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開拓者よもやま話 第10講 「知の開拓者」の顕彰
山澤先生から「開拓者よもやま話」の第10講をいただきました。図録の第1講から書き継いでいただいた「開拓者よもやま話」もこれにて最終となります。
「続きを読む」をクリックすると全文が表示されますのでご覧ください。

※第6講までの内容は、本展の図録でお読みいただけます。
※第7講「『桐の葉』いろいろ」はこちらをご覧ください。
※第8講「『教育に関する直後』のゆくえ」はこちらをご覧ください。
※第9講「校友の愛唱歌」はこちらをご覧ください。



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開拓者よもやま話 第10講 「知の開拓者」の顕彰

 本特別展では、図書資料を通じ、昭和24(1949)年以前に前身校で活躍した「知の開拓者」による学問のあり方を検証しながら、現代の私たちの学問・科学のあり方を見つめ直してきました。展示および図録では、多くの参考資料も図版によって紹介しましたが、前身校の卒業生に好評を博し、また在校生の関心を引いた資料に、銅像や石碑がありました。今回は、いわば「知の開拓者」を顕彰するために建てられた銅像や構内の石碑について、図録・展示では未紹介のものも含めて紹介することにします。
 筑波キャンパスの少なからぬ銅像のうち、「知の開拓者たち」を象ったものとして、大学会館前の「嘉納治五郎先生之像」と体育センター前の「坪井玄道先生之像」の2つをあげなければなりません。

 「嘉納治五郎先生之像」(写真左)は、高等師範学校・東京高等師範学校の校長であった嘉納治五郎の生誕150年を記念し、平成22(2010)年12月10日に除幕されました。
 「坪井玄道先生之像」(写真右)は、東京師範学校・体操伝習所教諭、高等師範学校教授を歴任した坪井玄道を顕彰し、昭和52(1977)年に除幕された像です。坪井玄道については、像の前に平成18(2006)年に萩原武久体育センター長によって解説が付されており、また、筆者も『つくばスチューデンツ』601号(2008年)p.10で紹介したことがあります。その生誕地である千葉県市川市の市立市川歴史博物館では、常設展で取り上げられています。

 これらの像の原型は、かつて本学東京キャンパス(東京都文京区大塚3丁目)の地に建てられていたものです。
 坪井玄道の像は、大正11(1922)年に建設を計画され、昭和8(1933)年4月22日に東京文理科大学玄関正面で除幕されました。畑正吉が製作したものです。その除幕式にさいし文部大臣鳩山一郎から寄せられた祝辞では、彼を「本邦体育の権威者、学校体育の創始者」と顕彰しています(『教育』604号、1933年、p.1)。
 翌9年11月11日には、その脇に三宅米吉の銅像も建てられました。三宅は、当特別展で紹介しましたように、前身校における図書館長の先駆けで、かつ東京文理科大学初代学長でした。同大学が昭和4(1929)年に発足して間もなく急逝した三宅を悼む人々は、同8年5月に東京高等師範学校教授峯岸米造を委員長とする故三宅米吉博士記念銅像建設委員会を発足させ、北村西望の制作、比田井天来の書による像を建立させたのです(『史潮』8号、1933年、p.215。同11号、1934年、p.162)。三宅の像は、昭和13(1938)年の東京文理科大学卒業アルバムである『卒業記念』では、次にあげる東洋史学教室の記念写真に見ることができます。この写真には、前方1列目左から酒井忠夫(東京高等師範学校嘱託。本学名誉教授)、有高巌(教授)、中山久四郎(教授)、山崎宏(東京高等師範学校講師)、左上枠内に小島(濱)渡(助手)が並んでいます。なお、中山久四郎は、本学附属図書館の中山文庫の旧所蔵者です。



