す。本国恭しく徳音を聆き、天朝の正朔に欣服す。遂に勅 内の明旨に拠るに、故明給する所の封誥印勅を将て、使を遣わして齎 し赴きて来京すべし等の因あり。此を欽み欽遵す。但、天使の駕臨已に 菊月に属すれば、敝国、舟楫未だ備わらず、礼儀は倉卒には急弁し難 し。聖天子の開国維新すれば、敢えて急遽草率にせず、待して強留し、 来歳同行せんと欲す。又礙げて期を愆つの譴あれば、謹んで投誠の表文 を具して都通事梁廷牴等を遣わし、天使の帰朝を護送せしむるの外、其 れ故明の印勅は、来祀に寛くし、礼儀と同に一併に差官して闕廷に稽* して慶賀せしめんことを祈る。合に縁因を将て、貴司に移咨して照会 す。小邦の虔誠に鑑み、恩もて申ねて奏するを賜らんことを乞う。本 国君臣の銜結既くる無からん等の因あり。司に到る。此を准け、随で貴 国の咨を将て、齎表の官、都通事周国盛、人伴堅義・遂志等を差わし、 招撫通事官謝必振と同に、投誠の表文を併せて復命す。本年二月十八日 起程して京に進み、已経に部、撫、按三院の具疏して併せて炸むるの 外、其れ護送の勅船、諞に到れば、官一員梁廷牴、人伴山峻等共に一十 八名、并に、前存留官田時盛、人伴加敢子等共に四員名、風媼に値れ ば、理として宜しく摘回して国に返さしめ、齎表官周国盛三員名は、事 竣るの日、別に咨を行して回さしむるを除くの外、合に移知を行うべ し。此が為に由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば知照施行せられよ。 須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 順治七年四月二十三日   移咨して照会し恩を望みて申ねて奏するの事  咨す [注1故明 先の王朝の明のこと。2封誥印勅 冊封等の際の詔勅や印  信。3菊月 陰暦九月。4稽* すわって頭を地面にしばらくつけ  ている礼。5銜結 恩に報いること、感謝すること。6周国盛 久  米村周氏の二世。島袋通事親雲上。一六二九〜五六年。7田時盛   不詳。ただし『陳氏大宗仲本家家譜』に「順治十一年…都通事田時  盛安室通事親雲上」(陳結華の譜)とあって、久米村の人となるが、  後の久米に田氏はなく、後代氏が変わったものと推測される。] [三〇七 世祖(順治帝)より琉球国王あて、故明の勅印の返還を促す勅諭]  皇帝、琉球国王に勅諭す。爾が国、命を承け化に向い、表を奉じて投 誠す。朕甚だ焉を嘉す。奏内に、献搜は稍々来祀に寛くするを云う有 り。故を以て館に留まるの周国盛等三人は京に在らしめ、随で七年五月 内に梁廷牴等十九人を遣わして回らしめ、爾が国に諭せしむるも、今に いたる迄、故明の勅印未だ炸さず、併びに去くの使、消息有る無し。意 うに海道迂遠にして風波険阻なるか、抑も別の故有りて未だ爾が国に達 せざるか。来使を聊んじて京に留むること日久しければ、朕甚だ憫念 す。今、表裏・銀両を賞賜して遣わし帰す。沿途、脚力・口糧を給与し、 人を添え船に駕して、通官謝必振と同に爾が国に回報せしむ。爾が国、 便宜復命するを聴し、用て朕の懐柔の至意を示す。故に諭す。  順治八年九月初八日(再対して之を正す) [三〇八 福建布政使司より琉球国あて、招撫使謝必振とともに琉球使節を回国せしむる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、遠人を咨送して回国せしめんが事のために す。案照したるに、順治八年十一月初五日、撫院都御史張の憲牌を奉け たるに、礼部の咨を准けたるに、主客清吏司案呈すらく、本部より送り たるものを奉じたるに、福建布政使司の咨呈に拠れば、琉球国の差来せ る齎表官一員周国盛、人伴二名堅義・遂志、併びに招撫土通事一員謝必 振等を起送して京に到らしむとあり。齎到せる投誠の表文を将て随即に 恭しく進むるを除くの外、順治八年九月初八日、勅諭一道を欽頒せら れ、該国差来の齎表官周国盛に、綵緞二表裏・銀二十両、人伴二名、堅 義・遂志に毎名布二疋・銀五両、招撫土通事謝必振に綵緞一表裏・銀十 両を欽賞せらるるを蒙る。堆に京に在りて給領せしめ訖れり。今堆に回 還せんとするのとき、兵部に移咨し、給して以て応付するを除くの外、 鴻臚寺琉球館通事序班の呉国鼎、跟役二名を差わして伴送せしめ、福建 撫院に至りて交割せしむ。旧例を査照して早やかに出境回国せしめられ よ。差官彼に到れば即ち回還せしめ、相応に一併に咨会すべし。案呈し て部に到る。此が為合に咨して前去せしむ。煩為わくば即ちに好船の人 夫を撥して琉球国及び該布政使司に転行して知会施行せしめられよ、等 の因あり。此を准け牌を備え、司に行り即便に旧例に査照して好船の人 夫を撥し、該国齎表官周国盛等を将て早やかに出境回国せしめよ。其れ 該国に転行するの事宜は、旧例を察明し、起程の日を俟将って、由を備 えて院に詳し、以て施行に憑らしむ。其れ欽頒の勅諭一道は、暫く司庫 に収上し、仍りて先ず文を具えて回報し、以て咨覆するに便ならしめよ 等の因あり。此を奉け、遵行すること巻に在り。  今差わす通事官謝必振、勅書を齎捧し、并に齎表官周国盛、人伴二名 堅義・遂志と同に帰国せしめば、合に就ち移知すべし。此が為由を備え て貴国に移咨す。煩為わくば査照して欽遵施行せられよ。須く咨に至る べき者なり。  右、琉球国に咨す 遠人を咨送して回国せしむる事 順治九年六月初二日  咨す [注1交割 物品等を受け渡すこと。] [三〇九 欽差齎勅の招撫使謝必振より長史司あて、登極慶賀の派遣と明印の返還を催促する咨文]  欽差の勅を齎すの招撫使謝(必振)、勅諭を欽頒せんが事のためにす。  照得したるに、本使前に皇上の差委を奉じ、収賂の原日、諞に在るの 官伴は摘発して回国せしめ、以て柔遠を示し、併せて招きて賀に入れ以 て帰順を広む。時に貴国、方物備え難きを以て、只官周国盛を差わし、 空表を齎して投誠す。六年十一月諞に到る。部撫司道、欣羨せざるはな し。宴を賜い糧を増す。七年二月内に至り、京に赴き、皇上の大いに嘉 して賞賚せらるるを蒙る。陋規を革去し惟恩十倍す。内院・礼部二衙門 に送り、再三詢諭す。館に留まり京に在りて賀至るを守候せしめ、一併 に遣発せしめんとす。且つ来表内に又云う、献搜稍々来祀に寛くすと。 兼ねて故諞の印勅は未だ炸めざるを以て、其の中に、游移携弐無く んばあらず。幸に我が皇上誠信もて人を侍し、億逆を以て相料るに忍び ず。糅ぞ知らん、貴国果たして疑いを懐きて未だ決せざるとは。賀音聞 する無くして、本使周差使と京邸に逗留し郷を離れ井に背くを致すこと 二十閲月有奇なり。前番の往返、涛を渉り魂を驚かして未だ定まらず。 馳駆復命、瘁骨堪傷し留京して賀船を翹*するに至るに及ぶ。春にして 復た秋、望眼幾んど殼ち、焦心血と成る。荷くも我が皇仁浩蕩にして、 周差使の忠誠に頼りて同心協力、斡施して回還す。是、貴国、尚信を天 朝に失うも、天朝未だ貴国を恩に辜くとせざるなり。復た勅書一道を頒 つに、本使を差わして再来□蔵す。当即に涕泣して懇に辞するも、内 院、諭するに聖旨已に定まれば更易を容す無きを以てす。  周差使の目撃する所は兵、礼二部畳ねて三官を差し、護送して福省に 到りて交割するを蒙る。懐柔の盛典至れり尽くせり。此れ古今未だ聞か ざる所なり。八年十一月に至り諞に到る。撫院諭するに王命森厳なるを 以てし、即ちに啓行するを促す。本使又辞す。勅書重大なれども、風媼 時に非ざれば、稍しく来年を待たんと。実に今春の賀船自ら至るを候た んと欲するは、一は以て往返の航海の艱を免れんとし、二は以て貴国供 応の費を省かんとするなり。想わざりき、今春来船するも只探聴を以て 名となし、故諞の印勅は又申ねて説う無し。遂に院司の猜疑を起こし、 人船を拘繋し、題して定奪を候たんと欲す。本使百計図維りて、権に従 いて酌処し、姑らく大夫蔡時春を以て存留と為し、以て口実を塞ぎ、疑 隙を消し、瓦全して事を終らしむるは、亦貴国の福なり。貴国未だ此中 の衷曲を知らざるも奈んともする無きを諒とす。  車糧を整弁して周差使と同に束装登舟し、六月二十九日、梅花より開 駕し、七月初四日、直ちに古米に抵る。聖天子の威霊を荷くるに非ざれ ば、安んぞ此の如く迅速なるを得んや。目今太平の象あり。底定永清に して百物咸惡く。探船の差使、貿易悉く自便を行い、評価の事情、□に 乗じて亟かに挙ぐ。仍前の若く泄泄たらば、是に相耽留せん。矧んや此 番、部の限は緊急なるをや。冬媼将に至らんとす。復命の期は決めて十 月に在り。所有の入賀の事宜、併びに故諞の印勅は作速かに呈炸料理 し、更に各員役、随帯の湖糸、氈条、綢布等の貨は、価値、万に盈たずと 雖も亦当に早為かに之に預るべし。丙戌より今にいたる迄、屈指するに 七載、山に梯し海に航し、家破れ人離る。本使王命を奉じて差遣さるる と雖も、実に貴国の為に奔馳するなり。一片の苦心、貴国鑑諒するや否 やを知らず。本船刻ちに覇港に進みて安挿せんと欲するも、奈んせん差 使周国盛、鄭孟徳、諄諄として懇留し、姑暫く少待す。但だ天威咫尺にし て稽延隕越すれば罪を獲んこと、是れ懼る。已むをえず先行貴司に咨会 す。煩わくば即ちに三法司に転達し、貴国王に啓奏し、悉く来咨内の事 理に照らして遵奉施行せられよ。胎し再び疑を生じ、懐怠すれば是れ自 ら甘んじて□を棄つるも本使に于て何の尤あらん。此が為に理として合 に移咨す。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国長史司に咨す 順治九年七月十五日行  咨す [注1游移携弐 ためらい躊躇してそむきはなれる。2億逆 おしはか  る、臆測、邪推。3郷を…背く 背井離郷、故郷を離れること。  4翹眄 仰ぎみる、待ち望むの意。5望眼…穿つ 望眼欲穿と同義  で、目がくぼむほどみつめる、転じて待ちあぐむの意であろう。  6蔡時春 安室親雲上。生没等未詳。7衷曲 心の奥深くひそむ細  かな感情。8車糧 食料と旅費のこと。9底定永清 定まるをいた  し、永くおさまる。平和であること。10自便 自らの都合のよい方  法を選ぶ。11泄泄 人の多いさま、多言するさま。12耽留 遅れ、  てまどる。13鄭孟徳 未詳。] [三一〇 中山王世子尚質より世祖あて、勅印の給賜と白糸貿易における牙行の積弊を除くことを乞う上奏文]  琉球国中山王世子臣尚質、謹んで奏し、勅印を発するを賜りて以て帰 順を励まし、勅もて夙弊を禁じ、以て懐柔を広くせられんことを懇乞せ んが事のためにす。  伏して以うに、聖明御宇、遐邦荒裔も帰誠せざるはなし。臣尚質の如 き、海外の小国なるも、宝綸重賁もて、渺微を棄てず。臣尚質をして以 て躬ら聖化に沐して、益々懐来を暢ぶるを得しめたり。茲に重臣を遣わ し、明朝の勅書二道と印信一顆を齎炸せしむ。窃かに照らすに、本国三 十六島あり。一切の行事は必ず印信を需むれば、以て久曠し難し。伏し て乞うらくは、勅を発して鋳印し、臣の王舅馬宗毅に賜いて帯回せしむ れば、異邦の臣庶をして、天朝の尊、頌戴窮無きを知らしめん。茲に更 に涜陳することあり。臣の入貢のとき、本国より発船するには、則ち冬 春の北風を以てし、帰国するには必ず夏至前後数日の南風を須つ。此を 過ぐれば、則ち風媼便ならず、険を衝きて行き難し。前の貢船入諞する に、土産、銀両を随帯し、糸絮布帛等の物を貿易す。明初は便とする所 を聴従し、都て抑勒するなし。晩季に至るにおよび、地棍奸を作し、郷 官に倚藉して都牙を設立し、各色を評価せしむ。音語通ぜざれば、低傅 意に任せ、常に糸綿を用て指して禁貨と為す。効順の属国、律するに倭 奴を以てし、吏胥播弄して留難万端し、以て銀貨空しくして之を手に抽 むる白きを致すも、官司繋る縻し。風媼時に非ずして人船返らざるに至 る。崇禎末年より数船を失去して淹死の官伴数百余人なり。之を言うに 酸痛となすべし。矧んや今、国憲森厳、輸貢ここに始むれば冒昧を揣ら ず、情を舒べて入告す。  伏して乞うらくは、皇上勅して従前の積弊を禁じ、棍徒・衙蠹の詐 騙、阻滞して帰期を失うを致すを許さざれ。且つ今、沿海の盗賊諞に充 斥す。諞安鎮自り外は則ち大海に属す。鎮内は則ち内港に属す。貢船到 るの日、鎮外に聾ち難し。即ち鎮に進みて内港に湾泊するを准し、安挿 するを聴候せば、盗賊の虞を免るるに庶からん。此の如くなれば則ち、 遠人益々懐柔に服し、而して来貢来朝すること、以て千万年を歴るも絶 えざらん。臣、悚慄待命の至に勝えず。此が為に具本して、陪臣王舅馬 宗毅等をして、奏を齎して以て聞す。  順治十年二月二十七日、琉球国中山王世子臣尚質謹んで上奏す [注1渺微 はるか遠くの微なるもの。ここでは尚質(琉球)のこと。  2馬宗毅 首里馬氏(与那原家)五世。大里親方良理。生没年等未  詳。この順治十年の遣使では、海賊の跳*により帰国が遅れ、尚質  の冊封使張学礼とともに十年後の康惡二年に帰国している。3銀貨  空しく…致す 銀を失って白糸も手に入らない、銀を騙しとられる  の意。4棍徒・衙蠹 ならずものと役所にすくう虫、悪徳の官吏。  5充斥 満ちあふれる、はびこる。6悚慄…勝えず 書牴等に用い  る語。おそれふるえて命を待っていることができない。つまり、恐  縮至極の懐いであります。全く恐れ入っております、の意。] [三一一 福建布政使司より琉球国あて、明印を受納し、齎捧の使者を帰国せしむる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、勅諭に遵依して、勅印を炸納せしめんが事の ためにす。  琉球国中山王世子尚(質)の咨を准け、照得したるに、該国、順治六 年九月十三日に於いて天使の按臨を蒙り、恭しく文武百官を率いて迎接 し、開読するの外、奈んせん、舟楫未だ備わらずして礼儀を弁じ難きに より、先ず表文を具して投誠し、特に通事周国盛を遣わして天使の帰朝 を護送し、来祀に寛くせんことを祈り、闕廷に稽*して慶賀せしむ。該 国、豈、敢えて期を愆らんや。即ち順治七年十月内に、虔んで不腆の方 物を備え、敬んで事大の令典を修し、王舅、正議大夫、使者、都通事、 阿榜掫、蔡錦等の官を差遣わし、皇帝陛下并に中宮殿下に齎捧して各慶 賀を行い、満擬天廷に上達せんとす。何ぞ期せん、風神崇を作し、或は 沈淪し、或は漂蕩するとは。海洋隔絶して音信杳然たり。幸に旧年八月 内、天使再臨し、該国方めて知る。挙朝夕徨して引咎するに暇あらず。 随で吉日を択び、迎えて王城に進み、開読するに、新綸煌煌たり。天語 敢えて欽承せざらんや。奈んせん、洪武より歴朝の勅は、敝国先王告終 すれば、即ち本王の勅を将て同に埋葬を行い、今已に存する無し。只、 尚寧王より今に至るまで未だ葬せず。其の勅猶在り。勅は歴朝各一、印 は惟だ洪武のみ専ら錫うなり。今、仍って礼物を具し、王舅、正議大 夫、馬宗毅、蔡祚隆等を遣わし、天使に附し、同に中朝に到りて慶賀す るの外、故明の勅印を炸め、勅諭に遵依して清朝の符節を求め、永く邦 国を鎮めん等の因あり。此が為、貴司に移咨す。乞うらくは、咨文内の 事理に依り、礼部に転移して敝国をして、旧を去り、新に従い耳目改達 し、明を舎てて清に事え、心志惟一ならしむ。則ち貴司の鴻恩、施して 方外に及ぼし、寧んぞ既きる有らんや。此が為、除外、附搭の土夏布二百 疋は官に従りて絹帛に兌換す。照例に遵依して附搭し、咨に載せて前来 す。伏して乞うらくは査照せられよ等の因あり。司に到る。此を准す。  随で査するに、貴国差来の朝賀の王舅馬宗毅、正議大夫蔡祚隆、使 者・都通事富自盛等、人伴金如華等、吮水杜記等、方物及び炸めるとこ ろの故明の勅印を齎載して前来す。三院に詳して具題せしむるを除くの 外、方物は、王舅馬宗毅、正議大夫蔡祚隆、使者富自盛、都通事王明 佐、王舅通事蔡国器、人伴臺意等十三名をして起送せしめ、京に赴きて 朝見せしむ。礼部に移咨して、方物、勅印を解進し、其の附搭の土夏布 は、該使京に至りて絹帛に兌換し、自ら帯して回国し、及び存留在駅通 事鄭宗善、人伴金如華等十九名は、事竣るを候ちて別に送回を行うを除 くの外、今使者孫光用、馬時盛、人伴三魯等十七名、吮水孫自昌、杜記 等五十九名、護送の都通事鄭孟徳、跟伴馬加等四名并に上年存留の正議 大夫蔡時春、跟伴達路等四名を摘回帰国せしむ。合に就ち移知すべし。 此が為、由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば知照施行せられよ。須く 咨に至るべき者なり。  右、琉球国に咨す 勅諭もて勅印を炸納するの事 順治十年六月二十六日  咨す [注1阿榜掫(棍) 首里阿氏の六世。中城親方守賢。一五七五〜一六五  二年。順治七年(一六五〇)、世祖登極の慶賀王舅となるも渡唐の途  次遭難すという(『中山世譜』参照)。2符節 わりふ。割印のこと。  ここでは清朝の勘合符のことであろう。3富自盛 未詳。4金如華   久米村金氏の九世。与座秀才。一六三三〜五三年。順治九年、王  舅通事として渡唐。福州で没。5蔡国器 久米村蔡氏の九世(具志  家の三代)。高良親方。一六三二〜一七〇二年。官は紫金大夫、職  は総理唐栄司に陞る。一六五三年の渡唐以来、度々渡唐した。特  に、一六七六年に、反乱を起こした靖南王耿精忠の帰順要請に応え  硫黄を提供した王府は、翌七七年靖南王への慶賀文を送らんとした  が、接貢探問使となった国器の言を入れて清朝あて咨文も持ち行か  せ、清朝の平定にも無事対応しえたという。6鄭宗善 久米村鄭氏  の十一世。生没年未詳。官は正議大夫。7孫光用 未詳。8馬時  盛 未詳。9孫自昌 久米村孫氏の二世。屋比久親雲上。一六三〇  〜九七年。祖父は日本人。万暦三十三年(一六〇五)、中山に遷居。  以後王府に仕える。二世自昌に至って、唐栄三十六姓の欠を補うた  め、久米村籍に編入さる。順治九〜康惡年間、進貢使節の一員とし  て度々入唐す。] [三一二 礼部より中山王世子尚質あて、襲王の詔・印の頒給および自由貿易を恩免する旨の咨文]  礼部、襲王の詔印を頒給せんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、前事を題するの内に開すらく、先に該臣部具題し、琉球国中山王 世子尚質に勅印を換給するを除き、及び附搭の土夏布二百疋は官に従り て絹帛に兌換するの縁由あり。臣部例を査し、別に議して具題するの 外、所有、進到の礼物は応に内庫に交して査収せしむ等の因あり。聖旨 を奉じたるに、這の琉球国進到の礼物は内庫に交して察収し、余は着し て別に議して具奏せしめよ、此を欽めよとあり。欽遵す。  琉球の進到せる方物を将て、已経に内庫に交送して察収するを除くの 外、該臣部、査得したるに、会典の内に開すらく、大琉球国は朝貢不 時にして、王子及び陪臣の子は、皆太学に入りて読書せしめ、礼待甚だ 厚し。洪武の初め、琉球中山王察度、使を遣わし、表箋を奉じて、馬、 方物を貢す。十六年鍍金銀印を賜い、永楽以来、嗣立して命を請えば冊 封す。諭して二年一貢せしめ、進貢の人数は、百五十人に過ぎず、貢道 は福建諞県に由らしむ。又査するに、正貢を除くの外、附来の貨物は、 官一半を抽し、例として価を給せず。又旧案を査するに内に開すらく、 琉球附搭の土夏布二百疋は官一百疋を抽するを除くの外、一百疋は、闊 生絹二十五疋に折給するの各等の因、案に在り。  該臣等議得したるに、琉球国中山王世子尚質は、誠心化に向い差する の王舅馬宗毅等、勅諭を遵奉し、表を具して朝賀し、恭しく方物を進 む。随で、故明の万暦三十一年に、頒給せる王爵を襲封するの詔一道、 崇禎二年に頒給せる王爵を襲封するの詔一道、又頒給せる王爵を襲封す るの賞賜の礼物数目の勅諭一道、洪武十六年に頒給せる鍍金銀印一顆を 炸めて部に到る。其れ世子尚質は相応に、琉球国中山王を襲封すべし。 伏して乞う、勅もて臣が部に下して琉球の炸到せる旧詔二道、勅諭一道 を将て、内院に交送して査収して、先行襲王の詔一道を撰擬せしめ、臣 が部は別に鍍金銀印一顆を鋳し、正貢の外、附来の土夏布二百疋に至り ては、査するに明朝、半は抽して官に入れ、一半は生絹に折給す。琉球 は海外遠国に係り、且つ土夏布二百疋は又正貢の数内に在らざれば、其 の初帰を念い、所有土夏布二百疋は、其の官に入れて折絹するを免じ、 其の自ら交易を行うを聴し、以て皇上柔遠の意を示さん等の因あり。  順治十一年三月二十八日題し、四月初一日、聖旨を奉じたるに、是な り。議に依れ。此を欽めよとあり。欽遵して部に抄し、司に送り、案呈 して部に到る。擬して合に就行すべし。此が為、合に貴国に咨す。煩為 わくば本部の題奉せる聖旨内の事理に査照して欽遵して施行せられよ。 須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王に咨す 順治十一年六月十五日  咨す [三一三 礼部より中山王世子尚質あて、違禁の物を除き、会同館において両平交易を許すこと等についての咨文]  礼部、懇に乞うらくは、勅印を賜発せられて以て帰順を励まし、勅も て夙弊を禁じて以て懐柔を広めんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部の題覆せる琉球国中山王世子尚質の奏に称えらく、伏して惟うに、 聖明の御宇、遐邦荒裔も帰誠せざるはなし。臣尚質が、海外の小国の如 きも宝綸重賁し、渺微を棄てず。臣尚質をして、以て躬ら聖化に沐し、 益ます懐来を暢べしむるを得たり。茲に重臣を遣わし、明朝の勅書二 道、印信一顆を齎らし炸めしむ。窃かに照らすに、本国三十六島有り。一 切の行事は必ず印信を需むれば以て久曠し難し。伏して乞うらくは、勅 を発して印を鋳し、臣が王舅馬宗毅に賜いて帯び回らしめば、異邦の臣 庶をして、天朝の尊ありて頌戴窮無きを知らしめん。茲に更に涜陳する ことあり。臣の入貢のとき、本国より発船するには、則ち冬春の北風を 以てし、帰国するには必ず夏至前後数日の南風を須う。此を過ぐれば、 則ち風媼便ならず、険を衝きて行き難し。此より前、貢船入諞するに、 土産の銀両を随帯し、糸絮布帛等の物を貿易す。明初は便とする所を聴 従し、都て抑勒する無し。晩季に至るに膤び、地棍奸を作し郷官に倚藉 して都牙を設立し、各色を評価せしむ。音語通ぜざれば、低昂意に任 せ、常に糸綿をもって、指して禁貨となす。効順の属国律するに倭奴を 以てし、吏胥播弄して留難すること万端、以て銀貨空しくして之を手に 抽むる白きを致すも官司繋る縻し。風媼時に非ずして、人船返らざるに 至る。崇禎末より数船を失去し、淹死の官伴数百余人あり。之を言うに 酸痛となすべし。矧んや、今、国憲森厳、輸貢、伊に始むれば、冒昧を 揣らず、情を舒べて入告す。伏して乞うらくは、皇上勅して、従前の積 弊を禁じ、棍徒・衙蠹の詐騙、阻滞して帰期を失うを致すを許さざらん ことを。且つ今沿海の盗賊、諞に充斥す。諞安鎮より外は則ち大海に属 す。鎮内は則ち内港に属す。貢船到るに日、鎮外に聾ち難し。即ち鎮に 進み、内港に湾泊するを准し、安挿するを候つを聴さば、盗賊の虞を免 るるに庶からん。此の如くすれば、則ち遠人益々懐柔に服し、来貢来朝 すること、以て千万年を歴て絶えざらん等の因あり。  順治十年二月二十七日奏し、十一年三月十六日、聖旨を奉じたるに、 世子の奏を覧たり。知道せり。遠国の帰誠、宜しく体恤を加うべし。這 の請う所、勅印を給発し、併せて一応禁約安挿の事宜は、著して作速か に詳議具奏せしめよ。該部知道せよ、此を欽めよとあり。欽遵して部に 抄して(司に)送り、安呈部に到る。応に世子尚質に給すべきの封王の 勅印をもって、已経に臣が部具題して撰鋳するを除くの外、査得する に、勅印を齎捧して前往して王を封ずるの事例は、明朝、琉球国王を封 ずるに、科臣を遣わして正使となし、行人司官を副使となし、勅印を齎 して前往して冊封す。本朝の例は、凡そ冊印を賜いて在外諸王を封じ、 及び特旨を奉じて差遣するに、内院官、礼部官を差わすの例あり。亦酌 量して各衙門官を差遣するの例有り。該臣等議得したるに、世子尚質の 疏内に、勅印は伏して臣が王舅臣馬宗毅に賜いて帯回せしめるを乞うと 称うと雖も、但、琉球は初帰の遠国に係れば、相応に特に官員を遣わし て勅印を齎捧し、前往して冊封し以て皇上柔遠の意を示すべし。  又査するに、禁約の事宜は会典に開載す。各処の夷人朝貢、領賞する の後、会同館に於いて開市を許すこと三日、或は五日、惟だ朝鮮、琉球 は期限に拘らず、主客司告示を出給し、館門の首に張掛し、史書及び玄 黄紫*大花西番磽段疋、并びに一応違禁の器物を収買するを禁烈せし む。各舗の行人等、物をもって館に入り、染作布絹等の項と両平交易せ しめ、限を立てて交還せしむ。网買して故意に禄延騙勒し、夷人をして 久しく候つも起程を得ざらしむるに及るもの、并びに私かに相交易する 者の如きは、罪に問い、なお館前に於いて枷号一ケ月。各夷、故違に人家 に潜入して交易する者、私貨を官に入れ、未だ給賞せざる者の若きは、 量りて逓減をなす。辺を守るの官員に通行して曾経て違犯の夷人をもっ て起送して京に赴かしむるを許さず。凡そ会同館内外の四隣の軍民人 等、夷人に代替して違禁の貨物を収買する者は、罪に問うこと枷号一ケ 月。辺衛に発りて軍に充つ。私かに応に禁ずべきの軍器をもって夷人に 売与して利を図る者は、軍器をもって出境して因りて走れて事情を泄す 者に比依(し)て、律もて各々斬す。首たる者はなお梟首して衆に示す等 の因、案に在り。并びに、都牙を設立して評価し及び常用の糸綿を禁買 するの例無し。  該臣等議得したるに、以後、琉球は二年毎に朝貢、来京す。如し貨物 を貿易するあれば、応に会典の定例に照らすべし。違禁の貨物は収買す るを准さざるを除くの外、会同館に在りて其の両平交易するを聴し、畢 われば即ち回還して福建地方に至らしむるを准さん。該督撫厳査して阻 滞するを許さず。速やかに出境遣め、なお該督撫に行り、如しなお地棍 奸を作し、衙蠹詐騙する者有らば、厳に察訪緝拏を加え、重に従いて罪 を治せん。  又査するに、安挿の事宜は、会典は止だ、琉球の貢道、福建諞県に由 るを開うのみにして、并びに大海鎮の内港に安挿するの語無し。且つ辺 疆の地に係れば応に何処に在りて安挿すべきか、臣部、由りて知るなけ れば、未だ定議するに便ならず。応に該督撫に行して、今後琉球の朝貢 到るの日、安挿を酌量せしめん等の因あり。  順治十一年四月十八日題し、二十日聖旨を奉じたるに、琉球は遠国に して帰化忠誠嘉すべし。著して例に照らして特に(官)員を遣わし、勅印 を齎捧して前往せしめて冊封し、朕が柔遠の意を昭らかにせよ。余は議 に依りて行え。此を欽めよやとあり。欽遵して部に抄し、司に送り、案 呈部に到る。擬して合に就行すべし。此が為に合に貴国に咨す。煩為わ くば遵照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王に咨す 順治十一年六月十五日 [注1网買 かけで買う、かけ売り。2禄延騙勒 (借金等の)返済を  延ばし延ばしてだます、だましとること。3枷号 罪人に枷(かせ)  をはめ罪状を記して衆人の前にさらす刑罰。4察訪緝拏 調べまわ  って拿捕する。] [三一四 礼部より中山王世子尚質あて、進貢方物の数目および二年一貢は明制に遵いて定例とする旨の咨文]  礼部、進貢の事のためにす。主客清吏司案呈すらく、本部より送れる 礼科の抄出を奉じたるに、該本部、前事を題するの内に開すらく、該臣 部査得したるに、会典に開載す。琉球国進貢の年分は、永楽年以来、諭 して二年一貢ならしむ。進貢の方物の数目は、馬、刀、金銀酒海、金銀 粉匣、瑪瑙、象牙、螺殻、海巴、霈子扇、泥金扇、生紅銅、錫、生熟夏 布、牛皮、降香、木香、速香、丁香、檀香、黄熟香、蘇木、烏木、胡 椒、硫黄、磨刀石なりと、案に在り。該臣等議得したるに、琉球進貢方 物の数目及び二年一貢は、堆に応に、会典の例に照らして、該国中山王 に移咨し永く定例と為すべし。欽遵して施行せられよ等の因あり。  順治十一年三月二十八日題し、四月初一日聖旨を奉じたるに、是な り。議に依りて行え。此を欽めよやとあり。欽遵して部に抄し、司に送 り、案呈部に到る。擬して合に就行すべし。此が為、合に貴国に咨す。 煩為わくば、遵照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。  右、琉球国中山王に咨す 順治十一年六月十五日  咨す [三一五 中山王世子尚質より福建布政使司あて、慶賀のために派遣せる馬宗毅等を接回することについての咨文]  琉球国中山王世子尚質、慶賀に差遣せる官員を接回せんが事のために す。  照得したるに、順治九年七月内、天使謝必振、勅書一道を捧齎して、 敝国に再臨するを奉ず。随で文武百官を率いて迎接するの外、謹んで吉 日を択び、王城に在りて開読し、恭しく徳音を聆き、天朝の正朔に欣服 す。此を欽めり。欽遵して、即ちに順治十年二月内、虔んで礼儀を備 え、王舅・正議大夫、馬宗毅・蔡祚隆等を差遣して、天使に附して同に 中朝に到り、慶賀せしむるの外、故明の勅印を炸め、勅諭に遵依して清 朝の符節もて、永く邦国を鎮めんことを求む等の因あり。此が為貴司に 移咨す。乞う、咨文内の事理により、礼部に転移し、敝国をして旧を去 り、新に従い、耳目を改達して、明を舎てて清に事え、心志惟一ならし めば、則ち貴司の鴻恩、施して方外に及ぶこと、寧くんぞ既くるあらん や等の因あり。貴司に到る。此を准けたり。随で査して三院に転詳して 具題せしむるの外、方物は、王舅・正議大夫、馬宗毅・蔡祚隆、使者・ 都通事、富自盛・王明佐等をして、起送して京に赴き朝見せしむ。及び 存留在駅の通事鄭宗善等は事竣るを候ち、別に国に送回せしむ等の因あ り。国に到る。  此を准けたれば、即ちに順治十一年三月内、遵依して咨を備え、都通 事・使者、田時盛・馬知記等を差遣し、海船一隻に坐駕し、応に風を占 いて解纜するを候つべし。時に当たりて発*、揚帆し、前みて福建地方 梅花港口に赴くも、海寇に阻亟せられて敢えて進入せず、逃竄して国に 回る。 此を拠け、又順治十二年二月内、再び都通事・使者、田時盛・馬知記 等を差遣し、海船に坐駕して前みて福建地方福寧州外山に赴くも、又海 寇の船十、全隻放銃するに逢い、残破せられて、暫時避躱して洋中に逃 去し、逆風に遇着して、太平山に飄至す。即ち五月内に、本国に回到す 等の因あり。藩臣慍を積んで聊ずる無し。此に拠りて、朝見の事竣るの 員役王舅、正議大夫、使者、都通事等の官馬宗毅、蔡祚隆等の官、期に 及べば応に廻るべし。只船無きに依り、以て回国し難し。  此が為、今又特に使者、都通事等の官英俊、林士奇等の官を遣わし、 海船一隻に坐駕して馳せ去きて接回せしむ。闕に叩して事竣るの王舅、 正議大夫、使者、都通事、通事等の官、馬宗毅、蔡祚隆等、聖諭を奉じ たるに、貢期は之限りありて重務なれば、藩臣の微忱を展布せん等の因 あり。此が為、咨を備え、都通事林士奇、訳導使者英俊等を差遣し、水 吮を率領して海船一隻に坐駕し、前みて天朝に赴き、事竣るの官員王 舅・正議大夫、馬宗毅・蔡祚隆等の官を接回して一併に携え帰らん。夏 蚤媼に及べば、伏して乞うらくは、移文して摘して回国せしめられよ。 此が為、理として合に貴司知会すべし。煩為わくば査照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使に咨す  順治十三年二月十六日 [注1英俊 不詳(英常春か)。] [三一六 聖祖より中山王世子尚質あて、冊封正副使の渡琉延期等を責め、琉球使臣を速やかに帰国せしむ旨の勅諭]  皇帝、琉球国世子尚質に勅諭す。爾が国、恩を慕いて化に向い、使を 遣わして入貢す。世祖章皇帝乃の誠を抒べるを嘉して、特に恩賚を頒 ち、正使兵科副理官張学礼、副使行人司行人王垓に命じて勅印を齎捧し て、爾を封じて琉球国中山王と為さんとす。  乃に海道未だ通ぜず。諞に滞ること多年にして、爾の使人物故するも の甚だ多きを致す。及学礼等、制を奉け回京の日に乎いて、また前情を 将て奏明せず。該地方の督撫諸臣また奏請を行わず。朕が屡旨して詰問 するに膤んで、方めて此の情を悉す。朕念うに爾の国は心を傾けて、貢 を修むれば宜しく優恤を加うべし。乃に使臣及び地方各官の逗留遅誤す るは、豈朕が柔遠の意ならんや。今已に正副使、督撫等の官を将て、分 別して処治し、特に使臣に恩賚を頒つに此前に加倍す。なお正使張学 礼、副使王垓を将て其れをして自ら前罪を贖わしむ。暫らく原職に還し 著して、使人を速送して、本国に帰還せしむ。一応勅封の事宜はなお世 祖章皇帝の前旨に照らして行うべし。  朕爾が国の未だ朕が意を悉さざるを恐る。故に再び勅諭を降して爾を して聞知せしむ。爾其れ益厥の誠を殫くして朕が命に替う毋れ。欽め よや、故に諭す。   康煕元年十月二十八日(再対して之を正す)  [注1張学礼 尚質王の冊封正使。生没年未詳。一六五四年(順治十   一)に任命されたが、明末清初の動乱で陸・海ともに不穏な中、容   易に出発できず、十年後の六三年(康煕二)に至って副使王垓らと   ともに来琉した。2王垓 尚質王の冊封副使。生没年未詳。明清交   代期の混乱のさ中、任命後十年を経て来琉したが、王府にとって突   然の来琉となり、接待の用意も整っておらず、一行の宿舎の手当て   等々苦慮したという。  ※『中山世譜』『球陽』の尚質の条に関連記録あり。] [三一七 福建布政使司より中山王世子尚質あて、明朝の勅印を炸納して、清朝の勅印を受けるについての咨文]  福建等処の承宣布政使司、勅諭に遵依して、勅印を炸納せんが事のた めにす。  琉球国中山王世子尚(質)の咨を准け照し得たるに、該国、順治六年九 月十三日に于て天使の按臨を蒙り、恭しく文武百官を率いて迎接開読す るの外、奈んせん舟楫未だ備わらずして礼儀弁じ難きに緑り、先に表文 を具して投誠せんとす。特に通事周国誠を遣わして天使の帰朝を護送せ しむ。祈寛すらくは来祀、闕廷に稽*して慶賀せん。該国、豈敢えて期 を愆たんや。即ち順治七年十月内に不腆の方物を虔備して事大の令典を 敬修し、王舅、正議大夫、使者、都通事、阿榜掫、蔡錦等の官を差遣 し、皇帝陛下并びに中宮殿下に齎捧して各々慶賀を行い、満擬天廷に上 達せんとするも、風神崇を作せば或いは沈淪し、或いは漂蕩するを期す 可けんや。海洋隔絶して音信杳然たり。幸に旧年八月内に天使敝国に再 臨して方めて挙国夕徨するを知る。咎を引くに暇あらず。随に日を択ん で王城に迎進して新綸を開読す。煌煌たる天語、敢えて欽承せざらん や、奈んせん、洪武より歴朝の勅は、敝国先王終を告ぐれば、即ちに本 王の勅を将て同に埋葬を行いて、今已に存する無し。只尚寧王より今に 至るまでは未だ葬せず、其の勅猶在り。勅は歴朝各一なり。印は惟だ洪 武に専ら錫るのみ。今、なお礼物を具し、王舅、正議大夫、馬宗毅、蔡 祚隆等を遣わし、天使に附して同に中朝に到らしめて慶賀せしむるの 外、故明の勅印を炸し、勅諭に遵依して清朝の符節を求め、永く邦国を 鎮めん等の因あり。此が為に本司に移咨す。乞うらくは咨文内の事理に 依りて礼部に転移し、敝国をして旧を去りて新に従い耳目改達して明を 舎て、清に事うるの心志惟一にせしむれば、則ち鴻恩は方外に施及びて 寧くんぞ既くる有らんや。此が為に除外に、附搭の土夏布二百疋は官に 従りて絹帛に兌換せん等の因あり。照例に遵依して附搭し咨に載せて前 来す。伏して乞うらくは査照して施行せられよ。  又乞うらくは、回文を賜りて以て報命に便ならしめんが事の為にす。 本年五月十三日、巡撫部院加三級許の批を奉け、琉球国正議大夫蔡祚隆 の呈に拠るに称すらく、切うに敝国凡そ進貢に逢いて入りて賀するに、 本国王例として咨文有りて布政司に投逓す。去るの時、理として合に回 文を請乞してもって報命に便ならしむ。今隆等、蹇して寇阻に遭い諞に 住まること多年。今に迄るまで官伴の飄風するもの共に三十七員名な り。一併に帰国するに、伏して乞うらくは老爺台、布政司に勅行して、 例に照らして給賜せらるれば、報命するに憑有りて、家挙銜結するに庶 からん等の情あり。批を奉けたるに布政司に仰じて、例に照らして即に 回文を給せしむ、とあり。速速やかに此を奉じて照得したるに、我が清、 鼎定して順治六年の間より、欽んで勅諭を須ちて、特に使して詔開する の時、即ち粛慎して祗迎えて 懇に表奏を款す。允なる哉、君臣徳を合わ せて遐迩みな歓ぶ者なり。八年の間に至るに膤んで詔使重ねて貴国に発 す。此れ即ち明印を炸納して旧を舎てて新に従い、遠く方物を貢す。 十一年の間に当たりて載命を欽奉したるの科・司、国印を捧須するも縁 海に寇氛起こるに因り、時日を濡遅す。茲に朝廷復た眷顧を加えて使を 遣わし、兵を撥して王印を衛送し、曁び来人の返国は総べて、尊王を寵 錫するの義にしてまた柔嘉の鴻沢、誠に優渥なり。計るに寇類日に澄清 に款るは目を拭いて期す可し。此従り、上下永く偕に徳を一つにして、 往来自ら貲さず。今、遣還して帰国せしむるに当たり、擬して合に移覆 すべし。此が為に由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば知照して施行せ られよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕二年五月十三日   勅諭に遵依して勅印を炸納せんが事 [注1巡撫部院加三級許 許世昌。在職は順治十八〜康煕五年。病によ  り免職。2濡遅 ぐずぐずする、とどこおる。] [三一八 中山王尚質より聖祖あて、正副使等の過失を宥免し、勅書、勅諭を懇留することについての上奏文]  琉球国中山王臣尚質、謹んで奏して天恩を恭謝せんが事のためにす。  臣尚質、海隅庸劣なるも聖朝に遭際して、先帝柔遠の仁、撫字優恤せ らるるを荷くす。十余年来、海道未だ通ぜず、臣に賜う所の勅印、滞諞 多日なりと雖も、然れども島嶼の帰悃、臣民の向化、未だ嘗て一日とし て遐迩の間有らざるなり。恭しく皇上の践祚して、景命維れ新たなるに 逢うも臣一隅に僻処して、遠く万里を隔つれば、匍匐梯航して、畑半に 舞蹈する能わず。天王の聖明に在りては量るに覆載を逾ゆ。庭せざるの 誅は臣実に弔弔たり。廼臣、冒昧を揣らずして敢えて君父の前に披瀝す る者有り。皇上の仁孝は天成にして父臣を改めず。なお正使兵科副理官 張学礼、副使行人司行人王垓を遣わして、先帝の勅印、幣帛を齎捧す。 本年七月十七日に於いて臣恭しく香案を設け闕を望み、叩頭し跪して宣 読するを聴き、鈴皇上微臣を軫念して恩賚を倍加せらるを知る。臣弾 丸荒陋にして、即頂踵を損竭するも何を以てか天恩を万一に報いるやを 知らず。  但だ臣皇上の勅諭を捧読したるに、臣の使人の物故甚だ多く、滞諞日 久しきがために、正副使并びに督撫の諸臣を将て分別に処治せらると。 臣拊躬捫心して感悚して地無して。伏して念うに物故多人なるは各々命数 有り。已に我が皇上の格外の殊恩を蒙りたれば、死するも余栄有らん。 材を椋えて工を鳩め兵を繕め、将を選び、浪を破り風を衝き、艱険万里、 以て大典を竣るに至っては、臣敢えて諸臣を非とするを謂わず。皇上 の微臣を恩寵するの至意を仰遵して,以て此に至るなり。臣已に躬ら天 の明を承く。窃かに億万斯年を幸い、世々藩募を守るも、少しも諸臣の 報を為す能わずして、而して反りて重ねて諸臣の累を為さん。中外均し く臣子に属す。臣何人か斯れ豈宴然として清夜する能わんや。伏して祈 るらくは皇上推して、先帝の誠を継述し、広く群工の恵を錫類し、微臣懇 切の愚衷を憫念して勅もて吏部に下し悉く優叙を加うれば、雷霆雨露、 天恩に非ざる無く、臣愚忱を聊耡して獲て以て稍舒ぶるに庶からん。  臣再び請う者有り。先帝の勅書、皇上の勅諭は、臣已に懇留して奉じ て伝国の宝と為し、且つ使臣の子子孫孫、永く皇恩を已むなきに戴かん と。理として合に題明すべし。臣曷んぞ激切悚息にして待命の至りに勝 えんや。此が為に具本す。陪臣呉国用、金正春をして抱齎して謹んで具 して奏聞す。  康煕二年十月二十二日 琉球国中山王臣尚質、謹んで上奏す  [注1庭せざるの誅 来庭(入貢)せざるの責罰の意。2父臣を改めず    父の臣下(ここでは先帝の順治帝が琉球の冊封使として任じた張   学礼、王垓のこと)を交代しない、解職しなかったこと。3香案    香炉をのせる机、台。4拊躬捫心 躬を拊ち胸をおさえる、苦慮・   苦悩するさま。5雷霆雨露…無く 雷霆(かみなり)、雨、露などすべ   ての現象が天恩であること。6聊耡 おそれつつしむこと。7呉国   用 首里向氏の五世(伊志嶺家の初代)。北谷親方朝暢。一六〇七   〜六七年。尚質王代の三司官。後の向国用。一六六三年(康煕   二)、尚質冊封の謝恩王舅として渡唐。翌年、帰国のため滞諞中、   次いで渡唐した康煕帝登極の慶賀船中で、献上品の金壷盗難、乗員   の毒殺事件が発生。帰国後、甼藩の事件究明の結果、慶賀船中に北   谷を迎えるため同人の家来がいたこと、事件にも関係していたこと   などが明らかとなり、一六六七年、責任を問われて打ち首となった   (北谷・恵祖事件)。7金正春 金思徳(二九九項)の注参照。] [三一九 中山王尚質より聖祖あて、冊封正副使に謝礼金の収受を願う上奏文]  琉球国中山王臣尚質、謹んで奏して頒封の事竣り、特に覯金を辞して 以て使節を重んぜんが事のためにす。  康煕二年、欽差使臣兵科副理官張学礼、行人司行人王垓、大典を捧頒 して、恩綸を宣播するを蒙る。奕葉光栄、山川怱耀、冠裳物惆、国と更 新し、号令茲より伊始まる。これ誠に天朝特賜の殊恩にして、而して臣 質、曠世の奇遇なり。臣拝受して感激し、曷んぞ歓*に勝えんや。  窃かに惟うに皇上の感蓋、無外にして恩を寡昧の躬に覃ぼし、禁従を 労勤して、重ねて窮僻の国に辱履するを至す。愧ずる所は、臣が小邦荒 野にして以て敬を将す無し。故に宴款の際に於いて物に代うるに金を以 てす。自ら菲薄を知ると雖も、実に世々縁りて以て例と為す。乃ち辱く も二使臣、屡宴するも屡辞すること再三に至り、大義を堅持して固く 却けて受けず。氷霜の大節、日月照らすなり。臣が挙国の臣民固よりも って間無きを信ず。念うに二使臣、艱難労辛して、遠く風涛を渉ること 万里、敝国物に藉りて敬を表し、礼は儀を将てせざれば臣が心実に窃か に安んじ難し。後た屡宴するの前金併びに具書を封じて特に法司、大 夫、長史等の官を差わし、犲ら送りて受くることを懇う。意ざりき、復 た書を煩わし、官を遣わして送還して固辞す。窃かに謂うに、天使清白 自ら持す。誠に聖朝の臣節の重、外国藩臣の表たり。微臣徳に酬い功に 報いるに万一を展ぶる莫く、殊に旧礼欠くる有りて、微敬未だ伸べざる を慚ず。乃ち天子の使臣を簡慢し、窃に斧鉞の誅を惶恐す。謹んで送還 せる屡次の宴金二封、共計一百九十二両をもって具本して、遣わせる謝 恩の官法司王舅呉国用、紫金大夫金正春等に附して順齎して奏聞す。懇 乞すらくは、聖恩もて二使臣に勅賜して、収受せしめらるれば、臣質惶 懼悚僚の至りに勝えず。  康煕二年十月二十二日 琉球国中山王尚質、謹んで上奏す [三二〇 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて,冊封に対する謝恩として法司王舅呉国用等を派遣することについての咨文]  琉球国中山王尚質、謝恩の事のためにす。  康煕二年、欽差正使兵科副理官張学礼、副使行人司行人王垓、詔勅印 を齎捧して随従の員役を帯し、海船二隻に坐駕して、六月二十七日に於 いて本国に到るを蒙る。旧例に照依して文武百官等詔勅印を那覇港口に 奉迎し、天使館中に款奉し、七月十七日に於いて、天使の詔勅を宣読し て質を封じて中山王と為し、欽賜の蟒緞、綵緞等の項并びに妃に綵幣等 の物を荷授す。質百官と同に拝舞し北向叩頭して恩を謝するの外、随で 天使に請いて詔勅印を留めて鎮国の宝と為さんことを懇う。天使其の誠 の切なるに鑑み依りて留むるを聴許さるるを蒙る。  窃かに惟うに質、海東に遠処し、荒島に托居す。一統の正朔を奉じ、 朝廷の深恩を荷う。実に寵霊に憑藉して、此の一方に長たり。質、封を 請うに勤懇にして遠く馳せ、天使大典を捧頒して恩綸を宣播す。奕葉光 栄にして山川怱耀す。冠裳物惆、国と与に更新す。号令約束、茲従り伊 始まる。これ誠に天朝特錫の殊恩にして質、曠世の奇遇なり。封栄を拝 受して以来、風雨調和す。是、天沢、一たび臨むは特に質が身、殊栄を 荷うのみならず以て業を墜さざるべし。即ち挙国の人民、全活を保つを 得るは、実に皆天朝生成の大賜なり。叨くも洪恩を荷うこと天地と等同 しくす。欣躍感戴名言を煕くし難し。愧ずる所は、小国、瘠たる荒野に して万一に図報すること能わず。惟、挙国の臣民と与に、愚鈍を竭し、 外藩を堅守するを矢い、聖寿を万億の長春に祝り、皇恩を子孫世世無窮 に頌せんのみ。  義は土を守るに在るに縁り、敢えて擅ままに離れず。謹んで斎沐して 法司王舅呉国用、紫金大夫金正春等を遣わし、表本各一通を齎捧し、夷 吮を率領し、海船一隻に坐駕して、小国土産の金*賁腰刀二把・銀*賁 腰刀二把・黒漆*賁鍍金銅結束笆刀一十把・黒漆*賁鍍金銅結束鎗一十 把・糸線穿鉄甲一領・鍍金護手護*各全・鉄*一頂・黒漆洒金馬鞍一坐・ 轡頭**前後牽軸各項の件全・金彩画募風二対・金面扇一百把・銀面扇 二百把・水墨画扇二百把・紅銅五百簧・土糸綿二百束・胡椒五百簧・土 苧布一百疋・芭蕉布二百疋・紋芭蕉布一百疋を装載して前み来りて京に 赴き謝恩せしむ等の情あり。伏して転題せられんことを乞う。其の来る 法司王舅、紫金大夫、使者、都通事等の官呉国用、金正春等、起送して 京に往く。其の船は夏蚤媼に及びて発回せば、冗費を免れ便に捷く馳せ て平安を聞するに庶からん、等の因あり。  此が為に理として合に貴部、貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば 査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部・福建等処の承宣布政使司に咨す  康煕二年十月二十二日   咨を発す  [注1業を墜さ(ず) 先祖の業績を穢さない、ケチをつけないこと。] [三二一 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、聖祖登極の慶賀使派遣等についての咨文]  琉球国中山王尚質、慶賀進香の事のためにす。  照し得たるに康煕二年六月内に欽差兵科副理官張、行人司行人王、詔 勅を齎捧して、国に到る。迎えて王城に至り開読して欽遵せり。虔しく 方物を備え、特に王舅、正議大夫、使者、都通事等の官英常春、林有材 を遣わして、表文を齎捧し、海船一隻に坐駕して土産の金*賁腰刀二 把・銀*賁腰刀二把・金罐一合共に重さ六十六両六銭八分・銀罐一合共 に重さ五十両六銭正・細嫩土蕉布一百疋・漂白土苧布一百疋・金彩画帷 募一合・平面金扇五十把・平面銀扇五十把・紅花一百簧・胡椒二百簧・ 蘇木一千簧を装載して進奉し、皇上の登極を慶賀す。復た金粉匣一合共 に重さ七両四銭六分・銀粉匣一合共に重さ七両二銭一分・平面金扇二十 把・平面銀扇二十把・細嫩土蕉布二十疋・漂白土苧布二十疋は、中宮殿 下に進奉し、并びに世祖章皇帝に香品を進奉するあり。  それ承遣の王舅、正議大夫、使者、都通事等の官英常春、林有材等は 例に照らして京に赴き表併びに方物を進め一起に京に解りて進奉せし む、等の情あり。理として合に貴部、貴司に移咨して知会せしむ。煩為 わくば察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部・福建等処の承宣布政使司に咨す  康煕三年二月十五日  [注1英常春 首里英氏の三世。恵祖親方重孝。一六一二〜六七年。一   六六五年、聖祖康煕帝登極の慶賀王舅となり渡唐したが、諞江河口   で遭難、ついで海賊の襲撃をうけた。その際、献上品の金壷の盗   難、乗員間の毒殺事件が発生した。それでも何とか赴京して慶賀し   たが、帰国後、甼藩の事件究明で、管理責任等を問われて、六七年   打ち首となった(北谷・恵祖事件)。] [三二二 福建布政使司より中山王尚質あて、尚質冊封への謝恩使派遣についての咨文]  福建等処の承宣布政使司、謝恩の事のためにす。  琉球国中山王尚(質)の咨を准けたるに、康煕二年、欽差正使兵科副理 官張、副使行人司行人王、詔勅印を齎捧し、随従の員役を帯して、海船 二隻に坐駕し、六月二十七日に於いて本国に到るを蒙る。旧例に照依し て文武百官等、詔勅印を那覇港口に奉迎し、天使を天使館中に欽奉す。 七月十七日に於いて、詔勅を宣読して封じて中山王と為し、欽賜の蟒 緞・綵緞等の項并びに妃に綵幣等の物を荷捧す。百官と同に拝舞し、北 向叩頭して恩を謝するの外、随で天使に、詔勅印を懇留して鎮国の宝と 為さんことを請う。其の誠の切なるに鑑み依りて聴許さるるを蒙る。  窃かに惟うに海東に遠処して荒島に托居し、一統の正朔を奉じて、朝 廷の深恩を荷くす。実に寵臨に憑藉して此の一方に長たり。封を請うこ と勤懇なれば、遠く馳せて天使、大典を捧頒し、恩綸を宣播す。奕葉光 栄にして山川怱耀す。冠裳物惆は国と与に更新す。号令約束、此より伊 始まる。誠に天朝、特賜の殊恩にして、曠世の奇遇なり。封栄を拝受し て以来、風雨調和し、挙国の人民の全活を保つを得るは実に皆天朝生成 の大賜なり。愧ずる所は小国荒野にして、万一に図報すること能わず。 惟だ挙国臣民と与に愚鈍を竭して外藩を堅守するを矢い、聖寿を万億の 長春に祝り、皇恩を子孫世々の無窮に頌せんのみ。  義は土を守るにあるに縁り、敢えて擅ままに離れず。謹みて斎沐して 法司王舅呉国用、紫金正議大夫金正春等を遣わして表本各一通を齎捧し て、夷吮を率領し、海船一隻に坐駕して、土産の金*賁腰刀二把・銀* 賁腰刀二把・黒漆*賁鍍金銅結束笆刀一十把・黒漆*賁鍍金銅結束鎗一 十把・糸線穿鉄甲一領・鍍金護手護*各全・鉄*一頂・黒漆洒金馬鞍一 坐・轡頭**前後牽軸各項の件全・金彩募風二対・金面扇一百把・銀面 扇二百把・水墨画扇二百把・紅銅五百簧・土糸棉二百束・胡椒五百簧・ 土苧布一百疋・芭蕉布二百疋・紋蕉布一百疋を装載して、前み来りて京 に赴き謝恩せしむ。