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グーテンベルク聖書について
すでに好評のうちに会期を終えてしまいましたが、展示番号4番のグーテンベルグ聖書について少し触れたいと思います。

グーテンベルグ聖書は、160から180部印刷され、その4分の1が羊皮紙、4分の3が紙に印刷されたものです。
冊子として現存するのは不完全本も含め48部のみと言われています。
British Libraryでは、羊皮紙と紙の両方の完全本を所蔵しています。
慶應義塾大学図書館ではアジアでは唯一、紙に印刷された上巻を所蔵しています。

零葉(ばらばらになっている一部分)を所蔵している図書館は、日本では本学のほか、
早稲田大学(羊皮紙)
関西学院大学(2枚)
広島経済大学
天理大学、近畿大学などがあります。

ところで、今回の展示アンケートで、透かし(ウォーターマーク)に関するコメントをいただきました。
透かしは製紙の際に製紙所が独自のマークを入れたものですが、さまざまな形があり、古くから調査が行われています。
グーテンベルグ聖書には、4種類の透かしの入った紙が使われました。
(1枚の紙を二つ折りにして使っていますので、透かしのないページも存在します。)
Harry Ransom Center, University of Texas at Austin のサイトで画像が公開されています。

このサイトでは下の「>」をクリックすると以下の順で表示されます。画像をクリックすると黄色で浮かび上がるようになっています。
Grape Cluster(巻き髭のついた葡萄の房)
Steer(雄牛の頭)
Grape Cluster(太い茎のついた葡萄の房)
Ox(走っている(跳んでいる)雄牛)

本学所蔵分についている透かしは4番目のものと同じです。だいたい真ん中あたりに、逆さまについています。
あいにく本学の高精細画像は透かしが写るようには撮影されておらず、また、手にとらなければ肉眼での確認は困難なものですので、展示会場でご覧になるのも残念ながら難しかったと思われます。

参考:国会図書館のサイト
http://www.ndl.go.jp/incunabula/chapter3/chapter3_02.html

なお、参考として展示していた複製版と同じものが図情図書館のミュージアムで展示中です。見逃された方、もう一度ご覧になりたい方は、ぜひお立ち寄りください。
| 筑波大学附属図書館展示WG | 18:01 | comments (0) | trackback (x) | - |
特別講演会の動画を公開しました!
11月9日(日)に行われた、人文社会系教授 谷口孝介先生による特別講演会「図書館を飛び出した書物たち〜複製本の用い方〜」の動画をYoutubeのサイトにアップしました。以下のリンクからご覧ください。

その1
http://youtu.be/LEZ7oikAdIU
その2
http://youtu.be/AZ1UTlsd7qE
その3
http://youtu.be/MF9V-HhRn_o

講演の内容は当日の記事でも触れられていますが、講演中で紹介された資料を以下に並べてみましたのでご参照ください。
続き▽
| 筑波大学附属図書館展示WG | 10:27 | comments (0) | trackback (x) | - |
『絵本拾遺信長記』と絵草紙取締
展示番号10番の『絵本拾遺信長記』(えほんしゅういしんちょうき)は、前編13編・後編10編あわせて23冊から成る大部の書物ですが、後編巻之10(最終巻)の奥付には「文化元年甲子四月  浪華書林 譽田屋伊右衛門 播磨屋五兵衛 和泉屋源七」と記されており、文化元(1804)年4月に浪華(大坂)の版元によって出版が完了したことがわかります。しかし、図録には、文化元年の絵草紙取締によって版木および版本が没収される処分を受けた、と解説されていますので、出版されたまさにその年に処分を受けたことになり、その経緯などに興味を引かれます。
そこで、この『絵本拾遺信長記』と絵草紙取締の問題について、もう少し詳しく見ていきましょう。

これについては、宮武外骨が『改訂増補筆禍史』(『宮武外骨著作集』第四巻所収、河出書房新社、1985年)の中で次のように記しています。

絵本拾遺信長記(文化元年)
権現様(家康)の御儀は勿論総て御当家の御事、板行書本自今無用に可仕候といへるは、享保七年の幕府令なりしが、文化元年に至りては、家康等の事のみならず、天正以来の武将に関する事をも厳禁し、絵草紙の武者絵に、名前紋所合印等を入るゝをも禁じたり(以下略)

ここで「文化元年に至りては」と言っているのは、文化元年5月17日に出された絵草紙取締の触のことを指しています。「天正以来の武将」にはもちろん織田信長も入りますので、同年4月に出版されたばかりの本書も取締りの対象になってしまったというわけです。


外骨はこれに続いて『大阪書籍商旧記類纂』から「本屋行事より奉行所に出せし上書」を引用していますが、その内容は大略以下のとおりです。
・絵本拾遺信長記は、寛政12(1800)年に出版願いをし、同13年に聞き届けられた
・そこで順次摺立て売買もしていたが、このたび江戸表において、この本の売捌きが差留められ本もお取上(没収)になった
・この本の「元板」も絶版を仰せ付けられたので、印刷済みの本79冊と版木150枚をお取上げとし、今後この本は出版してはいけないし、これまでに売った本も販売先がわかれば回収して差し出すように、との仰せ渡しを確かに承った