 そして、昭和10(1935)年7月ごろには、翌年に喜寿を迎える嘉納治五郎を記念する寿像(生存中の肖像)を坪井玄道の像の前方に建立することが計画され、嘉納治五郎先生教育功労記念会が発足しました。朝倉文夫製作の像が鋳造され、昭和11(1936)年11月28日に除幕されました(嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』、講道館、1964年)。
 しかし、これらの銅像3体はアジア・太平洋戦争中に供出の憂き目に遭い、御影石の台座は土中に埋められてしまいました。坪井玄道の像については、供出前に石膏型がとられて保存されたと言い、これが東京教育大学体育学部の体育教官室を経て本学体育センターに継承されました。本学開学後にこの型を用いて再建された像が前述の「坪井玄道先生之像」です(浅田隆夫「坪井玄道―日本体育の礎石築く―の銅像再建について」『筑波大学新聞』17号、1977年、p.2)。



 嘉納治五郎の像については、没後20年目の昭和33(1958)年11月14日に、大塚のキャンパス内にある庭園占春園内に、写真のように再建、除幕されました。朝倉文夫が製作した銅像の原型が残されており、それを用いての再建でした。翌々35年10月29日には、生誕100年を記念し、同じ原型を用いた像が嘉納ゆかりの講道館本館前にも建設、除幕されました(前掲『嘉納治五郎』)。本学大学会館前の像も、東京都台東区立朝倉彫塑館の監修のもと、岡宮慶昇氏により、これらと同じ原型を使用し、鋳造された像です。嘉納を敬愛した幸田文は、この像の周囲に小鳥が集まることを願い、実のなる木を植樹したそうです。



 三宅米吉の像も、没後30年を記念し、三宅米吉先生追憶の会によって昭和34(1959)年11月15日、占春園に隣接する東京教育大学附属小学校(現 筑波大学附属小学校)内に再建されました(写真左、木代修一氏収集日本文化史関連資料)。その台座には「三宅米吉先生」と刻まれ、裏側には銘板(写真右)が設けられていますが、これらは東京文理科大学附属図書館2代館長であった同大学名誉教授諸橋轍次の書です。この銅像は、東京教育大学教育学部芸術学科の教授木村珪二が製作し、最初の像よりも若い容姿となりました。



 なお、木村珪二はこのほか、東京教育大学本館跡に建つ文京校舎前の「若竹」の像(昭和38(196)年6月設置、写真左)、東京教育大学学長室から筑波大学附属小学校校長室に移管された「朝永振一郎先生」胸像(写真右)を製作しています。後者は、昭和41(1966)年1月29日に東京教育大学から朝永自身へ贈られた像と伝えられています。
 これらの「知の開拓者」顕彰の歴史もまた、興味深いものです。

 次に、本学東京キャンパスに残る江戸時代の石碑について紹介します。ここは、湯島の地(現 国立大学法人東京医科歯科大学)から明治36(1903)年に東京高等師範学校が移転して以来の校地です。湯島の地で明治20(1887)年3月に完成した煉瓦造りの校舎の写真(同23年(1890)に、建設中のニコライ堂の足場から撮影されたと言われる。高等師範学校は写真中央)や、大塚最初の校舎を描く鳥瞰図“Bird's Eye View of the Tokio Higher Normal School.(『東京高等師範学校一覧』自明治36年4月至明治37年3月、1903年)”を示しましょう。




 この校地は、万治2年(1659)に水戸藩主徳川家の分家である松平頼元(徳川光圀の弟)に与えられた上屋敷(通称は吹上邸)の跡地でした。頼元の子頼貞は、陸奥国田村郡守山(現 福島県郡山市)に2万石の領知を与えられました(守山藩)。屋敷の位置は、嘉永7(1854)年の尾張屋版江戸切絵図の1舗である「東都小石川絵図」にも、八角形の三つ葉葵紋を添えて示されています。その上屋敷内に建立された「旧守山藩邸碑文」の写真を図録・展示で取り上げました。