伏して転題せられんことを乞う。其れ来たる法司王 舅、紫金正議大夫、使者、都通事等の官呉国用、金正春等、起送して京 に往かしめ、其の船は夏蚤媼に及びて発回せば、冗費を免れ便に捷く馳 せて平安を聞するに庶からん、等の因ありて司に到る。  此を准け、随で本年三月二十六日に於いて、差使、齎到の方物及び法 司王舅呉国用、紫金正議大夫金正春、都通事陳初源、併びに随帯の人伴 を将て、批文を親領して詳さに土通事謝必振に着して伴送せしめて京に 赴き謝恩せしむるを除くの外、其れ存留在駅の者は照依して安挿し、下 次の貢船の到るの日を聴候して別に発回を行い、更に応に先に摘びて国 に返さしむべし。使者孫俊用、都通事孫自昌の二員并びに吮伴読記等共 に七十四名は今夏の媼、期に届るに及べば風に乗りて国に返すべく、合 に就ち遣発せしむべし。此が為に由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば 知照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三年四月二十七日  [注1陳初源 久米村陳氏(幸喜家)の二世。幸喜親雲上。生没年未詳。   崇禎〜康煕間、火長、都通事として度々渡唐している。2孫俊用    未詳。] [三二三 礼部より中山王尚質あて、謝恩の礼物を領収した旨の咨文]  礼部、知会の事のためにす。主客清吏司案呈す。照し得たるに琉球国 中山王尚(質)、王舅呉国用、紫金大夫金正春等を差わして、恭しく謝恩 の礼物を進めて来京し、已経に本部具題して旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到る。礼物を将て総管 内務府に送りて収貯し訖るを除き、相応に知会すべし。此が為に合に咨 して前去せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕三年八月十四日   咨す  [注1総管内務府 皇室所属の官庁である内務府のことであろう。内務   府は宗人府とともに皇室の事務一切を管掌した。長は内務府総管大   臣。属司に七司あり。その一司の広儲司は庫蔵出納の事務を掌って   おり、府属の諸司よりの交付、各省よりの貢進を受けて各該庫に収   蔵をなしている。琉球よりの礼物もここ、内務府広儲司に送られた   のであろう。] [三二四 礼部より中山王尚質あて、冊封正副使ら関係者の処分を優叙し、勅書懇留についての上奏を許すことについての咨文]  礼部、天恩を恭謝する事のためにす。  主客清吏司安呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、琉球国中山王尚(質)の奏せる前事に題覆す等の因あり。康煕二年 十月二十二日奏し、康煕三年七月十二日旨を奉じたるに、王の謝を奏す るを覧たり。知道了り。余は着して議奏せよ。該部知道せよ。此を欽め よやとあり。欽遵す。本月十二日に於いて部に到る。  該臣等看得したるに、琉球国中山王尚質の疏に称すらく、皇上の勅諭 を捧読するに臣が使人物故甚だ多きは滞諞日久しきが為なり。正副使并 びに督撫諸臣を将て分別に処治すとあり。伏して祈るらくは、皇上先帝 を継述するの誠を推め、群工に錫類するの恵を広め、微臣の懇切愚衷な るに憫念して、勅もて吏部に下して悉く優叙を加えられよ。臣再び請う 者あり、先帝の勅書、皇上の勅諭は、臣已に懇留して奉じて伝国の宝と 為さんと。且つ臣が子子孫孫をして永く皇恩を已む無に戴かしめん。 理として合に題明すべし等の語あり。  査するに康煕元年九月内に臣が部の題覆に、吏部、微臣の諞に駐るこ と五年等の事のためにするの一疏あり。旨を奉じたるに、琉球使臣、王 と総督に着して、作速に船隻を修備して即ちに福建において発回し、応 に部官を差して来使を賞賜すべし。併せて久しく留めたるの各官を将て 処分するの情由に因って勅を降して暁諭す。爾が部速やかに議して具奏 せよ。此を欽めよやとあり。臣が部随ちに旨に遵いて議して賞賜を来使 に給し、并びに内院に移文して勅を撰して暁諭せしむ等の因あり。具題 して旨を奉じたるに、琉球使臣、前来して年久しきは殊に憫むと可きと為 す。這に賞賚するに着して前に比するに一倍を加え、彼の国の貴重の物 を以て給与せよ。其れ先差して撤回せる張学礼、王垓は、なお着して原 官に復して同に往かしめ、事成れば回するの日、原任を以て用いよ。如 し事成らずんば重きに従いて議処せよ。余は議に依れと。欽遵して案に 在り。今、張学礼、王垓前みて琉球国に至り、王を封じて京に回る。琉 球国王疏して称すらく、臣の使人物故甚だ多きは、滞諞日久しきがため なりの情由ありて、正副使並びに督撫諸臣を将て分別に処治すとあり。 伏して祈るらくは、皇上微臣の懇切の愚衷に憫念して、勅もて吏部に下 して悉く優叙を加えられんことをとの縁由は、応に勅もて吏部に下して 議覆せしめんことを請うべし。其れ先帝の勅書、皇上の勅諭は懇留して 伝国の宝と為さんとの縁由は来使に問うに称すらく、伊国の定例に照ら して具奏すべし等の語あり。別議を容るる無きも、臣等未だ敢えて擅便 せず。謹みて旨を題請す等の因あり。康煕三年七月二十四日題し、本月 二十六日旨を奉じたるに、議に依れ。此を欽めよやとあり。欽遵す。抄 出して部に到り司に送る。此を奉けて相応に移会すべし。案呈して部に 到る。擬して合に就行すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わ くば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕三年八月十四日  [注1群工 百工、百官と同じく、多くの官吏の意であろう。2錫類   錫善と同じく、よい仲間を賜う、また善良な者があるようにするの 意。] [三二五 礼部より中山王尚質あて、琉球にて冊封使が固辞した宴金につき勅許もて収受せしめたき旨の咨文]  礼部、頒封の事竣りて、特に覯金を辞して以て使節を重んずる事のた めにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、琉球国中山王尚(質)の奏せる前事に題覆す等の因あり。康煕二年 十月二十二日奏し、康煕三年七月十二日、旨を奉じたるに、該部議奏せ よ、此を欽めよやとあり。欽遵して七月十二日において部に到る。  該臣等、議し得たるに、琉球国中山王尚質の疏に称すらく、二使臣宴 金二封、共計一百九十二両封送するも固く却けて受けず。遣わしたる謝 恩官呉国用、金正春等に附して順齎して奏聞せしむ。懇乞すらくは聖恩 もて二使臣に勅賜して収受せしめられんことを等の語あり。随で張学 礼、王垓に金の外に饋送の別物有りや否やを問うに回称すらく、布各五 十疋、扇各五十把、煙各五十匣、小刀各十把を送らる。倶に小物に係 り、已経に収受せり。其れ金は退け回す等の語あり。布疋等の物は既経 に収受せるも、これ金は便ならず。議して収受を准さるれば可なり。臣 等未だ敢えて擅便せず。謹みて旨を題請す等の因あり。康煕三年七月二 十五日題し、本月二十七日旨を奉じたるに、這琉球国与うる所の宴金 は、なお使臣に着して収受せしめよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄 出して部に到り司に送る。此を奉じて相応に移会すべし。案呈して部に 到る。擬して合に就行すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わ くば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕三年八月十四日 [三二六 福建布政使司より中山王尚質あて、聖祖登極の慶賀船難破して貢物を欠くも補備を免じて慶賀するを准した旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、慶賀進香の事のためにす。  琉球国中山王尚(質)の咨を准けたり。照し得たるに康煕二年六月内 に欽差兵科副理官張、行人司行人王、詔勅を齎捧して国に到る。迎え て王城に至りて開読す。此を欽み、欽遵す。虔みて方物を備えて、特に 王舅、正議大夫、使者、通事等の官英常春、林有材等を遣わし、表文を齎 捧し、海船一隻に坐駕し、土産の金*賁腰刀二把・銀*賁腰刀二把・金 罐一対共に重さ六十六両六銭八分・銀罐一対共に重さ五十両六銭正・細 嫩土蕉布一百疋・漂白土苧布一百疋・金彩帷募一対・平面金扇五十把・ 平面銀扇五十把・紅花一百簧・胡椒二百簧・蘇木一千簧を装載して進奉 して皇上の登極を慶賀せしむ。復た金粉匣一対共に重さ七両四銭六分・ 銀粉匣一対共に重さ七両二銭一分・平面金扇二十把・平面銀扇二十把・ 細嫩土蕉布二十疋・漂白土苧布二十疋もて中宮殿下に進奉し、并びに世 祖章皇帝に香品を進奉する有り。其の遣を承けたる王舅、正議大夫、使 者、都通事等の官英常春、林有材等は例に照らして京に赴き、表併びに 方物を進めて一起に京に解り、其の在船の使者、通事等の官は以て夏媼 に便じて回国せしめられよ等の因あり。司に到る。此を准けたり。  続いで慶賀進香の船隻、驟かに風涛に阻まれ恩を*り、酌議もて題請 せんが事のためにすとあり。巡撫部院加三級許の憲牌を奉け、礼部の咨 を准け、該本部前事を題覆す。康煕四年正月十七日旨を奉じたるに、該 部議奏せよ。此を欽めよやとあり。欽遵す。議し得たるに、福建巡撫許 の疏に称すらく。琉球国慶賀の船隻、康煕三年十月二十三日に於いて已 に梅花港口に到る。意わざりき、萃に風涛に遭うこと*日、二十五日 半夜に至りて彝船を閣破し、以て進貢の方物・人員飄靫するを致す。 止だ、表章一道、礼部并びに布政司公文各一角、金銀*賁腰刀各二把を 存するのみ。所有の表章は、今英常春呈請すらく、或いは捧齎して闕に 赴かしむるか、抑彼の国の方物を補備するを候ちて進呈せしむかと、等 の語あり。査するに船隻は、風に因りて閣破すれば、其の飄失の方物は 応に補備を免ずべし。現に在るの表章の物件は応に来使に着して齎送し て京に来らしむべし。其の水靫の死人六名は、もし官員に係れば理とし て応に賜恤すべし。査して従人に係れば応に例に照らして各に官材の価 紬各一疋を給し、該地方の官に着落して来使に給与せしむべし。其れ把 総の張子竜、兵丁の林明は援に赴くに因りて同に靫して存する無し。事 は兵部に属す。応に兵部の議覆に聴せて可なり、等の因あり。康煕四年 二月初一日題し、初三日旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあ り。欽遵す。抄出して部に到り司に送る。此を奉けたれば相応に移咨す べし。案呈して部に到る。合に咨して前去せしむ。本部の覆奉せる旨内 の事理に査照して、欽遵して施行せよ、等の因あり。部院に到る。此を 准け、擬して合に就行すべし。牌を備えて司に行り、咨文内の奉旨の事 理に遵い、即便に、齎使に転行して知照せしめよ。其の飄失の方物は応 に補備を免じ、現に在るの表章の物件は齎送して京に来らしむべし。靫 死の従人六名は例に照らして各に棺材の価、紬各一疋を給すべし。部文 に遵照して、該地方の官に着落し来使に給与して取りて収領せしむ。并 びに来使の京に赴くは往例に査照して着令し、起行の日期は院に報ぜし めて査覈施行せしめよ等の因あり。此を奉けたり。  随で本年四月二十四日に於いて差使の齎到せる方物の飄失して存する 無き者を将て計せざるを除くの外、現に在りて存留するの表章一道、金 銀*鞘腰刀各二把及び王舅英常春、正議大夫林有材、都通事阮起竜等併 びに随帯の人伴は親ら批文を領し、土通事鄭裴に詳着して伴送して京に 赴き慶賀せしむるの外、其れ留辺在駅の者は照依して安挿し、下次の貢 船の到るの日を聴候しめ。京に赴くの各員伴を将て別に発回を行う。更 に応に先摘して回国すべきの使者都良資、都通事林士奇并びに前次入都 して謝恩して京より回るの法司王舅呉国用、紫金大夫金正春、都通事陳 初源等及び新旧の吮伴読記等共計一百二十七員名は今夏の媼期に届るに 値えば風に乗じて返国し。合に就ちに遣発すべし。此が為に由を備えて 貴国に移咨す。煩為わくば知照して施行せられよ。須く咨に至るべき者 なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕四年五月初一日  [注1*日 一日中、終日。2阮起竜 久米村阮氏の二世(許田家初   代)。天久親雲上。生没年未詳。3批文 さしず、指令書、許可書   のこと。ここでは英常春らのその後の行動(赴京等)についての指   令書であろう。4都良資 首里都氏の出か。未詳。  ※後に「北谷・恵祖事件」に発展してゆく、聖祖康煕帝の登極慶賀船   (正使王舅英常春恵祖親方)の遭難を報じた文書。『中山世譜』「琉   球評定所文書」三二号他、『球陽』、向氏・英氏家譜等に関連記事あ   り。] [三二七 礼部より中山王尚質あて、先の決定に従って英常春等に慶賀せしめ終えた旨の咨文]  礼部、知会の事のためにす。主客清吏司案呈す。照し得たるに琉球国 中山王尚(質)、差来の王舅英常春、正議大夫林有材等、皇上の登極を慶 賀し、中宮殿下に礼物を進め、併せて世祖章皇帝に香品一*を進めんと す。来りて梅花港口に至り、萃に風涛に遭い、船隻を閣破し方物飄失 して、止だ表章一道、金銀*賁腰刀各二把及び本部并びに布政司への公 文を存するのみ。本部已経に具題す。船隻は風に因りて閣破すれば、飄 失の方物は応に補備を免ずべし。現に在るの表章の物件は応に来使に着 して齎送して京に来らしむべし、等の因あり。旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよやとあり。欽遵して案に在り。  今英常春等、表章一道を齎し到る。本部具題して御覧に進呈し訖れ り。其の金銀葉包隔手の*賁腰刀各二把は総管内務府に交送して収貯し 訖れり。相応に知会すべし。案呈して部に到る。擬して合に就行すべ し。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば査照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国に咨す  康煕四年九月二十一日    咨す [三二八 中山王尚質より聖祖あて、琉球館地籍内での琉人・清兵の雑居をやめ、また館の修築についての上奏文]  琉球国中山王臣尚質、謹みて奏して、雑処の情形を敬陳し、聖明の垂 断を冒懇して以て遠人を安んじ、以て浩蕩たるを彰らかにせんが事のた めにす。  臣が琉球国は万里より誠を効し、三年両貢もて使臣相継ぎ、員伴雑踏 す。原より天恩を荷いて福省水関外に於いて柔遠館駅一所を設け、中に 頭門、儀門、大堂、月台、左右両傍の房舎三十二間有り。皆修整完固な り。貢臣をして棲止の地有らしめ、方物をして湿壊の虞れ無からしむ。 又駅に附くの曠地に於いては週囲は砌墻ありて日夜巡邏して、居民、貢 使をして、相混雑するなく嫌隙生ぜず。和好永く固くし、規制甚だ弘く し、体恤至悉するなり。  査するに戊子の兵火より本駅の大堂、頭門、儀門、頽して曠土て為 り、両傍の房舎は僅かに一十六間を存すのみ。居止浅窄、屋宇荒涼とし て、風雨の夕べに至る毎に、員伴、滴漏に堪えず。方物夕徨して湿を恐 る。但だ小事に係れば、此より前敢えて言わず。近ごろ聞くに、関外一 帯靖藩の住兵あり。本駅の儀門内外、嚮は臣員の出入に供する者なる も今は皆兵丁の房室なり。藩臣封疆の繋るところ兵と散処し難し。室を 築いて団聚するは、自ら然らざるを得ざること有るも、但だ兵民雑処す るは従来多く相安んぜず。況や入貢の員伴は万里最も疎遠の人なるを以 て言語通ぜず、嗜好同じからず。今藩前の兵丁と門を同じくして共住 し、万一にも居処日久しくして相和協せざれば、此の時臣員、不謹の罪 を負い、天朝即ち寛大の恩を示し難し。居止は小事に係ると雖も和好は 寔に大体に関わる。此より前敢えて言わざるも、今此に敢えて言わざる をえざるなり。且つ臣天朝を恭敬して、微として慎まざるは無し。凡そ 人貢の陪臣は其の謙謹に嘱して、小心して以て忠順を照らかにせざるは なし。今、臣が身、万里に在りて、照管及ばざるも、兵彝雑処すれば誠 に臣が員疎愚にして、礼体を諳んぜず、稍しく謬戻を滋くして、臣の恭 敬の心に負かんことを恐る。此が為に蚤夜安んぜず。粛恭して具奏す。 伏して乞うらくは、臣が愚誠に鑑み、俯してE乾断を垂れ、或いは量りて 善地に移して別に起蓋を行い、或いは旧基を清出して復た規制を新たに し、臣が入貢の員伴をして棲止に安んずるを得て以て罪戻を免らしむれ ば、覆湊の鴻恩、天地と等しからん。臣、戦慄して待命の至りに勝え ず。  此が為に具本して正議大夫鄭思善等を専差して、齎らし赴かしめて謹 みて上奏して聞す。伏して勅旨を候つ。   為字自り起こして旨字に至りて止む、五百二字、紙一張なり。  康煕五年二月初九日、琉球国中山王臣尚質、謹んで上奏す  [注1戊子の兵火 戊子は一六四八年。南朝政権の一つの魯王が浙江の   紹興を追われて、福建に入り、一六四八〜九年の間、建寧等二七県   を回復している。この間の戦乱を指したものであろう。2照管 世   話をする、管理する意。3乾断 君主が自ら政事を裁決するこ   と。  ※福州城外にあった琉球館の建築物の配置や明清交代時の様子を窺わ せる資料である。] [三二九 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、南方貿易の困難につき、進貢の方物を万暦以後の旧案に準じたき旨の咨文]  琉球国中山王尚質、進貢の事のためにす。  照し得たるに康煕二年六月内、礼部の咨文の内に開称すらく、該臣 部、査し得たるに、会典に開載すらく、琉球国進貢の年分は、永楽以来、 諭して、二年一貢たらしめ、進貢方物の数目は馬・刀・金銀酒海・金銀 粉匣・瑪瑙・象牙・螺殻・海巴・霈子扇・泥金扇・生紅銅・錫・生熟夏 布・牛皮・降香・速香・丁香・檀香・黄熟香・蘇木・烏木・胡椒・硫 黄・磨刀石なること案に在り。該臣等議し得たるに琉球進貢方物の数目 及び二年一貢は、倶に応に会典の例科に照らして、該国中山王に咨し て、永く定例となし、欽遵して施行すべし等の因あり。順治十一年三月 二十八日題し、四月初一日聖旨を奉じたるに、是なり。議に依りて行 え。此を欽めよやとあり。欽遵す。部に抄して司に送る。案呈して部に 到る。擬して合に施行すべし、等の因あり。移咨して国に到る。  随で該本国議し得たるに、敝国は僻壌遐陬にして、海外億万里に在 り。荷くも天朝の両勅もて遠く頒ち、封を賜い、印を賜う。聖恩高厚に して敝国臣民即え頂踵捐糜するも能く仰報すること無し。区区たる方物 既に旧例有り。敢えて永く遵行を為さざらんや。但だ蟻情を瀝陳せざる を得ざる者有り。敝国黒子弾丸にして生物至って少なし。凡有産する所 は倶に方物なり。惟だ瑪瑙・烏木・降香・木香・象牙・錫・速香・丁香・ 檀香・黄熟香の十件は、原より交趾、暹羅、柬埔寨の土産に係る。査し 得たるに敝国は洪武年間、諞人三十六姓を恩撥せられて琉球に入りて国 に幹たらしめ、交趾、暹羅、柬埔寨等の処と商販せしめ、貿易するを得 るに因りて進貢せり。万暦以後、三十六姓、世久しくして凋謝し、指南 の車路を諳んぜず。今計るに百年に及ぶ。此に縁りて貿易に処する無く 以て貢を具して遵行し難きこと己に久し。惟だ慶賀、謝恩の二典は例 として金銀酒海、金銀粉匣、帷募、腰刀、胡椒、蘇木、生熟夏布、紅 銅、泥金扇、霈子扇、馬鞍等の物を加え、其の余の二年一貢には常例の 方物、惟だ馬十疋、螺殻三千個、生硫黄二万簧等のみ。万暦以後、原案 稽うべし。  今天朝、徳を万邦に照らし遐方格を成す。敝国命に帰すること最も先 にして恩を叨くすること極めて渥く、子子孫孫職貢の馬十疋、螺殻三 千個、生硫黄二万簧を効さんことを願う。其の余の烏木・瑪瑙・降香、 錫、象牙、速香、丁香、黄熟香等の物は暹羅、交趾、*埔寨等の処より 出ずるに係れば、敬を致すべきなく、応に題請を候つべきを除き、乞う らくは万暦以後の旧案に照らして遵行せん。胎し、今に明言せざれば、 誠に後に負かんことを恐る。此が為に合に咨すべし。煩為わくば貴部、 貴司具題して旨を乞い、以て遵行に便ならしめんことを。須く咨に至る べき者なり。   右、礼部、福建等処の承宣布政使司に咨す  康煕五年二月初九日 [三三〇 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、常貢の外に紅銅等を加進することについての咨文]  琉球国中山王尚質、進貢の事のためにす。  照し得たるに康煕二年六月内、礼部の咨文を准けたるに内に称すら く、該臣部査し得たるに会典に開載すらく、琉球国の進貢は二年一貢な り等の因あり。順治十一年三月二十八日題し、四月初一日聖旨を奉じた るに、二年一次に朝貢せよ。此を欽めよやとあり。欽遵す。此が為に欽 依内の事理を奉じて遵守奉行せよ等の因あり。  此を奉け案に拠りて照するに、康煕五年、歳循りて届り及び、擬して 合に進貢すべし。敢えて期を愆たず。此が為に虔んで庭実の方物の儀を 備え、航海の二船を牢緻して、官を遣わして坐駕して庶務を分司し、水 吮を率領し、二船中間の上下員役は共に二百人の数に盈たず。協*して 船隻にE駕し方物を解運して前みて福建等処の承宣布政使司に赴きて投 納し、転解して京に赴き進奉す等の因あり。此が為に任土の常貢、生硫 黄二万簧−泥沙石砕を篩去し法の如く餅塊に惓成せる一万二千六百簧、 馬一十匹、螺殻三千個等の物を遵将す。今天朝、覆湊の無外にして、封 錫、賞賚し、恩典、隆頒せらるるを荷くす。敝国頂踵捐糜するも能く恩 報する無し。微薄の方物、既に旧例有るの外、紅銅六百簧、黒漆竜画螺 盤一十個を加進せん等の因あり。此に拠りて合行に官を遣わして管解し て前みて福建等処の承宣布政使司に赴き投納すべきの外、理として合に 告投すべし等の因あり。 此が為に特に正議大夫、使者、都通事等の官鄭思善、毛栄清等を遣わ し、咨を齎して告投し迢かに表を捧げ、天階に赴きて、俯伏して宸陛を 仰ぎ以て嵩呼す。其の在船使者、都通事等の員役は南風盛発すれば、早 きに廻文を賜いて国に還らしめよ。此がに為除外に附搭の土夏布二百 疋は、官従り絹帛に兌換せられよ。貢して来朝する毎に附搭を賜准せら るるを歴蒙し、着して永く例と為せば、合に附搭前来して兌換するに遵 うべし。合に就ちに一併に貴部、貴司に移咨して知会せしむ。煩為わく ば査照して施行せられよ。此が為に移咨す。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部、福建等処の承宣布政使司に咨す  康煕五年二月初九日  [注1覆湊の無外 おおいかぶせて外がない、余りがない。つまり、   (天朝の恩沢は)普く被っていて余すところがない、の意。2合   行 ここに、よろしく、の意。3鄭思善 久米村鄭氏(池宮城家)   の十世。池宮城親方。一六一九〜一六八一年。官は紫金大夫、職は   総理唐栄司に陞る。この康煕五年の進貢は清朝となって最初の進貢   であるが、使節の上京を免ず等の聖旨を、旧来通りとするなど、苦   労している。4毛栄清 首里毛氏の出か。浜比嘉親雲上盛勝。生没   年未詳。] [三三一 中山王尚質より礼部および福建布政使司あて、先に免ぜられたる慶賀品等を補貢することについての咨文]  琉球国中山王尚質、補貢の事のためにす。  案照したるに康煕四年六月内、福建等処の承宣布政使司の咨を承准け たるに称すらく、慶賀進香の事のためにすとあり。案照したるに康煕三 年十一月内に琉球国中山王尚質の咨を准けたるに、王舅・正議大夫・使 者・都通事等の官英常春・林有材等を差わし表文を齎捧して海船一隻に 坐駕し、土産の金*賁腰刀二把・銀*賁腰刀二把・罐一対共に重さ六十 六両六銭八分・銀罐一対共に重さ五十両六銭正・細嫩土蕉布一百疋・漂 白土苧布一百疋・金彩帷募一対・平面金扇五十把・平面銀扇五十把・紅 花一百簧・胡椒二百簧・蘇木一千簧を装載して進奉して皇上の登極を慶 賀せしむ。復た金粉匣一対共に重さ七両四銭六分・銀粉匣一対共に重さ 七両二銭一分・平面金扇二十把・平面銀扇二十把・細嫩土蕉布二十疋・ 漂白土苧布二十疋もて中宮殿下に進奉し、并びに世祖章皇帝に香品を進 奉するあり。其の承遣わしたる王舅・正議大夫・使者・都通事等の官英 常春・林有材等の官は例に照らして京に赴きて表を進め併びに方物は一 起に京に解り、其の在船の使者、通事等の官は、以て夏媼に便じて回国 せしめられよ等の因あり。司に到る。此を准けたり。  続いで慶賀進香の船隻、驟かに風涛に阻まれ恩もて酌議して題請する を*めんが事の為にすとあり。巡撫部院加三級許の憲牌を奉け、礼部の 咨を准け、該本部前事を題覆するに、康煕四年正月十七日旨を奉じたる に、該部議奏せよ。此を欽めよやとあり。欽遵す。  議し得たるに福建巡撫許の疏に称すらく、琉球国慶賀船隻、康煕三年 十月二十三日に於いて、已に梅花港口に到る。意わざりき、萃かに風涛 に遭うこと竟日、二十五日半夜に至りて閣破す。彝船は以て進貢の方 物、人員飄靫するを致し、止だ表章一道、礼部并びに布政使司への公文 各一角、金*賁腰刀各二把を存するのみ。所有の表章は今英常春呈請す らく、或いは捧齎せしめて闕に赴かしむるか、抑彼の国の方物を補備す るを候ちて進呈せしむるか、等の語あり。査するに船隻は風に因りて閣 破すれば其の飄失の方物は応に補備を免ずべし。現に在るの表章、物件 は応に来使に着して齎し送りて京に来らしむべし。其の水靫の死人六名 は、もし官員に係れば理として応に恤を賜うべし。査して従人に係れば 応に例に照らして各に棺材の価紬各一疋を給し、該地方官に着落して来 使に給与せしむべし。其れ把総の張子竜、兵丁の林明は援に赴くに因り て同に靫して存する無し。事は兵部に属す。応に兵部の議覆に聴せて可 なり等の因あり。康煕四年二月初一日題し、初三日旨を奉じたるに、議 に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到り司に送る。此 を奉けたれば相応に移咨すべし。案呈して部に到る。合に咨して前去せ しむ。本部の覆奉せる旨内の事理に査照して、此を欽み欽遵施行せよ等 の因あり。部院に到る。此を准けて擬して合に就行すべし。牌を備えて 司に行り、咨文内の奉旨の事理に遵いて即便に齎使に転行して知照せし めよ。其の飄失の方物は応に補備を免ずべし等の因あり。移咨して国に 到る。此を欽み、欽遵して、感激に任うる無し。  但だ敝国天朝に恭順して三年に両貢すと。所有の方物は乃ち涓埃なる も万一の微忱なり。今船破れ物失う。天朝に在りては遠人を垂恤して補 備を免ずと雖も敝国に在りては愚誠を効順するに実に苟にも安んじ難 し。此が為に咨を備えて、方物の金罐一対共に重さ六十六両六銭八分・ 銀罐一対共に重さ五十両六銭正、細嫩土蕉布一百疋・細嫩土苧布一百疋・ 金彩帷募一対・平面金扇五十把・平面銀扇五十把・紅花一百簧・胡椒二 百簧・蘇木一千簧を補進し、進奉して皇上の登極を慶賀す。復た金粉匣 一対共に重さ七両四銭六分・銀粉匣一対共に重さ七両二銭一分・平面金 扇二十把・平面銀扇二十把・細嫩土蕉布二十疋・細嫩土苧布二十疋もて 中宮殿下に進奉し、并びに世祖章皇帝に香品等の物を進奉するあり。補 貢して微か献を効し、愚忱を曝し、特に傾葵の素志を伸ぶるのみ。此が 為に合に擬すべし。煩為わくば貴部、貴司、疏題して察収せば、万里の 孤臣の蟻情を遂ぐるを得るに庶からん。此が為に須く咨に至るべき者な り。   右、礼部、福建等処の承宣布政使司に咨す  康煕五年二月初九日 [三三二 中山王尚質より総督部院の李あて、帰国した呉国用らの借船の弁償方についての咨文]  琉球国中山王尚質、電情もて部に咨して以て、誠を竭くし、報称を図 らんが事のためにす。  敝国前に天朝册封の典礼の隆重なるを荷うに縁り、当に陪臣呉国用を 遣わして天恩に恭謝すべきの外、随で国用の回りて称するに拠るに、康 煕三年において事竣りて、回りて福省に至り、船隻を守侯して交接して 帰国せんとするも、奈んせん差官の英常春駕する所の船、長楽県梅花地 方に至りて、萃かに風涛に遭いて衝撃す。貨物漂流し、員役僅かに身を 以て免る。常春、なお命に遵いて慶賀に奔趨す。但だ船の帰るべき無き を用て奈んともする無し。総督撫院李に赴きて哀*し、投誠の官陳士鼇 の壊船一隻を撥借して着して用て自ら修葺を行いて駕回するを蒙准る。 なお情に拠りて具奏して旨を奉ずること、案に在り等の因あり。  随で看得したるに、呉国用、船乏くして航海するは情、触藩に同じ。 幸に貴部院の開恩投処して、船を貸して帰るを済くるを蒙る。通国感佩 す。此の番の貢期は理として合に原船をもって運還すべきも、奈んせん 本船は前に経に士鼇のE駕すること、日久しくして損壊已に極まれり。 国用、細さに修理を加うと雖も潮媼稍愆うに縁り、風涛交軋み、一番 *渉して帰来すれば底面は総根に尽行解断し、以て完璧にし難し。徒ら に愧感を増すのみ。但だ事は題咨みに干われば、敢えて久懸する罔し。聊 耡を揣らずして情を備えて、煩乞らくは貴部院、再び部に達せられ、下 情を鑑宥し、或いは価に折して、解償するを聴すを得しむれば、恵負の 愆を免れ、徳に感ずること極りなきに庶からん。此が為に咨を具す。 須く咨に至るべき者なり。   右、部院に咨す  康煕五月二月初九日  [注1電情 はやる心で、の意か。2総督撫院李 李率泰。順治十三〜   康煕三年六月六日の間の浙諞ついで福建総督。3投誠の官 対清抵   抗をなす鄭成功等の下から降った者の意か。4触藩 垣根に触れて   身動きがとれないこと。5開恩投処 拠りどころを与えるの意。] [三三三 礼部より中山王尚質あて、慶賀使節への頒賞についての咨文]  礼部頒賞の事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部前事を題するの内に開すらく、照し得たるに、琉球国の進貢は臣が 部具題して旨を奉ずるに、這の貢する所の方物は必ずしも来使をして齎 送して京に到らしめず。該撫着して人を差わして解送せしめ、其れ来使 は即ちに彼の処に於いて給賞して遣回せしめよ。余は議に依れ。此を欽 めよやとあり。欽遵す。本月初二日に於いて部に到る。  該臣等議し得たるに、康煕四年琉球国中山王尚質の差せる伊の舅英常 春等、表を進めて慶賀し、礼物を進めて来京す。臣が部具題して琉球国 王尚質に蟒緞二疋・青藍綵緞四疋・藍素緞二疋・衣素二疋・恤緞二疋・ 錦二疋・紬二疋・羅二疋・紗二疋を賞す。此の賞賜せる緞疋の数目は内 院にて勅一道を撰し、其の差来の王舅英常春に綵緞表七疋・裏四疋・羅 四疋・連襪緑斜皮牙縫一等・靴一双を賞す。正議大夫林有材に綵緞四表 裏・羅三疋・連襪緑斜皮牙縫二等・靴一双を賞す。中途にて病故せる使 者一員吉保祥には綵緞二表裏・布四疋を賞す。通事二員には綵緞各一表 裏・布各四疋を賞す。従人十六名には布各四疋を賞す。留辺の通事一員 には綵緞一表裏・布四疋を賞す。従人十三名には布各四疋を賞す。此の 賞物は戸工二部に於いて移取し、午門前に在いて頒給す。臣が部、常に 照らして筵宴すること二次にて回らしむ。其の留辺人員に賞するの緞布 等の物は英常春に交付して帯去せしむ。彼等回りて福建に至れば例に照 らして飯を擺べること一次なり、等の因あり。旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよやとあり。遵行して案に在り。  今琉球国王に応に康煕四年の賞賚の例に照らして、蟒緞二疋・青藍綵 緞四疋・藍素緞二疋・衣素二疋・恤緞二疋・錦二疋・紬二疋・羅二疋・ 紗二疋を給す。其の賞賜の緞疋の数目は臣が部琉球国王に移咨す。其の 緞疋等の物はなお戸部において移取し、臣が部、官一員、筆帖式一員を 差わして、捧じて諞省に至る。此の差来の員役の賞は応に康煕四年の英 常春等の例に照らして、布政司に於いて支取し、該撫と公同に筵宴する こと二次を賞給して、回らせば可なりと。臣等未だ敢えて擅便せず。謹 みて題して旨を請う。康煕五年八月初八日題し、本月初十日旨を奉じた るに、議に依れ。這の賞賜の布疋は着して毛青梭布に改め給せよ、此を 欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到り、司に送る。此を奉け相応 に移咨すべし。案呈して部に到る。擬して合に就行すべし。此が為に合 に咨して前去せしむ。煩為わくば明旨内の事理に査照して欽遵して施行 せよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕五年八月十七日  [注1吉保祥 首里和氏の五世。東風平比嘉親雲上景忠。一六〇七〜六   五年。後代、唐名を和有誉と謚名される。康煕三年、康煕帝登極の   慶賀使派遣の際、正使恵祖親方重孝らとともに副使として渡唐。梅   花港口で賊船に遭う(北谷・恵祖事件)。翌四年、北京での慶賀を   済ませての帰途、杭州府で病没した。] [三三四 礼部より中山王尚質あて、先の請願(三二九項)の如く、常貢の方物より瑪瑙等十件を免除する旨の咨文]  礼部、進貢の事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、多 羅温郡王蒙等会議して前事を題するの内に開すらく、礼科の抄出に礼 部、福建巡撫許の題せる前事に題覆す等の因あり。康煕五年四月十四日 題し、六月初九日旨を奉じたるに、礼部知道せよ、此を欽めよやとあ り。欽遵す。本月初九日に於いて部に到る。  該臣等議し得たるに、福建巡撫許世昌の疏に称すらく、琉球国中山王 尚質、来使を差し、船二隻に駕して前み来りて入貢す。康煕五年三月二 十三日に於いて進港して諞に入る。所有の随帯の貢物・人数は即ちに都 司劉弘基等に委して盤験するに止だ馬匹等の物有るのみ。符文・執照を 査対するに明白なり。并びに彼の国の来咨を察するに、敝国は弾丸黒子 にして、瑪瑙・烏木・降香等の十件の如きは倶に交趾等の処に産す。委 に貢に具え難し等の語あり。査するに順治十一年三月内に臣が部の題せ る進貢の事の為にするの一疏内に開すらく、会典を査するに開載すら く、琉球国進貢の年分は永楽以来諭して二年一貢たらしむ。進貢の方物 は馬・刀・金銀酒海・金銀粉匣・瑪瑙・象牙・螺殻・海巴・霈子扇・泥 金扇・生紅銅・錫・生熟夏布・牛皮・降香・木香・速香・丁香・檀香・ 黄熟香・蘇木・烏木・胡椒・硫黄・磨刀石なり。該部議し得たるに琉球 進貢の方物の数目及び二年一貢は倶に応に会典の例に照らすべし。該国 中山王に移咨して永く定例と為すべし等の因あり。聖旨を奉じたるに、 是なり。議に依りて行えとあり。欽遵して該国王に移咨して案にあり。  今該王称するに、弾丸小国に係りて生物至って少なし。其の瑪瑙・烏 木等の十件は原より交趾等の処において産し、以て貢に具え難し。其の 二年一貢の常例の方物は惟だ馬十匹と螺殻三千個・生硫黄二万簧等の物 のみなり。惟だ慶賀謝恩の二典は例として金銀酒海・金銀粉匣・帷募・ 腰刀・胡椒・蘇木・生熟夏布・紅銅・泥金扇・霈子扇・馬鞍等の物を加 う。万暦以後の原案稽うべし等の語あり。但だ現行の事宜は倶に洪武永 楽時の例に照らすべし。況や万暦時の原案は存する無く査核するに憑る 無し。今該王称すらく、弾丸小国に係れば、瑪瑙・烏木・降香・木香・ 象牙・錫・速香・丁香・檀香・黄熟香を産せずと。此の十件は土産に係 らざれば或いは琉球国王の請う所の如くするか、抑永楽時に仍りて会典 に開載せる方物に照らして進貢するか、恭しく命の下るを候ちて転行し て該国王に知会せしむ。今常貢の進到せる馬匹(等の)方物は、京に到 るの日を俟ちて、数に照らして査看し、再び題すれば可なり。臣等未だ 敢えて擅便せず。謹みて題して旨を請う。康煕五年六月二十一日題し、 本月二十三日旨を奉じたるに、琉球国王の咨もて称すらく、瑪瑙・烏木 等の物十件は皆交趾等の処において産し、以て貢に具え難きと。此の進 貢の物はなお永楽時の会典の開載に照らして進貢せしむるか、或いは請 う所に従うかは、議政王・貝勒大臣・九卿、科・道に着して会同に確議 して具奏せよ。此を欽めよやとあり。欽遵す。  該臣等会議し得たるに、琉球国中山王尚質の称するに拠るに、弾丸小 国にして生物至って少なし。其の瑪瑙・烏木等の十件は原、交趾等の処 において産すれば以て貢に具え難しと。其の二年一貢の常例の方物は惟 だ馬十匹・螺殻三千個・生硫黄二万簧等の物のみなり。惟だ慶賀・謝恩 の二典は例として金銀酒海・金銀粉匣・帷募・腰刀・胡椒・蘇木・生熟 夏布・紅銅・泥金扇・霈子扇・馬鞍等の物を加うとあり、前来す。彼の 国無き所の瑪瑙等十件は応に該王の請う所の如くにして進むるを免じ、 其の余の物件は礼部の題定に照らして恭しく進むべし。臣等未だ敢えて 擅便せず。謹みて題して旨を請う。康煕五年六月二十九日題し、七月初 二日旨を奉じたるに、琉球国遐方なるも化に向い貢を納めて誠を抒ぶ。 彼の地に無き所の瑪瑙等十件は、著して該王の請う所に照らして其の進 貢を免ずべし。余は議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して 部に到り司に送る。此を奉けて相応に移咨すべし。案呈して部に到る。 擬して合に就行すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば旨 内の事理に査照して欽遵施行せよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕五年八月十七日   咨す  [注1多羅温郡王 郡王は清朝宗室の親王に次ぐ二等の爵位(親王の次   に親王の子の世子を数えて第三等ともいう)。多羅は爵位につく美   称。温は未詳。2議政王 清朝の官爵の一つ。親王等に対し、皇帝   の政を輔ける者として臨時に封じたもの。3九卿 九人の卿。時代   により異なる。清代では、太子太師、太子太傅、太子太保、六部尚   書を大九卿といい、太常寺、太僕寺、大理寺、鴻臚寺、光禄寺の各   卿および通政使、国子監祭酒、牴林院掌院学士、郡察左御都史を小   九卿と称した。4科・道 都察院の六科給事中および十五道監察使   のこと。] [三三五 礼部より中山王尚質あて、恭順を嘉尚して補進の方物を発回せしむことについての咨文]  礼部、補貢の事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、多 羅温郡王蒙等会議して前事を題するの内に開すらく、礼科の抄出に礼 部、福建巡撫許の題せる前事に題覆す等の因あり。康煕五年四月十四日 題し、六月初十日旨を奉じたるに、礼部議奏せよ、此を欽めよやとあ り。欽遵す。本月初十日において部に到る。  該臣等議し得たるに、査するに康煕三年十一月内に福建巡撫許世昌の 疏に称すらく、琉球国慶賀船隻来りて梅花港口に至りて萃かに風涛に遭 いて彝船を閣破す。止だ表章一道、金銀*鞘腰刀各二把を存するのみ。 今英常春等呈請すらく、或いは齎捧して闕に赴かしむるか、抑彼の国の 補備を候ちて、進呈するか等の語あり。具題して前来す。随で臣が部の 題覆を経たるに、船隻は風に因りて閣破し、其の飄失の方物は応に補備 を免ずべし等の因あり。具題して旨を奉じたるに議に依れとあり。案に 在り。今疏に拠るに称すらく、琉球国王称すらく、敝国は天朝に恭順 し、三年に両貢す。所有の方物は乃ち涓埃にして万一の微忱なり。今、 船は破れ物は失う。天朝に在りては遠人を垂恤して、補備を免ずと雖 も、敝国に在りては愚誠を効順するに実に苟にも安んじ難し。此が為に 金銀罐、帷募、粉匣等の物を補進すと。査するに康煕三年具題して、已 経に旨を奉じて其の補備を免ず。此の進来の物は理として宜しく発回す べし。但だ船海遠く来りて已に福建に至れば、相応に其をして齎捧して 来京せしむれば可なり。臣等未だ敢えて擅便せず。謹みて題して旨を請 う。康煕五年六月二十一日題し、本月二十三日旨を奉じたるに、這の補 貢の金銀罐等の物は応に収むべきや、応に発回すべきやは、議政王・貝 勒大臣・九卿・科・道に着して会議して具奏せしめよ。此を欽めよやと あり。欽遵す。  該臣等会議し得たるに、琉球国王の(咨に)拠るに称すらく、天朝に 恭順して三年に両貢す。所有の方物は乃ち涓埃にして万一の微忱なり。 今、船は破れ物は失う。天朝に在りては遠人を垂恤して、補備を免ずと 雖も、敝国に在りては愚誠を効順するに実に苟にも安んじ難し。此が為 に金銀罐等の物を補進すとあり。前に経に旨を奉じ、其の補備を免ずれ ば、今此の進来せる所の物は理として宜しく発回すべし。但だ該王の咨 に拠るに称すらく、敝国は愚誠を効順するに実に苟にも安んじ難し等の 語あれば、相応に収受すれば可なり。又一たび議して前に礼部の議題を 経て、既に旨を奉じて寛免すれば、今、補して進むる所の金銀罐等の物は 相応になお発回すれば可なり。臣等未だ敢えて擅便せず。謹みて題して 旨を請う。康煕五年六月二十九日題し、七月初二日旨を奉じたるに、琉 球国の貢物は船破れて飄失す。該国王復た補進を行うは具に恭順の誠を 見る。深く嘉尚すべし。但だ前に已に旨有りて補進を准免すれば這の補 進の金銀器皿等の物はなお着して発回せしめよ。此を欽めよやとあり。 欽遵す。抄出して部に到り司に送る。此を奉けて相応に移咨すべし。案 呈して部に到る。擬して合に就行すべし。此が為に合に咨して前去せし む。煩為わくば旨内の事理を査照して欽遵施行せよ。須く咨に至るべき 者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕五年八月十七日   咨す  [※本項で発回されることとなった補進の方物は、その際の進貢正議大   夫鄭思善の家譜に拠れば、結局琉球に持ち回らずに福州で諞人に売   却されている(『那覇市史 資料篇第一巻六』久米村系家譜 五七   六頁。)] [三三六 中山王尚質より福建布政使司あて、天朝の冗費を省くため、進貢員役の一部を接回したい旨の咨文]  琉球国中山王尚質、進貢人員を差接せんが事のためにす。  切に照らすに康煕五年は例として会典の貢期に遵い理として合に進貢 すべし。敝国照を給して已に正議大夫鄭思善等一百八十四員名を差わし 海船二隻に駕して土産等の物を装載して前みて天朝に至りて納款し、愚 衷を効順す。旧七月内に随で摘回の都通事毛世顕等の稟禀に拠るに称すら く、顕、王命を奉じて、前みて天朝に至りて納款す。本国三月初七日開 洋して二十三日福建諞安鎮に進む。官長、二十九日において、牌行して 安挿するを蒙る。事は始貢に属す。各行の事宜は上台が具題して旨を請 いて遵行す。例として冊報あり。摘発、朝京、留辺の三項は文を給し、 糧を賜い、均しく覆載に沐す等の情あり。国に到る。  切に敝国は僻壌遐陬なるも、聖恩の*蜜外無きを蒙る。奈んせん士瘠 せ民稀にして奇珍に乏しく、聖徳に酬い難きを愧ず。独り皇図の鞏固、 帝道の遐昌なるを祝る。貢物は区区たるも天朝、遠方の異物を貴ばざる を体す。官伴繁冗せしめて安くんぞ敢えて廩糧を虚糜せんや。正議大夫 鄭思善等、朝京と留辺の官伴、貢期を計算するに、康煕七年仲夏にして 方めて搭回するの貢船を得ん。時日を切むこと且つ遠く、素餐因るな し。愚誠を揣らずして虔んで今年の春媼を将て、特に使者、都通事蔡 純、蔡彬等の官を遣わして海船一隻に坐駕して接回すれば、天朝の廩給 を費して以て罪戻を滋するを免れん。来接の員伴に至りては概ね敝国が 自ら裏糧を備うるに属すれば、敢えて金銭を冒費せず。源源の意、上達 するに由無し。伏して乞うらくは、貴司、文内の事理を察照して、煩為 わくば通詳して具題して旨を請いて遵行せられよ。此が為に理として合 に移咨す。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処の承宣布政使司に咨す  康煕六年三月初四日発る  [注1毛世顕 久米村毛氏の二世。奥間通事親雲上。一六二一〜六七   年。2聖恩の*蜜外無き *蜜はとばり、おおいのこと。つまり皇   帝の恩沢は世をおおって余すところがないの意。3素餐 職を努め   ないで徒に官禄を食むこと。ここでは福州で帰国を待って無駄飯を   食うこと。4蔡純 那覇蔡氏の五世(奥本家)。玻名城親方政由。生   没年未詳。後に唐名を蔡芝と改める。5蔡彬 久米村蔡氏の十世。   喜友名親雲上。一六四二〜八一年。官は正議大夫。進貢使として   度々渡唐したほか、一六七二年(康煕十一)には孔子孟建造の任にあ   たっている。6源々の意 連続してたゆまない、つもる思い。] [三三七 福建布政使司より中山王尚質あて、進貢品の変更、常貢物の加進、進貢員役の接回等を准す旨の咨文]  福建等処の承宣布政使司、進貢の事のためにす。  琉球国中山王尚(質)の咨を准けたるに称すらく、照し得たるに康煕二 年六月内、礼部の咨文を准けたるに、内に開称すらく、該臣部査し得た るに会典に開載すらく、琉球国進貢の年分は永楽以来諭して二年一貢た らしむ。進貢の方物の数目は馬・刀・金銀酒海・金銀粉匣・瑪瑙・象牙・ 螺殻・海巴・霈子扇・泥金扇・生紅銅・錫・生熟夏布・牛皮・降香・ 木香・速香・丁香・檀香・黄熟香・蘇木・烏木・胡椒・硫黄・磨刀石に して案に在り。該臣等議し得たるに、琉球の進貢方物の数目および二年 一貢は倶に応に会典の例科に照らして該国中山王に咨して永く定例と為 し、欽遵施行せしむべし等の因あり。順治十一年三月二十一日題し、四 月初一日聖旨を奉じたるに、是なり。議に依りて行え。此を欽めよやと あり。欽遵す。部に抄して司に送り、案呈して部に到る。擬して合に施 行すべし等因。移咨して国に到る等の因あり。  随で該本国議し得たるに、敝国は僻壌遐陬にして、海外億万里に在 りて、天朝の両勅もて遠く頒ち封を賜い、印を賜い、聖恩の高厚なるを 荷くす。敝国臣民即え頂踵捐糜するも、能く仰報する無し。区区たる方 物は既に旧例有り。敢えて永く遵行を為さざらんや。但だ蟻情を瀝陳せ ざるを得ざるもの有り。敝国黒子弾丸にして生物至って少なく、凡有そ 産する所は倶に方物なり。惟うに瑪瑙・烏木・降香・木香・象牙・錫・ 速香・丁香・檀香・黄熟香の十件は原、交趾、暹羅、柬埔寨の土産に係 る。査し得たるに敝国洪武年間、諞人三十六姓を恩撥せられて琉球に入 りて国を幹し往きて交趾、暹羅、柬埔寨等の処に販す。因りて貿易進貢 するを得たり。万暦以後三十六姓、世久しくして凋謝して、指南車路を 諳んぜず、今計るに百年に及ぶ。此に縁りて貿易に処する無く、貢を具 えて遵行し難きこと已に久し。惟だ慶賀、謝恩の二典は例として金銀酒 海・金銀粉匣・帷募・腰刀・胡椒・蘇木・生熟夏布・紅銅・泥金扇・霈 子扇・馬鞍等の物を加うるのみ。其の余の二年一貢の常例の方物は、惟 だ馬十匹、螺殻三千個、生硫黄二万簧等の物のみにして万暦以後の原案 稽う可きなり。今天朝、徳を万邦に照らし遐方も格を成す。敝国命に 帰すること最も先んじ恩を叨くすること極めて渥し。子子孫孫職貢の馬 十匹、螺殻三千個、生硫黄二万簧を効さんことを願う。其の余の烏木・ 瑪瑙・降香・錫・象牙・速香・丁香・檀香・黄熟香等の物は、暹羅、 交趾、柬埔寨等の処より出ずるに係れば、敬を致すべき無く、応に題請 を候つべきを除き、乞うらくは万暦以後の旧案に照らして遵行せん。胎 し今に明言せずんば誠に後に負かんことを恐る。此が為に合に咨して司 に到る。具題して旨を請いて以て遵行に便ならしめん等の因あり。  又進貢の事の為にす。貴国の咨を准けたるに称すらく、康煕五年、歳 循りて届り及べば、擬して合に進貢して敢えて期を愆たざるべし。此 が為に虔みて庭実の方物の儀を備えて航海の二船を牢緻し、官を遣わし て坐駕して庶務を分司し、水吮を率領す。二船の中間の上下の員役は共 に二百人の数に盈たず。協*して船隻にE駕し、方物を解運して前みて 本司に赴きて投納し、転解して京に赴き進奉せしむ等の因あり。此が為 に任土の常貢の生硫黄二万簧−沙泥石砕を篩去して法の如く餅塊に惓成 せる一万二千六百簧、馬十匹、螺殻三千個等の物を遵将す。今天朝の覆 湊無外にして封賜、賞賚し、恩典、隆頒せらるるを荷くす。敝国頂踵捐 糜するも能く天報する無し。微薄の方物は既に旧例有るの外、紅銅六百 簧、黒漆竜画螺盤十個を加進せん等の因あり。此に拠りて合行官を遣 わして管解すべし。特に正議大夫・使者・都通事等の官、鄭思善・毛栄 清等を差わして、咨を齎して告投し、迢かに表を捧じて天階に赴き、俯 伏して宸陛を仰ぎ以て嵩呼す。其の在船の使者、通事等の員役は、南風 盛発すれば早やかに回文を賜いて国に還らしめよ。此が為に除外に附搭 の土夏布二百疋は、官従り絹帛に兌換せられよ。貢して来朝する毎に附 搭を賜准せらるるを歴蒙し、著して永く例と為す。今遵いて附搭前来す れば兌換せられよ。合に就ち一併に移咨すれば知会せられよ等の因あ り。各々司に到る。此を准けたり。  続いで、微忱を恩鑑して貢典を規画し、懇に具題してもって永久の遵 行に便ならしむるを賜らんが事の為にす。督・撫両院の批を奉けたる に、琉球国正議大夫鄭思善等の呈に拠るに、乞うらくは親ら表文と貢物 を齎し、官を差して領解せしめん等の情あり。批を奉け査議して、随ち に福防庁に行拠して看詳せしめ、業経に両院に転詳して、批もて具題す るを候つ。続いで院の牌を奉け、礼部の前事を咨覆して旨を奉じたるを 准けたるに、這に貢する所の方物は必ずしも来使をして齎送して京に到 らしめざれ。該撫に着して人を差して解送せしめ、其の来使は即ち彼処 において給賚して遣回せしめよ。余は議に依れ。此を欽めよやとあり。 欽遵す。部に抄して司に送る。此を奉じて案呈して部に到り移咨して院 に到る。此を准けて牌を備えて司に行り、咨文の奉旨内の事理に遵照し て、即ちに琉球進貢の硫黄をもって査収して庫に貯し、馬匹、螺殻等の 物は官を差して解送せしめ、其の来使は諞に在りて賞を給して発回せし めよ。