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II. 動乱を生きた人びと

14 『江戸大地震崩出火場所』

 所蔵情報 

 安政2(1855)年10月2日午後10時ごろに発生した安政江戸地震について、江戸での被害を書き留めた記録である。被災した町は3,012か町、32か所から出火し、「即死・怪我人」が10万人ほど出たとも記録される。地震後の10月7日には旗本に拝借金、また御家人に御救金が出されたこと、同月14日には材木などの値段引き上げを禁じたことなど、幕府の災害対応も書き残している。

15 『生捕ました三度の大地震(鯰絵)』

 所蔵情報(高精細画像あり)

 安政江戸地震の際には、鯰絵と呼ばれる多色刷りの錦絵が数多く出版された。地下で地震を起こすと考えられていた鯰を主人公とし、地震発生前後の社会が風刺された。本資料は、直近の善光寺地震・小田原地震・安政江戸地震を引き起こした3匹の鯰が鹿島大明神によって生捕りにされて江戸屋(蒲焼き屋)に連行されたものの、大工・鳶職・左官・屋根屋・露天商から助命嘆願される様子を滑稽に描く。

16 『鹿島恐(鯰絵)』

 所蔵情報(高精細画像あり)

 茨城県鹿嶋市・鹿島神宮の祭神である武甕槌大神は、要石によって大鯰を封じ込めるという民間信仰がある。本資料は、鹿島神宮の神職の格好をした鯰の周りで、地震後の建築でもうけている大工・土方や、死者をつかさどる「閻魔の子」が踊りほうけている様子を描く。詞書には「世直しの地震ハいつこの跡もなくよき事ふれのかしましきかな」とあり、踊る彼らにとっては地震が「世直し」となっていると風刺する。

17 『世直し鯰の情(鯰絵)』

 所蔵情報(高精細画像あり)

 本資料は、地震によって倒壊した家屋から、擬人化された鯰が被災者を救助する様子を描き、地震を起こしたはずの鯰は「世直し」を行う存在で、情け深いと記す。このような鯰絵が当時の人々に受け入れられた理由について、C.アウエハントは、嘲笑、下品な冗談、泣き笑いを絵の中に折り込み、都市に住む民衆の生活に潤いを与える狙いがあったと論じている。悲しく辛い地震後の人々の心情を考えさせられる絵画である。

18 『午未伝信録』

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 安政5(1858)年~6(1859)年、長州藩士による安政の大獄の記録。幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝は、将軍継嗣や条約勅許の問題での反対者を弾圧した。水戸藩に対しては特に厳しく処断され、「水戸老公」(前藩主徳川斉昭)の禁錮、「水家御断絶」(水戸徳川家の取りつぶし)の噂なども記録される。巻末には、大獄で処刑された吉田松陰の辞世の句として「タトヘ身ハ武蔵ノ野辺ニ朽ル共留メ置マシ大和魂」がある。

19 『文久記』巻3

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 文久年間(1861~64)に発生した事件を書き留める記録の1冊である。中には、水戸藩の脱藩者17名と薩摩藩士1名が安政7(1860)年3月3日に江戸城桜田門外(東京都千代田区)で大老井伊直弼を暗殺した桜田門外の変についても記録される。「水府路え井伊塩梅と首ッ切」「山桜井伊いきおひと思ふたに花をちらして水戸もなかろふ」「井伊工夫雛のまつりか血祭りに」など、当時の江戸庶民が風刺した狂歌・川柳も記されている。

20 『京師八月十八日騒動大略覚書 』

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 文久3(1863)年8月18日の政変を記録する長州藩士の記録。穏健な攘夷派である孝明天皇、中川宮朝彦親王、京都を守護する会津藩、薩英戦争を経て開国派が主流となった薩摩藩が中心となり、攘夷を画策する三条実美ら一部公家および長州藩を京都から追放した事件である。比較的事実が客観的に記録されており、『?説』(資料21)とは執筆の姿勢が異なっている。

21 『?説』

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 文久3(1863)年8月18日の政変を記録する長州藩士の記録。「中川王巨魁」(中川宮朝彦親王は悪の頭目)と記されるなど、長州藩側の視点から叙述されている。中川宮は、右大臣二条斉敬と申し合わせて夜中に御所へ参内し、関白鷹司輔煕をはじめ諸公卿の参内を止め、御所の9門を会津藩・薩摩藩に封鎖させた。これを受け、長州藩側は「一戦」する覚悟を決めた。

22 『三条実美公(少年読本第4編)』

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 8月18日の政変で失脚し追放された三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉は、長州へ落ち延びることになった。いわゆる七卿落ちである。漢学者・演劇評論家・劇作家として著名な依田学海が著した少年読本の『三条実美』には、蓑笠に身を隠した七卿落ちの様子が描かれている。

23 『備忘録』文久3年

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 長州藩士と見られる伊藤信陽が記した日記の一冊。中には文久3(1863)年6月に結成された奇兵隊が上京した記事が見える。長州藩内ではこの奇兵隊をはじめとする諸隊が100以上、農工商から被差別民に至るさまざまな身分の者によって組織され、慶応元(1865)年には正規軍とされた。本資料には、総督として滝弥太郎厚徳の名前が記されている。滝は、吉田松陰に師事し、奇兵隊の創設者である高杉晋作の跡を継いで総督の一人となった。

