Readingバトン(森直人 人文社会系准教授)

2013年9月19日
Readingバトン -教員から筑波大生へのmessage-
五十嵐先生に続く第8走者として、森直人 人文社会系准教授から寄稿いただきました。

 

Pick Up

 

『社会学の方法 : その歴史と構造』</a>佐藤俊樹著.ミネルヴァ書房 , 2011 【分類361-So63-5】

Pick Up

『社会理論と社会構造』ロバート・K・マートン著 森東吾[ほか]訳.みすず書房 , 1977 【分類361-Me69】

Book Review
 身の回りの気になることを何でも研究対象にできる――学生のみなさんにとっては、それが社会学の魅力の一つになっているようです。裏を返すと、対象によっては学問を定義づけられず、またどういう研究対象であるかによって用いられる研究手法にも大きな多様性がありますから、学問としての統一的なイメージを描きにくい原因にもなっています。とにかく斜に構えて「常識的」な見方を「ひっくり返す」(のを趣味にしている)のが社会学だというイメージすら抱かれている感もあります。そのどれもが――まったく的外れだとはいえないにしても――きわめて一面的な印象にすぎず、表層的には多様にみえる社会学という学問の基底にあるものを取りだすことに失敗しています。
 佐藤俊樹さんの『社会学の方法――その歴史と構造』(ミネルヴァ書房)の第Ⅰ部「社会学の形成と展開」は、デュルケーム、ジンメル、ウェーバー、パーソンズ、マートン、ルーマンという6人の「偉大な社会学者」の人生と考察の軌跡を辿るなかで、上にみたような混沌あるいは拡散する社会学のイメージをもう少し焦点の合った像に変えてくれることでしょう。6人の「偉大な社会学者」の社会学の「使い方」を紹介すること、それ自体が社会学の「使い方」の一つの実践例にもなるよう意識して書かれた本です。
 「社会学は社会の内部観察である」――佐藤さんの本を読むと、これが社会学のいちばん根底にある重要な条件であるように思われます。社会科学のなかで最も遅れて誕生した社会学は――ちなみに佐藤さんが取り上げた6人の「偉大な社会学者」のうち最初から「社会学者」だったのはマートンだけです――、他の諸科学がすでに検討の俎上に載せたものも載せそこなったものも、「すべて」ひっくるめて研究対象にする、と、たしかにそう考えがちだったところはあるようです。社会学は経済も政治も法も教育も……「社会全体」を対象にするのだ、と。
 ところが、そう考えてしまったところで大きな問題に直面します。「社会全体」のなかには当然「そのように考え/観察している社会学者自身」も含まれるからです。観察対象が社会の「一部」であるなら、観察者自身は対象の「外部」にいられます。その場合、自然科学が自然現象を観察するのと同じように対象を観察することができる――いいかえれば、対象を観察者自身とは切り離されたものとして見ることができる。ところが、「観察者自身もまた観察対象の内部にある」場合には、そのような「科学」モデルを貫徹することができません。社会学の観察は、そういう「観察される対象の内部」からの観察にならざるをえない。ですが、「内部からの観察」はほんとうに――当初みずから宣言したとおり――「全体」を見渡すことができるでしょうか? たぶん、むずかしい。というより、「全体を見る」が成立しているかどうかを判定する基準や根拠が不明です。むしろ、「全体を見る」と宣言してしまったことから帰結する重要な根本条件とは、「社会学は社会の内部観察である」ということ(を「正面から」引き受けなければならないこと)にあるのではないでしょうか。
 佐藤さんは「社会の内部観察である」ことが要請した社会学の底流にある共通性を、「常識をうまく手放す」と「社会が社会をつくる」という2つの考え方の組み合わせに見出したうえで、デュルケームからルーマンにいたる100年以上にわたる社会学の考察の軌跡を整理していきます。あれほど多種多様、てんでばらばらにみえた社会学者たちの営為が、「内部観察である/でしかない」ことに条件づけられながら、いかに目前の社会事象を有効に説明するかという試行錯誤の連続として立ち現われてくるのを実感するでしょう。
 たしかに社会学は体系的な公理論を構築しにくいですし、観察者と当事者との絶対的な差異を前提にすることもできません(当事者もまた社会を内部観察しているからです)。自然科学モデルにもとづいた学問としての体系化を貫徹できないとはそういうことですが、適切な限定のもとでは自然科学をモデルとした手法を用いることも可能ですし、それ以上に、だからこそ――公理や定理への依拠が限定的にしか可能でないからこそ――論理的であること、すなわち目の前にある事象を論理的に考察し、整合性をもって的確に言語化する「技法」が鋭く問われるわけです。マートンがうまく使ってみせた「機能分析」の方法や、ルーマンが鮮やかに定式化した「等価機能主義」の考え方とは、そのもっとも洗練された到達点です。
 この本の第I部となっている8章まで読み終わり、もう少し社会学を勉強したいと思った人は、そのまま第II部「現代社会学の地平」に進むのではなく(続きはまた気が向いたときにでも)、「偉大な社会学者」の1人、ロバート・マートンさんの『社会理論と社会構造』(森東吾ほか共訳、みすず書房)を開いて自分が興味をもったテーマの章を選び、実際にその分析手法に接してみてはどうでしょうか。「顕在的機能と潜在的機能」「アノミー」「予言の自己成就」といった現代社会学ではすでに「標準装備」になっている「発想」や「使い方」に触れられるのではないかと思います(余談ですが、「ロバート・マートン」というのは彼の2つめの名前で、社会学者になる前の彼が手品師としてお金を稼いでいたエピソードも佐藤さんの本では紹介されています)。
 ご紹介した2冊はいずれも初級入門編というよりは中級クラス(以上)向けの本かもしれませんが、社会学が「気になる」人は一度手にとって損にはなりませんし、勉強を進めながら折に触れて読み返すと、そのたびに新たな「発見」があるのではないかと思います。「社会の内部観察」としての社会学は、「知識の蓄積」が確実に専門性の高度化を約束するという意味での「体系化」がむずかしい学問です。それはむしろ、自分自身も関わる――そこから自分だけ特権的に身を引き剥がすことのできない――社会事象を「正面から」あつかうという困難な作業で使える「技法」の集積体なのです。そして、それが「技法」である以上、「訓練」によって、いや「訓練」によってのみ身につけられるものです。すぐれた「使い方」による本や論文に多く触れ、自分も実際に「使って」みる――それが社会学の学び方だろうと思います。図書館はそのための「宝庫」です。ぜひ図書館に「入りびたり」になって、社会学という技法(アート)を身につけてください。

■次は、野村港二先生(教育イニシアティブ機構教授)です。