なお差官の姓名、起行の日期をもって具文して詳報し以て具題施 行するに憑らしめよ等の因あり。此を奉じて業に福防庁に行りて遵照し 去後れり。該庁の詳に拠るに称すらく、馬匹、螺殻等の物を解運するに 応に衛弁一員を差して領解せしむべし。例として津貼銀七十両に該つ。 其の硫黄は都司の庫内に押運して、収貯明白ならしめて案に在り。  又巡撫部院許の批を奉けたるに、琉球国正議大夫鄭思善等の呈に拠る に、旨に遵いて、再び衷悃を陳べ、仰ぎて一視せられんことを祈り、乞 うらくは題明もて後貢進京を賜らんが事の為にす、とあり。福防庁に 行拠して酌議回詳せしめ、撫院に転報す。批を奉じて具題するの外、続 いで院の牌を奉け、礼部の咨を准けて、該本部、前事に題覆す。該臣等 議し得たるに、福撫許の疏に称すらく、琉球国貢使鄭思善等□後貢の期 には荷蘭国の事例に恩照し、表を齎して入覲し、以て恭順の誠を効すを 容令されんことを*請す。相応に其の請う所の如く嗣後の進貢の員役は 其の来京を准せば可なり。臣等未だ敢えて擅便せず、謹みて題して旨を 請う。旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。部に 抄して司に送る。此を奉じて案呈して部に到り、移咨して院に到る。牌 を備えて司に行る。備に咨文の奉旨内の事理に照らして即便に転移し て欽遵施行せしめよ等の因あり。此を奉けたり。  又進貢の事の為にす。礼部の照会を承准けて、該本部、前事を題する の内に開すらく、琉球国進貢の礼物は、福建布政司 官を差して解して 送到せる螺殻三千個は応に総管内務府に交与して数に照らして査収し、 原貢馬は十疋なるも六疋を倒斃し、現今解到せる四疋は、応に内阿判に 交付して査収せしむべし。常貢の外に至っては、琉球国王尚、封錫の賞 賚に因りて紅銅六百簧、黒漆螺盤十個を加進し、□応に総管内務府に交 与して数に照らして査収せしむ。現今の解到せる土夏布二百疋は、該王 の咨を准けたるに称すらく、官従り絹帛に兌換するは著して永く例と為 す等の因あり。査するに、順治十一年臣が部題に称す、正貢の外の附来 の土夏布二百疋は、明朝半は抽して官に入れ、一半は折して生絹を給 す。琉球は海外の遠国に係り、且つ土夏布二百疋は又正貢の数内に在ら ず。其の初帰を念うに、皇上柔遠の意を示して、所有の土夏布二百疋は 其の入官を免じて絹に折し、其の自ら交易を行うを聴す等の因あり。具 題して旨を奉じたるに、是なり。議に依りて行えとあり。欽遵して案に 在り。此の夏布は応に臣が部の庫内に貯して、琉球国の再貢して到る日 を俟ちて別に議すれば可なるべし等の因あり。旨を奉じたるに、議に依 れ。此を欽めよやとあり。欽遵す。部に抄して司に送る。此を奉じて案 呈して部に到り、照会して司に到る。題奉せる旨内の事理に査照して、 欽遵施行せよ等の因あり。此を承けて正に彝使を遣回して移文して知会 せしめんとするの間にあり。  又、進貢人員を差接する事の為にすとあり。琉球国中山王尚の咨を准 けたるに称すらく、切に照らすに康煕五年は例として会典の貢期に遵っ て理として合に進貢すべし。敝国照を給して已に正議大夫鄭思善等一百 八十四員名を差わして海船二隻に駕し、土産等の物を装載して前みて天 朝に至り納款して愚衷を効順す。旧七月内に、随いて摘回せる都通事毛 世顕等の稟に拠るに称すらく、顕、王命を奉じて前みて天朝に至りて納 款す。本国より三月初七日開洋し、二十三日に至りて福建諞安鎮に進 む。官長の、二十九日に於いて牌行して安挿するを蒙る。事は始貢に属 す。各行の事宜は上台、具題して旨を請いて遵行し、例として冊報す。 摘発、朝京、留辺の三項には文を給し、糧を賜い均しく覆載に沐す等の 情あり。国に到る。切うに敝国は僻壌遐陬なるも聖恩*蜜の外無きを蒙 る。奈んせん、土瘠せ民稀にして奇珍に乏しく聖徳に謝し難きを愧ず。 独り皇図の鞏固、帝道の遐昌を祝るのみ。貢物は区区たるも天朝の遠方 の異物を貴ばざるを体す。官伴繁冗にして安くんぞ敢えて廩糧を虚糜せ んや。正議大夫鄭思善等朝京と留辺の官伴は、貢期を計算するに康煕七 年仲夏に方めて貢船に搭回するを得ん。時日を切むこと且つ遠く、素餐 因る無し。愚誠を揣らずして虔みて、今年の春媼を将て、特に使者、都 通事蔡純、蔡彬等の官を遣わして、海船一隻に坐駕して接回し、天朝の 廩給を費やして、以て罪戻を滋くするを免れん。来接の員伴に至りては 概ね敝国、自ら裹糧を備えて、敢えて金銭を冒費せざるに属す。源源の 意は上達するに由無し。伏して乞うらくは、貴司鴻恩もて、酌議して即 ちに料理を行い、南風盛発すれば早きに回文を賜いて国に返らしめば、 遠人、阻滞の憂無く、今冬失貢の愆を免らしむるに庶からん等の因あ り。移咨して司に到る。此を准けて随で貢船を接回するの縁由を将て、 已経に撫院に詳報し、具題して旨を奉じて、遣発して国に回らしむるを 准し、遵行して案に在り。今前因を准けて、留辺の通事周国俊等員伴六 名、在駅存留するを除くの外、随で接船の使者、都通事蔡純等七十五員 名併びに前遣の進貢正議大夫・使者・都通事等の官鄭思善、毛栄清、孫 自昌、鄭仲徳四員、人伴鄭芝□等二十九名を将て相応に一併に発回せし むべし。擬して合に移知すべし。此が為に由を備えて、貴国に移咨す。 煩為わくば知照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕六年七月二十五日   咨す  [注1福防庁 福建海防庁(館)のことか。2行拠 もうしつける、うけ   とる。3津貼(銀) 地方の役所で、従来の経費のみで不足のところ   に、特に経費を補足することをいう(『清国行政法』)。4内阿判    清代、馬事を掌った阿敦衙門(康煕十六年、上駟院に改む)か。後 の例だと、琉球の貢馬は上駟院に交送されている(『清国行政法』)。 5周国俊 久米村周氏の二世。目取真親雲上。一六四四〜七八年。 官は正議大夫、職は総理唐栄司に陞る。6鄭仲徳 久米村鄭氏(与 座家)の三世。屋比久親雲上。一六三〇〜六八年。] [三三八 福建布政使司より中山王尚質あて、先に免除せる補貢の品を持ち回らしむ旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、補貢の事のためにす。  琉球国中山王尚(質)の咨を准けたるに称すらく、案照したるに康煕四 年六月内、本司の咨を承准けたるに称すらく、慶賀進香の事の為にすと あり。案照したるに康煕三年十一月内に琉球国中山王尚の咨を准けたる に、王舅・正議大夫・使者・都通事等の官英常春、林有材等を差わし、 表文を齎捧し、海船一隻に坐駕して、土産の金*賁腰刀二把・銀*賁腰 刀二把・金罐一対共に重さ六十六両六銭八分・銀罐一対共に重さ五十両 六銭正・細嫩土蕉布一百疋・漂白土苧布一百疋・金彩帷募一対・平面金扇 五十把・平面銀扇五十把・紅花一百簧・胡椒二百簧・蘇木一千簧を装載し て進奉して、皇上の登極を慶賀せしむ。復た金粉匣一対共に重さ七両四 銭六分・銀粉匣一対共に重さ七両二銭一分・平面金扇二十把・平面銀扇 二十把・細嫩土蕉布二十疋、漂白土苧布二十疋もて中宮殿下に進奉し、 并びに世祖章皇帝に香品を進奉するあり。其の承遣たる王舅・正議大夫・ 使者・都通事等の官英常春、林有材等の官は例に照らして京に赴きて、 表を進め併びに方物は一起に京に解り、在船の使者、通事等の官は以て 夏媼にて回国せしむるに便ならしめよ等の因あり。司に到る。此を准け たり。  続いで慶賀進香の船隻、驟かに風涛に阻まれ、恩もて酌議して題請せ らるるを*わんが事の為にすとあり。巡撫部院許の憲牌を奉け、礼部の 咨を准けて、該本部前事を題覆するに、康煕四年正月十七日旨を奉じた るに、該部議奏せよ。此を欽めよやとあり。欽遵す。議し得たるに、福建 巡撫許の疏に称すらく、琉球国慶賀の船隻、康煕三年十月二十三日已に 梅花港口に到る。意わざりき萃かに風涛に遭うこと竟日、二十五日半夜 に至りて彝船を閣破し、以て進貢の方物・人員飄靫を致す。止だ表章一 道、礼部併びに布政使司への公文一角、金銀*賁腰刀各二把を存するの み。所有の表章は今英常春の呈請もて、或いは捧齎して闕に赴かしめる か、抑彼の国の補備の方物を候ちて進呈せしむるか等の語あり。査する に船隻は風に因りて閣破すれば其の飄失の方物は応に補備を免ずべし。 現に在るの表章、物件は応に来使に着して齎送して京に来らしむべし。 其の水靫死人六名は官員に係れば理として応に賜恤すべし。査して従人 に係れば応に例に照らして各々に棺材の価紬各一疋を給し、該地方官に 着落して、来使に給与せしむべし。其れ把総張子竜、兵丁林明は援に赴 くに因りて同に靫して存する無し。事は兵部に属す。応に兵部の議覆を 聴せば可なるべし等の因あり。康煕四年二月初一日題し、初三日旨を奉 じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に至り 司に送る。此を奉けたれば相応に移咨すべし。案呈して部に到る。合に 咨して前去せしむ。本部の覆奉せる旨内の事理に査照して、此を欽み欽 遵して施行せよ、等の因あり。部院に到る。此を准け、擬して合に就行 すべし。牌を備えて司に行る。咨文内の奉旨の事理に遵照して、即便に 齎使に転行して知照せしむ。其の飄失の方物は応に補備を免ずべし等の 因あり。移咨して国に到る。此を欽み、欽遵して感激に任うる無し。  但だ敝国天朝に恭順して三年に両貢す。所有の方物は乃ち涓埃なるも 万一の微忱なり。今船破れ物失う。天朝に在りては遠人を垂恤して、補 備するを免ずと雖も、敝国に在りては愚誠を効順するに実に苟にも安ん じ難し。此が為に咨を備えて方物の金罐一対共に重さ六十六両六銭八 分・銀罐一対共に重さ五十両六銭正・細嫩土蕉布一百疋・細嫩土苧布一 百疋・金彩帷募一対・平面金扇五十把・平面銀扇五十把・紅花一百簧・ 胡椒二百簧・蘇木一千簧を補進して進奉して皇上の登極を慶賀す。復た 金粉匣一対共に重さ七両四銭六分・銀粉匣一対共に重さ七両二銭一分・ 平面金扇二十把・平面銀扇二十把・細嫩土蕉布二十疋・細嫩土苧布二十 疋は、中宮殿下に進奉し、并びに世祖章皇帝に香品等の物を進奉するあ り。補貢して微か献を効し、愚忱を曝わし、特傾葵の素志を(伸ぶる) のみ。此が為に合に擬すべし。煩為わくば本司疏題して察収せらるれ ば、万里の孤臣、蟻情を遂ぐるを得るに庶からん等の因あり。司に到 る。此を准けたり。  又前事の為にす。巡撫部院許の令牌を奉けたるところ、礼部の咨を准 けたるに、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉けた るに、多羅温郡王蒙等会議して題せる前事あり。内に開すらく、礼科の 抄出せる礼部の題に前事あり。内に開すらく、礼科の抄出せる福建巡撫 許の題に前事等の因あり。該臣等会議し得たるに、琉球国王の称の拠る に、天朝に恭順して三年に両貢す。所有の方物は乃ち涓埃なるも万一の 微忱なり。今船破れ物失う。天朝に在りては遠人を垂恤して補備するを 免ずと雖も、敝国に在りては愚誠を効順するに実に苟にも安んじ難し。 此が為に金銀罐等の物を補進すとあり。前に経に旨を奉じて其の補備を 免ぜらる。今此の進来せる所の物は理として宜しく発回すべし。但だ該 王の咨に拠るに称すらく、敝国愚誠を効順するに実に苟にも安んじ難し 等の語あり。相応に収受すれば可なるべし。又一たび議して前に経に礼 部議題し、既に旨を奉じて寛免す。今補進する所の金銀罐等の物は相応 になお発回すれば可なるべし。康煕五年六月二十九日題し、七月初二日 旨を奉じたるに、琉球国の貢物は船破れて飄失す。該国王復た補進を行 わんとするは、具に恭順の誠を見し深く嘉尚すべし。但だ前に已に旨有 りて補進を准免すれば這の補進の金銀器皿等の物はなお著して発回せし めよ。此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到れば司に送る。此 を奉じたり。相応に移咨すべし。案呈して部に到る。擬して合に就行す べし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば旨内の事理に査照し て欽遵施行せられよ等の因あり。部院に到る。此を准け擬して合に就行 すべし。牌を備えて司に行り、備に咨文内の奉旨の事理に照らして、即 便に転移して欽遵施行せよ等の因あり。此を奉け、今前因を准けて合に 就ちに移知すべし。此が為に由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば査照 して欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕六年七月二十五日   補貢の事   咨す [三三九 中山王尚質より聖祖あて、糸類貿易の条項規定の周知徹底と進貢・接貢船の即日入港の許可を願う奏文]  琉球国中山王臣尚質、謹んで奏して、旧典に循い、再び勅諭を申ねて 以て解推の仁を宏くし、以て懐柔の沢を広むるを乞わんが事のために す。  切うに臣愚陋なるも海表に藩し、累ねて聖朝の浩蕩の恩徳に沐するを 叨くす。臣即え頂踵を損糜するも以て覆載を万一に報ずる無きなり。伏 して覩るに清の会典に凡そ外彝朝貢すれば、会同館に於いて市を開くこ とを許すこと、或いは三日或いは五日なりとあり。惟だ朝鮮、琉球は期 限に拘わらずして有無を貿易す。玄黄紫*大花西番蓮の緞疋并びに兵 器、焔硝、牛角等の物の如きは称して禁貨と為す。余は悉く其の兌換を 准す。此誠に華夷を視ること一家の如くして、其の飢寒の困有らしめざ るなり。順治十年の間に、臣會て此の事を以て請いて世祖章皇帝勅もて 部に下して議せしめるを蒙る。彼の時の部覆にもまた糸絮布帛は禁約の 条に在らざるを以て、貿易を行うを准さる。欽遵して案に在り。  今臣誠に慮るに日久しくて案塵して、官胥屡々易えて稽考を為さず。 且つ、年来の海禁森厳なるに因り、恐らくは糸棉を以て指して禁貨と作 さん。臣故に聖明を仰涜して解推を宏くせんことを乞う。況や本国は土 瘠せ人稀にして紡織を諳んぜず。一糸一粒も向に給を天朝に仰ぐ。而し て地方僅かに三十六島、素より貧蔽を称す。即ち買う所の糸属は三十余 挑に過ぎず、取りて国用に資するのみ。茲に皇上の至徳無外にして臣を 視ること子の如きなるに逢う。臣の誠を輸すこと已に久しく、君を載く こと天の如し。懇に乞うらくは遐方を拊摩するの仁を拡推して勅を申ね て貿易を行うを准さるれば、則ち挟炮の感は、臣、子孫、臣庶と倶に綛 れざらん。且つ本国貢船・接船は向に道を諞中に取る。諞に諞安鎮有 り。鎮外は則ち大海汪洋として今は外界に属し、風涛険悪、盗賊時なら ず。鎮内は則ち内港に属し、貢船・接船到るの日、鎮外に聾ち難し。乞う らくは、并せて勅して、到るの日、即ち令して内港に進めしめ壅滞を致 すことなからしめんと。此くの如くなれば則ち方物は燥湿の虞れ無く、 而して風波盗賊の患、免がるべし。臣の悦服の忱允にして弥深く、朝 廷懐柔の恩高くして弥厚し。将に洪禧を万祀に祝るべし。臣妄昧を揣ら ずして粛恭して冒請す。伏して乞うらくは、鑑恤宥原せられよ。悚息待 命の至に任うるなし。謹んで本を具して陪臣呉文顕、王明佐を差して親 しく齎らし奏す。 康煕七年二月十五日 琉球国中山王臣尚質謹んで奏す  [注1解推の仁 解衣推食のこと。己の衣をぬいで人にきせ、食をすす   める。転じて恩を施すたとえ。2案塵 杭の上の塵、つまり杭の上   で埃をかぶる、しまいこまれて忘れさられて行わない、との意か。   3挑 人がかかえあげるの意。ここでは数詞として用いられている   ので、一かかえの意か。4拊摩 なつける、撫恤するの意。5挟炮   の感 炮挟で、綿でくるんでくれるような恵みへの感謝。「左伝」   にいう、真冬に綿入の着物をもらうような感謝の気持ちのこと。   6呉文顕 那覇呉氏の七世。我那覇親雲上宗信。一六一九〜七〇   年。一六六八年(康煕七)、はじめて耳目官と称して入唐。七〇年、 進貢首尾の報告のため甼州に赴く途中遭難す。] [三四〇 中山王尚質より福建布政使司および礼部あて、進貢使節への賞賜についての謝礼の咨文]  琉球国中山王尚質、頒賞を謝恩せんが事のためにす。  照し得たるに康煕六年八月内、礼部の咨を准けたるに、文内に称すら く、琉球国の進貢は臣が部具題して旨を奉じたるに、這に貢する所の方 物は必ずしも来使をして齎送して京に到らしめず、該撫に着して人を差 わして解送せしめ、其の来使は即ち彼処に於いて給賞し遣回せしむ。余 は議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。本月初二日に於いて部に到 る。  該臣等議し得たるに、康煕四年琉球国中山王尚質、伊の舅英常春等を 差して表を進めて慶賀し、礼物を進めて来京す。臣が部具題して、琉球 国王尚質に蟒緞二疋・青藍綵緞四疋・藍素緞二疋・衣素二疋・恤緞二疋・ 錦二疋・紬二疋・羅二疋・紗二疋を賞す。此の賞賜の緞疋の数目は内 院にて勅一道を撰す。其の差来の王舅英常春には綵緞表七疋・裏四疋・ 羅四疋・連襪緑斜皮牙縫一等・靴一双(を賞す)。正義大夫林有材には綵 緞四表裏・羅三疋・連襪緑斜皮牙縫二等・靴一双を賞す。中途にて病故 せる使者一員吉保祥には綵緞二表裏・布四疋を賞し、通事二員には綵緞 各一表裏・布各四疋を賞す。従人十六名には布各四疋を賞し、留辺通事 一員には綵緞一表裏・布四疋を賞し、従人十三名には布各四疋を賞す。 此の賞物は戸工二部に於いて移取し、午門前に在いて頒給す。臣が部常 に照らして筵宴二次にして回らしむ。其の留辺の人員に賞する緞布等の 物は英常春に交付して帯去せしめ、彼等回りて福建に至れば、例に照ら して擺飯すること一次なり等の因あり。旨を奉じたるに、議に依れ。此 を欽めよやとあり。遵行して案に在り。  今琉球国王応に康煕四年の賞賚の例に照らして、蟒緞二疋・青藍綵緞 四疋・藍素緞二疋・衣素二疋・恤緞二疋・錦二疋・羅二疋・紗二疋を給 す。其の賞賜の緞疋の数目は臣が部琉球国王に移咨す。其の緞疋等の物 はなお戸部において移取し、臣が部官一員、筆帖式一員を差わして捧じ て諞省に至らしむ。此の着来の員役の賞は応に康煕四年の英常春の例に 照らして布政司に於いて支取し、該撫と公同して筵宴二次を賞給して回 らしむなれば可なり。臣等未だ敢えて擅便せず、謹みて題して旨を請う に、議に依れ、這の賞賜の布疋は着して毛青の梭布に改め給せしめよ、 とあり。欽遵して抄出し、部に到り司に送る。此を奉じて相応に移咨 し、案呈して部に到る。擬して合に施行すべし等の因あり。移咨して国 に到る。  随該で査し得たるに康煕四年の賞賜は蟒緞二疋・青藍綵緞四疋・藍素 緞二疋・衣素六疋・恤緞二疋・錦二疋・紗二疋・紬二疋・羅二疋なり。 此の賞賜の緞疋の数目は内院にて勅一道を撰す。康煕五年の賞賜は蟒緞 二疋・青藍綵緞四疋・藍素緞二疋・衣素(六疋)・恤緞二疋・錦二疋・紬 二疋・羅二疋・紗二疋なり。其の賞賜の緞疋の数目は礼部移咨して国に 到る。議し得たるに敝国は僻壌遐陬にして海外億万余里に在り。累ねて 天朝の浩蕩の恩徳、破格の優待を荷くす。敝国即え頂踵を涓糜するとも 以て覆載を万一に報ずる無し。伏して願わくば皇図の壮麗、天地と倶に 永く、聖祉の純煕、日月の遐光と同じからんことを。子子孫孫をして藩 封を遵守せしむれば則ち長く恩栄の替らざるに沐し、即ち世々洪禧の無 疆を祝ると。此が為に咨を具し、伏して乞うらくは、貴部・(貴)司、文 内の事理を察照して、煩為わくば具題して謝恩遵行せられよと。此が為 に理として合に移咨すべし。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処の承宣布政使司、礼部に咨す  康煕七年二月十五日 発る [三四一 礼部より中山王尚質あて、進貢の際の頒賞には謝恩の必要なく、謝恩の際には表文・礼物を要すとの咨文]  礼部、(題)明せんが事のためにす。  礼科抄出し、該本部前事を題するの内に開すらく、査し得たるに、康 煕七年六月内、臣が部、福建巡撫劉秉政の頒賞を謝恩するの事の為にす るの一疏に題覆するの内に開すらく、琉球国中山王尚質久しく已に効順 し、康煕四、五の両年誠を抒べて進貢し、両ながら皇恩もて勅を賜いて 頒賞せらるるを蒙る。彼の国頂載して感頒す。茲に康煕七年、また進貢 の期に当たれば、藩司に移咨して詳もて、臣が代わりて謝恩を題せられ よ、等の語あり。査するに凡そ外国の謝恩は例として応に自ら表文・礼 物を具えて恭進すべし。今該撫の疏に拠るに、呈詳もて代わりて謝恩を 題せんと称するも、並えて未だ題明せず。表文・礼物なきあれば、以て 議に懸けがたし。もし表文・礼物あれば貢と同に進めて来京せしめん。 該撫此の謝恩に表文・礼物有りや無しやを将て題明を行わざるの縁由 は、貢使の京に到るの日を俟ちて問明して再議し具題せん、等の因あ り。旨を奉じたるに、議に依れ、とあり。欽遵して案に在り。  今琉球国の進貢正使耳目官呉文顕等を伝問するに、凡そ外国の人の謝 恩は例として応に表を具うべし。遭の国王並えて具表無くして、代わり て謝恩を題せんことを懇求するは、是れ何の故に縁るか。供に拠るに称 すらく、天朝、康煕四・五の両年、恩もて賞を賜うを蒙り、懽喜して謝 恩す。故に布政司代わりて題せんことを懇う。琉球は小国に係り、進貢 の賞賜、謝恩の具表の規矩を知らず。是をもって未だ進めず等の語あり。 該臣等査し得たるに、凡そ外国歳貢を進めて頒賞せらるるも徒りて謝恩 の例なし。其れ琉球国王、布政司代わりて題せんことを懇うの縁由は議 すべきこと有る無きも、臣等未だ敢えて擅便せず。謹みて題して旨を請 う等の因あり。康煕八年二月初五日題し、本月初七日旨を奉じたるに、 議に依れ。此を欽めよやとあり。欽遵して抄出し部に到る。相応に移咨 すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば査照して施行せら れよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕八年二月二十八日   咨す  [注1福建巡撫劉秉政 任期は康煕五年十一月七日〜同十三年三月十六   日。三藩の乱の際、福建で挙兵した靖南王耿精忠に降った。] [三四二 礼部より中山王尚質あて、進貢船附搭土夏布の自由貿易を許可することについての咨文]  礼部、進貢の事のためにす。礼科抄出し、該本部前事を題するの内に 開すらく、琉球国王尚質の咨もて、臣が部に達するを准けたるに、内に 称すらく、敝国、会典を査照するに、康煕七年は歳循りて期に及ぶ。擬 して合に進貢し、敢えて期を愆たざるべし。虔しく方儀を備え、航海 船二隻を牢緻し、耳目官呉文顕等を遣わし、表を捧げて前赴せんとすと の一件あり。査照するに、順治十一年の附搭土夏布二百疋は、皇上の遠 を柔くるの意を示すを蒙り、官に入れて絹に折するを免ずと雖も、敝国 に在いては愚誠を効順すれば、旧例もて実に苟免し難し。懇に査照し、 例として施行せられよ等の因あり。前来す。  該臣等、査し得たるに、順治十一年、臣が部具題し、明季の旧例を査 照するに、琉球国附搭の土夏布二百疋は、官、一百疋を抽するの外、一 百疋は闊生絹二十五疋に折給せり。琉球は海外の遠国に係り、且つ土夏 布二百疋は又正貢の数内に在らず。念うに、その初めて帰するの国に係 れば、応に皇上の遠を柔くるの意を示すべし。所有土夏布二百疋は、そ の一半を官に入れ、一半を生絹に折するを免じ、それをして自ら交易を 行うを聴さん等の因あり。聖旨を奉じたるに、是なり。議に依りて行 え、と案に在り。  又、査するに、康煕六年、琉球国の進貢来使は曾て京に進まず、福建 に在りて回さしむ。その布政司の解到せる琉球国の附搭土夏布二百疋 は、臣が部具題し、琉球国再貢して到るの日を俟ち、別議して部庫内に 貯う。今次の進貢も又附搭土夏布二百疋あり。此の四百疋の夏布は、応 に琉球国の来使に交付し、順治十一年の例に照らし、臣が部の官員を差 わし、会同館に在りて監看して両平に交易せしむれば、可なり。臣等、 未だあえて擅便せず、謹みて題して旨を請う等の因あり。康煕八年二月 初五日題し、本月初七日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやと あり。欽遵して抄出し、部に到る。相応に移咨すべし。此が為に合に咨 して前去せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕八年二月二十八日   咨す  [注1明季 明代、明朝の時代。2折給 換算して支給する。] [三四三 礼部より中山王尚質あて、湖糸収買の許可および進貢・接貢船の湾泊の件についての咨文]  礼部、会典に循い、勅論を恩賜せられ、以て解推の仁を宏め、以て懐 柔の沢を広めんことを乞わんが事のためにす。  礼科抄出し、該本部、琉球国中山王尚質の奏せる前事に題覆す等の因 あり。康煕七年二月十五日奏し、康煕八年二月初二日、旨を奉じたる に、該部議奏せよ、此を欽めよやとあり。欽遵して本月初三日に於いて 部に到る。 該臣等議し得たるに、琉球国王尚質の疏に称すらく、本国は土瘠せ人 稀にして、素より貧蔽を称す。即ち買う所の湖糸は、三十余挑に過ぎず して、取りて国用に資するのみ。更に、本国は両年一貢にして、船隻は 続いて貢使を接回するあり。船隻到るの日に、鎮外に抛ち難し。并びに 勅到るの日に即ちに港に進め、鎮外に壅滞するを致すなからしめんこと を乞う。かくの如くすれば、則ち方物は燥湿の虞なく、而して風波冦盗 の患は免るべし等の語あり。  査するに、順治十一年、臣が部、琉球国王、懇に勅印を賜発して以て 帰順を励し、風弊を勅禁して以て懐柔を広くせんことを乞わんが事の為 にするの一疏に題覆するの内に称すらく、囗常用の糸綿を買うを禁ずる の例なし。以後、琉球国もし貨物を貿易するあらば、応に会典の定例に 照らして、違禁の貨物は収買するを准さざるを除くの外、会同館に在り て、その両平に交易するを聴し、畢れば即ちに回還せしむるを准さん等 の因あり。聖旨を奉じたるに、琉球は遠国にして帰化・忠誠は嘉すべ し。著して例に照らして特に官員を遣わし、勅印を齎捧し、前往して冊 封し、朕が柔遠の意を昭らかにせよ。余は議に依りて行え、と案に在り。  今、琉球国王奏請して、買わんとする所の湖糸あり。査するに、凡そ 外国進貢すれば、貨物を順帯するも、ただ会同館に在りて、違禁の貨物 を収買するを准さざるを除くの外は、両平に交易するを許すのみにし て、並えて沿途に在りて貿易するの例なし。嗣後、買う所の物は、順治 十一年の例に照らし、仍会同館に在りて、違禁の貨物を収買するを准さ ざるを除くの外は、臣が部より官を差わし、貿易を監看せしめん。 又、称すらく、貢船・接貢船隻到るの日に、即ちに港に進め。鎮外に 壅滞するを致すなからしめよ等の語あり。今、海禁甚だ厳しく、進貢船 を除くの外、その接貢の船は、放入するを許さず。嗣後、進貢の船隻 は、請うらくは勅もて該督撫に下し、もし鎮内の港に湾泊すべければ、 その港に進みて湾泊するを准し、もし鎮内の港、湾泊に便ならざれば、 酌量して湾泊せしめ、命下るの日を俟ちて臣が部より該国王へ移咨し、 遵行せしむれば可ならん。臣等未だあえて擅便せず、謹みて題して旨を 請う等の因あり。康煕八年二月初九日、題し、本月十一日、旨を奉じた るに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵して抄出して部に到る。相 応に移咨すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば旨内の事 理を査照し、欽遵して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕八年二月二十八日   咨す  [注1海禁 清初、海上勢力の鄭成功らに対して清朝は遷海令を布くな どして封じこめを図ったが、その政策のことであろう。] [三四四 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢および襲封に件についての咨文]  琉球国中山王世子尚貞、安危を告訪し、介慮を釈寛し、貢歳を明らか にし、輪誠を闡らかにし、并びに藩を嗣ぎ政を執らんが事のためにす。  照し得たるに、康煕七年二月内に、先王、期を奉じて遵依して虔しく 常貢の物を備え、正議大夫・耳目官等の官、呉文顕・王明佐等を差遣 し、表文を齎捧し、水吮を率領し、分ちて二船に駕し、福建等処承宣布 政使司へ前赴して投逓し貢物を転解せしむ。起送せる員役は、京に赴 き、馳せて表文を奉り、闕に叩して山呼せしめん等の因あり。此が為 に、拠の駅に在りて庶務の職守に当該の員役は、存留するを除くの外、 在船使者・通事等の官金正華・翁重昌等は、康煕七年の夏至、計に程り 規に依りて合に応に帰国せしめ、復た延緩を容さざるべし。争でか二歳 を越遅せん。未だ帰国するを得ざれば、人をして昏惑せしむること滋 甚し。天海の常なきに惑い、風涛の測り兪きに惑う。反って之を思いて、 或は廻りて途に迷いて謬舛せん。庶わくば想々たる微勤、君前に達する を得て、我が邸鄙の藩臣をして少万一を伸べしめんことを。或は去きて 轍を失い乖危すれば、則ち想々たるも未だ上聴に聞せられず、我が邸鄙 の藩臣をして慍を積みて聊なからしむるなり。此の一端に拠り、憂 深く膈に結び、昼は兪に安んぜず、宵は枕に帖き難し。照し得たるに、該 国、仰ぎて兪旨を奉り、会典に遵依し、進貢すること旧に照せり。此が 為に遵依奉行す。方物は是を用て船二隻を挙げて尽く載せ、帰順して心 を一にせり。差去の員役は、共に二百人に盈たず。勤王靡*に非ざるは なし。未だ去来の安危を卜せず、往廻の順逆を知るなし。去きては貢務、 君を敬うに繋関すれば重と為すを慮り、来りては臣民の陥靫するを憂 い、己を揣りて奚ぞ安んぜん。往廻安危の介慮を釈かんと欲すれば、急 ぎ赴きて端的を告詢するに鈴るものなし。此が為に、正議大夫・使者・ 通事等の官の林茂盛等を差遣し、水吮を率領し、土快船一隻に坐駕し、 天朝に前赴して進貢二船の安危の端的を詢探せしむれば、貢歳の重務を 申明し、藩臣の微忱を展布するに庶からん等の因あり。  続いで拠るに、照し得たるに、康煕七年十一月十七日、我が父王先 君、群臣を棄てて以て長逝し、孤子を捐てて帰らざるを痛む。憫予小 子、家の不造に遭い、*々として疾に在り。その泣を啜るなり。尚、何 をか云わんや。国僉の言に拠るに、海国、藩を維ぐに一日として君なか るべからず。黎民の元首は崇朝も位を虚しくするを得がたしと。聊く縄 ぎて嗣に就き、権りに執政と為るも、候度に確遵し、未だ敢えて王と称 せず。此が為に、差遣して先に報明し、王爵を冊封せられん事を請い、 例に照らして後貢を容し、官を差わし京に赴きて奏題せしむ等の因あ り。 此が為に理として合に貴司に移咨して知会せしめ、遵うに前二項の縁 *を将てし、咨を備えて原遣等の官林茂盛等に着令して、馳逓告投せし む。煩為わくば、査照して施行せられよ。此が為に、南風に乗じ得て早 媼に発原せしめ、亟かに廻文を下して帰国して急報せしめ。滞久するな くして良期に棹さしめんことを希う。此が為に移咨す。須く咨に至るべ き者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す 康煕八年三月十三日  [注1尚貞 第二尚氏王統十一代の王。尚質の長子。在位一六六九〜一   七〇九年。2金正華 久米村金氏の八世。赤嶺親雲上。一六一三〜   八〇年。崇禎〜康煕の間、通事等として五度渡唐。3翁重昌 首里   翁氏の出か。生没年他未詳。4端的 端底と同。委細、一部始終   のこと。5林茂盛 久米村林氏(名嘉山家)の九世。金城親雲上。   一六三七〜六九年。官は正議大夫。] [三四五 中山王世子尚貞より聖祖あて、福州琉球館における貿易の許可を懇願した奏文]  琉球国中山王世子臣尚貞奏し、謹みて愚衷を陳べ、天恩を懇い、鑑み て旧章の皇語申飭に循り、推衣の仁を布昭し、益々遠を柔くるの沢を彰 らかにされんことを乞わんが事のためにす。  恭しく惟うに、地上の草木は皆九重の雨露の沢に沾い、天下の遠近は 咸聖皇の浩蕩たるの恩を望む。切に臣、異域に僻居し、幸いにも聖朝の 鴻慈を蒙り、再名を煕くし難ければ、推して恭順の両字ありて以て天心 に答うるのみ。さきごろ、順治十年の間に、臣が父先王貿易の一疏を具 して入告し、世祖章皇帝の部に勅するを蒙る。彼の時の部覆もて、違禁 の貨物を除きて湖糸等の項の如きは、貿易を准許せらる。是を以て、敝 国の臣民は今に至るまで衣食両ながら全うす。飢寒断えて無きは、皆、 世祖章皇帝の華彝を視て一家と為し、臣民を視て一体の如くし、飢える が如く傷つくが如くするの念より出づるものなり。茲に康煕六年の部文 内に開すらく、凡そ外国進貢して貨物を随帯する者は、仍前旨に照らし て、もし自ら夫力を出し京城に帯来して貿易せんことを□願すれば、来 りて貿易するを聴し、もし彼の処にありて貿易せんと欲すれば、該地方 の督撫・提督に着して的当の文武官員を揀選し、貿易を監看せしめん等 の語あり。欽遵して案に在り。  近ごろ康煕九年の部文に因るに、内に云えらく、凡そ外国朝貢すれ ば、ただ会同館にありて貿易するを許し、並えて沿途の貿易の例なし等 の語あり。而して前貢使の呉文顕等は、康煕七年未だ部文を奉ぜざるの 先において、福省柔遠轣にありて糸綢・紗等の物を買うも、一概に価に 変えて、貢船の両艘は載月空しくして帰る。敝国の人民は殆んど寒に号 くに及ぶ。此、臣の奇数なり。特に請うことあり。敝国は地上磽椡にし て糸の出産なければ、寸糸尺縷も、向きには給を天朝に仰ぎて以て国用 に需い、以て困乏を済く。現に聖旨を奉じたるに、凡そ外国朝貢すれ ば、ただ会同館にありて貿易するを許し、並えて沿途の貿易なしとあ り。煌々たる天語、あえて欽遵せざらんや。但、敝国入貢するの時、土 産を順帯するありと雖も、粗貨に過ぎず。之を言えば□すべく、之を視 れば穢すべし。□金銀両を発来するありと雖も、至って少なし。買う所 の湖糸は三十余担に過ぎず。之を別彝に較ぶれば、霄壌の懸隔たり。且 つ敝国貢を納むるの道は、素、諞省由りす。道路を以て之を言えば、数 千余里。もし土産の粗物をして京都に転運せしむれば、夫力を広費し、 至難これより大なるはなし。もしその湖糸等の物は、ただ会同館にあり 貿易するを許すのみならば、臣が貧国の如きは、力及ぶ能わざること甚 だしく、朝鮮美邦の比には非ず。況や、敝国の土産等の物は、原、諞省 柔遠轣にありて湖糸・磁器等の項に兌換す。例に憑るベきあり。案に考 うべきあり。伏して思うに、柔遠轣は天朝の殊恩を蒙りて旧の如く起蓋 し、貢使をして安挿せしむるに地あり。然らば則ち沿途の比に非ざるこ と明らかなり。更に請う所の者あり。臣が海邦の如きは、聖天子の優恤 するに非ざれば、挙国寒に号くこと免れ難し。已むをえず、蟻情を瀝陳 し、聖徳を冒涜し、懇に恵を垂れんことを祈る。部に勅して再び酌議を 加え、福省督撫両院に転行し、旧例に照循して、湖糸等の物は仍福省柔 遠轣にありて公平に交易せしめ、臣が窮国をして冠裳に欠くことなから しむれば、皇徳の覆載に遠人喜甦し、挟炮の感、益々切にして益々深 く、君を戴くこと天の如くして万祀誅かるるなし。   康煕九年十月十三日、琉球国中山王世子臣尚貞、謹みて上奏す  [注1世祖章皇帝 清の初代皇帝、順治帝のこと。2価に変えて 現金   に代えて。つまり購入した品物を払い戻されて現金を渡されたの   意。3奇数 運命の意。4朝鮮美邦 美邦は美豊なる国、大なる国   の意で、朝鮮の豊かなることを形容した語。  ※本項で、「夷」の字が「彝」で代用されている。満州族の王朝である   清朝では、康煕〜乾隆の間、華夷の別、清朝への誹謗に対する弾圧   「文字の獄」が起きている。夷である清朝は、「夷」と同音である   「彝」の字をもってその代用としたのであろう。] [三四六 中山王世子尚貞より聖祖あて、進貢船を下賜されたき旨の奏文]  琉球国中山王世子臣尚貞、一本もて従来の旧例に循り、即ちに貢船を 賜いて遣帰せしめ、以て浩費を省き、以て遠人を恵むを乞わんが事のた めにす。  切に惟うに、敝国は化に向い徳を慕うことすでに一日には非ず。茲に 旨を奉じたるに、両年に一貢せよとあり。欽遵して案に在り。歴来、貢 船諞に至れば、例として辺に留まると京に赴くとあり。次年の貢船を候 待し、継使と替換して帰る。其の余の随行の人役は、春来たりて夏帰 る。概ね阻滞なし。近ごろ海氛未だ靖からざるに因り、前年の貢使は一 概に存留す。誠に是れ聖皇の懐柔の徳にして、覆載の恩と異なるなし。 但、思うに、両船の人役は一百数十余人なれば、もし両載の久しきを留 むれば、共に天帑千金有余を費す。素餐之愧ず。為に臣焉くんぞ能く安 心せんや。且つ、敝国は海陬の荒土にして、材木多からず。而して造船 の木は、惟だ松樹のみ。もし久しく淡水の中に頓むれば、虫蛙して朽爛 し、再び用うるに堪えず。之を兼ねるに、日ごとに雨霖に晒せば、破壊 すでに極まる。貢ごとに船を造れば、窮国最も□し、春来たりて夏帰る の両便の鈴りたるに如かざるなり。冒昧を揣らずして、具疏上請す。伏 して旧案を稽察し、速やかに貢船を賜り、摘発して回国せしめられんこ とを懇う。天朝に在りては以て□濫の費を□き、臣に在りては早に佇望 の心を慰むるなり。   康煕九年十月十三日、琉球国中山王世子臣尚貞、謹みて上奏す [三四七 中山王世子尚貞より礼部等あて、詔勅・緞疋等を頒賜せられたる件について、謝恩の咨文]  琉球国中山王世子臣尚貞、頒賞に謝恩せんが事のためにす。照し得た るに、敝国は久しく聖朝の浩蕩なるに沐すること、霈髪数え難し。土産 の奇珍に乏しく以て万分の一も報いる無きを愧ず。惟だ漢殿に向いて嵩 呼の永休なるを祝り、遥に尭階を望み、聖祉の純煕なるを頌えるのみ。 茲に又皇勅一道併びに欽賞の緞疋等の物を蒙る。誠に是れ君恩の高厚も て格外に優待せらるれば、何ぞ覆載の育に異ならんや。臣、即え頂踵を 捐糜するとも、以て報称し難し。只、恭順に励みて帰誠するのみ。伏し て乞うらくは、貴部・司、文内の事理を査照せられ、煩為わくば謝恩を 具題し、遵行せられんことを。此が為に理として合に移咨す。須く咨に 至るべき者なり。   右、礼部・福建等処承宣布政使司に咨す  康煕九年十月十三日  [注1霈髪数え難し 数えることに堪えざる多さ、多すぎて数えられな   い。2漢殿 漢の宮殿。ここでは清朝の王宮、紫禁城の形容。3波   階 漢の宮殿の階段。天子のいる王殿の意。] [三四八 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢使派遣、進貢物献上について、照会の咨文]  琉球国中山王世子臣尚貞、進貢せんが事のためにす。  照し得たるに、敝国は会典に遵依し、両年に一次朝貢す。査するに、 康煕九年は歳循りて期に及べば、擬して合に進貢すべく、あえて愆越せ ざらんとす。此が為に虔しく方物を備え、海船二隻もて官を遣わし、坐 駕して水吮を率領せしめ、船ごとに均*せる上下の員役は、共に二百人 の数に盈たず。方物を解運し、福建等処承宣布政使司へ前赴して投納し て転解せしめ、京に赴きて進奉せんとす。此が為に、常貢の惓熟硫黄一 万二千六百簧・馬十疋・海螺殻三千箇を遵将するの外、又屡々聖朝の浩 蕩なるを蒙り、破格に優待せられ、敝国は即え頂踵を捐糜するとも、以 て万分の一にも報いるなければ、外に土産の遲煙五十匣、番紙四万張・ 蕉布一百疋等の物を任将して進上す。此に拠りて合行官を遣わして管解 し、福建等処承宣布政使司に前赴して投納せしむるの外、理として合に 咨を備えて告投す等の因あり。此が為に、今、耳目官・富茂昌、正議大 夫・蔡国器、都通事・梁邦牴等の官を遣わし、咨を齎して告投し、逓も 表を捧げて波階へ赴きて俯伏し、漢殿を仰ぎて以て嵩呼せしめんとす。 其の原船は夏の風媼に及べば亟やかに遣帰を賜り、以て冗費を免れ、以 て渇望を慰めしめよ。此が為に理として合に貴司に移咨す。煩為わくば 察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕九年十月十三日  [注1富茂昌 那覇呉氏の七世(支流)。新田親方宗則。生没年未詳。後   代、姓が呉氏に代わる。2梁邦牴 久米村梁氏(亀島家)の九世。   国吉親雲上。一六四二〜一七〇六年。官は正議大夫。] [三四九 福建布政使司より琉球国あて、進貢・請封・貿易等の件についての咨文]  福建等処承宣布政使司、安危を告訪し、介慮を釈寛し、貢歳を明らか にし、輸誠を闡らかにし、并びに藩を嗣ぎ政を執らんが事のためにす。  琉球国中山王世子尚貞の咨を准けたるに称すらく、康煕七年二月内 に、先王期を奉じて遵依して、虔しく常貢の物を備え、正議大夫・耳目 官等の官呉文顕・王明佐等を差遣し、表文を(齎捧し)、水吮を率領し、 二船に分駕し、福建等処承宣布政使司へ前赴して投逓し、貢物を転解せ しめ、員役を起送して京に赴き、馳せて表文を奉り、闕に叩して山呼せ しむるも、未だ帰国するを得ず。正議大夫・使者・通事等の官の林茂盛 等を差遣し、水吮を率領せしめ、土快船一隻もて前赴し、安危を詢探し て申明せしむ。康煕七年十一月十七日、父王尚質、長苺す。国僉の言に 拠るに、海国は一日として君無かるべからずと。聊く縄ぎて嗣に就き、 権りに執政と為るも、侯度に確遵し、未だ敢えて王と称せず。後貢の 日、旨を請う等の因あり。司に到る。此を准けて両院に転詳し、具題せ しむるを除くの外、又、稟報せんが事の為にす。康煕八年九月初五日、 巡撫都察院劉の案験を奉じたるに、礼部の咨を准けたるに、主客清吏 司、案呈すらく、本部より送りたる礼科の抄出を奉じたるに、該本部、 福建巡撫劉の題せる前事等の因に題覆す。康煕八年六月初四日題し、七 月十九日、旨を奉じたるに、該部議奏せよ、此を欽めよやとあり。欽 遵す。該臣等、議し得たるに、該撫劉の疏に称すらく、琉球国世子尚 貞、使を遣わし、咨を布政司に齎す。内に開すらく、中山王尚質、病故 す。海国一日として君無かるべからず。権りに執政と為るも、未だ敢え て王と称せず。容に後貢の日に、王爵を册封せられんことを題請すべ し。又、先に使を遣わし京に赴きて進貢せしむるも、未だ(帰国する を)得ず。此が為に、正議大夫林茂盛等を差遣し、并びに探詢せしむ等 の語あり。査し得たるに、琉球国世子尚貞は、既に後貢の時に王爵を冊 封するを題請せんと称すれば、相応に其の進貢して請封具題するの日を 俟つべし。王を封じ、并びに故王に恤を賜うは、一併に再議具題すべ し。其の前の進貢瓠二隻は、本年二月二十七日に、通事序班の李掀を差 わし、伴送して辺界に至る。辺の処に在りて起程せる日期は、相応に該 撫に移咨し、来使の林茂盛に対して説知して回らしめ、もし未だ曾て起 程せざれば、来使と一同に遣回せしむれば可なり等の因あり。康煕八年 八月初二日、題し、初四日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよや とあり。欽遵す。抄出して部に到れば司に送る。合に咨して前去せし む。査照して施行せられよ等の因あり。院に到り、案を備えて司に到 る。備に咨文内の奉旨の事理に照らして欽遵して施行せよ等の因あり。 司に到れば遵行して案に在り。  又、会典に循わんことを乞う等の事の為にす。康煕八年十月二十二 日、総督浙諞部院劉の憲牌を奉じたるに、礼部の咨を准けたるに、該本 部、浙諞総督劉の題せる前事に題覆して、旨を奉じたるに、該部議奏せ よ、とあり。該臣等、議し得たるに、該督劉の疏に称すらく、琉球国の 貢使、京より国に回返するに、部議には並えて沿途の貿易の例なし。た だ康煕七年六月内に未だ部文を奉ぜざるの先に買う所の綢、紗布、絹、 薬材等の項あるのみにして、違禁の物には係わらず。但、査するに、新 奉の例とは符せざれば、焉んぞ敢えて其の携え帰るを聴さんや。今、京 に進みて欽賞せられ、及び会同館に在りて買う所の各物を将て、例に遵 いて帯回するを准与するを除くの外、その旧年買う所の各物は彝使を慰 めんがため概ね価に変えて帰国せしむ等の語あり。査するに、本年二月 内に、臣が部、琉球国王尚質の奏せる前事に題覆す。内に開すらく、凡 そ外国進貢し、貨物を順帯すれば、ただ会同館に在りて、違禁の貨物を 収買するを准さざるを除くの外、両平に交易するを許すのみにして、並 えて沿途に在りて貿易するの例なし。嗣後、買う所の物は、順治十一年 の例に照らして、仍会同館に在りて、違禁の貨物を収買するを准さざる を除くの外、臣が部より官を差わし、貿易を監看せしめん等の因あり。 具題して旨を奉じたるに、議に依れとあり。欽遵して咨行すること案に 在り。今、該督劉、既に琉球国人役の途に在りて買う所の各物を将て、 価に変えて帰国せしめたれば、再議を容る無し。臣等、未だ敢えて擅便 せず。謹みて題して旨を請う等の因あり。康煕八年九月十四日題し、本 月十六日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。 抄出して部に到れば司に送る。此を奉じて、相応に移咨す。案呈して部 に到れば、移咨して院に到る。此を准けて牌を備えて司に行る。事理に 照依し、□□琉球国人役の途に在りて買う所の貨物□□□□□□□□□ □等の因あり。遵行して案に在り。□□□□□□并びに探問報喪するの 小船は、相応に遵□□□□□遺帰せしめ、辺に留まるの通事鄭永安等□ 員名を将て駅に在りて存留せしむるを除くの外、随ちに進貢使者の呉文 顕・王朋佐・鄭宗徳等、共に一百九十員名、并びに報喪船上の彝伴を将 て、一同に遺回せしむ。擬して合に移知すべし。此が為に、由を備えて 貴国に移咨す。煩為わくば知照して施行せられよ。須く咨に至るべき者 なり。   (康煕九年)  [注1浙諞総督劉 劉兆麒。任期は康煕八年三月二十三日〜同九年四月   十九日。2鄭永安 久米村鄭氏十一世(村田家)。生没年不詳。官は 紫金大夫に陞る。3鄭宗徳 久米村鄭氏(与儀家)の四世。与儀親 雲上。一六四一〜一七一二年。官は正議大夫。康煕中、渡唐役とし て度々渡唐。『歴代宝案』の督抄官の一人。] [三五0 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢物の受領、礼物・勅諭の頒賜についての咨文]  礼部、知会せしめんが事のためにす。照し得たるに、琉球国中山王世 子(尚貞)、耳目官富茂昌等を差わし、表を具し、方物を進貢して部に到 る。本部、例に照らして具題し、査収し訖れり。所有欽賞せられたる礼 物は、特に勅諭一道を頒ち、相応に知会せしむ。此が為に、合に咨して 前去せしむ。煩為わくば査照して施行せられよ。須く知会に至るべき者 なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕十年九月十六日   咨す [三五一 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢船遭難事件の取扱いについての咨文]  礼部、琉球国、表を具し方物を進貢せしめんが事のためにす。  礼科の抄出せる該本部の題に、前事あり。内に開すらく、照し得たる に、琉球国世子尚貞、耳目官富茂昌、正議大夫蔡国器等を差わし、進貢 して部に到る。査し得たるに、本年二月内に、臣が部、福建巡撫劉秉政 の題せる前事の一疏に題覆するの内に開すらく、琉球国世子尚貞、耳目 官富茂昌等を差わし、船二隻に駕して進貢せしむ。一船は先に福建に到 る。応に現に到るの一船の載せる所の貢物、及び来使を将て、例に照ら して其の京に来るを准すべし。此の進貢の硫黄は福建に留め、総督・巡 撫に収貯せしめ、臣が部より工部に移咨し、応に用うべきの処に於いて 使用せしむべし。其の一船、風を被りて飄失し、賊の船を連ねて進貢の 方物を劫去するに遭うの縁由は、応に琉球国の来使京に到るの日を俟ち て問明し、再議して具題すべし等の因あり。旨を奉じたるに、議に依れ とあり。欽遵して案に在り。  今、貢使の耳目官富茂昌、正議大夫蔡国器、部に到るを得れば、遭們 の進貢来駕せる船二隻の内、一船は風を被りて飄失し、賊の劫去に遭う とは是れ何の情由なるやを問う。供に拠るに、康煕九年、本国に在りて 二船貢物を装載して開洋し、福寧州界外の桑山に来至するや、偶々颶風 に遇い、錨を抛つも及ばず。一船は飄失し、何処へ去向するやを知ら ず。後、福建省に至り、提督王進功、颶風にて飄失せる一船の人を将て 解送し来るの時、方めて賊の劫去を被るを知れり等の因あり。  該臣等、議し得たるに、琉球国、原、熟硫黄一万二千六百簧・馬十匹・ 螺殻三千個の常貢を進貢するの外、遲煙一百匣・番紙四万張・蕉布一百 疋を加うるも、一船は風を被りて飄失し、賊の劫去に遭う。今、進到せる 熟硫黄五千三百簧・馬五匹・螺殻一千五百個・遲煙五十匣・番紙二万張・ 蕉布五十疋を存す。風を被りて飄失し、賊の劫去に遭うの一船の載せ る所の貢物は査議を庸うるなく、今、進到せる硫黄は福建に存貯するを 除くの外、其の螺殻一千五百個・蕉布五十疋・番紙二万張・遲煙五十匣 は、応に総管内務府へ交与し、数に照らして査収せしめ、其の馬五匹は、 内阿判へ交付すれば可なり。臣等、未だ敢えて擅便せず、謹しみて題し て旨を請う等の因あり。康煕十年八月二十七日題し、本月二十九日、旨 を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に 到れば、相応に移咨す。此が為に、合に咨して前去せしむ。煩為わくば 査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕十年九月十六日   咨す  [注1提督 明、清代の武職の官名である提督軍武総兵官のこと。清代   は重要な省に、総督の下、省の緑営兵を統率する者として設置され   た。