 守山藩上屋敷内の庭園は、現在も東京キャンパス内に残されており、占春園と呼ばれています(写真左)。既述した嘉納治五郎像が建つ占春園です。占春園は、青山の池田邸、溜池の黒田邸とともに江戸の三名園に数えられたといいます。園内にある「占春園碑」(写真右)は、延享3年(1746)3月に建てられたものです。その碑文は、3代藩主松平頼寛に命じられた藩士岡田宜汎が撰び、宇留野震が揮毫しました。恭公(頼元)から頼貞(荘公)、そして頼寛(我公)に至る松平家3代が愛でた占春園を賞讃するもので、桜をはじめとして四季の美をそなえ、野鳥が集まるようすが詠み込まれています。
 その扁額には、「占春園碑」とあったと見られます。本文は、碑自体に破損があり、また摩滅も甚だしいのですが、東京教育大学名誉教授鎌田正が『東京市史稿』遊園篇第1(東京市役所、1929年)pp.363-365を基にし、次のように紹介しています(「占春園の碑」、『桐葉』61号、1977年、p.2)。

(原文)
 我公之園、名占春。其中所観、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景、莫不有焉。而名以占春者何也。園旧有古桜樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之寿。我公称觴、顧命臣宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。子為余書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜。
時延享丙寅春三月               岡田宜汎捧撰
                       宇留野震謹書
(訓読文)
我が公の園は、占春と名づく。其の中、観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景、有らざるは莫し。而して名づくるに占春を以てする者は何ぞや。園は旧古桜樹有り、蔽芾たる数丈。春花愛す可く、夏蔭憩ふ可し。先君恭公の少壮なりしとき、馬を馳せ剣を試み、毎に靶を此の樹に繋ぎて憩へり。因りて名づけて駒繋といへり。荘公の幼なるに至るまで、猶ほ之を視るに及ぶ。是に於て暮年まで、花下に宴を開き、子弟を会する毎に、必ず樹を指して称慕せりといふ。
 我が公追慕眷恋いし、心を留むる所に専らにし、遂に此の樹を繞り、桜数百株を増植し、花時に賓友を会し、瑟を鼓し笙を吹き、式て燕し以て敖び、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維れ旅ね、羽觴算無し。豈に啻だに四美具はるのみならんや。物其れ多く、維れ其れ嘉なり。偕に既酔の章を謡ひ、且つ南山の寿を献ず。
 我が公觴を称げ、顧みて臣宜汎に命じて曰く、是の瞻匪も亦為す所。後世子孫、徒らに游楽の場と為すを是れ懼る。子、余が為に石に書せと。宜汎捧じて稽首して曰く、桑梓敬する有り、燕胥して危きを思ふ。美を誦して辞有り、信を陳べて愧づる無し。謹みて斯の石に寿ぐ。万有千載、本支百世、永く景福の賜を承けんことをと。



 もう一つの碑は、東京キャンパス文京校舎の前に立つ石碑で、一名に「木斛の碑」と呼ばれるといいます。これは、水戸藩主徳川斉修(号は天然子)の撰んだ文を記しています。
 斉修は、文政10(1827)年の冬に礫川邸(礫川=小石川の水戸藩上屋敷)で火災に遭いました。幕府の命によって、夫人峰姫(11代将軍徳川家斉の娘)とともに守山藩主松平頼慎の吹上邸(上屋敷)に身を寄せました。屋敷内には山水の勝景が多く、庭園の東には梅林がありました。翌11年春に、その梅林へ行って梅花を賞でると、前年の憂鬱を忘れられたとのこと。それで七言律詩を詠んだといいます。したがって、この碑は文政11年に建てられたものと推定されています。
 この碑文も摩滅が甚だしいため、本学名誉教授中村俊也の解説「旧守山藩邸内碑文」(『桐葉』60号、pp.2-4、1976年)から、その原文および訓読文を引用したいと思います。

(原文)
丁亥之冬、礫川邸罹災。以幕府之命、与夫人峰姫遷居於守山侯吹上邸。々中多山水之勝。園之東有梅林。明年、春、遊于林中賞花、頗忘旧歳之憂。因賦一律、以攄幽懐云。
  吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空
  落英渓畔千林雪 斜月楼頭一笛風
  疎影婆娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
  人間何処無春色 春色須従此地融
                     天然子
(訓読文)
丁亥の冬、礫川邸災に罹る。幕府の命を以て、夫人峰姫と居を守山侯の吹上邸に遷す。々(=邸)中山水の勝多し。園の東に梅林有り。明年、春、林中に遊びて、花を賞で、頗ぶる旧歳の憂ひを忘る。因って一律を賦し、以て幽懐を攄ぶと云ふ。
  吹上邸中山苑の東
  幾株の梅樹遠く空に連なる
  落英渓畔千林の雪
  斜月楼頭一笛の風
  疎影婆娑として舞鶴を留め
  清香馥郁として詩翁を伴なふ
  人間何れの処にか春色無からん
  春色は須らく此の地従り融らぐべし