この処分について外骨は「一旦許可せしものを、其出版後に至りて直ちに絶版を命じるとは、御無理不尤の至極にして書肆の損害も亦少からざりしなるべし」と怒っています。

なお、ここで「元板」と言っているのは、『絵本拾遺信長記』が大坂の版元から出版されたので版木が大坂にあったためであり、「元板」=版木を大坂の奉行所に提出するよう命じているものです。

ではこの状況を、版元(本屋)側の記録によってもう少し見ていきましょう。具体的には『出勤帳』(『大坂本屋仲間記録』第二巻所収、大阪府立中之島図書館、1976年)から、『絵本拾遺信長記』について書かれた部分を適宜抜き出し、簡単にその内容をまとめて時系列順に並べてみます。

<文化元年>
4月16日
・画本拾遺信長記前後完成、版元から上本(本屋仲間への献本)があり、添章(販売許可書)が交付される。
9月15日
・東町奉行所に行事が行き、先だって出版許可された絵本拾遺信長記前後23冊について、このたび江戸表よりの命により版木並びに印刷済みの本を差し出すよう仰せ付けられたので、版木・本ともに17日に差し出すよう申し付かり、この旨を即日版元に伝えた。
9月16日
・絵本信長記版木を版元から取り寄せた。
・天満組惣会所で、版木は奉行所に、本は惣年寄に差し出すよう仰せ付けられた。
9月17日
・絵本拾遺信長記の件等について江戸の本屋仲間行事からの書状が到着したので、書状の控に写し置いた。
・信長記絶版のことを京の本屋仲間行司に連絡した。
9月18日
・信長軍記の類書の出版があれば書付を持参するようにとの指示があったので、惣年寄中村左源太に書付を差し出した。
・絵本信長記は明日中に残らず差し出すよう仰せ付けられた。
9月19日
・絵本拾遺信長記前篇三部、後篇四部を口上書を添えて中村左源太に差し出した。
9月23日
・中村左源太から呼び出しがあり、「絵本拾遺信長記は15冊で(出版)願を出していたが、23冊とじの分が流通しているのは甚だ不行届である。本屋が勝手に冊数を増減してもその後に申し出るように」と仰せ渡された。
11月5日
・拾遺信長記絶版について惣印をとった。
<文化5年>
7月朔日
・東町奉行所寺社役から至急の呼び出しがあり、このたび北海異談という写本20冊ができたが、仲間でのこの本の取扱いの有無を調べるよう仰せ付けられた。これにつき担当の仲間が所持しているものの中に、先年絶版になった絵本太閤記・同信長記拾遺があったので、これらはお取り上げになり、ほかに流通している本があるか調べて差し出すよう仰せ付けられた。
7月3日
・仲間惣印 北海異談・絵本太閤記・同信長記
7月5日
・絵本太閤記・同信長記前後につき、仲間より集めた本を御公儀に差し出す書付を認めた。

これによると、『絵本拾遺信長記』は文化元年4月16日に販売許可がおりましたが、5月17日に出された絵草紙取締の触を受け、大坂では9月15日に版木・本ともに差し出すよう命じられています。これはすなわち絶版・回収処分ということですが、これに引き続き、信長軍記の類書の調査や、15冊で許可がおりていたものを勝手に23冊にかえて売りひろめていることへの厳重注意がありました。
ここで冊数の変更の問題が取り上げられていますが、『開板御願書扣』(『大坂本屋仲間記録』第十七巻所収、大阪府立中之島図書館、1992年)によれば、寛政12(1800)年9月に「作者秋里仁左衛門 開板人譽田屋伊右衛門」による『絵本拾遺信長記』全部15冊の開板願が出され、享和元(1801)年3月14日付けでこの願いどおりの形で東町奉行所の許可がおりていますので、23冊本が流通しているのは不届きである、ということになります(なお、付言すれば、作者も出願時の秋里仁左衛門=秋里籬島ではありません)。

また、文化5年に至って、北海異談の絶版問題から再び『絵本拾遺信長記』の回収が行われています。このとき、『絵本太閤記』もあわせて回収されていますが、『絵本太閤記』も『絵本拾遺信長記』同様、文化元年の絵草紙取締によって絶版になったものです。しかし、この時点で再びこれらの回収が命ぜられているのは、これらが引き続き流通していたことの表れとも考えられます。特に『絵本太閤記』については、「普く海内に流布」(『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」より)していたといわれることや、『○○太閤記』といった書名の本がたくさん出版されていたこともあり、根強い人気があったものと思われます。

なお、『筆禍史』には、天保8(1837)年に出版された『御代の若餅』と題する一枚絵は、家康を風刺した図柄であったのでたちまち絶版になったばかりか、文化元年の禁令をも犯したとして、これを描いた絵師歌川芳虎と版元は手鎖五十日の刑に処せられ、版木も焼き捨てられたと記されており、文化元年の絵草紙取締がその後も適用されたことを示しています。

以上のように、『絵本拾遺信長記』は出版後わずか5ヶ月ほどで版木・印刷本ともに没収になりました。このような事情から、前後編23冊本完揃いの残存数は多くないものと思われますが、その中にあって今回展示されているような非常に状態のいいものはさらに少なく、その意味でも本書は大変貴重なものといえるでしょう。(篠塚 富士男)
| 筑波大学附属図書館展示WG | 09:00 | comments (1) | trackback (x) | - |
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