陸と水、両提督がある。2王進功 福建の陸軍提督。康煕三〜   同十三年の間在職。] [三五二 礼部より中山王世子尚貞あて、福州琉球館における貿易許可の件についての咨文]  礼部、会典に循い、糸を買うを請うの由を剖明し、康煕七年、彼の処 に在りて貿易するを聴すの旨を体し、懇に□□該部に勅して定例を詳察 し、督撫に申諭し、以て皇仁を拡めんことを乞わんが事のためにす。  礼科の抄出に該本部、琉球国中山王世子尚貞の奏せる前事に題覆す等 の因あり。康煕九年十月十三日奏し、十年八月二十二日、旨を奉じたる に、該部議奏せよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。八月二十三日に於い て部に到る。該臣等、議し得たるに、琉球国中山王世子尚貞の疏に称す らく、切に念うに、臣が国は荒僻にして、凡そ服食の器用は多く天朝に 仰ぐ。而して官伴・水吮は、各々土産を帯び、米麦・魚醤の如きの類 は、棉布・磁器・雑物に兌換す。近ごろ朝廷の殊恩を蒙り、旧に照らし て柔遠駅を起蓋し、彝衆を安挿せしめられ、一切の貿易は皆駅中に在 り。例として憑るべきあり。案として考うべきあり。原より沿途の比に はあらざるなり。今、若し悉く会同館に運至して貿易せしむれば、夫れ 諞より六千余里にして京に至り、又京より六千余里にして諞に返る。其 の間の水陸夫力もて一金の物、計るに数金の費あり。況や、随帯せる土 産は粗重の物に係れば、搬運は万難なり。これ尤も天朝の必ず憫念する 所の者なり。今、臣尚貞、煢煢として疚に在り、尚、未だ嗣服せず。凡 て事は一に国法に遵わん等の語あり。  査し得たるに、康煕三年四月内に、臣が部、広東巡撫盧興粗の、恭し く暹羅の進貢を報ぜんが事の為にするの一疏に題覆するに、内に開すら く、進貢に順帯するの貨物は、或いは貢使をして自ら船夫を短いて載運 せしめ、或いは駅逓・船夫を囗して運送せしめん等の因あり。具題して 旨を奉じたるに、暹羅国貢使の貨物は、もし彼自ら夫力を出して京城に 帯来して貿易せんことを願わば、来りて貿易するを聴し、もし彼の処 に在りて貿易せんと欲すれば、擾乱を致すなからしめ、該地方に着して 能幹の官員を選委し、貿易を監看せしめよとあり。欽遵して案に在り。 今、琉球国中山王世子尚貞の奏請に、凡そ服食の器用は多く天朝に仰 ぐ。而して官伴・水吮は、各々土産を帯し、米麦・魚醤の如きの類は、 棉布・雑物に兌換す、とありて前来す。応に暹羅国の例に照らして、進 貢に順帯せるの貨物は、福建省の柔遠駅に在りて貿易するを准し、違禁 の物を買わざるを除くの外、仍該地方の督撫をして能幹の官員を選委し 擾乱を致すなからしめ、貿易を監看せしむれば可なり。臣等、未だ敢え て擅便せず。謹みて題して旨を請う等の因あり。康煕十年八月二十八日 題し、本月三十日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。 欽遵す。抄出して部に到る。  其の琉球国の進貢に順帯せるの貨物は、福建省の柔遠駅に在りて交易 せしめ、該地方をして能幹の官員を選委して監看せしめ、違禁の史書・ 黒黄紫*の大花西番磽の緞疋・焔硝・牛角・兵器等の項の物は買わざる を除くの外、其の余の糸絹・布疋・雑物は、着して交易して帯去せし め、相応に福建督撫并びに琉球国世子へ移咨すれば可なり、とあり。相 応に移咨すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば査照して 施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕十年九月十六日   咨す  [注1魚醤 しおから。2京城 北京のこと。3能幹 才幹と同。物事   を処置する才能があること。] [三五三 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢船の二隻は貢使の京より帰るを待って帰国させる旨の咨文]  礼部、先遣の貢船の帰国の旧例を察し、以て天朝の糜費を省き、以て 遠人を慰恵するを乞わんが事のためにす。  礼科の抄出に該本部、琉球国中山王世子尚貞の奏せる前事に題覆す等 の因あり。康煕九年十月十三日奏し、十年八月二十二日、旨を奉じたる に、該部議奏せよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。八月二十三日に於い て部に到る。該臣等、議し得たるに、琉球国中山王世子尚貞の疏に称す らく、窃に惟うに、臣が国は会典に欽遵し、両年に一貢す。兢兢として 竭蹶し、敢えて期に愆わざらんとす。歴来、貢船諞に至れば、入港して 盤験せられ、貢物を将て搬運して庫に貯えるの外、正副の使者・官伴は 勘合を請くるを候ちて京を朝なう。其の余の随行の吮伴は、夏媼に趁べ ば、来船と与に尽く先に遣帰し、只小通事一員・人伴儻数名を留めて駅 を守らしめ、京より回るの官伴を候待し、次年の貢船に至って、替換し て帰らしむ。此従来の咨文に開する所にして、廩糧を給発するの旧案と ともに、現に福建布政司に存すれば、考うべし。近ごろ、海氛未だ靖か らざるに因り、前年の貢使の船隻は、一概に存留す。此、是、皇帝懐柔 の徳にして、覆載の恩に異なるなし。但、思うに、両船の官伴・水吮 は、共に一百数十余人あり。若し二載の久しきを留むれば、計るに、天 帑を費すこと千有余金。且つ敝国の臣民は、各々歴貢の常例を計りて指 を屈し、帰るの期至るに膤び、夏媼已に過ぐれば、国を挙げて夕徨せ ん。誠に、海洋は測られず、或いは貢を失うを致さば罪を獲ること軽か らざるを恐るるなり。船帰るに至るに及んで、方に始めて安穏するな り。更に臣が国は海陬の荒土にして、材木多からず。而して造船の木 は、惟だ松樹のみ。性は鹹滷に耐うるも、若し淡水の中に頓むれば、虫 蛙して朽爛し、用に堪えざらしむ。之を兼ねるに日ごとに雨霖に晒せ ば、久しからずして破壊せられん等の語あり。  査し得たるに、康煕七年六月内に、臣が部より、福建巡撫劉秉政の進 貢せんが事のためにするの一疏に題覆するの内に開すらく、琉球国王の 請う所の貢船二隻あれば、船一隻は蚤媼に発回せしめられんことを乞う 等の語あり。但、海禁甚だ厳しければ、一船は先に回るを准し難し。相 応に貢使の本国に回るの日を俟ちて、一併に同に回すべし等の因あり。 具題して旨を奉じたるに、議に依れとあり。欽遵して案に在り。今、琉 球国進貢の船は、先に発回を行うに便ならず。仍貢使の国に回るを俟 ち、一併に遣回せしむれば可なり。臣等、未だ敢えて擅便せず。謹みて 題して旨を請う等の因あり。康煕十年八月二十八日題し、本月三十日、 旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部 に到る。相応に移咨すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わく ば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕十年九月十六日   咨す  [注1鹹滷 塩からい水、海水のこと。] [三五四 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、遭難進貢船の進貢物の取扱いについての咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の事のためにす。琉球国中山王世子尚 (貞)の咨を准けたるに、前事あり。照し得たるに、敝国、会典に遵依し、 両年に一次朝貢す。査するに、康煕九年は歳循りて期に及べば、擬して 合に進貢し、敢えて愆越せざらんとす。此が為に、虔んで方物を備え、 海瓠二隻もて官を遣わし、坐駕して水吮を率領せしめ、船ごとに均*の 上下の員役は、共に二百人の数に盈たず。方物を解運して本司へ前赴 し、投納して転解せしめ、京に赴きて進奉せんとす。常貢の惓熟硫黄一 万二千六百簧・馬十匹・海螺殻三千箇を遵将するの外、又、屡々聖朝の 浩蕩もて破格に優待せらるるを蒙り、敝国即え頂踵を捐糜するとも、以 て万分の一にも報いるなし。外に仍、土産の遲煙一百匣・番紙四万張・ 蕉布一百疋等の物をもって進上す。合行官を遣わして管解し、本司に前 赴して投納せしむるの外、理として合に咨を備えて告投す等の因あり。 此が為に、今、耳目官富茂昌、正議大夫蔡国器、都通事梁邦牴等の官を 遺わし、咨を齎して告投し、表を捧げて波階に赴きて俯伏し、漢殿を仰 ぎて以て嵩呼せしむ。其の原船は、夏の風媼に及べば、亟かに遺帰する を賜り、以て冗費を免れしめよ。貴司に移咨す。煩為わくば察照して施 行せられよ等の因あり。司に到れば、此を准く。  又前事の為にするあり。巡撫都察院劉の案験を奉じたるところ、礼部 の咨を准けたるに、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出 を奉けたるに、該本部より福建巡撫劉の題せる前事に題覆す等の因あ り。康煕九年十二月二十六日題し、十年二月初九日、旨を奉じたるに、 該部議奏せよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。二月初十日に於いて部に 到る。該臣等、議し得たるに、福建巡撫劉の疏に称すらく、琉球国世子 尚貞、来使を差わし、船二隻に駕して進貢せしむ。康煕九年十一月二十 六日において、先に到るの一隻あり。尚、一船は未だ至らざるあり。随 で、提督王の咨を准けたるに、彝人林士奇等、共に五十五名を解ちて、 逐細に査訊せしむるに、貢船は風を被りて外媼に飄至し、賊の船を連ね て方物を劫去するに遭う。咨をもって逃回せる彝人を解ち、駅に発りて 安挿せしむ。其の先に到るの一船は、港に進めて盤験せしめ、方物は藩 司をして例に照らして別に官司に行委せしめ、彼の来使をして齎捧進呈 せしめ、臣、督臣と会同し、先に題報を行う等の語あり。今、琉球国世 子尚貞、耳目官富茂昌等を差わし、船二隻に駕して進貢せしむ。一船は 先に福建に到る。応に現に到るの一船の載せる所の貢物及び来使をもっ て、例に照らして其の京に来るを准し、此の進貢の硫黄は福建に留めて 総督・巡撫に収貯せしめ、臣が部より工部に移咨し、応に用うべきの処 において使用せしめ、其の一船、風を被りて飄失し、賊の船を連ねて進 貢の方物を劫去するに遭うの縁由は、応に琉球国の来使の京に到るの日 を俟ちて問明し、再議して具題すれば可なり等の因あり。康煕十年二月 十九日題し、本月二十一日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよや とあり。欽遵す。抄出して部に到れば司に送る。此を奉けたり。相応に 移咨すべし。案呈して部に到れば合に咨して前去せしむ。煩為わくば査 照して施行せられよ等の因あり。院に到る。此を准けて擬して合に就行 すべし。此が為に案を備えて司に行る。備に咨文の奉旨内の事理に照ら して欽遵し、査照して施行せられよ等の因あり。  此を奉けて、本司已に、先に到るの一船の載せる所の常貢の惓熟硫黄 一万二千六百簧・馬十匹・海螺殻三千箇・遲煙一百匣・番紙四万張・蕉 布一百疋等の物をもって、福州府諞県県丞の周文を差官し、来使の富茂 昌・蔡国器等を護送せしめ、京に赴きて進貢せしむ。所有の一船の海外 にて劫を被りて失去せられたる方物は、業に本撫院を奉じて具題して案 に在れば開せざるの外、今、前因を准けて合に就に移覆す。此が為に理 として合に由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば査照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子尚に咨す 康煕十一年六月初五日   進貢の事   咨す  [注1県丞 官名。漢代より県ごとに置かれ、県令を補佐した。清代で  も知県の属官として置かれた。  ※進貢物は到着した一船のみで数量を充たしているとあり、遭難船の   積載物については検討の余地がある。また、海賊船に襲われた都通   事林士奇ら進貢小船の乗員は、廈門で解放された。福州を経て帰国   した乗員に対し、甼摩は死罪を要求したが、蔡国器の努力により流   刑に減刑となった。] [三五五 中山王世子尚貞より聖祖あて、やむをえざる事情につき、従前通り進貢船のみ先に帰国するを許可されたき旨の上奏文]  琉球国中山王世子臣尚貞、一本もて謹みて万已むをえざるの事情を陳 べ、愚昧を揣らず、天聴を冒涜し、恩鑑を垂れて下情を憫念せられんこ とを懇わんが事のためにす。  切に惟うに、敝国の貢物は一として奇珍なく、全く皇上の寛仁に頼り て益々恭順に励むのみ。茲に、敝国の貢船は、歴来、諞に至れば、例と して京に赴くと辺に留まるとあり。其の余の随行の官伴・水吮は、冬来 たりて夏帰る。概ね阻滞するなし。近ごろ、海氛未だ靖からざるに因り て、礼部の題覆に、但、海禁甚だ厳しければ貢船先に回るを准し難し等 の語あり。欽遵して案に在れば、再請すべからざるなり。但、臣が国は 荒僻撮土にして、滄海四囲す。生ずる所の木は、惟だ是れ松樹のみ。造 船の木も亦是れ松樹にして、性は鹹滷に耐うるも、若し久しく淡水に頓 むれば、朽壊に至り易し。近ごろ、毎貢の船隻、天朝に滞留して河津の 淡水の中に頓めしこと殆ど三載に及ぶ。駕して敝国に帰れば、再び用に 堪え難く、いかんともするなし。康煕九年十月内に、臣敬みて具疏して 上請するに、礼部の題覆に、今、琉球国の進貢の船は先に発回を行うに 便ならず等の語あり。敢えて遵依せざらんや。いかんせん、国窮し入稀 にして、貢ごと船を造るは千艱万難なり。已むをえず再三上請す。伏 して祈るらくは、皇上、徳を昭らかにして遠を懐け、愚衷を矜憫して以 て康煕五年の例に照らし、今次の貢船二隻は勅もて遣帰するを賜り、其 の京に赴くの貢使・官伴、併びに存留通事・官伴は、後貢を候待て、替 換して帰らしめんことを。臣が窮国をして毎貢の造船の難を免れしむれ ば、子子孫孫、永く天朝の蔭庇に沐し、徳は天地と同に窮りなく、感は 丘山と与に朽ちざるなり。臣、戦慄待命の至りに任うるなし。此が為に 具本し、陪臣の呉美徳・蔡彬等を専差して齎赴せしめ、謹みて奏を上 りて聞す。伏して旨勅を候つ。  康煕十一年十月十五日、琉球国中山王世子尚貞、謹みて上奏す  [注1呉美徳 首里向氏小禄家の支流。名嘉真親方朝衆。当時呉姓を称   したが、後に向美徳と謚名されている。] [三五六 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢船のみ先に帰国するを許さざる旨の咨文]  礼部、敬みて万已むをえざるの事情を陳べ、愚昧を揣らず、天聴を冒 涜し、恩鑑を垂れ、下情を憫念せられんことを懇わんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、琉球国中山王世子尚貞の奏せる前事に題覆するの内に開すらく、 該臣等、再議し得たるに、査するに、康煕六年、荷蘭国の進貢の来使、 具呈すらく、貢船広に到りて久しく住まれば、恐らくは船朽爛せん。先 に回るを准されんことを乞う。具題するも准行せず。  又、査するに、康煕七年、暹羅国の握耶大庫、呈称すらく、探貢の船 隻を続発すれば、査発して回国せしめられよ、と。海禁森厳なるに因 り、嗣後、進貢の来使は、如し接探の者あれば、永く着して停止せしめ ん。具題して旨を奉じたるに、議に依れ、欽遵せよ、と案に在り。  又、査するに、琉球国の進貢の員役諞に到れば、該督の疏に拠りて、 正副使の京に進むを題准せらる。若し京に進むの員役も、辺に在るの人 役・水吮とともに去かざれば、則ち辺に在るの水吮は、先に伊の国へ遣 帰せしむ。恐るるらくは、下役は法度を知らざれば、彼の境内の奸徒に 勾引せられ、違禁の物を盗買して帯去し、或いは貢使の員役の船隻を接 探するの名色を借りて、妄行して事を生じ、以て防範し難し。況や、正 副使、事畢りて諞に回り、必ず後次の進貢の船隻を俟ちて前去せしむれ ば、往返には須く多日を用す。其の外国の進貢の員役は、久しく内地に 留むべからず。  又、査するに、康煕五年、琉球国進貢の彝官・鄭思善等、風媼未だ便 ならざるに因り伊の国に回り難く、諞に在りて久しく住まる。差せる伊 の国、通事蔡彬等の駕船来接の時、兵部具題し、該撫に移咨す。今、臣 が部に回るに、進貢の員役をもって存留して辺に在らしめ、先に船隻を 発回するを行い、後の貢船を候ちて往換せしむるの処あることなし。 今、既に海禁森厳なれば、先に貢船をもって遣回せしむるに便ならず。 仍、前議に照らして、貢使の諞に到るの日を俟って、一同に遣回せし め、命の臣が部に下るの日を俟ちて該国に移文すれば可なり等の因あ り。康煕十三年三月初十日題し、本月十二日、旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到れば司に送る。此を 奉じて、相応に移咨す。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば、 査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕十三年三月十四日   咨す  [注1防範 防止する、予防するの意。] [三五七 大僕寺卿管福建布政使司より中山王世子尚貞あて、糸絹布帛の市買を許可し、進貢使を送り返す旨の咨文]  大僕寺卿管福建等処承宣布政使司、謹みて返棹期に届るを陳べ、恩綏 を*呼して以て柔遠を弘めんが事のためにす。  本年四月十三日、礼曹の照会を承准けたるに、福建布政司の覆を案准 して看得たるに、琉球国の陪臣昌威等の陳ぶる所の四事あり。海防官張 覲光に拠るに、詳議して允行せり。本司、覆核するに異なるなし。北に 往きて未だ回らざるの官伴の如きは、応に関を守るの官兵に伝諭して、 其の諞に回るを聴す。其の貿易の一項は、只だ糸絹布帛等の物を市買す るを許すのみにして、違禁の史書・硝榲・軍器等の項を夾帯するを許さ ず。夏至、期に届れば、凡そ駅に在るの夷人は、其の返棹を許し、官伴 の廩軛は、原より定例あり。合に駅糧二道に行じて支給せしむ。未だ回 らざるの官伴は、応に辺駅に留め、再貢を俟ちて旋いで帰らしむ。之を 旧例に合して皆応に允従し、以て無外を体恤するの意を示すべし。相応 に咨覆し、伏して裁酌を候つ。啓奏す等の因あり。咨呈して曹に到る。  随で本曹の覆を経て看得たるに、琉球国の陪臣昌威等の陳ぶる所の四 事あり。福建布政司に拠るに、布政使蕭の批に拠れば福州府同知臣張覲 光査議して允行せり。相応に其の請う所に依るべし。浙諞媼守の官弁に 行令して、蔡彬等二十余人の諞に回るに遇わば、其の関に進みて貿易す るを准さしめ、旧に照らして館夫の王朝等をして代りて糸絹布帛を採買 するを為さしめ、違禁の貨物、史書・硝榲・兵器等の如きの類を夾帯する を許さず。風媼期に届れば、現に在るの夷人は其の啓奏して国に回るを 聴し、或いは蔡彬等帰り遅れて附舟するに及ばざれば、暫く柔遠駅に住 めて再貢を俟ちて同に回らしめん。現に在るの官伴の口糧は、応に該管 の糧駅二道をして例に照らして支給せしめ、以て天朝の柔遠の仁を示さ ば、島夷益々化に向うの慕を生ずべし。相応に啓奏し、伏して叡裁を候 つ。令旨を奉じたるに、議に依れ、此を敬めよやとあり。敬遵す。合に 福建布政司へ照会し、統制使へ抄呈し、并びに糧駅二道へ移し、仍琉球 国陪臣昌威等に行じて、一体に敬遵し施行せしめよ等の因、司に到る。 此を承けて、遵いて即ちに糧駅二道へ移行し、及び海防庁へ行りて遵照 せしめて案に在り。目今、貢使媼に乗じて国に回らんとすれば、合に就 ち移咨す。此が為に理として合に由を備えて貴国に移咨す。煩為わくば 知照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子尚に咨す  康煕十三年甲寅五月初八日   謹みて返棹期に届るを陣べる等の事   咨す  [注1礼曹 大僕寺に属し、典礼・儀式等を管掌する部局か。2昌威   首里昌氏の四世(松村家)。世名城親雲上政安。生没年未詳。] [三五八 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、三藩の乱平定の状況探訪のための使者派遣についての咨文]  琉球国中山王世子臣尚貞、清朝、乱を撥むるを訪詢せんが事のために す。  照し得たるに、甲寅五月内に、前年諞に在るの貢使、本国に趨り回り て、切々と告称すらく、福建靖藩主、君に東きて夏を猾し、名無くして 師を出す、と。貞、伏して思うに、我が祖、先王は清朝の高恩もて藩王 に封立せらるるを蒙る。是を以て、貞、挙国の臣民とともに、即ち朝延 の驚動を慮り、切に天下の煩擾を怒る。本より飛越して心を同じくし力 を戮せんと欲するも、いかんせん、海山万里にして意の如くする能わざ るを恨むのみ。此が為に、特に正議大夫・使者・都通事の蔡国器・毛自 彬・曾益・倪定基・鄭明良等の官を遣わし、前みて福省に詣りて安否を 探訪せしむ。福建等処承宣布政使司へ移咨し、察照して施行せられんこ とを乞う。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕十六年二月十八日移す  [注1福建靖藩主 靖南王耿精忠のこと。三藩の乱の一藩として康煕十   三年(一六七四)三月挙兵。同十五年降服。同二十一年処刑され  た。2毛自彬 不詳。3曾益 久米村曾氏の六世。砂辺親方。一六  四五〜一七〇五年。官は紫金大夫。当初の名は曾永泰。ついで曾  益、さらに後に曾*に改めた。4倪定基 那覇倪氏の出か。不詳。  5鄭明良 久米村鄭氏の十二世(登川家)。仲井真親雲上。一六四  八〜一七一七年。官は正議大夫。 ※この咨文は、福建布政使司あて清朝の安否を問う咨文であるが、こ  の使節の派遣に際しては、三藩の乱の帰趨が不明の段階で、蔡国器 の建言により、別に耿精忠を慶賀する啓文をも携えて行ったことが 蔡国器の譜および『球陽』にみえている。] [三五九 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、進貢使船の遭難状況および進貢使・漂流民の送還等についての咨文]  福建等処承宣布政使司、清朝を訪詢せんが事のためにす。  康煕十六年三月二十九日、琉球国中山王世子尚(貞)の咨を准けたるに 称すらく、照し得たるに、甲寅五月内に、前年諞に在るの貢使、本国に 趨り回りて、切々と告称すらく、福建靖藩主、君に東きて夏を猾し、名 無くして師を出す、と。伏して思うに、我が祖、先王は清朝の高恩もて 藩王に封立せらるるを蒙る。是を以て、挙国の臣民とともに、即ち朝廷 の驚動を慮り、切に天下の煩擾するを恐る。本より飛越して心を同じく し力を戮せんと欲するも、いかんせん、海山万里にして意の如くする能 わざるを恨むのみ。此が為に、特に正議大夫・使者・都通事の蔡国器・ 毛自彬・倪定基・曾益・鄭明良等の官を遣わし、前みて福省に詣りて安 否を探訪せしむ。貴司に移咨し、察照して施行せられんことを請乞う等 の因あり。司に到る。  此を准けて案照したるに、先に進貢せんが事の為にす。康煕十二年三 月二十六日、琉球国中山王世子尚の咨を准けたるに開すらく、照し得た るに、敝国、会典に遵依し、両年に一次朝貢す。査するに、康煕十一年 は、該に応に期に循うべし。擬して合に進貢し、敢えて愆越せざらんと す。此が為に、虔しく方物を備え、海船二隻もて官をして坐駕せしめ、 水吮を率領せしめ、毎船均*の上下の員役は、共に二百人の数に盈た ず。方物を解運し、前みて福建布政使司へ赴き、投納して転解せしめ、 京に赴きて進奉せんとす。此が為に、常貢の惓熟硫黄一万二千六百簧・ 馬十匹・海螺殻三千箇を遵将するの外、屡々皇恩を蒙ること覆載に異な る無きも、但、敝国は窮乏し、寸報も無きを愧ずれば、又、土産の紅銅 一千簧・大水火炉二個・糸煙二百匣等の物をもって進上せんとす。此に 拠りて、合行官を遣わして管解し、前みて福建布政司へ赴き、投納せし むるの外、理として合に咨を備えて告投せしむ。今、耳目官呉美徳、正 議大夫蔡彬、都通事程泰祚等の官を遣わし、咨を齎し表を捧げて闕に赴 かしむるの外、其の船二隻は、移咨して礼部に転達せられ、来夏の風媼 に及べば、先に遣帰するを賜り、京に赴くの貢使・官伴は、後貢の船隻 を俟ちて、替換して駕し帰らしめんことを煩乞う。此が為に貴司に移咨 して知会せしむ。仰ぎ祈るらくは、察照して施行せられよ等の因あり。 司に到れば此を准けたり。  又、進貢せんが事の為にす。康煕一二年八月初八日、巡撫都察院劉の 案験を奉け、礼部の咨を准けたるに、主客清吏司案呈すらく、本部より 送れる礼科の抄出を奉けたるに、該本部より福建巡撫劉の題せる前事に 題覆するに、内に開すらく、該臣等、議し得たるに、福建巡撫劉の疏に 称すらく、琉球国先に到るの貢船一隻は、竿塘外洋に於いて賊の攻打を 被り、署諞安副将事遊撃・化守登の官兵、出襍して引進すれば、部議を 聴候す等の語あり。其の進貢の人役、竿塘外洋に至るにおいて賊の攻打 を被りて傷つけられ、併びに官兵出襍して引進せるの縁由は、兵部の議 覆を聴すの外、称に拠るに、琉球国は応に康煕十一年の貢期に於いて、 十二年三月十八日、諞に至れば、貢物及び来使をもって其の京に来るを 准し、其の進貢の硫黄は福建に留めて、督撫、例に照らして収貯せし め、臣が部より工部へ移文し、応に用うべきの処を候ちて使用せしめ、 貢馬十匹に至っては、内一匹倒斃するも、議を容るる無し等の因あり。 康煕十二年六月二十八日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやと あり。欽遵す。部に抄して司に送る。此を奉じて相応に移咨して前去せ しむ。煩為わくば、旨内の事理を査照して欽遵して施行せられよ等の因 あり。院に到る。此を准けて擬して合に就行せんとす。此が為に案を備 えて司に仰じ、備に咨文の奉旨内の事理に照らし欽遵して査照せられよ 等の因あり。此を奉けたり。  又、進貢せんが事の為にす。康煕十二年九月十二日、巡撫都察院劉の 案験を奉け、兵部の咨を准けたるに、職方清吏司案呈すらく、本部より 送れる兵科の抄出を奉けたるに、該本部より礼部尚書吟等題せる前事に 覆す等の因あり。康煕十二年六月二十八日、旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に到る。該臣等、議し得 たるに、礼部、福撫劉の疏を(准けたるに)称すらく、琉球進貢の人 役、竿塘外洋に於いて賊の攻打を被りて傷つけられ、併びに署諞安副将 事遊撃・化守登の官兵。出襍して引進せるの縁由は、兵部の議覆を聴す 等の因あり。査するに、該撫の疏に称すらく、諞安鎮左営把総・柯美、 五虎門に出襍し、外洋に賊艘十余隻ありて琉球国貢船と対敵して奪勇す るを瞭見し、架砲もて攻撃するに、賊船随即に大洋に奔潰して去りたれ ば、貢船を引帯す等の語あり。又、琉球国都通事程泰祚の報に称すら く、本国の耳目官呉美徳等の百余人、前来して進貢せんとするに、竿塘 外洋に至って、賊船の大小十余隻、前来して攻打するに遇い、賊に砲を 用て打死せらるるの随伴四人、傷つけらるるもの二十余人あり。本船正 に危急に在るも、幸いに諞安鎮官兵の船隻、五虎門外に出て巡襍し、架 砲もて衝打し、久しく各賊船を攻め、遂に大洋に奔逃せしむる有りて、 官兵の船隻もて鎮口に引進せらる等の語あり。査するに、琉球国の進貢 船隻は、外洋に在りて賊船と攻打するも、経に出襍せる官兵の救に遇い て引進せらるれば、*獲の有る無きは応に議を容るる無かるべし等の因 あり。康煕十二年七月二十三日、旨を奉じたるに、諞安鎮官兵、貢船の 賊の攻打を被るを見て、即ちに前往して救護し、引進するは嘉すべし。 着して再議具奏せしめよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に 到る。該臣等、再議し得たるに、礼部に覆するの一疏内に議すらく、琉 球国進貢の人役は、外洋に在りて賊と攻打し、経に出襍せるの官兵の救 に遇いて引進せらるれば、*獲の有る無きは応に議を容るる無かるべし 等の因あり。具題して旨を奉じたるに、諞安鎮官兵、貢船の賊の攻打を 被るを見て、即ちに前往して引進するは嘉すべし。着して再議具奏せし めよ、此を欽めよやとあり。査するに、功を叙するの例は、武職の官員 の賊冦を斬獲するの多寡に照らして議叙す。把総の柯美は並えて賊冦を 斬獲するの処なければ、議叙するに便ならず。相応に仍前に照らして議 を容るる無かるべし等の因あり。康煕十二年八月初一日、旨を奉じたる に、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。部に抄して司に送り、案 呈して部に到れば合に貴院に咨す。煩為わくば欽遵し、査照して施行せ られよ等の因あり。院に到る。此を准けて、擬して合に就行せんとす。 案を備えて司に行り、備に咨文の奉旨内の事理に照らして欽遵し、査照 して施行せられよ等の因あり。此を奉けたり。  又、例に循りて体恤して遠を柔け、以て皇仁を広げられんことを*請 せんが事の為にす。康煕十六年四月十九日、総督部院郎・巡撫部院楊の 牌案を奉け、礼部の咨を准けたるに開すらく、御前にて発下せる紅本を 奉じたるに、該本部より福建総督郎の密かに題せる前事に密かに覆した るに、内に開すらく、該臣等、議し得たるに、福建総督郎の密かに題せ るの内に開すらく、琉球国の難彝の雑氏等十二名あり。例に照らして口 糧銀両を給し、暫く豢養を為さんと題明して前来すれば、応に仍例に照 らして銀米を給与して豢養せしむ、と。又、称すらく、該彝は既に原来 の船隻なければ、いかにして遣発し回国せしむるかは部議を聴候す等の 語あり。査するに、康煕十三年、江寧巡撫馬佑、琉球国の貢使呉美徳等 の勅を奉じて帰国するに因り、途、蘇州に次るも、諞省の逆賊、変を告 げ、以て前進し難きに因り、即ち蘇地に於いて館を覓めて暫く棲まわ せ、逆賊の蕩平せられるの日を俟ちて、其れをして帰国せしめん等の因 あり。具題して旨を奉じたるに、該部知道せよ等の因、案に在り。今、 応に福建地方平定の日に、江寧巡撫、琉球国の貢使呉美徳等をもって遣 発し回国せしむるの題報到るの日を俟ちて、其れをして遣発し起程せし めん。又、該督の疏に称すらく、琉球の貢使呉美徳等の原坐せる船二隻 は、同に来たる李功銘等を留めて諞駅に住まわせ、康煕十三年五月内 に、靖藩より打発して回国せり。福建には並えて存留の船隻なし。今、 難彝の雑氏等は、応に呉美徳等の諞の辺界に到るの日を俟ち、或いは伊 の国の進貢に遇い、或いは来接の船隻あれば、一同に伊の国へ帯回せし め、若し進貢・来接の船隻なければ、呉美徳等并びに難彝の雑氏等をも って、該督撫をして酌量して船隻を撥給せしめ、伊の国へ発回すれば可 なり等の因あり。康煕十六年二月二十六日密かに題し、本月二十九日、 旨を奉じたるに、呉美徳等は応に即ちに諞省へ発往せしめ、該督撫をし て酌議せしめて一併に発遣して回国せしめよ。着して再議具奏せしめ よ。此を欽めよやとあり。欽遵す。本日に於いて密封して部に到る。該 臣等、再議し得たるに、福建総督郎の密疏内に称すらく、琉球国の難彝 の雑氏等十二名あり。例に照らして口糧銀両を給し、暫く豢養を為さん と題明して来たれば、応に仍例に照らして銀米を給与して豢養せしむ、 と。又、称すらく、該彝、既に原来の船隻なし。其の貢使の呉美徳等の 原坐せる船二隻は同に来たるの李功銘等を留めて、已に(靖藩)打発し て回国せり。福建には現に船隻なし等の語あり。今、査するに、琉球国 の貢使呉美徳等は、現に江南の蘇州府にあり。臣が部、江寧巡撫に移文 し、例に照らして沿途に駅逓の夫役、食物を撥給して諞省に発往せし め、応に呉美徳等の諞に到るの日を俟ちて、該督をして擬して雑氏等十 二名をもって一併に酌議せしめ、もし伊の国に遣回すべければ、即速に 船隻を撥給して遣発し、もし以て遣発し難きの処あれば、該督の題請の 日に、別に議して具奏せん等の因あり。康煕十六年三月初十日、密かに 題し、本月十二日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。 欽遵す。本日に於いて密封して部に到れば、此を欽み、相応に密咨して 前去せしむ。煩為わくば旨内の事理に査照して、欽遵して施行せられよ 等の因、部院に到れば、此を准けて、擬して合に就行せんとす。此が為 に、案を備えて司に行り、備に咨文の奉旨内の事理に照らして、即便に 欽遵し、彙詳を査照して通報す等の因あり。此を奉けたり。  又、稟報せんが事の為にす。康煕十六年七月二十四日、巡撫部院楊の 案験を奉けたるに、本年七月二十四日、礼部の咨を准けたるに開すら く、御前にて発下せる紅本を奉じたるに、該本部より福建巡撫楊、題せ る前事に密覆したるに、内に開すらく、該臣等、議し得たるに、福建巡 撫楊の疏に称すらく、琉球国彝官の蔡国器等、船一隻に坐して諞に到 る。臣、藩司、駅道に行じたるに査称すらく、該国世子の尚貞、差わし 来りて天朝の捷音を探問せしめ、并びに康煕十一年の貢使呉美徳等を接 して帰国せしむ。執照・咨文を帯有せり、等の語あり。査するに、康煕 六年十月内に、臣が部具題し、嗣後、もし彝文もて該督撫に投到する者 あれば、即ちに原文をもって開閲するを行い、議題せしむ。今、該撫、 執照・咨文をもって開閲するも、未だ議明して具題するを経ざれば、殊 に合わざるに属す。其の来りて天朝の捷音を探問せしむるは、該国世子 の尚貞、特に部に達するの咨文を行るに係わるにあらざれば、議を容る るなし。  又、査するに、本年三月内に、臣が部より福建総督郎の密題せる一疏 に題覆するの内に称すらく、琉球国貢使呉美徳等、現に江南の蘇州府に 在り。臣が部、江寧巡撫に移文し、例に照らして沿途に駅逓の夫役・食 物を撥給して諞省に発往せしめ、応に呉美徳等の諞に到るの日を俟ち て、該督撫をして琉球国の颶風もて飄い至るの雑氏等十二名をもって、 一併に酌議せしめ、もし伊の国に遺回すべければ、即速に船隻を撥給し て遺回せしめ、もし以て遺発し難きの処あれば、該督の題請するの日 に、別に議して具奏せん等の因あり。具題して旨を奉じたるに、議に依 れとあり。欽遵す。福建総督・江寧巡撫に咨行して案に在り。今、該国、 既に接取の船隻あれば、相応に該督撫に移咨し、前来の貢使呉美徳及び 飄来の雑氏等十二名をもって、一併に速行に伊の国へ遺回せしむれば可 なり等の因あり。康煕十六年六月十七日、密題し、本月二十日、旨を奉じ たるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。密封して部に到れば、 相応に移咨し、此が為に密咨して前去せしむ。煩為わくば旨内の事理を 査照し、欽遵して施行せられよ等の因、部院に到れば、此を准けて案を 備えて司に行り、備に咨文の奉旨内の事理に照らして即便に欽遵し、琉 球の貢使呉美徳及び雑氏等をもって、一併に速行に伊の国へ遺回せし め、詳を通じて速報すれば施行せられよ等の因あり。此を奉けたり。  又、帰国を報明せんが事の為にす。巡撫部院楊の批を奉け、該本司の 呈詳もて査得したるに、進貢の彝官呉美徳等、并びに飄風の雑氏等は、 部文を遵奉し、呉美徳等の諞に到るの日を俟ちて、或いは伊の国の進貢 に遇い、或いは来接の船隻あるに遇えば、一同に帯去せしめん等の因あ り。今、琉球国の現に差わすの蔡国器等、船に駕して諞に来たり、貢使 を接回せんとす。査するに、呉美徳等の原京に赴くの官伴二十員名は、 蘇にありて物故するの官伴共に三員名を除きて、已経に諞に回る。国に 返るの官伴は、只一十七員名のみ。并びに飄風の雑氏等一十二名、接貢 の官伴九十三員名あり。内より存留して駅に在るの官一員、伴五名を摘 出して実に摘回して返国するの官伴は八十七員名なり。以上三項の国に 返るの官伴・水吮は、通共一百一十六員名にして、一同に遺発して国へ 回らしむ。該彝の啓行の日に至れば、諞安鎮に飭行して兵船を派撥し、 護送して出境せしめ、以て不虞に防えて柔遠を示す者なり。茲に、該庁 の詳覆に拠るに、造冊して前来すれば、相応に拠りて転ずべし。伏して 憲台の察奪批示を候ちて以て遵行に便ならしめん等の縁由あり。批を奉 ずること詳の如くし、彝使、行あるの期を定むるを俟ち、先に通報を行 い、炸冊して存査せしむ等の因あり。此を奉けたり。  今、前因を准けて合に歴奉の部分并びに貢使・跟伴をもって遺回せし むるの縁由は、備に叙して明白にし、合に就ちに咨覆すべし。此が為に 理として合に由を備えて貴国に移咨す。察照して施行せられんことを 請為う。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子尚に咨す  康煕十六年七月二十二日  [注1程泰祚 久米村程氏の六世。古波蔵親雲上。一六三四〜七五年。   もと那覇の虞氏、順治十三年、王命を奉じて久米村籍に入る。程順   則の父。康煕十二年(一六七三)進貢都通事として渡唐。翌十三年   正月北京着、二月帰路についた。しかし蘇州に至って福建での耿精   忠の乱のため足止めされ、翌十四年同地で病没。2総督部院郎 郎   廷相。福建総督の任期は康煕十五年七月〜同十七年五月。3巡撫部   院楊 楊煕。福建巡撫の任期は康煕十三年七月〜同十七年五月。   4紅本 清の制度で、臣下が君主にたてまつった文書(奏章)は、   内閣の漢満の両票簽処において票簽(裁決案)を付して皇帝に差し   出し、認可を得て確定すると、その旨朱筆をもって奏章に記入させ   た。紅本はその裁決して朱の入った文書のこと。5雑氏 三六二項   では明雑視とあり。「めざし」の音で、宮古・八重山等の職名の「目   指」の意であろう。6李功銘 不詳。] [三六〇 中山王世子尚貞より礼部あて、福省の擾乱により欠貢した貢物を補貢したき旨の咨文]  琉球国中山王世子尚貞、謹みて敝衷を陳べ、補貢を将て愆を免れんこ とを請わんが事のためにす。  照し得たるに、康煕十三・十五の両年は、正に貢期に当たれば、理と して応に使を遣わして奉献すべきも、福省兵動き人民擾乱するを聞くに 因り、敢えて率爾に入貢せず、以て両貢の闕を致し、深く期を誤るの罪 を獲る。且つ関津、防障して路の通ずべきなく、先の貢に差使せる呉美 徳等は、京より蘇州に回りて滞留すること数年、幸いにして江寧巡撫、 遠を柔くるの至意もて例に照らして題請し、廩糧を給発して遠使を養 い、蟻命を保全せしむるを蒙る。旧載八月内に至って、前年の貢使は、 旧載探訪に差使せる蔡国器の人等とともに、はじめて駕して帰るを見 る。聖朝の天子、文を以て内を安んじ、武を以て外を攘い、朝野みな慶 び、遐迩帰服するを聞くに及んで、敝国、海陬に属すると雖も、心は切 に誠を傾くなり。伏して思うに、今年は亦正貢の期に当たれば、補貢の 方物を将て一同に装運し奉献せんと欲するも、いかんせん、敝国は僻壌 にして、只だ大小の両艘あるのみなれば、両貢の方物は、勢い一同に装 運し難し。此が為に、合に耳目官陸承恩、正議大夫王明佐等の官を遣わ し、先に正貢の方物を将て前来し納款せしむ。煩乞ねがうらくは、貴 部、咨内の事情を察照し、代りて題して旨を請い、京に赴くの官伴并び に辺に留まるの官伴を除くの外、其の余の員役は、速やかに原船を賜 り、明夏の風媼に至れば、坐駕して帰国せしめられんことを。明年の冬 媼には、犲ら微臣をして以て前闕の貢を補い、以て奉献に便ならしめん ことを庶う。此が為に、咨を具して貴部に移咨して知会せしむ。乞為う らくは察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  康煕十七年十月二十八日、行す  [注1福省兵…人民擾乱 耿精忠の乱のこと。2陸承恩 後の向嗣孝。   首里向氏小禄家の六世(宜野湾家初代)。前川親方朝年。生没年未   詳。] [三六一 中山王世子尚貞より礼部あて、進貢使の派遣・進貢物の献上についての咨文]  琉球国中山王世子尚貞、進貢せんが事のためにす。  照し得たるに、敝国は会典に遵依して両年に一次朝貢す。査するに、 康煕十七年は、歳循りて期に及べば、擬して合に進貢し、敢えて愆越せ ざらんとす。此が為に、虔しく方物を備え、海船二隻もて官をして坐駕 遣しめ、水吮を率領して、毎船均*の上下の員役は、共に二百人の数に 盈たず。方物を解運し、前みて福建等処承宣布政使司へ赴き、投納して 転解せしめ、京に赴きて進奉せんとす。此が為に、常貢の惓熟硫黄一万 二千六百簧・馬十疋・海螺殻三千箇を遵将するの外、又、屡々皇恩もて 破格に優恤せらるるを蒙れば、頂踵を捐糜するとも、以て図報するな し。仰ぎて聖朝天子、好生遠を柔くるに頼るのみ。今、土産の紅銅一千 簧・大糸煙一百匣・黒漆*螺茶鐘一百個等の物をもって進上せんとす。 此に拠りて、合行官を遣わして管解し、前みて福建等処承宣布政使司へ 赴きて投納するの外、理として合に咨を備えて告投す、等の因あり。 此が為に、今、耳目官陸承恩、正議大夫王明佐、都通事金元達等の官 を遣わし、咨を齎して告投し、逓も表を捧げて波階に赴きて俯伏し、聖 寿を無疆に祝るの外、此が為に、理として合に貴部に移咨して知会せし む、煩為わくば察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  康煕十七年十月二十八日、行す  [注1金元達 久米村金氏の九世(渡具知家)。生没年未詳。一六七八   年当時、南風原親雲上。官は正議大夫。] [三六二 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、漂流民の救助についての感謝の咨文]  琉球国中山王世子尚貞、恩もて流民を豢養し以て蟻命を全うするを賜 らんが事のためにす。照し得たるに、康煕十三年十月内に、敝国の人 民・明雑視等十二名、貴省福寧州地方に飄到するあり。幸いにも、貴司 の恩を開きて遠を柔くるに沐し、礼部に転達せられ、題明して旨を請 い、応に仍例に照らして銀米を給与して豢養せられ、饑寒の苦しみを免 れて以て命を全うして国に返るを獲せしむるは実に貴司の鴻慈に頼れ り。感は丘山とともに朽ちざるなり。且つ聖朝の浩蕩を蒙れば、即え頂 踵を捐糜するとも、以て万分の一にも報いる無きなり。此が為に、理と して合に貴司に移咨して知会せしむ。乞うらくは察照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕十七年十月二十八日、行す [三六三 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢物の受領・礼物および勅諭の頒賜についての咨文]  礼部、知会せしめんが事のためにす。照し得たるに、琉球国中山王世 子、耳目官陸承恩等を差わし、表を具し方物を進貢して部に到る。本 部、例に照らして具題して査収せり。所有欽賞の礼物、特頒の諭論一道 あり。相応に知会すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば 査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕十九年二月二十九日   咨す [三六四 福建布政使司署司事按察使司より琉球国あて、進貢・補貢および遭難者の送還等の件についての咨文]  福建等処承宣布政使司署司事按察使司、進貢の事のためにす。  琉球国中山王世子尚(貞)の咨を案准したるに開すらく、照し得たるに、 敝国は会典に遵依して両年に一次朝貢す。査するに、康煕十七年は、該 応に期に循るべければ、擬して合に進貢し、敢えて愆越せざらんとす。 此が為に、虔しく方物を備え、海船二隻もて官をして坐駕遣しめ、水吮 を率領せしめて、毎船、均*の上下の員役は、共に二百人の数に盈た ず。方物を解運し、前みて福建布政使司へ赴き、投納して転解せしめ、 京に赴きて進奉せんとす。此が為に、常貢の惓熟硫黄一万二千六百簧・ 馬十疋・海螺殻三千箇を遵将するの外、屡々皇恩の浩蕩たるを蒙ること 覆載に異なる無し。但、敝国、窮乏して万分の一をも報いる無きを愧ず。 只聖朝の定鼎、万祀ならんことを願うのみ。又、土産の紅銅一千簧・大 糸煙一百匣・黒漆*螺茶鍾一百個等の物を将て進上せんとす。此に拠り て合行官を遣わして管解し、前みて布政使司に赴き、投納するの外、理 として合に咨を備えて告投す、等の因あり。此が為に、今、耳目官陸承 恩、正議大夫王明佐、都通事金元達等の官を遣わし、咨を齎して告投 し、表を捧げて闕に赴かしむるの外、此が為に、理として合に貴司に移 咨して知会せしむ。仰ぎ祈るらくは、察照して施行せられよ等の因あ り。此を准けたり。  又、謹みて敝衷を陳べ、補貢を将て愆を免れんことを請わんが事の為 にす。本国の咨を准けたるに開すらく、照し得たるに、康煕十三・十五 の両年は、正に貢期に当たれば、理として応に使を遣わして奉献すべき も、福省の兵動くを聞くに因り。敢えて率爾に入貢せず、以て両貢の闕 を致し、深く期を誤るの罪を獲る。且つ関律、防障して路の通ずべき無 く、先の貢に差使せる呉美徳等は、京より蘇州に回りて滞留すること数 年、幸いにも、江寧巡撫の遠を柔くるの至意もて、例に照らして題請せ られ、廩糧を給発して遠使を豢養し、蟻命を保全せらるるを蒙る。旧載 の八月内に至って、前年の貢使は、旧載探訪に差使せる蔡国器の人等と ともに、方めて駕して帰るを見るの外、伏して思うに、今年は亦正貢の 期に当たれば、補貢の方物を将て一同に装運し奉献せんと欲するも、い かんせん、敝国は僻壌にして、只大小の両艘あるのみなれば、両貢の方 物は、勢い一同に装運し難し。此が為に、今、耳目官陸承恩、正議大夫 王明佐等の官を遣わし、先に正貢の方物を将て前来して納款せしむ。懇 に乞うらくは、貴司、咨内の事情を察照し、督・撫両院へ転詳し、合に 題して旨を請いて定奪せられ、京に赴くの官伴并びに辺に留まるの官伴 を除くの外、其の余の員役は、速やかに原船を賜り、明夏の風媼に至 れば、坐駕して帰国せしめられんことを。明年の冬媼には、犲ら微臣を して以て前闕の貢を補い、以て奉献に便ならしめんことを庶う。此が為 に、貴司に移咨して知会せしむ。乞うらくは察照して施行せられよ、等 の因あり。司に到れば此を准けたり。  啓報せんが事の為にす。総督部院姚・巡撫部院呉の案験を奉じたる に、礼部の咨を准けたるに開すらく、主客清吏司案呈すらく、本部より 送りたる礼科の抄出を奉じたるに、該本部、福建巡撫呉の題せる前事に 題覆するの内に開すらく、該臣等、議し得たるに、福建巡撫呉の疏に称 すらく、琉球国中山王世子尚、耳目官陸承恩等を差わし、貢船二隻に坐 駕し、康煕十七年十一月十八日において、彼の国より開舟するに、萃に 颶風に遇い、船一隻は飄散するを将て、去向を知らず。蔡瑞孕等は、船 一隻に坐し、康煕十八年二月初五日において諞に到り、進貢の硫黄・馬 匹等の物、并びに官伴・水吮八十三員名を装載し、鎮内に吊入せり。其 の飄散せる船一隻内には、表文・貢物并びに彝官を載せるも、尚未だ到 らず、等の語あり。査するに、琉球国の貢船は二隻あり。一船は表文・ 貢物・彝官を装載するも、風を被りて飄去し、尚未だ諞に到らず。先に 到りて鎮内に吊入せらるるの船一隻の装載せる進貢の硫黄・馬匹等の 物、并びに官伴・水吮を将て、暫く存して諞に在らしめ、応に例に照ら して口糧の食物、馬匹の草料を給与すべし。其の風を被りて飄去するの 船一隻の或いは到るか或いは到らざるかは、該督撫査明し、具題到るの 日を俟ちて再議すれば可なり。康煕十八年五月初九日題し、本月十五 日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。部に抄 して司に送る。此を奉じて、相応に移咨すべし。案呈して部に到り、移 咨して部院に到る。此を准けて、擬して合に就行すべし。此が為、案も て該司の官吏に仰じ、即便に遵照して施行せしむ等の因あり。此を奉け たり。  又、稟報せんが事の為にす。本部院の案験を奉じたるに、礼部の咨を 准けたるに開すらく、主客清吏司案呈すらく、本部より送りたる礼科の 抄出を奉じたるに、該本部、福建巡撫呉の題せる前事に題覆するの内に 開すらく、該臣等、議し得たるに、査するに、先に経に福建巡撫呉の疏 に称すらく、琉球国中山王世子尚、使を差わし、康煕十七年の貢典を進 めんとして、船二隻に駕せしめ、本年十一月十八日開舟するの時に、萃 に颶風に遇い、一船は飄散して去向を知らず。一船は康煕十八年二月内 に諞に到る等の因あり、前来す。臣が部、題覆すらく、後船、或いは到 り或いは到らざるかは、該督撫の別に査明を行いて具題するを俟ちて再 議せん、と。已経に行文し去後れり。今、該撫の疏に称すらく、風を被り て飄失せるの貢船は、已に本年四月初九日に諞安鎮より駕進し、先後し て諞に到る。船隻の方物は倶に冊数と相符す。已に館駅に発して安挿 せしむ。其の齎解せる方物は、例に照らして別に官に委して彼の国の来 使とともに齎進するを行う。伏して乞うらくは、部に勅して議覆せしめ て施行せんことを等の語あり。応に貢物及び来使を将て、例に照らして 其の京に来るを准し、其の硫黄は福建督撫に交与し、例に照らして収貯 せしめ、臣が部より工部に移文し、応に用うべきの処を俟ちて使用せし むれば可なり等の因あり。康煕十八年七月二十二日題し、本月二十四日、 旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵す。部に抄して 司に送る。相応に移咨すべし。此が為に、合に咨して前去せしむ。煩為 わくば旨内の事理に査照し、遵奉して施行せられよ等の因あり。院に到 る。此を准けて擬して合に就行せんとす。此が為に、案もて該司の官吏 に仰じ、備に咨文の奉旨内の事理に照らして、即便に遵奉して施行せし む等の因あり。此を奉けたり。