 なお、七言律詩中の「落英」は占春園中の池(落英池)、「舞鶴」は落英池の中の島にあった建物(舞鶴亭)です。


 占春園の入口には、第8講で触れた昭和6(1931)年の昭和天皇行幸の記念碑があります。全文を以下に紹介します。

(扁額)
行幸記念碑
(本文)
昭和六年十月三十日、東京高等師範学校創立六十年記念式ヲ挙グルニ当リ、畏クモ天皇陛下ニハ記念式式場並ニ東京文理科大学及東京高等師範学校ニ行幸アラセラレ、特ニ文部大臣ヲ御前ニ召シ、教育ノ任ニアルモノニ対シテ優渥ナル勅語ヲ下シ給フ
  健全ナル国民ノ養成ハ一ニ師表タルモノノ特化ニ竢ツ、
  事ニ教育ニ従フモノ其レ奮励努力セヨ
聖慮深遠、真ニ恐懼感激ニ堪ヘズ、曩ニ明治天皇再度行幸アラセラレ、次テ大正天皇東宮ニ在シシ時、御名代トシテ行啓アリ、今又此ノ光栄ニ浴ス、吾等謹ミテ聖旨ヲ体シ、夙夜ニ淬礪シテ学ニ勉メ、徳ヲ磨キ、各其ノ本分ヲ完ウシ、以テ皇恩ノ万一ニ酬イ奉ラムコトヲ期ス、茲ニ東京文理科大学及東京高等師範学校教職員・卒業者・学生・生徒・児童等相謀リ、之ヲ碑石ニ勒シテ、永ク後世ニ伝フ
昭和七年十月三十日
(裏面)
  宮内大臣一木喜徳郎 題字
  東京文理科大学長
  東京高等師範学校長 大瀬甚太郎撰文
    東京高等師範学校講師田代其次書

 このほか図録・展示で紹介できなかった、前身校にかかわる2つの石碑を最後に取り上げたいと思います。

 東京都目黒区駒場2丁目の目黒区立駒場野公園(昭和61(1986)年開園)は、東京教育大学農学部の跡地です。京王井の頭線の線路側から入園すると、左手にケルネル田圃と呼ばれる谷津田があります(写真左)。これは明治初年の駒場農学校の実験用の農場跡で、日本近代農学発祥の地です。この田圃は東京帝国大学農科大学(後に農学部)に引き継がれ、昭和12(1937)年にその附属農業教員養成所が東京教育大学農学部の前身である東京農業教育専門学校に改組され、開校すると、その構内となりました。田圃の傍らに建つ「水田の碑」(写真右)は、これらの経緯を記念し、駒場野公園開園から間もない昭和62(1987)年10月に、本学附属駒場中・高等学校によって建てられました。ケルネル田圃は、今も同校の教育に活用される現役の耕地です。



 また、筑波キャンパス春日地区には、平成16(2004)年3月に閉学した図書館情報大学を記念する「図書館情報大学記念碑」があります。図録p.11で紹介した校章も見えます。図書館職員の養成、図書館情報学の発展に寄与した図書館情報大学の名前を永遠に語り継ぐ碑です。

 本講では、「知の開拓者たち」を顕彰する銅像および人知れず建つ石碑を紹介しました。学問をするさいには内省することが不可欠です。これらを、単なる顕彰の次元に留めず、自らの内省の場としていくことは、未来を構想し、学問・科学を前進させていくうえで重要なことであると思います。
(山澤 学)
| 筑波大学附属図書館展示WG | 16:44 | comments (1) | trackback (0) | - |
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