24 『覚』

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 長州藩は、幕末に2度、幕府から征討を受ける。本資料は慶応元(1865)年に始まる第二次長州征討の覚書などを収める。翌2年6月14日に長州藩とその支藩岩国藩とが周防国(山口県)・安芸国(広島県)の境界で幕府方3万の軍勢と衝突した小瀬川の戦いの図も含まれている。吉田松陰門下で、長州藩の炮隊を率いた小野為八正朝が長崎で学んだ洋式の武器と言われる「地雷火」が使用されたこともわかる。

25 『下総表・水戸表・筑波山・野州表・水戸湊辺太平記』

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 元治元(1864)年3月27日に水戸藩の尊攘激派が筑波山で挙兵した事件の記録。天狗とは藩主徳川斉昭のもとでの改革派の呼称であり、これと対抗した保守派の門閥層は諸生と呼ばれていた。前年の8月18日の政変で尊王攘夷運動が挫折すると、藤田小四郎ら天狗が幕府に攘夷の実行を促すために筑波山で挙兵した。しかし、幕府から追討されて敗走し、将軍継嗣と目される一橋徳川慶喜を頼ろうとしたが、上洛の途中で加賀金沢藩に降伏し、全員が処刑された。

26 『文武虚実論』

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 大国隆正は平田篤胤門下の国学者・神道家。野之口姓であったが、文久2(1862)年に大国と改めた。本書は、嘉永6(1853)年のペリー来航後に海防を論じたもの。儒者らの説く海防論に反論し、海防の要は虚文虚武を斥けて実文実武を努めることにあると論じ、和魂を鞏固にし、以って我が国を宇内に冠絶させるべきであると、独自の尊王攘夷論を展開した。神武復古の思想も述べられている。

27 『本学挙要』

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 「本学」とは『古事記』の序にある「本教」の旨を学び知る学術の意で、大国隆正の造語。本書は、皇位が万国に君臨する理のあるものと説き、国威を四方に宣布する書物である。「国体」について、「亜細亜といふ中にも、我が日本国ハ、天皇を本とし、神代の古説を本として、もとによるこゝろざし諸国にすぐれてあり、これにより忠・孝・貞のまこと、万邦にたぐひなし」と論じている。

28 『[御用留]』

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 攘夷の挫折は倒幕運動へと展開し、対立していた薩摩藩と長州藩の同盟に発展する。そして慶応3(1867)年10月14日に将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、12月9日の王政復古の大号令によって幕府政治は終焉を迎える。本資料は、その慶応3年から翌年にかけての御用留。慶応4(1868)年正月17日の通達には、土佐藩出身の後藤象二郎、薩摩藩出身の西郷吉之介(隆盛)・大久保市蔵(利通)、長州藩出身の楫取素彦などの名前が見える。

29 『西郷隆盛(少年読本第18編)』

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 西郷隆盛の伝記。著者の川崎三郎(紫山)は明治~昭和前期のジャーナリストで、西郷関係の著書が数点ある。水戸藩士の子で、17歳で上京し、東京の曙新聞社、大阪の大東日報社の記者を経て明治24(1891)年に『経世新報』を創刊、同34(1901)年に『中央新聞』、38(1905)年に『信濃毎日新聞』の主筆となる。明治34年には頭山満らと黒竜会を創設し、また、日中戦争期には大東亜協会を組織した。

30 『[日記]』

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 長州藩士の日記で、明治天皇の大坂行幸についても記す。この行幸は新政府の副総裁となった三条実美ら1,655人を伴い、慶応4年3月21日に京都を出発、翌々23日に行在所(本願寺津村別院)に到着した。天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして40日余り滞在し、同年閏4月8日に京都へ還幸した。この日記によれば、はじめ3月5日出発と計画され、「長門守様」(毛利元徳)もお供することになったと記されている。

31 『坂本龍馬(少年読本第19編)』

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 著者の坂崎紫瀾(斌)は明治期の新聞記者・小説家。龍馬と同じ土佐藩出身で、明治7(1874)年の板垣退助による愛国公党の設立にも参画した。同年に松本裁判所判事となるが、征韓論を主張して辞職、後には『松本新聞』主筆・『高知新聞』編集長などを歴任して自由民権を唱えた。著作には、龍馬を主人公とする政治小説『汗血千里の駒』(明治16〈1883〉年)や、『維新土佐勤王史』(大正元〈1912〉年)などがある。

32 『野州軍記』

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 前将軍徳川慶喜は新政府から排除され、また、挑発に乗ったことから、戊辰戦争が開始された。本資料は、野州、すなわち下野国(栃木県)を舞台に展開した戊辰戦争の様子を記録する。下野国は、奥羽列藩同盟を結ぶ東北諸藩と新政府側とが対峙する境界地域でもあり、各勢力が掲げた軍旗も絵入りで記録されている。また、当時の狂歌・川柳・都々逸・数え歌など庶民が風刺した文芸も記録しており、興味深い。

33 『戊辰記』

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 本資料は、「文久記」(資料19)と一連の記録であり、戊辰、すなわち明治元年前後の出来事や文書を記録する。庶民による風刺も記録されているが、その一つが「錦旗勅命丸」である。これは、下野国上高根沢村西郷(栃木県高根沢町)の豪農宇津権右衛門家が売り出す小児薬である「金匱救命丸(宇津救命丸)」のチラシを基に、官軍の錦の御旗、勅命を皮肉って作成されている。



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