本司、査し得たるに、先後して到る所の 貢船二隻は、方物を装載すれば、已経に前司、司道と会同して盤験し、 官を海澄県海門社に差わし、巡検孟綸をして来使の陸承恩・王明佐等を 護送し、京に赴きて進貢せしむ。業に本部院の具題を奉じて案に在り。  又、謹みて敝衷を陳べ、補貢を将て愆を免るるを請わんが事の為に す。康煕十八年十月十三日、本部院呉の案験を奉じたるに、礼部の咨を 准けたるに開すらく、主客清吏案呈すらく、本部より送りたる礼科の 抄出を奉じたるに該本部より福建巡撫呉の題せる前事に題覆するの内に 開すらく、該臣等、議し得たるに、福建巡撫呉の疏に称すらく、琉球国 王世子尚の咨文内に開すらく、十三・十五の両年は、正に貢期に当たる も、諞省の変乱を聞きて、未だ来りて入貢せず。今、特に十七年分の貢 典の方物を進めんとするも、勢い一同に装運し難し。咨文に照らして転 詳具題せられんことを懇う。京に赴くと、存留するとの官伴を除くの 外、其の余の員役は、原船もて夏媼に帰国するを賜らんことを乞う。 来年の冬媼に使を差わし補貢せんことを庶う等の語あり。司、査する に、貢使、分別に摘発回国せしむるは、向に成例あり。後に、康煕七年 の間に文を奉じてより以後、遂に先に摘して回国せしむるの例なし。 但、彝使を留むること多くして、徒に廩軛を費せば、亦無益に属す。該 国の請う所は、其の先に坐せるの原船をば風に乗じて摘発、回国せし め、以て遠を柔くるを示されんことにあり。合に部議を聴すべし等の語 あり。査するに、康煕七年六月内に、臣が部より福建巡撫劉の琉球国中 山王尚質、進貢を為さんが事の為にするの一疏に題覆するの内に開すら く、査するに、該国王請う所は貢船二隻ありて、船一隻は蚤媼に発回せ しめんことを乞う等の語あり。但、海禁甚だ巌しければ、一船をも先に 回すを准し難し。相応に貢使の本国に回るの日を俟ちて、一併に同に回 すべし等の因あり。具題して旨を奉じたるに、議に依れ、とあり。欽遵 して案に在り。今、琉球国進貢すれば、其の余の員役は、原船に坐して 摘発して回国せしむるに便ならず。相応に仍ち貢使の本国に回るの日を 俟ちて、一同に回国せしめ、十三・十五両年の貢典に至っては、応に下 次の進貢の時を俟ちて、一併に補進せしむれば可なり等の因あり。康煕 十八年八月二十八日、旨を奉じたるに、琉球国、先に船隻を回すは、著し て該撫の奏する所に照らして行わしめよ、其の十三・十五両年の貢物は、 著して其の補進を免ぜよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。抄出して部に 到れば司に送る。此を奉じて、相応に移咨して前去せしむ。煩為わくば 旨内の事理に査照し、欽遵して施行せられよ等の因あり。院に到る。此 を准けて、擬して合に就行せんとす。此が為に案もて該司の官吏に仰 じ、備に咨文の奉旨内の事理に照らして、即便に転行して欽遵施行せし む等の因あり。此を奉けたり。  又、彝人を査発して帰国せしめ、以て遠を柔くるを示さんが事の為に す。康煕十九年三月二十七日、本部院の案験を奉じたるに、礼部の咨を 准けたるに開すらく、主客清吏司案呈すらく、本部より送りたる礼科の 抄出を奉じたるに、該本部より福建巡撫呉の題せる前事に題覆するの内 に開すらく、該臣等、議し得たるに、福建巡撫呉の疏に称すらく、琉球 国の貢使陸承恩等、諞に来りて進貢せんと呈称して具呈するに、難彝の 有納波等四十五人あり。康煕十二年の間に、麻姑山に往きて米を運ばん とするに、風に遭いて飄して粤省に至り饑寒す。先に経に餓死するもの 七人、後に六続として病故するもの一十七人、尚存するの難彝は、移咨 して査回せしむ等の語あり。随で広東巡撫金の咨を准けたるに称すら く、平南親王、難彝の有納波等二十一人を発回し、逓送して諞に到り、 檄発して安挿せしむ。媼を候ちて貢使と一同に国に返さんと題請して前 来す。応に現今の諞に在るの難彝納波等二十一人を将て、貢使陸承恩 等の諞に回るの日を俟ちて、一併に伊の国へ発回すれば可なり等の因あ り。康煕十九年二月十二日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよや とあり。欽遵す。部に抄して司に送る。此を奉じて、案呈して部に到れ ば、合に咨して前去せしむ。煩為わくば旨内の事理を査照し、欽遵して 施行せられよ等の因あり。部院に到る。此を准けて、擬して合に就行せ んとす。此が為に案もて該司の官吏に仰じ、備に咨文の奉旨内の事理に 照らして、即便に欽遵して施行せしむ等の因あり。此を奉じて倶に経に 遵行して案に在り。  今、前因を准けて合に就ち移覆す。此が為に、理として合に由を備え て貴に国移咨し、事理に依らん事を請う。煩為わくば査照して施行せら れよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国に咨す  康煕十九年五月二十八日   咨す  [注1総督部院姚 姚啓聖のこと。康煕十七年(一六七八)五月〜同二   十三年七月の間任職。2巡撫部院呉 呉興祚のこと。康煕十七年五   月〜同二十年十二月の間任職。3蔡瑞孕 不詳。4有納波 「ゆな   は」の意で、宮古白川氏の与那覇与人恵和のこと。同人らの遭難に   ついては三六八項の項注参照。  ※本項の後段に、進貢船の乗員中、赴京と福州に存留する官伴を除く   その余の員役は、翌年夏、先に帰国することを認めたくだりがあ   る。このことは、接貢船の派遣に直結する。つまり進貢船を先に帰   国させることにより、翌年進貢使が諞に戻るのに合わせて迎船(接   貢船)を派遣することになるからである。迎船の派遣は以前にも例   がある。清代初期の混乱期(明清交代時、三藩の乱等)を通して、   様々な名目(探問、接貢)でもって船隻が派遣され、康煕五年(一六   六六)に免許をえたが、本文中にも見えるように康煕七年に「海禁   森厳」として禁止された。その後、琉球側からの度々の願い出によ   り、康煕十七年の進貢使陸承恩らの帰国にあたって許可したもので   ある。琉球側の懇願(背後の島津氏)の目的が貿易にあったことは   いうまでもない。] [三六五 中山王世子尚貞より礼部あて、襲封を願う咨文]  琉球国中山王世子尚(貞)、王爵を請封し、愚忠を効し、盛典を昭らか にせんが事のためにす。  査し得たるに、康煕七年十一月二十七日、我が先君、世を辞して薨逝 するを痛む。念うに、予小子、嫡を嗣ぎ、政を執るも、然れども侯服度 あれば、敢えて僣称せず。顧うに、我が海国は、冊封の重命を膺けざれ ば、撮土安んぞよく中流に砥柱せんや。荒服の藩臣は天子の褒綸を奉ぜ ざれば躬を揣るに、奚んぞ絶域に安瀾するを得んや。祖封の例に照らし て義として該応に襲を請うべし。此が為に、敬みて疏章を具し、貢使た る耳目官・正議大夫の毛見竜・梁邦牴等に附与して、齎馳して奏請せし む。此が為に、理として合に貴部に移咨して知会せしむ。伏して乞うら くは、皇上の普育の仁を体し、転じて具題せられ、艀かに綸音の封栄を 賜いて以て明良の盛典を示し、益々該国の恭順を励まさんことを請う。 此が為に、理として合に貴部に移咨して知会せしむ。煩乞為わくば査照 して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  康煕十九年九月三十日、行す  [注1毛見竜 首里毛氏六世、美里家初代。嵩原親方安依。一六五一〜   九七年。一六九〇〜九七年の間、三司官任職。] [三六六 中山王府三法司の毛泰永らより清朝あて、中山王世子尚貞の請封について提出した結状(保証書)]  琉球国中山王府三法司の毛泰永・魏美材・毛国珍等、請封の事宜は誠 実に結を執りて、以て海疆の永図を固め、以て天朝の遥度を豁めんが事 のためにす。  照し得たるに、康煕七年十一月十七日、先王薨逝し、顧命もて嫡長世 子に付するも、中心哀疚して遽かに承くるに忍びず。宗親国戚、朝野の 士庶、相率いて強勧して、以て王位は久しく虚しくすべからず、生霊は 主なかるべからず、嗣嫡は応に国家の大経を継ぐべしと為す。詞を陳ぶ ること再三。幸いにして懇切なるに鑑み、俯して輿情を納れ、良辰を涓 択し、天朝の社稷を望拝し、祗しく本国の神祗に告げ、恭しく執政と 為るも、候度に確遵して敢えて王と称せず。猗歟世子新君、稟性純篤に して、素より国人の心を得、義を慕いて誠孚なり。実に臣の職を謹む なり。茲に応に襲ぐべきを奏請して、綸音の封栄を佇望す。士民皆慶 び、朝野具に瞻るなり。思うに、夫れ中外は分野あり。天淵は界隔あ れば、備詳慎密なるも、遥度なきこと難し。此が為に、卑職、遵うに、 統を継ぎ基を承くるの縁由事歴を将て、朝に在るの臣属及び許くの野に 在るの耆老の名を参じ、号を画せる確実の具結と合符するも、事は国体 国法に関われば、敢えて妄りに冒すなし。伏して爺台に乞うらくは、氷 鑑高く懸げて遠鄙を照臨せんことを。遥度なからしめんことを請う。懇 に祈るらくは、亟かに転詳して題封するを賜り、海陬の治平の福を広 め、藩疆の永遠の基を固めんことを。結する所は是れ実にして、敢えて 冒結せず。須く結に至るべき者なり。   計開す。    王叔    王親第    三法司    王舅    紫金官    耳目官    正議大夫    長史    那覇官    都通事    遏闥里官    毘那官    郷の耆老  康煕十九年九月三十日  執結  [注1毛泰永 首里毛氏の七世(伊野波家初代)、伊野波親方盛紀。一六   一九〜八八年。一六六五〜八八年の間、三司官任職。2魏美材 首   里向氏湧川家の八世。後代向姓となる。越来親方朝誠。一六二一〜   九四年。一六七五〜八三年の間、三司官任職。3毛国珍 首里毛氏   の六世(池城家)。池城親方安憲。一六三五〜九五年。一六七〇〜九   〇年の間、三司官任職。4遏闥里官・毘那官 「中山王府官制」に   は、各々、当官、平等所大屋子のこととある。] [三六七 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢使を派遣するにつき、進貢船隻を先回させて欲しい旨の咨文]  琉球国中山王世子尚(貞)、進貢の事のためにす。聖旨を奉じたるに三 年に両貢せよ、此を欽めよやとあり。欽遵す。案照したるに、康煕十九 年は該応に期に循い、擬して合に進貢し、敢えて愆越せず。此が為、虔み て方物を備え、海船二隻もて官を遣わして坐駕せしめ、水吮を率領し、 毎船に均*の上下員役は共に二百人の数に盈たず。方物を解運して前み て、福建等処承宣布政使司に赴き投納して転解し、京に赴きて進奉す。 此が為、任土の常貢、惓熟硫黄一万二千六百簧・馬十匹・海螺殻三千個 を遵将するの外、屡々聖朝柔遠の仁、破格の優待を荷蒙し、敝国頂踵を 損糜するとも、以て報補する無ければ只愧ずのみ。且つ微薄の方物あり て、正貢の外、特に紅銅一千簧・大糸煙一百匣・黒漆*螺茶鍾一百箇等 の物を加えて進上す。此に拠りて合行官を遣わして管解せしめ、前みて 福建等処承宣布政使司に赴きて投納するの外、理として合に咨を備えて 告投す等の因あり。  此が為、特に耳目官、正議大夫、都通事等の官、毛見竜、梁邦牴、鄭 弘良等を遣わし、咨を齎して告投し、迢かに表を捧げ、天陛に赴くの 外、京に赴く官伴、辺に留るの官伴を除き、其の余の員役は、仍原船に 坐し、夏媼にて摘回す。其の京に赴く進貢官伴、存留在駅官伴は、下貢 の来船を俟ちて搭回せん。業に撫部院呉の具題を奉じ、部議を経て、皇 恩の浩蕩もて優恤柔遠するを荷蒙す。特に兪旨を奉じたるに、琉球国は 先に、船隻を回し、且つ十三・十五両年の貢物は、著して其の補進を免 ぜよ。該撫の奏する所に著照して行えよとあり。欽遵して案に在り。此 が為、理として合に貴司に移咨す。煩乞わくば査照して施行せられよ。 須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕十九年九月三十日 行す  [注1鄭弘良 久米村鄭氏の十二世(湖城家)。大嶺親方。生没年未詳。   官は総理唐栄司。] [三六八 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、宮古の漂流人が救助されて無事帰国できたことについて謝礼の咨文]  琉球国中山王世子尚(貞)、恩もて失水の難彝を解推して、命を全うし て国に還るを賜らんが事のためにす。  照し得たるに、康煕十二年十月内、敝国人民有納波等四十五名、麻姑 山に往きて米を運ぶのとき、海洋に在りて、颶風に遭い、粤省に飄到 す。通船の人名、風波に苦しみ、殆ど飢寒す。彼の地方に到るに及び て、先に経に餓死する者七名、後に続いて病故する者一十七名。尚存す る難彝有納波等二十一名は、幸に貴司高厚の至恩に頼り、督撫両院に転 詳し、広東巡撫に行文して、難彝有納波等二十一名を発回し、逓送して 諞に到り、難彝等をして安挿せしむ。幸に題明して旨を請い、まさに仍 例に照らして口糧を給与し、難彝有納波等二十一名をして、飢寒の苦を 免れしむるを荷蒙す。今年六月内、方めて見に貢使陸承恩、王明佐等と 一同に国に返る。実に皇恩の浩蕩を仰ぐこと、覆載に異なるなし。且つ 貴司の仁慈無外なるを蒙り、銜結曷ぞ綛れんや。此が為合行貴司に移咨 して、知会せしむ。煩乞わくば察照して施行せられよ。須く咨に至るべ き者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕十九年九月三十日 行す  [※本項の敝国人民有納波等四十五名は、康煕十二年(一六七三)、宮   古から御手札改帳を宰領して中山に赴きその帰島の途次、広東に漂   流した根馬氏・狩俣首里大屋子定立の一行四十五人のこと。有納波   は白川氏・与那覇与人(後の平良首里大屋子)恵和。彼らは「三藩   の乱」のさなか、福州琉球館との連絡もままならず、倭人と疑われ   つつ広東に抑留され、七年の後漸く帰国しえたが、四十五人中二十   四人の死者を出すなど辛酸をなめた(「恵和密日記」『白川氏大宗家   家譜』所収)。] [三六九 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢方物を収受し、忠誠を嘉する旨の咨文]  礼部、知会せしめんが事のためにす。主客清吏司案呈すらく、本部よ り送りたる礼科の抄出を奉じたるに、琉球国中山王世子臣尚貞、表を奉 じて進貢するの縁由あり。康煕十九年九月三十日上表し、二十年十一月 十四日、旨を奉じたるに、覧たり。王世子奏して、方物を進貢するは、 具に悃誠を見す。知道了。該部知道せよ。此を欽めよや、とあり。欽遵 して部に抄し、司に送る。此を奉けて相応に知会すべし。此が為、合に 咨して前去せしむ。煩為わくば旨内の事理を査照して、欽遵して施行せ られよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕二十年十二月初四日   咨す [三七〇 礼部より中山王世子尚貞あて、今後、琉球の進貢方物は、硫黄・海螺殻・紅銅に止め、馬匹・糸煙はその必要がないことを通達した咨文]  礼部、進貢の事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部前事を題するの内に開すらく、照し得たるに琉球国中山王世子尚 貞、耳目官毛見竜、正議大夫梁邦牴等を差わし、進み到りて、貢物の数 目、熟硫黄一万二千六百簧・海螺殻三千個・馬十匹、常貢の外、紅銅一 千簧・糸煙一百匣・黒漆*螺茶碗一百個を加え部に到る。  該臣等議得したるに、琉球国の進貢せる一万二千六百簧の硫黄は、具 題して福建に存貯し、馬十匹内一匹は途に在りて倒斃す。其の馬九匹は 已経に上駟院に交送するの外、今海螺殻三千個・紅銅一千簧・糸煙一百 匣・黒漆*螺茶碗一百個は、相応に、総管内務府に交送し、数に照らし て査収すれば可なり等の因あり。康煕二十年十一月十八日題し、本月二 十二日、旨を奉じたるに、議に依れ。琉球国貢する所の馬匹、糸煙は無 用なれば、以後応に其の進貢を停むべし、着して議奏せしめよ。此を欽 めよや、とあり。欽遵す。十一月二十三日、部に到る。該臣等議得したる に、琉球国表を具えて方物を進貢するの事等因あり。具題して旨を奉じ たるに、議に依れ。琉球国貢する所の馬匹、糸煙は無用なれば、以後応 に其の進貢を停むべし。着して議奏せしめよ。此を欽めよや、とあり。  査するに琉球国の正貢は硫黄一万二千六百簧・海螺殻三千個・馬十匹 あり。嗣後、琉球国の進貢は、馬匹、糸煙を進めるを停め、其の余の別 物は、仍例に照らして進めしめ、命、臣部に下るの日を俟ち、該国王世 子尚貞に移文して遵行すれば可なり等の因あり。康煕二十年十二月初二 日題し、本月初八日、旨を奉じたるに、琉球国進貢の方物は、以後止 だ、硫黄・海螺殻・紅銅を貢せしめ、其の余は必ずしも進貢せしめざ れ。此を欽めよや、とあり。欽遵して部に抄し、司に送る。此を奉けて 相応に移咨すべし。此が為、合に咨して前去せしむ。煩為わくば、旨内 の事理を査照して欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕二十年十二月十五日   咨す  [注1上駟院 清代の役所名。内務府に属す。蒙古地方の牧政を掌る。   初め御馬監、ついで阿敦衙門、さらに康煕中、上駟院に改めた。  *長く常貢の中心品目であった馬の進貢が免除となり、併せて、外貢   の糸煙等の進貢も免ぜられた。] [三七一 礼部より中山王世子尚貞あて、進貢の恭順を嘉し、文綺等のものを特に下賜する旨の咨文]  礼部、上諭を欽奉する事のためにす。照し得たるに、琉球国世子、使 を遣わして入貢す。本部已経に具題して定例に照らし、蟒緞・緞疋共に 二十疋を賞賜す。今皇帝勅諭すらく、琉球国世子尚貞は、属して遐方に 在り。世々声教に遵い、逆賊東乱し、海寇披猖の際に当たりても、爾克 く忠貞を篤くし、藩職に恪恭して、屡々方物を献じ、表を齎らし貢を進 む。恭順の誠、深く嘉すべし。尚、優く恩賚を加え、賜うに文綺等の物 を以てせよと。其の恩賜せる蟒緞・緞疋は共に四十疋なり。相応に知会 すべし。此が為に合に咨して前去せしむ。煩為わくば査照して施行せ よ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕二十一年二月十四日  [注1逆賊東乱 耿精忠の乱のこと。2披猖 狂い騒ぐこと。猖蹶と   同。] [三七二 礼部より中山王世子尚貞あて、襲封の際には琉球の要請通り冊封使を派遣する旨についての咨文]  礼部、懇に封典の成例を査して以て皇恩を彰らかにし、以て使臣の帰 国を全からしめんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、前事を題するの内に開すらく、琉球国貢使毛見竜等の呈称に拠る に、窃に竜等、本国世子の差来して貢を進め及び封を請えとの事宜 を奉じたるに、行に臨んで吩咐せらる。凡ての事務は、前例を求めて、 以て琉球世世中国に臣事するの道を尽くす。此番敝国、先王を封ずるの 例に照らし、所有天使を接待する衙門の諸物は、挙国の臣民、心を尽く し力を竭して、皆已に斉備すれば、唯天使の賁臨して、同に雨露に沾お うを望むのみと。近ごろ竜等、元旦に入賀して聞知するに、兪旨もて王 爵を襲うを允し、其の勅書、賜恤等の物は、竜等をして帯回せしむと。 竜等昼夜驚惶す。切に思うに、琉球帰順すること多年、朝貢絶えず。歴 代の受封は倶に遣官ありて別国と同じからず。且、今日、皇威遠く播 き、一統昇平す。凡属の赤子は謳吟せざるなし。即ち竜等海外の末員も 聞知して亦自ら歓呼起舞す。若し此の勅書もて竜等をして帯回せしむれ ば、何を以てか帝治を海域に昭らかにし、神武を遐方に布かんや。冊封 は重典なれば、彝員任じ難し。已むをえず合情冒叩す。大部、属国の末 員、世子の吩咐を奉ずるを哀憐せられよ。胎し已み難き事情あれば、必 ず須く転奏を哀求すべしと。今、大部已に題封を為すも唯だ官を遣わす の一事は未だ行せざれば、以て世子に回報する無し。使臣も以て帰国し 難し。死を冒して哀求せざるを得ず。乞うらくは、情を原ねて転奏せら れ、官を遣わすの旧例を俯察して以て皇恩を広められんことを。大部、 柔遠の洪慈は天地と等しからん等の因あり。具呈して部に到る。  査するに康煕二十年十二月内、臣が部、琉球国世子尚貞の封王を請う の一疏に題覆するの内に開すらく、査するに順治十一年、琉球国世子尚 質を封じて王と為す。時に初帰の国たるに因り、特に官を遣わし、勅印 を給して授封す。康煕十三年、安南国王黎維禧病故す。臣が部具題し、 賜恤して銀一百両、絹五十疋を給し、官を遣わして文を読み祭を致さし む。康煕十二年、暹羅国王を封ずるの時、航海道遠く、随去の官兵甚だ 多く、又時日を需む、暹羅の迎送労苦なるに因り、其の遣官を停め、誥 印を将て来使に帯去せしむ等の因あり。具題して已に帯び去かしむ。  今、琉球国故王尚質に賜恤せられ、及び世子尚貞に王爵を襲封せしめ んとして、若し官を遣わせば、航海道遠くして、随去の官兵甚だ多く、 需むる所の銭糧甚だ広し。相応に其の官を遣わすを停むべし。尚貞に給 与するの、伊の父中山王を承襲するの勅及び故王尚質に給与するの賜恤 銀一百両、絹五十疋、祭文謄黄を将て来使をして捧去せしむ。命の下る の日を俟ち、祭文は牴林院由り撰擬し、銀絹は戸部由り支取すべし。  又査するに、順治十一年具題して、初めて尚質を封じて中山王と為す に因り、王に各色緞三十疋を賞賜し、妃に緞二十疋を賞賜す。其の賞賜 の礼物数目は、仍例に照らして内閣より勅一道を撰す。帯去して王に与 うるも後例と為さざるべし等の因あり。聖旨を奉じたるに、議に依れ。 此を欽めよやとあり。遵行して案に在り。  今、琉球国中山王世子尚貞、王爵を承襲す。王併びに妃に賞給する処 の所は議を容るる無し等の因あり。具題して旨を奉じたるに、議に依 れ。琉球国世子尚貞、父子世々臣節を等しくして、忠貞嘉すべし。王併 びに妃に前例に着照して賞賜せよとあり。該臣等議得したるに、今琉球 国貢使毛見竜等呈称すらく、伊等伊の国世子の差来して進貢及び請封す るの事宜を奉じ、行に臨んで吩咐す。凡ての事務は前例を求めて以て琉 球国世世、中国に臣事するの道を尽くす。胎已み難き事情あれば必ず須 く転奏を哀求すべしと。此番敝国、先王を封ずるの例に照らし、あらゆ る天使を接待するの衙門の諸物は、挙国の臣民心を尽くし力を竭して皆 已に斉備して、唯天使の賁臨を望むのみ。若し此の勅書もて竜等をして 帯回せしむれば、何を以てか帝治を海域に昭らかにし、神武を遐方に布 かんや。冊封は重典なれば、彝員任じ難し。死を冒して哀求せざるを得 ず。乞うらくは、情を原ねて転奏せられ、官を遣わすの旧例を俯察して 以て皇恩を広くすれば、柔遠洪慈は天地と等しからん等の語あり。  査するに、先に琉球国世子尚質を封じて王と為すの時、初帰の国たる に因り、特に官を遣わし、勅印を給いて授封す。暹羅国王を封ずるの 時、航海道遠く、随去の官兵甚だ多く、又時日を需め、暹羅の迎送労苦 するに因り、其の遣官を停め、誥印を将て来使をして帯去せしむ。今琉 球は帰順年久しくして初帰の国には非ず。其の琉球国貢使毛見竜等具呈 懇請するの処は議を容るるなく、仍って前旨に照らして遵行すれば可な り等の因あり。康煕二十一年正月二十二日題し、本月二十五日旨を奉じ たるに、琉球国王を冊封するに、応に官を遣わして前往すべし。着して 再議具奏せよ。此を欽めよやとあり。欽遵す。本月二十六日、部に到る。  該臣等再議し得たるに、先に琉球国貢使毛見竜等具呈して、懇うらく は封典の成例を査して以て皇恩を彰らかにし、以て使臣の帰国を全から しめんが事の為にす。臣部議覆す。琉球国帰順年久しく、初帰の国には 非ず。其の琉球貢使毛見竜等具呈して懇請するの処は議を容るる無し。 仍って前旨に照らして遵行すれば可なり等の因あり。具題して旨を奉じ たるに、琉球国王を冊封するには、応に官を遣わして前往せしむべし。 着して再議具奏せよ、此を欽めよやとあり。応に特に官員を遣わし、勅 を齎らし前往して冊封し、併せて賜恤すべし。査するに康煕十二年、臣 が部、内閣と会同して酌量定議し、嗣後凡そ外国の進貢請封は、応に官 員を遣わすべし。具題して旨を請う。内閣・牴林院・礼部・六科・行人 司の漢官を将て正副使と為して前去せしめよ等の因あり。具題して旨を 奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。今琉球国世子尚貞を封じ て王と為し、内閣・牴林院・礼部・六科・行人司の漢官を将て正副使と 為して前去せしむ。応に命の下るの日を俟ちて、将に応に官員を遣わす べし。職名は移取して開列具題すれば可なり等の因あり。康煕二十一年 正月三十日題し、二月初三日旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよや とあり。欽遵して抄出し、部に到り、司に送る。此を奉じて相応に移咨 すべし。此が為、合に咨して前去せしむ。煩為わくば旨内の事理を査照 して欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子に咨す  康煕二十一年二月十四日  [注1吩咐 いいつける。命令する。2合情 心を一つにする。またす   べての事情(をもって)の意か。3大部 ここでは礼部を指す。   4祭文謄黄 祭文は死者をとむらう際、神前で読む文。謄黄は天子   が下した詔書を各省督撫で黄紙に謄写して頒布したもの。ここでは   故尚質王に対する中国皇帝の黄紙に謄写した祭文の意。5漢官 清   代、漢人の官吏を漢官、満州人の官吏を満官と称した。※本項では漢  官を冊封正副使として派遣するとあるが、その後の尚敬、尚穆の正  使(海宝、全魁)は満官であり、必ずしも遵守されていない。] [三七三 福建布政使司署司事按察使司より中山王世子尚貞あて、進貢使節中、先回すべき人員は順風なきため、京より回る人員と一同に帰国させる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司署司事按察使司、進貢の事のためにす。  琉球国中山王世子尚(貞)の咨を准けたるに開すらく、切に照らすに、 敝国は世々天眷の隆風に沐し、恭順の志を矢う。欽遵して両年一貢して 案に在り。茲に康煕十九年の期に当たり、例として合に進貢すべし。敢 えて愆越せず。任土の常貢、惓熟硫黄一万二千六百簧、馬十匹、海螺殻 三千個を遵将す。伏して思うに、屡々聖朝柔遠の仁もて格外に優待せら れるを荷くし、頂踵損糜すると雖も報効を尽くし難し。謹んで進貢方 物の外、特に紅銅一千簧、大糸煙一百匣、黒漆*螺茶鍾一百個等の物を 加えて進上す。合行官を遣わして管解すべし。此が為、耳目官・正議大 夫・都通事、毛見竜・梁邦牴・鄭弘良等を遣わし、海船二隻に坐駕し、 水吮を率領し、毎船均*の上下員役は共に二百員名に盈たず。方物を運 解して、前みて福建布政司に到りて投納し、京に赴きて上進し、聖禧を 伸祝す。京に進むの官伴及び存留在駅の官伴に至りては、下後の船来る を俟ちて帰国せしめ、其の余の員役は、仍原船に坐して、先ず、夏媼に摘 回す。業経に撫部院呉、具題して、部議を経たり。仰いで天恩の優恤を 荷くし、摘回の兪旨あるを奉じて欽遵すること案に在り。礼部に咨する を除くの外、理として合に貴司に移咨す。煩為わくば察照して施行せら れよ等の因あり。  又請封襲爵して以て愚忠を効し、以て盛典を昭らかにせんが事の為に す。琉球国中山王世子尚(貞)の咨を准けたるに開すらく、照し得たる に、敝国の先王尚質、康煕七年十一月十七日、疾を以て薨を告ぐ。貞、 嫡嗣を以て例として、応に襲を承くべし。但だ錫命は必ず君恩に由る。 臣子安んぞ敢えて擅擬せんや。窃かに念うに、海国封典を膺けざれば、 以て中流に砥柱すること無く、荒服、綸音を奉ぜずして、奚ぞ能く絶域 に安瀾せんや。理として応に襲を請い、用て世職を承くべし。此が為 敬んで表章を具して奏請す。特に貢使の耳目官・正議大夫、毛見竜・梁 邦牴等を遣わし、齎し馳せて闕に赴かしむ。更に敝国は例として通国誠 実の結状有り。統て賚らし前来す。礼部に咨するを除くの外、合に貴司 に咨すべし。伏して乞うらくは、転じて礼部に咨し、題請して迅かに恩 封を賜えば、用と聖朝の盛典、承天下国の忠忱を彰らかにせん。煩乞わ くば、貴司、査照して施行せられよ等の因あり。  又稟報の事の為にす。総督部院姚・巡撫部院呉の案験を案奉したる に、礼部の咨を准けたるに、開すらく、主客清吏司案呈すらく、本部よ り送れる礼科の抄出を奉じたるに、該本部、福建巡撫呉の題せる前事に 題覆す等の因あり。内に開すらく、該臣等議し得たるに、福建巡撫呉、 疏称すらく、琉球国差来の使、毛見竜等進貢して諞に到る。方物・人数・ 随帯の土産を査験するに、該国の印文、執照に相符せば、倶に館駅に発 りて安挿し、別に委官に行りて、来使と同に齎捧進呈す。京に赴くの官 伴と存留を除くの外、其の余の員役は、前貢の旧例もて原船に坐し、先 に摘して発回せしめんことを*請す。今応に例に照らして、其れをして 先に回さしめて以て柔遠を示すべきや否や。又称すらく、該国、尚質の 薨を告げ、世子尚貞例に照らして封を請う。備さに咨文并びに該国三法 司等の官の僉結を具えて咸称う、顧命もて嫡長世子に付せと。襲爵は均 しく部議に聴さん等の語あり。今、琉球国進貢する所の馬、螺殻等の 物、及び来使毛見竜等は、応に定例に照らして其の京に赴くを准し、其 の進貢の硫黄は、福建督撫に交与して例に照らして収貯せしむ。臣が 部、工部に移文し、応に用うべきの処を俟ちて使用せしむ。其れ該国世 子尚貞の封王を懇請するの処は、来使京に到るの日を俟ちて議題し、其 の官伴は、京に赴くと諞に在るとは、応に前例に照らし、存留すべきを 除くの外、其の余の員役は、応に原船に坐し、先に発回を行うを准すべ ければ可なり等の因あり。康煕二十年四月二十日題し、本月二十三日旨 を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵して部に抄し、司 に送る。此を奉じて、相応に移咨して前去せしむ。煩為わくば旨内の事 理を査照し、欽遵して施行せられよ等の因あり。部院に到る。此を准 け、案を備えて司に行り、咨文の奉旨内の事理に備照して、即便に欽遵 して査照施行せられよ。此を奉じて遵行すること案に在り。  業経に前司、部文を遵奉し、京に赴くと諞に在るとは、存留するを除 くの外、其の余の員役は応に原船に坐して、先に発回を行うを准すべ し。福防庁同知蘇佳嗣に着令して、貢船二隻を押発す。二十年七月初九 日、諞安鎮を出て湾泊し、風を候ちて返棹せんとす。順風無くして回国 すること能わざるに因り、茲に京に赴くの進貢耳目官・正議大夫、毛見 竜・梁邦牴等、官伴二十員名は、本年五月初十日諞に回るに拠り、理と して応に一併に遣発回国すべし。今、前因を准け、合に就ちに移覆すべ し。此が為に理として合に由を備えて貴国に移咨し、来文の事理に依ら んことを請う。煩為わくば査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者 なり。   右、琉球国中山王世子尚 に咨す  康煕二十一年五月十五日   咨す [三七四 冊封正使汪楫より中山王世子尚貞あて、渡来に先だち諞にありて送付したあいさつの啓文]  伏して以うに、天心無外にして万里の風雲を通じ、地道克く承けて九 霄の雨露を沛ぐ。惟だ礼を秉り義を守り、聿に服事の誠を昭らかにす。 斯に徳を好み賢に親しみ、允に懐柔の典に洽う。恭しく惟うに、閣下、 三山に秀を育み、百谷に英を儲う。沖年にして世子の儀に嫺い、箕裘 を紹ぎて、何ぞ恭しまんや。世を継ぎて藩臣の職を述ぎ、肯えて堂構し て弥々新にせんや。乃者天眷加うる有りて、臣が忠鈴々顕わる。行き て、竜章煥惆して刻漏の門に照回し、鳳藻揚恁して迎恩の榜に焜耀する を見ん。生、忝けなくも*班に列するも、未だ竜国にて賢関に游び聖域 に与るを経ず。屡々望洋を嘆ず。邦水を歴るは乃ち銭江のみ、乃ち今、 海を観たり。但だ長風の願有れば、絶えて遠道の嗟無し。須く荘函を 恵み、兼ねて雅罅を頒つべし。南車方指は越境の交と同じからずと雖 も、北雁未だ通ぜず。殊に先施の誼に負き、謹んで原璧を函して即ち附 与す。籤跡は不恭を蹈むに似たるも、情は実に莫逆に同じ。伏して願わ くば、家を承くるには敬を以てし、国を保つに惟だ仁のみ。之を募り之 をば牴れ。夫の周詩を誉る処は載せて詠ず。爾をして熾ならしむ、爾を して昌ならしむ、燕喜して自ら魯頌に徴す。啓するに臨んで瞻溯の至に 勝うべし。 名を正幅に具す、慶余   欽差正使汪老爺の啓  [注1堂構 父が設計し子が建てるの意から、子が父の業を継承するこ   と。2*班 朝延にならぶ高位の官吏の行列。3賢関 賢人の列に   在るの意。転じて学問徳行の深く進むにいう。4聖域 聖人の地位、   聖人の境地、また神聖なる地域の意。5荘函 立派なお手紙。6南   車方指 不詳。7原璧 種々の宝物の意か。8籤跡不恭 不詳。9莫   逆 互いにさからわない、互いに気が合う。10燕喜 酒盛りをして   楽しみ喜ぶ。11魯頌に徴す 詩経の三頌の一つ。魯の国の祖先をた   たえた詩で、四編ある。12汪老爺 汪楫のこと。尚貞の冊封正使。   中国安徽休寧の人。官は牴林院検討。一六八三年、尚貞冊封のため   来琉。帰国後、『中山沿革志』『使琉球雑録』を著した。] [三七五 冊封副使林麟*より中山王世子尚貞あて、渡来に先だち諞にありて送付したあいさつの啓文]  伏して以うに、日は扶桑を照らし、色は迎恩の館に映え、波は姑米に 恬かにして、光は守礼の邦に浮ぶ。惟だ庭実は貢を梯航によりて効す。 故に天朝申ねて帯砺に盟い、韜かに寵錫を承け、謹んで微忱を勒す。恭 しく惟うに、殿下の忠声は遠く播き、孝は則ち彰わるるところなり。蚤 歳より視膳、問安して青宮の芳躅を伝う、今茲に藩を承け、恭順にして 赤胆を皇家に輸す。比戸、詩書ありて、雕題の俗たる文身に*ばず、礼 楽も、寧んぞ鑿歯の郷に同じからんや。島嶼を山北、山南に環らし、波 涛を天上天下に連ぬ。斯れ誠に海邦の祭酒にして、要服に維城する者な り。麟*濫りに簡命を膺け、謬りて皇華に選ばれ、手に竜章を捧げて、 風帆行看すること、馬情馳するに似たり。銀渚に鷁首して未だ牽牛を覓 めず。何ぞ専使の来迎するを期せんや。更に嘉儀を荷くし、俯して拝罅 に及べば紛として珍錯の如く、開*すれば爛として雲霞の若し。第、符 冊もて封を分かつに、帝室柔遠の典を以てし、驂*もて事を将てする は、実に使臣分誼の常なり。辞受は惟だ君のみにして私交は戒あれば、 方に題請を行うも未だ敢えて遽かに洌筐を受けず。胎し糸綸を下せば、 虔んで餐璧を領するに庶幾からん。先ず粛んで謝悃す。伏して汪涵を冀 いて、啓するに臨みて、曷くんぞ瞻注の至に勝えんや。                       名を正裕に具す [注1扶桑 りゅうきゅうむくげ、仏桑花。2庭実 庭いっぱいに広げら   れた(貢物)。3視膳、問安して 子の親に対する礼、親を養う礼。   4青宮 皇太子の称、ここでは世子尚貞の意か。5比戸 並び立つ   家、家ごとに。6雕題に俗、鑿歯の郷 ひたいに彫り物をする習俗   や歯をけずる郷、つまり野蛮人の国の意。7(林)麟* 尚貞の冊封   副使。福建甫田の人。官は内閣中書舎人。一六八三年、尚貞冊封のた   め来琉。8銀渚 天の川。9鷁首 鷁は水鳥。よく風にたえて飛ぶ   ことから、水難よけとして、船首の飾に用いられた。またその船。   10珍錯 めずらしき種々の宝の意か。11驂* そえうま。12洌筐   はこ。また贈答品、進物のこと。13餐璧 洌筐と同で、進物、贈答   品のことか。] [三七六 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、進貢方物は前に減免された馬匹等に替えて囲募紙等を新たに加える旨の咨文]  琉球国中山王世子尚貞、方物は恩減を蒙ると雖も、恭順して実に臣が 衷を表し、謹んで微忱を竭し、仰いで叡鑑を祈らんが事のためにす。  窃かに照らすに、敝国は荒徼に乖処し、天朝柔遠の仁もて、格外に撫 綏するを荷蒙し、頂踵を竭すと雖も、高深に報いる無し。伏して温旨を 蒙り、康煕二十年より以後、進貢方物の内、馬匹、糸煙、*螺茶鍾を 減ぜらる。窃かに思うに、聖朝の恩隆、懐遠、徳意弥々深し。臣子の 貢、只、常儀にして愧懼すること已に甚だし。若し再び中に于て減少す れば、臣が衷鈴々安からざるを覚ゆ。茲に当に貢の期を享け、謹んで惓 熟硫黄一万二千六百簧、海螺殻三千個、紅銅三千簧を齎すの外、特に囲 募紙一万張、磨刀石一百塊、蕉布一百疋等の物を加えて進上す。合に官 を遣わして管解を行うべし。此が為に特に耳目官・正議大夫・都通事等の 官、毛文祥・蔡国器・王可法等を遣わし、水吮を率領し、海船二隻に坐 駕して、船ごとに上下の員役、接封官伴共に二百二十四員名を均*し、 方物を解運して前みて、福建等処承宣布政使司に到りて投納し、転解し て京に赴き上進し、聖禧を伸祝す。京に進むの官伴及び存留して駅に在 るの官伴に至りては、下後の船来るを俟ちて帰国す。其の原船は、夏媼 に先だちて摘回すること、業経に撫院呉、具題して、部議を経て、仰ぎ て天恩の優恤を荷くし、摘回の兪旨を奉有すること欽遵して案に在 り。礼部に咨するを除くの外、理として合に貴司に移咨すべし。煩為わ くば察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕二十一年十月十二日  [注1毛文祥 首里毛氏の八世(富川家)。小禄(後、富川)親方盛聖。   一六四七〜一七一一年。2王可法 久米村王氏の四世。国場親方。   ?〜一七二三年?  ※先の進貢(三七〇項)で、常貢のうち馬匹と外貢の糸煙等を免除せ   られたため、本項では外貢として囲募紙、磨刀石等を加進している   が、これも免除されている。] [三七七 中山王世子尚貞より福建布政使司あて、冊封使節を迎える使者派遣についての咨文]  琉球国中山王世子尚貞、恭しく綸恩に接せんが事のためにす。  窃かに照らすに、敝国は遠く南裔に属す。惟だ皇朝の錫典に藉りて、 海邦を鎮撫す。日前、具疏して封栄を請うに、天恩もて下情を量允し、 藩服を膺嗣せらるるを荷くす。凡そ蔀屋、窮檐に在るもの、悉く已に城 外に歓騰す。  謹んで正議大夫鄭永安を遣わして前み来り、恭接す。合に貴司に咨す べし。伏して乞う。転じて礼部に咨し、具題せらるれば、万里の波臣、 親しむが如く舞蹈し、千秋の海若、共に前駆を効すに庶からん。煩乞わ くば、貴史査照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕二十一年十月十二日  [注1蔀屋、窮檐 ともにあばらやの類。一般人民の家屋のこと。2波   臣 波涛の臣隷の義。魚の異名。3海若 海の神。] [三七八 中山王世子尚貞より冊封正使汪楫あて、迎接使を派遣する旨の咨文]  琉球国中山王世子尚貞、恭しく欽差を迎えんが事のためにす。  照し得たるに敝国は、康煕十九年九月三十日、敬んで表文を修し、耳 目官・正議大夫の毛見竜・梁邦牴等を遣わし、齎捧して京に進み、王爵 を襲封するを請乞したるに、旨もて天使の諞に臨むを准すを荷蒙せら る。海邦雀躍歓呼して補報を伸べ難し。  茲に特に、正議大夫鄭永安を遣わし、欽差宝船の敝国に接臨するを護 迎せしむ。理として合に天使に移咨すべし。煩為わくば察照して施行せ られよ。此が為に移咨す。須く咨に至るべき者なり。   右、欽差正使牴林院検討汪 に咨す  康煕二十一年十月十二日 [三七九 冊封福使林麟*より中山王世子尚貞あて、正使汪楫の諞に到るを待って早やかに出発する旨の咨文]  欽命冊封副使加正一品仍帯加一級の内閣中書林麟*、冊封の事のため にす。  照し得たるに、本閣特簡を欽奉し貴国を冊封す。正使牴林院汪と同に 詔・勅・御筆並びに欽賜の礼物等の項を齎捧し、本年二月初一日におい て諞に到る。正使牴林院汪 の到るの日を俟ちて、一同に開駕せんと す。茲に貴藩の咨文を准けたるに、封を接せん等因とあり、閣に到る。 此を准けたり。擬して合に就行すべし。此が為に咨を備えて前みて貴藩 に移す。煩為わくば察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子尚 に咨す  康煕二十二年五月初一日  [注1封を接せん 冊封使を迎接せんの意。] [三八〇 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、冊封船の渡琉に先だち、報告のため進貢使節の小船の帰国を准す旨等の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の事のためにす。  琉球国中山王世子尚(貞)の咨を案准したるに開すらく、窃かに照らす に、敝国要荒に辟処し、天朝柔遠の仁もて格外に撫綏せらるるを荷蒙 し、頂踵を竭すと雖も高深に報ゆるなし。近ごろ兪旨を蒙り、康煕二十 年より以後、進貢方物の数内に、其の馬匹、糸煙を減ずるあり。伏して 思うに、聖朝の恩隆、懐遠の徳意弥々深し。臣子が貢するは只常儀の み。愧懼すること已に甚だし。若し再び中において減少すれば、臣が 衷、鈴々不安を覚ゆ。茲に進貢の期に当たり、謹んで惓熟硫黄一万二千 六百簧、海螺殻三千個、紅銅三千簧を齎すの外、特に囲募紙一万張、磨 刀石一百塊、蕉布一百疋等の物を加えて進上す。合に官を遣わして管解 を行うべし。此が為に特に、耳目官・正議大夫・都通事の毛文祥・蔡国 器・王可法等を遣わし、水吮を率領して、海瓠二隻に坐駕せしめ、毎瓠 に上下の員役并びに接封官伴を均*すること、共に二百二十四員名な り。方物を解運して前みて福建布政司に到りて投納し、例に照らして解 運して京に赴き、聖禧を伸祝す。京に進むの官伴及び存留在駅の官伴に 至りては、例として、下次の貢瓠に在りて附して帰国せしむ。所有の現 に両瓠に在るの使者等の官もて先に帰さしむるの一例は、業に前に撫院 呉の具題を経て、部議もて一面摘回せしむるの兪旨を奉有すること、欽 遵して案に在り。礼部に咨するを除くの外、理として合に貴司に移咨す べし。煩為わくば察照して施行せられよ等の因あり。此を准けたり。  又稟報の事の為にす。総督部院姚・前巡撫部院董の案験を奉け、礼部 の咨を准けたるに開すらく、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼 科の抄出を奉けたるに、該本部、福建巡撫董の題せる前事に題覆するの 内に開すらく、該臣等議し得たるに、福建巡撫董の疏に称すらく、琉球 国中山王世子尚、特に彝官蔡国器等を遣わし、恭しく方物を進めて諞安 鎮に至る。臣、貢物・人数を行査せしめたるに、該国の印信執照と相符 す。倶に館駅に発りて安挿宴待せしめ、別に委官に行じて同に齎らして 進呈す。并びに彼の国の咨に拠るに、其の余の員役は仍原瓠に坐して、 摘発先回せられんことを請う。統ては部議に聴すべし等の語あり。今、 琉球国進貢の来使蔡国器等、応に定例に照らして其の赴京を准すべし。 其の進貢の硫黄は、福建督撫に交与して、例に照らして収貯し、臣が部 より工部に移文して応に用うべきの処において使用するを聴す。諞に留 まるの官伴は例に照らして存留せしむるを除くの外、其の余の員役は 仍、応に原瓠に坐して先に発回を行うを准して可なるべし等の因あり。 康煕二十二年二月二十四日題し、本月二十九日旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよやとあり。欽遵して移咨して部院に到る。此を准けたれ ば擬して合に就行すべし。此が為、案を備えて司に行じ、部文内の奉旨 の事理に照依して、即便に欽遵施行せられよ等の因あり。此を奉けて遵 行すること案に在り。  又謹んで緩急の機宜を陳べ、天に懇いて通権して柔遠し以て国事を舒 べ以て聖恩を重んぜんが事の為にす。署巡撫印務趙の批を奉けたるに、 本署司呈詳すらく、査得したるに、琉球進貢の来瓠二隻は、前に部文を 奉け、赴京、存留を除くの外、其の余の員役は、原瓠に坐して摘発して 先に回るを准すとあり。冊封正使汪は、已経に省に到る。茲に貢使隆存 仁等の呈称に拠るに、貢瓠大小二隻は兪旨を奉じて摘発して先帰せんと す。所有の両瓠の公私の兌買せる貨物は妥日監看を請い、然る後駕して 帰らんとす。奈んせん自今風媼時に及べば、欽差正副使は日ならずして 先に海国に臨まんとす。向例は啓行の時、諞に在るの瓠隻は期に先だち て主に報ずれば衙門を整修し、器用を備弁す。敝国は港路峻険にして、 前封舟到るの日、例として小艇を撥して引路して方めて敢えて駕進し、 倉皇に致さず。請乞うらくは、小瓠一隻もて、期に先だちて開駕し、旬 日にして国主に報明せしめば、大瓠一隻に至りては留りて封舟を候ちて 嚮導せしめられよ、等の情あり。*わくば憲台に控せられよ。批を奉け たるに、例を査し定議通詳せしめよ、等の因あり。  又正使汪の前因を移査するを准け、本署司細査したるに、貢瓠并びに 往封の瓠隻の開駕は定めて夏至の後に在り。期為るや、已に迫れり。今 該彝使、小舟を発して、先に本国に回りて預め整弁を行い、事に臨んで 張皇するを致すを免れんことを請うは、恭順に属するに似たり。相応に 従うを准すべし。但、彝瓠の回国は応に題明すべきや否やは憲台の察奪 を請乞して、一面会稿具題し、一面諞安鎮に行令して、兵を撥して、該 彝の小舟を護送して出洋せしめよ。開駕長行の日期を取具して報査せし むれば可なり。伏して憲台の批示を候つ。本司未だ敢えて擅便せず。合 に就かに呈詳すべし等の縁由あり。批を奉けたり。彝瓠の回国は例とし て応に題明すべし。今詳に拠るに称すらく、小瓠一隻は応に先に回るを 准すべし。該司仍看験明白にして、即ちに諞安に移し、兵を撥して護送 せしめ出洋の日期を取(具)し、通詳査奪せしむ。仍総督部院の批示を候 つ。此を炸奉して移行知照せしむるの外、今前因を准け、合に就ちに移 覆すべし。此が為、理として合に由を備えて貴国に移咨す。請うらくは 事理に依りて煩為わくば査照施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子尚 に咨す  康煕二十二年五月二十九日   進貢の事    咨す  [注1前巡撫部院董 董国興。康煕二十一(一六八二)〜同二十二年の   間、福建巡撫任職。2通権 臨機応変の意。3隆存仁 不詳。4倉   皇 あわてるさま。5張皇 あわてる。6長行 遠い所への旅。] [三八一 福建布政使司より中山王世子尚貞あて、接封使を冊封使とともに派遣する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、恭しく綸恩に接する事のためにす。  琉球国中山王世子尚(貞)の咨を案准したるに開すらく、窃かに照らす に、敝国は遠く南裔に属し、惟だ皇朝の錫典を藉りて海邦を鎮撫す。日 前、具疏して封栄を請うに、天恩もて下情を量允せられて藩服を膺嗣せ らるるを荷くす。凡そ蔀屋、窮檐に在るもの、悉く已に城外に歓騰す。 謹んで正議大夫鄭永安を遣わして、前来して恭接せしむ。合に貴司に咨 すべし。伏して乞うらくは、転じて礼部に咨して具題せらるれば、万里 の波臣、親しむが如く舞蹈し、千秋の海若共に前駆を効すに庶からん。 煩乞わくば貴司査照して施行せられよ等の因あり。此を准けたり。  又冊封は事、大典に関われば、使を奉じて理として宜しく詳慎すべ く、謹んで管見を陳べ、仰いで叡裁を冀わんが事の為にす。  康煕二十二年六月初四日、総督部院姚の憲票を奉け、本年五月二十七 日、礼部の咨を准けたるに開すらく、主客清吏司案呈すらく、本部より 送れる礼科の抄出を奉じたるに、該本部、福建総督姚の題せる前事に題 覆するの内に開すらく、該臣等議し得たるに、査するに、琉球国王を冊 封するの正使牴林院検討汪、副使内閣弁事中書舎人林、如し琉球国進貢 の来使に遇わば、諞に在りて一同に前往し、来使胎し已に起身せば、仍 前議に照らして進貢の来使を俟ち一同に前往すべし等の因あり。題もて 行じて案に在り。  今、福建総督姚の疏内に既に称すらく、現に琉球国接封の来使は諞に 在る有り。其の船隻軍器等の項は、現に福防庁に行じて選弁して留り無 ければ、前来して応に汪等と琉球国接封来使をもって一同に遣発せしむ れば可なり等の因あり。康煕二十二年四月十六日題し、本月十八日、旨 を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵して抄出し部に到 り、司に送る。此を奉じて移咨して部院に到る。此を准け擬して合に就 行すべし。票を備えて司に仰じ、部文内の奉旨の事理に照依して、即便 に欽遵し、作速に琉球国接封の来使を遣発し、迅かに、正副使前往して 冊封施行するを期せしめよ、等の因あり。此を奉じて倶に経に遵行して 案に在り。  今、前因を准け、合に就ちに移覆すべし。此が為理として合に由を備 えて貴国に移咨す。事理に依らんことを請う。煩為わくば査照施行せら れよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王世子尚に咨す  康煕二十二年六月十一日   綸恩を恭接せんが事    咨す [三八二 中山王尚貞より聖祖あて、襲封を謝し、封使の勤労を彰らかにする旨の奏文]  琉球国中山王臣尚貞、謹んで奏して恭しく天恩に謝し、兼ねて封舟の 瑞応を陳べて以て叡懐を慰め、以て使節を彰らかにせんが事のためにす。  臣貞、弾丸小国にして海隅に僻処し、皇仁に感沐すること已に再世を 経たり。天恩を蒙りて、特に正使牴林院検討汪楫、副使内閣中書舎人加 一級林麟*を遣わし、詔勅、幣帛を齎捧して、臣貞を封じて琉球国中山 王と為す。臣、通国の臣民と恭しく香案を設け、叩頭して跪聴す。宣読 畢りて、又、皇上の特恩を蒙り、臣に御筆を賜う。煌々たる天牴、韜か に小邦に頒つ。栄光は天に燭す。特に臣、守藩の栄たるのみならず、即 ち奕世の光たり。  臣、前代の請封を歴査するに、遣使を恩准せらるると雖も、命を奉じ て以後、毎に遅れて三、四年に至って後、臣が国に臨む。甚だしきは十 余年にして後、臣が国に臨む者あり。前封の如きは、順治十一年使を遣 わすも、直だ康煕二年に至って始めて臣が国に臨む。使臣、汪楫・林麟 *の、朝に命を拝して夕に道に就き、且つ海疆多事の時に当たりて、風 を衝き険を冒して来るが若きは、従前未だ有らざる所なり。更に未だ見 ざるの瑞応あり。敢えて我が皇上の為に之を陳べずんばあらず。臣が国 は海東に僻在し、中国を去ること、道里を以て計るべからず。往者には 封舟開駕すれば、惟だ特だ西南風にして行き、中道に絶えて停泊の処 無し。故に二、三十日にして至る者これあり。月余の後に至るもこれあ り。甚だしきに至っては、水・米倶に尽き、更に言うべからざる者あ り。従りて未だ五虎門より開洋し、三昼夜にして小国に達する者あらざ るなり。臣、大夫・通事・舵工・装長を差有し、封舟の渡海を迎護せし む。親しく舟行を見るの際、万鳥篷を繞りて飛び、両魚舟を夾みて送 る。経過の処、恍として、夢寐の如く、已に琉球内の地に抵るを知らず。 通国の耆老臣民、これ、開闢以来未だあらざる所と以為わざるなし。啻 に天より降るのみならんや。これ皆、皇上の文徳功烈、天に格り神を感 ぜしめ、且つ御筆瓠に在るありて、此くの如きの瑞応ある所以なり。 臣、封を受けてより以後、颶風作らず、雨沢期に応じ、五殻収むるあ り。窮民食を得、臣が身も亦安泰を加う。これ皆皇上の恩賜なり。而し て両使臣の克く任使に副い、真に皇上の特簡に愧じず。臣以為に宜しく 史館に宣付して其の事を記載せしめ、以て盛朝の瑞応を彰らかにし、以 て皇上の実政を紀せしむべし。両使臣の成労の議叙に至りては、皇上、 自ら鑑裁あれば、臣の敢えて妄奏する所に非ざるを知る。但だ査する に、前封の使臣張学礼等、数年を以て渡海し、臣の奏請を経て、復職の 恩を加うるを蒙れば、則ち今日の両使臣の勤労茂著なれば、優に従いて 議叙し、以て臣工を励まさざるべからざる者に似たり。皇上頒つ所の詔 勅に至りては、臣、留めて伝国の宝となさんことを懇う。已経に両使 臣、前封の巻軸を査験し、臣に付して一并に珍蔵せしむ。理として合に 皇上に題明し、頒つ所の御筆は、臣が拳国瞻仰し、惟だ舞蹈懽忻して万 一にも仰酬すること能わざるあり。土産の物件を奉上して、少しく涓滴 の微忱を蔵ぶ。統て慈鑑せられんことを祈る。  此が為、具本して特に法司王舅毛国珍・紫金大夫王明佐・使者昌威・ 都通事會益等の官を差わし、齎奉して恩を謝せしむ。臣、激切募営の至 りに任うる無し。謹んで上奏して聞す。    為の字より起こし至字に至りて止む。七百九字、紙一張なり。  康煕二十二年十一月初二日 琉球国中山王臣尚貞謹んで上奏す     (再対して之を正す)  [注1夢寐 寝て夢を見る。 眠っている間。2成労 成功をいう。3議   叙 清代、吏部で功績ある官吏を詮衡して賞功の等級を定めるこ   と。] [三八三 中山王尚貞より聖祖あて、冊封正副使に謝礼として金を贈ることの許可を願う旨の奏文]  琉球国中山王臣尚貞、謹んで奏し、頒封の事竣り、懇いて旧礼を存 し、以て使臣を労わんが事のためにす。  康煕二十二年、欽差正使牴林院検討汪楫・副使内閣中書舎人加一級林 麟*の詔勅を捧頒し、臣が嗣封を允さるを蒙る。又、御筆を蒙る。山川 を輝煌し、物色を怱耀し、号令を更新し、これよりかれ始まる、これ誠 に天朝の殊恩にして臣貞の曠世の奇遇なり。窃に惟うに、皇上は覆載無 外にして弱小の邦を覃恩す。使臣風を衝き浪を破り、難険驚虞なること これより甚だしと為す莫し。使臣入国以来、供応を減免し、兵役を約束 し、国を挙げて感仰せざるはなし。愧ずる所は、臣が国は荒野にして、 以て敬を将むる無し。故に宴款の際、物に代えるに金を以てす。自ら菲 薄なるを知るといえども実に世々縁りて以て例となす。しかるに辱けな くも二使臣、しばしば辞し、往還すること再三、大義を堅持し、固く却 けて受けず。二使臣にありては、氷兢自ら矢うは、允なるかな。恥あり て聖朝の使節たるの光を辱めず。ただ念うに、二使臣、間関に労瘁し、 遠く万里の風涛を渉るは、実に臣が躬のためにするの故なり。物に藉り て敬を表するも、礼は儀をもってせざれば、心は窃かに安んじがたし。  行に臨むの時に至り、復た屡ば宴するの前金をもって、特に法司・大 夫・長史等の官を差わし、専ら送り懇ろに受けしめんとす。意わざり き、二使臣、復た遣わして送還せり。清白の操、始終間なきと謂うべ し。独り是れ微臣、徳に酬え功に報いんとするも、万一を展るなし。殊 に旧礼欠くるありて、微敬も伸ぶるなきを慚ず。謹んで送還せる屡次の 宴金二封、共計するに一百九十二両をもって、具本して、謝恩官法司王 舅毛国珍・紫金大夫王明佐等に附遣し、順齎して奏聞せしめ、懇乞わく ば聖恩もて勅を二使臣に収受するを賜れば、臣貞、惶恐激切の至りに勝 えず。謹んで上奏して聞す。    為の字より起こし至字に至りて止む。三百七十五字、紙一張なり。  康煕二十二年十一月初二日、琉球国中山王臣尚貞謹んで上奏す  [注1覆載 天地・乾坤のこと。2間関 道が険しい。人が旅するに艱   難辛苦する。] [三八四 中山王尚貞より礼部あて、冊封の謝恩のために使節を派遣し品物を送る旨の咨文]  琉球国中山王尚貞、天恩を謝せんが事のためにす。  窃かに照らすに、敝国は遠く海陬に属するも、欽差正使牴林院検討汪 楫・副使内閣中書舎人加一級林麟*、勅諭・幣帛を齎捧し、員役を帯随 し、海船二隻に坐駕し、本年六月に本国に到るを荷蒙す。旧例に照依し て文武百官等、勅諭を天使館中に奉迎せり。八月初六日、先ず先父王の 諭祭を蒙り、続いで八月十二日に於いて勅詔を宣読し、貞を封じて中山 王となし、御書・蟒緞等の項、ならびに妃に綵緞等物を荷授せらる。百 官を率領して拝舞し、北向して叩頭し、天恩を謝するの外、随で天使に 請いて勅詔を懇留し、伝国の宝となさんとす。天使、前封の巻軸を査験 し、依りて留めることを聴許せらるるを蒙る。窃かに惟うに聖朝の意を 加えて撫柔するは覆載と同しきあり。臣貞、恩を荷ること殊に甚だし。 胸ありて心無きと雖も、曷ぞ感激を忘れんや。  此がため、謹んで法司王舅毛国珍・紫金大夫王明佐・使者昌威・都通 事曾益等の官を遣わし、表本を齎捧し、官伴水吮を率領し、海船一隻に 坐駕し、土産の糸線穿鉄甲一領、鍍金護手護*各全、鉄*一頂、金*鞘 腰刀二把、銀*鞘腰刀二把、黒漆*鞘鍍金銅結束腰刀二十把、黒漆*鞘 鍍金銅結束鎗一十把、黒漆*鞘鍍金銅結束笆刀一十把、黒漆洒金馬鞍一 坐、轡頭**前後牽軸各項件全、金彩画募風二対、金面扇一百把、銀面 扇二百把、水墨画扇二百把、土糸綿二百束、蕉布二百疋、紋蕉布一百 疋、土苧布一百疋、胡椒五百簧、紅銅五百簧を装載するの外、遠く御書 を頒たれ、以て世々薄海を守るの波臣を励ます。栄荷すでに極まる。但 だ自ら僻陋の小邦にして、万分の一も報いるなきを愧ず。只、聖朝万祀 にして侑れるなきを願うのみ。特に金鶴形一対等の物を加え、前来して 京に赴き、天恩を謝せしむ等の情あり。伏して乞うらくは、微忱を俯鑑 せられ、転じて具して題請せらるれば、下情以て上達するを得て、海邦 永く撫綏を戴くに庶からん。煩乞わくば貴部にて査察施行せられよ。須 く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す。  康煕二十二年十一月初二日 (再対して之を正す)  [注1薄海 四海、天下のこと。] [三八五 礼部より中山王尚貞あて、進貢物を査収し欽賞物を頒賜する旨の咨文]  礼部、知会せんが事のためにす。照し得たるに、琉球国中山王、耳目 官毛文祥等を差わし、表を具して方物を進貢し、部に到る。本部、例に 照らして具題して査収せり。所有の欽賞の礼物は特に勅諭一道を頒ち、 相応に知会す。此が為、まさに咨して前去しむ。煩為わくば査照施行せ られよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十二年十一月初五日   咨す [三八六 福建布政使司より中山王尚貞あて、謝恩使の入京を許可する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、天恩を謝せんが事のためにす。  琉球国中山王尚(貞)の咨を案准したるに開すらく、窃かに照らすに敝 国は遠く海陬に属す。欽差正使牴林院検討汪楫・副使内閣中書舎人加一 級林麟*、勅諭・幣帛を齎捧し、員役を帯随し、海船二隻に坐駕して、 本年六月本国に到るを荷蒙す。旧例に照依して文武百官等、勅諭を天使 館中に奉迎す。八月初六日、先ず先父王を諭祭し、続いで八月十二日に 勅詔を宣読し、貞を封じて中山王と為すを蒙る。(貞に)御書・蟒緞等 の項、ならびに妃に綵緞等の物を荷授せらる。百官を率領して拝舞し、 北向して叩頭し天恩を謝するの外、随で天使に請いて勅詔を懇留し、伝 国の宝となさんとす。天使、前封の巻軸を査験し、依りて留めて聴許せ らるるを蒙る。窃かに惟うに聖朝、意を加えて撫柔するは、覆載と同じ きあり。臣貞、恩を荷ること殊に甚だし。胸ありて心無きと雖も、曷ぞ 感激を忘れんや。  此が為、謹んで法司王舅毛国珍・紫金大夫王明佐・使者昌威・都通事 曾益等の官を遣わし、表本を齎捧し、官伴水吮を率領し、海船一隻に坐 駕して、土産の糸線穿鉄甲一領、鍍金護手護*各全、鉄*一頂、金*賁 腰刀二把、銀*賁腰刀二把、黒漆*賁鍍金銅結束腰刀二十把、黒漆*賁 鍍金銅結束鎗一十把、黒漆*賁鍍金銅結束笆刀一十把、黒漆洒金馬鞍一 坐、轡頭**前後牽軸各項件全、金彩画募風二対、金面扇一百把、銀面扇 二百把、水墨画扇二百把、土糸綿二百束、蕉布二百疋、紋蕉布一百疋、 土苧布一百疋、胡椒五百簧、紅銅五百簧を装載するの外、遠く御書を頒 ちて、以て世々薄海を守るの波臣を励ます。栄荷すでに極まる。ただ、 自ら僻陋の小邦にして、万分の一も報いるなきを愧ず。ただ、聖朝万祀 にして侑れる無きを願うのみ。特に金鶴形一対等の物を加え、前来して 京に赴き、天恩を謝せしむ等の情あり。伏して乞うらくは、転じて具題 せられんことを。其れ差わせる法司・大夫・使者・都通事等の官は起送 して京に往かしめ、其の船は夏蚤媼に及びて発回せしむれば、下国の寸 忱、以て少しく尽くすを得、海国永く恩施を戴くに庶からん。煩乞わく ば貴司にて査照施行せられよ、等の因あり。此を准けたり。  又、冊封は事、大典に関われば、使を奉じ、理として宜しく詳慎すべ く、謹んで管見を陳べ、仰いで叡裁を冀わんが事の為にす。康煕二十三 年四月十六日、巡撫部院金(蠍)の憲牌を奉けたるに、本年四月初十日 礼部の咨を准けたるに、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の 抄出を奉けたるに、該本部、福建巡撫金の題せる前事に題覆するの内に 開すらく、該臣等、議し得たるに、福建巡撫金の疏に称すらく、琉球国 中山王尚貞、法司王舅毛国珍等を差わし、表章・方物を齎捧して前来し て恩を謝す。例として応に其の親から闕廷に赴きて恭しく進呈を候つを 聴すべし、等の語あり。相応に其の例に照らして京に進むを准し、命の 下るの日を俟ちて該撫に移咨し遵行せしむれば可なり、等の因あり。  康煕二十三年三月初五日、旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよ や、とあり。欽遵して抄出し部に到り、司に送る。此を奉け、相応に移 咨すべし。此が為合に咨して前去しむ。煩為わくば旨内の事理に査照 し、欽遵して施行せられよ、等の因あり。部院に到る。此を准け、擬し て合に就ちに行うべし。牌を備えて司に行じ、備に咨文の奉旨内の事理 に照らし、即便に欽遵査照し、違う毋れ、等の因あり。此を奉け、遵行 して案に在り。今、前因を准け、合に就ちに移覆すべし。此が為、由を 備えて貴国に移咨し、事理に依らんことを請う。煩為わくば査照施行せ られよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十三年五月二十九日   天恩を謝する事    咨す  [注1巡撫部院金 金蠍。康煕二十二(一六八三)〜同二十五年の間、   福建巡撫任職。] [三八七 礼部より中山王尚貞あて、謝恩の礼物の受領と欽賜の礼物を頒賜する旨の咨文]  礼部、知会せんが事のためにす。照し得たるに、琉球国中山王、法司 王舅毛国珍等を差わし、表を齎らし恭しく冊封の謝恩の礼物を進め部に 到る。本部、例に照らして具題し総管内務府に交送して査収し訖れり。 所有欽賜の礼物は特に勅諭一道を頒ち、相応に該国王に知会せしむれば 可なり、等の因、堂に呈す。批を奉けたるに、咨に照らして司に送れ、 とあり。此を奉けたれば、相応に移咨すべし。此が為、合に咨もて前去 せしむ。煩為わくば査照施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十三年八月二十二日   咨す [三八八 礼部より中山王尚貞あて、頒賞の緞疋を加賜することについての咨文]  礼部、頒賞せんが事のためにす。主客清吏司案呈すらく、本部より送 れる礼科の抄出を奉じたるに、該本部の題せる前事等の因あり。康煕二 十三年七月二十三日題し、八月初四日旨を奉じたるに、琉球国王の誠 謹、嘉すべし、ここに賞を議すになお軽し、着して再び議して具奏せ よ、此を欽めよや、とあり。欽遵して本月初五日に於いて、部に到る。 該臣等、再び議し得たるに、琉球国中山王尚貞、先に賞を議すに、蟒緞、 青藍綵緞、藍素緞、衣素閃緞、錦細羅紗共二十疋なり。今、応に粧緞二 疋、倭緞二疋、帽緞二疋、青藍綵緞四疋を加えて共に三十疋を賞給すべ し。其れ賞賜せる緞疋の数目は内閣勅内に撰入し来使に交付して帯去せ しめ、余はなお前議に照らせば可なり、等の因あり。  康煕二十三年八月初十日題し、本月十三日旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよや、とあり。欽遵して抄出し部に到り、司に送る。此を 奉けたれば、相応に移咨すべし。此が為、合に咨して前去せしむ。煩為 わくば旨内の事理に査照して欽遵して施行せられよ。須く咨に至るべき 者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十三年八月二十二日   咨す [三八九 礼部より中山王尚貞あて、冊封正副使臣に宴金の受領を許可した旨の咨文]  礼部、頒封の事竣り、懇ろに旧礼を存し、以て使臣を労わんが事のた めにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、琉 球国中山王尚貞の奏せる前事等の因あり。康煕二十二年十一月初二日奏 し、康煕二十三年七月七日、旨を奉じたるに、該部議奏せよ、此を欽 めよや、とあり。欽遵して、本月十八日部に到る。該臣等、議し得たる に、琉球国王尚貞の疏に称すらく、冊封使臣汪楫・林麟*、間関して労 瘁し、遠く万里の風涛を渉るは実に臣が躬の為にするの故なり。物に藉 りて敬を表するも、礼は儀をもってせざれば、心は窃に安んじ難し。行 に臨むの時に至り、復たしばしば宴するの前金をもって、特に法司・大 夫・長史等の官を差わし、専ら送り、懇ろに受けしめんとす。意わざり き二使臣、復た遣わして送還せり。清白の操、始終間なきと謂うべし。 謹んで送還せる屡次の宴金二封、共計するに一百九十二両をもって、具 本して謝恩官法司王舅毛国珍、紫金大夫王明佐等に附遺し、順齎して奏 聞す。懇乞すらくは聖恩もて二使臣に勅賜して収受せしめられよ、等の 語あり。  査するに康煕三年、張学礼・王垓、琉球国王を冊封するを為す。該王 の送与せる布各五十疋、扇各五十把、煙各五十匣、小刀各十把は倶に小 物に係れば已経に収受するも、其れ金は臣が部に退回せり。因りて布疋 等の物は既経に収受するも、其れ金は収受を議准するに便ならず、等の 因あり。具題して旨を奉じたるに、この琉球国与うる所の宴金は仍使臣 に着して収受せしめよ、等の因あり。欽遵して案に在り。臣が部、随で 汪楫・林麟*に、宴金を除くの外、別に餽物の有りや否やを問う。該王 の送りたる蕉布各五十疋、小刀各十把、扇各五十把、煙各五十匣は小物 に係るに因り、倶に経に収受せり。其れ宴金は退回せり、等の語あり。 布疋等の物は既経に収め訖れるも、其の金は仍収受を議准するに便なら ず、等の因あり。康煕二十三年□月二十六日題し、八月初七日旨を奉じ たるに、この琉球国与うる所の宴金は、仍使臣に着して収受せしめよ、 此を欽めよや、とあり。欽遵して抄出し部に到り、司に送る。此を奉け たれば、相応に移咨すべし。此が為、合に咨して前去しむ。煩為わくは 旨内の事理に査照して欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十三年八月二十二日   咨す [三九〇 礼部より中山王尚貞あて、官生派遣について許可する旨の咨文]  礼部、恭しく遠人向化の誠を述べ、就学を賜り、以て文教を広めんこ とを請わんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、差わされて回りたる琉球国王を冊封せる正使牴林院検討汪楫等の 題せる前事に題覆す等の因あり。旨を奉じたるに、該部議奏せよ、此を 欽めよや、とあり。欽遵して抄出し、部に到る。該臣等、欽んで惟う に、皇上の聖徳誕いに敷き仁風翔洽し、宸章・御藻もて遐陬を光被せら れ、海内外に薄るまで、嚮化輸誠し、欣んで文教を承けざるはなし。  茲に琉球国王を冊封せるの使臣牴林院検討汪楫・内閣中書林麟*、疏 して称すらく、事竣りて将に旋らんとするに、中山王尚貞、親ら館舎に 詣り、陪臣をして詞を致せしめて言く、下国、弾丸に僻処し、常に鄙陋 にして、経を執るに地無きを慚ずるも、嚮学に心有り。稽うるに、明の 洪武・永楽年間、嘗て本国の生徒を遣わし国子監に入りて読書せしむ。 今、願わくば、陪臣の子弟四人をして京に赴き業を受けしめられんこと を、等の語あり。これを史冊に考するに、唐の貞観中、学校を興し、新 羅・百済・倶に子を遣わし入学せしむ。琉球国は明初に始めて内附し、 会典に、大琉球国は不時に朝貢し、王子および陪臣の子、皆、太学に入 りて読書す、礼待甚だ厚し、と載す。又、洪武・永楽・宣徳・成化の 間、琉球の官生、倶に監に入りて読書す、と載す。今、該国王尚貞、本 国(琉球)は遠く皇仁を被り、心を嚮学に傾くるを以て、懇ろに使臣汪 楫等をして転奏せしめんことを祈る。願わくは陪臣の子弟四人をして京 に赴き業を受けしめられんことを、と。応に請う所を准し、其の陪臣の 子弟を遣わし入監読書するを聴さば、応に行うべきの事宜は、到るの日 を俟ちて再び議して題請すれば可ならん、等の因あり。  康煕二十三年六月初八日題し、本月十三日、旨を奉じたるに、議に依 れ、此を欽めよや、とあり。欽遵して抄出し部に到り司に送る。此を奉 け、相応に移咨すべし。此が為、合に咨して前去しむ。煩為わくば旨 内の事理に査照して、欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十三年八月二十二日  [注1翔洽 広くゆきわたる。2宸章・御藻 ともに天子が書いた文   章。3嚮化輸誠 化にむかい誠をいたす。4経を執るに地無き 執   経無地、勉強しようとしても師がない、学ぶところがないの意か。  ※本項は琉球の官生の派遣要請に対する許可である。官生は明代の一   五八〇年(尚永冊封後)以後、島津侵入、明清交代と続き、清代と   なっても三藩の乱などのため長く中断していた。本項での許可によ   り、二年後の一六八五年、百余年ぶりに復活することとなる。] [三九一 礼部より中山王尚貞あて、尚貞の申請通り冊封正副使の労をねぎらって優に従いて議叙した旨の咨文]  礼部、恭しく天恩を謝し、兼ねて封舟の瑞応を陳べ、以て叡懐を慰 め、以て使節を彰せんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、琉球国中山王尚貞の奏せる前事に題覆す、等の因あり、康煕二十 二年十一月初二日奏し、康煕二十三年七月十七日、旨を奉じたるに、該 部議奏せよ、此を欽めよや、とあり。欽遵して本月十八日に於いて部に 到る。貢物は別に議して具題するを除くの外、案査したるに、琉球国王 を冊封するに前に遣わせる張学礼・王垓等は、滞諞すること日久しきの 情由に因り、倶に撤回して革職せらる。康煕元年、旨を奉じたるに、張学 礼・王垓は仍着して原官に復して同に往かしめ、事成りて回るの日、原 任を以て用う。如し事成らざれば重に従って議処せよ。此を欽めよや、 とあり。欽遵す。康煕三年、冊封の事成りて回るに至って、該国王、張 学礼等をもって倶に優に従って叙せられんことを奏請して前来す。臣が 部、具題し吏部に交送して案に在り。  該臣等、議し得たるに、琉球国中山王尚貞奏称すらく、使臣汪楫・林 麟*、五虎門より開洋し、三昼夜にして小国に達せり。臣、大夫・通事・ 舵工・装長を差有し、封舟の渡海を迎護せしむ。親しく舟行を見るの 際、万鳥篷を繞りて飛び、両魚舟を夾みて送る。これ皆皇上の文徳功烈、 天に格り神を感ぜしめ、且に御筆船に在る有れば、此の如き瑞応ある所 以なり。而して両使臣の克く任使に副い、真に聖上の特簡に愧じず。臣 以為らく、宜しく史館に宣付し、其の事を記載せしめ、以て盛朝の瑞応 を彰らかにし、以て皇上の実政を紀せしむべし、と。前封の使臣張学礼 等、数年を以て渡海するも、臣が奏請を経て、復職の恩を加えられるを 蒙る。則ち、今日の使臣、勤労茂著なれば、優に従って議叙せざる べからざるに似たり、等の語あり。査するに使臣汪楫等、五虎門より開 洋し、三昼夜にして即ち琉球に抵る。実に皇上の徳沢は遠く敷き、恩は 殊域に翔び、御書もて頒発せられ、海邦を光被せらるるを荷る。故に神 祗の庇祐は、著しく瑞応あり。允に宜しくこれを史冊に載せて無窮に垂 示すべし。又査するに、前使臣張学礼等、革職の官に係るに縁って、曾 て吏部に交し、議して原任に復せしむ。今、汪楫・林麟*は張学礼等の 比すべきにあらず。其れ議叙を奏請するの処は、議を庸うる無し。  又奏称すらく、皇上頒つ所の詔勅は、臣、留めて伝国の宝と為さんこ とを懇う。已経に両使臣、前封の巻軸を査験し、臣に付して一併に珍蔵 せしむ。理として合に題明すべし、等の語あり。査するに康煕三年、琉 球国王尚質を冊封す。該国王、頒つ所の勅諭をもって留めて伝国の宝と 為さんことを請う。臣が部具題し、留めることを准す。今、該国王尚 貞、皇上頒つ所の詔勅を留めて伝国の宝と為さんことを奏請して前来 す。相応に其の請う所の如くすれば可なるべきなり、等の因あり。康煕 二十三年七月二十六日題し、八月初七日、旨を奉じたるに、汪楫等、使 を琉球に奉じ、往回甚だ速し。黽勉職を尽くすは嘉すべし。吏部に着し て議叙具奏せしめよ、余は議に依れ、此を欽めよや、とあり。欽遵して 抄出し部に到り、司に送る。此を奉け、相応に移咨すべし。此が為合に 咨して前去しむ。煩為わくば旨内の事理に査照して欽遵施行せられよ。 須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十三年八月二十二日   咨す  [注1黽勉 つとめはげむ。] [三九二 礼部より中山王尚貞あて、中国漂流民の収養・送還に関する朝鮮国への賞賜の事例もて、琉球等へも適用する旨の咨文]  礼部、漂海人口を解送せんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該 本部、朝鮮国王李怫の咨せる前事に題覆す、等の因あり。旨を奉じたる に、海禁已に開かる、この漂失せる船隻・民人は、着して原籍に発回せ しめ、其の解送して来たる人は、応に奨賞を行うべし。爾が部、兵部と 会同して議奏せよ。此を欽めよや、とあり。該臣等会議し得たるに、朝 鮮国の解到せる漂海の山東登州府磴磚県の民張文学等三人は、旨に遵っ て原籍に発回せり。応に兵部の逓送するを聴すべし。其れ海禁已に開か るれば、各省の民人の海上貿易に行走する者甚だ多し。応に浜海の外国 の王等に移文し、各々該管地方に飭して、凡そ船隻の漂至する者あれ ば、収養解送せしむべし。査するに此より前、朝鮮国、漂海せる人口を 解送して来たる者、官には銀三十両を賞し、小通事には銀八両を賞し、 従人には銀各八両を賞す。戸部より移取して賞賜し、礼部より恩宴する こと一次なり。嗣後、外国如し漂失せる船隻・人口を解到するあれば、 此の例に照らして賞賜して、恩宴して遣還す。其れ彼の処にて漂失せる 船隻・人口を収養せる人は、応に該国王をして奨励賞賜せしめ、命の下 るの日を俟ちて、朝鮮国に行する所の咨文を将て来員に与えて帯回せし め、琉球等の国に行する所の咨文は、該国進貢して来たる時を俟ちて来 使をして帯回せしむ。現今、朝鮮国より差来の副司猛尹之徽、小通事一 名、従人十一名は、共に銀八十二両を賞す。戸部に於いて移取して賞賜 し、礼部にて恩宴すること一次にて、回せしむれば可なるべし、等の因 あり。康煕二十三年三月二十八日題し、四月初三日旨を奉じたるに、議 に依れ、此を欽めよや、とあり。欽遵して抄出し部に到り司に送る。此 を奉け、相応に移咨すべし。此が為、合に咨して前去せしむ。煩為わく は旨内の事理に査照して欽遵施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉流国中山王に咨す  康煕二十三年八月二十二日   咨す   [注1李怫 李氏朝鮮十九代の王、粛宗。在位一六七四〜一七二〇年。  ※本項は、中国漂流民の収養・送還についての賞賜規定であり。朝鮮   の事例をもって、浜海の国々に通達したものである。なお中国の海   禁政策は、倭冦対策もあって、明代には多少弛むことはあってもほ   ぼ一貫して行励された。清朝も、当初、南明や鄭成功らの活動を押   さえるため厳重な海禁策をとったが、鄭氏降伏後の康煕二十三年   (一六八四)、本項に見るように禁が解かれれた。しかし、乾隆二十   二年(一七五七)以後、再び海禁政策に転じている。] [三九三 中山王尚貞より礼部あて、加進方物を免除せらるるにつき、規定通り進貢することについての咨文]  琉球国中山王尚貞、進貢の事のためにす。窃かに照らすに、敝国は要 荒に僻処し、聖恩を荷蒙すること加うるありて已むなし。頂踵を竭すと 雖も、能く万一に図報するなし。唯だ入貢の年には躬ら所属を率いて、 虔んで方物を修め、韜かに天顔を望み、頂祝して嵩呼するのみ。十九年 の貢期、末員毛見竜等、齎す所の方物に至っては、彼の時、皇上の其の 糸煙・馬匹を免ぜらるるを蒙り、臣、惶恐して地なし。仰希むらくは、 愚衷を叡照鑑納せられんことを。又、天威厳重にして罪戻を致すを懼 る。二十一年の貢期に及び、使者毛文祥等、再び不腆の方物を齎し、謹 んで正貢の外に復た紙布等の物を加う。又、皇上の恩免を蒙り、勅令も て以後の進貢は止だ旧額に依らしめらる。天語煌煌として再た至る。臣 愧懼するの下、敢えて冒陳せず。前歳の聖諭に稟遵し、三十六島に通行 して皇上の万国を柔服し、異物を貴ばざるを知らしむ。  茲に貢期に当たり、謹んで惓熟硫黄一万二千六百簧・海螺殻三千個・ 紅銅三千簧等の物を齎し進上す。合行官を遣わして管解せしむべし。  此が為、特に耳目官呉世俊・正議大夫鄭永安・都通事鄭明良を遣わ し、水吮を率領し、海瓠二隻に坐駕し、毎瓠の均*せる上下の員役は共 に二百員名に盈たず。方物を解運し、前みて福建等処承宣布政使司に赴 きて投納し、京に赴き進奉するの外、理として合に貴部に移咨すべし。 伏して乞うらくは微忱を俯鑑し、転じて具して題請せらるれば、下情以 て上達するを得て、海邦永く撫綏を戴くに庶からん。煩乞わくは、貴部 にて査照施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  康煕二十三年十一月二十五日行す  [注1呉世俊 首里向氏小禄家の六世(仲田家初代)。仲田朝親方重。?   〜一七〇二年。後の向世俊。一六九六〜一七〇二年の間、三司官任   職。] [三九四 福建布政使司より中山王尚貞あて、進貢物の受領と要請通り使者を帰国せしむる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢せんが事のためにす。   琉球国中山王尚(貞)の咨を准けたるに開すらく、窃かに照らすに、敝 国は要荒に僻処し、聖恩を荷蒙すること加うるありて已むなし。頂踵を 竭すと雖も能く万一に図報するなし。唯だ入貢の年には、躬ら所属を率 いて、虔んで方物を修め、韜かに天顔を望み、頂祝して嵩呼するのみ。  十九年の貢期、末員毛見竜等の齎す所の方物に至っては、彼の時、皇 上の其の糸煙・馬匹を免ぜらるるを蒙り、臣、惶恐して地なし。仰希す らくは、叡照もて愚衷を鑑納せられんことを。又、天威厳重にして罪戻 を致すを懼る。  二十一年の貢期に及び、使者毛文祥等、再び不腆の方物を齎し、謹ん で正貢の外に復た紙布等の物を加う。又、皇上の恩免を蒙り、勅令もて 以後の進貢は止だ旧額に依らしめらる。天語煌々として再た至る。臣愧 懼するの下、敢えて冒陳せず。前歳の聖諭に稟遵し、三十六島に通行し て、皇上の万国を柔遠し、異物を貴ばざるを知らしむ。  茲に貢期に当たり、謹んで惓熟硫黄一万二千六百簧・海螺殻三千個・ 紅銅三千簧等の物を齎して進上す。合行官を遣わし管解せしむべし。  此が為、特に耳目官呉世俊・正議大夫鄭永安・都通事鄭明良を遣わ し、水稍を率領し、海船二隻に坐駕し、毎船の均*せる上下の員役は共 に二百員名に盈たず。方物を解運し、前みて福建布政使司に赴きて投納 し、京に赴き上進して聖禧を伸祝せしむ。京に進むの官伴及び存留して 駅に在るの官伴に至っては、例として下次の船来る在れば帰国せしむ。 所有の現に両船に在るの使者等の官もて先に帰せしむるの一例は、業経 に前撫呉、具題し、部議もて、一面は摘回せよとの兪旨を奉有す。欽遵 して案に在り。礼部に咨するを除くの外、理として合に貴司に移咨すべ し。煩為わくば査照して施行せられよ、等の因あり。  此を准け案照したるに、又、稟報せんが事の為にす。康煕二十四年五 月二十七日、巡撫部院金の憲牌を奉けたるに、礼部の咨を准けたるに、 主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該本 部、福建巡撫金の題せる前事に題覆するの内に開すらく、該臣等議し得 たるに、福建巡撫金の疏に称すらく、琉球国中山王尚、耳目官呉世俊等 を遣わし、恭しく朝貢の方物を進めて進港す。臣、貢物・人数を行査せ しむるに、該国の印信執照と相符す。倶に駅に発りて安挿して宴待す。 別に委官に行じて同に齎して進呈す。并びに彼の国の咨に拠るに、余す 所の員役は仍原船に坐し、摘発して先に回らしめんことを請うとあれ ば、統て部議に聴う、等の語あり。  今、琉球国の進貢の来使呉世俊等の官三員、跟伴十七名は、応に例に 照らして其の京に赴くを准す。其の進貢せる硫黄一万二千六百簧は福建 督撫の処に収貯し、臣が部、工部に移文するを聴ちて、応に用うべき処 に于て使用せしめ、諞に留まるの官一員、跟伴十五名は存留するを除く の外、其の摘回せる員役、共に一百五十六名は、仍応に原船に坐して先 に発回を行うを准して可なり、等の因あり。康煕二十四年四月二十七日 題し、本月二十九日旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよや、とあり。 欽遵して抄出し部に到り司に送る。此を奉け相応に移咨すべし。此が 為、合に咨して前去せしむ。煩為わくは旨内の事理に査照して欽遵施行 せられよ、等の因あり。部院に到る。此を准け擬して合に就ちに行うべ し。此が為、牌を備えて司に行り、備に咨文の奉旨内の事理に照らし、即 便に査照して、硫黄を将て数に照らして収貯し、工部に移文をするを聴 候て、取用せしむ。其れ来使の官伴は、進京・留諞を除くの外、摘回せ る員役一百五十六名は、原船に坐して発回するを准す。仍起行回国の日 期を将て、速やかに報じて具題し、均しく違忽する毋れ、等の因あり。 此を奉けたり。  又、前事の為にす。総督部院王の憲牌を奉けたるに、礼部の咨を准け たるに、行すること前因に同じ。司に到る。此を奉け本司、部文を遵奉 し、即ちに福防庁に行りて、遵照して遣発回国せしむ。并びに上次の京 に赴き恩を謝して諞に回るの官伴、存留して駅に在るの官伴は、一同に 例に照らして遣回し、開駕出洋の日期を取りて詳報し去後り。合に就ち 移覆すべし。此が為、由を備えて貴国に移咨す。煩わくは査照して施行 せられんことを請う。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十四年六月初六日   咨す [三九五 中山王尚貞より福建布政使司あて、進貢使節を接回するための使船派遣についての咨文]  琉球国中山王尚貞、進貢官員を接回せんが事のためにす。  照し得たるに、康煕二十三年十一月二十五日、会典に欽遵して、特に 耳目官呉世俊、正議大夫鄭永安、都通事鄭明良等を遣わし、彝吮を率領 し、海船二隻に坐駕して、方物を装載し、表を齎し貢を進む。合行貴司 に移咨すれば起送して京に進め聖禧を叩祝せしむ。京に進むの官伴及び 存留して轣に在るの官伴を除き、その余の員役は謝恩使臣毛国珍等の員 伴と与に本年七月内方に見に回国せり。且つ、京に進むの呉世俊、鄭永 安等は京より回りて諞に滞まれば、虚しく天朝の廩給を費すを恐る。 臣、敝国に在りて愚衷を効順すも実に苟安し難し。旧例に遵依して、今 特に都通事金元達、使者呉輝之等を遣わし、彝吮共に八十一員名を率領 して、海船一隻に坐駕し、前来して接回せしむ。伏して乞うらくは、貴 司、鴻恩もて酌議し、即ちに料理して来夏の蚤媼に速やかに帰国を賜れ ば、下貢期を愆つの罪戻を免がるるに庶からん。  此がために理として合に貴司に移咨すれば知会せられよ。煩為わくば 察照して施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕二十四年十一月十二日 発る  [注1呉輝之 後の向輝之。向氏の出。名嘉地親雲上朝記。生没年等不   詳。] [三九六 礼部より中山王尚貞あて、海外政策に関する諸規程の通達についての咨文]  礼部、海を開きて貿易するも未だ事宜を尽くさざるを題明し、仰いで 叡鑑を祈らんが事のためにす。  主客清吏司案呈すらく。本部より送れる御前にて発下せる紅本を奉じ たるに、該本部等の衙門密かに福建総督王国安の密題せる前事に題覆す るの内に開すらく、該臣看得したるに、貢船は定例ありて三隻を過ぎず、 人は一百五十名を過ぎず。自ら来りて貿易するは応に進貢の人船の数 目に照らして其の貿易を准すべし。部より文を行りて諸国に知照せし め、皇仁を宣布して其をして一体に遵奉せしめられんことを請う。其の 貿易の番船国に回るのとき、内地人口を搭載するを許さず。如し番貨あ りて一時に貿易して未だ完せざることあれば、止だ暫く数名を留めて後 次の船の到るを俟ちて即ちに回国せしむるを許すのみ。内地の飄洋せる 船隻に至りては、如し難を避けて外番に流落するに遇い、船に附して回 籍せんことを情願すれば、良民は其れ故土に帰還するを聴す。其れ一応 禁物の外、恐らくは造船の大木、釘、鉄、油、睨等の物をもって潜かに 海外に運び、或いは糧米をもって販出して積聚すれば、応に厳禁せんこ とを請うべし。又、内地の商民の船隻、汪洋を渉歴すれば応に械数件を 帯びて以て防護に資するを准すべし。各省の飄洋せる船隻繁多なれば、 恐らくは外番に至りて劫せられん。合に一併に荷蘭等の国に知照し、各 々をして厳禁せしめんことを請う、等の因あり。康煕二十四年八月二十 日密題し、九月十二日旨を奉じたるに、該部議奏せよ、此をして欽めよ や、とあり。欽遵して密封して部に到る。  査するに定例には、凡そ外国の進貢は、船三を過ぎず、人百を過ぎ ず。惟だ琉球国進貢の人数のみは多くも百五十人を過ぎず。凡そ外国進 貢の人員は、史書、玄・黄・紫・*・大花の西番蓮緞疋、焔硝、水牛角、 一応兵器等の物を収買するを許さず等の語あり。  又、査するに康煕六年、荷蘭国貢を進めて来るの時、貿易を懇請す 等の因あり。具題して旨を奉じたるに、這に食物を買うを許せ。該督撫 に着して、親看して来たる所の人口を酌量し、止だ路上にて食米を買う を許し、如し妄行に別項の物を多買せしむれば、事発るの時、重きに従 いて治罪せよ、とあり。欽遵して案に在り。  該臣等会議し得たるに、福建総督王国安の疏に称すらく、外国の貢船 は、定例には三隻を過ぎず、人は一百五十名を過ぎず。其れ自ら来り て貿易するは応に進貢の人船の数目に照らして其の貿易を准すべし。其 の貿易の番船国に回るのとき、内地人口を搭載するを許さず。内地の飄 洋せる船隻に至りては、如し難を避けて外番に流落するに遇い、船に附 して回籍せんことを情願すれば、良民は其れ故土に帰還するを聴す。其 れ一応禁物の外、恐らくは造船の大木、釘、鉄、油、睨等の物をもって 潜かに海外に運び、或いは糧米をもって販出して積聚すれば、均しく未 だ定むべからず。嗣後海外の諸番、創始めて諞由り進貢する者有れば、 表文・方物等の項を査明して悉く琉球国の歴貢の成例に照らして、其の 入貢を准す。其の貿易の船隻、恐らくは外番に至りて彼の劫掠を被るや も、亦未だ定むべからず。合に一併に荷蘭等の国に知照して、各々をし て厳禁せしめんことを請う、等の語あり。今後、外国より自ら来りて貿 易するの船隻・人数は、応に各々各国進貢の人船の数目に照らして貿易 せしむべし。貿易畢りて回るの時、該督撫、賢能の官員を艾委して、一 応禁物併びに人口、造船の大木、釘、鉄、油、睨等の物をもって、細さ に厳査を加え、私行かに夾帯するを許さず。其れ糧米は人口を酌量して 帯去せしむ。内地人口、如し難を避けて外国に流落するに遇い、船に附 して回籍せんことを情願すれば、良民は其れ故土に帰還するを聴し、帯 回の日、該地方官に具報すれば査明して原籍に還すを准す。其れ海外の 諸国、皇仁を仰戴して化に向い創始めて進貢する者あれば、該督撫、表 文・方物等の項を査明して具題し、到るの日、再び議せよ。其の劫掠を 致すを恐れて厳禁するの処は、応に礼部をして外国王等に知照せしめ、 各々をして厳禁せしめ、其の行する所の文は該督撫に移咨し、順便を俟 ちて転発せしむ。  又疏に称すらく、番貨一時に貿易して未だ完せざれば、止だ暫く数名 を留め、後次の船の到るを俟ちて即ちに回国せしむるを許すのみ。又、 各省の飄洋せる船隻繁多なれば、恐らくは外番に至りて劫せらるるや も、亦未だ定むべからず。内地の貿易の商民は応に小砲、牌刀、鎗、箭 等の械数件を帯びて以て防護に資するを准すべし。其れ進貢船隻の国に 回るのとき、帯去する貨物は内地に在りて置買するに係れば応に例に照 らして収税すべきに似たり等の語あり。今、若し外国の人員をして久し く内地に留めしむれば、恐らくは妄行あるやも亦未だ定むべからず。番 船の貿易の人は仍応に貿易完るの日を候ちて、一併に回還せしむべし。 兵器に至りては向来厳禁なれば売給して外国に帯往するを許さず。其の 小砲・牌刀・鎗・箭等の械にして応に帯ぶべきの数件の処も准行せず。  又査するに、先に経に礼部、戸部と会同して会議して具題し、外国の 進貢の定数は船三隻にして内船上帯ぶる所の貨物は其の収税を停む等の 因あり。具題して旨を奉じたるに、議に依れ、とあり。欽遵して案に在 り。且凡そ外国進貢のとき往返して貨物を交易するには、並えて収税の 処なし。其れ進貢船隻国に回るのとき、収税の処は議を庸うる無くして 可なり、等の因あり。康煕二十四年十月初七日密題し、本月初九日旨を 奉じたるに、九卿、籀事、科道、会議して具奏せよ、此を欽めよや、と あり。欽遵して密封して部に到る。  該臣等会議し得たるに、福建総督王国安の疏に称すらく、各省の飄洋 せる船隻繁多なれば恐らくは外番に至りて劫せらるるやも亦未だ定むべ からず。内地の貿易せる商民は応に小砲・牌刀・鎗・箭等の械数件を帯 びて、以て防護に資するを准すべし、等の語あり。査するに兵器は向来 禁止なれば、売給して外国に帯往するを許さず。理として応に商人の帯 往するを准さざるべし。但だ商人は大洋に在りて往来すれば、若し防身 の軍器無ければ、恐らくは劫掠を致すやも亦未だ定むべからず。嗣後内 地の貿易するの船隻の防護の火砲、軍器等の項は船隻の大小、人数の多 寡に照らして、該督撫定数を酌量して、起程の時、海税を収むるの官員 并びに海口を防守するの官員に交与し、定数を査照して其の帯往を准 し、回るの時、原数に照らして査験し、其の余は仍礼部等の衙門の前議 に照らして可なり等の因あり。康煕二十四年十月二十二日密題し、本月 二十六日旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵して密 封して部に到り司に送る。此を奉け相応に移咨すべし。此が為合に咨し て前去せしむ。煩為わくば旨内の事理に査照して欽遵施行せられよ。須 く密咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に密咨す  康煕二十四年十一月初三日   密咨す  [注1福建総督王国安 康煕二十三〜二十六年の間任職。2向来 従来。   3籀事 籀事府の官名。東宮(皇太子宮)内外の庶務を統べる官。] [三九七 福建布政使司より中山王尚貞あて、接回の使節とともに前の進貢使節を帰国せしむる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢官員を接回せんが事のためにす。  康煕二十□年□月□日、琉球国中山王尚(貞)の咨を准けたるに開す らく、照し得たるに、康煕二十三年は乃ち敝国入貢の期に属れば已経に 特に末員呉世俊等を遣わし、表文・方物を齎捧して、海船二隻に坐駕し て前来す。并びに貴司に移咨す。煩為わくば督撫両院に転請して起送し て京に赴かめしめ聖禧を叩祝せしむるの外、本年七月の間に至りて、摘 回の使者倪定基等、前の謝恩使臣毛国珍等と同に国に回りて陳称すら く、近ごろ兪旨を奉じたるに、諞地の海外貿易の商船及び進貢の船隻は 一概に収税せよ、とあり。随で経に末員倪定基等具呈して、懇に恩免せ られんことを請う。貴司小国を俯念して督撫両院に具詳して題請せら れ、遠人をして聖朝の雨露に沾うを得せしむるを蒙るは、実に督撫両 院、貴司の柔恤鴻慈に出ず。万里の波臣、感激涯りなし。但だ入覲の員 伴は今夏京に赴くに自り、例として応に来春において諞に抵るべし。窃 かに思うに、淹留して日久しければ、虚しく天朝の廩軛を糜やし、心に おいて安んじ難し。謹みて部の開せる貢船三隻の事例に遵い、特に都通 事金元達、使者呉輝之等を遺わし、彝吮共に八十一名を率領し、海船一 隻に坐駕し、前来して皇上の勅書併びに欽賞の物件を迎接せしめ、貢使 呉世俊等と同に一同に回国せしむ。伏して祈るらくは、貴司、督撫両院 に具詳して、例に照らして題明せしめられんことを。乞いて来夏の早媼 において帰るを賜らば、来冬には以て期の如く二十五年の貢典を恭修 し、繕疏して入りて皇上優免の鴻恩に謝するを得るに庶からん。此がた め理として合に貴司に移咨して知会せしむ。煩為わくば察照して施行せ られよ、等の因あり。此を准けたり。  又、報明せんが事の為にす。康煕二十五年八月十二日、総督部院王の 案験を奉じたるに、礼部の咨を准けたるに開すらく、主客清吏司案呈す らく、本部より送りたるを奉け、福建総督王の前事を咨するを准けたる に内に称すらく、琉球国王の遣使せる金元達等の坐船一隻は諞に来りて 二十三年の貢使呉世俊等を接回して一同に回国す。経に前任撫院金、具 題して案に在り。  今、彝官金元達等、離駅登舟するを呈明して示を請いて前来す。未だ 即ちに遣回を行うに便ならず。相応に咨して部示を請いて遵行すべし等 の因あり。部に到る。本年四月内、福建巡撫金の疏に称すらく、査する に琉球国差来の彝官金元達の坐船、二十三年の貢使呉世俊等を来接し て夏至を俟ちて一同に回国せんとす、等の因あり。本部、該撫の題報 せる琉球国進貢の員役を接して一同に国に返さしむるの縁由をもって、 議覆を容るる無しと案に存り。  今、該督既経に移文して前来すれば応に一同に国に返さしめ、該督に 移文すれば可なり、等の因あり。堂に呈して批を奉け、咨に照らして司 に送る。此を奉け相応に移咨すべし。此がため合に咨すべし。煩為わく ば査照して施行せられよ等の因あり。部院に到る。此を准け擬して合に 就行すべし。此が為、案を備えて司に行り、部文内の事理に照依して、 即便に速やかに琉球国貢使呉世俊等をして彝官金元達と与に一同に回国 せしむ。仍開駕の日期をもって、具文通報して違う毋らしめよ等の因あ り。此を奉けたり。  為照るに貴国の来船媼に乗じて返棹するは歴として成例あり。茲に未 だ部覆を奉ぜざるの故に因り、夏至の媼期に違いて遽かに遣回をなすに 便ならず。本司即ちに飛咨もて部示を詳請するを為す。茲に部覆を奉け たるに応に一同に返国せしむべし等の因あり。司に到る。福防庁に行じ て、遵照して遣発回国せしめ并びに上次京より回るの官伴、存留して駅 に在るの官伴は一同に例に照らして遣回し、別に開駕して出洋するの日 期を取りて詳報するを除くの外、合に就かに移覆すべし。此が為由を備 えて貴国に移咨す。煩わくば査照して施行せられんことを請う。須く咨 に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕二十五年八月十四日   進貢官員を接回せんが事    咨す [三九八 福建布政使司より中山王尚貞あて、遭難せる琉人林春等を進貢使とともに帰国させる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、稟報の事のためにす。  康煕二十五年四月二十九日前巡撫部院金の憲牌を奉けたるに、康煕二 十五年四月二十八日礼部の咨を准けたるに、主客清吏司案呈すらく、本 部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該本部、戸部より咨して戸科に 抄出せしめたる福建巡撫金の題せる前事に題覆す、等の因あり。康煕二 十五年二月十七日題し、三月初十日旨を奉じたるに、該部議奏せよ、此 を欽めよや、とあり。欽遵す。本月十七日咨もて送りて部に到る。  査するに、康煕十六年福建総督郎の疏に称すらく、琉球の颶風にて飄 至せる雑氏等十二名、糧米を解運して中山に至り、事竣りて島に回るの とき、忽ち大風を被り撫寧州に飄至して省城に送至せらる。毎月人ごと に各々米三斗、銀各一銭八分を給し、暫く豢養せらる等の因あり。臣が 部具題して例に照らして銀米を給して豢養し、琉球国進貢の彝官呉美徳 等に交与して、伊等の船に坐して帯回せしむ。  又、康煕十九年、臣が部、福建巡撫呉の一疏に題覆す。琉球国彝人有 納波等四十五人、往きて麻姑山より米を運ばんとして風に遭い、粤省に 飄至し逓送して諞に到り、例に照らして口糧、銀両を給与し、貢使陸承 恩等をして一同に伊の国に発回せしむ。各々案に在り。 該臣等議し得たるに、福建巡撫金の疏に称すらく、琉球国麻姑山地方 の林春等の船隻、糧米を解運して中山に至り島に回るのとき、風に遭い て金門鎮囲頭地方に飄至するもの共に五十四人。身に腰刀を随うを除く の外、並えて貨物なし。伊等をもって柔遠駅に安挿せしめ、貢使の京よ り回るを俟ちて帯び帰らしむ。  査するに、康煕十六年及び十九年、琉球国難彝雑氏等及び有納波等安 挿して口糧銀米を給与するの例ありて相符す。部議を聴候す等の語あ り。今、琉球国林春等応に例に照らして口糧銀両を給与して豢養し、康煕 二十四年琉球国の進貢して返回するの貢使呉世俊等と一同に発回せしめ て可なり等の因あり。康煕二十五年三月二十八日題し、本月三十日旨を 奉じたるに、議に依れ、此を欽めよやとあり。欽遵して抄出し部に到り 司に送る。此を奉け相応に移咨すべし。此が為合に咨して前去せしむ。 煩為わくば奉旨内の事理に査照して欽遵して施行せられよ、等の因あ り。部院に到る。此を准けたり。擬して合に就行すべし。此が為牌を備 えて司に行り、備に咨文の奉旨内の事理に照らして、随即に琉球国難彝 林春等をもって例に照らして口糧・銀両を給与し豢養して貢使呉世俊等 と一同に発回せしめて違う毋れ、等の因あり。此を奉けたり。 為照るに、康煕二十三年の貢使呉世俊等已経に諞に回れば、合に林春 等五十四人、内駅に在りて病故せる四名を除く実在の五十人をもって、 部文に遵照して口糧・銀両を給与して、応に原船に坐せしめ、貢使呉世 俊等と一同に発回せしむるの外、合に就かに移知すべし。此がため由を 備えて貴国に移咨して、事理に依らんことを請う。煩為わくば査照して 施行せられよ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕二十五年八月十四日   稟報の事    咨す  [注1林春 不詳。] [三九九 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官魏応伯等の入京と官生梁成楫等の入監読書するを許す旨の咨文]  福建等処承宣布政使司の張は、進貢の事のためにす。  康煕二十六年十月二十一日、琉球国中山王尚(貞)が咨を准けたるに開 く、切に敝国は会典に遵依して二年一貢す。査するに康煕二十五年該応 に期に循い合に進貢して敢えて愆越せざらんと擬て、此が為に特に耳目 官魏応伯、正議大夫曾益、都通事蔡応祥等の官を遣わし、海船二隻に坐 駕し、水吮を率領し、毎船の均*せる上下の員役は共に二百人の数に盈 たず。虔んで常貢の惓熟硫黄一万二千六百簧、海螺殻三千個、紅銅三千 簧を将むるの外、又冊封使臣汪楫・林麟*等、臣に代りて請う所の、陪 臣の子弟監に入りて読書するの一事は、今聖恩もて兪允を蒙る。愚陋の 子をして以て上国に観光し経を執り字を問い、踴躍の私なるを得しむ。 啻に臣が身躬のみ聖訓を聆くのみならず、挙国共に天朝の雅化に沐し、 眷眷の心もて咸な済済の俗を成す。微臣頂踵するも高厚の万一に報い難 し。謹んで愚誠を瀝き、虔んで薄物の囲募紙三千張、細嫩蕉布五十疋等 の物をもって、福建布政使司に前み赴きて投納し、転解して京に赴き、 聖祉を頂祝せしむ。此が為に合行咨を備えて告投せしむ等因。今陪臣魏 応伯・曾益等を遣わし、咨を齎し表を捧じ、波階に赴きて、俯伏して漢 殿せ仰ぎ、以て嵩呼す。其の官生梁成楫・鄭秉均・阮維新・蔡文溥等 は、貢使魏応伯・曾益等と同に京に赴き入監読書せしめたし。応に行う べきの事宜は、伏して皇仁は外無きを体し、転じて具した題請したる 外、其の現に二船に在るの員役等は、夏の蚤媼に及べば、亟やかに発回 するを賜りたし。此が為に理として合に貴司に移咨して知会すべし。 煩為わくは、査照して施行せられたし等の因、司に到る、此を准けた り。  又稟報の事の為にす。康煕二十七年三月初六日、巡撫都察院張を憲牌 を奉けとりたるに、本年三月初四日礼部の咨を准けたるに、主客清吏司 案呈すらく、本部より送りたる礼科の抄出を奉じたるに、該本部は福建 巡撫張が題せる前事に題覆す等の因あり。康煕二十六年十一月十一日に 題し、十二月十四日旨を奉われるに、該部議奏せよ、此を欽めよとあ り。欽遵して、該臣等議し得たるに、福建巡撫張が疏に称う、琉球国中 山王尚貞、耳目官魏応伯等を遣わし、恭しく朝に進み方物を貢す。入港 のとき、臣、行査せしめたるに貢物人数は該国の印信執照と相符す。倶 に駅館に発りて安挿宴待せしめ、別に委官に行じて同に齎らし進呈せし め、余す所の員役は仍原船に坐して、摘発して先に回らしむ。其の陪臣 の子弟梁成楫等三人、跟伴三名は、応に其の貢使と同に京に赴き入監読 書するを准すべきや否やの処は、経に部議を候つ等の語あり。今琉球国 進貢来使魏応伯等の官三員、跟伴十七名は、例に照らして其の京に赴く を准し、其の進貢せる硫黄一万二千六百簧は、福建督撫の処に収貯し、 臣が部、工部に移文するを聴ちて、応に用うべきの処に于て使用せし む。諞に留むるの官一員、跟伴十四名を除くの外、其の摘発して先に回 らしむる官伴共に一百五十一名は、仍応に原船に坐して先に発回を行う を准すべし。  又査するに、康煕二十三年六月内、牴林院検討汪楫等、琉球国陪臣の 子弟の入監読書するを題請す。臣が部、議し得たるに、其の入監読書す るを准さんと具題して旨を奉われるに、議に依れとあり。欽遵すること 案に在り。今陪臣の子弟梁成楫等三人并びに跟伴三名は、倶に其の来京 して入監読書するを准し、伊等の到るの日を俟ちて給する所の房屋・口 糧・食物の処をもって再び議せん。又疏の内に、陪臣の子弟入監読書す るを准さるるに因り、正貢の方物の外に於いて、敬んで囲募紙三千張・嫩 蕉布五十疋を加う等の語あり。止だ今次のみ貢物と同に一併に送進する を准し、嗣後は正貢の額数の外に多く進むる者は著して停止せしむ。命 下るの日を俟ちて、文を該撫に行り、遵行せしめて可なり等因。康煕二 十七年正月二十八日題し、二月初六日旨を奉われるに、議に依れ、此を 欽めよとあり。欽遵して抄出し、部に到り司に送る。此を奉けたれば、 相応に移咨すべし。此が為に合に咨して前み去かしむべし。煩為わくは 旨内の事理に査照し、欽遵して施行せよ等の因、都院に到る。此を准け たれば牌を備えて司に行り、備に咨文内の奉旨の事理に照らして、即便 に査照して進貢せしむ。来使の魏応伯等の官伴は、例に照らして其の赴 京を准し、硫黄一万二千六百簧は収貯して、工部に移文するを聴候ちて 使用せしめ、諞に留まる官伴を除くの外、其の摘発して先に回らしむる の官伴共に一百五十一名は、原船に坐して先に発回を行うを准し、仍起 行回国の各の日期をもって詳報具題せしむ。及た陪臣の子弟并びに跟伴 は、来京して入監読書するを准し、嗣後正貢の額数の外に進むること多 きは着して停止せしむ。欽遵して違うこと毋れ等の因、此を奉けたり。  又総督諞浙部院王が令牌を奉けたるに、礼部の咨を准く。行すること 前の因に同じとあり。此を奉けたれば、本司は、部文を遵奉し、已に 福州海防同知に行り、遵照して遣発回国せしめ、起行の日期を取りて詳 報したる外、合に就ちに移覆すべし。此が為に由を備えて貴国に移咨 す。請煩わくは、遵照して施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕二十七年五月初七日   進貢の事    咨す  [注1魏応伯 後の向応伯。首里向氏の九世(湧川家)。越来親方朝盛。   一六五〇〜九八年。2蔡応祥 久米村蔡氏の十世(安次嶺家)。大   田親雲上。生没年未詳。3観光 国の文物や礼制を観察すること。   ここでは大国である中国の制度、文物を体験し、学ばせること。4   梁成楫 久米村梁氏の十世(上江洲家)。屋比久親雲上。一六六八   〜一七〇二年。康煕二十五年(一六八六)清代での第一回官生の一 人となって渡唐。六年の肆業の後帰国。『中山世譜』(蔡鐸本)の編  集、王世孫尚益の講解師等を勤めた。康煕四十年、接貢船都通事と  して渡唐。翌年帰国の途次、遭難した。5鄭秉均 久米村鄭氏の十  三世(湖城家)。大嶺秀才。生年等未詳。康煕二十五年、官生の一  人として渡唐の途次、大風に遭い、久米島の近くで大喩(メインマ  スト)が倒れたが、その際に事故死した。6阮維新 久米村阮氏の  四世(宜保家)。宜保親雲上。生没年不詳。康煕二十五年の官生の  一人。7蔡文溥 久米村蔡氏の十一世(具志家)。祝嶺親方。一六  七一〜一七四五年。康煕二十五年の官生の一人。帰国後、王世子や  世孫(尚純、尚益)に度々、四書、詩経等を進講した。しかし、三  十代半ばにして病に冒され、長い闘病のうちに没した。学者、文人  として名高く、『同楽苑八景』『四本堂詩文』等の漢詩集や『四本堂  家礼』等を著した。尚敬の冊封副使徐葆光は「中山第一の才」と称  している。8巡撫都察院張 張仲挙のこと。康煕二十五〜二十九年  の間任職。] [四〇〇 中山王尚貞より聖祖あて、外国進貢船三隻の税銀を恩免するの例に照らして、今後接貢船の附搭貨物への課税を止め、また進貢両船の員役は二百人以内とせられたき旨の上奏文]  琉球国中山王臣尚貞は謹んで題す。仰いで秧免の兪旨を体し、再び効 順の愚誠を陳べ、聖明もて慈を垂れんことを冒懇し、以て遠人を柔 げ、以て浩蕩たるを彰らかにせんが事のためにす。  窃に、臣は海浜に僻処するも、皇上の天恩を蒙り、臣に二年一次 の朝貢を准さる。向例両船の員伴諞に至れば、赴京の員役を除くの外、 其の余の人数は、即ちに本の年の夏媼に回国せしめたり。朝京に至り事 竣るに膤べば、臣、末員の諞に在りて事無くして虚しく天朝の廩軛を糜 やさんことを恐る。且つ中間未だ後次の貢期に値わざれば、臣例に照ら して別に一船を遣わし、皇上の勅書と欽賞を迎接せしめ、貢使と同に一 斉に回国せしむること、遵行已に久し。  二十四年五月初十日に至り、部文を奉有りたるに、内に開く、外国進 貢の定数の船は三隻、内瓠中、所有帯来せる貨物は其の収税を停めん等 因。旨を奉われるに、議に依れとあり。欽遵すること案に在りと。但だ 臣即ちに二十四年の冬に于て、都通事金元達等を遣わし、瓠一隻に駕 し、貢使呉世俊等を来接して回国せしむ。所有の本の瓠に帯来せる土産 は、末員金元達等、三隻を恩免するの事例に照らして、経に巡撫金、具題 するを懇むるも部覆未だ到らざるに因り、時に督税部堂の、例に照ら して収税するを蒙る。二十五年八月二十一日に至り、伏して礼部の咨文 を読みたるに、内に開く、荷蘭国貢使賓先頭芝等呈称すらく、天朝の定 例として凡そ是れ外国の進貢には、三隻の税銀を免ずるを准す。賓先頭 芝等をして福建に来到せしむるに、僅かに一船の免税有るのみ。懇むら くは、今年の接貢瓠の内、再ねて二隻の税銀を免ずるを将て、湊めて三 瓠の額数に足らしめんことを、等の因あり。具題して旨を奉われるに、 議に依れとあり。欽遵すること案に在りと。臣貞、伏して思うに、敝国 款にして、天朝鼎を定めて自り以来、帰順すること最も先なり。今荷蘭 国使臣賓先頭芝等、皇上格外の恩を邀め得たり。臣貞、冒昧なるを揣 ず、仰いで皇上万物一体の仁を体し、臣が後次の接貢瓠隻をして例に照 らして恩免せしむれば、臣即え頂を摩して踵に放るとも亦皇恩の万一に も報答し難し。  然れども臣更に懇むる者有り。敝国入貢の瓠は、向例両瓠にして員役 は二百人に盈たざるの数を以て準と為す。今査するに、二十三年の貢使 呉世俊等、部文一角を齎らし回るに、内に開く、定例として外国の進貢 には瓠は三を過ぎざれ、人は百を過ぎざれ、惟だ琉球進貢の人数は多く も百五十人を過ぎざれと。臣思うに、琉球より諞に至るには万里汪洋に して、両瓠員役、官伴を除くの外、操舟を善くする者、毎瓠五十人に非 ざれば、遠く洪涛を渉ること能わず。臣誠に恐る、日後或いは督税官長 の、法を執ること山の如くし、臣が人数稍多きを以て、律するに百五十 人の例を以てし、或いは査明し、或いは題請すること有るを。此の時、 臣の末員風媼迩きに在るも、控告するに門無く、勢必ずや淹留して口糧 を坐食せん。臣が罪益々重し。伏して乞う、皇上臣が効順の愚誠なるに 鑑み、勅もて礼部に行り、文を督撫に行りて、如し進貢の瓠隻に係るも のは、着して地方官に交与して管轄せしめ、前例に准依して遵行せしめ られんことを。其れ接貢の一隻は、懇わくは荷蘭国の旨を奉じて恩免せ らるるの事例に照らば、則ち皇上浩蕩の覃恩、遠く要荒に播び、臣が子 々孫々、頂祝して尽きること無からん。此が為に特に貢使毛起竜・蔡鐸 等を遣わし、表を奉じ貢を進めしむるの外、合に具に奏明すべし。懇 に祈るらくは、皇上叡鑑もて施行せられんことを。臣激切翹首待命の至 に任うる無し。謹んで奏して以て聞す。   為の字より起こして至の字に至りて止む。七百一十五字。紙一張。  康煕二十七年九月十五日、琉球国中山王臣尚貞謹んで上奏す  [注1賓先頭芝 荷蘭国(オランダ)の貢使とあるが具体的には不詳。   2控告 控は叩で、訴えお願いするの意。3毛起竜 首里毛氏の八   世(国頭家)。識名親方盛命。一六五一〜一七一五年。一七〇二〜一   二年三司官任職。「思出草」等擬古文の著述の他、『おもろさう   し』『混効験集』の編纂に携わるなど、和学者としても著名。4蔡   鐸 久米村蔡氏の十世(儀間家)。志多伯親方。一六四四〜一七二   四年。官は紫金大夫。一六九一〜一七一三年の間、総理唐栄司。   『歴代宝案』『中山世譜』(蔡鐸本)等を編集した。  ※本項の康煕二十七年の進貢の際、正副使の毛起竜、蔡鐸、それに福   州に滞在中の前年の進貢正副使の魏応伯、曾益の四人が、使節団中   の小唐船副通事であった魏士哲に命じて、補唇術を学ばせている。] [四〇一 中山王尚貞より福建布政使司あて、耳目官毛起竜等を遣わし進貢せしめることおよび飄風の難民林春等の送還に感謝する旨の咨文]  琉球国中山王尚(貞)は、進貢の事のためにす。切に照うに、敝国は世 々天恩に沐し、夙に懐き恭順なり。欽んで両年一貢に遵うこと案に在り。  茲に康煕二十七年例として応に貢を進むべきに当たり、敢えて期を愆 またず。任土の常貢の惓熟硫黄一万二千六百簧、海螺殻三千個、紅銅三 千簧等の物を遵将して進上す。合行官を遣わして管解すべし。此が為に 特に耳目官毛起竜、正議大夫蔡鐸、都通事蔡応端等を遣わし、海瓠二隻 に坐駕し、水吮を率領して、毎瓠の均*せる上下の員役は共に二百員名 に盈たず。方物を運解して前みて福建等処承宣布政使司に至りて投納 し、京に赴き、併びに表章を齎捧して聖禧を伸祝す。伏して祈る。貴司 例に照らして題明せられたしと。進京の官伴及び存留の官伴に至りて は、下次の来瓠を俟ちて国に回らしめ、其の余の員役は、仍原瓠に坐し て来夏の早媼に、先に帰るを賜らば、片帆恙無きを得るに庶からん。  且つ康煕二十四年十一月間、敝国の属島麻姑山地方の飄風の難彝林春 等、波に随い浪を逐いて前みて福建金門鎮地方に至る。叨くも貴司、 督撫両院に具詳し、例に照らして題請せしめ、口糧を給賜して、貢使呉 世俊等と同に遣わし帰すに沐せり。独り飄風人等覆載の恩に感泣するの みならず、即ち敝国も亦鴻慈を頂戴すること窮まり無し。此が為に理と して合に貴司に移咨すべし。請煩わくは、察照して施行せられたし。須 く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕二十七年九月十五日発す  [注1蔡応瑞 久米村蔡氏の十世(具志家)。高良親雲上。一六五一〜   一七〇七年。官は申口座。2片帆恙無き 片帆は一方に傾けて風を   孕ませた帆のこと。つまり琉球への帰りの航海に不安がないの   意。] [四〇二 礼部より中山王尚貞あて、官生梁成楫等の入監読書するを許可する旨の咨文]  礼部は、皇恩広く被い、臣が敬伸ぶる莫ければ、謹んで愚誠を瀝き仰 いで叡鑑を祈らんが事のためにす。  礼科の抄出せる琉球国中山王尚貞の奏に前事あり。内に開すらく、切 に臣は愚陋なれども、叨くも藩封を受く。毎に使臣進貢して還棹のと きに於いて、皇上勉励の詔勅を齎回す。臣焚香して拝誦するに感じて地 無きを愧ず。前に謝恩の陪臣毛国珍等、礼部の咨文一角を帯回するに、 内に開く、各省人民海上に貿易して外国に飄至する者は、収養解回せし め、其の解送り来れる人には、復た奨賞を行わんと。臣跪読の下、皇 仁広く被び、民を愛すること子の如きなるを見るに足る。臣遵即に文を 所属の三十六島地方に行り、嗣後、如し此等飄風せる商民の船隻に遇わ ば、所在に収養して送回せしめ、以て上は皇上子として元元を恵しむの 至意を体す。  而して臣更に請う者有り。前に冊封使臣汪楫・林麟*等、臣に代わり て陪臣の子弟監に入って読書するを請うの一事は、これ微臣、皇上文教 の治を仰慕するに属す、自ら偏の海域に生れ、親しく聖朝の雅化を覩 ること能わざるを愧ず。眷眷の心、覚えずして畢に使臣の前に露わる。 而して汪楫・林麟*等、又復た仰いで皇上の化、万方に被ぶの恩を体 し、臣が為に転じて請い、聖恩もて兪允を荷蒙し、海外の童蒙をして以 て上国に観光し、経を執り字を問い、踴躍の私なるを得しめたり。啻に 微臣が躬のみ聖訓を聆くにあらざるなり。但だ感激の心あるも、未だ報 いんと図るに由なし。茲に謹んで常貢の方物の外に於いて、敬んで囲募 紙三千張、嫩蕉布五十疋を奉じて天恩に叩謝す。謹んで陪臣魏応伯・曾 益等を遣わし、一併に齎運赴京せしめ、并びに梁成楫・鄭秉均・阮維新・ 蔡文薄四名を帯領して入監読書せしむ。伏して乞う、皇上叡鑑ありて部 に勅して議覆施行せしめられんことを。臣貞、戦慄惶恐の至に任うる無 し。謹んで本を具して上奏し、以て聞す。康煕二十五年十一月初四日奏 し、二十七年十月初四日旨を奉われるに、覧たり。王の奏は具に化を慕 うの誠悃を見わす。梁成楫等は入監読書せしむること己に旨有了るな り。該部知道せよ。此を欽めよとあり。欽遵して抄出し、部に到り、司 に送る。此を奉けたれば、随ちに官生梁成楫、阮維新、蔡文薄をもって 倶に送りて国子監に入りて読書せしむ。相応に知会すべし。此が為に合 に咨して前み去かしむべし。煩為わくは、査照して施行せられよ。須く 咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕二十七年十月十三日   咨す  [注1元元 庶民、万民のこと。2海外の童蒙 童蒙は無知な初学者。   ここでは琉球の無学の者の意。] [四0三 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官毛起竜等の入京進貢の許可および飄風難民新垣等三名の福州での逃亡事件の顛末を報告する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司の張は、進貢の事のためにす。 康煕二十七年十二月二十二日琉球国中山王尚(貞)が咨を准けたるに開す らく、切に照うに敝国は世々天恩に沐し、夙に恭順を懐う。両年一貢を 欽遵すること案に在り。  茲に康煕二十七年例として応に貢を進むべきに当たり、敢えて期に愆 わず。任土の常貢惓熟硫黄一万二千六百簧、海螺殻三千個、紅銅三千簧 等の物を遵将して進上す。合行官を遣わして管解すべし。此が為に特に 耳目官毛起竜、正議大夫蔡鐸、都通事蔡応瑞等を遣わし、海船二隻に坐 駕し、水吮を率領し、毎船の均*せる上下の員役は共に二百員名に盈た ず。方物を運解し、前みて福建布政司に至りて投納す。赴京して併びに 表章を齎捧して聖禧を伸祝す。伏して祈る、貴司例に照らして題明せん ことを。進京の官伴及び存留の官伴に至りては、下次の来船を俟ちて回 国せしめ、其の余の員役は、仍原船に坐して先に来夏の早媼に于て帰る を賜らば、片帆恙無きを得るに庶からん。且つ康煕二十四年十一月間 敝国属島麻姑山地方の飄風の難彝林春等、波に随い浪を逐いて前みて福 建金門鎮地方に至る。叨くも貴司督撫両院に具詳し、例に照らして題 請し、口糧を給賜して貢使呉世俊等と同に遣わし帰さるるに沐す。独に 飄風人等の覆載の恩に感泣するのみならず、即ち敝国も亦鴻慈を頂戴す ること窮無きなり。此が為に理として合に貴司に移咨すべし。請煩わく は、察照して施行せられたし等の因、司に到る。此を准けたり。  又稟報の事の為にす。康煕二十八年閏三月二十五日、総督福建浙江部 院王が憲牌を奉けたるに、本年閏三月初六日、礼部の咨を准けたるに 開く、主客清吏司案呈すらく、本部より送りたる礼科の抄出を奉じたる に、該本部、福建巡撫の張の題せる前事に題覆するの内に開く、該臣等 議し得たるに、福建巡撫の張が疏に称う、琉球国中山王尚貞、耳目官毛 起竜等を遣わし、方物の硫黄・螺殻・紅銅を進貢す。察験したるに、該 国の印信執照と相符したれば、倶に駅館に発りて安挿宴待せしむ。別に 委官に行じ、同に齎らし進呈せしむ。赴京及び存留の官伴を除くの外、 其の余の員役は、仍原船二隻に坐し、摘発して先に回らしむること、統 て部議を聴つべし等語と。今琉球国進貢来使毛起竜等、応に定例に照ら して其の赴京を准し、其の進貢せる熟硫黄一万二千六百簧は、福建督撫 に交与し、例に照らして収貯し、部臣より工部に移文するを聴ちて、応に 用うべきの処に於いて使用せしむ。留諞の官員跟伴の、応に例に照らし て存留すべきを除くの外、其の余の員役は、仍応に原船二隻に坐して先 行摘発するを准して可なり等の因あり。康煕二十八年三月初十日題し、 本月十五日旨を奉われるに、議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵して部 に抄し、司に送る。此を奉けたれば、相応に移咨すべし。此が為に合に 咨すべし。煩為わくは、旨内の事理に査照して欽遵施行せられたし等の 因、部院に到る。此を准けたれば、合に就ちに行せんと擬て、此が為に 牌を備えて司に行る。部文内の奉旨の事理に照依して即ちに琉球国進貢 来使毛起竜等を将て、例に照らして委官して伴送して赴京せしめ、其の 熟硫黄一万二千六百簧は、該司逐一察明し、謹を加えて収貯して部の撥 用を聴す。官員跟伴に至りては、諞に留まるものを除くの外、其の余の 員役は、仍即ちに遵照して原船二隻に坐して先行摘発せしむ。開駕回国 の日期は、一併に具文詳報し、以て察奪して違うこと毋きに憑らしむ等 の因、此を奉けたり。又前の事の為にす。巡撫都察院の張が憲牌を奉け たるに、礼部の咨を准く。行すること前の因に同じとあり。此を奉け て案照す。  又稟報の事に為にす。本年正月十五日総督福浙部院の王が案験を奉け たるに、礼部の咨を准くるに開く、主客清吏司案呈すらく、本部より送 りたる礼科の抄出を奉じたるに、該本部、諞浙総督の王の題せる前事に 題覆す等の因あり。康煕二十七年十一月初二日題し、十二月初二日旨を 奉われるに、該部議奏せよ。此を欽めよとあり。欽遵して、本月初 三日部に到る。査するに康煕二十五年三月内、福建巡撫の金、具題す。 琉球国麻姑山地方の林春等の船隻、糧米を解運して中山に至る。回島の とき、風に遭い金門鎮囲頭地方に飄至するもの、共に五十四人。臣が部 題覆し、例に照らして口糧、銀両を給与して豢養し、伊の国の進貢して 国に返るの貢使呉世俊等と一同に発回せしむること案に在り。該臣等議 し得たるに、諞浙総督の王が疏に称う、琉球国人新垣等の船隻、小粟を 割採するのとき風を被け、温州府永嘉県一都萃門口址に飄至するもの共 に三人、並えて別情無し。仍りて例に照らして口糧を給与し、朝貢の使 魏応伯等の回るの日を俟ちて、一同に遣発帰国せしめて、以て柔遠を示 す等語と。応に琉球国新垣等三人を将て例に照らして口糧を給与して豢 養し、琉球国の進貢して返回る貢使魏応伯等と一同に伊の国に発回して 可なり等因。康煕二十七年十二月初七日題し、本月初十日旨を奉われる に、議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵して抄出し、部に到り、司に送 る。此を奉けたれば、相応に移咨すべし。此が為に合に咨もて前み去か しむべし。煩為わくは、旨内の事理に査照して欽遵施行せよ等の因、 本部院に到る。此を准けたり。  為に査するに、琉球国新垣等三人は、先に該司の呈報に拠れば、応に 彝官鄭士綸等に交与し、帯びて諞省に赴き、藩司転じて琉球館に発り査 収せしむべし。上年十月二十日に于て、温処道が移を准けたるに、諞に 解り到り、即ちに柔遠駅に発り安挿せしめたること案に在り等因と。続 いで本年正月初一日又該司の呈報に拠れば、新垣等、上年十一月二十六 日に于て鼓山に往きて柴を取りて脱逃するの縁由は、業経に本部院檄も て該司に行り、厳に通緝を行わしむること案に在り。今前の因を准けた れば、合に知照を行うべし。此が為に案を備えて司に行る。案に照らし て、備に咨文の奉旨内の事理を准け、即便に欽遵して琉球国新垣等三人 を将て緝を厳にして獲に務め、口糧を給与し、琉球国貢使魏応伯等と回 るの日に、具同に伊の国に回らしめ、其の文もて詳報すれば査考せられ たし等因、此を奉けたり。又前の事の為にす。康煕二十八年二月二十 日、巡撫都察院の張が批を奉けたるに、該本司呈詳す。看得するに、脱 逃の彝人新垣・麻子・大城の三名(については)*緝に奉行し、并に疏防 を取るの職名は遵即に厳行し去後れり。茲に該署庁の申を拠け、連江県 よりの験報を拠けたるに、本月十二日差役が通事の馮濬新、館夫の謝芳 等と会同して、辺界の古孟中に于て彝人新垣・麻子・大城三名を緝獲し 得たり。批もて解りて府に到り、転じて琉球の京より回るの彝官魏応伯 等に発りて収管せしめ、謹を加えて看守せしめ、返国を候ちて帯び回ら しむ。所有の疏防の職名は応に其の開報を免ずべきに似たり。合併に詳 報すれば、伏して憲台の察奪を候ち、銷案して可なり等の縁由、批を奉 く。詳の如く、銷案せんとすれば、仍督部院の批もて示炸するを候てと あり。此を奉く。又総督諞浙部院の王が批を奉けたるに、本司詳するこ と前由に同じとあり。批を奉く。詳の如く銷案せんとすれば、仍撫院の 批もて示炸するを候てとあり。此を奉けたれば、倶に経に遵行すること 案に在り。合に就ちに移覆すべし。此が為に由を備えて貴国に移咨す。 請煩わくは遵照して施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕二十八年四月二十八日    進貢の事   咨す  [注1察奪 調査の上、裁決する。2新垣等 渡名喜島民(四〇五項)と   ある。3鄭士綸 久米村鄭氏の五世(与座家)。赤峯親雲上。一六   六一〜一七〇二年。4通緝 拿捕、逮捕のこと。5*緝 捕えるた   めに来る。6疏防 (犯人を)とり逃がす。捕えた犯人を逃がす。   7銷案 訴をとり下げる。  ※この前後、漂流民の記録が何件か出てくるが、宮古・八重山等の離   島から租税を中山(沖縄本島)に運ぶ途中、中国沿岸に流されたケ   ースが多い。] [四〇四 礼部より中山王尚貞あて、琉球進貢両船の乗員は定例の百五十人に加増して二百人を越えざることとし、接貢船の貨物に対する収税をも免除する旨の咨文]  礼部は、仰いで秧免の兪旨を体し、再び効順の愚誠を陳べ、聖明もて 慈を垂れんことを冒懇し、以て遠人を柔げ、以て浩蕩たるを彰らかにせ んが事のためにす。  礼科の抄出に、琉球国中山王尚貞の題せる前事あり、等の因あり。康 煕二十七年九月十五日題し、二十八年九月十六日旨を奉わるに、該部 議奏せよ。此を欽めよとあり。欽遵して、本月十七日に於いて、部に到 る。該臣等会議し得たるに、琉球国中山王尚貞、疏して称う、切に臣 は、康煕二十四年五月内、部文を奉けたるに、外国進貢の定数の瓠は三 隻、瓠中の所有帯来せる貨物は、其の収税を停むとあり。今荷蘭国は皇 上より額外の恩を邀め得たり。臣が後次の接貢瓠は、例に照らして恩免 せられんことを乞う等語と。査するに、康煕二十五年七月内、臣が部題 す、荷蘭国接貢瓠隻は、私に来りて貿易するの瓠に係るに非ざれば、 亦応に其の収税を免ずべし。迎接瓠二隻を除くの外は、仍例に照らして 収税せん等の因、具題す。旨を奉わるに、議に依れとあり。欽遵するこ と案に在り。今琉球国進貢瓠二隻は、已経に税を免ぜり。後の接貢瓠一 隻も亦応に例に照らして其の収税を免じ、湊めて三隻の数に足らしむべ し。此の接貢瓠一隻を除くの外、私に来りて貿易する者有らば、仍例に 照らして収税せん。又疏に称う、敝国入貢の瓠は、向例両瓠なり。員役 も二百人の数に盈たず。今部文を准けたるに、定例として外国の進貢に は、瓠は三を過えざれ、人は百を過えざれ。惟だ琉球国進貢の人数は、 多くも百五十人を過えざれとあり。臣思うに、琉球より諞に至るには、 万里汪洋たり。両瓠内、官伴員役を除くの外、操舟を善くする者は、毎 瓠五十人に非ざれば、遠く洪涛を渉ること能わず。乞う、前例に准依し て遵行せられたし等語と。査するに、定例として琉球国進貢は、百五十 人を過えざること、遵行年久しく且つ別国と較ぶるに多きと為す。今琉 球国王、百五十人の外に人数を加添するを請うの処は、応に議するを庸 うること無かるべしと。命下るの日を俟ちて、該督部に移文し、併びに 琉球国王に知会して可なり等の因あり。康煕二十八年十月初三日題し、 本月初七日旨を奉わるに、琉球国は誠心進貢すること年久し。該王具疏 し、人数を増添せんことを懇請す。着して再び議して具奏せよ、此を欽 めよとあり。欽遵して、本月初八日に於いて部に到る。該臣等、会同して 再び議し得たるに、先に経に臣が部等の衙門題覆す、琉球国王尚貞、疏 して称う、琉球国進貢の二瓠、已経に税を免がる。後の接貢瓠一隻も亦 応に例に照らして其の収税を免じ、湊めて三隻の数に足らしむべしと。 定例として琉球国の進貢は、百五十人を過えざること、遵行年久しく且 つ別国と較ぶるに多きと為す。今琉球国王、百五十人の外に人数を加添 するを請うの処は、応に議するを庸うること無かるべし等の因、具題 す。旨を奉わるに、琉球国は誠心進貢すること年久し。該王具疏し、人 数を増添せんことを懇請す。着して再び議して具奏せよ、此を欽めよと あり。査するに、琉球国職貢すること年久し。素より誠謹なるを称う。 嗣後進貢の両瓠の人数は、其の増添を准すも共に二百を過えず、後の接 貢一瓠も亦応に其の収税を免じ、湊めて三隻の数に足らしめて、以て皇 上遠人を柔恤するの意を示すべし。命下るの日を俟ちて、該督撫に移文 し并びに琉球国王に知会して可なり等の因、康煕二十八年十月初十日題 し、本日旨を奉わるに、議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵して抄出し 部に到り、司に送る。此を奉けたれば、相応に移咨すべし。此が為に合 に咨もて前み去かしむべし。煩為わくは、旨内の事理に査照して欽遵し て施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕二十八年十月十三日   咨す  [※本項に見るように、康煕二十七年の進貢使毛起竜らの上奏により、   同年(康煕二十八)進貢船の乗員が五十人増員となって二百人以   内、また接貢船の税についても免除となった。] [四〇五 福建布政使司より中山王尚貞あて、進貢二隻・接貢一隻の税銀は外国進貢の例に照らして免除することおよび再び新垣等の逃亡事件の顛末について報告する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢官員を接せんが事のためにす。  康煕二十八年十一月二十九日、琉球国中山王尚(貞)が咨を准けたるに 開く、切に照うに康煕二十七年冬、特に耳目官毛起竜、正議大夫蔡鐸等 を遣わし、吮役を帯領し、船二隻に駕し、諞に来りて表章方物を齎捧 す。已経に貴司に移咨す。煩為わくは起送して京に赴かしめ、恭しく二 十七年の貢典を進めたるの外、摘回の使者趙世勲等同びに貢使臣魏応伯 等に至っては、貴司督撫両院に具詳して例に照らして題明せらるるを荷 蒙し、仍、原船に坐して、本の年五月の間、遣発回国せしめたり。又飄風 難彝新垣等三名に至りては、乃ち敝国の属島地方渡名喜の人民にして、 旧年四月の間、小粟を割採せんとして風を被け、浙江温州府一都萃門口 址に飄至す。深く貴司の薄海の流民に念及し、督撫両院に具詳して例に 照らして題請せらるるを蒙り、口糧を給発せられて生きて故土に返らし めたり。是れ皇上無外の天恩にして、実に貴司と督撫両院の柔恤洪慈な るに出ず。何ぞ独り飄風人等、二天の鴻恩に感泣するのみならんや、敝 国も亦盛徳の無窮なるを頂祝す。但だ茲に入覲の官伴例として撥船摘回 を准し、久しく諞地に淹まりて以て天朝の廩軛を糜やすに至らしめず。 此が為特に都通事毛文善等を遣わし、水吮を率領し、海船一隻に坐駕し て前み来き、皇上の勅書並びに欽賞の物件を迎接し、貢使毛起竜等と同 に一斉に回国せしめたし。伏して祈るらくは、貴司督撫両院に転詳し、 例に照らして題明し、乞うらくは、来夏の蚤媼に帰るを賜れば、則ち来 貢期の如くして愆無きを得るに庶からん等の因、司に到る。  此を准け、案照したるに、先に仰いで秧免の兪旨を体し、再び効順の 愚誠なるを陳べ、聖明もて慈を垂れんことを冒懇し、以て遠人を柔げ、以 て浩蕩たるを彰らかにせんが事の為にす。康煕二十八年十一月十三日、 総督福浙部院の興が軍の令牌を奉けたるに、康煕二十八年十一月初七日 礼部の咨を准けたるに開く、礼科の抄出に琉球国中山王尚の題せる前事 あり。内に開く、切に臣は、海浜に僻処するも、皇上の天恩ありて臣に 二年一次の朝貢を准さるるを蒙る。向例両船の員伴諞に至らば、赴京の 員役を除くの外、其の余の人数は、即ちに本の年の夏媼に于て回国せし め、朝京して事竣るに膤至りては、臣恐る、末員の諞に在りて事無くし て虚しく天朝の廩軛を糜やさんことを。且つ中間未だ後次の貢期に値わ ざれば、臣例に照らして別に一船を遣わし、皇上の勅書・欽賞のものを 迎接し、貢使と同に一斉に回国せしむること遵行して已に久し。二十 四年五月初十日に至って、部文を奉有けたるに内に開く、外国の進貢に は、船三隻を定数とす。内船中所有の帯来の貨物は、其の収税を停めん 等因、旨を奉わるに、議に依れとあり。欽遵すること案に在り。但だ臣 即ち二十四年冬に于て、都通事金元達等を遣わし、船一隻に駕し、貢使 呉世俊等を来接して回国せしむ。所有の本船の帯来せる土産は、末員金 元達等、三隻を恩免するの事例に照らして、経に巡撫の金、具題するを懇 うも、部覆未だ到らざるに因り、時に督税部堂の例に照らして収税する も蒙る。二十五年八月二十一日に至りて、伏して礼部の咨文を読みたる に内に開く、荷蘭国貢使賓先頭芝等呈称すらく、天朝の定例として凡そ 是れ外国の進貢には、三船の税銀を准免す。今賓先頭芝等福建に来到す るに、僅かに一船の免税有るのみ。今年の接貢船内に再ねて二隻の税銀 を免ずるを将て、湊めて、三船の額数に足らしめんことを懇う等の因、具 題す。旨を奉わるに、議に依れとあり。欽遵すること案に在り。臣貞、 伏して思うに、敝国款を納れ、天朝鼎を定むる自従り以来、帰順するこ と最も先なり。今荷蘭国使臣賓先頭芝等、皇上格外の恩を邀め得たり。 臣貞、冒昧を揣みず、仰いで皇上万物一体の仁を体し、臣が後次の接貢 船隻をして、例に照らして恩免せしむれば、臣即ちに頂を摩して踵に放 るも亦皇恩の万一に報答し難し。然れども臣更に懇むる者有り。敝国 入貢の船は向例両船,員役は二百人の数に盈たざるを以て准と為す。今 査するに、二十三年の貢使呉世俊等部文一角を齎らし回るに、内に開 く、定例として外国の進貢には、船は三を過えざれ、人は百を過えざ れ。惟だ琉球進貢の人数は、多くも百五十人を過えざれと。臣思うに、 琉球より諞に至るには万里汪洋たれば、両船の員役は、官伴を除くの 外、操舟を善くする者、毎船五十人に非ざれば、遠く洪涛を渉ること能 わず。臣誠に恐る、日後或いは督税官長の、法を執ること山の如くし、 臣が人数稍々多きを以て、律するに百五十人の例を以てし、或いは査明 し、或いは題請すること有るを。此の時臣の末員風媼迩きに在るも、控 告するに門無ければ勢として必ずや淹留して口糧を坐食せん。臣が罪益 々重し。伏して乞う、皇上臣が効順の愚誠なるに鑑み、勅もて礼部に行 じ、文を督撫に行り、如し進貢の船隻に係るものなれば、著して地方 官に交与して管轄せしめ、前例に准依して遵行せしめられんことを。其 れ接貢一船のことは、懇わくは荷蘭国旨を奉じて恩免せらるるの事例に 照らば、則ち皇上浩蕩の覃恩、遠く要荒に播び、臣が子子孫孫頂祝して 尽きること無からん。此が為特に貢使毛起竜・蔡鐸等を遣わし、表を奉 じ貢を進めしむるの外、合に具に奏明す。懇祈すらくは、皇上の叡鑑 ありて施行らわれんことを。臣貞、激切翹首待命の至に任うる無し。謹 んで奏して以て聞す。康煕二十七年九月十五日奏し、二十八年九月十六 日旨を奉わるに、該部議奏せよ、此を欽めよとあり。欽遵して本月十七 日に于て部に到る。査するに、康煕二十五年七月内、臣が部題す。荷蘭 国貢使賓先頭芝の呈請に拠れば、天朝鼎を定めしより、凡そ是れ外国の 進貢には、三船の税銀を准免す。賓先頭芝福建に来到するに、僅かに一 船の免税有るのみ。懇うらくは、今年の接貢船隻の内、再ねて二船の税 銀を免ずるを将て湊めて三隻の額数に足らしめ、以て大典を昭らかにせ んことを等語。査するに康煕二十四年五月内、福建総督の王、呈報の事 の為にするの一疏は、臣が部、戸部と会同して議覆するに、外国進貢の 船隻は、貢物を除くの外、順帯せる貨物は、其の貿易するを准し、部臣 例に照らして収税せしめん等因と。具題して旨を奉わるに、外国進貢船 隻の帯ぶる所の貨物は、一概に収税せば、柔遠の意に于て未だ符わず。 着して再議して具奏せよ。此を欽めよとあり。外国の進貢定数船三隻内 の船上帯ぶる所の貨物を将て、其の収税を停め、其の余の私に来りて 貿易する者は、其の貿易商人と貿易するを准すも、部臣例に照らして収 税せん等の因あり。具題す。旨を奉わるに議に依れとあり。欽遵するこ と案に在り。今荷蘭国進貢来使等を接するの船隻は、私に来りて貿易 するに係るに非ざれば、亦応に其の収税を免じ、来接の二船を除くの 外 私に来りて貿易する者有らば、該督撫査明し、仍例に照らして収税 すべし等因具題す。旨を奉わるに、議に依れとあり。欽遵すること案に 在り。該臣等会議し得たるに、琉球国中山王尚貞が疏に称う、切に臣康 煕二十四年五月内に于て、部文を奉けたるに、外国の進貢には船三隻を 定数とし、船中の所有帯来せる貨物は、其の収税を停むと。今荷蘭国は 皇上額外の恩を邀め得たり。臣が后次の接貢船は、例に照らして恩免せ られんことを乞う等語と。査するに康煕二十五年七月内、臣が部題す。 荷蘭国接貢船隻は、私に来りて貿易するの船に係るに非ざれば、亦応 に其の収税を免じ、迎接船二隻を除くの外は、仍例に照らして収税すべ し等の因あり。具題して旨を奉わるに、議に依れとあり。欽遵すること 案に在り。今琉球国進貢船二隻は已経に税を免じ、后の接貢船一隻も亦 応に例に照らして其の収税を免じ、湊めて三隻の数に足たすべし。此の 接貢船一隻を除くの外、私に来りて貿易する者あらば、仍例に照らし て収税す。又疏に称う、敝国入貢の船は、向例両船、員役は二百人の数 に盈たず。今部文を准けたるに、定例として外国の進貢は、船は三を過 えざれ、人は百を過えざれ、惟だ琉球国進貢の人数は多くも百五十人を 過えざれと。臣思うに、琉球より諞に至る万里汪洋たれば、両船の内、 官伴員役を除くの外、操舟を善くする者、毎船五十人に非ざれば、遠く 洪涛を渉ること能わず。前例に准依して遵行せられんことを乞う等語 と。査するに定例として琉球国の進貢は、百五十人を過えざること遵行 年久しく、且つ別国と較ぶるに多きと為す。今琉球国王、百五十人の外 に人数を加添するを請うの処は、応に議を庸うること無かるべし。命下 るの日を俟ちて該督撫に移文し、并びに琉球国王に知会して可なり等の 因、康煕二十八年十月初三日題し、本月初七日旨を奉わるに、琉球国は 誠心進貢すること年久しく、該王具疏して人数を増添するを懇請す。着 して再議して具奏せよ。此を欽めよとあり。欽遵して本月初八日に部に 到る。該臣等会同して再議し得たるに、先に経に臣が部等の衙門題覆 す、琉球国王尚貞が疏に称う、琉球国進貢二船は已経に税を免じ、後の 接貢船一隻も亦応に例に照らして其の収税を免じ、湊めて三隻の数の足 たすべし。定例の琉球国の進貢は百五十人を過えざること遵行年久し く、且つ別国と較ぶるに多きと為す。今琉球国王、百五十人の外に人数 を加添するを請うの処は、応に議を庸うること毋れ等の因、具題して旨 を奉わるに、琉球国は誠心進貢すること年久しく、該王具疏して人数を 増添するを懇請す。着して再議して具奏せよ、此を欽めよとあり。査す るに、琉球国は職貢すること年久しく、素より誠謹に称う。嗣后進貢両 船の人数は、其の増添を准すも、共に二百を過えず、後の接貢一船も亦 応に其の収税を免じ、湊めて三隻の数に足たし、以て皇上遠人を柔恤す るの意を示すべし。命下るの日を俟ち、該督撫に移文し并びに琉球国王 に知会して可なり等の因、康煕二十八年十月初十日題し、本日旨を奉わ るに、議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵して抄出し部に到り司に送 る。此を奉けたれば、相応に移咨すべし。此が為に合に咨もて前み去か しむ。煩為わくは、旨内の事理に査照し、欽遵して施行せられたし等の 因、部院に到る。此を准けたれば合に就ちに行せんと擬て、牌を備えて 司に行る。部文の奉旨内の事理に照依して、即便に欽遵して違うこと毋 れ等因と。  此を奉け、又稟報の事の為にす。康煕二十九年正月十一日総督福浙部 院の興が令牌を奉けたるに、康煕二十八年十二月二十二日礼部の咨を准 けたるに開く、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉 じたるに、該本部、福建巡撫の張が題せる前事に題覆するの内に開く、 該臣等議し得たるに、福建巡撫の張が疏に称う、琉球国摘回の貢使魏応 伯等に附帯せる飄風の新垣・麻子・大城の三人は、上船して潜かに逃れ る。当経に報じたれば、大城一名を獲えて先に帯びて国に返らしめ、新 垣・麻子二名は現に*緝を行うも、未だ獲えず。新垣等は、摘回の原船 に附搭して国に返らしめんと、時に曾て彝官に交明して収管せしむ。疎 縦は属して彝官に在るも、館駅内の地与脱を致すは間有るに似たり。所 有の署海防同知事福州府知府の王原直、応に職名を宥開すべきや否や等 の因、題して前み来たる。査するに琉球国脱逃の新垣・麻子二人は、既 経に該部疏して称く、館駅を離れて上船して潜に逃るれば、疎縦は属し て彝官に在り。応に署海防同知事福州府知府の王原直を将て議するを免 ず。其の新垣・麻子二人は、なお該撫に行じて厳に査緝を加え、拿獲の 日を俟ちて返国の貢使に交付し帯回せしめて可なるべし等の因、康煕二 十八年十一月十八日題し、本月十九日旨を奉わるに、議に依れ、此を欽 めよとあり。欽遵して抄出し部に到り司に送る。此を奉けたれば、相応 に移咨すべし。此が為に合に咨すべし。旨内の事理に査照して、欽遵し て施行せられたし等の因、部院に到る。此を准けたれば、牌を備えて司 に行り、部文内の奉旨の事理に照依して、即便に転行し、新垣・麻子二 人を将て厳に査緝を加え、拿獲の日返国の貢使に交付して帯回せしめ、 仍具に通報せしむ等因と。此を奉けたり。  又天に*りて例を体し、兌換貿易するを詳明し、以て遠人を柔げ、以 て浩蕩たるを彰らかにせんが事の為にす。康煕二十九年五月初八日、総 督福浙部院の興が批を奉けとりたるに、前司、呈詳す。査得するに、琉 球の貿易の一案は、詳もて憲批を奉け、遵即に檄もて福防庁に行じ貿易 を監看せしめたる去後、茲に該庁の申称に拠れば、親から柔遠駅に往き て逐件して査看明白ならしめたるに、並も違禁の貨物無し。即ちに該彝 をして装包搬運せしめ、随で球使の通事・館夫の出具(せるもの)を取る に、並も違禁を夾帯すること無く甘結前め来りて存案するの外に、貨 物及び原船上防範の軍器の数を報じたる冊を備造し、茲に夏媼の届期に 値たれば、応に該彝をして風に乗りて国に返らしめ、以て例に照らして 押発して鎮に至るに便ならしむ等の由、前み来る。相応に拠りて転ず べし。伏して憲台の察照して批示するを候ち、以て福防官に行令して彝 船を押発して諞安鎮に至らしめ、該鎮と会同して査験明白ならしめ、兵 を撥して護送出洋せしむるに便ならしむ。回国の日期を取りて憲台に呈 報して具題せしむれば可なり等の縁由、批を奉けたり。前に駅逓の詳に 拠れば、已経に批允ありたれば、押護して鎮を出で、司に仰じて再び福 防官に行り、遵照して開駕回国の日期を取りて呈報し、以て会題に憑ら しめ、冊を炸めて存せしめん。此を奉けたり。本日又総督福浙部院署福 建巡撫事務の興が批を奉けとりたるに、前司の詳は前の由に同じと。 批を奉け詳の如く行令査験して押護せしめ、出洋回国の日期を取りて通 報会題せしめ、仍督部院の批示を候ちて炸奉して、此に倶に経に遵行す ること案に在り。合に就ちに移覆すべし。此が為に由を備えて貴国に移 咨す。事理に依らんことを請う。煩為わくは査照して施行せられたし。 須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕二十九年五月十三日   進貢官員を接するの事   咨す  [注1趙世勲 那覇趙氏の出か。生没年等不詳。2二天 恩人をいう   語。人は常に天恩を蒙っているが、天の外に恩を蒙っているの意。   ここでは貴司(福建布政使司)と督撫両院の恩のこと。3毛文善    久米村毛氏の三世(与世山家)。和宇慶親雲上。一六五〇〜一七二   一年。官は申口座。4総督福浙部院興 興永朝。康煕二十八〜三十   一年の間、諞浙総督任職。5疎縦 なげやりでほしいまま、ゆきと   どかぬこと。6出具 具して出す、提出する。] [四○六 中山王尚貞より聖祖あて、官生梁成楫等三名は父母老年につき帰国奉養せしめたき旨の上奏文]  琉球国中山王臣尚貞、謹んで奏し、恩を*い、帰養を題請し、以て皇 仁を広め、以て孝思を大にせんが事のためにす。  臣が国入監の官生梁成楫等の啓称に拠れば、楫等康煕二十五年に於い て、貢使魏応伯に遵随し、京に進みて入監読書すること今四載に抵る。 皇上優恤の恩もて給するに廩軛衣服を以てするを感荷す。楫等頂踵倶に 捐つると雖も、天恩報いる莫し。況や学海の淵源は深邃にして聖朝の法 制は昭明なるをや。終身其の中に寝食すると雖も亦楫等の深く願う所な り。但だ貢使毛起竜等京に入り、家信に接するを得るに縁り、父母衰老 して閭に倚りて望むを知るのみ。切に楫等三冬の講究宜しく深かるべし と雖も、而も一本の瞻依すること倍々摯し。此に情を陳べ、劉に報いる の日短きの語有る所以を表す。方今皇上仁孝にして、深宮に性成し尊養 の典を隆くし、万方に錫類の風を弘む。楫等幸に成均に側して之を聞 くこと稔あり。叩乞らくは、仰いでは皇上忠を教え孝を教うるの恩を体 し、俯しては下土我をば□し我を恃むの感を憐み、具疏して帰国を題請 するを恩賜い、奉養の私を尽くすを得しむければ、感激涯無し等情と。 此を拠けたれば、該臣貞案ずるに、康煕二十三年に于て冊封天使汪楫題 し、臣が国陪臣の子弟をして入監読書するを准さるるを蒙る。臣貞兪旨 を遵奉し、業に康煕二十五年に於いて官生梁成楫等三人を遣わし、貢使 魏応伯と同に京に進み、仰いで皇上、其れをして入監読書せしめ、月ご とに廩軛を糜やし、季ごとに衣服を給するを荷る。正に梁成楫等高厚に 感泣し、心を殫くして誦読するの時なり。但だ伊の父は、前に経に節次 入貢し、万里梯航するも労瘁を辞する罔し。今皆年老いたり。奉養には 人を需む。臣貞も亦当に之を念うべし。且つ梁成楫等三人は、倶に未だ 室有らず。父母の願いは人皆之有り。況や臣が国人皆愚昧なるをや。梁 成楫等監に進むるの後自り、臣貞望むらくは、其の返国のとき、臣の与 に忠を言い、子の与に孝を言い、以て皇上道を一にし風を同じくするの 化を宣布すること更に浅からずと為す。今梁成楫等の啓に拠れば、帰養 を題請するを乞う等の情あり。親を孝むの一念、亦人の子として無か る可からざる所に似たり。況や観光して年有るをや。読む所は何る書な ればとて親を思う無きの一日に忍びんや。応に其の帰養を准すべきや否 や、臣貞未だ敢えて擅便せず。伏して乞うらくは、皇上叡鑑もて施行ら われたし。臣貞戦慄惶恐の至に任うる無し。謹んで具して奏聞す。   為の字より起こして至の字に至りて止む。五百六字。紙一張。  康煕二十九年十月十一日 琉球国中山王臣尚貞謹んで上奏す  [注1家信 家人からの便り。梁成楫ら官生へ琉球の家族からの手紙。   2閭に倚りて望む 村の門に寄りかかって子の帰りを待ち望むこ   と。3瞻依 あおぎたよる。尊敬し近づきになろうとする。4劉に   …日短き 親が老いて(子が)恩に報いる日の短いこと。5成均    学校のこと。6節次 次第次第に、たびたびの意。] [四〇七 福建布政使司より中山王尚貞あて、進貢使温允傑等の赴京進貢するを許し、飄風の難民嘉賓等二十一人を送還する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の事のためにす。  康煕三十年正月十七日、琉球国中山王尚(貞)が咨を准けたるに開く、 切に照うに敝国は会典に遵依して二年に一次朝貢す。茲に康煕二十九年 向例として進貢するに当たり、敢えて期を愆たず。虔んで任土の常貢の 惓熟硫黄一万二千六百斤・海螺殻三千個・紅銅三千斤等の物を将て進上 す。合行官を遣わして管解すべし。此が為特に耳目官温允傑・正議大夫 金元達・都通事鄭職良等を遣わし、海船二隻に坐駕し、水吮を率領し、 毎船に均*せる上下の員役は共に二百員名を過えず、方物を解運して前 みて福建布政司に至りて投納し、起送して京に赴き併びに表章を齎捧し て聖禧を伸祝す。伏して祈るらくは、貴司例に照らして題明せられんこ とを。進京に官伴及び存留の官伴に至りては、下次の来船を俟ちて回国 せしめ、其の余の員役は、仍原船に坐し、来夏の早媼に于て先に帰るを 賜らば、航海の末員片帆恙無きを得るに庶からん。此が為理として合に 貴司に移咨す。煩為わくは、査照して施行せられたし等の因、司に到る。  此を准け案照したるに、先に稟報の事の為にす。康煕二十九年十月十 三日、総督諞浙部院の興が憲牌を奉けたるに、康煕二十九年十月初十 日、礼部の咨を准けたるに開く、主客清吏史案呈すらく、本部より送れ る礼科の抄出を奉じたるに、該本部、諞浙総督の興の題せる前事に題覆 するの内に開く、該臣等議し得たるに、福建浙江総督にして福建巡撫の 事務を署理する興が疏に称う、琉球国の風を被けて飄来せる船一隻は、 諞安鎮怡山院に到りて湾泊す。難彝の嘉賓等共に二十一人は、該国の麻 姑山に差わし往き、糧を催るのとき、萃に颶風を被け飄流せるものに係 る。船上並も貨物無く、止だ木箱内に粗夏布の衣を貯うる有るのみ。応 に例に照らして駅館に安挿して口糧を給与し豢養して、進貢船の来諞を 俟ちて一同に遣発帰国せしめ、以て柔遠を示すべし等語と。応に琉球国 難彝嘉賓等二十一人を将て、例に照らして口糧を給与して豢養し、該国 の進貢使臣京に到りて返回の日を俟ちて一同に伊の国に発回して可なる べし等の因、康煕二十九年九月十三日題し、本月十五日旨を奉わるに、 議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵して部に抄して司に送る。此を奉け たれば、相応に該督に移咨し遵照せしめて可なるべし等の因、案呈す。 此が為合に咨すべし。煩為わくは、旨内の事理に査照して、欽遵施行せ られたし等の因、部院に到る。此を准けたれば、合に就ちに行せんと擬 て、牌を備えて司に行る。部文内の奉旨の事理に照依して、即ちに琉球 国難彝嘉賓等二十一人を将て、例に照らして口糧を給与して豢養し、進 貢船の返回の日を俟ちて、一同に遣発帰国せしめ、仍発回の日期を将て 具文通報して違うこと毋れ等因と。此を奉け遵行すること案に在り。  又稟報の事の為にす。康煕三十年四月十三日本督院の憲牌を奉けたる に、礼部の咨を准けたるに開く、主客清吏司案呈すらく、本部より送れ る礼科の抄出を奉じたるに、該本部の題せる前事の内に開く、該臣等議 し得たるに、福建巡撫の下、疏して称う、琉球国中山王尚、耳目官温允 傑等を遣わし、方物の硫黄・螺殻・紅銅を進貢す。察験するに該国の印 信執照と相符じければ、倶に館駅に発りて安挿宴待せしめ、別に委官に 行じて同に齎らし進呈せしむ。赴京及び存留の官伴を除くの外、其の余 の員役は、仍原船二隻に坐して摘発先回せしむること、統て部議を聴つ 等語と。今琉球国進貢の来使温允傑等は、応に定例に照らして其の赴京 を准し、其の進貢せる熟硫黄一万二千六百簧は、福建督撫に交与し、例 に照らして収貯せしめ、臣が部より工部に移文するを聴ちて応に用うべ きの処に于て使用せしむ。諞に留まるの官員跟伴は応に例に照らして留 存すべきを除くの外、其の余の員役は、仍応に原船二隻に坐して先行摘 回するを准すべし。又称う、飄風の難彝嘉賓等は守候すること日久し。 応に即ちに今次摘回の官伴と同に回国せしめ、或いは貢使京より回るの 日を俟ちて一同に発回せしむべきや否や、部議の奪るを候つ等語と。査 するに康煕二十九年九月内、福建巡撫の事務を署する総督の興が疏に称 う、琉球国の風を被けて飄来せる船一隻、諞安鎮に到る。難彝嘉賓等二 十一人は、例に照らして口糧を給与して豢養し、部議を聴候つ等語と。 臣が部具題す、該国進貢使臣京に到り返回の日を俟ち、一同に伊の国に 発回せん等因と。具題して文を行ること案に在り。今難彝嘉賓等を将 て、応に使臣温允傑等に発与し、来京して返回するの日、一同に伊の国 に帯回せしむべし。但だ伊等諞に在りて居住すること日久し。応に先に 摘回する船二隻と一同に発回して可なるべし等の因、康煕三十年三月十 一日題し、本月十三日旨を奉われるに、議に依れ、此を欽めよとあり。 欽遵して部に抄し司に送る。此を奉けたれば、相応に移咨すべし。此が 為に合に咨すべし。煩為わくは遵照して施行せられたし等の因、部院に 到る。此を准けたれば、合に就ちに行せんと擬て、牌を備えて司に行 る。部文内の奉旨の事理に照依して、即便ちに欽遵して、前項の硫黄を 将て例に照らして収貯し、部文を聴候ちて撥用せしめ、其の難彝嘉賓等 は、即ちに先に摘回する船二隻と一同に発回せしめ、仍具文して報じ、 査して違うこと毋れ等因と。此を奉けたり。  又前の事の為にす。同日巡撫都察院加三級下の憲牌を奉けたるに、礼 部の咨を准くるに開く、行すること前の因に同じと。司に到る。此を 奉けたれば倶に各々遵行すること案に在り。今前に因を准け、合に就ち に咨覆すべし。此が為に由を備えて貴国に移咨す。請煩わくは、遵照し て施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三十年五月二十一日    進貢の事   咨す  [注1温允傑 首里温氏の五世(翁長家)。森山親方紹基。生没年等不   詳。2鄭職良 久米村鄭氏の十二世(池宮城家)。一六五一〜一七〇   二年。官は正議大夫。3(福建)巡撫都察院加三級下 下永誉。康   煕三十〜三十六年の間、福建巡撫任職。] [四〇八 礼部より中山王尚貞あて、進貢方物のうち海螺殻については以後進むるを免除する旨の咨文]  礼部は琉球国表を具し方物を進貢せんが事のためにす。礼科の抄出 に、該本部の題せる前事あり。内に開く、議し得たるに、琉球国進むる 所の熟硫黄一万二千六百簧は、例に照らして福建布政司に交与して存貯 せしめ、応に工部に移文して其の取用を聴すを除くの外、其の海螺殻三 千個・紅銅三千簧は、相応に総管内務府に交送して、数に照らして査収 して可なるべし等の因、康煕三十年八月二十九日題し、九月十七日旨を 奉われるに、議に依れ。琉球国は航海して入貢す。途遠く労煩すれば、 海螺殻は嗣後進むるを免ず。此を欽めよとあり。欽遵して抄出し部に到 る。相応に知会すべし。此が為合に咨もて前み去かしむ。煩為わくは、 査照して欽遵施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王に咨す  康煕三十年十月初一日 [四〇九 中山王尚貞より福建布政使司あて、接貢船を派遣し京より回る進貢使を福建にて迎接したき旨の咨文]  琉球国中山王尚(貞)は、進貢の官員を接回せんが事のためにす。  切に照うに敝国は康煕二十九年、業に耳目官温允傑・正議大夫金元達 等を遣わし、表章・方物を齎捧して船二隻に駕し、福建に前み来り、 并びに貴司に移咨したり。煩為わくは、督撫両院に転請せられ、起送赴 京して叩しく聖禧を祝らしめんことを。進京の官伴及び存留の官伴を 除くの外、所有の両船の員役の都通事林茂豊・使者戴守敬等、旧例に遵 依して、已に本の年の夏媼に摘回したり。茲に貢使温允傑等、将に京自 り旋らんとす。今特に都通事鄭明良等を差わし、海船一隻に坐駕し、前 みて福建地方に抵り、皇上の勅書并びに欽賜の御物を迎接し、貢使温允 傑等と同に一斉に回国せしめん。伏して祈るらくは、貴司皇仁をもて遠人 を優恤するを恩賜せらるるを仰体し、督撫両院に具詳して、例に照らし て希わくは来船の官伴を将て柔遠駅に安挿し、貢使の京より回るを俟 ち、乞うらくは来夏の蚤媼に于て原船に坐駕して帰るを賜らば、則ち 来冬恭しく貢典を修むること期の如くして愆り無きを得るに庶からん。 更に前の飄風の難彝嘉賓等二十一人は、口糧を恩給し、故土に生還する を得しめたり。尤も大徳の不朽に佩ず。理として合に咨達すべし。此が 為、備に貴司に咨す。請煩わくは察照して施行せられたし。須く咨に至 るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕三十年十月初八日  [注1林茂豊 久米村林氏の二世(平安座家)。新垣親雲上。一六四六〜   一七二三年。官は中議大夫。2戴守敬 不詳] [四一〇 福建布政使司より中山王尚貞あて、接貢船一隻を遣わし、進貢の官員を接回せしめ、また官生梁成楫等三人を帰国せしむるを許可する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の官員を接回せんが事のためにす。  康煕三十年十二月十二日、琉球国中山王尚(貞)が咨を准けたるに開 く、切に照うに、敝国は康煕二十九年に於いて業に耳目官温允傑・正議大 夫金元達等を遣わし、表章・方物を齎捧して船二隻に駕して前来し、并 びに貴司に移咨したり。煩為わくは督撫両院に転請し、起送して京に赴 き、叩しく聖禧を祝らしめんことを。進京の官伴及び存留の官伴を除く の外、所有の両船の員役の都通事林茂豊・戴守敬等は業に貴司皇仁もて 優恤するを恩賜せらるるを仰体するを承け、已に本の年の夏媼に於いて 摘回せり。茲に貢使温允傑等、将に京より旋らんとす。窃に恐る、淹留日 久しくして、虚しく天朝の廩軛を糜やさんことを。例に遵い特に都通事 鄭明良等を遣わし、海船一隻に坐駕し、恭しく皇上の勅書并びに欽賜の 御物を接けしむ。同じく貢使温允傑等のことは、伏して祈るらくは、貴 司より督撫両院に転詳し、希わくは来船を将て安挿し、貢使京より回る を俟ちて、来夏の早媼に于て、原船に坐駕して帰るを賜らば、来冬恭 しく貢典を修むるに、期を愆つの罪を免るるを得るに庶幾からん。更に 前の飄風せる難彝嘉賓等二十一人は、口糧を恩給して故土に生還するを 得しめたり。尤も大徳の不朽なるを佩ず。理として合に咨達すべし。此 が為に備に貴司に咨す。請煩わくは察照して施行せられたし等の因、司 に到る。此を准けて案照せり。  又琉球国表を具して方物を進貢せんが事の為にす。康煕三十年十月二 十日、総督福浙部院の興が憲牌を奉けたるに、康煕三十年十月十七日礼 部の咨を准けたるに開く、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科 の抄出を奉じたるに、該本部の題せる前事あり。内に開く、議し得たる に、琉球国進むる所の熟硫黄一万二千六百簧は、例に照らして福建布政 司に交与して存貯せしめ、応に工部に移文して其の取用を聴すを除くの 外、其の海螺殻三千個・紅銅三千簧は、相応に総官内務府に交送して、 数に照らして査収して可なるべし等因と。康煕三十年八月二十九日題 し、九月十七日旨を奉わるに、議に依れ。琉球国は航海して入貢す。途 遠く労煩す。海螺殻は嗣後進むるを免ず。此を欽めよとあり。欽遵して 部に抄し司に送る。此を奉けたれば、相応に琉球国王並びに福建督撫に 知会して可なるべし等の因、案呈す。合に咨すれば欽遵施行せられよ等 の因、部院に到る。此を准けたれば、合に就ちに行せんと擬て、牌を備 えて司に行る。部文内の奉旨の事理に照依して、即便に欽遵して違うこ と毋れ等因と。此を奉け、本日又巡撫都察院加三級の下が牌を奉けたる に、行すること前の因(に同じとあり)。司に到る。此を奉けたり。  又恩を*め、帰養を題請し、以て皇仁を広め、以て孝思を大にせん が事の為にす。康煕三十年十月二十八日、総督福浙部院の興が憲牌を奉 けたるに、康煕三十年十月二十五日礼部の咨を准けたるに開う、主客清 吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該本部の題 せる前事あり。内に開く、議し得たるに、琉球国王尚が疏に称す、康煕二 十五年官生梁成楫・阮維新・蔡文溥を遣わし、貢使魏応伯と同に京に進 ましむ。皇上其れをして入監読書せしめ、月ごとに廩軛を糜やし、季ご とに衣服を給するを荷蒙す。正に梁成楫等高厚に感泣し、心を殫くして 誦読するの時なり。但だ伊の父、今皆年老い、奉養には人を需つ。且つ 三人は倶に未だ室有らざれば、帰りて養わんことを啓請す。査するに官 生梁成楫・阮維新・蔡文溥は、康煕二十七年九月内旨を奉じて入監読書 してより已経に三年有余、臣が部、官を差わして屡次考試したるに、文 字已経に篇を成す。今該国王既に称う、伊の父年老うも、奉養に人無 し。応に其の請う所を准し。其れをして帰国せしむべしと。又査する に、官生梁成楫等、入監読書するの時、其の供給等の項は、都通事の例 に照らして給発せんと擬す等の因具題し、旨を奉わるに、議に依れ、と あり。欽遵すること案に在り。今梁成楫等の帰国にも亦応に都通事の例 に照らして賞賜し、其の跟伴三名も亦来使の跟伴の例に照らして賞賜せ ん。其の賞賜の物は、該部に於いて移取し、臣が部に在て賞給せん。仍筵 宴一次は駅にして給し、今次の貢使温允傑等に随いて一同に返国せしめん。 命下るの日を俟ちて、琉球国王に知会して可なり等の因、康煕三十年九 月二十四日題し、本月二十七日旨を奉わるに、議に依れ、此を欽めよと あり。欽遵して部に抄し司に送る。此を奉けたれば、相応に福建総督に 知会して可なり等の因、案呈す。此が為に合に咨すべし。査照して施行 せられたし等の因、部院に到る。此を准けたれば、牌を備えて司に行 り、部文内の奉旨の事理に照依して、即便に欽遵して違うこと毋れ等因 と。此を奉けたり。本日又巡撫都察院加三級の下が憲牌を奉けたるに、 行すること前の因に同じとあり。司に到る。此を奉け、倶に各々遵行す ること案に在り。今前の因を准けたれば、合に就ちに咨覆すべし。此が 為由を備えて貴国に移咨す。請煩わくは、遵照して施行せられたし。須 く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三十一年五月十七日   進貢を接回する等の事   咨す [四一一 中山王尚貞より聖祖あて、進貢方物中の海螺殻・紅銅を恩免せられたるにつき、代わりに煉熟白剛錫を進貢したき旨の上奏文]  琉球国中山王臣尚貞、謹んで奏す。進貢の事のためにす。臣貞は、世 々皇恩を受け、允に封典を叨くす。両年一貢して敢えて期を愆たず。 査するに向例は貢する毎に官を遣わし、海船二隻に坐駕し、熟硫黄・海 螺殻・紅銅等の物を装載し、前みて福建布政司に至りて投納し、起送し て赴京すること歴として定例有ること案に在り。  茲に康煕三十一年は貢の期に当たる。礼部の咨を接准けたるに開く、 琉球国表を具して方物を進貢せんが事の為にす。礼科の抄出に、該本部 の題せる前事あり。内に開く、議し得たるに、琉球国進むる所の熟硫黄 一万二千六百簧は、例に照らして福建布政司に交与して存貯せしめ、応 に工部に移文して其の取用を聴すを除くの外、其の海螺殻三千個・紅銅 三千簧は、相応に総管内務府に交送して数に照らして査収せしめて可な るべし等の因、康煕三十八年八月二十九日題し、九月十七日旨を奉わるに、 議に依れ、琉球国は航海して入貢す。途遠くして煩労す。海螺殻は嗣後 進むるを免ず、此を欽めよとあり。欽遵して抄出し部に到る。相応に知 会すべし。照査して欽遵施行せられたし等因と。此を准けたれば、臣貞 伏して思うに、異物を貴ばざるは、聖人の弘規なりと雖も、而も虔んで 土儀を将むるは、実に下臣の微敬なり。況や向例貢する所の海螺殻・紅 銅等の物は涓埃に過ぎずして。敢えて万一を報称せんと云わんや。茲に 荷くも、皇上航海の労瘁を俯念せられ、此の項をして嗣後進むるを免め しむ。聖恩は浩蕩たり。敢えて欽遵せざらんや。但だ臣貞、国小にして、 民貧しければ、微物聊か以て敬を将む。今此の項を併けて進むるを免 むれば、貢典鄙薄に過ぎ、天朝の体統を褻す有るを恐る。臣が罪更に舂 れ難し。今朝貢の期に際し、旨に遵い、海螺殻は進むるを免むるを除く の外、仍旧例に照らして虔んで熟硫黄一万二千六百簧・紅銅三千簧を貢 し、別に改めて煉熟白剛錫一千簧を貢し、敬んで耳目官馬廷器・正議大 夫王可法等を遣わし、親から表文貢物を齎らし、起送して京に赴き、聖 禧を伸祝せしむ。此が為理として合に具疏して奏明す。伏して乞うらく は、皇上叡鑑ありて施行らわれたまわば、臣貞戦慄惶恐の至りに任うる 無し、謹んで具奏して以て聞す。  康煕三十一年十月二十五日 琉球国中山王臣尚貞謹んで上奏す  [注1馬廷器 首里馬氏の出。幸地親方良象。生没年不詳。一七〇〇〜   一七一〇年の間、三司官任職。] [四一二 中山王尚貞より聖祖あて、官生梁成楫等の帰国を恩許せられたるにつき、常貢の外に方物を加添し貢使馬延器に付して恩を謝す旨の上奏文]  琉球国中山王臣尚貞、謹んで奏す。恩を*め、帰養を題請し、以て 皇仁を広め、以て孝思を大にせんが事のためにす。  礼部の咨を准けたるに開く、礼科の抄出に、該本部の題せる前事あ り。内に開く、議し得たるに、琉球国王尚貞が疏に称う、康煕二十五年 官生梁成楫・阮維新・蔡文溥を遣わし、貢使魏応伯と同に京に進まし む。皇上其れをして入監読書せしめ、月ごとに廩軛を糜やし、季ごとに 衣服を給するを荷蒙す。正に梁成楫等高厚に感泣し、心を殫くして誦読 するの時なり。但だ伊の父、今皆年老い、奉養には人を需つ。且つ三人 は倶に未だ室有らざれば、帰りて養わんことを啓請すと。  査するに官生梁成楫・阮維新・蔡文溥は、康煕二十七年九月内旨を奉 じて入監読書してより已経に三年有余、臣が部、官を差わして屡次考試 したるに、文字已経に篇を成す。今該国王既に称う、伊の父年老いたれ ば、奉養人を需つと。応に其の請う所を准し、其れをして帰国せしむべ し。又査するに、官生梁成楫等入監読書するの時、其の供給等の項は、 定例有ること無ければ、都通事の例に照らして給発せんと擬す等因、具 題し、旨を奉わるに、議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵すること案に 在り。今梁成楫等の帰国のときも亦都通事の例に照らして賞給し、其の 跟伴三名も亦来使の跟伴の例に照らして各々賞賜せん。其の賞賜の物 は、該部より移取し、臣が部に在て賞給せん。仍筵宴一次は駅にて給 し、今次の貢使温允傑等に随いて一同に返国せしめ、命下るの日を俟ち て琉球国王に知会して可なり等の因、康煕三十年九月二十四日題し、本 月二十七日旨を奉わるに、議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵して抄出 し部に到る。相応に知会すべし。査照して施行せられたし等因と、此を 准けたり。  臣貞、部咨を接読し、仰いで*旨に遵い、皇上仁孝の性を以て錫類の 風を弘めんことを知る。梁成楫等をして帰養せしむるは、独に三人の闔 門頂祝するのみならず、即ち挙国臣庶、天朝曲成して遺さざるの化に感 じ、歓声道に載たざるは靡し。臣貞仰いで覆載を荷るも高深に報いる莫 し。敬んで常貢の外に於いて、別に嫩熟蕉布一百疋・囲募紙五千張を齎 し、天恩に叩謝す。此が為、貢使馬延器等を遣わし、表を進め恩を謝す るを除くの外、理として合に具奏すべし。伏して乞うらくは、皇上叡鑑 もて施行らわれたまわば、臣貞戦慄惶恐の至りに任うる無し。謹んで具 奏して以て聞す。  康煕三十一年十月二十五日 琉球国中山王臣尚貞謹んで上奏す  [注1闔門 一門残らず、一家全部。2曲成して遺さず つぶさに万物   を作りなおして遺すところがない(『易経』繋辞の上)。] [四一三 中山王尚貞より礼部あて、進貢方物中の海螺殻・紅銅を恩免せられたるにつき、代わりに煉熟白剛錫を進貢したき旨の咨文]  琉球国中山王尚(貞)、進貢の事のためにす。臣貞は世々国恩を受け、 久しく封典を叨くす。両年一貢して敢えて期を愆たず。査するに向例 は、貢する毎に官を遣わし、海船二隻に坐駕し、熟硫黄・海螺殻・紅銅 等の物を装載し、前みて福建布政司に至りて投納し、起送して京に赴く こと、歴として成例有りて案に在り。  茲に康煕三十一年は貢の期に当たる。貴部の咨を接准りたるに開く、 琉球国表を具して方物を進貢せんが事の為にす。礼科の抄出に、該本部 の題せる前事あり。内に開く、議し得たるに、琉球国進むる所の熟硫黄 一万二千六百簧は、例に照らして福建布政司に交与して存貯せしめ、応 に工部に移文して其の取用を聴すを除くの外、其の海螺殻三千個・紅銅 三千簧は、相応に総管内務府に交送して、数に照らして査収せしめて可 なるべし等の因、康煕三十年八月二十九日題し、九月十七日旨を奉わる に、議に依れ、琉球国は航海して入貢す。途遠くして労煩す。海螺殻は 嗣後進むるを免めよ、此を欽めよとあり。欽遵して抄出し部に到りたれ ば、相応に知会すべし。査照して欽遵施行せられたし等因と。此を准け たれば、臣貞伏して思うに、異物を貴ばざるは聖人の弘規なりと雖も、 而も虔んで土儀を将むるは、実に下臣の微敬なり。況や向例貢する所の 熟硫黄・海螺殻・紅銅等の物は涓埃に過ぎずして、敢えて報称せんと云 わんや。茲に荷くも、皇上航海の労瘁を俯念せられ、此の項をして嗣後 進むるを免めしむ。聖恩は浩蕩たり。敢えて欽遵せざらんや。但だ臣 貞、国小にして民貧しければ、微物聊か以て敬を将む。今此の項を併け て進むるを免むれば、貢典鄙薄に過ぎ、天朝の体統を褻す有るを恐る。 臣が罪更に舂れ難し。今貢期に際し、旨に遵い、海螺殻は進むるを免む るを除くの外、仍旧例に照らして、虔んで熟硫黄一万二千六百簧・紅銅 三千簧を貢し、別に改めて煉熟白剛錫一千簧を貢し、敬んで耳目官馬廷 器・正議大夫王可法・都通事鄭士綸等を遣わし、海船二隻に坐駕し、水 吮を率領し、毎船の均*せる上下の官伴は、共に二百員名を過えず、前 項の貢物を装運して福建布政司衙門に投納し、表を齎らし、来使一同に 起送して京に赴き、聖禧を伸祝せしむ。具疏して奏明するを除くの外、 理として合に咨達すべし。此が為に備に貢部に咨す。請煩わくは察照 して施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  康煕三十一年十月二十五日 [四一四 中山王尚貞より礼部あて、官生梁成楫等三人の帰国を恩許せられたるにつき、常貢の外に方物を加添し貢使馬廷器に付して恩を謝す旨の咨文]  琉球国中山王尚(貞)、恩を*め、帰養を題請し、以て皇仁を広め、 以て孝思を大にせんが事のためにす。  貴部の咨を准けたるに礼科の抄出に、該本部の題せる前事あり。内に 開く、議し得たるに、琉球国王尚貞が疏に称う、康煕二十五年官生梁成 楫・阮維新・蔡文溥を遣わし、貢使魏応伯と同に京に進ましむ。皇上其れ をして入監読書せしめ、月ごとに廩軛を糜やし、季ごとに衣服を給する を荷蒙す。正に梁成楫等高厚に感泣し、心を殫くして誦読するの時なり。 但だ伊の父、今皆年老いたり。奉養には人を需つ。且つ三人は倶に未だ 室有らざれば、帰りて養わんことを啓請す。査するに官生梁成楫・阮維 新・蔡文溥は、康煕二十七年九月内旨を奉じて入監読書してより已経に 三年有余、臣が部、官を差わし、屡次考試したるに、文字已経に篇を成 す。今該国王既に称う、伊の父年老い、奉養には人を需つと。応に其の 請う所を准し、其れをして帰国せしむべし。又査するに、官生梁成楫等 入監読書するの時、其の供給等の項は定例有ること無ければ、都通事の 例に照らして給発せんと擬す等の因、具題して、旨を奉わるに、議に依 れ、此を欽めよとあり。欽遵すること案に在り。今梁成楫等帰国のとき も、亦応に都通事の例に照らして大綵緞一表裏・毛青布四疋を賞し、其 の跟伴三名も亦来使の跟伴の例に照らして各々毛青布四疋を賞すべし。 其の賞賜の物は、該部より移取し、臣が部に在て賞給せん。仍筵宴一次 は駅にて給し、今次の貢使温允傑等に随いて一同に返国せしめ、命下る の日を俟ちて、琉球国王に知会して可なり等の因、康煕三十年九月二十 四日題し、本月二十七日旨を奉じたるに、議に依れ、此を欽めよとあ り。欽遵して抄出し部に到りたれば、相応に知会すべし。査照して施行 せられたし等因。此を准け、臣貞部咨を接読したれば、仰いで皇上仁孝 の性を以て錫類の風を弘むるに遵わん。今梁成楫等の帰養するは、独に 三人の闔門頂祝するのみならず、即ち挙国臣庶、天朝曲成して遺さざる の化に感じ、歓声道に載たざるは靡し。臣貞仰いで覆載を荷るも高深に 報いる莫し。敬んで常貢の外に於いて、別に嫩熟蕉布一百疋・囲募紙五 千張を齎らし、天恩に叩謝す。此が為、陪臣馬廷器・王可法を遣わし、 具奏せしむるを除くの外、合に就ちに咨達すべし。此が為備に貴部に咨 す。請煩わくは、察照して施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、礼部に咨す  康煕三十一年十月二十五日 [四一五 福建布政使司より中山王尚貞あて、貢使馬廷器の赴京入貢を許し、進貢方物のうち新たに加えた錫および謝恩の礼物については再議をまつべき旨の咨文]  福建等処承宣布政使司は、進貢の事のためにす。  康煕三十二年正月初八日、琉球国中山王尚(貞)が咨を准けたるに称 う、照得うに敝国は旨を奉じて両年一貢し、敢えて期を愆たず。案査し たるに、向例は貢する毎に官を遣わし、海船二隻に坐駕し、熟硫黄・海 螺殻・紅銅等の物を装載し、前みて福建に至り布政司衙門に投納し、起 送して京に赴くこと歴として成例有りて案に在り。  茲に康煕三十一年は貢の期に当たる。礼部の咨を接准けたるに開く、 琉球国は表を具し方物を進貢せんが事の為にす。礼科の抄出に、該本部 の題せる前事あり。内に開く、議し得たるに、琉球国の進むる所の熟硫 黄一万二千六百簧は、例に照らして福建布政司に交与して存貯せしめ、 応に工部に移文して其の取用を聴すを除くの外、其の海螺殻三千個・紅 銅三千簧は、相応に総管内務府に交送して数に照らして査収せしめて可 なり等の因、康煕三十年八月二十九日題し、九月十七日旨を奉わるに、 議に依れ、琉球国は航海して入貢す。途遠くして煩労す。海螺殻は嗣後 進むるを免めしめよ。此を欽めよとあり。欽遵して抄出し部に到る。相 応に知会すべし。査照して欽遵施行せられたし等因。此を准け窃に思う に、任土の常貢は実に海国の微忱を表わすも、荷くも皇上航海の辛労を 俯念せられ、此の項をして嗣後進むるを免めしむるを蒙る。聖恩浩蕩た ること千載に一時なり。敢えて欽遵せざらんや。但だ敝国は地瘠せ民貧 しければ、土物聊か以て敬を将む。今此の項を併けて亦免むれば、恐ら くは薄きに過ぎて褻すこと有らん。自ら返て惶悚たり。今貢期に際 し、旨に遵い、海螺殻は進むるを免むるを除くの外、仍旧例に照らして 虔んで熟硫黄一万二千六百簧・紅銅三千簧を貢し、別に改めて煉熟白剛 錫一千簧を貢す。更に官生梁成楫等、旨を奉じて帰国すれば、附して謝 恩の土儀、嫩熟蕉布一百疋・囲募紙五千張を解る。特に耳目官馬廷器・ 正議大夫王可法・都通事鄭士綸等の官を遣わし、海船二隻に坐駕して水 吮を率領し、毎船に均*せる上下の官伴は共に二百員名を過えず、前項 の貢物を装運して福建布政使司に前み詣りて投納し、起送して京に赴き 併びに表章を齎捧して聖禧を伸祝す。進京の官伴及び留辺の官伴に至り ては下次の来船を俟ちて回国せしめ、其の余の員役人等は、仍原船に坐 して来夏の早媼に於いて先に発回するを賜い、航海の蟻員をして帆檣恙 無からしめば、大徳を仞たすに足る。相応に移咨すべし。此が為に備に 貴司に咨す。請煩らくは察照して具題し施行せられたし等の因、司に到 る。此を准けたり。  又稟報の事の為にす。本年四月二十九日、総督福浙部院加五級の朱の 憲牌を奉けたるに、康煕三十二年四月二十七日礼部の咨を准くるに開 く、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、 該本部、福撫の下の題せる前事に題覆するの内に開く、該臣等議し得た るに、福建巡撫の下の疏に称う、琉球国中山王尚貞、耳目官馬廷器等を 遣わし、方物の硫黄・紅銅を進貢し、并びに改めて煉熟白剛錫及び官生 梁成楫等帰国の謝恩の囲募紙・嫩蕉布を進む。査験するに該国印信執照 と相符じければ、倶に館駅に発りて安挿宴待せしむ。別に委官に行じて 来使と同に進呈せしめ、赴京及び存留の官伴を除くの外、其の余の員役 は、仍原船二隻に坐し、并びに前年の接貢して存留せる官伴を将て一併 に附搭返国せしむること、統べて部議を聴つ等語と。応に琉球国の進貢 来使馬延器等をして、例に照らして其の赴京を准すべし。貢する所の熟 硫黄一万二千六百簧は、福建督撫に交与し、例に照らして収貯せしめ、 臣が部より工部に移文するを聴ち、応に用うべきの処に於いて使用せし め、留諞の官伴も亦例に照らして存留せしめ、其の余の員役は仍応に原 船二隻に坐して先に摘発を行うべし。改め進むる煉熟白剛錫及び謝恩の 礼物に至りては、貢使の京に到るの日を俟ちて再び議して可なり等の 因、康煕三十二年三月二十六日題し、本月二十八日旨を奉わるに、議に 依れ、此を欽めよとあり。欽遵して抄出し部に到り司に送る。此を奉け たれば、相応に福建総督に移咨して可なり等因、堂に呈す。合に咨すべ し。旨内の事理に査照して欽遵施行せられたし等の因、部院に到る。此 を准け、合に就ちに行せんと擬て、此が為に牌を備えて司に行ず、部文 内の奉旨の事理に照依して即ちに琉球国進貢の来使馬延器等を将て、例 に照らして委官にて伴送して赴京せしめ、其の熟硫黄一万二千六百簧 は、該司遂一察明し、謹を加えて収貯し、部の撥用するを候つ。同来の 官伴に至りては、赴京及び留諞を除くの外、其の余の員役は、即ちに仍 原船二隻に坐し、先に摘発回国を行わしめ、開駕の日期を将て一併に具 文詳報せしめて違うこと毋れ等因と。此を奉けたり。又巡撫都察院加三 級の下の憲牌を奉けたるに、礼部の咨を准くるに前の由に同じとあ り。院に到り司に行る。此を奉けたれば、倶に各々遵行すること案に在 り。今前の因を准け、合に就ちに咨覆すべし。此が為、由を備えて貴国 に移咨す。事理に依らんことを請う。煩為わくは知照して施行せられ よ。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三十二年五月二十九日   進貢の事   咨す  [注1総督福浙部院加五級朱 朱宏祚。康煕三十一〜三十三年の間、浙   諞総督任職。] [四一六 礼部より中山王尚貞あて、馬延器等の入貢せる方物を査収し、欽賞の礼物並びに勅諭一道を頒賜する旨の咨文]  礼部、知会せんが事のためにす。照得したるに琉球国中山王は、耳目 官馬延器等を差わし、表を具して方物及び入監読書の官生梁成楫等帰国 の謝恩の礼物を進貢す。部に到る。本部例に照らして具題して査収せ り。所有の欽賞の礼物には、特に勅論一道を頒つ。相応に知会すべし。 此が為、合に咨もて前み去かしむ。遵照して施行せられんことを。須く 咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕三十二年十月初二日   咨す [四一七 福建布政使司より中山王尚貞あて、接貢都通事毛文善をして貢使馬延器等を接回せしむるを許す旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の官員を接せんが事のためにす。  康煕三十三年二月二十二日、琉球国中山王尚(貞)の咨を准けたるに開 く、切に照うに、康煕三十一年冬、特に耳目官馬延器・正議大夫王可法 等を遣わし、吮役を帯領して船二隻に駕し諞に来たる。齎捧せる表章・ 方物は已経に移咨して司に到る。煩為わくは、起送して京に赴かしめ、 恭しく三十一年の貢典を進めたる外、摘回の都通事・使者、金世銘・翁 宗摧等に至りては、貴司、督撫両院に具詳し、例に照らして題明するを 荷蒙し、仍原船に坐して、本年七月間、方に見に国に回りたり。但だ入 覲の官伴及び存留の官伴は、向例該国撥船して接回するを准し、久しく 諞地に淹まりて以て天朝の廩軛を糜やすに至らしめず。此が為、特に都 通事毛文善等を遣わし、水吮を率領し、海船一隻に坐駕して前み来り、 皇上の勅書併びに欽賞の物件を迎接し、貢使馬延器等と同に一斉に回国 せしめん。伏して乞う、督撫両院に転詳し、例に照らして題明せられん ことを。乞うらくは来夏の蚤媼に帰るを賜らば、則ち来貢期の如くして 愆り無きに庶からん等の縁由、司に到る。此を准け、案照せり。  又稟報の事の為にす。康煕三十三年二月二十七日、総督福浙部院加五 級の朱の批を奉けたるに、前司呈詳す。査得するに琉球国王の遣官せる 毛文善等、官伴・水吮を率領し、海船一隻に坐駕し、諞に来りて接貢 す。業経に報明して憲台の批を奉けたるに、速やかに飭して盤験せし め、例に照らして冊を造りて詳報せよ等の因あり。遵即に福州府に行令 し、城守営と会同して例に照らして盤験し、造冊詳報せしめ去後、今福 州府知府石之*の申称に拠れば、琉球国着来し、皇上の勅書、欽賞の物 件を迎接し、貢使馬延器・王可法等と并に回国せしむ。坐駕せる義字五 十五号海船一隻は、官伴八十三員を装載し、王府の銀両・土産・食物を 随帯し、旧年十一月初一日本国に在て開船し、馬歯山に到りて風を候 つ。初三日開洋、擬らずも初五六等の日、萃に颶風に遭い、沿途飄泊 し、今年二月十五日に至って怡山院地方に到る。本月十八日に至って内 港に吊進し、随で二十日に于て福州城守副将陳国任と会同し、親から柔 遠駅に詣り、例に照らして験明して安挿したり。但だ接貢船隻は、彼の 国開洋して風に遭い、飄流阻滞せしより四閲月、例に照らして夏媼に于 て遣発帰国せしむれば、安瀾にして恐るる無きに庶からん等因と。又琉 球国の咨を准けたるに請う、接貢船隻は例に照らして乞うらくは夏至に 于て仍原船に坐し、蚤媼に帰るを賜らば、来貢期に愆うを免るるを得る に庶からん各等の情、前み来る。今該府営査験の縁由及び准けとりた る該国咨文を将て備に叙べて転詳し、并びに官伴水吮の員名、防船の軍 器、随帯の土産・銀両を将て逐一冊を造り、分別して摘回し、存留・附 搭・京回の貢使・跟伴の員名は冊を造りて憲台に呈送し、察照して会題 せしむれば可なり等の縁由あり。批を奉けたれば、仰いで撫都院の会題 を候ちて炸たさん。此を奉け、同日又本部院帯管巡撫印務の朱の批を 奉けたるに、本司の詳は前の由に同じとあり。批を奉け、仰いで具題す るを候ち、仍督部院の批示を候ちて炸たさん。此を奉け、今前の因を准 けたれば、合に就ちに咨覆すべし。此が為に由を備えて貴国に移咨す。 事理に依らんことを請う。煩為わくは、察照して施行せられたし。須く 咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三十三年閏五月十七日  [注1金世銘 久米村金氏の九世(与座家)。屋慶名親雲上。一六四六   〜? 官職等不詳。2翁宗摧 首里翁氏の出。家名等不詳。] [四一八 中山王尚貞より福建布政使司あて、貢期に当たり耳目官翁敬徳等を遣わし入貢せしむるにつき、よろしく取り計らわれたき旨の咨文]  琉球国中山王尚(貞)、進貢の事のためにす。照得うに、敝国は旨を奉 じて両年に一次朝貢す。欽遵すること案に在り。査するに、康煕三十三 年は、貢の期に当たる。特に耳目官翁敬徳・正議大夫蔡応瑞・都通事梁 成楫等を遣わし、海船二隻に坐駕し、惓熟硫黄一万二千六百簧・紅銅三 千簧・煉熟白剛錫一千簧を分装して、前みて福建布政使司に至りて投納 し、督撫両院に転詳して題明せられんことを乞為い、陪臣翁敬徳等をし て表文・方物を齎らし解り、京に赴きて聖禧を叩祝せしめたる外、所有 の原船二隻は、仍乞いねがわくは、貴司歴貢の事例を査明し、其の余の 員役を将て、来歳夏至の期の媼に於いて、時に及びて遣発回国せしむる を賜うを准さば、末員海上の驚涛に至らざらん。皆貴司再生の徳に出ず るなり。貞は海浜にありて浅陋なれども、夙に貴司の清廉恵愛にして遠 迩恩に沾うを仰ぐ。奈んせん洪涛遠く隔つれば、趨りて教誨を承くるに 由無し。徒だ深く領を引して蛩私す。此の番の接貢使者毛文善等回国し、 備に在諞の顛末を述ぶ。清風高節もて諞疆に砥柱するを見るに足る。万 里の遠人益々深く感激す。茲に入貢の期に当たり、敢えて腹心を布き、 遥かに謝悃を伸ぶ。更に進貢には未だ悉さざるの事宜有り。誠に末員駑 鈍にして事に任ずるに堪えざるを怒る。統て祈る、貴司始終照払せんこ とを。此が為、理として合に貴司に移咨すべし。煩為わくは査照して施 行せられたし。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕三十三年十月初六日発る  [注1翁敬徳 首里翁氏の五世。佐久真親方忠祐。生没年等不詳。2領   を…蛩私す 襟をのばして(首をちぢめて)、おそれつつしむ。   3照払 世話する、面倒をみる。] [四一九 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官翁敬徳等の赴京入貢するを許し、また飄風の難彝西表等四十一名を貢船に附搭せしめて帰国させる旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の事のためにす。  康煕三十三年十二月初五日、琉球国中山王尚(貞)の咨を准けたるに称 う、照得うに敝国は旨を奉じて両年に一次朝貢す。欽遵すること案に在 り。査するに、康煕三十三年は、貢の期に当たる。特に耳目官翁敬徳・ 正議大夫蔡応瑞・都通事梁成楫等を遣わし、海船二隻に坐駕し、惓熟硫 黄一万二千六百簧・紅銅三千簧・煉熟白剛錫一千簧を分装して、前みて 福建布政使司に至りて投納す。乞為うらくは、督撫両院に転詳して題明 せられ、陪臣翁敬徳等をして表文・方物を齎らし解り、京に赴きて聖禧 を叩祝せしめたる外、所有の原船二隻は、仍、乞うらくは、貴史歴貢の 事例を査明し、其の余の員役を将て、来歳夏至の期の媼に於いて、時に 及びて遣発回国するを賜うを准さば、末員海上の驚涛に至らざらん。皆 貴司再生の徳に出ずるなり。貞は海浜にありて浅陋なれども、夙に貴司 の清廉恵愛にして遠迩恩に沾うを仰ぐ。奈んせん洪涛遠く隔つれば、趨 りて教誨を承くるに由無し。徒だ深く領を引して蛩私す。此の番の接貢 使者毛文善等回国し、備に在諞の顛末を述ぶ。清風高節にして諞疆に砥 柱するを見るに足る。万里の遠人益々深く感激す。茲に入貢の期に当た り、敢えて腹心を布き、遥かに謝悃を伸ぶ。更に進貢には未だ悉さざる の事宜有り。誠に末員駑鈍にして事に任ずるに堪えざるを恐る。統て祈 る、貴司始終照払せんことを。此が為、理として合に貴司に移咨すべ し。煩為わくは、査照して施行せられたし等因と。此を准けたり。  又稟報の事の為にす。康煕三十四年三月十四日、巡撫都察院加三級の 下の憲牌を奉けたるに、康煕三十四年三月十二日礼部の咨を准けたる に、主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、 該本部、福建巡撫の下の題せる前事に題覆するの内に開く、議し得たる に、福建巡撫の下、疏して称う、琉球国中山王尚貞、耳目官翁敬徳等を 遣わし、方物の硫黄・紅銅・煉熟白剛錫を進貢す。査験したるに、該国 の印信執照と相符じければ、倶に館駅に発り、安挿宴待せしめ、別に 委官に行じて来使と同に進呈せしむ。赴京及び存留の官伴を除くの外、 其の余の員役は、仍原船二隻に坐し并びに前年の接貢して存留せる官伴 を将て一同に附搭返国せしめん。統て部議を候つ等語と。  査するに、琉球国貢する所の方物は、前年の数目と相符じければ、進 貢来使翁敬徳等を将て定例に照らして其の赴京を准し、貢する所の熟硫 黄一万二千六百簧は、福建督撫に交与し、例に照らして収貯せしめ、臣 が部より工部に移文するを聴ちて応に用うべきの処に于て使用せしめ、 留諞の官伴も亦例に照らして存留せしむるの外、其の余の員役は、仍原 船二隻に坐し、先行摘発せしめて可なり等因と。康煕三十四年二月初九 日題し、本月十一日旨を奉わるに、議に依れ、此を欽めよとあり。欽遵 して抄出し部に到り、司に送る。此を奉けたれば、相応に福建巡撫に移 咨して可なるべし等の因、堂に呈す。批を奉けたるに照行せよ、とあり。 合に咨もて前み去かしむべし。煩為わくは、査照して施行せられたし等 の因、都院に到る。此を准けたれば、合に就ちに行せんと擬て、此が為 に牌を備え、司に行る、備に咨文内の、奉旨の事理に照らして即便に遵 照し、仍起程・赴京・回国の各日期を将て詳報具題し、遅延するを得る 毋れ等因と。此を奉けたり。同日又総督福浙部院の事務を署理する撫院 の下の憲牌を奉けたるに、礼部の咨を准くるに開く、行すること前の因 に同じとあり。司に到る。此を奉けたり。  又稟報の事の為にす。康煕三十四年四月三十日、本都院の憲牌を奉 け、本年四月二十八日礼部の咨を准くるに、主客清吏司案呈すらく、本 部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該本部、福建巡撫の下の題せる 前事に題覆す等因あり。康煕三十四年二月十二日題し、三月十九日旨を 奉じたるに、該部議奏せよ。此を欽めよとあり、欽遵して、本月二十日 に于て部に到る。議し得たるに、福建巡撫の下、疏して称う、琉球国 の、風を被け飄来せる船一隻、諞省鎮海地方に到りて湾泊す。難彝西表 等男婦共に四十一名口は、琉球国より麻姑山に差わし往き、糧米を装載 し、伊の国に運至せしむるに係る。島に回るのとき萃に颶風を被け、飄 流して諞に到る。船上並も貨物無し。止だ随帯の行李有るのみ。応に 例に照らして駅館に安挿し、口糧を給与し、夏至の風媼の至るを俟ち、 貢船と一同に遣発して回国せしめ、以て柔遠を示すべし等語と。応に琉 球国難彝西表等四十一名口を将て、例に照らして口糧を給与し豢養し て、夏至の風媼を俟ちて貢船と一同に伊の国に発回せしめて可なるべ し。康煕三十四年三月三十日題し、四月初二日旨を奉わるに、議に依 れ、此を欽めよとあり。欽遵す等の因、堂に呈す。批を奉けたるに照行 せよ、とあり。相応に移咨すべし。此が為、合に咨もて前み去かしむ。 査照して遵行せられよ等の因、都院に到る。此を准け、合に就ちに行せ んと擬て、牌を備えて司に行る。備に咨文内の奉旨の事理に照らして即 便に欽遵査照して違うこと毋れ等因と。此を奉けたれば、倶に各々遵行 すること案に在り。今前の因を准けたれば、合に就ちに咨覆すべし。此 が為、由を備えて貴国に移咨す。事理に依がわんことを請す。煩為わく は知照して施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三十四年五月十五日   進貢の事   咨す [四二〇 礼部より中山王尚貞あて、耳目官翁敬徳等の入貢せる方物を査収し、欽賞の礼物並びに勅諭一道を頒賜する旨の咨文]  礼部、知会の事のためにす。主客清吏司案呈すらく、照得したるに、 琉球国中山王は耳目官翁敬徳等を差わし、表を具して方物を進貢す。本 部、例に照らして具題して査収せり。所有欽賞の礼物には、特に勅諭一 道を頒つ。相応に琉球国王に知会して可なるべし等の因、堂に呈す。批 を奉けたるに、照行せよとあり。此が為、合に咨もて前み去かしむ。欽 遵して施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国王に咨す  康煕三十四年十月初二日 [四二一 福建布政使司より中山王尚貞あて、貢使翁敬徳等の帰国につき、都通事蔡惠等をして接回せしむるを許可する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の官員を接回せんが事のためにす。  康煕三十四年十二月初九日、琉球国中山王尚(貞)の咨を准けたるに開 く、窃に照るに康煕三十三年冬、特に耳目官翁敬徳・正議大夫蔡応瑞 等を遣わし、吮役を帯領し、船二隻に駕し、表章・方物を齎捧すること 已経に移咨して司に到る。煩為わくは起送して京に赴き、恭しく三十三 年の貢典を進めたる外、摘回する都通事・使者の梁珍材・毛興竜等に至 っては、貴司より督撫両院に具詳し、例に照らして題明せらるるを荷蒙 し、仍原船に坐して、本の年六月内に于て、方に見に回国したり。但だ 入覲の官伴又び存留の官伴は、向例該国撥船して接回するを准し、久し く諞地に淹まりて以て天朝の廩軛を糜やすに至らしめず。此が為、特に 都通事・使者の蔡惠・温允俊等を遣わし、水吮を率領し、海船一隻に坐 駕し、前み来りて皇上の勅書併びに欽賞の物件を迎接し、貢使翁敬徳 等と同に一斉に回国せしめん。伏して乞うらくは、督撫両院に転詳し、 例に照らして題明せられんことを。乞うらくは、来夏の蚤媼に于て帰る を賜らば、則ち来貢期の如くして愆無きに庶からん。且つ又難彝西表 等共に四十一名は、口糧を恩給せられ、故土に生還するを得しめたり。 尤も大徳の不朽なるに佩ず、等の縁由、司に到る。此を准け、案照せり。  又稟報の事の為にす。康煕三十四年十二月二十二日、総督福浙部院の 郭の批を奉け、本司呈詳す。査得するに、琉球国の遣官せる蔡惠等、官 伴水吮を率領し、海船一隻に坐駕し、来諞接貢す。詳して批を奉けたる に、司飭令して盤験安挿し、例に照らして通詳せよ等の因あり。遵即に 福防庁に行令し、城守営と会同して例に照らして盤験し、造冊詳報した る去後、今福州府海防同知王駿の申称に拠れば、査するに該国差わし来 りて皇上の勅書・欽賞の物件を迎接し、并びに朝京の貢使翁敬徳等を 接回せんとして、義字五十九号海船一隻に坐駕し、都通事蔡惠等官伴水 吮共に八十一員名を装載し、土産・食物を随帯して、康煕三十四年十一 月二十三日、怡山院地方に湾泊す。本月三十日に至って内港に吊進し、 遵いて経に福州城守副将陳国任と会同して、親から柔遠駅に詣り、例に 照らして会験明白ならしめて安挿せしむ等由と。又琉球国の咨を准けた るに、請う、接貢船隻は例に照らして、乞うらくは来夏の蚤媼に于て帰 るを賜らば、来貢期の如くして愆り無きに庶からん等の因、司に到る。合 に該庁営の盤験の縁由及び准けとりたる該国咨文を将て、備に叙べて転 詳し并びに官伴水吮の員名・防船の軍器・随帯の土産・銀両を将て逐一 造冊して分別し、摘回の在留、京回の貢使・跟伴の員名は造冊して呈送 す。伏して憲台の察照して会題するを候つ等の縁由あり。批を奉けたれ ば、仰いで撫院の察核して会題するを候ちて冊を炸めて在査す。此を奉 け、同日又巡撫都察院加三級の下の批を奉けたるに、本司詳すること前 の由に同じ。此を奉け、仰いで会題を候つ。仍督部院の批示を候ちて、 冊抄を炸め、照存せよとあり。此を奉けたれば、遵行すること案に在 り。今前の因を准けたれば、合に就ちに咨覆すべし。此が為に貴国に移 咨す。事理に依らんことを請う。煩為わくは、知照して施行せられた し。須く咨に至るべき者なり。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三十五年五月十五日   進貢の官員を接回するの事   咨す  [注1梁珍材 久米村梁氏の三世(富山家?)。外間親雲上。生没年等   不詳。2毛興竜 首里毛氏の六世(宇江城家)。小波津親方安之。   生没年等不詳。3蔡惠 久米村蔡氏の十一世(儀間家)。福地親雲   上。一六六二〜一七一三年。官は申口座。4温允俊 首里温氏の六   世(玉元家)。本部親雲上紹有。生没年等不詳。5総督福浙部院郭    郭世隆。康煕三十四〜四十一年の間、諞浙総督任職。6存査 保   存して後日の調査に備えること。7照存 証拠のために保存する。] [四二二 中山王尚貞より福建布政使司あて、貢期に当たり耳目官毛天相等を遣わし進貢せしむるにつき、よろしく取り計らわれたき旨の咨文]  琉球国中山王尚(貞)、進貢の事のためにす。切に照うに、敝国は海陬 に僻処し、世々天朝の洪恩に沐し、貢典に遵依して二年に一次朝貢す。 欽遵すること案に在り。  査するに康煕三十五年は貢の期に当たる。特に耳目官毛天相・正議大 夫鄭弘良、都通事程順則等を遣わし、海船二隻に坐駕し、惓熟硫黄一万 二千六百簧・紅銅三千簧・煉熟白剛錫一千簧を分装し、前みて福建等処 承宣布政使司に至り投納す。乞為うらくは、督撫両院に転詳して題明せ られ、陪臣毛天相等をして表文・方物を齎らし解り、京に赴きて聖禧を 叩祝せしめたる外、所有の原船二隻は、仍乞うらくは、貴司歴貢の事例 を査明し、其の余の員役を将て、来歳夏至の期の媼に於いて、時に及び て遣発回国せしむるを賜うを准さば、末員海上の驚涛に至らざらん。皆 貴司再生の徳に出ずるものなり。貞は海陬に僻処するも、夙に貴司清廉 恵愛にして遠近恩に沾うを仰る。奈何せん、万里の波涛なれば趨きて教 誨を承くるに由無し。徒だ深く領を引して蛩私す。茲に入貢の期に当た り、誠に末員駑鈍にして事に任ずるに堪えざるを恐る。統て祈る、貴司 始終照払せんことを。此が為、理として合に貴司に移咨す。煩為わくは 査照して施行せられたし。須く咨に至るべき者なり。   右、福建等処承宣布政使司に咨す  康煕三十五年十月二十日  [注1毛天相 首里毛氏の八世(池城家)。池城親方安倚。一六六九〜   一七一〇年。一六九九〜一七一〇年の間、三司官任職。2程順則    久米村程氏の七世(名護家)。名護親方。一六六三〜一七三四年。   職は総理唐栄司。官は三司官座敷。那覇−福州間の航海の指南書   『指南広義』や漢詩集『雪堂燕遊草』を著わすなど学者・文人とし   ても著名。] [四二三 福建布政使司より中山王尚貞あて、耳目官毛天相等の赴京入貢を許可する旨の咨文]  福建等処承宣布政使司、進貢の事のためにす。  康煕三十五年十二月十七日、琉球国中山王尚(貞)の咨を准けたるに開 く、切に照うに、敝国は海陬に僻処し、世々天朝の洪恩に沐す。貢典に 遵依して二年に一次朝貢す。欽遵すること案に在り。  査するに康煕三十五年は、貢の期に当たる。特に耳目官毛天相・正議 大夫鄭弘良・都通事程順則等を遣わし、海船二隻に坐駕し、惓熟硫黄一 万二千六百簧・紅銅三千簧・煉熟白剛錫一千簧を分装して、福建等処承 宣布政使司に前み至りて投納す。乞為うらくは、督撫両院に転詳して題 明せられ、陪臣毛天相等をして表文・方物を齎らし解り、京に赴きて聖 禧を叩祝せしめたる外、所有の原船二隻は、仍乞うらくは、貴司歴貢の 事例を査明し、其の余の員役を将て、来歳夏至の期の媼に於いて、時に及 びて遣発回国せしむるを賜うを准さば、末員海上の驚涛に至らざらん。 皆貴司再生の徳に出ずるなり。貞は海陬に僻処するも、夙に貴司清廉恵 愛にして遠近恩に沾うを仰る。奈何せん、万里の波涛なれば、趨きて教 誨を承くるに由無し。徒だ深く領を引して蛩私す。茲に入貢の期に当た り、誠に末員駑鈍にして事に任ずるに堪えざるを恐る。統て祈る、貴司 始終照払せんことを。此が為に理として合に貴司に移咨す。煩為わくは 査照して施行せられたし等因と。此を准けたり。  又稟報の事の為にす。康煕三十六年四月十九日、総督諞浙部院の郭の 憲牌を奉けたるに、康煕三十六年四月十七日礼部の咨を准くるに開く、 主客清吏司案呈すらく、本部より送れる礼科の抄出を奉じたるに、該本 部、福建巡撫の下の題せる前事に題覆するの内に開く、該臣等議し得た るに、福建巡撫の下の疏に称う、琉球国中山王尚貞、耳目官毛天相等を 遣わし、方物の硫黄・紅銅・煉熟白剛錫を進貢す。査験したるに該国の 印信執照と相符じければ、倶に館駅に発り、安挿宴待せしめ、別に委官 に行じて、来使と同に進呈せしむ。赴京及び存留の官伴を除くの外、其 の余の員役は、仍原船二隻に坐し并びに前年の接貢して存留せる官伴を 将て一同に附搭返国せしめん。統て部議を候つ等語と。  査するに琉球国貢する所の方物は、前年の数目と相符じければ、進貢 来使の毛天相等を将て、定例に照らして、其の赴京を准し、貢する所の 熟硫黄一万二千六百簧は、福建督撫に交与し、例に照らして収貯せしめ、 臣が部より工部に移文するを聴ちて、応に用うべきの処に於いて使用 せしめ、留諞の官伴も亦例に照らして存留せしめたる外、其の余の員役 は仍応に原船二隻に坐し、先行摘発せしめて可なるべし等の因あり、康 煕三十六年閏三月十三日題し、本月十五日旨を奉わるに、議に依れ、此 を欽めよとあり。欽遵して部に抄し司に送る。此を奉けたれば、相応に 福建総督に移咨して可なるべし。合に咨すべし、査照して施行せられた し等因、部院に到る。此を准けたれば、、合に就ちに行せんと擬て、牌を 備えて司に行る。部文内の奉旨の事理に照依して、即便に欽遵し、熟硫 黄を将て立即に数に照らし、謹を加えて収貯せしめ、撥用を聴候つ。仍 来使及び摘回する官伴の赴京・回国の各日期を将て、併せて即ちに査明 通詳して以て察奪会題に憑らしめて、違うこと毋れ等因と。此を奉け、 本月二十日、又巡撫の事務を署する総督部院の郭の憲牌を奉けたるに、 礼部の咨を准くるに開く、行すること前の因に同じと。院に到り、司に 行る。此を奉け、遵行すること案に在り。今前の因を准けたれば、合に 就ちに咨覆すべし。此が為、由を備えて貴国に移咨す。事理に依らんこ とを請う。煩為わくは知照して施行せられたし。須く咨に至るべき者な り。   右、琉球国中山王尚に咨す  康煕三十六年五月十四日   進貢の事   咨す